2026年9月13日日曜日

トマス主義西洋キリスト教の問題 ◆2026年8月27日.台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<3> 文亨進二代王

トマス主義西洋キリスト教の問題

2026年8月27日.台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<3>

文亨進二代王

監修:fanclub三原

文亨進師 台湾韓国語礼拝한국 목요예배 2026 08 27


(2:31:20) 翻訳clean

西洋キリスト教スコラ哲学、神的単純性の問題


西洋は知的面だけで全て知れば宇宙を知ることができるという馬鹿な思想があるので問題です。体が脳とつながっていることを知らない。

だから西洋のキリスト教をみなさい。運動を強調しない。


東洋の宗教を見なさい。道教では気功をしながら運動しなければいけない。

だからずっと運動し続けなければならない。

東洋文化は、知性だけを知っていてもダメで、体も動かさなければいけない。

これは東洋文化に染み付いている。


おじいちゃんやおばあちゃんたちが、外でこの様な機械に乗っているでしょう。運動して……  ただ東洋の人々には染み付いている。


これは西洋ではあまりにも切り離されている。これ全部、知的に、科学的に、知的に理解しようとしているのです。


これはどこから来たのかというと、トマス・アクィナス、クリスチャンの学説から来ていて、この馬鹿げた考えは、体をあまりにも無視しすぎている、体をあまりにも無視しすぎている。

だから、このキリスト教の学説、トマス・アクィナス、アウグスティヌスも、アウグスティヌスも学説のアウグスティヌスも、えーと、特にキリスト教スコラ主義のトマスは、アウグスティヌスから多くを引用しました。

なぜ?アウグスティヌスは、神の「ウーシア(ウジア)・エッセンス」、神の「ウーシア(ウジア)・エッセンス」が、神の働きと神の本質は一つだ。


アウグスティヌス、アウグスティヌスは、5世紀から6世紀にかけて初めてそれを展開した。そのアウグスティヌスの著作を見ると、アウグスティヌスは極端な、極端な予定論、アウグスティヌスには極端な予定論があります。これ、知っていますか? 

アウグスティヌスには極端な予定論があるのです。


なぜ? 彼自身、神の本質は……ただこれ、ディバイン・シンプリシティ(Divine Simplicity.:神的単純性 ) を一度調べてみてくれ。

韓国語で何だっけ?  神の単純性。 単純性。神の単純性神学です。つまり、神の単純性という点では、神の働きと神の「ウーシア(ウジア)・エッセンス」が同一です。  区別がありません。


つまり、神の本質を見ると、神の愛は神のエッセンスそのものであり、神のエッセンスの中には神の意志もあり、神のエッセンスの中には、善、善なるものも含まれており、栄光も含まれており、光、光、光も、中に含まれており、そうですよね。神の働きと区別しません。


神の働きとも区別しないので、すべての部分が神の純粋な愛、純粋な善、純粋な聖なる心、純粋な義、純粋な創造、純粋な意志、これらはすべて神の本質の中にあります。働きとも区別しません。では、どのような問題が生じるのでしょうか?

神の本質の中にはこの多くの内容が含まれているのです。


神的単純性の問題、多神教

見てください。これ、これ、これ、ちょっと絵を描いてみよう。ここではありません。

皆さん、ここは神の本質です。OK、ここですね?ここ、本質の中には愛もあり、愛が中心、愛の中心であり、また栄光もあり、意志もあり、その次に善もあり、そうですよね。それから何、正義もあり、など、これ、いろいろありますね。


神の本質、ウーシア(ウジア)の中に問題は何ですか?神の本質の中に愛があり、その愛と少し違いがある善ですが、少し区別できますね。

善もあり、意志も愛と完全に同じではないですよね。少し区別できるじゃないですか。

それから、神の知的、それは愛と完全に同じではなく、少し区別される。

これが問題なのです。


そうすると、この本質の中に複数のウーシア(ウジア)があるということになります。複数の本質、複数の神がいるということになるのです。ここの中に。多神教になってしまう。


神的単純性の問題、予定論


つまり、神の本質には愛があり、意志があります。意志を見てみましょう。神の意志が神の本質の中にあれば、その本質は変わることができませんね。それなら、神の意志も変わることができないということになります。

神の意志が変わらないとしたら、それはどういうことでしょうか?神の自由意志がなくなってしまうのです。自由意志が。


なぜ?自由意志であるためには、神様が無から有を創造しなければなりませんね。それがはるか以前からすでにあらかじめ決定されていれば、それは神様が選択なしに無から有を創造したということになります。


それから、同じ瞬間に人間たちがいくら5%の責任分担をしても、神様の意志はすでに決まっているじゃないですか。だから、神の意志と摂理を変えることはできません。人間が何をしても、そうなると過激な予定説が生まれてしまいます。これ、わかりますか? 


過激な予定説の視点。つまり、アウグスティヌスがこの問題を提起し、トマス・アクィナスがこれを展開した。

これらはすべて西洋キリスト教です。カトリック(天主教)とキリスト教の基盤、すなわち最も根本的な哲学的基盤は、エッセンスとエネルゲイアウーシア(ウジア)とエネルギーが一つであるという考えです。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


これはローマ教会やあらゆるキリスト教派の根本的な哲学的出発点です。

これは哲学、特にキリスト教哲学において、私たちはこれを「ペリパティック・アクシオム神的単純性 ))」、西洋キリスト教では「ペリパティック・アクシオム 」と呼ばれます。この「アクシオム 」とは、五感を通じて、私たちの知識にあるすべてのものが五感を通じて入ってくるべきだということです。つまり、これは如何なるにせよ、学説主義となり、合理主義となります。


この五感を超越することはできない。五感を超越することはできない。これによって、この哲学は崩れてしまいます。問題が生じます。

つまり、西洋キリスト教は次第に空洞化しつつあるのです。

根本的な部分に問題があるから。


つまり、ある結論が出れば、神の本質とエネルギーが同じであるため、意志も同じになるわけですから、自由意志もなくなってしまうのです。


神的単純性の問題、神の御業を見た者が神になる


その次に、神が役事をなさるとき、それも偽物です。

その西洋キリスト教やカトリック(天主教)、トマス主義哲学における神の、聖書にあるすべての役事、皆さん、モーセの燃える荊の役事、目に見えない役事、今日私たちが学ぼうとしていた使徒行伝第2章、使徒行伝第2章を見てみましょう。使徒行伝第2章…

オーケー。えっと、ペンテコステの前日、オーケー、一度読んでみて。オンマ。

ペンテコステの出来事がやってきます。見てみましょう。


[使徒行伝2章1節です。]

五旬節の日が近づくと、彼らは皆、一か所に集まっていた。すると、天から激しい風のような音がして、彼らが座っていた家全体に満ち、まるで火の舌のように分かれるものが彼らに見え、

 火の舌のように、分かれるものが彼らに見え、

一人一人の上に一つずつ降りてきた。

この役事、覚えていますよね、これ。このような役事も、西洋キリスト教の立場からすれば、エッセンスやエネルギーが同じだから、このような役事はすべて同じで、偽物なのです。

すべてAIのような仮想の幻想です。


なぜ? 神の働きとエッセンスが同じだからです。同じものですね。

つまり、神のすべての役事は本質そのものなのです。


だから問題はこれなのです。もしこの役事が、火の役事、舌が分かれる火の役事が現れたら。そうですよね?これが神、神、神のう役事だと言うなら、神の本質とエネルゲイア 、働きが同じだから、私たちが出会うその炎が、火の役事が神の本質になるのです。

わかりますか?


なぜ?神の働きの本質が同じだから、西洋キリスト教のトマス・アクィナスやアウグスティヌスの思想では。

理解できますか?

つまり、この御業において、この人たちは神の本質に出会ったのです。


問題は何か?神の本質に出会えば、あなたも神だ。神の本質、神の本質に出会うと、神の本質とはどういう意味かと言えば、神そのものです。


ですから、私たちが神の本質の中に入り、神に直接出会えば、私たちもここに入ったわけですから、私たちも神になる…… これは狂ったサタン主義です。 狂ったサタン主義。


神的単純性の問題、神の御業は幻想創造物


ですから、これを避けるために、西洋のキリスト教ではどう言っているか? トマスはどう言っているか?

 こうした内容や歴史は、神の本質ではなく、これは神が創造されたもの、つまり神が創造された仮想の幻想だ。


その言葉の意味は何か?使徒行伝に出てくる、私たちが考える神の役事は、それならこれは偽物だということです。神に直接出会う役事ではない。これは神が作り出した幻想に出会う役事になってしまうのです。

これが、分かりますか?


つまり、この言葉は何を意味するのでしょうか?神は永遠に遠い存在です。私たちと神は出会うことができません。私たちが出会えるのは、神の仮想や幻想だけです。

分かりますか?これは問題です。


西洋のキリスト教の根本的なエッセンス、エネルゲイア が同じだと言われるように、結論として神には出会えません。触れることもできません。私たちには、神には、神には出会えないのです。


この「神の役事」に出会うということは、神の被造物に出会うということなのです。理解できますか?

なぜ?神の本質に出会えないから。


これについては西洋のキリスト教も知っています。神の本質に出会えないことを知っています。ですから、それを回避するために、「ああ、それならこれは神の働きではなく、神が造られた被造物の幻想や仮想に出会う瞬間だ」と、このように言うのです。


一度、写真を調べてみてください。これ、ちょっと複雑すぎるから、みんな集中できないんでしょうね。文章だけ載せているから。写真で見てみましょう。写真。ああ、そうそう、それの上にあるやつ、OK。ちょっと大きくしてみて。それだけが見えるように。

この役事がエッセンスとエネルゲイア 、神のエッセンスとエネルゲイアが同じなら、この役事におけるこれらの炎、これが本当の神のエネルゲイアだとしたら、問題は何か?神のエネルギーとエッセンスは同じですよね。西洋のトマス・アクィナスの思想において。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


つまり、この方たちは神のエッセンスとエネルギーが一つだから、神の本質に出会ったと言うのです。もし神の本質に出会ったら、あなたも神です。あなたもここに入っているということです。分かりますか?

だから、この問題、この哲学的な問題を避けるために、カトリック(天主教)では何というかと言えば、「ああ、これは神の本質ではない。私たちは多神教ではない」と言うのです。そうですよね? 

(2:46:18) 翻訳clean

これは神の本質ではなく、神が創造された特別な幻想、仮想だ。

この経験を与えるために。わかりますか? 


これが仮想や幻想であるから、問題は何でしょうか?

 これらの人々は神に直接出会うことができないのです。仮想や幻想にしか出会えないのです。つまり、神は永遠に遠い存在なのです。

聖書とは全く異なる神が現れるのです。聖書では、モーセにも神が直接現れたじゃないですか。モーセは神の背中を見たじゃないですか。

背中、顔は全く見えないし、光があまりにも強すぎて顔が見えないけれど、それはどういうことか?

神の本質が見えないじゃないですか。でも背中を見せたじゃないですか。背中ですよね?あ

あ、だからこういう哲学的な問題、トマス アクィナスやアウグスティヌス哲学の問題は、エッセンスとエネルゲイア が合致すれば、多神教問題が生じ、さらに神を体験できるという問題も崩れてしまうのです。


正教会、東洋キリスト教は神の御業をエネルギーと理解する


でも東洋のキリスト教では、東洋ではエッセンスとエネルギーが別ですね。分離されているじゃないですか。エッセンスとエネルギーが違います。

ですから、東洋キリスト教におけるこれらの内容は、神のエネルギーなのです。


つまり、ここが神の本質、ここが太陽だとすれば、ここが神の本質であれば、ここから放出される二つのエネルギー、使徒たちはそのエネルギーに直接触れているのです。直接。その神の本質には触れていませんが、キリストだけが神の本質に触れることができます。


しかし、神の本質に触れているわけではなく、神のエネルギーに触れているのです。つまりどういうことか?使徒たちは実際に神を体験しているのです。

でも、神のエネルゲイア 、エッセンス、ウーシア(ウジア)、本質ではなく、神のエネルゲイア、ここから、ここから出てくる日光ですよね?日光。

ここが太陽なら、日光。使徒たちは直接、神の日光を感じているのです。


これは幻覚じゃない。これは仮想じゃない。これは本物の神の日光なのです。わかりますか?

 日光のような、日光のような、エネルゲイア。


つまり、聖書をヘブライ語で読むと、悪魔たちにもエネルゲイアがあり、神にもエネルギーがあるのです。26回以上出てくるのです。


あの邪悪な連中にもエネルギーがあるし、神にもエネルギーがあるのです。

私たちの問題は、邪悪な悪魔たちのエネルギーに嵌ってはならず、私たちは神のエネルギーを絶えず追及していかなければならないですね。


キリスト教合理主義、勉学主義の問題


こういうことをするから、西洋のキリスト教がこれを融合させると、こういう根本的な問題が生じるのです。

つまり、西洋キリスト教がそういうことを、自分でも気づかないうちにそういう結論が出てしまうから、とんでもないシステムや、とんでもない予定論、とんでもない、本当に論理に反する馬鹿げた内容が出てきてしまうのです。


でも、本来キリスト教はそうじゃなかったでしょう? ずっと豊かだったのです。

哲学的に考え、ずっとよく考えていたのです。


ところが、アクィナスやアウグスティヌスから始まり、アクィナスが中世にこれを大いに発展させました。

そうして、これがキリスト教合理主義哲学やキリスト教学主義の神学となり、西洋はただひたすら「勉強主義」、勉強主義の神を、ああ、勉強を通じて、五感を通じて私たちの知識の中にすべて入ってくるから、神を学ぶ、学ぶべきだ、と。

ただ学ぶこと、勉強主義になってしまった。


訓練!修行!精誠!神の本質を体験することが重要


勉強主義だけになってしまったから、西洋のあらゆる関係が崩れてしまった。

関係が崩れた。

神のエッセンスとエネルギーを理解しなければならない。

神を知ることが最も大事なのではなく、神を体験することが最も重要なのです。

知ることよりも、神のエネルギーに絶えず触れ続けること、それによって関係が深まることが、この方が重要なのです。


単なる勉強よりも。

つまり、つまり精誠が大切だ。だから、断食が大切だ。なぜ断食に、何か知的な効果があるというのか?苦行だ。辛い苦行。辛い苦行?何か知的な効果なんてあるわけないでしょう。これに。


西洋のキリスト教はあまりにも知的、知的主義になってしまって、今では完全に水が枯れてしまいました。関係もすべて崩れ、キリスト教も破壊され、カトリック(天主教)も今や完全に、左派になってしまっていますね。カトリック(天主教)も。すべて知的主義です。


古代キリスト教は知的主義のキリスト教ではありませんでした。彼らは、精誠も尽くし、私たちは正教会のように、敬礼の精誠も沢山尽くすではないですか。

東洋の人々のように、敬拝の精誠もして、一日に七回の修行、そして断食も100日断食、こうした狂ったような修行もたくさん行って。


なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ?神を知るためではなく、神を体験するためです。 神の、神の本質を体験できるのでしょうか? 

いいえ、神のエネルギー、それを体験できるようにし、聖人たちは神のエネルギーに近いから、彼ら自身も次第に神聖になっていくのです。

神のエネルギーに絶えず触れているから、自分も次第に神聖になっていく。そうですよね? 


だから、私たちのキリスト教思想やカトリック(天主教)の思想において、二代王様が2万千拝、信俊も1万2千拝といった、こんな精誠は役に立たないバカげたことだ。

キリスト教では、こういうことを迷信だと言うのです。迷信 そう、そうでしょう? 迷信という。迷信。


なぜ、千拝、万拝そんなことしない。 どうして西洋キリスト教のシステムでは、神を知的に理解しなければいけない。


だから聖書の勉強を続けたり、読んだり、勉強、勉強、これは勉強主義だ。勉強主義、勉強主義。

だから、こういう精誠で、神様の心を変えられたりとか、そんなこと無理でしょ。特に予定論で。


こいつはいくら敬拝しようが、精誠を尽くそうが、神様はすでに予定をすべて決めてるでしょ。そうですよね?関係ありません。

実際。神様は既に地獄に行く者たちを決めておられ、既に天国に行く者たちもすべて決めておられる。太初から。


なぜ?神様の創造の行動と運行は本質と一つだから、本質を変えることはできないじゃないですか。それなら、その言葉は運行(働き)を変えることはできないということです。同じだからです。それなら、その運行を変えられないから、予定論になってしまうのです。

分かりますか?


これはひどい。つまり、西洋キリスト教の問題と、今、西洋文化が崩壊しつつある意味がすべて見えてくる。この哲学から始まっている。この「勉強主義」の神学が人を傲慢にし、人を訓練させず、人はただ、神についてすべて知ることができると思い込み、人間関係を台無しにしてしまう。


ディバイン・シナジー(共働)、神とともに摂理を成す


だから、古代キリスト教ははるかに「原理」に近い。

なぜ?私たちは神と授受作用すると信じています。でも、神と授受作用する時、もし私たちが神の本質と授受作用することになれば、私たちも神だということです。そこが問題なのです。


では、私たちはどのようにして神、真の神、神の幻、神の仮想と授受作用するのではなく、神の本質とは別に神のエネルゲイアを理解すれば、神と授受作用できるのです。私たちには自由意志があり、神の意志による予定論ではなく。

 *注)日本語正式表記=エネルゲイア、韓国語、英語の発音はエネルギア


なぜ?人間が神と共に、摂理を作り上げなければならないから。これは予定説ではありません。

私たちも、私たちの5%として、神の摂理が実践されるのです。だから私たちも5%含まれなければなりません。そうですよね?


これは、これは正教会の神学にはるかに近いものです。正教会の神学では、これを「ディバイン・シナジー」と呼んでいます。人間が神とシナジーを成してこそ、神の摂理は進んでいくのだと。彼らはこれを信じています。

西欧のキリスト教はこれをあまり信じていません。


ですから正教会では「ディバイン・シナジー(共働)」という哲学もあります。私たちと全く同じというわけではありませんが、私たちは95%や5%といったように区分してこれを定義しようとしていますが、似ています。古代のキリスト教とはるかに似ています。


これは道教じゃない。これは道教じゃない。西洋の愚かな博士たちや学者たちは、いつも御父様を道教や韓国文化、道教とキリスト教を混ぜ合わせて「統一教」を作ったと言います。私たちを迫害しながら。

これは道教思想じゃない。これは古代キリスト教の思想です。道教じゃない。

神の万有原力は道教じゃない。神の万有原力、つまり神のエネルギー、古代キリスト教のエネルギー思想にずっと近いのです。ずっと近いのです。


トマス神学では神との授受作用は神に出会えることになる


わあ。だから、私たちはどのように神と授受作用しますか? 神と授受作用する中で、もしこのエネルギーと本質が同じなら、神の運行(働き)と本質が同じなら、皆さん、神の運行は、愛、善、えっと神の御心、神の正義、神の光、神の栄光といった内容に出会うべきなのですが、もしそれが本質なら出会えません。


聖書では、こうしたものに出会えると書かれていますね。 

神の愛に出会えると書かれていますね。

神の恵みに出会えると書かれていますね。

神の御心に同参できると書かれていますね。

こうしたことはすべて授受作用できるじゃないですか。


でも、私たちがトマス神学に従うなら、私たちは出会えません。もしこれらの内容がエッセンスやウーシア(ウジア)、エネルギーが同じであるなら、それに出会ったとき、私たちは神のエッセンス、ウーシア(ウジア)と出会っていることになるので、私たちも神になってしまってしまうのです。


そうなれば、これは完全な異端、サタン教、多神教、ヒンドゥー教だ。ヒンドゥー教は、この問題を引き起こしていますね。ヒンドゥー教は修行をたくさんすれば、誰もが神になれる、みんな神だ、神に出会える。ブラフマンに出会えば、あなたも神になる。ヒンドゥー教はこの結論に達します。 


統一教は「神の本質に会った」というヒンドゥー教神学


だから統一教の信者たちはこの哲学をよく理解できていません。これを理解できないから、多くの統一教会員は、自分たちもこっそりと「神の愛」に会えば、それが神の本質だと。


このように簡単に言うから分からないのです。分からないけれど、神の本質に会えれば、あなたも神です。それならこれはヒンドゥー教です。ヒンドゥー教だ。あなたとキリストとの間に違いはないということになります。

キリストだけが神の本質に会われたじゃないですか。キリスト。

あなたも私も、皆が本質に会えるなら、キリストは必要ありません。それでは君は異端サタン教になってしまいます。

これ、理解できる?


統一教会員は、この哲学を理解できないのです。

これは、これは、問題ですね。だから、ここを理解しなければいけないのです。


つまり、私たちは神の本質ではなく、キリストだけが神の本質に出会われた、イエス様だけが神の本質に出会われたので、私たちは神の本質に出会えないのです。だから、私たちにはキリストが必要です。そうじゃない?

だから私たちには必要だったのです。


キリストのみが神の本質の中にある


でも、私たちが出会える神とは何でしょうか。神のエネルギーです。ここが太陽なら、太陽から出るこの火、炎、これらが、このエネルギーに出会ったということです。それも、それも神様から出たものじゃないですか。それも神様に出会うことですね。

でも、神様の本質ではありませんが、ここにある神様のエネルギー、分かりますか?エネルギーです。

(3:01:06) 

ああ、それなら私たちは神様と授受作用できます。

そうすれば、私たちの5%も神様の95%とつながることができます。シナジー(共働)することができます。


なぜ?神の本質を私たちが直接受け入れると、私たちが神になるということです。

ああ、キリストだけが神の本質の中に入られたのです。

夜の神、昼の神、御父様と区別しますね。御父様だけが夜の神の中に入ったり出たりするのですね。

私たちは皆、昼の神から来ています。違いがあります。


西洋キリスト教のトマスシステムを信じているので、エッセンス、ウーシア(ウジア)とエネルゲイアが同じだと考えているので、そこで問題が生じるのは、自由意志も失われてしまい、予定論があまりにも強くなりすぎて、予定論が結論となってしまい、その後、使徒たちや信者たちは、このような役事に直面した時、これらはすべて幻想だと思ってしまうのです。

神の本質に実際には出会えないので。


彼らもそれを知っています。ですから、それを避けるために、「私たちは神の本質には出会っておらず、神が造られた被造物である幻想を作り出しているのだ」と考えさせられてしまうのです。


問題は、もしこれが幻想であるなら、私たちは永遠に神に触れることができないということです。

神とは関係を持てません。幻想だけで、神が造られた被造物として、創造主ではなく被造物としての関係しか持てないのです。

分かりますか?


これをエネルギーとして見れば、授受作用になります。エネルギーとして見れば、本質が、キリストだけが本質の中に入ることができます。

それも保管できます。それも保護できます。御父様の位置も守られています。


私たちは皆、キリストになることはできません。私たちは皆、本質に触れることなどあり得ないのです。御父様だけが神の本質を知っている、そうでしょう? 

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