2024年6月6日木曜日

LIVE 第62回_真の萬物の日・世界基督教統一神霊協会創立70周年・先祖解怨祝福式 ◆2023年6月18日(天基15年天暦5月1日◆・テネシー清平

 LIVE62回_真の萬物の日

世界基督教統一神霊協会創立70周年

先祖解怨祝福式



訓読


翻訳提供:江利川大陸会長

『文鮮明先生御言選集』第16巻259~261ページ(1966年6月19日)


 皆さん! 私たち統一教会は、世の中にない日を定めました。統一教会で記念する四大名節は、大韓民国の歴史的な大きな名節とは比較することもできない名節です。

 人間たちが最も願う日はどのような日ですか? それは「父母の日」です。すなわち父母をもつことができるその日を願っているのです。

 人類は堕落することによって父母を失ってしまったので、復帰することの中で最も重要なことは父母を迎えることです。父母を迎える場に行くまでは子女になることができません。ですから、「父母の日」を定めなければなりません。「父母の日」が世の中で完全に蕩減復帰されたのちに「子女の日」がなければなりません。そうして、真なる父母と真なる子女の因縁を中心とする「父母の日」と「子女の日」が決定したのちに、「万物の日」を定めなければならないのです。

 皆さんの中で、きょうこの場に初めて参席した人がいるかもしれませんが、この「万物の日」がどのように出てきたのでしょうか? エデンの園でアダムとエバが堕落することによってまかれた罪の種が、彼らの息子たちカインとアベルによって収穫されました。ですから、罪の種をまいた父母が復帰されなければならないのです。そして、天宙史的な父母復帰基台を中心として、忠孝の道理を果たすことのできる子女の基準を復帰しなければなりません。この基準が決定したのちに初めて「万物の日」が出てきたのです。

 今日、この地上に広がっている万物は、とてもかわいそうな立場にいることを、皆さんは知らなければなりません。神様の希望の中でつくられた万物だったのであり、神様があらゆる精誠をすべてこめてつくった万物でしたが、人間が堕落することによって、万物は人間の代わりに贖罪の過程を経なければならず、悲しく犠牲を被らなければなりませんでした。人を殺して祭祀を捧げることはできないので、万物を祭物として犠牲の祭祀を捧げてきたのです。

 祭物として捧げられる万物も悲しいですが、神様の愛する息子、娘たちがこの地で多くの血を流していったことは、さらに悲しいことです。このような摂理を数千年の間してこられた神様がいらっしゃるという事実を考えるとき、誰が否定しようとしても否定できない曲折が、神様の摂理の中に貫かれていることを知らなければなりません。

 歴史を立て直すために、歴代の大勢の聖賢、烈士たちが血の祭壇をつなげてきました。また、本来の創造理念を中心とすれば、想像もできず、考えてもいけない、見てもいけない哀れで寂しい道を歩んできたことを皆さんは知らなければなりません。犠牲の場を避ける道がなかったのです。

 自分の一度の犠牲によって人間を救うことができるその日を待ち望んだにもかかわらず、復帰摂理の責任を背負ってきたこの地上の大勢の聖賢、烈士たちは、方々で血涙を流して倒れていきました。

 今日、皆さんが大韓民国の三千里半島と向き合うとき、この民族を救うために血と汗を流しながら、祭物あるいは囚われの身となって追い立てられ、追い詰められ、血を吐いて息絶えた凄惨な運命の道を行った人たちがいたことを、皆さんは考えなければなりません。神様が愛される息子、娘たちが血涙を流し、死の峠を越えていかなければならなかったというこの悲しい事情を知らなければならないのです。

 人間が堕落していなければ、この天地の間にこのようなことはなかったはずですが、堕落したためにこのようなことが起こったのです。しかし、一日も早くなくならなければならないことです。

 神様の国のために、霊的なイスラエルを形成したきたキリスト教徒たちに、今までどこに神様をお迎えして暮らすことのできる地がありましたか? 人間は暮らせる地があり、家がありましたが、神様が「永遠の私の地であり、私の家だ」とおっしゃることのできる地と家があったのかというのです。神様は今まで流浪の身でした。したがって、皆さんも、ここから追われればあそこに、あそこから追われればここに避難しなければならない流浪の身を避けられない神様の身内だと考えなければなりません。

 神様は、悪主権に苦しめられながらも、善主権の一日を立てるために6000年間、摂理してこられました。その一日の代表者を迎えるため、もろ手を合掌して待ち望みながら痛ましい血と汗の祭壇を築き、善主権の本郷の地を求めてきたのが今までの宗教だったのです。皆さんは、善を探し立てるまで、その背後の痛ましさと悲惨さと死の歴史を知らなければなりません。

 審判の役事を通して怨讐たちを処断し、罪悪の歴史を収拾することによって、神様の恨を解いてさしあげる責任を果たす天の王者が出てくることを願うのが神様の希望であることを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 先生は神様に、「お父様、私の一生涯の苦労は残ることなく過ぎていくものですが、一片丹心であなたを愛し、忠誠をつくそうとする真心からの情熱だけは残るようにしてください。そのためであれば、死の道も意に介さずにまいります」と祈祷したことがあります。

 このような場で先生が願うことは、皆さんが神様の前に一個人を中心として祈祷し、一家庭、一氏族、一民族、一国家を中心として祈祷し、億千万世まで神様が訪ねてこられる安息の基盤を準備しなければならないということです。このような安息の基盤を、個人的、家庭的、氏族的、国家的に準備して神様の前に捧げなければなりません。

 ですから、今まで私たちが個人復帰の基準を取り戻すと同時に、神様が許諾なさることのできる万物復帰の基盤を築いてきたのです。

 私たちは、1960年度に1次7年路程を出発しました。この路程において、真の息子、娘が出てくる前に「真の父母の日」、「真の子女の日」が出てくることはできなかったため、「父母の日」、「子女の日」を先に立てました。そして、3年路程を経たのち、「万物の日」を定めたのです。この日を定めてからすでに4年が過ぎました。

 このような日を、今までは、大韓民国の人たちだけでなく、30億の人類も知りませんでしたが、今後、世界万民が称えることのできる歴史的な一日になることを皆さんは知らなければなりません。



先祖解怨祝福式Ancestor Liberation 06/06/2024

_________________________

2024年6月5日水曜日

キリスト再臨アドベント20 イエスが子どもを持たなければならなかった理由◆文信俊三代王◆The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

 日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント20

イエスが子どもを持たなければならなかった理由

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.

20. (20240523) 

Why Jesus was Supposed to have kids

イエスが子どもを持たなければならなかった理由

 

[イエスがアダムと共有した使命について少し詳しく述べてきましたが、第二の祝福である「ふえよ」が、イエス・キリストとそのメシヤとしての彼の使命にどのように適用されるのでしょうか。]

 


キリストは死ぬために来られたのではなく、最初のアダムによって未完成のまま残された使命を果たすために、第二のアダム、あるいは最後のアダムとして来られたのです。


簡単にまとめると、神は本質的に不変であり、絶対的であり、善であられるので、神の子らに対する神の当初の御計画は、不変であり、絶対的であり、善であるのです。

天地創造の前から、神はアダムとエバに輝かしい未来を思い描いていらっしゃいました。

彼らの不従順の後に神が悲しんだことからも明らかなように、アダムとエバが堕落することを計画したのではありません。

 

したがって、聖書の物語全体は、神が堕落した子どもたちに、ご自身の御子であるメシアを迎える準備をさせているのです。

アダムとエバに対する神の宣言に描かれたエデンの青写真を取り戻すために。


「成熟しなさい、増えなさい...そして、すべての被造物を支配しなさい。」と、創世記1:28で語られているのは、第二のアダムであるイエス・キリストに論理的に延長されました。

前回のビデオで、私たちはすでに第一と第三の祝福について少し触れました。

 

それでは、第二の祝福である「ふえよ」について話しましょう。

まず、キリストの働きに関する神の当初の枠組みを思い出してください。

エデンにおいてアダムとエバは完成された個人として結ばれ、原罪のない子女たちを産み、この罪のない血統を地上の天の王国へと広めることでした。

 

キリストは、人類に対する神の当初のビジョンを否定したり変えたりするために来られたのではありません。

むしろ、それを成就するために来られたのです。

つまり、第二のアダムであるイエスは、堕落のプロセスを逆転させ、アダムが成し遂げられなかったことを成就するために来られるのです。(創世記6:5-6)

 

第二に、旧約聖書の預言は、メシアが第二の祝福という本来の創造の使命を果たすという概念を直接的に証明しています。

(エレミヤ書33:14-26)

わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。

その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。

その名は、『主はわれわれの正義』ととなえられる。

イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。

もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、しもべダビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えられない。

天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。そのようにわたしは、しもべダビデの子孫の数を増そう。

もしわたしが昼と夜とに契約を立てず、また天地のおきてを定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブとわたしのしもべダビデとの子孫を捨てて、再び彼の子孫のうちからアブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばない。わたしは彼らを再び栄えさせ、彼らにあわれみをたれよう。

 

これまで見てきたように、公平と正義をもってイスラエルを治める正しい枝は、エルサレムに対する実体的(肉身の)王権の血統を持って、イスラエルのかつての栄光の復帰を約束すると見なされます。

主は、複数の別々の機会に、天と地、昼と夜の法則が不変であるようにと宣言されています。

ダビデの永遠なる血統の契約は、額面通りに受け取らなければなりません。

預言者エレミヤの霊感を受けた言葉によれば、『主はわれわれの正義』ととなえられるダビデ王に続く、永遠の実体(肉身)の血統が存在すると述べています。


 

この預言をメシア的なものではないと否定するには、まず、メシアに関連する他の名前、まさにこの箇所の、「わたしのしもべダビデ」や 『主はわれわれの正義』といった名前を克服しなければなりません。

そしてそれは同時に、他の著名なメシア預言、イザヤ書11章、エレミヤ書23:5-6、ゼカリヤ書6:12-15をも無視することになります。これらはどれも似たような木の表現を使っています。

 

メシアの子孫を純粋に霊的な存在として解釈しようとするのはどうでしょうか。

それは、旧約聖書を通して創造の最初から繰り返されてきた血統の枠組み全体を無視することになります。

最初のアダムが堕落せず、罪がなかったとしたら、彼の罪のない子孫は霊的であっただけでなく、むしろ霊的かつ肉体的(実体的)であったでしょう。

 

しかし、血統の重要な本質はエデンだけにとどまらず、子孫の重大な本質は、イスラエルの社会と文化に浸透している聖書全体に広く記録されています。

イスラエル人として、それは文字通り、あなたが誰であるかを定義していました。父誰々の息子または娘と呼ばれたように。


実際、聖書の物語全体は、アダムからキリストに至る血統の物語です。

さらに、キリストが究極の大祭司としてその血統を受け継いで来られることは、旧約聖書の伝統である神権継承と自然に一致します。

 

このように、イスラエル人が肉身の血統を重視していた背景を踏まえて、この聖句を率直に読めば、実体的肉身の王権について言及していることは明らかです。

その上、メシアの血統の子孫の中から戴冠されるのは唯一の血統であることも、さらに、この預言が教会のような法人組織ではなく、実体的肉身の王権を指していることを示唆しています。

 

この解釈を裏付けるように、旧約聖書は、ダビデの血統が永遠に保たれるという神の契約的記述で満たされています。

このように、エレミヤ書33章だけではなく、別の預言もキリストが死ぬはずではなかったということを示しています(サムエル記下22:50-51、詩篇18:50,89篇など)。


 

それは、メシアが第一の祝福、第三の祝福とともに、第二の祝福も成就しなければならないことをさらに強調しています。

最後に、キリストの中心的な使命は十字架につけられることではなく、地上に永遠の天の王国を実現するという崇高な終末論的期待を成し遂げることであったことを見てきました。

(イザヤ書9:1-7) (ミカ書4:1-2)

 

以前のビデオではもっと詳しく説明しましたが、これは、旧約聖書の圧倒的多数の預言、新約聖書の預言の数々、ユダヤ教とキリスト教の神学の側面、イエスの自己認識、キリストが十字架刑の計画を非難し、その結果としてエルサレムのために泣かれたこと、弟子たちが十字架刑に対して悲しみに打ちひしがれ憤慨したこと、イスラエルの歴史、そしておそらく最も重要なこととして、園において天の父に対して私たちの主が誠実さを貫くことによって示されました。

 

このように、私たちは聖書を通して、キリストは死ぬはずではなかったという結論に達しました。

キリストの第一の願いは、実体的な王国を建国することでした。

しかしながら、そこにキリストが君臨する実体的な王国を樹立するためには、キリストは肉身をもって来なければなりませんでした。その肉身はやがて霊界に移行します。

ルカによる福音書2章52節で語られているように、キリストでさえも肉身をもって成長し、時が経つにつれて老いていったのです。

 

非常に良い創造モデルを反映したイエスの肉身は、生命の第三段階である永遠の霊界へと自然に移行するはずでした。

この事実によって、キリストは天の玉座から永遠に統治されるはずでした。

イエス・キリストとその子孫によって占められるはずであったダビデの実体の王座は、キリストの再臨とその肉身の血統が確立されるまで空席のままなのです。

言い換えれば、イエスの系譜は、彼自身の民の悲劇的な裏切りさえなければ続いていたのです。

 

クリスチャンの中には、キリストが原初の創造モデルを成就させることになっていたという指摘に困惑する人もいるでしょう。

特に、第二の祝福については、次のような複数の論点があります。


第一に、旧約聖書がメシアが第二の祝福を成就すると明言しているという問題があります。

この一節の明瞭な性質が、なぜ別の意味で理解されなければならないのか、その理由が示されなければなりません。

第二に、神がセックスを創造されたので、セックスは神のおっしゃる、「はなはだ良かった」創造モデルの一部です。

それは実際、結婚という関係における成熟した男女の一体化を通して、神は人類が男女間の愛の充満を経験し、新しい生命を生み出し、神の血統を代々受け継いでいくことを意図されたのです。


 

したがって、セックスは本質的に悪いものでも邪悪なものでもありません。

まさに園の中で、果実を食べることによって善にも悪にもなる可能性があったように、神の王国のために実を結ぶか、サタンの王国のために実を結ぶかは、性行為という、より大きな関係の中で決まるのです。

アダムとエバ以来、神の子どもたちを滅ぼすサタンの主要な武器は、セックスの不正使用です。

聖人達がしばしばセックスを恥ずべき行為とみなすのはこのためです。


 

しかしながら、メシアに消化神経系や呼吸器系があるように、メシアには神の究極の御旨を成就するための生殖器官もあります。

 

最後に、キリストがなぜ死ぬために来たのではなかったかについては、ある程度長くなってしまいましたが、次のことが証明されました。

イエスには肉身の血統があるはずであるという推論は論理的であることが証明されました。

このように、キリストの本来の使命についてさらに深く掘り下げると、結論として次のようになります。


キリストが来られたのは、原罪から世界を清めるためであると同時に、人類の本来の創造モデルを成就するためでした。特に、第二の祝福の成就は、神の本来の完全な創造を通して示されました。

 

旧約聖書の預言、イスラエルの律法と文化、そしてイエスが悲劇的に死ぬために来たのではないという推論から、キリストは、救うために来られたまさにその人々に裏切られ、殺害されたのです。

しかし、人々の不信仰を駆り立てた究極のきっかけは何だったのでしょうか?

次回のシリーズでは、イスラエルが救い主を十字架につけることになった、歴史上重要な人物の不従順について論じます。

次回またお会いしましょう。

祝福された一日をお過ごしください。


________________