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2022年11月3日木曜日

生まれも育ちもクリスチャンの 十字架贖罪論再考◆ 2022年 10月 16日 クリスチャン小関

生まれも育ちもクリスチャンの

十字架贖罪論再考 

2022年 10月 16日

クリスチャン小関

サンクチュアリ教徒、生まれも育ちもクリスチャンの十字架贖罪論再考20221016



クリスチャンから見たモーセの、青銅の蛇

 

みなさん、こんにちは。


小関雄一です。ふたたび皆さんお会いできまして嬉しく思います。


今日は私が幼い時から育ってきた、キリスト教の信仰についてお話をさせていただきたいと思います。


私は生まれた時から親に連れられて教会に通っておりましたので、気づいた時には教会の日曜学校の子供礼拝等に参加していました。


日曜学校の先生から聖書の物語をずっとお伺いしてきました。

聖書のノアの物語、アブラハムの物語、またモーセの物語などですね。

キリスト教において旧約聖書は何のために書かれているかというと、イエスキリストを表すために旧約聖書が記された。そういうことなんですね。


モーセの物語が有りますがモーセの歩みは実はイエスキリストの歩むべき象徴的な原形的な歩みをしたというわけです。


イエス様がご自身について証をされた時に、「モーセは私について書いたのである」と語られ、ご自身がモーセの原型路程を歩んでおられるだと、示されておられました。


実際、聖書のモーセの物語の中にはですね、イスラエル民族が荒野の中で不信仰に陥ってしまった際に、神は民に火の蛇を送られ、多くのイスラエルの民が噛まれて死ぬようになりました。


その時モーセが神に示された通りに、イスラエルの民の前で十字型の竿に青銅の蛇をかけて、それを不信の民の前に掲げました。


モーセがかかげたその青銅の蛇を仰ぎ見ることによって民は、火の蛇に噛まれるの災難から救われたという話があります。


その青銅の蛇はイエスキリストを暗示しています。

この理解は、キリスト教会でも有ります。統一原理においても同様の理解です。


クリスチャンにとってイエス様は神様そのもの


キリスト教徒にとってクリスチャンにとってイエス様という存在はどういう存在かと言いますと神様そのものなんですね。


三位一体という神についての理解がありまして

神様、聖霊様、そしてイエス様という三つの位格が一つとなっているという理解です。


イエス様は神の子という立場で、三位一体のうちの第二位格としておられる。

ですので、キリスト教徒、クリスチャンの理解として、イエス様は神であられるので、天地創造の頃から、宇宙と人類が創造される途中過程もすべて見ておられ、すべてご存知であられる。


そういう理解でイエス様というお方をとらえているわけですね。


しかしイスラエル民族の前にイエス様が現れたとき、当時のイスラエル民族、ユダヤ人から見たイエス様という存在は普通の人そのものの姿であったわけですね。


イエス様は普通な大工を営むユダヤ人の両親から生まれ、その息子が神の教えを説いている。そう捉えていたわけですね。

ですので今のキリスト教徒と当時のユダヤ教関係者やユダヤ人が捉えていたイエス様とは視点がだいぶ違ったわけです。


ユダヤ教指導者からするとイエス様は、当時の宗教界の秩序を乱す新しい教えを説く者、当時から見ると異端の教えを広めるものというそういう見方をされてしまったわけです。ユダヤ人指導者たちにとってはイエス様は生意気な若者そのものだった様です。


結局様イエス様は特にユダヤ教指導者層から排斥され、十字架の刑に追いやられたのです。


本来はイエス様という存在は、旧約聖書がそのものがイエス様証し、来臨を目的として書かれています。


何千年もの長い、神の準備の歴史を通してイスラエル民族の前に送られてきた方であったのですが、なんと当時の人々から排斥されてしまったのです。


イエス様の語る言葉には神の権威が働いていたので、人々の魂を救い病を癒やしました。

イエス様は当時の宗教人からすると、新しい次元の話を語る方だったのです。


当時のユダヤ教の指導者においては、一部の知恵ある指導者ニコデモなど、限られた一部の知恵の教師がイエス様の教えに感銘を受けて、夜間人々の目を避けて話を聞きにお伺いすることは有りました。しかし残念なことに、当時の多くのユダヤ教の指導者たちはイエス様を受け入れられず、神の願うように正しくお迎えする事が出来ませんでした。


指導者層は自らの教団における権威とか当時の現世的な利権、築いてきた宗教的な教え、それらを守ることを最優先してしまったがゆえに、人々の魂を救済する力ある言葉を語るイエスキリストという存在に対し排他心から十字架の道に追いやってしまったわけです。


このようなことは、現代を生きる私達の時代でも起こるかもしれないということなんですね。いまの宗教教団や、その中における様々な役職、経済的基盤など外面的に見れば順調で波風少なく運営している宗教組織、キリスト教以外の宗教も数々有ります。


しかし当時のイエスキリストのような、確かに人々を救う真理、福音の力を持っておられるお方が眼の前に現れた時には、それまでのすべての基盤や自分の名誉や役職、組織、そのようなものをすべて横に置いてでも、まずキリストを迎えなければならない。そのような姿勢であってこそ真実であると思います。


ゲッセマネの祈り


イエス様は在世当時ゲッセマネという場所で祈られつつ、もうご自分の真意を当時の社会、特にユダヤ教の指導者たちに伝えることが困難であると悟られた時にイエス様は十字架による救いの道への決意をなされたのでした。


ところで、イエス様は十字架の出来事を前にして、このように神様に祈られました。


「わが神わが神どうかこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の意のままにではなく、神の御心のままになさってください」


このような聖書の記述が有りますよね。


このことについて、これまでのキリスト教においては、イエス様はご自身が多くの人々の犠牲の備え物となって血を流すということに対して恐れを感じ、人間的な弱さによってそのように祈られたのだと解釈されて来ました。


そのようなイエス様の姿こそ人間の肉体をまとって、私達人間と同じ低さに降りられ、弱さと苦しみを覚えられたのだと。だから私達はイエス様に親近感を得られるのだと。


しかし実はイエス様の心の内は、そのような次元の心の悩みではなかったのですね。


イエス様は実はご自分が地上に生きておられる時に、ご自分の相対となるご結婚相手となる存在を想定されていた、ということを知っていただきたいのです。


イエス様は先ほど申しましたように、今のキリスト教会においては三位一体の神そのものというふうに捉えられて、拝む対象となっておられますけれども、

当時2000年前のユダヤの地に前に来られた時には確かに今生きてる私達と同じ肉体と、また人生の日々を過ごしておられたイエスキリストであられたわけですね。


そして勿論イエスキリストは男性であり男性器も持っておられたわけです。


神様は人間に対し、身体の器官においては何ひとつ不要なものは設けられないという事をご存知だと思います。

イエス様にもそのような器官は確かに有りました。


ご自身のみ言葉におかれましても、他の女に対し誘惑の思いを寄せること、思うこと自体でも罪であるということを言っておられました。

すなわち「性」のことについても、戒めや教えを述べておられました。


イエス様が性の潔さについて戒められたのは、本来、性というのは神様が備えられた最も尊いもの、潔いもの、神聖なもので、本来神様が祝福されるべきものであったからです。


イエス様ご自身におかれましても、本来はユダヤ民族が神のみこころに沿って、イエス様ご自身を正しく迎える信仰姿勢で迎えられていたならば、その信仰の基盤を条件として、イエス様もご結婚相手をお迎えして、ご家庭、ご子孫を残される、そのような本来の救いの道があったということを感じてほしいんですね。


しかしその救いの道については、ご自分を迎える選民の信仰のなさ故に成し遂げられなかった。


そしてもう一つの救いの道、すなわちご自分が血を流し、神への供え物となって、第二次の救いの摂理として十字架における犠牲の供え物、人類の罪の贖いの道をイエス様は選ばれたわけです。


ですのでイエス様は本来ご自分が十字架の供え物になることを最初から願っておられたわけではなく、メシアとしてメシアの妻を迎えたならば、本来のメシア使命を行使され、メシアの子孫が続いたでしょう。


メシアがそこまで成し遂げられたならば、イエス様の弟子たちも結婚し家庭を持つことが、神から許され奨励されたことでしょう。


弟子たちはあくまでも自分たちの教師であるイエス様が歩まれたところまでは行くことができるが、それ以上の道は行くことができない。


そのような聖書のみことばがあります。


弟子はその師のようになれば良いのであり、その師以上の道まではに行くことはできないと。


ですので聖書の中においてパウロはこう述べています。


「信徒は出来るなら結婚しないで、パウロ自らのように生涯独身、ひとりでいることが一番良い」と言いました。


イエス様がもしご結婚され、家庭を持たれていたならば、当時の弟子たちも結婚をし、家庭を持つということが神の祝福される認められたものになってたはずなんですね。


ところがイエス様はご自分が十字架の犠牲の道、独身で十字架の供え物の犠牲の道に歩まれたが故に、

続く弟子たちも、またその後のキリスト教信徒もイエス様と同じような十字架の道を歩むことが最高の美徳とされたのでした。

自らの血を流して信仰の証を立てるという道です。


イエス様の十字架の血の贖いを信じる重要性


ところが今現在を生きる私たちにとって信仰をしたからといって極刑に付されるという環境がありますでしょうか?

今はそのような状況がほぼなくなってきております。


それは、今現代の時代はメシアであるキリストを備えものとして神の前に供え物として捧げるというというよりは、むしろキリストを私たちの王、王の王として迎える。

イエス様の本来の立場としてメシアをお迎えする、そういう時代になって来ている。

その事を今の世の中の状況を見て我々は悟っていかなければならないのではないかと思います。


しかしこれまでのキリスト教における信仰、イエス様の十字架による赦しの愛、その血による贖いを受け入れ信じて仰ぐことによって、その信仰により確かな聖霊を受ける。

この事はとても大事なことであり、そのことを通すべきであると思います。


私たちは教会生活、日常生活において神様、イエス様の聖霊によってその促しによってイエスの愛を身を持って行なう事が出来ます。


また兄弟姉妹との交わりのなかで、私たち自身の人間の罪の性質である高ぶりとか自己中心とかそのような性質も聖霊によって示され修正することが出来るようになります。


イエス様の十字架の血の贖いを信じ受け入れることによって信仰生活が末永く崩れることなく守られるのです。


信じる各人の心の中に、霊となったイエスキリストが住まわれてイエス様のお心を霊的に感じ取ることができるのですね。

そういう新たな感性は、十字架による血の贖いを受けることによって神様からの一方的な恵みによっていただくことができるのです。


ですので十字架による贖いの救いはイエス様についての第二次的な計画の救いではあったけれども、

それが歴史の事実として残され人類に与えられているということなのです。


ですので神様を求めるものはイエス様を信じることによる聖霊の内住の恵み、そのことを必ず通るべきであると思います。

そして再び来られるキリストを迎える準備をしてゆかなければならない。そのことを本当に思います。


では今日はここまでとさせていただきたいと思います。

ありがとうございました。



【質疑応答の時間】



Q1:クリスチャンの方はイエスキリストを神様創造主だと捉えているのですか?


A:はい。クリスチャンはですね、イエス様は創造主であり、イエス様=神様である。という捉え方をしています。

ですのでイエス様につきましては、神様が人間の肉体を纏ってこられた神の子、すなわち普通の人間とは違う。という捉え方をしているわけなのです。


また聖書のなかでイエス様は在世当時、荒海の中の水の上を歩いたり、荒野においてみ教えを聞きに来た男女、子供を合わせて約2万人近くの民衆に対し、2つの魚と5つのパンを分けて、すべてのひとに給食されたなどの奇跡を行われました。

現代の人から観ると、そしてクリスチャンからするとイエス様は神そのものとして見えるわけです。


でも、私はイエス様は生身を持った普通の人間であって内面の霊性が優れていた、同じ人間であったという捉え方が自然だと思います。


奇跡的な現象へ人間もある程度は出来るかもしれません。


私達人間の中に本来宿っている霊的な本性としては、イエス様と同じようなキリストと同じようなものを持ってる。


ただし罪を抱えた人間はその本性が埋もれている。

そういう捉え方の方がイエス様がより親しくですね、イエス様を日々自らにお迎えしていきたい親近感のある心持ちになると思います。


罪を背負った持った人間は自分が罪人なので、イエス様を拝む対象の存在として思いやすいのですが、

本来のクリスチャンとしては、イエス様は拝む存在ではなく、イエス様を自分の心にお迎えしてイエス様のお心を感じ取れるものになる。

そういうことがクリスチャンとして大事ではないかなと思います。


ある例話になりますが、「塩狩峠」という作家の三浦綾子さんが書かれた実話に基づいた小説、映画ストーリーがあります。


冬の北海道、旭川の山合いの峠を走る列車が頂上付近でブレーキが故障し列車が暴走しはじめた時、その列車に乗り合わせていた、クリスチャンの永野さんという男性が、列車の車輪付近に自分の身を投じて列車の暴走を止め、そこに乗り合わせた多くの乗客の命を救った。という実話に基づいたストーリーがあります。


この方は当時、ご結婚を約束した自分の婚約者がおられたのに自らそのような行動を決断されました。


その方は、気違いになってそういうことをしたわけではなく、イエスキリストの福音を聞きクリスチャンになり、イエス様のお心が自分の身に染みてわかっていた方なんですね。

ですので自分がいざそのような危機的な状況に出会った時に、

自らの身を投じてでも、多くの人を救いたいというイエス様のお心を自ら思案もせずに、身体が自然にそう動いてしまうほどイエス様との霊の一体感というものがきっとその方に在ったのですね。


Q2:「イエスとまた出会う」とはどういうことでしょうか?


A:トルストイの物語に靴屋のマルティンという物語があります。

北欧の靴職人の物語です。

この方は靴職人で、真面目に人々の靴の修理をする仕事をしていました。

この方は、早期に奥さんそして子供を無くし、心に深い悲しみを持っていました。


ところが、彼は夜に聖書を読む習慣を持つようになりました。その聖書の言葉に彼自身、深い心の慰めを得ていました。

ある夜、彼の夢のなかでイエス様がマルティンに語りかけられました。

「マルティン、私はお前を愛している。明日、お前に会いにいくよ」

彼にはイエス様のお声がたしかに聞こえたのでした。


翌日、外はとても寒い吹雪の日でした。

仕事をしながら窓の外を眺めつつ、いくら待っても約束をくださったイエス様が現れません。


そんな中、窓の外でとても冷える中で雪かきをしている老人が見えました。彼は老人を部屋の中に招き入れ、熱いお茶をふるまいつつ和やかな会話を交わし、その老人を励まし、その老人はマルティンに感謝な思いを伝えました。



その後、こんどは窓の外にある婦人を見ました。この婦人は寒い中、暖かな充分な衣服も着れていない、子供抱えた母親でした。


彼女は自分が十分な食事がとれておらず、栄養不足のために自分の子供にお乳も与えることができず困っていました。

そこでマルティンは彼女を部屋に招き入れ、パンと温かいスープを彼女にふるまい、またマルティンの上着を彼女に与えました。


その母はその上着を自分の幼い子どもにそくるませて、涙をもって感謝しつつ去っていったのでした。


マルティンはイエス様がその日に現れなくても、あらゆる状況のなか、心から他の人々にそのような親切を尽くしたのでした。


その日彼が寝床につく頃に、再び確かなイエス様のお声を聞きました。


この様な言葉でした。


「マルティン、マルティン、今日私があなたに会いに来たのだよ。気づいていたかい?」


雪かきをしていた男性、食物に困り充分な着るものもなかった女性。それがイエス様だったのでした。


私たちが日常生活で出会う人々においても

出会う相手のその中に、イエス様がおられるかもしれない。


その魂の中にですね。

その出会う相手が幼い子どもかもしれない。

または日常に出会う、歩くのにも困っているお年寄りかもしれません。でもその中にイエスキリストが入られて、私たちの愛を見ておられるかもしれない。

そういうことなんです。


イエス様という存在は、いまも天界におられてご自身は、霊的には愛に満ちあふれた光り輝く発光体の力強い霊体を持っておられます。


しかしながら、そのような存在のお方というのは同時にですね、貧しい底辺の中であえぐ人々の心の中にも入っていける。その心の苦しみ悩みも瞬時に感じとれる大きな心を持っておられるわけです。そういう貧しい苦しんでいる人の心も手にとるようにわかるわけですね。


現代に生きる私たちにおいても、私たちのコミュニケーションの中に神様がイエス様が宿ってその中におられるのかもしれません。


イエス様は祈りと礼拝についてこのように語られています。


二人または三人で祈る中、その中に私は共にいる。

一人で祈るのも素晴らしいですけども、イエスキリストがおっしゃっているように二人または三人で神に対して祈る。


共に神様の恵みを語り合い分かち合う。

そのような真実のコミュニケーションの中に、イエスキリストが霊の姿を持って、その交わりの中心にこられる。


現在地上に生きてる私たちは霊の姿をなかなか見ることができないことが多いわけですけども、イエス様の霊的実在というのは実際あるんですね。


そして私たちが死んだ後に、イエス様の実在を自らの霊の目で実際に見て仰ぐことができると思いますね。


私たち地上で肉体を持ってる時は霊の目は滅多に開かれないということが多いんです。


でもむしろそのことこそが地上に肉体を纏って生きていることの意味かもしれない。


肉体の目には見えない。かすかに心に感じとれる神様の思いや、み心を感じ取り、この様な目の見えない盲目のような世の中、地上生活の中でも信仰でもってイエス様の存在を感じ取る。そして真実の愛の関係を作り上げる。

それを神様が御心としているのではないかと思います。


キリスト教の人、クリスチャンの方は、老人介護施設の仕事や看護師、お医者さんになることを好み、自からそういう道に進まれる方が多いわけですけども、

クリスチャンの方は自然と心ならずも日常生活、仕事生活にそのように現れているのではないかと思います。



Q3:よく新宿などの街中で「イエスキリストは救い主。信じれば救われます」などのマイクでのアナウンスをして巡回している人々がいますが、あの方たちはどういう方たちでしょうか?



A:はいそうですね。新宿とか繁華街などで、「イエスキリストを信じればあなたたちは救われます」と、単調な口調でおっしゃっておられる方がいます。


あの方たちもキリスト教信徒です。ただイエスキリストの再臨とその裁きのことを、強調して話しておられるのかなと思います。


確かに聖書においてイエスキリストは再臨される時に裁き主として来られるということは記されておりますが、その裁きのことについては後日統一教の信仰の面でもお伝えしてゆくと思いますが、

その裁きとは、私たちの心の中にある悪が、暗闇が裁かれる。


その裁きに対して悪と暗闇は恐れ、そして自分たちが明白とされることを恐れているわけです。


おっしゃっている繁華街などで聖書のアナウンスをされている放送は、人間個体そのものが裁かれて、地獄に行くというようなニュアンスでもって伝わってしまっているような感じがしますね。


統一原理からすればですね、すべての人は滅ぼされないんです。滅ぼすことが出来ないのです。


今現在はどんなに生活が荒れていても、神様がすべての人ひとりひとりに与えられた本性と命というのは等しく付与されているわけです。


神様からすれば一人の命でも失うことはできないのです。すべての人は等しく神様から愛されている永遠の命を持っている子どもであるのですね。


いつか神様はその暗闇と悪の法則に対して、神様の光で照らして明らかにされれば、おのずと悪の性質と暗闇は滅ぼされることとなります。


そして人間の本性、神の子としての本性を取り戻す道を備えておられる。それが神の裁きの日、審判の時であると思います。


聖書の中において、救いの順序として第一の死、第二の死という順序は記されており1000年王国の後でないと救われない魂などの記述がございますが、すべての人は等しく神様から本性が与えられている。


その本性を持った人間個人は、神様が最終的にはご自分のものとして取り戻してくださる。引き寄せてくださると思います。


街中で聖書をアナウンスをされている方は、人間自身そのものが滅ぼされるというふうなニュアンスでもって、話が伝わってしまっているかも知れないので、キリスト教について恐れを感じさせてしまっているかもしれません。


これからはクリスチャンが、神様の人間に対する本当の救いのみこころを、正しくストレートに伝えていかなければならないことを思います。



ご質問はここまででしょうか。

ありがとうございました。

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2022年10月4日火曜日

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教会 <その1> クリスチャン小関

拉致監禁被害者、生まれも育ちもクリスチャンから見たキリスト教と統一教会  
<その1>

2022年 09月 18日

クリスチャン小関


音声video :リンク先


キリスト教家庭に育って


皆さんはじめまして。私は小関と申します。


私はキリスト教の家庭に生まれ育ってきました。

私の両親もキリスト教で、キリスト教の中でもいわゆる、きよめ派、一般的にはホーリネス派とも言われます。


礼拝の形式としては、伴奏はオルガンで讚美をして、聖歌賛美歌を歌い、お祈りをして牧師先生の説教を聞く、そのような礼拝形式の、いわゆる伝統的な雰囲気のキリスト教の教会で育ってきました。


私の両親はクリスチャンで、私の母方は、母、母の父、母の母、母のおばあさん、すなわち私からすると曾祖母もクリスチャンでした。(父方も、父、父の父すなわち祖父もクリスチャンでした。)


戦後間もなくの頃、当時のキリスト教は東京の下町などの街中などで太鼓を叩き、のぼりをたて聖歌を高らかに歌いながら路傍にて伝道活動をする、そんな活発な時期があったんですね。


またホーリネスっていうのは、昭和初期と大正時代にホーリネス・リバイバルというのがあり、その頃は爆発的な聖霊運動ですね、そのような時代があったようでして、

私の母方のおじいさんおばあさんが伝道された時は、大正、昭和初期の聖霊のリバイバルの余波がまだあった時代なのかなと思います。


私は幼い幼稚園の時から、そして小学生 中学生の時代まで、教会において、日曜学校、現在は教会学校とキリスト教では言われているようですが、それに毎週毎週参加しておりました。


そして、日曜学校の先生という方がいらっしゃいまして、先生から聖書の話を漫画の物語のようにしてお話していただき、解説して下さいました。


失楽園の戒め


そのお話しをお聞きして一番心に引っかかったのは、神様が天地を創造されて、アダムとエバを創造し、その時アダムとエバに戒めを与えられて、園の中央に善悪を知る木というものを植えられて、そしてそれを取ってはいけない、食べてはいけないと、そういうふうな戒めを与えられたということなんですね。


神様が麗しいエデンの園の中央に、善悪を知る木というのをまあ食べるによく、見るに美しくつくられ、お話しの中ではリンゴの木の実のように言われてましたけれども、それを取って食べたらきっと死ぬであろうという戒めを 与えられたのです。


それでまだ幼いアダムとエバが結局それを食べてしまい、その事を知った神様から彼らに対し、「あなたは何ということをしたのです」と言われ、その麗しいエデンの園から彼らを追い出されてしまったという話を当時の日曜学校の先生からお伺いしました。


それを聴いた当時の私は「神様はなんて冷酷で意地悪な性質を持っている神様なんだろうか」と、幼い心ながらまだ私は小学生の低学年だったと思いますが、そのように思いました。


しかし私は心の中でそう思ってただけで、それを日曜学校の先生に質問攻めとかにはしなかったんですけども、そういったことが結構心の中に残ってました。


ノアの洪水審判、火の審判と携挙


その後はですね、ノアの時代の話しになりますと、ノアの時代に世が乱れて、そして神様がノアに大きな箱舟を作りなさいと言われ、120年かけてノアはそれを作り上げたのですね。


その箱舟にノアの8人家族が乗り込み、当時の乱れきった地上に洪水が起きて、それで箱舟に乗り込んだノアの8人家族以外の地上の人間はみんな滅ぼし尽くされてしまい、そしてその箱舟がアララテ山の頂上に着いて、神様がノアの家族をこの地上に降ろされた時、神様は契約のしるしとして空に虹を出されたのですね。


その虹が神様がノアに対して示された約束の印となり、 ノアが神様に焼き尽くす生贄を捧げた時に、神様はその香ばしい香りをかがれるとともに、もう二度と地上を水にて滅ぼすことはしないと約束をされたというのです。

ところがそのお話しの直後にその日曜学校の先生が言いました。


「でも神様は終末の時代、ヨハネの黙示録の時代に神様は今度は火を持ってこの地上を滅ぼすと言われてます。」


その事について私は非常に気になっておりました。


結局神様は、人間が素晴らしい文化を築き、当時はまだ高度経済成長とその後に起きたバブル景気の頃の時代でしたが、どんなに素晴らしい建物などを作ってもそれが結局いつか火によって滅ぼされてしまうということ。


それを子供ながらにずっと信じていたわけですね。


確かに聖書のヨハネの黙示録をそのまま読みますと、最後の審判の日に神様は、その御心にかなった生徒だけは空中に引き上げ雲に包まれるような状況のなかで、再臨のイエス様と出会うという聖書の御言葉がありまして、私はそれを信じていました。


ですので私は小学生中学生の当時、聖書のヨハネの黙示録を寝る前などによく読んでました。


そしてそのような再臨の時代に私が滅びに巻き込まれることなく再び来られるイエス様と出会えるようにと、いつもそのような心を抱いていました。


火の審判信仰の時、出会った統一教会


そのような思いを抱きつつ、さらに進学して就職し社会に出て、建築関係のゼネコンの下請けのタイル工事の設計、施工をする会社に就職したのですが、巨大なビルディングや施設などを作るといった、まあそういう仕事に携わっているのですけれど、

いつかこれらの建築物も終末時の審判によって、火によって滅ぼされてしまうという事はもう決まってるのに、

なんでこんな職場で苦労して、いろんな人間関係の苦しみもある中、こんなところでビルを作るような仕事をしなくちゃいけないのかっていう疑問を常に抱いていたのですね。


で、そんなことをずっと考えつつ仕事生活をしているうちにですね、 だんだんと心が塞いできてしまって、それで

もう会社に行くことが嫌になってしまったんですね。


そのような悶々としている日々の中、自宅から職場にいたる途中の乗り換え駅である、東京の下町のターミナル駅において、しばしば統一教会の方のアンケートをしている方によく出会うようになったんですね。


それぞれのかたは別の日にはなりますけれど、五人ぐらいの方と駅のコンコースで立ち話をしたんですね。

お一人あたり、一時間以上、場合によっては二時間以上はお話を交わしたわけですが、

不思議な感覚、キリスト教にいる時には感じられなかったなにか魂の復活のような感覚を感じ、とても心地の良いものを感じたんですよね。


四人目の方にお会いしたあと、その後五人目の方にお会いした際にその方の学んでいるところに行かせてもらえないかと、言ってみようと心に決めたのですね。

それでその5人目の方は私より10歳ぐらい年上の男性だったんですが、その方に出会った際にその学び場に案内して頂きました。


それが統一教会のビデオセンター、まぁ 統一教会がそのビデオセンターを直営してはいない、とは言ってるのですけれど、ここの目的自体はこのセンターから統一教会につなぐための場所でした。


統一教会の教会員になる前段階の自己啓発センターなんですね。その学びに入ってみますと、聖書の内容が次々と解き明かされてきたわけです。


当時は倉原講師とか佐野講師でした。


キリスト神学的疑問が解明


その内容が、私が幼い時よりキリスト教の教会学校で学んでいた時に素直に感じた疑問、

なんで神様はこんな無情なことをされるんだろうか?

といった数々の箇所、自分が疑問に思っていたことがらに対して、直球の回答が示されてるわけです。


それで私はこの内容は、ただ事ではないということを直感したわけです。


ところで私がキリスト教の子供日曜学校の礼拝を受け

てる時に、(大人の礼拝の前に子供の礼拝というのものがありました)戦後間もなくの頃、日本がまだ貧しい時期には日曜学校の礼拝だけでも100人以上の子供が集って礼拝していたという話を聞いていたんですね。

ところが私が子供の礼拝に出ていた頃には子供の礼拝の出席者は20人いないかもしくは10何人しかいないか位のレベルに人が減ってきてたんですね。


でもキリスト教の教えの中においては、聖書で言う最後の審判の日には、この選ばれたキリスト教徒が再臨されたイエス様によって空中に引き上げられて、神の国に入るという内容で、ものすごく偉大で壮大なビジョンが示されているのです、しかし実際にそこの教会に集っている人数などを見ると、だんだんと先細りしていって、とても神の中心的な摂理と言いますか、神の地球に対する働きの中心が本当にここにあるのだろうかと感じられるわけです。


またキリスト教に居ると、あまり他の宗教とかに出向いてはいけない。という話を言われるんですね。

特に仏教系統とかそっちの方とか行かないように、とかですね、あんまり行ってもしょうがないよという感じでした。


しかしながら幼心ながらに、もしかしたらこのキリスト教以外のどこかの場所で、神様の中心計画があってそこで何か大きなことが進んでるんじゃないか?ということを 子供ながらに薄々考えたりしてたんですね。


そして、私が19歳のとき、その下町のターミナル駅でのきっかけでそのビデオセンターの方と出会ったのですが、そのビデオセンターで学んでいる内容がまさにその何か、ではないかと思うようになったわけです。


失楽園、蛇の正体


その学びの内容を述べますと、まずアダムとエバの堕落の原因と結果ということですね。


説明しますと、アダムとエバが成長期間という段階中の長成期完成級の時に蛇に出会いました。

キリスト教の説明においては、エデンの園で蛇が出てきて、エバが蛇にそそのかされて、神様から禁じられていた、善悪を知る木の実をとって食べてしまって、それが人類最初の過ちだったと言われているのですが、


その出来事について統一原理では、蛇がまさしく堕落するときのルーシェル天使であって、そのルーシェル天使が霊人体を持っていて、そしてエバにも肉体と重なるかたちで、霊人体という霊の体を持っていて、 そして霊の体のエバと霊の体の天使ルーシェルが交わることによって、ルーシェルから悪なる性質を受けて、そしてそのエバがアダムと今度は霊肉ともに性関係を持ち、一体となることによってルーシェルの性質を受け継いでしまったという、それまでに思いも知らなかったことを示されたわけですね。


キリスト教会の言う救いと恐怖


またここで、霊についての話もちょっと今出ましたけれども、キリスト教においてはですね、「イエス様を信じることによって、永遠の命に預かることによって、死んだ後にイエス様のもとに天国で共に会うことになる。」

そのような教えは一応言われてるのですけれども、それはあくまでも聖書のみ言葉の中に、そのような言葉がある。

だからそのみ言通りにその言葉を受け入れる。受け入れて信じる。その様な事を根拠として、イエス様を信じる人は死んだ後に天の御国に行くでしょっていうことで信仰を持ってるわけですが、私はそれを聞いただけでは、本当に自分が死んだ後も永遠の御国があって、いつまでも死なない、ということがわからないし受け入れられなかったんですよね。


そのような思いでしたので、仕事においても気持ちも塞いでしまって、とうとう職場にも行く気がなくなってしまったのも、やはりその死の恐怖というものも結構あったと思うんですね。


人間は死んだらどうなるかわからない。もしかしたら肉体だけで終わるかもしれないという思いの中において、その一方、私は父と母にとても愛されていたので、その愛を受けていれば受けるほど、自分の肉体人生が終わった後は、もしかしたらもう何も無くなって、父と母とも永遠にお別れになって、兄弟ともお別れになってですね、何もかも意識も魂もない状態になるっていう事を想像するだけでも非常な恐怖感を覚えてたんですよね 。

それが統一原理によって回答を得ることが出来たんですね。


スウェーデンボルグ言う霊界を理解する


ちょっとアダムとエバの堕落のところから話がちょっと伸びましたが、人間には霊人体があって、その霊人体がもう最初の生まれた時から肉体とともに重なった状態であって、そしていつか肉体が滅びることによって永遠に生きていく…。

そういう風な観念はこの統一原理とスウェーデンボルグの解説ですよね。それを通して私にはっきりと明確に理解できたんですね。


このようなことを前提として理解した上において初めて、アダムとエバの堕落ということが、それは天使を通してこのように人間に事が及んだということが理解できるのですね。


この理解はキリスト教の場所にいるだけでしたら絶対に分からなかったことだということは、もうすごくわかるんですね。

なので私はこの内容を続けて学ぶ必要があると思いました。


自分が幼い時、キリスト教の教会学校で素朴に疑問に思ってたこと、その思い自体も、もしかしたら神様が全部見て見通していて、「お前(私)にいつかその思いに対する回答を示してあげよう」っていうですね、そういう神様の思いが、もしかしたら自分の気づかないところにずっと共にあったのではないかと思いますね。


ノアの洪水審判


また、アダムとエバの物語の後に、ノアの物語がありますね。


先ほども少しノアの物語についてお話ししましたが、

ノアの家庭があの洪水審判を経たのち、ノアがあの

箱舟から出て後にノアが天幕の中で裸になって

ぶどう酒を飲んで寝ていた。

そこにノアの子供の二男、ハムがその様子を見て他の兄弟たちを扇動して服をかけたということに対してですね、その事に気づいたノアは次男ハムに対して激怒するわけですよね。


そしてハムの子孫は呪われよと予言するわけですね。

それでそのハムの子孫がどうやら黒人系統の子孫であるという事は統一原理としてもまた、一般的な歴史家の解釈においてもそのようになっていると思いますが、事実その後の歴史がそのようになったんですね。


この物語についての不思議は、私も子供の時に疑問に思っていたことですが、

私は今現在もキリスト教会にも通っているのですが、

ちょうど先日にそのキリスト教会に通って来ているある、中学生の女の子が牧師先生に、このノアの物語の疑問について質問していて、そのノアの物語の顛末(てんまつ)について、なぜノアはそんなことを行ない、またハムに言ったのでしょうか?と質問しているわけですよ。


それは私も傍目で聞いていたのですが、牧師先生はこのように答えました。

「聖書にはわからないことがいっぱいあるね。神様っていうのは人間の思いを超えた、本当に不思議なことをされるね。共にお祈りしましょう。神様、このお話しについてわかりません。”どうぞ示し教えてください”とね。」

このようにして話が終わってしまうわけですね。


統一原理においては、ノアは神様から命じられた箱舟を120年かけて作ることによって、信仰の基台を立て上げ、神様に対する縦の関係を築きました。


そしてその後は実体基台といってですね、横の関係をしっかりと築かなければならないっていう教えなわけですね。

それで横の関係を築くためにはノアの子孫の次男であるハムと箱舟を作って救ったノアが心情一体という、疑いのない信頼関係を持つということが大切だったという教えなんです。

そして本来はそのノアと心情一体になったハムが、ハムの兄であるセムとですね、今度はノアの家庭の長男セムと心情一体化することによってノアの家庭を中心としてメシアを迎えるための準備基台が造成されるはずだったということなんですね。


ただハムがその時、ノアに対して嘲りの態度、嘲笑の態度を取ったということが神の前に非常に大きな罪だったわけですね。


ですからここで一つの教訓が示されているわけですね。

信仰の権威を立てた自分の教師とか親とか父親を嘲ったり又は貶す、ということは神の前に非常に大きな罪だったり摂理に対して大きな妨害になったりすることもあり得るという事をですね、ノアの家庭を通して統一原理を通して見て取ることができるわけですね。


ですので、このノアの物語につきましても非常に大きな、なんて言うんでしょうかね、解釈の深さの違いっていうのがあり、ノアの物語がまさに今現在を生きる、信仰生活をしている私たち自身にとっても大きな教訓として示されてるわけですね。

この物語は今から何千年も前の話なんですけども、そこも、統一原理を通して気づかされる大きな発見となるのですね。


ヤコブ家庭


その後にヤコブの家庭というのが出てきます。

聖書の話の大きなポイントの物語としてですね。


ヤコブという人物はですね、父のイサクから長子の祝福をですね、それを得なければならないという、ヤコブ自身が神からそういう示しを受けていたのかも知れませんが、ヤコブの母のリベカはエサウとヤコブが産まれる前に母の胎内でこの二人の子が押し合い争った時に、神の前に尋ね祈ったのですね。その時に弟の子孫は兄の子孫に勝っており、兄の子孫は弟の子孫に仕えるであろうという、そういう啓示は受けていたのですね。


神の計画から見てヤコブがその兄のエサウから長子の特権と祝福をもらわなければならないという、そのような神の御心があったということは、これは統一原理を通してはっきりと分かることではあるのですが、

一般的な クリスチャンから見るとですね、「ヤコブという人物は自分の栄光のために、兄のエサウから長子の嗣業を無理やり騙してでも奪い取って、そしてあの荒野に逃げた、非常に卑怯な人間、ずる賢い人間であったのだけれども、そのようなずる賢いようなヤコブというような人物でも神様は赦し憐れんで救いの手を伸ばしてくださるとても心の広い神様なんだ」というですね、そういう解釈がキリスト教なわけですね。


ところが統一原理を通して、ヤコブという人物には神の計画があり、その母リベカの助けを通してエサウから長子の嗣業を受け取って、その後イサクの家庭から離れて約20年のあいだ、伯父のラバン元で仕えて条件的な期間を経過した後にエサウを自然屈服させるという、そういう風な神の計画があったっていうことなんですね。


それはあのアダムの家庭において、弟アベルが兄カインを 屈服させるという、そのパターンを繰り返しているわけですね。


アダムの家庭においては、弟アベルと兄カインが神様の前に供え物をした際に、アベルの供え物は神が受け取ったけども、カインの供え物は神は受け取られなかった。

そしてカインはそのことによって腹を立てて、アベルを殺害してしまったという失敗があったので、それをヤコブの家庭において、神はもう一度、あの同じシチュエーションを作ってですね、そしてエサウを愛で自然屈服させるという風な、そのような計画を神様は繰り返しておられたというわけですね。


この様な事実を歴史的同時性というのですけどね。

神様がそのようなことをされていたということは、これは統一原理によって初めてちゃんと解釈されていることなんですよ。


それが 理解できるできるとまさにこれまた、今の時代に生きる自らにも当てはめることができるわけですね。


この様な弟ヤコブが兄エサウを自然屈服させるっていうような事は、 自分の兄弟関係とか職場の関係とかでも 似たような場面はしばしば起きてくるわけですよね。


例えば自分の会社の課長は人格的にも、ちょっと私よりも怪しいしちょっと無謀なところがあったりする。

ただし 数字だけは 営業成績だけは大きく上げる。

そういう風な上司がいたとして、例えばその上司を陰で避難したり、こき下ろしたりして、それで自らの上司について、陰で悪口を言い、その悪口を言い広めて、あることないことの噂を立ててですね、それで気に入らない自分の上司を引き下ろして自分がその上司の座にとって代わって立っ たとしたら、

それは神様がそれを喜ばれて未来永劫に導かれるかっていうと、そうではないでしょって私は思いますね。 


世の中にはこの様なことがもしかしたらあるかもしれません。けれどもそれは原理が言ってるように、アベルの立場にいるもの、それはヤコブ家庭においては弟のヤコブになりますよね。

ヤコブのように、影でその神の前に執り成しをし条件を立てたりし、そして最後に兄エサウの前に、

この世で得た収穫も全てあなたにあげますよ、ということでですね。あのように地にひれ伏して。それを見てエサウがですね、感動して自然屈服する。そのようなことが未来永劫に神が責任を持ってその子孫を発展させるための態度ではないかというのですね。


ですからヤコブというのは、そういうふうな神の願われる

姿勢を兄に対して行うことができたから、多くの神の祝福を得ました。イスラエルという、今現在でもイスラエル民族、またイスラエルという国がありますけども、ヤコブがアブラハムと並び、まさにその信仰の父ですね。信仰の父という立場で、あのイスラエル民族はヤコブの信仰の子孫という立場で今も世界に存続しているということになってるわけですね。


これは単に、ずる賢いヤコブをただ憐れまれたという神の物語があったのではなくて、そこには深い神のカイン、アベルの摂理というものがヤコブの家庭にも働いていて、 ヤコブは知らず知らずそのような神の計画に沿って動いてたってことが統一原理によって明かされてるわけです。


ー つづく ー