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2024年5月3日金曜日

キリスト再臨アドベント19 ◆ 公開: イエスとアダムが共有した使命証明される◆ 文信俊三代王◆The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

 日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント19

公開: 

イエスとアダムが共有した使命証明される


文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.


19. (20240423) 

Revealing: Jesus and Adam's Shared Mission


公開: イエスとアダムが共有した使命

 

[イエスが死ぬはずではなかったという結論に達した今、それでは、イエスの本来の使命とは何だったのでしょうか?ご視聴ありがとうございます!]

 

メシアの使命に関する私たちのシリーズを通して、イエスが死ぬはずではなかったという信念は、歴史のみならず、多くの聖書の神学的教義によって証明されてきました。

これは、旧約聖書の預言の圧倒的優位、新約聖書の預言(マタイ2:2-11, ルカ1:32-33; 1:46-56; 1:68-75; 2:36-38)、ユダヤ神学の側面、

キリストの絶対的な忠実さを保つイエスの言葉と行動(例.マタイ6:10, ルカ19:41-44, ヨハネ8:37-44)、十字架刑に対する使徒たちの混乱した反応、初期の弟子たちの義憤、ユダヤ民族の歴史、そして最終的にはキリスト教神学によって証明されました。 

 


このように、イエスは死ぬはずではなかったという揺るぎない聖書の基台の上に立つ私たちは、「それでは、キリストの使命は何だったのでしょうか?」と問います。

 

聖書の物語全体が、エデンの園の究極の復帰であることを私たちは知っています。

「罪のない世界、神の子らの間に神が住まわれる世界」。

創世記では、アダムとエバの誤った自由意志の決定によって、神の本来の2つの異なるタイプを持つ計画は延長になりました。

聖書の最終巻であるヨハネの黙示録のページをめくると、最初と同じ神の計画が実を結び、キリストの勝利によって楽園のような園が取り戻されたことがわかります。

 

神は本質的に不変であり、永遠であり、真実なので、神の原理もまた不変であり、永遠であり、真実です。

それゆえ、神は天地創造以来、人類に対して同じ壮大なビジョンを持っていらっしゃいます。


言い換えれば、コリント人への第一の手紙15章45節で語られているように、「第二のアダム、あるいは最後のアダムとしてのキリスト」は、最初のアダムが未完成のまま残した使命を果たすために来られたのです。

 

「それでは、アダムの使命とは何だったのでしょうか?」

創世記の堕落する前の世界において、神は最初の人類の先祖に三大祝福を宣言されました。

(創世記1:28) 「生めよ、ふえよ、すべての被造物を治めよ」。

 

このように、最初の創造の青写真を検証することによって、第二のアダムとしてのキリストは、アダムと同じ使命を受け継いでいます。


1. 実を結びなさい。(生めよ)

2. 増えなさい。 そして、

3. すべての被造物を治めなさい。

 

第一の祝福 「実を結びなさい」(生めよ)から始めましょう。

私たちの心と体が神の御心と完全に一致して初めて、神の王国のために真の実を結ぶことができます。

しかし、第一の祝福を達成するために必要な絶対的信仰と愛と服従のレベルに到達することは、必要な成長段階を経ることによってのみ可能です。

 

聖書は、この成長期には神の子キリストでさえ罪を犯す可能性があることを次のように示しています。

(ルカによる福音書2:52) イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。

 

この聖句は、イエスは罪なく生まれたが、「知的に」は知恵を伸ばし、「肉体的に」は背丈を伸ばし、「社会的に」は人から好かれ、「霊的に」は神から好かれるように成長しなければならなかったと述べています。

 

さらにヘブル人への手紙の著者は、イエスはまた、その道徳的な性格において、神と芸術的に一致するように成長したと述べています。

(ヘブル人への手紙5:7-10) 

7 キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、祈りと願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。

8 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、

9 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救いの源となり、

10 神によって、大祭司と、となえられたのである。

 

聖書が示すように、イエスは罪なく生まれました。しかし、彼はアダムもそうであったように、知的に、肉体的に、社会的に、霊的に、道徳的に完璧に生まれたわけではありません。

むしろ、天の父の導きと自らの責任を果たすことによって、キリストは「全き者とされた(ヘブル5:7-10)」。

 


サタンでさえ、イエスがどんな小さなことでも罪を犯す可能性があることを知っていました。

このことは、サタンがイエスを誘惑しようとしたことだけが証明しているわけではありません。

ヘブル人への手紙4章15節にあるように、「すべてのことについて、わたしたちと同じように」。

 

しかしまた、荒野での3つの誘惑においても同じように、堕落以来、神に敵対してきたルシファーは、メシアが罪を犯す可能性があるかどうかを知っていました。

 


しかし、罪の可能性ということについて明確にするために、ヘブル人への手紙の別の章が雄弁に表現しているように、イエスが罪を犯したと言う意味ではありません。


(ヘブル書4:15) この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。

 

しかし、イエスは私たち皆と違って、アダムと同じ状態で、原罪に汚れていない純粋な状態でお生まれになりました。

誘惑に堕ちた最初のアダムとは対照的に二番目のアダムは、神の子としての正しい地位を保ち、罪に打ち勝ちました。

 

その結果、彼は御自身の責任分担を完成させ、

(ヘブル書5:7-10) 完全な者とされたイエスは、彼に従うすべての人に対する永遠の救いの源となられた。

 

こうしてイエスは最終的に、神の御心の絶対的な完成を彼自身の心と体の中心において、第一の祝福を成就されたのです。

 

第二の祝福 「2. 増えなさい」について、

このトピックについては、もっぱらそれだけに焦点を合わせたビデオを挙げた方がいいと思いました。


 

そこで、第三の祝福を詳しく見てみましょう。

「3. すべての被造物を治めなさい。」

 

神の人類に対する当初の計画は、アダムとエバが神の戒めに従い、完成された個人となって実を結ぶことでした。

完成された個人となったアダムとエバは、創造の残りの部分と完璧に関わり合い、やがては地上に天の王国を築くという最高点に達したことでしょう。

アダムとエバの血統を通じて、神が実体的・霊的両領域において永遠に君臨することのできる王国です。

被造物全体が、共にうめき共に産みの苦しみを続けている(ローマ書8:22)」のではなく。

 

アダムとエバ、そしてその子孫は、被造物との愛を交換し合いながら、その喜びを神にお返ししていたことでしょう。

こうして、堕落していない人間が被造物を通して神に愛と美をお返しすることによって、神はアダムとエバを通して、ご自身の壮大な手仕事を体験することができていたことでしょう。

 


第二のアダムの受肉によって、被造物がサタンの束縛から解放されるかけがえのない機会が、人類史上初めて訪れました。

もしイエスの時代の選ばれた人々が、イエスを信じるというイエスの御言葉に耳を傾けていたなら、被造物に対するイエスの完璧な相互作用は、永遠のエルサレム、新しく復帰されたエデンの園という結果をもたらしたことでしょう。

それは、イエスが熱心に祈られた王国そのものでした。

(マタイ6:10) 御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

 

しかし、神の子を信じ、崇めよというキリストの呼びかけをかき消したパリサイ派の人々は、代わりに神のひとり子を裏切り、殺害し、彼らとその子孫への裁きを促しました。

 

そのため、被造物の解放は、キリストの再臨まで延期されました。


(ローマ書8:19-23)

19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。

20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、

21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

 

このように、すべての被造物は王の帰還を切に待ち望んでいるのです。

結論として、私たちは、メシアの基本理念が、アダムに始まる世界の始まりから神が思い描いていたのとまったく同じ使命であったことを見てきました。

 

私たちは、第一の祝福と第三の祝福について、聖書におけるさまざまな例を概観してきました。

次回のビデオでは、イエスが第二の祝福「増えよ」を成就するために来られたという聖書の証拠について、さらに深くお話ししたいと思います。

 

それでは、次回またお目にかかりましょう。 

ご視聴ありがとうございました。

祝福された一日をお過ごしください。


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2024年4月25日木曜日

キリスト再臨アドベント18 ◆ 証明される: なぜ教会は新しいイスラエルなのか_文信俊三代王◆The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

 日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント18

証明される:

なぜ教会は新しいイスラエルなのか

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H. 

18. (20240411) 

Proved: Why the Church is the New Israel

 

証明される: なぜ教会は新しいイスラエルなのか

 

イエス・キリストの御言そのものに由来するものであり、教会がイスラエルに取って代わったという信仰は、キリスト教思想において歴史的に大きな裏付けを持っています。

 

(Supersessionism:置換神学)

 

[※置換神学(ちかんしんがく、英:Supersessionism, replacement theology, fulfillment theology)は、新約聖書解釈の一つで、選民としてのユダヤ人の使命が終わり、新しいイスラエルが教会になったとする説である。]

 

「このビデオでは、この置換神学(Supersessionism / replacement theology)の教義を証明した後で」、それでもなお、イエスが死ぬはずではなかったという考えを支持するのはなぜかを見ていきます。

 

(置換神学は、Replacement または、Fulfillment theologyとも呼ばれる)

 

反ユダヤ主義的な目的のために、置換神学の聖書教義をねじ曲げている人もいますが、新約聖書は、神の祝福がイスラエルから去り、「神の新しいイスラエル(ガラテヤ6:16)に与えられたことを明確に教えています。

 

この教義について語る前に、ひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。

クリスチャンとして、もちろん私たちはユダヤ人を愛しています。

しかし、それは、私たちの教義において聖書に忠実であり続けることはできないと言う意味ではありません。

そして、1世紀のユダヤ人、特にキリストを十字架につけた指導者たちの行動を強く非難します。

それは、どちらか一方ではなく、両方です。

ステパノや使徒たち、そしてイエス・キリスト御自身の言葉を見てきましたが、私たちは反ユダヤ主義ではありません。

私たちは、キリスト教の歴史の大部分と一致しながら、神の御言葉に忠実であり続けようとしています。

このことを明確に区別した上で、聖書に目を向けてみましょう。

 

有名なたとえから始めましょう。

長い間ブドウ園の世話をしてきたブドウ園の所有者が、遠く離れた土地へ旅立たなければならなくなります。そのため、所有者はブドウ園を小作人たちに貸し、彼らが代わりにブドウ園の世話をすることにします。収穫の時期が来たので、所有者は、自分のブドウ園から果実を集めるために、何人かの僕を小作人に送ります。

しかし、ブドウ園に着くと、派遣された大勢の僕たちが次々と傷つけられ、殴られ、あるいは殺されました。そこで所有者は、せめて跡継ぎには敬意を払うだろうと息子を送り込みます。しかし、高慢と貪欲に目がくらんだ彼らは、その息子を捕まえて殺してしまいます。

 

たとえ話の結論に達したとき、イエスはパリサイ派の人々に次のように尋ねられました。

(マタイ21:40) このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか。

 

パリサイ派の人々自身の答えは、彼らに有罪を宣告します。

(マタイ21:41) 「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。

 

イエスは彼らの評決を肯定し、次のように言われました。

(マタイ21:43) それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。

 

イエスは、王国は「あなたがたから取り上げられる」と、おっしゃっています。

神の王国は本来、1世紀のイスラエルにもたらされるはずだったことを暗示しています。

しかし、イスラエルがキリストを拒絶したため、「実体的な神の王国」は、キリストの体という実を結ぶ別の民の基台の上に来ることになります。

 

次に、イチジクの木が枯れたことは、イスラエルに対する神の祝福が取り除かれたことを示す、もう一つの力強い例となります。(マタイ21:18-19、マルコ11:12-13)

旧約聖書全体を通して、イチジクの木は、イスラエル民族の繁栄と健康を象徴していました。(ヨエル2:22、列王紀上4:25、申命記8:8-10)

そのため、イチジクの木はイスラエルやエルサレムを象徴するイメージとして、しばしば用いられました。

 

新約聖書に話を戻すと、キリストがイチジクの木を枯らした町ベタニヤは、「イチジクの家」を意味します。これはさらに、イエスがイスラエルに豊かな収穫を期待していたことを示しています。

しかし、イエスはその木が実を結ばないのを見て、こう言って枯らされました。

(マタイ21:19) 「今から後いつまでも、おまえには実がならないように!」

 

イスラエルがキリストとの関係において失敗したことを示します。

彼が、神はイスラエルの家を見捨てられると宣言された後、キリストが再臨されるまで、荒れ果てたままです。

イエスはエルサレムについて次のように預言されました。

(マタイ24:2) 「よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

この荒廃の預言は、AD70年のエルサレム破壊で成就しました。

 

1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは次のように語っています。

(ウィストン1999) 

[エルサレムの城壁は、]それを基礎まで掘り崩され、徹底的に焼き払われた。その場所を訪れる者は、[エルサレムに]人が住んでいたことが信じられないほど破壊され、何も残っていなかった。

 

これが、神が約束したイスラエルの民の運命だったのでしょうか?

(イザヤ62:7) 主がエルサレムを堅く立てて、全地に誉を得させられる

そして

(エレミヤ3:14-18) 万国の民はエルサレムに集まる。

 

いいえ、こんなはずではありませんでした。

これは神の願いではありませんでした。

 

メシア降臨前の最後の預言者であるマラキ4章は、イスラエルがメシアを迎えるときに歩むことのできる2つの選択肢を述べています。

もし彼らがメシアを信じることを選ぶなら、

(マラキ4:2) 義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。

 

しかし、もし彼らがメシアを信じなければ、

(マラキ4:6) のろいをもってこの国を撃つ

 

これはまさに起こったことです。

 

ユダヤ人が、

(使徒行伝3:14-15) この聖なる正しい方を拒んで、...いのちの君を殺してしまった。

 

イスラエルは呪いの道を選びました。

ポンテオ・ピラトが群衆をなだめようと何度も試みたにもかかわらず、イエスを群衆の前に差し出したとき、私たちはこの呪いの選択を目の当たりにしました。

1世紀のイスラエルは、人となられた神に関する悲惨な言葉を宣言したとき、自分たちの子孫を呪いました。

(マタイ27:25) その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい!

 

しかし、神はイスラエルを永遠に祝福すると言われませんでしたか?

私たちは、神の飽くことの知らない性質を卑しめているのではないでしょうか?

問うべきは、神がダビデとの永遠の約束のみ意を変えられたのはなぜか、ということです。

(サムエル記上2:30、エレミヤ書18:6-10、列王紀下20章、ヨナ書3章)

 

聖書は、選ばれた人の決断に直接起因する多くの神の逆転を明らかにしています。

一例を挙げれば、エレミヤ書18章には次のように書かれています。

(エレミヤ書18:6-10) また、ある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

 

従って、イエスの時代に選ばれた民が途方もない規模で失敗したとすれば、神は最初の宣言を再評価し、別の方法でそれを実現することになる可能性があると、私たちは推測できます。

これがまさに起こったことです。

イスラエルは、前述の聖句と以下の聖句に基づいて神の子を殺しました。

 

実体的イスラエルに関する祝福は、イエスのイスラエルに対する神の祝福の破棄を踏まえて、今や教会という霊的イスラエルに移されました。

書簡は、教会が第2のイスラエルであるという主張をさらに補強しています。

ペテロ第1の手紙2:9で、使徒は旧約聖書の言葉を引用し、新生キリスト教徒に伝えています。


 

(ペテロ第1の手紙2:9) あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れてくださったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

 

同じように、ヘブル人への手紙の著者は、キリストと新しい天の召命を共にするクリスチャンを、神の家としてなぞらえています。(ヘブル人への手紙3:1-6)

 

同様に、パウロも教会を新しい「神のイスラエル(ガラテヤ人への手紙6:16)と呼び、キリストへの信仰で結ばれているので、クリスチャンはアブラハムの子孫であると宣言しています。

 

(ガラテヤ人への手紙3:26-29) あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 

さらに、神の祝福の集成を物語るユダヤ人は迫害された遊牧民として、祖国を取り戻すために2千年の間、待ち続けてきました。


 

このような聖書の宣言と歴史的な物語があったからこそ、初代教会の教父たちによる懲罰的置換神学の支配的な見解が現れたのです。

一つの例を挙げると、3世紀ギリシャの初代教会の教父は言います。

「…[1世紀のユダヤ人は]最も許されない種類の罪を犯した。人類の救い主に対して陰謀を企てるという…」

 

イスラエルと教会の関係について、ミラード・J・エリクソンは次のように結論を下しています。

「結論として、教会は新しいイスラエルである。教会は新約において、旧約においてイスラエルが占めていた場所を占めている」(2013年)。

 

したがって、聖書に対する歴史的出来事、そして初期キリスト教の教父時代のほぼ一致した見解は、神がユダヤ人をご自身のぶどう園から追い出し、その季節に実を結ぶ者たちと入れ替えたことを示しています。

 

しかしながら、伝統的な神学の立場からすると、もし十字架が息子のために意図された道であったなら、なぜ神はその祝福を取り消されることがあるのでしょうか?

神はなぜ、

(マラキ4:6) のろいをもってこの国を撃つ

 

AD70年に、もしユダヤ人がイスラエルに対する神の定められた計画を助けていたとしたら、なぜキリストはイスラエルの不従順を嘆き、裁いたのでしょうか?

もし、彼らがイエスを十字架につけることによって、実際に神の御心を行っていたとしたら。

 

イスラエルの全歴史は、神が預言者や天使を遣わし、イスラエルにメシアを遣わすことを約束したのです。

神は、民に、神殿を建てさせ、軍隊を持たせ、政治機構を確立させました。それは、イスラエルが神の子を受け入れるための全国的な基盤を築くためでした。

 

しかし、もしイエスが死ぬことになっていたとしたら、アブラハムからイエスに至る2千年間、ユダヤ民族を育成することが神の計画だったと本当に言えるのでしょうか? ただ、すぐに破壊するだけなのに?

 

キリストは殺されるはずではなかったという考えを提示するときに初めて、聖書の置換神学の教義に対する首尾一貫した論拠が得られるのです。

 

このように、キリスト教の置換神学の教義は、イエスがもともと死ぬために来たのではなかったという、もう一つの証拠を提供するのです。

 

メシアの使命に関する本シリーズでは、これまで、キリストの本来の使命は十字架ではなかったことを証明してきました。

しかし、もしキリストが死ぬはずではなかったとすれば、

それでは、キリストの本来の使命とは何だったのでしょうか?

次の動画では、この質問に対する非常に驚くべき答えをお伝えします。

その時、またお会いしましょう。祝福された一日をお過ごしください。

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