神の本質はキリスト、訓練精誠で神のエネルゲイアに触れよ
◆2026年8月27日.台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<4>
文亨進二代王
監修:fanclub三原
文亨進師 台湾韓国語礼拝한국 목요예배 2026 08 27
神の本質に触れると思うのはサタン教
皆さん、自分が一人で本質に触れると思っているのです。これはサタン教です。
それならキリストなど必要ないということになります。私もキリストだなんて言っているのです。
ああ、とんでもない話だ。そういうことでしょう?
違います。御父様を保管しなければなりません。御父様とキリストは神の本質の中に入ることができ、その本質から出るエネルゲイア 、そのエネルゲイアに触れるだけでも、それも神ですね。神のエネルギーだ。これを理解しなければなりません。
それは神が創造された行為ではありません。
神のエネルゲイア こそが永遠の働きなのです。 運行。
*注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア
永遠の運行(働き)とは、どういうこと?
神の光、皆さん、神の光には始まりがないでしょう。神の光に始まりはある、ない? 神の栄光、神の栄光には始まりがありますか、ありませんか?
始まりはありません。
神の善さには始まりがありますか、ありませんか? ありますか、ありませんか?
ありませんね。
つまり、これは何でしょうか? 神の運行(働き)と訳しますね。
そのエネルゲイアには始まりがないのです。神がおられるからこそ、エネルゲイアもあるのです。
始まりがないのです。
神の善さには始まりがありますか? ありますか、ありませんか?神の栄光に始まりはあるのでしょうか?神の愛に始まりはあるのでしょうか?そんなのあり得ないじゃないですか。神がおられることによって、善さもあり、栄光もあり、愛もあり、そういうことじゃないですか。
私たちと授受作用したいなら、この「エネルゲイア 」が本質から分離されなければ、私たちは授受作用もできません。
つまり、これが一つになれば、私たちは神の本質と授受作用することになります。神の本質と授受作用できるようになれば、キリストも御父様もイエス様も必要ありません。
「私たちも神だ」と言うなら、これはサタン教です。サタン教。
つまり、私たちは本物の神に出会える、と聖書には書かれていて、神の役事、真の神の役事として記されており、御言葉にも…でも、でも、エッセンスとエネルゲイアが一つに融合していれば、そのエネルゲイアの炎もエッセンスだ。それなら、彼らも神のエッセンスとつながっているなら、彼らもキリストと同じくらい神だ。ありえない。
それなら、これは多神教になる。
ヒンドゥー教はこの問題を引き起こします。
ヒンドゥー教はヨガを通じて、自分も神になれるじゃないですか。
仏教には神や創造主はいませんね。ヒンドゥー教には創造主がいて。理解できますか?
神のエネルギー働きと授受作用し神を体験する
だから、このエッセンス、エネルゲイアの部分を東洋的に理解すべきなのです。東洋のキリスト教の立場を理解すれば、私たちは神と授受作用出来る。私たちは摂理に同参できます。5%は予定論とは結びつきません。
私たちは本当に失敗すれば、摂理に問題を引き起こす可能性があります。
なぜ? 神の御心は神の本質ではないからです。神の働きだからです。神の働きだからこそ、私たちはその働きと授受作用できるのです。
ああ、これは不思議ですね。
私たちは、神のエネルゲイアを実際に体験できるのですから、だからこそ祈らなければならないのです。
ですから、真剣に祈らなければならないのです。ですから、修行しなければならないのです。ですから、断食しなければならないのです。だから、精誠を尽くさなければなりません。
なぜ?
こうした訓練を通じて、私たちは神のエネルギーを感じ、神と出会うことさえできるのです。もちろん悔い改めなければなりませんが、もちろん悔い改めて、「お父様、ありがとうございます」と中心にしなければなりませんが、私たちは、神のエネルギーを通じて神を体験することができるのです。
サタンは誰よりも原理を知っている
トマス・アクィナスの神学、アウグスティヌスの神学、これらは予定されています。すでに地獄に行く人々は予定されており、天国に行く人々もすでに予定されています。皆さんは何をしても構いません。
西洋の合理主義や五感を通じてしか知識を得られないから、勉強ばかりすればいいのです。
勉強ばかりして、頭ばかり大きくなればよいのです。
役に立たない連中になってしまいます。
これは、多くの西洋のキリスト教徒たちが、まさにそんな頭でっかちな連中になってしまっています。
修行や苦行、訓練、全くしない。精誠、厳しい断食など、一つもしない。必要ないと考える。
なぜ? 神を知的に理解しなければならないから。あの西洋の、カトリック(天主教)において最も重要なのは何だ?
どこの大学を出たか、どこの神学大学院を出たか、これがキリスト教の何だ? どの聖書を読んだか、どれだけ多く読んだか。何千回も読んだ。
サタンは多い、サタンは聖書を最も多く読んだから。サタンはどの牧師よりも聖書を多く読んだ。
知っている?サタンは聖書をどの牧師さんよりよく知っている。
問題は何か? 従順しない。従順。読むこと自体が問題ではない。
ある牧師たちは「私は聖書を28回読んだ」と言う。いや、サタンは数千億回も読んだのに。
問題は、何回読んだかではないでしょう。これは、どれだけ従順だったか、これ、どれだけ実践したか、これこそが問題です。
原理も同様です。原理を何回読んだか、これは問題ではありません。
原理を一番多く読んだ連中が、御父様を裏切ったじゃないですか。原理をただ知って暗記していただけですから。でも堕落しましたね。
御父様の権限に戻ってきた人を見れば分かりますが、原理を一番多く読んだ人ではないとしても、何がもっと重要なのでしょうか? 御父様を愛していた人たちです。その関係を断たないと決心した人たちです。
完璧でなくても、原理を何千回も暗記していなくても、読んでいなくても、御父様との関係を断つことはできない。こういう人たちが生き残るのです。
結論は関係です。関係。
『原理』で最も重要なのは宝血、化体説
『原理』で最も重要なものは……えっと、新しい真理はすべてを解き明かす。
『原理』で最も重要なものは何ですか? 御父様です。宝血。私たちの神学の中心は何ですか? キリストの宝血。それです。
血統はどこから来るのですか? 知識?血統は知識から来ますか?『原理』を何回読んだかで表れますか?
ある学者たちは『原理』を100回読んだそうですが、その学者たちに血統はありますか?ありますか?ありませんか?ありません。
ああ、知的には救われません。
キリストの血を飲まなければなりません。 イエス様が言われたのは、「私の肉と血を飲み、食べなさい」ということです。イエス様も言われました。私たちだけが言っているのではありません。イエス様もそうおっしゃっています。「私の血と肉を食べなさい」と。パンとワイン。
カトリック(天主教)の根本的な神学はそこに根ざしていますよね。
ミサの「血と肉」の儀式(聖餐式:聖体拝領)、カトリックの根本的なトランスサブスタンス(聖変化:実体変化) の哲学を一度調べてみてください。トランスサブスタンスの哲学を韓国語で どう言えばいいのか分かりません。
根本的な神学では、ミサの奇跡だと言っていますね。そこで、パンとぶどう酒が実体的なイエス様の肉と血になるということです。
ローマのミサでは、血とパンとぶどう酒が、ミサの中で実体的なキリストの血と体になると言われている。実体的な血と肉の儀式です。皆さん、カトリック(天主教)を知らないから分からないだろう。
二代王はカトリック(天主教)の大学にも通ったし、カトリック(天主教)の修道院にも住んでいたじゃないですか。
私は毎日ミサを見て。私はミサで食べることはできませんが。私はカトリック(天主教)信者ではないので。
でも毎日見ることができるのです。彼らの血と肉は、食べられませんが。カトリック(天主教)信者ではないから。これは根本的な神学です。
これは何ですか? オーケー。化体説(実体変化)。韓国語で化体説。
これがカトリック(天主教)の化体説。韓国のカトリック(天主教)カトリックが用いる化体説の神学。化体説の神学。化体説の神学と呼ばれます。とにかく英語ではtransubstantiation。
その思想とは、ミサで配られるパンとぶどう酒が、実体としてイエス様の血と肉となり、それを食べなければならないということです。
正教会もそうです。正教会もそれを信じています。
古代キリスト教は皆信じています。
プロテスタントだけがそれを信じていません。ほとんどのプロテスタントは「実在説(real presence)」を信じておらず、ほとんどのプロテスタントは、これはあくまで象徴的な内容だと考えていますが、だんだんおかしくなってきていますね。
今や正教会、カトリック(天主教)、プロテスタントなど、あまりにも多くて、インターネットを見ながら論争ばかりしているので、正教会側が徐々に優勢になっています。ですから
だから、次第にプロテスタントの若者たちが、プロテスタントであってもと、正教会に改宗しなくても、この「化体説」を信じます。プロテスタントであっても。
エッセンスとエネルゲイア の関係を理解する重要性
だから、エッセンスとエネルゲイア の違いを理解できなければ、私たちは実は神様と授受作用することができません。
神様とできなくて、神様の被造物、幻想としてのみ授受作用することができます。神様の愛も直接受けることができず。神様の愛も直接受けることができません。なぜなら、神様の)被造物の幻想の愛のみと授受作用することができます。
エッセンスとエネルゲイア が同じであれば、カトリックのように、トマス・アクィナスの神学のように、プロテスタントのように、神様の愛自体と神様と授受作用できません。神様の摂理に同参することができません。
神様の被造物、幻想の摂理にのみ同参することができます。神様の直接の摂理に同参できません。問題ですね。
そして、もしエッセンスとエネルゲイアが同じなら、私たちは皆、神様の役事を通して神様のエッセンスに会うことになるので、私たちは皆、神様になってしまうのです。
そうなればキリストは必要ない、御父様は必要ない、御父様は削除、イエス様も削除。バイバイ。サタン教です。
考えてみてください。私たちも皆、神様の本質にすべて会うことができたら、授受作用することができたら、そうすればキリストはどうなりますか。キリストがすることは私たちもすることができるではないですか。
それなら、キリストは必要ありません。私が直接できるのに、なぜキリストが必要ですか?
これ、この問題を理解できますか?問題になりますね、問題に。
神様の血統・本質、キリスト
だから、私たちの血統の概念、血統も、考えてみてください。神様の血統に始発点があるでしょうか?神様の血統には始発点がありますか?
私たちが血統をどう定義するかといえば、後孫と言うなら、そこには始発点がありますね。そうですね?人間を創造しながらその後孫の中に血統を置いた始発点があります。
しかし、神様の本質的、根本的な血、神様の血統の根本の本質があれば、その根本の本質はアダムから始まったのでしょうか?あるいは神様が先にいらっしゃって、そこにアダムを置かれたのでしょうか?
(「神様が先にいらっしゃいました」。)
そうですね。神様が先にいらっしゃらなければ、これはアダムの血統になってしまいます。
神様の血統に、ある本質的な、神の本質的な部分があるならば、それはアダムを作る前からいらっしゃってこそ、これを与えることができるではないですか。もしいらっしゃらなければ、どうやって与えるのですか?アダムに。
その言葉は、血統の根本的な神様の部分が、神様がすでに存在していたとしたら、その言葉は神様とずっと存在していたということになります。その根本的な血統の部分が。
それでは、神様と共にずっと存在していたなら、それは神様と永遠に存在していたということになります。
しかし、もし私たちが神様の本質に会い、直接受けることができれば、キリストは必要ないではないですか。神様の血統の本質をそのまま受けることができるではないですか。神様のエッセンスから。
そうですね。
キリストは必要ないではないですか。
だから、キリストだけが本質に会えるということなら、その言葉は神様が特別に、キリストに特別な本質を投入されたということです。だから、この方を通してのみ、これを受けることができるということなのです。
しかし、このような神学がなければ、私たちが皆神様の本質に会うことができれば、私たちは直接その本質を引き出せるということです。
御父様は必要ない。イエス様も必要ない。問題が生じます。
これは堕落前ではないですか。以前の話。
だから、アダムの堕落前。アダムを創造する前に、神様の血統・本質の部分が、まず神様がいらっしゃってこそ、アダムに与えることができるではないですか。堕落前の話です。
もし神様がいなければ、この本質的な血統の部分がなければ、どうやって自分の血統をアダムに吹き込むのですか?いなければ。
もし、この血統も被造物なら、それならこれはただの被造物ではないですか。神様の本質的血統ではないではないですか。被造物です。
わかりますか?これは堕落前の話です、全て。
だから、こういう神学、キリスト学と三位一体学、この二つの分野について、私たちの統一信徒たちはよく理解できません。
これはとても単純な内容だと思っていますが、私はこれについてはるかにずっと勉強したので、私が見た時、統一教会の信徒たちはよく理解できていません。この部分、二つの分野についてよく理解できていないのです。キリスト学と三位一体学。よく理解できていません。
これをものすごく簡単に話します。ものすごく簡単に話すと、こういう問題が生じるのです。
だから、非常に慎重に話さなければなりません。こういう神学については、非常に慎重に話さなければなりません。むやみに話してはいけません。
私が、これは博士学でした、これは。
これと、仏教の三位一体神学との比較。
神様の役事(御業、働き、運行)は、神様のエネルゲイア
キリスト教のヨハネス・ダマスコス、ダマスコのイオアン。この人は9世紀の正教会の聖人です。
このようなことを間違って話すとこういう問題がたくさん起こるのです。
神様の意志、私たちの自由意志の問題、神様の本当(本質)と授受作用することができるかどうかという問題、これらの問題はすべてこの部分にあります。「エッセンス」と「エネルゲイア 」この部分に。そして、この二つの単語が聖書に出てきます。
*注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア
韓国語では「役事」と言いますね。「運行」「役事」と言いますね。
韓国の人たちは、「父の役事が降りてくるように。ハレルヤ。」と言いますね。
しかし、この役事が何なのかも分からずに、ただプロテスタントから引っ張ってきたではないですか、私達は。
これは、役事が正確に何なのか分からないではないですか。
これは、エッセンスとエネルゲイアを理解すれば、神様の役事は、神様のエネルゲイアなのです。エネルゲイア 。
これが神様の役事です。正確に、そうすれば私たちはもっとよく理解できます。
ただ、韓国の牧師たちは「神様の役事が降りてくる、火が降りてくる」と言いますが、この人たちは役事がどういう意味か分かっていないのです。
ただ、何か神秘的な神妙なるものだと思っているだけで、神様のエネルギーだとは絶対に考えません。こういう神学を理解できないからです。
しかし、これを理解すれば、神様の役事は、・・・これも役事ではないですか。炎が降り注ぐのも役事だ。
このような役事が降りてくると、神様に会うということなのです。
幻想ではありません。これはAIの仮想でもない。そうでしょう?
これは本当に神様に会うことなのです。
しかし、それは神様の本質ではなく、神様のエネルゲイア です。
その言葉は、私たちは神様に近いのです。神様に触れることができます。神様がこのような恩恵をくださったら。
私たちは神様を見ることができるし、経験することができます。本質は見ることはできない。本質は太陽のようにあまりにも明るい。そうでしょう?
聖書の中で神様を見た時、みんな目がくらんでしまう。あまりにも明るいから。そうですね。
本質を正確にすべて見ることはできませんが、神様のエネルギーに触れることができます。感じることができます。神様と授受作用することができます。
でも、神様の本質とエネルギーが同じなら、それはできません。
今や、神様の役事と、神様が造られたAIの仮想幻想を見ていることなのです。被造物を見ているのです。神様に直接会っているわけではありません。これは、神様の幻に会うことなのです。
理解できますか?
万有原力思想は古代キリスト教哲学と近い
私たちの万有原力思想が、はるかにエッセンス・エネルゲイア と同じです。正確には同じではありませんが、それでもはるかに似ています。これは道教ではなく、古代キリスト教哲学です。
だから、実はキリスト教の世界ではおかしなことではないのですが、西洋がアウグスティヌス、特にアクィナスを通して、ものすごくおかしくなります。単なる合理主義者たちになってしまいました。
知的で、勉強、勉強、勉強主義の奴らになってしまい、西洋のキリスト教ではこれを理解できません。この万有原力はあまりにも変です。あまりにも異常。これは道教のようだ。道教。
しかし、キリスト教の伝統の歴史を見ると、千年の間にあった二千年の哲学を見れば、神様のエッセンスであるウーシア(ウジア)とエネルゲイアは違います。
道教ではありません。この万有原力という思想は道教ではなく、実は古代キリスト教とはるかに似ています。
だから、私たちがおかしいのではありません。御父様が来られて、単に道教とキリスト教を合わせたのではありません。
御父様がすでに古代キリスト教の神様を体験しているような部分について、すでに万有原力の思想の方がはるかに近いのです。そういった部分において。
道教ではありません。「気」でもありません。なぜ?「気」とは何でしょうか?「気」は人格的なエネルギーではありませんね。
キリスト教の「エネルゲイア 」は人格的なエネルギーです。理解できますか?この違いが重要です。
道教において宇宙の「気」、「気」は、人格的な「気」ではありません。これは宇宙の「ウーウェイ(無為 / Wú Wéi) 」と言いますね。「ウーウェイ(無為 )」。あるいは「イーヤン(陰陽 / Yīn Yáng) 」から出てきて、「無為 」が分離されて陰陽なり、陰陽が八卦によって・・・、とにかくこのようなものがあります。
だから、東洋の道教における「気」の哲学が何かといえば、この「気」には人格がありません。単に私たちが利用できるエネルギーです。
万有原力には人格がある
そうではないですね。
原理において、神様の万有原力が神様から出てくるではないですか。その言葉は、私たちが会うことができる万有原力、自然の中で会うことができる万有原力、それは「気」ではなく、神様の人格的な力です。
これを、わかりますか?ここには違いがあります。道教の気と、私たちが今話している「エネルギー」には違いがあります。人格的な違いがあります。人格。そうですね?
だから、私たちが神様の、例えば、善なる運行(働き)に会うようになれば、それは人格的なエネルギーですね。
何かの「気」、「気」は無人格的なエネルギーではないですか。分かりますか?
少しずつ絵が描けますね。少しずつ説明を聞いてきたから。
だから、御父様は、韓国で道教を合わせてキリスト教を合わせて、このような西洋の宗教学者たちが言うように、私たちは、簡単に言えば、キリスト教・道教・仏教のシンクレティズム教会を行ったと、混合主義、レバレント・ムーンはこのようにしたと、このように言います。
しかしこの万有原力思想は、根本的に道教とは異なります。なぜ?これは人格的なエネルギーではないですか。道教の「気」は人格的ではありません。非人格的なエネルギーです。そうですか?そうではないですか?
だから、万有原力から出てくるエネルギーは、神様、人格神から出てくるではないですか。
だから、これは人格的なエネルギーなのです。そうですね?ただの非人格的な、何かの神秘的なエネルギーではなくて。
分かりますか?それとも分からないですか?これは、面白いですか?それとも眠いですか?。
この問題も、少しずつ理解するようになってきましたね?
だから、こういう役事と、私たちが本当に神様に会い、それでも本質と・・・本質ではなくて、神様に会うことをしてこそ、私たちも神様に会うことができるではないですか。キリストの中にいる者として。
キリストは神の本質も持つ人格
そして、この人たちもキリストに会った時、キリストに会った時、その人も神様の本質を持っていらっしゃる人格ですが、人間の体ですが、キリストは、神様の本質の中を行き来できるではないですか。人間にできないことをできるではないですか。キリストは、存在論的に私たちとは違うではないですか。
私たちと同じなら、それならば私たちも皆、神様の本質に入ったら、私たちも皆、それならばキリストです。
それでは、これはヒンドゥー教です。ヒンドゥー教。分かりますか?
キリストだけが唯一、神様の本質を行き来することができ、私たちはできません。これは、これはできません。キリストは特別です。だから、存在論的に特別な存在です。
だから、キリスト教徒たちはこのような複雑な内容をあまりにも簡単に話すので、私たちを知っている人たちからは、私たちは本当に何も知らない人たちのように見えます。
だから、こういう話をするときは、非常に慎重に、細心の注意を払って話さなければなりません。2000年の伝統を理解して。
ただ「私たちはみんな知っている」それでは、子供たちは去ってしまいます。
子供たちは、私たちが本当に知っているわけではなく、「ただ知っているふりをしているだけだ」。子供たちはみんな分かっています。
面白いですか?面白くないですか?
訓練、修行、精誠!神のエネルギーに続けて触れよ!
しかし、ただ勉強するだけではいけません。
エッセンスとエネルゲイアの違いを理解すれば、「ただ勉強だけでできるのではない」と気づくようになります。
勉強だけではダメで、祈らなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。涙を流さなければなりません。猫頭山に行って血と汗を流さなければなりません。苦行をしなければいけない。
これをしてこそ、神様の恵みによって、神様が私たちにこのような役事を与えてくださることができます。
このような役事を受ける人たちは、次第に変わっていきます。そうですね?次第に神様のエネルギーに継続して触れる人は、ますます神様に似てくるのです。そうですね?触れない人よりも。そうですね。
だから、精誠を尽くす人々、精誠と祈りと苦行をする人々が貴重な尊い人々なのです。
完璧でなくても、私たちは皆、お父様の前では完璧ではありませんね。私たちは皆、罪人です。それでもそのように一生懸命、そのような苦行と辛い精誠をした人々も尊いのです。その努力が尊いのです。そうでしょう、そうではない?
だから私たちは勉学主義のキリスト教ではありません。
私たちは。なぜ?どうやって勉学主義によって心と体を統一するのですか?話にならないではないですか。
心と体の統一は訓練によってのみ心と体が統一されるではないですか。これは勉強ではできないではないですか。これは。
みんな知ってるでしょう?
御父様はただ勉強しながら心と体の統一をされましたか?狂った断食、狂った苦行、霊界を行き来しながらなさったではないですか。
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