日本語訳
The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series
キリスト再臨アドベント20
イエスが子どもを持たなければならなかった理由
Why Jesus was Supposed to have kids
イエスが子どもを持たなければならなかった理由
[イエスがアダムと共有した使命について少し詳しく述べてきましたが、第二の祝福である「ふえよ」が、イエス・キリストとそのメシヤとしての彼の使命にどのように適用されるのでしょうか。]
キリストは死ぬために来られたのではなく、最初のアダムによって未完成のまま残された使命を果たすために、第二のアダム、あるいは最後のアダムとして来られたのです。
簡単にまとめると、神は本質的に不変であり、絶対的であり、善であられるので、神の子らに対する神の当初の御計画は、不変であり、絶対的であり、善であるのです。
天地創造の前から、神はアダムとエバに輝かしい未来を思い描いていらっしゃいました。
彼らの不従順の後に神が悲しんだことからも明らかなように、アダムとエバが堕落することを計画したのではありません。
したがって、聖書の物語全体は、神が堕落した子どもたちに、ご自身の御子であるメシアを迎える準備をさせているのです。
アダムとエバに対する神の宣言に描かれたエデンの青写真を取り戻すために。
「成熟しなさい、増えなさい...そして、すべての被造物を支配しなさい。」と、創世記1:28で語られているのは、第二のアダムであるイエス・キリストに論理的に延長されました。
前回のビデオで、私たちはすでに第一と第三の祝福について少し触れました。
それでは、第二の祝福である「ふえよ」について話しましょう。
まず、キリストの働きに関する神の当初の枠組みを思い出してください。
エデンにおいてアダムとエバは完成された個人として結ばれ、原罪のない子女たちを産み、この罪のない血統を地上の天の王国へと広めることでした。
キリストは、人類に対する神の当初のビジョンを否定したり変えたりするために来られたのではありません。
むしろ、それを成就するために来られたのです。
つまり、第二のアダムであるイエスは、堕落のプロセスを逆転させ、アダムが成し遂げられなかったことを成就するために来られるのです。(創世記6:5-6)
第二に、旧約聖書の預言は、メシアが第二の祝福という本来の創造の使命を果たすという概念を直接的に証明しています。
(エレミヤ書33:14-26)
わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。
その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。
その名は、『主はわれわれの正義』ととなえられる。
イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。
もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、しもべダビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えられない。
天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。そのようにわたしは、しもべダビデの子孫の数を増そう。
もしわたしが昼と夜とに契約を立てず、また天地のおきてを定めなかったのであれば、わたしは、ヤコブとわたしのしもべダビデとの子孫を捨てて、再び彼の子孫のうちからアブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばない。わたしは彼らを再び栄えさせ、彼らにあわれみをたれよう。
これまで見てきたように、公平と正義をもってイスラエルを治める正しい枝は、エルサレムに対する実体的(肉身の)王権の血統を持って、イスラエルのかつての栄光の復帰を約束すると見なされます。
主は、複数の別々の機会に、天と地、昼と夜の法則が不変であるようにと宣言されています。
ダビデの永遠なる血統の契約は、額面通りに受け取らなければなりません。
預言者エレミヤの霊感を受けた言葉によれば、『主はわれわれの正義』ととなえられるダビデ王に続く、永遠の実体(肉身)の血統が存在すると述べています。
この預言をメシア的なものではないと否定するには、まず、メシアに関連する他の名前、まさにこの箇所の、「わたしのしもべダビデ」や 『主はわれわれの正義』といった名前を克服しなければなりません。
そしてそれは同時に、他の著名なメシア預言、イザヤ書11章、エレミヤ書23:5-6、ゼカリヤ書6:12-15をも無視することになります。これらはどれも似たような木の表現を使っています。
メシアの子孫を純粋に霊的な存在として解釈しようとするのはどうでしょうか。
それは、旧約聖書を通して創造の最初から繰り返されてきた血統の枠組み全体を無視することになります。
最初のアダムが堕落せず、罪がなかったとしたら、彼の罪のない子孫は霊的であっただけでなく、むしろ霊的かつ肉体的(実体的)であったでしょう。
しかし、血統の重要な本質はエデンだけにとどまらず、子孫の重大な本質は、イスラエルの社会と文化に浸透している聖書全体に広く記録されています。
イスラエル人として、それは文字通り、あなたが誰であるかを定義していました。父誰々の息子または娘と呼ばれたように。
実際、聖書の物語全体は、アダムからキリストに至る血統の物語です。
さらに、キリストが究極の大祭司としてその血統を受け継いで来られることは、旧約聖書の伝統である神権継承と自然に一致します。
このように、イスラエル人が肉身の血統を重視していた背景を踏まえて、この聖句を率直に読めば、実体的肉身の王権について言及していることは明らかです。
その上、メシアの血統の子孫の中から戴冠されるのは唯一の血統であることも、さらに、この預言が教会のような法人組織ではなく、実体的肉身の王権を指していることを示唆しています。
この解釈を裏付けるように、旧約聖書は、ダビデの血統が永遠に保たれるという神の契約的記述で満たされています。
このように、エレミヤ書33章だけではなく、別の預言もキリストが死ぬはずではなかったということを示しています(サムエル記下22:50-51、詩篇18:50,89篇など)。
それは、メシアが第一の祝福、第三の祝福とともに、第二の祝福も成就しなければならないことをさらに強調しています。
最後に、キリストの中心的な使命は十字架につけられることではなく、地上に永遠の天の王国を実現するという崇高な終末論的期待を成し遂げることであったことを見てきました。
(イザヤ書9:1-7) (ミカ書4:1-2)
以前のビデオではもっと詳しく説明しましたが、これは、旧約聖書の圧倒的多数の預言、新約聖書の預言の数々、ユダヤ教とキリスト教の神学の側面、イエスの自己認識、キリストが十字架刑の計画を非難し、その結果としてエルサレムのために泣かれたこと、弟子たちが十字架刑に対して悲しみに打ちひしがれ憤慨したこと、イスラエルの歴史、そしておそらく最も重要なこととして、園において天の父に対して私たちの主が誠実さを貫くことによって示されました。
このように、私たちは聖書を通して、キリストは死ぬはずではなかったという結論に達しました。
キリストの第一の願いは、実体的な王国を建国することでした。
しかしながら、そこにキリストが君臨する実体的な王国を樹立するためには、キリストは肉身をもって来なければなりませんでした。その肉身はやがて霊界に移行します。
ルカによる福音書2章52節で語られているように、キリストでさえも肉身をもって成長し、時が経つにつれて老いていったのです。
非常に良い創造モデルを反映したイエスの肉身は、生命の第三段階である永遠の霊界へと自然に移行するはずでした。
この事実によって、キリストは天の玉座から永遠に統治されるはずでした。
イエス・キリストとその子孫によって占められるはずであったダビデの実体の王座は、キリストの再臨とその肉身の血統が確立されるまで空席のままなのです。
言い換えれば、イエスの系譜は、彼自身の民の悲劇的な裏切りさえなければ続いていたのです。
クリスチャンの中には、キリストが原初の創造モデルを成就させることになっていたという指摘に困惑する人もいるでしょう。
特に、第二の祝福については、次のような複数の論点があります。
第一に、旧約聖書がメシアが第二の祝福を成就すると明言しているという問題があります。
この一節の明瞭な性質が、なぜ別の意味で理解されなければならないのか、その理由が示されなければなりません。
第二に、神がセックスを創造されたので、セックスは神のおっしゃる、「はなはだ良かった」創造モデルの一部です。
それは実際、結婚という関係における成熟した男女の一体化を通して、神は人類が男女間の愛の充満を経験し、新しい生命を生み出し、神の血統を代々受け継いでいくことを意図されたのです。
したがって、セックスは本質的に悪いものでも邪悪なものでもありません。
まさに園の中で、果実を食べることによって善にも悪にもなる可能性があったように、神の王国のために実を結ぶか、サタンの王国のために実を結ぶかは、性行為という、より大きな関係の中で決まるのです。
アダムとエバ以来、神の子どもたちを滅ぼすサタンの主要な武器は、セックスの不正使用です。
聖人達がしばしばセックスを恥ずべき行為とみなすのはこのためです。
しかしながら、メシアに消化神経系や呼吸器系があるように、メシアには神の究極の御旨を成就するための生殖器官もあります。
最後に、キリストがなぜ死ぬために来たのではなかったかについては、ある程度長くなってしまいましたが、次のことが証明されました。
イエスには肉身の血統があるはずであるという推論は論理的であることが証明されました。
このように、キリストの本来の使命についてさらに深く掘り下げると、結論として次のようになります。
キリストが来られたのは、原罪から世界を清めるためであると同時に、人類の本来の創造モデルを成就するためでした。特に、第二の祝福の成就は、神の本来の完全な創造を通して示されました。
旧約聖書の預言、イスラエルの律法と文化、そしてイエスが悲劇的に死ぬために来たのではないという推論から、キリストは、救うために来られたまさにその人々に裏切られ、殺害されたのです。
しかし、人々の不信仰を駆り立てた究極のきっかけは何だったのでしょうか?
次回のシリーズでは、イスラエルが救い主を十字架につけることになった、歴史上重要な人物の不従順について論じます。
次回またお会いしましょう。
祝福された一日をお過ごしください。
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