2023年4月1日土曜日

韓国青年たち50、冬の修練会質疑応答 ◆ 天一国妍雅二代王妃◆ 2023年2月24~26日 華陽韓国青年修練会

 韓国青年たち50、冬の修練会質疑応答1

天一国妍雅二代王妃

2023年2月24~26日

華陽韓国青年修練会


王妃様インスタグラム:


翻訳grazia

*質問者A

私たちが修練会で聖書について少し学ぶ時間がありましたが、実際私たちがそれを、直接家庭内で、現実に聖書に対した時になじみがないという感じがして、いつも修練会では聖書より原理が中心でしたから、それをまた家庭の中で聖書をより身近に置くことができるかが少し悩んでしまいます。


王妃様:

子供たちの成長発達を見ると、三つに区分することができると思います。0~7歳、7~12歳、13~19歳、このように分けることができるようです。ですから、幼児期、幼年期、青少年期の三つの時期に分けられると思います。幼児期には、7歳までは聖書のお話の本があります。


ダビデ王がこのようにしてゴリアテを捕まえた。このような話がありましたね? イエス様が自らぶどう酒を作られた。こんなお話もありますよね? そのような聖書のお話を中心にしてあげると良いですよ。そしてそれをもう少し、子供たちが大きくなって分かるようになれば、例えばブロックなどを一緒に積みながら「ところでエリコ城に行くと、兵士たちが来た時に城壁ががらりと崩れたんだって」と言いながら子供と一緒に積んでいたブロックを崩してみるんです。「これがただ何もないのに崩れるわけはないのに、神様の力で崩れたのよ」このようにして子供たちに相互作用的に聖書のお話を教えることができればいいですね。


幼年期には、普通信仰的な面で箴言を教えなさいと言います。箴言では善悪について多くのことが出てきます。ですから多くの人がまるでこのコップと似ています。外側はとても綺麗なのに中を見るととても汚れています。でも、人は外側だけ見るというのです。

幼年期には嘘をつくことができます。「宿題した?」「あ、宿題。したよ、したよ」と言いながらゲームばかりして宿題をしませんでした。でもお母さんはそれを信じてしまいます。このようにして子供たちは表と裏を別々にすることを知るということです。幼年期には、それだからその時から悪人の姿はどんなものか、善人の姿はどんなものか、箴言ではとても具体的に話しています。

「賢い人は自分が分かっても口をつぐむが悪人たちは自分が分からないことももっとたくさん言いながら失敗を犯してしまう。」このような事がずっとでてきますからね。こういうことを勉強すると良いですね。


青少年期には、小預言者書、大預言者書を読むのが良いと言います。それを見ると、修練会で聖書のことを学んだと仰るので、旧約は17冊、5冊、17冊、このようになっていますね。17冊は歴史で、5冊は文学、17冊は先知者書・預言書から成っています。ですからこの預言書17冊を読めと言うのです。何故なら青少年期には怖いものがありません。怖いものがなく、何でもできるように感じます。なのでラインが不明瞭です。そして、自分が何かをした時にそれがどのような結果を見出すかを感知することができません。何故かというと、前頭葉がまだ発達していないからなのです。そういう訳で子供たちは失敗が多く、自分が後始末できないようなことも数多くします。


とても良くないケースでは、「私はこの男を愛している」と言いながら10代で妊娠する、そんなこともあるでしょう。その子供には愛だったかもしれません。でも子供ができるという結果が出るとは考えもつかないのです。小預言書や大預言書にはどのようなことが出てくるかというと、あることをするとそれ相応の結果が出る。これを青少年期にたくさん学ぶのです。


そして、二代王様が強調されるキリスト教弁証論、何故無神論が間違っているのか。

私は最近韓国のユーチューブを見たら、ソウル大図書館で一番多く借りていくのが、リチャード・ドーキンスの“利己的遺伝子”という無神論の本だと聞きました。

この青少年期には、特に無神論、有神論を多く、神様はいるのかいないのか、こうしたことで悩む時期でまた知識的に悩むことも多いです。事実、人生の苦痛の中での質問というよりは知識的な「え?無神論のほうが合っているような気がするけど?無神論のほうがより論理的だ」このように知的な面が多いので、有神論・無神論についても両親が無神論の本なども読んでみて、子供に何故これが間違っているのかという話をしてあげられることが重要だと思います。青少年期にはそのように… そのようにすればもう少し楽に接することができるのではないかと考えます。



*質問者B

祝福の適齢期が気になります。


王妃様:

祝福の適齢期は、これはちょっと、ご両親たちは私と同じ考えではないかもしれません。家へ帰って、「ヨナ様から変なことを教えられた」と言わずに… どういうことを言ってあげたいのかというと、私は信仰の目的が祝福であってはいけないと考える者です。どういうことかというと、ある方が孝行祝福という表現をしたのですが、それがどれほど可笑しかったか… 孝行祝福という表現をされていたのです。ご両親に親孝行する為に祝福を受けた。そのような表現を孝行祝福というのだそうです。それで私がとても笑ったのです… 


皆さん、孝行祝福はいけません。何故なら孝行祝福を受けると、その祝福が自分のものなのかが分かりません。そのような悩みのために私がいつも言うことは、“祝福を考える前にまず自分が、神様が居るのかいないのか”そこから勝負をつけなければいけないと考えるからです。

その問題について自分が戦わなければなりません。ただ「私はあの女の子が好きだ」又は「あの男の子が好きだ」そのようにして受けるようになればそれも悪いとは思いませんが、何か問題が起きると…良い時は大丈夫なのです。でも問題が生じた時に、夫は「俺が王と祭司長じゃないか、妻を引っ張らなければならない…」妻も女性の立場から「そうだ、私が王妃と伝道師の立場なのだから。夫を助け、牧会者として祭司長としての夫を助けてうちの息子を伝道しなければ」という、この位置を理解することができません。


ですから私は、祝福を受ける前に信仰の戦いをしてみることをお勧めします。それをしないで祝福を受けてしまうと“私は誰なのか“ “祝福とは何なのか” “人は、宗教はわたしを利用しようとしているのではないか” “今回の目標の12双を全うする為に私を数に入れようとしているのではないのか“ このように混同してしまいがちですが、このようなことが何故でてくるのかと言えば、自分が本当に神様がいるのかいないのか、自分が神様がいないと考えるなら自分はどういう生き方をするのか、このようなことも考えてみなければなりません。


「そうか、OK! じゃあ私は神様がいない生き方をしよう」そうすると、それはどのような意味でしょうか。それも本当によく考えてみなければなりません。

神様がいないということはどんなことなのかと言えば、皆さんはみな宗教コミュニティの中で育ちました。好もうが好むまいがそうなのです。ここで生まれた方達でしょう。

1世の方もいるかも知れませんが、ここに来られる位なら目上の方のそのような…お父様が再臨主だと信じるコミュニティの中で同じ信仰を持っている方の影響を受けながら育ってこられたと言うことです。


ですから、みな神様を信じる人たちの傍で育ってきたということです。それを“私は神様を信じません“と考えられるなら、私はこの先どのような決定をしながら生きるのか。多くの無心論者が「いや、無神論を信じてもとても倫理的に生きることができる。神様を信じないからと言って倫理的に生きられないわけではない。」このように言います。「我々は約束すれば良い。強姦は悪いことではないか。だから強姦はお互いしないように約束すれば良い。」これはとても一理ある言葉ですね?でもやっぱり無神論ではこの言葉は言うことができません。

“強姦がそれ自体が悪いことだ。” このように言うことができません。わかりますか? “強姦はそれ自体が悪だ。” “妻のことを腹が立ったからといって叩くこと、それ自体が悪だ。” このように言うことができません。ではどのように言うのかというと、“夫人を叩くのは夫婦の、家庭の形態の一番理想的な方法ではない。“このようにいうことはできます。

ですが、今回二代王様が出されたビデオ、Shotgun and Shells というビデオを作られたのですが、そのビデオの内容が何かというと2人の同性愛者が、勿論無神論者でしょ。その同性愛者がキリスト教孤児院から養子を迎えます。子どもを2人養子にしました。5歳と3歳です。養子にした2人の子供を連れて、人権について論じます。「私たちはこのように愛らしい同性愛夫婦です!」そのようにして一生懸命活動をしていました。

ところが、後で判ったのですが何年間もその子供たちに常習的に強姦をして、それだけでなくその子供たちを自分の友達に回しました。回して強姦をさせました。これはどうですか?この話を聞くと悪だという思いが湧くでしょう。更に外に出てどのようにしましたか?

「私たちは愛らしいゲイカップルです。このようにTシャツもあります。」「We love my pedo. We love my family」このようなものを見ると“悪だ”と感じるでしょう?

しかし無神論の立場からはこれを悪だと言うことが出来ません。“人間の共同体で生活するにおいて人類発展に良くない行動だ“ということは出来ます。が、悪だとはいうことは出来ません。何故なのか分かりますか? 何故なら神様という基準が無いからです。

ですから、神様という基準が無いと何が悪で何が善なのか私たちは知ることが出来ないのです。私たちが好む好まないに関わらず。


そのため、神様がいるということは絶対的に善の基準がありその善の基準に合わせて生きる事を言うのです。


ある時には、これが嫌でしょう。男性たちは1人の女性だけと暮らすことは、「何?何故たった1人の女性と暮らさなきゃいけないんだ?」「自分が稼いだお金を何故分けなきゃいけないんだ?自分で稼いだのに…」女性たちも「私が何故そうしなきゃいけないの? 私はまだ綺麗よ。40歳だけどまだまだとっても綺麗よ」と考えるかもしれません。でもそれは違うでしょう。それは神様が作られた構造ですね。


何故、人がトランスジェンダーになるのですか?

何故なら自分がとても女でありたいのです。とても男でありたいのです。ところが結論は何かというと、神様がそう作られたのが嫌なのです。そして取り替えたくて。でも自分がそれを感情的に、とにかく自分が神様の位置で…  


あ、おばさんが言葉が多すぎましたね… ええと… 質問が何でしたっけ?(祝福して適齢期について…)ああ、祝福して適齢期について答えていましたね。おばさんってこうなのよ、ごめんなさいね。


祝福適齢期とは自分が神様を喜んで受け入れられる時が良いと考えます。でもとても抽象的じゃないですか? それなら私は50歳の勧士様になるまで祝福を受けられない。こんなふうになるかもしれないでしょ? ですから私はこのように考えます。祝福適齢期は相対祝福を私が本当に嬉しく思って、ただお母さんに言われて修練会に来るようなものでは無く! そのようにしたらいけません。孝行祝福をしてはいけません、皆さん。そういうことではなく第一祝福、第二祝福、第三祝福を守る事ができるそれを喜べる気持ちがあれば良いと私は思うのですが。


第一祝福は、第二祝福の訓練だと私は思います。私に本当に大変なことや難しいことがある時「神様、どうしたら良いですか? お父様私は本当にどうしたらいいのでしょうか、私は本当によく分かりません」このように神様に、疑問があるとして自分が謙遜な姿勢で尋ねることができるのか、神様に質問しながら神様とともに答を探したり、ある時は答えをなかなかくださらないこともありますが、それでもそんな姿勢ができているのか。それが第一祝福だと私は考えます。


そして2番目、第二祝福は… 第一祝福は生育し、そこで普通私たちが個人のレベルだというではないですか?

神様との1:1の関係…そしてみ言葉と神様に祈祷することを通して成長する段階。2番目、夫婦関係では夫婦の日を根気よく続ける事を推薦します。私がこれをしようと決めなければなりません、祝福を受ける前に。夫婦の日を一週間に一度持つことは本当に大変なことです。一週間に一度することが出来ましたか?(はい、少しは…)この方達は新婚ですね。皆さん、信じてはいけません。(笑い)私が50年以上をともに生きてきて一週間に一度夫婦の日をして、子供が、はじめの子が3歳になった時から子供の日をしてあげること。私がそれをやるということを決心するのです。


そして3番目は、万物を主管せよ。この部分から私と私の家庭だけではなく私の共同体の必要性を感じ、その共同体に十分の一条をするのです。このような3つが、私がこの訓練を受け入れて私が一生懸命していこう、そしてその中で私が神様とともに成長していこう、そのような気持ちがあれば祝福を受けることが… まだ神様がいるのかいないのかよくわからない。でも私はやる、やってみたいし私は学んでもっと神様のことを深く知りたい。そんな気持ちがあるのなら、そのような善なる意志があるのなら私は祝福を受けることを推薦いたします。(拍手)



*質問者C: 

理想的な対象を見つけたければ、どんな準備が必要ですか?


王妃様:

質問をされた方は何歳ですか?(24歳です)とても良い時期ですね。皆さんは理想的な対象を見つけたいという時に、その言葉はどのようなことかというと… 私が質問者の方を攻撃しようとしているのでは絶対にありませんよ。私は普遍化して一般化して話すのです、誤解しないでくださいね。

何故なら女性の方たちにはこのような考え方があります。わたしのレベルに合わない“いくら考えても私との釣り合いがとれないんだけど…私は7よ、7!  私は8! この男性は5なのに!” このように考えます、簡単に言うと。“男は5なのに、私がおかしいの? だったらもう少しだけ待って、私は5と結婚するなら1人で暮らすわ” 

女性たちはこのように考えます。  これは質問をした方だけでなく大部分の女性たちがそうなのです。少し難しい話ですか? 20代の娘さんたちは共感できると思います。惨めなダブルより華麗なシングルがマシだ、こういう話でしょ?


だから女性たちは、私も含めて言うのですよ。女性たちは、自分より低い人と結婚するくらいなら、“この男は背も低いし私より能力もそうだし、これ以上稼げそうにないな” これではこの方はバツです。“私はいっそ祝福を受けない方が良い”このように考えます。祝福ではなく結婚をしない方が良い、こんな考え方ですね。この時には祝福さえも考えもしません。


結婚と祝福は違います。祝福は神様の内で受けるものです。そして結婚は私がこの男が好きでするものです、そうでしょう? 私がこの男が好きだからするのが結婚で、祝福は私が神様の内で、私も罪人だし、この人も罪人だけど私も問題が多い人間だということはわかる。わかるけど神様のみ言の基準があるから、そのみ言葉に私を合わせて従順に従いながら行こう。このようにすることができる心、この心から進み出ていくのが祝福です。だから、違うのです。

でも、大部分の20代は結婚と祝福の見分けがつかないようです。なので私があからさまに若い女性たちがどのように感じるのかを話すのです。でも、“じゃあ私は受けない” このようにも多くの人が考えます。それで、これはとても難しい部分なのです。


理想的な男性に出会うにはどうしたらいいですか? 私の考えでは、自分のレベルを知らなければならない、です。ごめんなさいね。(笑い)

理想的な男性に出会うためには女性たちは自分のレベルを知らなければなりません。

私が何なのか知らなければ。私がさほどよくもないのに、私はかっこいい男性を望んでいるのではないか? 背が高くてハンサムで、よく稼いで能力もあって… 

では私はスラリとして羽振りの良いスーパーモデルなのだろうか? これを考えなければなりません。私がそのような理想的な男性に果たして釣り合うだろうか? 私は高校でテニスをしたけどうまくできなかった。試合にも出られない大したことない選手だったのだけど。それでも果たしてテニスの世界代表は私とテニスをしたいと思うだろうか? したくないでしょうね? これを考えなければなりません。


このように言うと、ヨナ様は礼儀知らずだと思うかもしれないけれど、私はそう考えます。多くの女性が自分がどのレベルなのか分かりません。それだから祝福が難しいのです。後からでは本当にもっと難しくなるのです。年齢が高くなればなるほどもっと難しくなります。

“私はそんなこと関係無いわ、私は30代でも肌もピチピチだし綺麗だもの! ”  こう言うこともあるでしょう、でもそれは芸能人の話です。私たちは芸能人ではないでしょう、私もやはり同じです。私たちは一般人です。芸能人たちはどれほど塗りたくるでしょうか。あれは名前をなんと言ったかな?  ウルセラと言ったかしら、とにかくありましたね。それ、1000万ウオンだったか。それを一般人がどうやってするんですか? 交通費、食費と家賃を払わないといけないのに、それを顔に塗ることなんてできないですよね?  それは出来ません。それは綺麗な子たち、芸能人たちの話で、私たちは一般人です。一般人は… 


女性と男性では少し違いますね。男性たちは30代前半くらいになるといくのです。嫌なら仕方がありませんね。嫌でも、私たちは“でも!”というかもしれませんが、そういう言葉が出そうになったら周りを見てください。


私に問い詰めたければ問い詰めても良いです。でも、27、28を過ぎると難しいのです。綺麗なお嬢さん達でも難しいのです。それで私がどうしたらいいでしょうか? “さあ貴方! 祝福を受けなさい!” このように言ったら祝福を受けるでしょうか? お母さん達はよくこのやり方を使いますが、それではいけません。


私は私の娘が祝福を受ける時にそのようにはしませんでした。聞いてみてください。私の娘に。嘘じゃないですから(笑) アメリカにもし来られるなら聞いてみてください。私は自分の娘が準備ができたと考え、自分がしたいと言ったので送ってあげました。絶対に孝行祝福を受けなさいとは言いませんでした。勿論推薦はしました。でも、(横の人をつねるマネをされて)“ちょっと〜!“ このようにはしませんでした。(笑)ですから、こう考えます。娘さんたちは、27歳前が良いでしょう。嫌でも“私は完全に例外だわ“と言うなら… 私は… どうしましょうか? どうしようもありません。それは自分で決めなければ。


ですからどのように理想的な夫に出逢うのか?  私がある恋愛コーチの動画をみたのですが。

みなさんがこのような質問をとてもたくさんなさるので、私も勉強をしなければならないではないですか? 私は勉強をする人なんです。それで、恋愛コーチのユーチューブを熱心に見てみました。そしてその人の言葉が一理あると思ったのですが、なにかというと…あ… これをいうと私を恨めしく思うかもしれませんが。その方は顔を隠して話をしてしていました。危険な話だからです。


自分がある信頼出来る人に、信頼できる目上の方か、自分を本当に愛して自分のために心配してくれる人に、祝福を紹介してください。その方と祝福を受けろということではないのですが、祝福を紹介してください。と言って紹介されると、男性の相対者が出てくるでしょう?  そうすると気に入らないのです。その方がマッチングをして下さり相対が現われました。けれどもその人が私のレベルではない場合がとても多いというのです。それで私が “あ、この人はとても斬新な人だ、顔を出しては言えない話なんだな”と思いました。それでもし祝福について真剣に考えるなら、私のレベルを知りたいならそうしてみるのもいいとい思います。(拍手)


拍手をしなくて良いです、しなくて良いです。外に出てからもたくさん拍手をしなければならないのだから。うちの子供たちも、お母さんが一言言ったからと“お母さん、いいね”と拍手をしたりしませんよ。どうしたらお母さんの論理を打破できるか、このようなことを一生懸命勉強します。この頃は息子が哲学をそれはたくさん勉強したのでとても頭が痛いのです。ついて行けないんです。哲学をとても沢山勉強して。


ん…ここまでで、質問をされた方が答えに満足してくださったら良いのですが。私が少し無礼に、伝統的な答えを出したのでは無いということはわかっています。それでも、私が“みなさんが理想的なパートナーに出逢うためには信仰を育てて祈祷もして…“ このように言うことはできないではないですか。そんなことはもうすでに知っているでしょう、そうでしょ? 

だから私はもっと役にたつようなことを言ったのです。そう… よく考えてみて下さい。


ほかに質問したい方はいますか?


↓翻訳fanclub三原

*質問者D

私はだんだんと生きていく中で、とても大きな悲しみが押し寄せてくることがあります。 そうすると、一人で悩んでいると、一体どうしなければならないのかわからなくなります。 

ですから最近は、私が一人で悩んでいるのか、これを一緒に悩んでくれる人がいたら良くなるのか、という思いで、祝福を受ければ、もしかしたら大丈夫なのかという考えもありますが、それはちょっと利己的ですよね? 

それで、このような考えで祝福を悩んでもいいのか、それとも、もし大きな悲しみが襲ってきたらどうしたらいいのか、答えを教えていただけないでしょうか?


王妃様:

それは、私が答えを出す代わりに、薬を出してほしいわね。 薬がないわ。 そんな薬が......悲しい時に飲むと治る薬があればいいのですが......あ、でも、これは冗談よ、ごめんなさい。笑えなかったですね、


今何歳ですか? (28歳です。) 

人はね、もともと利己的なのです。 だから私がもの凄く利己的な考えをしていませんか? でも、私が思うには、祝福だけでなく、他の部分でもそういう考えをしているのではないですか?そう考えました。


「ああ、私はあまりにも利己的ではないか?」そんなことを考えたことがあります。 でも、人はもともと利己的です。 利己的であっても構いません。 

でも、先ほども言いましたが、祝福を受ける時は、二人の罪人が出会うのです。 どのようにですか? 罪人と罪人が出会うと、戦います。

 「お前が悪い! あなたが悪い!」 こうやって戦います。

なぜなら、自分の罪が他の人に見えるとき、私(自分)はそれに耐えられないからです。 

だから、もっと腹が立って...だから、私の問題は私が負うことができなければなりません。 少なくとも私の問題には私に解決方法がなければなりません。


だから質問者さんの問題を夫が解決してあげることができないのです。 祝福を受ける受けないは質問者さんの問題なのに。 

最初は新婚時代はお互いを知る仲で、努力をたくさんするのですが、そのうち子供ができたらどうなるかというと、自分の母国語が出始めます。 

自分の母国語は何ですか?私のお母さんがお父さんにどう話したか、お父さんがお母さんにどう話したか、そんな私が親からもらったものが母国語になって出てくるのです。それで、愛を受けられなかったら受けられなかったものが夫に行きます。 

そういうものがたくさん出てくるときに押し出されてきます。それで、そういう問題があります。 


でも、不思議なことに、私は信じられないかもしれませんが、私の10代の頃、質問者さんと同じでした。 人前に立ちなさいと言われると、「うわー、私はできない。 絶対できないよ」みたいな感じで、私はこんなに面白い人じゃなかったのです。信じられないでしょうけど、私は面白い人じゃなかったのです。私は質問者さんのような人でした。 


私の場合、二代王様がたくさん助けてくださいました。 でも、二代王様を真似することはできないじゃないですか。 二代王様とまた結婚することはできないじゃないですか。 もう二代王様は結婚したじゃないですか。


私が最初に「薬をあげたいけど、薬がない」と、どうして言ったかというと、もし大きな悲しみがあるなら、それは私が一言言ったからといって良くなるわけではありません。 だから私は薬をあげられないと言ったのです。 

でも、こういうことはあります。 なぜ私に深い悲しみがあるのかということを考えないでください。 

書き方の癖をつけるといいと思います。そう書くのが好きですか?

書くのが好きですか?( はい。好きです。) 


絵を描くのが好きですか? (はい。) 

私と趣味が似ていますね。

後でもしアカデミーに来られたりすると、もっと深くお話しすることができると思うのですが、私がお母さんからもらったものが何なのか、お父さんからもらったものが何なのか、兄弟姉妹がいれば兄弟姉妹からもらったものが何なのか... 


私が質問者さんと性格が似ていると言いましたね。 私の場合は、良い子であろうとしすぎたのです。 私の問題はそれでした。 とても良い子であろうとして、みんなに申し訳なかったのです。 人々に。「ああ、ごめんごめん。ごめんね、私が見つめていたね、ごめんね」みたいな。

とても良い子であろうとして、自分で自分を打ったのです。

だって、弟が病気なのに、その病気の弟の分まで私がやらなければならないと思っていたのです。 

それは錯覚ですね。 彼は彼の人生を生きて、私は私の人生を生きるべきなのです。 

私が彼の人生を病気の弟の人生に責任を持ってあげようとするのは勘違いです。


そしてまた、どんな勘違いをしていたかというと、母がこの精神薄弱な息子をめぐって、母は本当に深い悲しみを抱えていましたが、母はいつも話をしました。「人生は苦海だ。ヨナや、侮れない苦海だ」と話していました。 苦海というのは苦い海という意味です。仏教的な表現ですが、「苦い海だから、いくら泳いでも出られない。そこでただ塩辛い水だけ飲んでいるしかないんだよ。苦海だよ」と、母がいつも言っていたのです。 

それを信じていた母を、私が慰めてあげたかったのです。 どう慰めてあげますか? 良い子であって。完璧な娘になって。勉強もよくして、何でも一生懸命やって、賞も全部取ってきて、それで絶対にお母さんに辛いことや嫌なことも言わないし、「ヨナや。こちらに来なさい」「は~い」「あなたは、そこで果物商売をしているけど、そこを見て」「は~い」教会で全く問題を起こしませんでした。 


でも、内では私はたくさん腐っていました。外では完璧なコップなのに、中を覗き込んでみると、あまりにも膿んでいて、神様も憎いし、弟も「あいつが死ねばいいのに」と。そして母も憎いし、何の牧会をしているのに、どうして二人であんなに喧嘩するのか...そんなことが全部嫌でした。 


でも、私は言うことができませんでした。 言葉を。なぜなら、私は完璧な善良な子供だからです。 

だから、自分を一度覗いてみてください。どこからその悲しみが来るのか。深い悲しみは普通、自分を表現することができず、誰も自分を分かってくれる人がいないから、結局、私は実は神様を心から愛するようになり...。

私は本当に神様を憎んでいました。 私は神様に神性冒涜をした人でした。 でも、本当に.....。


ここで泣いたらみんな帰るでしょ? 泣いてはいけません。男は泣くのが大嫌いです。 大嫌いです。 それで、私は本当に神様を愛するようになり、その深い悲しみがなくなりました。 私はとても嬉しい人になりました。 すしながら、悲しみが喜びに変わることができました。


でも、これは単純に一言聞いただけでは済まないと思います。 そして、その深い悲しみの原因が何なのか、その深い悲しみがあるなら、私のような場合、まず悪いものを切ります。 


悪いものは何かというと、漫画。私は漫画中毒でした。漫画が面白くて、私は本当は漫画家になりたかったのです。漫画家になって金持ちになる。 これが夢でした。 でも、絵が上手いわけじゃないので諦めました。 


でも、漫画がなぜ有害かというと、ドラマがなぜ有害かというと、二代王様はドラマを一刀両断されるではないですか。 "女ポルノだ!"と一刀両断されるのですけど。

ドラマもちょっとそういう性格がありますが、漫画の方がもっと酷い気がします。 

漫画の場合は、ストーリーが何かというと、ほとんど自分のトラウマを英雄視するのです。 私はこのトラウマがあるから私は偉大だ。ストーリーを知るとほとんどそうなのです。 ほとんどその人にトラウマがあって。



あ、シークレットガーデン。シークレットガーデンを見れば、男性主人公にトラウマがあるじゃないですか。 エレベーターに乗れないのですよ。「トラウマがあるから!」 偉くなるのです。 女性主人公が全部愛してくれて。

最近の男性も「でも私はトラウマがあるから...」とかいって、女性もそうです。 

そこまでしなくても、心の中で自分がトラウマがあって、「弟が病気で、弟が精神病で...うう」と一人で泣きます。

そうしながら、そのトラウマをマイクロトラウマと最近言うのですよ。 そのマイクロトラウマを私自身に直接与え続けるのです。 

そういうドラマや漫画本を読みながら、私がその主人公と同一視するのです。 同一視しながらそのトラウマを私に与え続けるのです。 


そして漫画は現実的ではないのです。そのような男性が私のような女を好きになるはずがありません。そんなはずはありません。申し訳ありません。 そんなことはなかなか起こりません。 私がスーパーモデルならあるかもしれませんが、しかし、その人たちは国家代表選手たちは自分たちだけでプレーするのです。 自分たちだけでプレーするのであって、下に降りてきて田舎の高校に降りてきて、テニス部の末端のうまく打てない私に「私たちテニスしようか?」 そうはしません。そんなことはなかなか起こりません。 


男性も同じです。 最近の男性漫画は何かありますか? (パワーレンジャーです) 

パワーレンジャーも見てください。とても力が強いですね。

私は柔術のブルーベルトですが、柔術をする前は、二代王様がダンブリングをされるのを「まあ、かっこいいな」と思っていましたが、柔術をしてみると、このダンプリングは冗談じゃないのですよ。 誰でもできるわけじゃないのですよ。 

スンファンさんがやっているのを見てください。シュンシュンとしますね。人間がするのではないのです。ダンプリングは思ったより難しいのです。 

でも、パワーレンジャーはダンプリングでパッと飛んでいくじゃないですか。 

だから何かというと、錯覚を与え続けるのです。 錯覚の中で男たちが自分の持っている力より強いと思うのです。 その中で幸せなのです。 


ゲームもそうです。自分が持っているものより力が強いと思うのです。 

だから有害なのです。 まあ、ちょっとだけ...今日家に帰って旦那さんを見て、「ヨナ様がゲームは有害だって言ってたじゃないですか、ゲームやめなさい」なんて言ってはいけませんよ。 そうすると、旦那さんたちは次から来なくなりますよ。 大王様が来られてても来ないですよ。 そうしないでください。結婚している女性たち(笑)。


ちょっとはできるけど、ゲームが有害、漫画が有害、ドラマが有害というのは、ずっと私たちに間違った、現実的でない言葉を伝えているからです。 

あなたがこうしたら良い結果が出た、トラウマがあるのに良い結果が出た、こういうことですよね。話になりません。ダメですよ。面白いですね。


その芸能人たちはとてもハンサムできれいですよね、見ると楽しいです。


なぜ聖書を学べと言われるかというと、聖書では本当のことを話すからです。「 あなたたちが神から離れ続ければ、あなたたちは捕虜として連れて行かれる。 」そう話すのです。 だから人気がなかったのです。 エレミヤが。 ずっと、連れて行かれることを話すから人気がないのです。

 「私たちはこんなによく生きているのに、もう話すのはやめなさい! 口を閉じなさい。」こういうことです。

 

ところで、預言者たちはどうですか?預言者たちが出てきて、「それでも私がこれをやらないと、私が神様に審判されるからやらないわけにはいかない。 知る者が話さなければならない」こう話すのです。 

だから、神を信じるということは、目先の利益がないように見えるのです。 


ドラマやゲームや漫画はなぜやめろと言われるかというと、目先の快楽があるからです。 ところで、どんどん私に悪いイメージを与えるのです。 世の中を現実として見せるのではなく、どんどんお金を稼ごうとするから、私はどうなるかというと、それをどんどん信じるようになります。 信じるようになり、それが私だと思うようになります。


だから、まず深い悲しみがあるなら、私にとって一番幸せだと思われるものは何だろうと考えてやめます。 

でも、すぐにやめると禁断症状が起こります。 震えながら仕事をしていても漫画の主人公のことを思い出し、「今週の金曜日にウェブトゥーンが出るんだけど、私の好きなものが...もう6時半なのに...1時間後に出るのに...」と禁断症状が来るのです。 

私の場合はウェブトゥーンがすごく好きだったので、禁断症状が来ました。 


それでどうしたかというと、3日間断食をしました。メディア断食をしました。そうしたらとても見たくなったのです。3日間のシュガーダイエットをすると、とてもシュガーを食べたくなるのです。 それと同じです。3日間断食して4日目になると、一生懸命見て...

そうしたら、もう「おい、これではダメだ。ヨナや、こんなことしないことにしたじゃないの。これではダメだ」こんな風に自分を責めて、それでまた7日間のメディア断食をして30日断食をして、1年断食をして、そうしながらやめました。 

それで、何が自分に対して...

絵を描く方なので、私が漫画の話をしたのです。 絵を描く方は、漫画好きな方が多いのですよ。 


私が話を引きずってすみません。ところでそういう面がないかと考えました。

だから、そういう部分が自分の職業や仕事に関連してどうしても切れないとしたら、少しずつ減らしていく。 

そして、ここで分析しながら見てください。 この人たちがお金を稼ぐためにどんな仕掛けを使ったのか。 それに夢中になって。 

昔のドラマですが、シークレットガーデンを見て「あ、かっこいい!」と思って座っていてはいけません。夢中になってはいけません。自分がそれを客観視できるはずです。 そうしてこそ、良い文章が書けるのです。


おばさんが言いすぎましたね。 もうやめましょう。私も感情移入してしまって...もうやめます。


一旦整理しましょう。まず悪いことを先に減らすか、切るか、そして私に深い悲しみがあるなら、お母さん、お父さん、弟たち...

一人ずつ、私がどんな影響を受けてそうなったのか、そして私の内面の中にどんなコンプレックスがあるのか、いい子に一生なりたいのか、何が私をずっと苦しめているのか、そんなことをずっと書いてみて、それを神様の前に置いて祈らなければなりません。 これが本当に正しいのか、私(自分)は知っていますから。他の人は騙すことができても、私と神様は騙すことができません。 そうですね。 そういう部分を少しやってみて、努力してみてください。 

やってみますか? 

(うーん...それでは、まず悪いことをやめるように努力して、一日一回の感謝日記を書いてみます。) 



そうですね...感謝治癒日記というものがあります。 ハマ聖書の「詩篇はダビデ王の治癒日記」という17部構成の動画があります。 それを一度見てほしいです。 ぜひ見てください。 


では、他の方の質問はありますか?男性の方に質問してほしいです。



*質問者E:

私は仕事を長く続けていて悩んでいるのですが、お金をどれだけ稼げば幸せに暮らせるのかという悩みがあります。

私が今稼いでいるお金でも何かと不自由な生活を送っているのですが、後で祝福を受けると家の値段はさらに上がるような状況を見ている時、それでも一生懸命働きながら何とかお金を稼ぐのが正しいのか、稼ぎは少し少なくなっても家族ともっと一緒に過ごせる時間を何とか用意した方が良いのか、このような悩みをお願いします。 


王妃様:

それについて私のコメントが必要ですか? (はい)


わかりました。 あ...私が男じゃないので、ごめんなさい、男じゃないので、その家計の重さを私は頭ではわかっているのですけど、心ではよくわからないことがあります。 そういう部分では、私は申し訳ないと思っています。


でも、せっかく質問してくださったので、私が言うなら....。それは男性なら誰でも悩む部分だと思います。 

これが面白いのです。 

アンケート調査をしたら、男性は20代後半から30代前半でも結婚したいと思っています。 いい人がいれば結婚したいと思っています。 でも、むしろ女性の方が20代後半から30代前半に結婚しないでしょうという話をするのです。 これは韓国の話です。 

だから、二人とも30代前半なのに、男性は結婚したいけれど、女性はむしろ結婚しないと言って去る場合が多いという話をするのです。 韓国の青年たちの話です。 


「では、どうしたらいいんだろう」...これに耐えられる女性を探さなければなりません。 それでも私がそれをしても私は祝福を受けて生きたい、そんな方を探さなければなりません。 

それが私が思っていた女性よりレベルが低いとしても、どうして私がしなければならないのか? と思うかもしれませんが、それに耐えられる女性を探せばいいのです。 


女性はとても不思議です。 女性は自分が「この人と一緒に祝福を受けよう。この人となら、本当に王と祭司になれるんだ」と思うのですよね。 そうすると、苦労を我慢できるのです。 女性はとても利己的なのです。計算機を回してみたら、この人とならできそうだ。 女性にはそういう不思議なところがあります。 自分も働きながら、子供も少し遅く持つことになるかもしれないけど、私はそうする、そういう女性もいます。 そういう女性を見つけましょう。 それが一番いいと思います。


そして、それは...男性の方は、家長として、多分死ぬまで背負っていかなければならない荷物だと思うのです。

女性の方も知っておいてほしいのです。 男性は家長として、統計を見ると、女性は仕事をするときに、なぜ仕事をするかというと、子供の学費とか、私がもう少しお小遣いを稼ぐためとか、そのためにするようですね。 


女性の方が。二人で働くときも、共働きでも、女性は家事もやらなきゃいけないから、お金は稼ぐけど、それが自分のお小遣いとか、子供の塾代とか、そういうふうに考えるのですね。 


でも男は違うのです。 男はお金を稼ぐときに、家賃、食卓、飢えないように食べ物を買うこと、電気代。男は基本的なことを皆考えるのです。世帯主の男はそうなのです。 女性とは考え方が全然違うのです。 男はお金を稼いでこなければ、その時から自分の価値は無いと考えるのです。 とても男性は冷酷なのです。 そして冷酷なことを的確に言うのです。 男たちは。 


女性はこれをよく理解できないと思うのです。 私もそうです。 だから私も言うのですよ。 頭ではわかるけど、胸では多分100%理解できない。それはしょうがない部分だと思うのです。 


男性の方も女性の方を100%理解できないのです。 だからその部分を私が一言言ったところで、解決されないと思うのです。 これからもずっとあることでしょう。家族と過ごすのか、それとも仕事をもっと...これを多分ずっと両肩に背負っていくことになると思うのです。


だから、ある意味、若い頃は実は悩みますよね。

最初の頃、奥さんが一番きれいな時に、本当に沢山してあげたいのですけど、旅行もたくさん連れて行きたいし、いい服も買ってあげたいし、いいこともしてあげたいし。記念日にはきれいなものも高いものもあげたい。 でもそんなお金がない。 そうすると、もっと働かなければならないと思い続けるのです。 奥さんのために。「子供たちはこれもできないのに、あの子たちはあんなこともするのに、 もっと働かなければならない」そう考えるのです。


でも、多くのお父さんは「仕事ばかり!」って言うことが多いですよね。 


私が最近、

60歳になる方が建築関係の仕事をされるのですが、本当に一生懸命働いていたのです。 ところが、その方が私のところに来て泣いたのです。 

でも、考えてみてください。私が45歳のおばさんなのに、私のところに来て泣かれるのです。 私の手を握って。 


なぜ泣くかというと、奥さんが子供たちとよく暮らしているからです。 奥さんもいろいろな趣味活動をして、子供たちもみんな成長して出て行って、息子も自分のやりたい運動も全部させて、娘も家賃を全部出してあげたそうです。 

ところが、とても家庭と完全に疎遠になったので、子供たちが名節になると奥さんも自分の実家に行ってしまうのです。 

ところが、自分は自分の母親のところに行くのです。 自分の奥さんと母親との仲があまり良くないのです。ですからどうですか。完全に家庭が散り散りばらばらになったのです。 


自分は本当に一生懸命働いたのに、これって私がいいからやったのですか? 家族のために働いたのではないですか。 私がいいから一日17時間働いたのではないではないですか。 大変なのです。 

でも、大変なのにそれを我慢して悪い環境で働いたのは、私が苦労すれば家族が楽になるからです。 そうやって働かれたのです。 でも、その良い気持ちが家族に伝わらなかったのです。 それはどんなに悲劇ですか? これは本当に悲劇です。 その方が泣いていて、私も一緒に泣いてしまいました。


そして、ある家庭の場合は、この方も建築の仕事をされている方なのですが、仕事を一生懸命にされていたのです。 

とても一生懸命仕事をされたのですが、奥さんにレクサスなどの良い車も買ってあげたり、高級バッグも買ってあげたり、奥さんが欲しがれば玄関の屋根も作ってあげたり、全部してあげたそうです。


でも、自分が奥さんとどんどん関係がなくなっていくので、女性の皆さんもこれをよく理解してください。 夫がもっとお金を稼いでくるということは、家にいないということです。 


女性が「お金がない、お金がない、お金がない」と言うときは、それをそのまま聞いてはいけません。 「もう少し家庭のリーダーになってください」ということです。

それを解釈して聞いてください。 

英語で話していると思って通訳をつけて解釈して聞いてください。 

この夫は、奥さんが「子供が3人いるのにお金がない、お金がない、お金がない」と言うので、「そうか、じゃあ私がもっと働かなければ」と思って徹夜で働いたのです。 それで結局、自分も他の女と浮気して、奥さんも浮気して、完全に家庭が崩壊したのです。 

息子たちは信仰がないのは当然のことで、父親に暴言を吐いたり、もみ合って喧嘩したり...本当に悲劇です。


なぜなら、夫は必ず考えなければならないのです、王と祭司です。 だから、夫がリードするように家族が従うのです。 ここにアルファオオカミ、リーダーオオカミがいるのです。このオオカミがどれだけ速く行くかによって、全体の12匹の速度が決まるのです。 アルファが遅くなると、全体の移動速度が遅くなります。でも、アルファが速く行けば速く行くのです。 それが夫の役割です。 


夫が王と祭司というのはどういうことかというと、リーダーということです。 リーダーというのはいろんなリーダーになるのです。

「 やれ! やれ! やれ!」このようにすることも出来るでしょう。このような権威的なリーダーになることもありますよね。 そうすると、たまについてくるけど、後でついて来なくなるのです。

だから、私がどんなタイプのリーダーになるのか、どんなタイプの王と祭司になるのか。

また、私たちの民です。 家に帰れば子供たちが私の民です。 

20年間生きている間は民です。 その民にとって私はどんな王なのか、それを考えなければなりません。 子供たちに、そして妻に説明しなければなりません。 


私は15時間働くことができます。もっと長く働けるけれど、どうするのがいいんだろう、こういう相談が必要です。 


もちろん、そういう奥さんを見つけるのが一番いいし、相談する必要があります。 「ちょっと大変かもしれないけど、それでいいよ」こう言える人もいます。 どんなに美人でも、「私はブランド品が必要で、部屋は2部屋は必要だ!24坪はないとダメ!」こうすると生きていけないのです。そうすると、夫はいつもやってみよう、それができないから。 それではダメなのです。 そういうバランスも考えて。 


私がその肩の荷を降ろしてあげればいいのですけど、私の息子たちも悩んでいるところなので、私はこういうふうに考えています。 


それで、二代王様が何を言っておられるかというと、毎週奥さんと出かけなさいということです。 女性はその小さなこと、きれいなカフェに行って、「あ、このカフェもきれいだ、今度行ってみよう」みたいな話をしたりして、週に一回、すごく幸せなのです。 カフェに行くと幸せなのです。 充電されるような気がします。女性たちはカフェを好みます。そうやって週に一回、奥さんにいいところに連れて行って、いいものを買ってあげられないとしても、まだ車が軽自動車で中古車だとしても。週に一回奥さんにそうしてあげて、家がちょっと狭くても「一緒に頑張ろう」こうしてあげられること、何が一番大事なのか、すごくよくわかっていると思うのです。 そうしてほしいですね。


奥さんはサポートチームなのです、助っ人なのです、神様が助っ人にしてくださったのです、助けを与える者と言われました。 だから奥さんを育てて、奥さんと授受作用をしながら、奥さんにその状況を説明すること。

「おい!お前がそんなことするから家庭が成り立たないんだよ!」なんて言ってはいけないのです。 それは奥さんを育てない行動ですから。 

そうやっていると、自分自身もイライラするじゃないですか。 どれだけイライラしたらそんなことを言うのですか。 その気持ちも十分わかりますが。 

それは、自分が果たして良い王と祭司になれるのか、自分がそうしたときに、我が家は果たして幸せなのか、こういうことも考えないといけないのです。

 

そして、もし自分が悪かったら謝ることができること。男性にはすごく難しいです。 謝るのがすごく難しいです。 でも、私が謝ることもできるし、そうすればもっと奥さんも学ぶし、そうではないですか。そうしてほしいです。 


また、立ち上がって話したい方はいらっしゃいますか?



*質問者F:

祝福を受ける前に、ワクチンを仕方なく打つ場合もあったと思いますが、そういう人は祝福を受けることができるのでしょうか。


王妃様:

はい。皆さん、ストレスをたくさん受けましたね。ワクチン問題のせいで。 そして、二代王様は「ワクチンを打ってはだめだ!!」と言われたので、すごくストレスがありましたね。 ワクチンを打てば信仰のない人、悪い人になってしまう...そういうことがありましたね。そんな文化がありましたね。


皆さんに本当に理解してほしいのは、ただ一つだけです。 二代王様は皆さんが本当に健康であってほしいと思っておられるのです。 

皆さんをコントロールして、「お前はワクチンを打てば悪い奴だ!」これではなく、その気持ちを理解してほしいのです。皆さんを本当に愛し、本当によくなってほしいと思っておられるから、悪い道に行くのを望まれないのです。 


これが、二代王様がリサーチをしていろいろ調べても検証されていないのに、今、ゴロゴロとネズミが崖から落ちるようにゴロゴロと進んでいるから、「ウォー、ウォー、じっとしていて、そっちに行くのはダメ、ダメ。ちょっと待って。いやいや、いやいや、おい! 行くなって言ってるんだよ!」こういうことなのです。 簡単に言えばそういうことなのです。 


だから、ワクチン問題を持って独裁者、二代王様は自分の思い通りだ、自分の思い通りにするな、こういう誤解をしないでほしいのです。 それは本当に悪い道に行かないでほしい、悪い方に行かないでほしいという気持ちなのです。 それはぜひお伝えしたいですね。


2つ目に押さえておきたいのは、ワクチンを打ったからといって、無言の...何か、私がお父様を信じて信仰を持つ、私がお父様を告白する、その部分が取り消されるわけではありません。 ワクチン打ったから教会から出て行け、お前は信徒ではない、こういうことではありません。 そのような雰囲気が少しあったと思いますが、そういうことではありません。


でも...ワクチンを接種する時に選択をしたのでしょう? すべてを知って選択したのだから、それに対して自分が責任を持てばいいのです。 

もし、その部分でこの人が私と祝福を受けたくないというなら、どうしますか?その人の意見を尊重しなければなりませんよね。 そうではありませんか。

私はワクチンを接種したのですが、私たちの祝福委員会では私にこの人を紹介してくれない。ファイルを隠しておいて、あの人の紹介はしないというのは、ちょっと違うと思います。 

私が思うには、探せばいいのです。 

「私はワクチンを接種したけれど、私は本当に神様と真の父母様を愛し、でも職業がこういうことだから仕方なかった、そして、それがだめだ。」

ワクチンを接種された方は伝道して祝福を受ければいいのです。 そういう方法もあります。 


だから、一番重要なのは私たちが信仰人ですから、その部分を白黒の論理で「二代王様はワクチン接種した人は全部出て行けと言った。その人たちは救いから落ちた人たちだ」こう言わないでほしいのです。


(その後、手を挙げて質問する人がいないので、始める前に匿名で作成した質問用紙を引いて回答する時間)

翻訳 kaori.s

*質問用紙1:

人間の責任の領域について、あるみ言葉には神様にすべてを任せて信頼しなさいと言い、またあるみ言葉には人間が自由意志で動かなければ神様も働けないと言っています。神様にどれだけ信じて委ねれば神様が喜んで善なる結果に導いてくださるのか、人間の責任がどこまでなのか知りたいです。


王妃様:

聖書を見ると、ある時は静かに祈りなさい、小部屋に入って静かに祈りなさいと出ています。 またある時は「呼び叫べ!!」そう言います。 では、私が今この状況で静かに祈らなければならないのか? それとも叫ばないといけないのか? 悩むことになります。 ある時は神様に完全に頼らなければならず、またある時は人間が手足にならなければいけない!と。 こんな風だからどうすればいいの? どこに合わせていけばいいの? 合わせようがないじゃない? これは話にならないんじゃない? そういうことですよね。


み言葉を読む時、文字で見るじゃないですか。 字で見るじゃないですか。 でも、この文字を生きている人が書いたんです。 聖書のこの内容を生きている人がこのように書いたんです。 ある時は叫べと言い、ある時は隠れろと言い、ある時は進んで戦えと。 だから理解できないじゃないですか。 私が戦いたい時はヨシュア記を読んで、隠れたい時にはエレミヤのロデムの木を読もうか?


ところでこの方がどんな方なのか(匿名の質問なので)分かりませんが、 混乱するかもしれませんね。 年が幼い時には混乱するかもしれません。 でも、年を取ればみんな分かるという話でもないですが。(笑) 

どういう話かというと.. あるお母さんがいます。 その娘に身振りでサインを送りました。 そうすると、私(王妃)にはどういう意味なのか分からない。 あのおばさん何なの?としか思わないけれど、その娘はぱっと見て、「あ、お母さんこれ必要なんだな」と思ってお母さんのところに持って行ってあげることができるんです。 ある時はこういう身振りをするんですが、ある時は入れ物が必要で、またある時にはタオルが必要なんですね。 でもその娘は正確にそれが分かっている。 でも私にはただの身振りにしか見えない。 でも娘は知っているんです。 どうして娘だけはお母さんの伝えたいことを理解できるのかというと、そのお母さんと一緒に時間を過ごしながら、ある時はお母さんのせいで泣いたり、ある時はお母さんが憎らしくなったり、ある時はお母さんの娘だから嬉しくもあり、どうしてこんなにまで私のことを苦しめるの! 腹も立ったし.. 歴史があるんです。 お母さんと。そうしながらだんだん分かってきたんです。 でも私には分からないじゃないですか? だから身振りで何かしてるとだけ思いますよね?


 神様との関係も似たようなものです。 ある時は責任分担を果たせとおっしゃったのに、ある時はそのまま行けとおっしゃるのか。 ある時は手足になれとおっしゃったのに、ある時は神様に頼らなければならないとおっしゃるのか。 これは信仰が幼い時は区分できません。 まるでその娘のお母さんのことを私が区分できないように。 理解できません。 

でも、だんだん神様との関係を持ちながら、私たちがみ言葉にもたくさん接して人生に接していくなかで、それを理解できるようになります。 神様がタオルのことを言われているのか、本のことを言われているのか、入れ物のことを言われているのか理解できるようになるんです。 だから、「あ、今この時は神様に全面的に頼らなければならない時だ」と聞き取れるようになります。 そして「この時は、神様が今私に進んでいって手足になれとおっしゃっているんだ」ということを理解できるようになります。


けれでも…最初は聞き取れません。なぜなら私が(神様との)関係がないから。 ですから‘神様のみこころを知りたい‘ということは、結局は何かというと私が生きていくにあたりこの状況において神様のみこころが何なのだろうか、と尋ねているのと同じことですね。 この質問の内容が。 

それで結局は神様と親交を深めるしかありません。 理解するには。 私がある人と少し親しくなれば分かるじゃないですか。 その人が笑う時「あ、今体がきついんですね、それで無理に笑っていらっしゃるんですね。」 それがわかるようになりますね。 似たようなことですね。 神様と私の関係が遠いじゃないですか? ただ頭だけで知ってるとするじゃないですか? だから、何を望んでおられるのか分からない。 何が必要だとおっしゃるのかわからないんです。 だから結局は聖書のみ言葉と原理講論のみ言葉を受け入れる、知りたい気持ちが開かれていなければなりません。 これを本当に望むなら···


「どうすれば神様と関係を結ぶことができますか?」とある方がおっしゃっていました。 それで私が「あなた、本当に神様と関係を結びたいの? " 「はい」「本当に本当に神様と関係を結びたいの?」「はい。」「そのせいで眠れなくてご飯が喉を通らなかったりするの?」「いいえ」「ねえ、あなたは祝福のせいで夜も眠れずに泣いてたじゃない! それなのに神様と関係を結びたいと言っておきながら、夜はよく眠れるしご飯もよく食べているんじゃない。 それってどういうことだと思う?神様と本当に関係を結びたいわけじゃないのよ。 今のところは。」と言ってあげました。 


私はこう思います。 本当に心から望むなら。 そうしたら神様が教えてくださいます。 でも、もし私が答えをもらえなかったとしたら、最初に私が本当に熱望していたのかを考えてみなければなりません。 自分自身に本当に正直に。 自分が知ってるじゃないですか。 二つ目はひたすら待てと言いながら答えをくれない、私に待てと言われるけれど、待つ過程で何か見逃していなかったか。 神様は答えをくださったのに、私がその答えが気に入らないと言って押しのけてしまったのではないか。 それを尋ねてみないといけません。

 3つ目は、それでも待てとおっしゃる。 私が見るには神様の返事を逃さなかった。 それでも神様が待てとおっしゃるなら待つのです。 それが信仰です。 でも、それは本当にもどかしいですよね。 どうやって待つというの? 忙しい世の中で、携帯電話はどんどんアップデートされるし、チャンネルを押すとどんどん出てくるというのに、いったいどうやって待つというんですか? でも見てください。 今まで人生で一番重要なことはすべて待っていました。 考えてみてください。 お父さんに会いたい時、ソウルで働いているお父さんに毎日会いたい。 でも、お父さんが帰って来る日を待たないといけないじゃないですか。 それなのに神様には「神様、今すぐ来てください、right now!」 どうしてこんな風にできるんですか? なんて傲慢なんでしょう。 歌が上手な人に「あなたは歌が上手だから right now 今すぐ歌を歌ってみせて!」って言ったらダメじゃないですか。 人にもそんなことしないのに神様にどうしてそんなことを言えるんですか。 神様の時間を待たなければなりませんよね。


あと5分ですね。 あと5分だけやって終わります。 約束をした時間だから。

ですからみ言葉と恩恵を受ければこれは解決されるでしょう。 これは私が嘘をついているのではありません。


最後の質問···



*質問用紙 2: 

信仰心のない家族をどのように伝道すればいいですか?


王妃様:

二代王様が伝道は誰がすると言われましたか? お父様、聖霊様がなさるとおっしゃいましたよね? 私たちが伝道できません。 夫も伝道できません。 子供たちも伝道できません。 

ある人はですね。 自分が信仰しないということを、神様を憎むことに決めた人たちが多くいます。 大多数の信仰ある親が自分の兄弟も信じて自分の子供たちも必ず信仰を持ってくれればいいのに..(と思っています。) けれども、幾人かの子供たちは戻ってこないと思います。 私が生きている間は、絶対と言ってはいけませんね。 なぜなら、私がこの子が信仰を持っているのを肉眼では見られないかもしれないからです。 そうなるかもしれません。 これはとても悲しく思われるかもしれませんが、ある人はただ神様を憎むことに決めた人も多いのです。 その人たちはその人たちの人生を生きるでしょう。 それを私がこの人を伝道できるでしょうか…··· でもその人は決めているんです。


私にできることは··· 信仰心のない夫に対して、それでも聖書は妻に尊敬するように言うじゃないですか。 信仰のない夫を尊敬で接しなさい、だからあなたたちの行為を通じて夫が伝道できるように。 そういう美しい話もたくさんありますよね。 ある奥さんが「私は死んでもみ言葉を信じない、死んでもお父様を信じない、イエス様を信じない」と言っていたんですが、 夫の最後の葬儀の時にその奥さんが主を受け入れたというようなエピソードもあります。 それを夫は目では見ることができませんでした。 その奥さんが主を受け入れるのを見られませんでした。 


ですので、ある家族はですね。 来ないと思います。

諦めろということではありません。 私が申し上げることは、私がどのように主を信じる者として最もよく生きていけるのか、そのような姿を見せてください、ということです。 それにフォーカスして生きてください。 そのためにはパリサイ人になってはいけません。 「私はこんなにも正義にあふれた人間だ」と言わないでください。 それは神様が好まれる供え物ではありません。

ある方が来られて「私は訓読会を一度も休んだことがない」とおっしゃっていました。 一度も抜けたことがないそうです。 すごいですよね。でも、それは訓読会が神様の愛より上に上がってしまっています。 だからこの訓読会を自分が毎日したということが偶像になってしまっているのです。 だから、これをどうすればいいでしょう。 これは偶像に仕えるよりも神様と愛が好きなのではない、ということでしょう。 だからそれは問題になるということです。 

でも多くの人々が私が訓読会を毎日した、一度も抜けなかった、これが信仰だと思っているんです。 これは違います。 それは神様が好まれる信仰ではありません。 

一度考えてみなければならない問題ですよね? だからパリサイ人になるというのはどういう意味かというと、私の宗教心、私の義を主張すること。 私がもし私の宗教心と私の義を前面に出しているなら、それをもってこの人は伝道することができません。 家族を伝道することはできません。 なぜ家族を伝道するのが難しいかというと、本当に私の一挙手一投足を見ているからです。 私の両面的な姿が現れた時、私はどのように行動するのか、そのため家族を伝道するのが難しいというのです。


なぜ親が子供を伝道するのが難しいのかわかりますか? なぜなら、子供は親の堕落性もすべて見ているからです。 

でも本当に子供を伝道するためには、そこに全部投入しなければなりません。 そういう家庭があるんですよ。 「お母さん、お父さん、私をこんなに信仰的に育ててくださって本当にありがとうございます。 」と言いながら、本当にそう思っているというんです。 ただ文章だけでそのように書くのではなく、その時だけ口だけで言うのではなく、心からそう思っている方がいらっしゃるんですよ。 

私たちはそれは少し不可能なことだと思うでしょう? ただ口で言ってるだけだ。 そう思いますが、本当にいるんです。 それを私たちが経験してないだけなんです。 私たちは私たちが経験してみなければ、ないと思うでしょう。 「本当の愛なんてない。 それはドラマに出てくるだけのものだろ」 いいえ。 あるんです。 皆さんが経験してないだけです。 

子供の頃「あのさ、サンタクロースなんていないんだよ!」と言ったところ、ある子が私に厳しい忠告をよこしました。 「お前一度もプレゼントもらったことないんだろ、クリスマスに…」って言われてしまいました。 まさにそういうことでした。 私がクリスマスの時にプレゼントをもらったことがなかったからサンタがいないと思っていたんです。 

いい話ではないですけどね.. とにかく、人は自分が経験しなければ存在しないと思っていますが、そのような信仰があるんです。 家族を、そして子供を本当に感動させるような信仰もあります。


それで家族を本当に伝道したい、 とするとそのような信仰者にならなければなりません。 そうするなら、家族が伝道されます。


「本当に申し訳なかった、私が悪かった」と謝罪もして、また自分の義より自分の位置より、私の宗教心より子供が今何のために苦しんでいるのかを知って合わせてあげること。


私が夫の自慢をして申し訳ないのですが、二代王様もそのようにしておられます。 例をあげると、日本ツアーがあったんですけど、ある子女が実は日本に来たくないと言っていたんです。 韓国ツアーで来たのですが、日本には行きたくないと言っていました。 でも私は知らなかったんです。 「自分はまだ信仰について考えているところなんだけれど、日本ツアーには行きたくない」ということだったんです。 二代王様がもし、子供たちを外部に見せるために「私たちはこのように信仰が素晴らしいです」と見せることをされたとしたら、信得を連れて行かれたと思います。 ところが、二代王様は「今あなたが信仰で悩んでいて、大変なら行かなくても良い。 あなたに時間を与えよう」と言いながら連れて行きませんでした。 その時全部予定されていて、チケットも全部とったんですが。 でも、それをしなかったんです。 だからもし二代王様がパリサイ人だったなら、人々に見せつけて「私の息子はこんなにも素晴らしい」と自慢しながら暮らしていたとするなら、子供たちはそれをすべて見抜きますよね。


何を言いたいかというと、"私が伝道しなければならないからこの人に優しくしよう"というのは本物じゃなくて、やってるふりばかりするじゃないですか? このコップのように。コップのように自分が外側だけうまくやって、 中に心がないじゃないですか? 全部知ってます。家族はみんな見抜いています。 他の人にはわかりませんが、家族はみんな知っているんです。 これは驚くべきことです。 家族は知っています。 前後が違うのか表裏が違うのか正確に分かっています。 それだから家族を伝道するのが難しいというのです。 本物になってください。 そうすれば伝道できます。 そういう方がいます。 そして、ずっと存在してきました。


それじゃ、おばさんはもうやめないと。 これから寒い所に私たち出ていかなければなりませんね。 

それでは祈って終わりにします。