2022年11月6日日曜日

22年11月2日テネシー清平水曜礼拝 <ラスト> 悔い改め実体化訓練◆ 文亨進二代王

      悔い改め実体化訓練

2022年11月2日テネシー清平水曜礼拝

<ラスト>

文亨進二代王

翻訳監修編集:fanclub三原

Sanctuary Church Wednesday Korean Service 11 02 2022

1:40:02 翻訳cham


地獄には自ら既に行っている


うわわ、何時だ?病院の先生が。オンマ、何時だ?

(王妃様:ルカによる福音書13章読みます。)13章。

(ルカによる福音書13章1章です。)


悔い改めなさい!とうこと、悔い改め。


13:1ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。

13:2そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。

13:3あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。


OK! 悔い改めなければ滅びるだろう。悔い改め。これ、日曜日に皆聞いただろう?王妃が通訳したから、韓国語がきちんと出たでしょう?ハハハ。韓国語がとてつもなく、韓国語がよく出ただろ?


だからここで、ガリラヤでピラド王が数々のユダヤ人を殺した。私達は何故そうなのか分からないが、学者達が分からないが。とにかく壇上に血を混ぜて。もしもイエス様と神様を中心とする聖壇を作るなら、ローマ時代でこれは不法だ。何故?ローマ時代はローマの神達に侍らなければならない。ローマの神達を一番高くに侍らなければ死ぬ。宗教の自由がない。OK?so 終わらしてしまう。そういう部分だ。


ところがそいつらがもう、クリスチャン達が、警察も来るから、自分がユダヤ伝統の祭事をしているのだが、そうしたらどうなるのか?ローマ警察が来て、「あ、あ、いや、いや。私達はローマの神達に(崇拝)している。」このようにして、血を混ぜたのだ。そうしながら、ピラド王がそれを見て、ユダヤ人達を殺しただろ。その話だ。


ところでガリラヤの人達の中で、その人達だけ罪を犯したのではないではないですか。すべてのガリラヤの人達は事実、すべてのガリラヤの人達は罪人になってしまう。

だからある人達は言うだろ。「どうして神様は人達を地獄に送ることができるのか」と。

どうして善の神様が地獄に送ることができるのか、人を。神様は私達を地獄に送るのではないだろ。私達は既に地獄に行くということだ。え?既に私達は罪があるから、既に私達が地獄に(向かって)行っているということだ。キリストが入って来て私達を抜いてくれるということだ。救って下さるということだ。ところで私達は既に地獄に(向かって)行っている。神様は私達を送る必要がない。


お前(チニョンを指されて)がもしもモリスタウンに行った。モリスタウンでこの人を捕まえてここにいなさいと、そのようにしたら「あー、私は今モリスタウン。どうして王様がチニョンをモリスタウンに送ることができるか。」自分が既に行っているのに。そうだろ?お前が行っていたではないか。それを言ったのだ。どうして神様は人を地獄に送る?お前が既に地獄に行っていたではないか。罪が好きだから。


あ~、違うだろ?罪が好きだから。人達が嫉妬するから。お前達、え?利己的だから。私だけを考えるから。創造主を無視するから。憎いから。嫌いだから。既に、既に神様と分離されたところに行っているではないか。地獄。

あー、私達を送る必要はない。私達は既に行っている。ハハハ。何の話か分かるだろ?話になるだろ?既に行っているというのだ。話になるだろ。


主はただ地獄行から救って下さる


ところがキリストはだから私達をワッ!(引き抜くしぐさをされる)

私達は元々キリストを受け入れた時にキリストは私達を引き抜くということだ、その道に。そして新しい道に導くということだ。

何?私は道であり真理であり生命である。そうだろ?キリストの中で私達は新しい道に乗るのだ。そうだろ?


それは私達が、私達の能力なら、私達は地獄に行くのだろ、事実。私達は罪が好きだから。大きな罪、スターリン、ヒットラーのようなそのような大きな罪でなくても、小さい罪も好きではないか。欲心、羨む嫉妬、快楽、自分を中心とする内容。そう?そうではない?それは全部地獄だ。地獄に行っている。


神様はもうそれを抜いて、私達を許してくださるだろ。許し。お前は不足な部分と地獄に行くことを知っているが、今や私と関係を作りたいから、今や悔い改め、悔い改めは何か?悔い改めは心と私の目標を替えることだ。そうだろ?その話だ。

私の目標は私も知らずに無意識的に、私の目標は私、私、私、私、、私、私だった。地獄だった。私の目標は、私の快楽、私の気分、私、私、私、これだ。OK?それは地獄に行く道だ。


神様との関係を受けるようになれば、私達は違う目標を見るだろ。あー、私、私ではなく、あなたの王国、あなたの喜び、目標が違ってくるだろ。それは悔い改め。「悔い改めます。すみません。アボジ神様すみません。私は私、私、私、快楽、快楽、快楽、私、私、私、嫉妬、嫉妬、嫉妬、私、私、私、憎悪、憎悪、憎悪。そうして来たが、今や私はそれをしたくない。私は罪人ということを認めます。アボジ、私を生かしてください。」

そうしながら神様は私達の中に関係を結ばれて、その関係に中で私達は今や、私ではなく、今や中心、目標が違ってきます。

「あなたが喜ばれますように。あなたが栄光を受けてください。アボジ、カムサハムニダ。」違ってくる。違ってくる。目標と目的が違ってくる。


だから目的、目標が違ってくるから到着点も違ってくるだろ。私達に能力があるからではない。神様が。だからキリストとの関係がそれほど重要なのだ。キリストとの関係。キリストとの関係を通しながら私達は、生命、血統、信仰、全部受けることができ、新しい目標、神様を中心とする目標、新しい神様を中心とする目的。


だから私達、夫婦が結婚する時にも、私達の目的はただ互いに幸福だけではない、NO。「アボニム、カムサハムニダ。アボジが幸福であるように。アボジが私達の夫婦を見ながら喜ばれることができるように。」


だから夫婦の日の訓練は丈夫な夫婦を作って、次にお父様の祝福の子女達が祝福を受けたいと願うこと。お父様の伝統、お父様の祝福、祝福の贈り物がだんだん光り輝いてくる。堂々とした丈夫な祝福中心家庭ら堂々たる平和軍警察、神様のみ旨と王国を保護する家庭ら、平和軍警察、え?そうだろ?


だからグレッグ室長の夫人、エリカ王妃がいるだろ。.

エリカが日曜日終わって、ここでご飯をする時、食口達、オーブルもあげて、あれこれご飯、ペンシルベニアのシステムのように、ご飯を買って食べることもできる。

そのようにすれば、もう訓士様達の家に行ってご飯を食べるのでなく、日曜日終わって、ここで皆一緒にご飯を食べて、新しい食口達も迎え入れ、新しい食口達も話をして、その次に鉄の杖射撃場訓練。

一旦今回はペンシルベニアに行ったあとで、エリカ王妃が食事システムを開発して。日曜日、訓士様と食べるのはもう取り消すだろう、多分その時に。

日曜日食事をして、訓士様達はここに下がって来て一緒に食べることができ、次に水曜日は礼拝が終わって、訓士様の家に行って一緒に食べることはできるが、日曜日は新しい食口達を伝道しなければならないから、新しい食口達もだんだん植福を受けたがっている。ハレルヤ!(拍手)

私達のテネシーの実の祝福家庭達が生まれるようになるでしょう。わぁ、ハレルヤ。

そのような良い知らせがだんだん出るから、新しい食口達もお客様達だろ、来た時にペンシルベニアのように、ここにラウンドテーブルも作って、そのようにすればいいだろ。ラウンドテーブル。新しい食口達と会って、新しい方達も招待もして、一緒にみ言も分け合って、今や伝道過程に入って来る。

1:51:18 翻訳minion

わかった?そのようにしながら全て終わった後に、射撃場の訓練をすることができる。すぐそこだから。わかった?


悔い改めはまず罪を認めそして心をキリスト中心に変える


だからそのような部分として、自分が罪人であるということを、自分は罪が好きだったのだなぁ、ああ・・・。私は世界の前に善良な女性のふりをしたが、お前たちの善の心に罪を好きだったではないか。そうか?そうではないか?女性達。


だから悔い改めとは何か、悔い改めはそれを認めることです。ます。認めて、変わるのです。

私私私、快楽、快楽、快楽、私私私、のためでなく、あなたのために行きたい。それが悔い改めです。悔い改めはメタノイア、心をチェンジするという意味です。マインドチェンジ。メタノイアの意味はマインドチェンジという意味だ。


不思議ですね?日本と神道、仏教の悔い改めは、念仏、南無阿弥陀仏、あるいは「申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません。」これを悔い改めだと考える。それは悔い改めではない。それは宗教がそのようにするのであって、神様との関係においてそれは偽物です。人々が神様に「申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません、申し訳ありません。」と言っても、中では完全に嘘をつくことができます。


見せかけで「申し訳ありません」とすることができます。神様は全てご存知です。私たちの心を見られます。宗教はここ(内心)を見ません。宗教は外の行動を見ます。神様はここを(心を)みます。わかった?


だから悔い改めはここ(心)から来なければなりません。ここが変化が来なければなりません。どういうことか分かりましたね?悔い改めはここから、ここからマインドチェンジが来なければならない。わかった?


あらら、何時だ?何時?早く行かなければ、早く。そのため、・・・早く行かなくては。お医者さんが待っているので。


だから悔い改めを通しながら、マインドチェンジ。だから私たちが、「ああ、私は罪が好きだったのだなぁ。ああ・・・。」これを理解することがどれほど重要か。自分が間違いがなければ、「私がどうして悔い改めなければならないのか。私は悪くないのに。」このような傲慢、このような二世が多かっただろう。特に二世の牧師たち。最も傲慢な奴ら。皆、堕落した。


二代王でさえ罪人なら、あなたは


お父様は二代王をお父様の後継者、相続者、代身者に立てられた。(二代王様は)結婚する前、純潔を守っただろ。女性がいなかっただろう。麻薬、酒、タバコをしなかっただろ。その二世達がしたことを全てした。 しかし、そいつらは純潔を守ったので、お父様の祝福を受けたので、自分達は完璧だと考えただろ。特に二世の牧師たち。皆お父様を売って食べた。お金だけを好んだ。詐欺師のパリサイ人たち。


だからその時、二代王は説明しただろ。私は2世だ。更に私は真の子女だ。さらに私はお父様の後継者、相続者、代身者だ。そして、お前たちがしたことは全てした。お父様の言うことを守り、女性とセックスをしなかった。純潔を守った、お酒タバコすべてしなかった。お前たちがしたことは全てした。


しかし私は一般の人から見たら真の子女だ。さらにお父様の後継者、相続者、代身者、真の子女たちの中で中心の位置。お父様が建てられた位置。

しかしそれでも私はお父様の前に、私は罪人であるということを認めます。いやあ・・・。


その傲慢な二世の牧師たち。ぎゃあ、ぎゃあ、どれほど嫌ったかそれを。自分達は二世だから、原罪がないから、食口達は自分を神様のように侍らなければならない。好だった、こいつらは。傲慢な、地位と位置を好んだ。 


だからお前たちも罪人だと言うので、私もあなた達よりも、はるかにたくさん(信仰を)したのに、さらに子女達、更にお父様の後継者なのに、お前たちよりも、はるかに高い地位、位置なのに、私はお父様の前に罪人だ。その言葉はどういうことだ?お前たちも罪人だということだ。そういうことだろ?お前達も認めなければならない。


そいつらがどれほど失敗した。「ああ、私が間違った?私が・・・」最も嫌いだったそれが。なぜなら、今や二代王が全ての教会の前でやったので、自分達もしなければならない。自分の小さな教会で、自分の食口達の前で、自分が罪人であるということを告白しなければならない。お父様の後継者までそれをしたから、それを。どういうことか分かりますね?だからお前たちはとても嫌うのだ、それを。 


「私がいったい何を間違ったのだ。」そうだろ?その様に言う。

傲慢なパリサイ人たち。自分たちに原罪がなくても、自分達は地獄に行くということが分からない者たち。自分たちに原罪がないから自分は完璧だということではない。原罪がなくても自分には違う罪、たくさん、たくさん罪を犯すことがある。そうか?そうではないか?


このような部分を理解してこそ、ここから悔い改めが出てくる。「ああ、本当に私は罪が好きな人だ」。お前たちはむやみやたらと、男性たちはセックスに通って、娼婦のようにしないが、・・・それは良いことだ。それは良いことだが、それでも中の心に違う罪があるではないか。そう?そうじゃない?そこから悔い改めが始まる。


それではそこで、キリストを、(私は)地獄に行っているのに、私の力では、私はすでに神様から遠い。ものすごく罪を重ねた。キリストが必要だ。 神様に私たちを導く方。自分も知らないで小さな罪、たくさん犯せば大きな罪になるんだね。


多くの子供たちは自分が善良だと錯覚して、小さな罪、そんな小さな罪だと。小さな罪が積もれば大きな罪になる。そうだろ?


しかしその罪が何かといえば、キリストの重要性、メシアの重要性、どうして神様はメシアを送られたのか。私たちの能力と私たちの力では完璧で有り続けることは出来ない。継続して罪を好む。大きな罪、小さな罪。


だからキリストとメシアは私たちを変えてくださる。私達を変えてくださり、私たちを新しく作り、だから聖書の言葉は、聖霊が望めば再創造、私たちは再創造されると言っている。新しい人、新しい存在として、罪を嫌う存在。神様が好まれる事を私が好むようになり、神様が嫌うものは私が嫌うようになる。


そのような内容として、悔い改めはそこから、転換点、完璧でなくても、そしてその後には、私は完璧だという意味ではない。継続して失敗することもあり継続して悪い習慣をたくさん持つこともできる。しかしいったん心が、心が悔い改めて、心が変わるので、 今やその道に継続して従えば、習慣も徐々に変わる確率が上がります。

 なぜなら新しい中心があるから。罪は、 私が秘密の罪を、私の人生の中心としないで、これからはキリストが私の中心になる。


悔い改めても訓練がなければ


キリストが、キリスト教ではなくキリスト教と教団(ではなく)、どういう意味かわかりますね?だからそのような部分として、夫婦の間でも、お前たちもお互いに完璧ではないので、自分たちもそれを認めるとき、お前も成長しお前の妻も成長し、私も成長し、私の夫も成長し、この多くの女性たちも完璧な男性を待っている馬鹿たち。いない!完璧な男たちは。すべて罪人だ。完璧な女性もいない。全て罪人だ。


しかし夫婦になりながら、その完璧ではない二人が自分の快楽と自分の罪を中心としないで、神様の中心は、自分の習慣が、多くの習慣は完璧ではないが、しかし行けば行くほど、努力すれば、努力してそれを訓練してそれを認識して、無意識ではだめだ、認識してから、そして夫婦が徐々にひとつになる。二人がひとつになる。


賛美、賛美、賛美しなければ。2代王を中心とした賛美歌がなんだ?どこから、韓国語でどのように出てくるか見てみよう。韓国語でどのように賛美歌出てくるか見てみよう。 


 ・賛美歌を謳われる。 https://youtu.be/j0Kuhd8YqWk?t=7520

 完璧な者はいない。ただイエスが輝く、イエスに従う


だから賛美が私たちの心を掴んでくれる。わかった?これだろ。ルカによる福音書13章はこれだろ。この歌はルカによる福音書13章の歌だ。完璧でなくても主がいたら、私たちの道、生命の真理、次に完全に違う目的、私の心と私の心情は完全に違う。 


二人が夫婦として同じ目的向かって精誠と努力で自分の悪い習慣をなくそうとしながらも、同じ目的を求めながら、二人がひとつとなる。そのようになるのだ。だから訓練、訓練、訓練が必要なのだ。ただ心が変わっただけではだめだ。心の転換だけがあれば、習慣が変わらない。そうだろう?


心の転換が悔い改めで、心の転換になる。毎日毎日自分が確認して、再び確認しながら、心が神様の目的と国と王国と神様の喜びと神様の、そのような部分として集中しますが、それでも毎日毎日訓練を通してこの悪い習慣に勝ち抜く。そうだろ?


そうしながら、心と体が違ってくる。習慣は身体を支配しているではないか。そうだろ?心が変わっても体はついていかないではないか。そうだろう?だから体にある習慣が、訓練と精誠と体と心の訓練を通して取り除くのだ。変えるのだ。体にある支配者。心が良くても体の悪い習慣が多くなることがある。そうか?そうではないか?お前たちはよく感じるだろ。夫婦生活をしながら。


そのような部分として、だから訓練がこのように重要な部分だ。訓練が。平和軍警察は心の転換と体の訓練をする人々。天一国の文化はそうだ。心の転換と悔い改めと転換と体の訓練。そうだろ?


なぜなら身体の訓練を通じながら、私達は悪い習慣に勝つことができる力が生じる。そうだろ?


だから辛い極端な訓練


だから辛い極端な訓練と、スオンが今、文団長が私たちの若者に行進の訓練を計画している。早くそれを報告しなさい。


行進、若者たちが二泊三日 、野生、自然、山ライオンと熊と自然に、荷物だけを担いで山に入って、約60 kmを行進する。二泊三日。その訓練が近づいているから、お前たちはそのような訓練を通してたくさん泣くだろう。特に女性達、お前たちも最初の日に放棄したくなるだろう。体が抜けてものすごく辛い。足がずっとガクガクして、そのような訓練も、文団長が準備している。


夏になればキョンスク師範が、三代王権に侍って、この子達は初めてのグループとして、スキューバーの訓練をする。スキューバーの訓練、海の訓練。お父様は海をとても愛されただろ?海の下にサンゴが行ったり来たり、ありとあらゆる獣に 会わなければならない。そうしながら、自然の世界をもっと愛する人になる。


おお、お前は今回ハーレーバイクを買うんだって?神野君はハーレーバイクを今探しているそうだ。鉄の杖の騎馬部隊の訓練に入ろうと準備している。拍手しなければ。


だから私たちは、天一国の文化は、ただ大きな家を、高いラグジュアリー、これは天一国の文化ではない。自然を愛して、お父様は大きな王宮をものすごく嫌われた。誰がその王宮を好きだった?韓鶴子バビロンの淫婦!悪い女性たちはそのような大きなものが好きだ。お前たちはそのようなところに住んでないからよかった。そのような所に住んだら、完全に罪の家だ。そしてお前たちが生きることができる空間が小さな部屋だ。他のところで何もすることができない。お前の家ではない。女性たちはそのように大きな宮殿に住んだ事がないから、そのように大きな家が好きなのであって、馬鹿みたいな女たち。


そのホテルのように数千名と家を分けなければならない。自分のものではない。所有権はひとつもない。何もできない。建物だけが綺麗に綺麗に見えて、人々から世界から悪口を言われて、自分が使うことのできる空間は小さい。むしろ1エーカーがあって小さなタイニーホーム(の方が)お前はより多くの所有がある。王宮に住む人々よりも。


女性達はただ地位と場所と物質に集中する、本当の所有権が何かわからない。


だから、天一国の文化は自然を愛し、 神様と共に自然の世界でアダムのように、エデンの園は自然だったではないですか、自然。神様と共に寝て、星を見るのが好きで、自然の世界を愛さなければならない。アダム文化の文化文明圏は。

大きな建物、これは女性たちが好むものだ。女性達はパワーが好きだから、パワーと位置。 


天使長たちがそのようなものを作るだろう。女性達が好むように。お父様が最も嫌いな建物は、天聖宮。清平、韓国、堕落した天聖宮。お父様は常に海に出て行かれた、そこを逃げるために。行事は早く終えて、早く出て行って。殆ど泊まることはなかった。


自然を愛して海を愛して、自然を。だからお前たちは訓練する時も、お前達も自然の行進訓練、深い森と深いそのような恐ろしい山ライオンと熊と一緒に寝て、その冒険の訓練が近づいている。わかった?

するのか?しないのか?するのか?しないのか?する?しない?


次に私たちは、1番目のグループがスキューバー訓練に行った次に、お前達もスキューバー訓練をしなければならない。海の訓練。泳ぐことができる、韓国人、日本人は泳ぐことができないだろ?とりあえず水泳を学ばなければならない。泳ぐことができないでスキューバーをしたら死ぬ。とりあえずまず水泳が上手くなければならない。人々は水でパニックになれば死ぬ。水でパニックになれば死ぬ。だから水泳がとても上手でなければならない。完全に水の中に入るから、50M 100M、 完全に真っ暗な海の中に行くから、そこには珊瑚だけがいる。 


珊瑚は野生生物であって、50M 100Mは 完全に真っ暗だ。夜だ。真っ黒な獣たちがゴオオオオと泳いでいる。わあ。わかった?


しかし男性たちはこのような経験がなければならない。女性達も。経験が。分かったか?


お父様がハワイに行かれた時、常にスキューバーダイビングをさせられた。スキューバーダイビングを。サメと一緒に泳いで。驚くべき波動を感じる。波が動く。水の中で感じたら波動がグウウウウ。


お前たちは自然の世界を全て主観しなければならない。そしたらお前たちが子供たちを訓練させるとき、その子達も全てそのような世界。落下傘訓練もしただろ、お前たち。落下傘訓練もしなければ子供達は。皆しただろ。落下傘訓練は皆したか?お前は落下傘訓練をしたか?しなければ。お前もしただろう。アムもしただろ。空間の訓練、地上の訓練、武道の訓練、水の訓練、自然の山の訓練。 


私の子供達はアッパが訓練するから、みな落葉の上に寝て、皆そのような訓練をした。幼い時から。ミミズも食べて、全てした。お前たちも皆しただろう。そのような訓練を通しながら、お前たちはどこに行っても生き残ることができる知識と経験、パワー、エネルギー、わかった?


若い時にこのようなことをしなければならない。若い時に土地の主管、海の主管、空間の主管、心と体の主管。 


悔い改めに体も付いていくことが出来るように

2:22:30 翻訳:grazia

このような訓練を通じて私たちは心の悔い改め、心が伴わないから、訓練を通して心を悔い改めながら、 神様に従おうと決意する時、体も付いて行く力が生まれるのだ。何故、身体をたくさん訓練したから。そうか、そうでないか。体を訓練させたから。

分かった? 分かった?(日本語) だから夫婦たちも頑張りなさい。夫婦訓練をして、もう若い王と王妃訓練、夫婦教育、父母教育も訓練するから、お前たちもそこに入って行くのだ。


誰だ、ビクタームーン、もう授業するな、大きな授業をするのではない! 大きな授業ではない、小さなグループだ。引導者に関心を多く受けることの出来る小さなグループだ。こいつはそれをよく分からずに皆を呼んでやったがそうではないのだ。小グループでやりなさい、小グループだ。大きな授業ではない、大きな課目ではない、夫婦が入って来て小さなチームを作り、次の世代の若い王と王妃たちが、心と身体主管、父母訓練、父母教育を、分かったね、できるように。

分かった?(日本語) 分かるな? 


こういう内容もすべて投資、お前たちが若い時に何に投資するのか、お前の友人たち、快楽、快楽、快楽、アッハハハ。ただ遊んでいる。借金をすること、だから銀行が自分の身体を拾うのだ。


お前たちは何に投資している、関係、関係、関係。重要な関係、神様との関係、三代王権との関係、平和軍警察兄弟姉妹の関係、夫婦関係、子供たちとの関係、このような事が一生共にあるのだ。


快楽、快楽、快楽、瞬間だけ出てくるが、瞬間に無くなってしまう。そしてまた喉が渇くのだ。お前の友人たち、

“ハハハ、お前たちは若いのに子供を産むなんて、子供工場だね~アイゴーかわいそうだね~” “私たちは外に職業もあるしこんな大学にも行ってるし単位も取ったし、お前たちに比べれば私たちがどれほどすごいか。”

こうしてお前たちに罪の意識を与えようとしているのだ、サタン世界は。

お前たちを攻撃している、特に女性たち。

“あんた、子供工場じゃない、かわいそう、かわいそうだね~”

このように攻撃しているのだ。そいつらは何を投資しているか? 快楽、快楽、快楽、遊び、遊び、遊び、虚しい地位。


20年後自分がいまだに借金まみれで、お金をたくさん稼ぐと思っているが関係はみな崩れているではないか。いろんな男にセックスされて、何回も捨てられて、とても悪い習慣だけを身に着けて、結婚してもその結婚はすぐに壊れて、何故、関係に投資しなかったから。長期的な関係。自己訓練、自己訓練において投資してこなかった。長期的な関係を維持するために自分が訓練しなければならないのに、自己の次元が高くなければならないのに。


だから、外の、世間の女性は、いつもビキニを着ていつもお尻が見えるようにして、お前たちに自分が遊ぶ姿を見せて、フランス旅行もしたとお前たちを嫉妬させようとするのだ。お前たちを破壊しようと攻撃をするのだ。お前たちの歳ですべて責任を逃れ遊べ、遊べ、遊べ! 遊べば遊ぶほど愚かになり、更に借金まみれになり、悪い習慣を学び、無い金を使い、失敗した40,50,60代,70代,80代の人を作るだけだ。20代を遊ぶために。


天一国の女性は違うのだ。違う道、違う選択をするではないか。若い時に一番重要な関係の為に投資し、この心と身体の訓練に投資し、難しいことを実践することに投資し、一番美しい時に結婚に投資し、まだ若い時に子供たちに投資し。何故、その関係が一生続くから。


借金、借金まみれになってはいけない。所有権と土地、自分の土地と所有権には目的がある。主人になる目的、借金の奴隷ではなく。完全に違う文化、完全に違う文化だ。

世間でいう資産、借金、遊べ、遊べ、快楽、快楽、女とのセックスを楽しめ、男とのセックスを楽しめ。ただ快楽、快楽、快楽! サタン主義だろう。これがサタン主義だ。文化サタン主義だ。これが若い者たちを掘って行くのだ。

そうすれば幸せになる筈だ。そのインスタグラムに自分がいつも旅行する、フランス、モナコ等々、旅行写真を撮り、自分が砂浜でビキニを着て。このような女性にはみな心理病がある。皆が常に泣く。写真を撮る時だけニコッとして、ハッハッハ、いつも男と付き合う時だけ、男はその女とセックスをしたら捨ててしまう。ゴミのように捨ててしまうのだ。いい男は探せない、探すことはできない。家庭は絶対に築くことはできない。未来の離婚者となり、子供たちの心と心情を壊してしまう失敗した女になるのだ。

何故、今この20代を失敗に至る習慣を学び投資しているからだ、投資しているから。失敗する習慣に。


知恵のある女性は、一番重要な関係に投資し、これに勝利するのだ。一番に重要な、お前は癌にかかろうと、戦争で足が片方だけになろうと、誰がお前の傍にいるか、家族。だれが、お前に友人はいない。お前といっしょに遊ぶ子供はいない。(一緒にいるのは)大変な時にそいつらは一番初めに逃げていく奴らだ。


夫婦の間で難しいことも乗り越えて、その関係に投資するのだ。それはどれほど重要な関係か。だが若者がそこに投資すると左派の野郎や政府、宗教が嫌がるだろ、何故? しっかりした家庭があると、人は“どうして政府の言うことを聞かないか!” そのしっかりした家庭、幸福な家庭はその上、土地があり、更には銃を使う。ハハハ、政府の言うことは聞かないだろ。


だから政府は常に家庭破壊、支援しているのだ。遊べ、遊べ。家庭破壊する隙間は何だ、女。ルーシェルはお前たちをターゲットにする。お前たち結婚するな、夫の奴隷になるぞ、子供工場になるぞ、結婚するな。遊べ、遊べ、セックスしろ、好きな男と。お前、男が好きだろ、セックスしろ、セックス。このようにするのだ。


失敗の、最悪の、失敗の生き方をするように、止まることの出来ない人生になる。

何故なら家庭がしっかりしていれば、社会がすぐにまとまるではないか。まとまる力があるではないか。まとまる力があれば、左派野郎や社会主義、共産主義、政治サタン主義が勝つことはできない。人々がまとまれば。人を分離させなければ、人をみな失敗者に作り上げねば、人の悪習慣をつけさせねば、人に快楽を追求するようにさせれば、人は自分の内にだけ暮らし、自分の快楽にだけ生きる。このような者は簡単に殺すことができる。コントロールすることができる。


それなので神様の文化文明圏は違う、神様のものはこの関係、神様との関係が一番で、横的な関係が何だ、夫婦。夫婦、この関係。この言葉は完璧だという意味ではない。夫婦において常に完璧であれという意味ではない。ところで、お前たちはここに投資しているね、投資。それはどういうことかというと、値を支払っているではないか。1年前とはお前たちは全く違う夫婦だろ。


え? それは投資だ、投資。投資しながら暮らす、その関係が強くなりながら、子供ができた時子供がその良い基本から。


分かるか、今何時だ? オヨヨ! 早く早くいかなければ。もう出かけないといけないね。

讃美チーム、今日は讃美チームがいるね。さあ、そのような知恵のある天一国の民、宗族王と王妃。神様とお父様と、真の父母様と三代王権と共に、サタン世界と戦いながら、そのような鉄の杖王国、天一国の民になるならば、お父様に大きな拍手を捧げながら、共に立って讃美をしましょう。 ア~ジュ~!

2:36:34


2022年11月3日木曜日

生まれも育ちもクリスチャンの 十字架贖罪論再考◆ 2022年 10月 16日 クリスチャン小関

生まれも育ちもクリスチャンの

十字架贖罪論再考 

2022年 10月 16日

クリスチャン小関

サンクチュアリ教徒、生まれも育ちもクリスチャンの十字架贖罪論再考20221016



クリスチャンから見たモーセの、青銅の蛇

 

みなさん、こんにちは。


小関雄一です。ふたたび皆さんお会いできまして嬉しく思います。


今日は私が幼い時から育ってきた、キリスト教の信仰についてお話をさせていただきたいと思います。


私は生まれた時から親に連れられて教会に通っておりましたので、気づいた時には教会の日曜学校の子供礼拝等に参加していました。


日曜学校の先生から聖書の物語をずっとお伺いしてきました。

聖書のノアの物語、アブラハムの物語、またモーセの物語などですね。

キリスト教において旧約聖書は何のために書かれているかというと、イエスキリストを表すために旧約聖書が記された。そういうことなんですね。


モーセの物語が有りますがモーセの歩みは実はイエスキリストの歩むべき象徴的な原形的な歩みをしたというわけです。


イエス様がご自身について証をされた時に、「モーセは私について書いたのである」と語られ、ご自身がモーセの原型路程を歩んでおられるだと、示されておられました。


実際、聖書のモーセの物語の中にはですね、イスラエル民族が荒野の中で不信仰に陥ってしまった際に、神は民に火の蛇を送られ、多くのイスラエルの民が噛まれて死ぬようになりました。


その時モーセが神に示された通りに、イスラエルの民の前で十字型の竿に青銅の蛇をかけて、それを不信の民の前に掲げました。


モーセがかかげたその青銅の蛇を仰ぎ見ることによって民は、火の蛇に噛まれるの災難から救われたという話があります。


その青銅の蛇はイエスキリストを暗示しています。

この理解は、キリスト教会でも有ります。統一原理においても同様の理解です。


クリスチャンにとってイエス様は神様そのもの


キリスト教徒にとってクリスチャンにとってイエス様という存在はどういう存在かと言いますと神様そのものなんですね。


三位一体という神についての理解がありまして

神様、聖霊様、そしてイエス様という三つの位格が一つとなっているという理解です。


イエス様は神の子という立場で、三位一体のうちの第二位格としておられる。

ですので、キリスト教徒、クリスチャンの理解として、イエス様は神であられるので、天地創造の頃から、宇宙と人類が創造される途中過程もすべて見ておられ、すべてご存知であられる。


そういう理解でイエス様というお方をとらえているわけですね。


しかしイスラエル民族の前にイエス様が現れたとき、当時のイスラエル民族、ユダヤ人から見たイエス様という存在は普通の人そのものの姿であったわけですね。


イエス様は普通な大工を営むユダヤ人の両親から生まれ、その息子が神の教えを説いている。そう捉えていたわけですね。

ですので今のキリスト教徒と当時のユダヤ教関係者やユダヤ人が捉えていたイエス様とは視点がだいぶ違ったわけです。


ユダヤ教指導者からするとイエス様は、当時の宗教界の秩序を乱す新しい教えを説く者、当時から見ると異端の教えを広めるものというそういう見方をされてしまったわけです。ユダヤ人指導者たちにとってはイエス様は生意気な若者そのものだった様です。


結局様イエス様は特にユダヤ教指導者層から排斥され、十字架の刑に追いやられたのです。


本来はイエス様という存在は、旧約聖書がそのものがイエス様証し、来臨を目的として書かれています。


何千年もの長い、神の準備の歴史を通してイスラエル民族の前に送られてきた方であったのですが、なんと当時の人々から排斥されてしまったのです。


イエス様の語る言葉には神の権威が働いていたので、人々の魂を救い病を癒やしました。

イエス様は当時の宗教人からすると、新しい次元の話を語る方だったのです。


当時のユダヤ教の指導者においては、一部の知恵ある指導者ニコデモなど、限られた一部の知恵の教師がイエス様の教えに感銘を受けて、夜間人々の目を避けて話を聞きにお伺いすることは有りました。しかし残念なことに、当時の多くのユダヤ教の指導者たちはイエス様を受け入れられず、神の願うように正しくお迎えする事が出来ませんでした。


指導者層は自らの教団における権威とか当時の現世的な利権、築いてきた宗教的な教え、それらを守ることを最優先してしまったがゆえに、人々の魂を救済する力ある言葉を語るイエスキリストという存在に対し排他心から十字架の道に追いやってしまったわけです。


このようなことは、現代を生きる私達の時代でも起こるかもしれないということなんですね。いまの宗教教団や、その中における様々な役職、経済的基盤など外面的に見れば順調で波風少なく運営している宗教組織、キリスト教以外の宗教も数々有ります。


しかし当時のイエスキリストのような、確かに人々を救う真理、福音の力を持っておられるお方が眼の前に現れた時には、それまでのすべての基盤や自分の名誉や役職、組織、そのようなものをすべて横に置いてでも、まずキリストを迎えなければならない。そのような姿勢であってこそ真実であると思います。


ゲッセマネの祈り


イエス様は在世当時ゲッセマネという場所で祈られつつ、もうご自分の真意を当時の社会、特にユダヤ教の指導者たちに伝えることが困難であると悟られた時にイエス様は十字架による救いの道への決意をなされたのでした。


ところで、イエス様は十字架の出来事を前にして、このように神様に祈られました。


「わが神わが神どうかこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし私の意のままにではなく、神の御心のままになさってください」


このような聖書の記述が有りますよね。


このことについて、これまでのキリスト教においては、イエス様はご自身が多くの人々の犠牲の備え物となって血を流すということに対して恐れを感じ、人間的な弱さによってそのように祈られたのだと解釈されて来ました。


そのようなイエス様の姿こそ人間の肉体をまとって、私達人間と同じ低さに降りられ、弱さと苦しみを覚えられたのだと。だから私達はイエス様に親近感を得られるのだと。


しかし実はイエス様の心の内は、そのような次元の心の悩みではなかったのですね。


イエス様は実はご自分が地上に生きておられる時に、ご自分の相対となるご結婚相手となる存在を想定されていた、ということを知っていただきたいのです。


イエス様は先ほど申しましたように、今のキリスト教会においては三位一体の神そのものというふうに捉えられて、拝む対象となっておられますけれども、

当時2000年前のユダヤの地に前に来られた時には確かに今生きてる私達と同じ肉体と、また人生の日々を過ごしておられたイエスキリストであられたわけですね。


そして勿論イエスキリストは男性であり男性器も持っておられたわけです。


神様は人間に対し、身体の器官においては何ひとつ不要なものは設けられないという事をご存知だと思います。

イエス様にもそのような器官は確かに有りました。


ご自身のみ言葉におかれましても、他の女に対し誘惑の思いを寄せること、思うこと自体でも罪であるということを言っておられました。

すなわち「性」のことについても、戒めや教えを述べておられました。


イエス様が性の潔さについて戒められたのは、本来、性というのは神様が備えられた最も尊いもの、潔いもの、神聖なもので、本来神様が祝福されるべきものであったからです。


イエス様ご自身におかれましても、本来はユダヤ民族が神のみこころに沿って、イエス様ご自身を正しく迎える信仰姿勢で迎えられていたならば、その信仰の基盤を条件として、イエス様もご結婚相手をお迎えして、ご家庭、ご子孫を残される、そのような本来の救いの道があったということを感じてほしいんですね。


しかしその救いの道については、ご自分を迎える選民の信仰のなさ故に成し遂げられなかった。


そしてもう一つの救いの道、すなわちご自分が血を流し、神への供え物となって、第二次の救いの摂理として十字架における犠牲の供え物、人類の罪の贖いの道をイエス様は選ばれたわけです。


ですのでイエス様は本来ご自分が十字架の供え物になることを最初から願っておられたわけではなく、メシアとしてメシアの妻を迎えたならば、本来のメシア使命を行使され、メシアの子孫が続いたでしょう。


メシアがそこまで成し遂げられたならば、イエス様の弟子たちも結婚し家庭を持つことが、神から許され奨励されたことでしょう。


弟子たちはあくまでも自分たちの教師であるイエス様が歩まれたところまでは行くことができるが、それ以上の道は行くことができない。


そのような聖書のみことばがあります。


弟子はその師のようになれば良いのであり、その師以上の道まではに行くことはできないと。


ですので聖書の中においてパウロはこう述べています。


「信徒は出来るなら結婚しないで、パウロ自らのように生涯独身、ひとりでいることが一番良い」と言いました。


イエス様がもしご結婚され、家庭を持たれていたならば、当時の弟子たちも結婚をし、家庭を持つということが神の祝福される認められたものになってたはずなんですね。


ところがイエス様はご自分が十字架の犠牲の道、独身で十字架の供え物の犠牲の道に歩まれたが故に、

続く弟子たちも、またその後のキリスト教信徒もイエス様と同じような十字架の道を歩むことが最高の美徳とされたのでした。

自らの血を流して信仰の証を立てるという道です。


イエス様の十字架の血の贖いを信じる重要性


ところが今現在を生きる私たちにとって信仰をしたからといって極刑に付されるという環境がありますでしょうか?

今はそのような状況がほぼなくなってきております。


それは、今現代の時代はメシアであるキリストを備えものとして神の前に供え物として捧げるというというよりは、むしろキリストを私たちの王、王の王として迎える。

イエス様の本来の立場としてメシアをお迎えする、そういう時代になって来ている。

その事を今の世の中の状況を見て我々は悟っていかなければならないのではないかと思います。


しかしこれまでのキリスト教における信仰、イエス様の十字架による赦しの愛、その血による贖いを受け入れ信じて仰ぐことによって、その信仰により確かな聖霊を受ける。

この事はとても大事なことであり、そのことを通すべきであると思います。


私たちは教会生活、日常生活において神様、イエス様の聖霊によってその促しによってイエスの愛を身を持って行なう事が出来ます。


また兄弟姉妹との交わりのなかで、私たち自身の人間の罪の性質である高ぶりとか自己中心とかそのような性質も聖霊によって示され修正することが出来るようになります。


イエス様の十字架の血の贖いを信じ受け入れることによって信仰生活が末永く崩れることなく守られるのです。


信じる各人の心の中に、霊となったイエスキリストが住まわれてイエス様のお心を霊的に感じ取ることができるのですね。

そういう新たな感性は、十字架による血の贖いを受けることによって神様からの一方的な恵みによっていただくことができるのです。


ですので十字架による贖いの救いはイエス様についての第二次的な計画の救いではあったけれども、

それが歴史の事実として残され人類に与えられているということなのです。


ですので神様を求めるものはイエス様を信じることによる聖霊の内住の恵み、そのことを必ず通るべきであると思います。

そして再び来られるキリストを迎える準備をしてゆかなければならない。そのことを本当に思います。


では今日はここまでとさせていただきたいと思います。

ありがとうございました。



【質疑応答の時間】



Q1:クリスチャンの方はイエスキリストを神様創造主だと捉えているのですか?


A:はい。クリスチャンはですね、イエス様は創造主であり、イエス様=神様である。という捉え方をしています。

ですのでイエス様につきましては、神様が人間の肉体を纏ってこられた神の子、すなわち普通の人間とは違う。という捉え方をしているわけなのです。


また聖書のなかでイエス様は在世当時、荒海の中の水の上を歩いたり、荒野においてみ教えを聞きに来た男女、子供を合わせて約2万人近くの民衆に対し、2つの魚と5つのパンを分けて、すべてのひとに給食されたなどの奇跡を行われました。

現代の人から観ると、そしてクリスチャンからするとイエス様は神そのものとして見えるわけです。


でも、私はイエス様は生身を持った普通の人間であって内面の霊性が優れていた、同じ人間であったという捉え方が自然だと思います。


奇跡的な現象へ人間もある程度は出来るかもしれません。


私達人間の中に本来宿っている霊的な本性としては、イエス様と同じようなキリストと同じようなものを持ってる。


ただし罪を抱えた人間はその本性が埋もれている。

そういう捉え方の方がイエス様がより親しくですね、イエス様を日々自らにお迎えしていきたい親近感のある心持ちになると思います。


罪を背負った持った人間は自分が罪人なので、イエス様を拝む対象の存在として思いやすいのですが、

本来のクリスチャンとしては、イエス様は拝む存在ではなく、イエス様を自分の心にお迎えしてイエス様のお心を感じ取れるものになる。

そういうことがクリスチャンとして大事ではないかなと思います。


ある例話になりますが、「塩狩峠」という作家の三浦綾子さんが書かれた実話に基づいた小説、映画ストーリーがあります。


冬の北海道、旭川の山合いの峠を走る列車が頂上付近でブレーキが故障し列車が暴走しはじめた時、その列車に乗り合わせていた、クリスチャンの永野さんという男性が、列車の車輪付近に自分の身を投じて列車の暴走を止め、そこに乗り合わせた多くの乗客の命を救った。という実話に基づいたストーリーがあります。


この方は当時、ご結婚を約束した自分の婚約者がおられたのに自らそのような行動を決断されました。


その方は、気違いになってそういうことをしたわけではなく、イエスキリストの福音を聞きクリスチャンになり、イエス様のお心が自分の身に染みてわかっていた方なんですね。

ですので自分がいざそのような危機的な状況に出会った時に、

自らの身を投じてでも、多くの人を救いたいというイエス様のお心を自ら思案もせずに、身体が自然にそう動いてしまうほどイエス様との霊の一体感というものがきっとその方に在ったのですね。


Q2:「イエスとまた出会う」とはどういうことでしょうか?


A:トルストイの物語に靴屋のマルティンという物語があります。

北欧の靴職人の物語です。

この方は靴職人で、真面目に人々の靴の修理をする仕事をしていました。

この方は、早期に奥さんそして子供を無くし、心に深い悲しみを持っていました。


ところが、彼は夜に聖書を読む習慣を持つようになりました。その聖書の言葉に彼自身、深い心の慰めを得ていました。

ある夜、彼の夢のなかでイエス様がマルティンに語りかけられました。

「マルティン、私はお前を愛している。明日、お前に会いにいくよ」

彼にはイエス様のお声がたしかに聞こえたのでした。


翌日、外はとても寒い吹雪の日でした。

仕事をしながら窓の外を眺めつつ、いくら待っても約束をくださったイエス様が現れません。


そんな中、窓の外でとても冷える中で雪かきをしている老人が見えました。彼は老人を部屋の中に招き入れ、熱いお茶をふるまいつつ和やかな会話を交わし、その老人を励まし、その老人はマルティンに感謝な思いを伝えました。



その後、こんどは窓の外にある婦人を見ました。この婦人は寒い中、暖かな充分な衣服も着れていない、子供抱えた母親でした。


彼女は自分が十分な食事がとれておらず、栄養不足のために自分の子供にお乳も与えることができず困っていました。

そこでマルティンは彼女を部屋に招き入れ、パンと温かいスープを彼女にふるまい、またマルティンの上着を彼女に与えました。


その母はその上着を自分の幼い子どもにそくるませて、涙をもって感謝しつつ去っていったのでした。


マルティンはイエス様がその日に現れなくても、あらゆる状況のなか、心から他の人々にそのような親切を尽くしたのでした。


その日彼が寝床につく頃に、再び確かなイエス様のお声を聞きました。


この様な言葉でした。


「マルティン、マルティン、今日私があなたに会いに来たのだよ。気づいていたかい?」


雪かきをしていた男性、食物に困り充分な着るものもなかった女性。それがイエス様だったのでした。


私たちが日常生活で出会う人々においても

出会う相手のその中に、イエス様がおられるかもしれない。


その魂の中にですね。

その出会う相手が幼い子どもかもしれない。

または日常に出会う、歩くのにも困っているお年寄りかもしれません。でもその中にイエスキリストが入られて、私たちの愛を見ておられるかもしれない。

そういうことなんです。


イエス様という存在は、いまも天界におられてご自身は、霊的には愛に満ちあふれた光り輝く発光体の力強い霊体を持っておられます。


しかしながら、そのような存在のお方というのは同時にですね、貧しい底辺の中であえぐ人々の心の中にも入っていける。その心の苦しみ悩みも瞬時に感じとれる大きな心を持っておられるわけです。そういう貧しい苦しんでいる人の心も手にとるようにわかるわけですね。


現代に生きる私たちにおいても、私たちのコミュニケーションの中に神様がイエス様が宿ってその中におられるのかもしれません。


イエス様は祈りと礼拝についてこのように語られています。


二人または三人で祈る中、その中に私は共にいる。

一人で祈るのも素晴らしいですけども、イエスキリストがおっしゃっているように二人または三人で神に対して祈る。


共に神様の恵みを語り合い分かち合う。

そのような真実のコミュニケーションの中に、イエスキリストが霊の姿を持って、その交わりの中心にこられる。


現在地上に生きてる私たちは霊の姿をなかなか見ることができないことが多いわけですけども、イエス様の霊的実在というのは実際あるんですね。


そして私たちが死んだ後に、イエス様の実在を自らの霊の目で実際に見て仰ぐことができると思いますね。


私たち地上で肉体を持ってる時は霊の目は滅多に開かれないということが多いんです。


でもむしろそのことこそが地上に肉体を纏って生きていることの意味かもしれない。


肉体の目には見えない。かすかに心に感じとれる神様の思いや、み心を感じ取り、この様な目の見えない盲目のような世の中、地上生活の中でも信仰でもってイエス様の存在を感じ取る。そして真実の愛の関係を作り上げる。

それを神様が御心としているのではないかと思います。


キリスト教の人、クリスチャンの方は、老人介護施設の仕事や看護師、お医者さんになることを好み、自からそういう道に進まれる方が多いわけですけども、

クリスチャンの方は自然と心ならずも日常生活、仕事生活にそのように現れているのではないかと思います。



Q3:よく新宿などの街中で「イエスキリストは救い主。信じれば救われます」などのマイクでのアナウンスをして巡回している人々がいますが、あの方たちはどういう方たちでしょうか?



A:はいそうですね。新宿とか繁華街などで、「イエスキリストを信じればあなたたちは救われます」と、単調な口調でおっしゃっておられる方がいます。


あの方たちもキリスト教信徒です。ただイエスキリストの再臨とその裁きのことを、強調して話しておられるのかなと思います。


確かに聖書においてイエスキリストは再臨される時に裁き主として来られるということは記されておりますが、その裁きのことについては後日統一教の信仰の面でもお伝えしてゆくと思いますが、

その裁きとは、私たちの心の中にある悪が、暗闇が裁かれる。


その裁きに対して悪と暗闇は恐れ、そして自分たちが明白とされることを恐れているわけです。


おっしゃっている繁華街などで聖書のアナウンスをされている放送は、人間個体そのものが裁かれて、地獄に行くというようなニュアンスでもって伝わってしまっているような感じがしますね。


統一原理からすればですね、すべての人は滅ぼされないんです。滅ぼすことが出来ないのです。


今現在はどんなに生活が荒れていても、神様がすべての人ひとりひとりに与えられた本性と命というのは等しく付与されているわけです。


神様からすれば一人の命でも失うことはできないのです。すべての人は等しく神様から愛されている永遠の命を持っている子どもであるのですね。


いつか神様はその暗闇と悪の法則に対して、神様の光で照らして明らかにされれば、おのずと悪の性質と暗闇は滅ぼされることとなります。


そして人間の本性、神の子としての本性を取り戻す道を備えておられる。それが神の裁きの日、審判の時であると思います。


聖書の中において、救いの順序として第一の死、第二の死という順序は記されており1000年王国の後でないと救われない魂などの記述がございますが、すべての人は等しく神様から本性が与えられている。


その本性を持った人間個人は、神様が最終的にはご自分のものとして取り戻してくださる。引き寄せてくださると思います。


街中で聖書をアナウンスをされている方は、人間自身そのものが滅ぼされるというふうなニュアンスでもって、話が伝わってしまっているかも知れないので、キリスト教について恐れを感じさせてしまっているかもしれません。


これからはクリスチャンが、神様の人間に対する本当の救いのみこころを、正しくストレートに伝えていかなければならないことを思います。



ご質問はここまででしょうか。

ありがとうございました。

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