2024年1月14日日曜日

私達には再臨主の勝利がある◆2024年1月10日テネシー清平水曜礼拝 <1> 文亨進二代王

 

私達には再臨主の勝利がある

2024年1月10日テネシー清平水曜礼拝

<1>

文亨進二代王

翻訳監修編集:fanclub三原

2024.0110 성전교회 수요예배


 0:00 翻訳minion

Dear Father (Official Music Video)


さあ、座ってください。ベビーたちがここに皆いますね。今日は、今週は、ブッシュクラフトの訓練の時、雨が降るでしょう。雨が降るので寒くて、だから雨合羽やそのようなシステムも全て準備してこなければならない。訓練に。


Dear Father (Official Music Video)


韓国食口は皆アボジのビデオを見ましたか。新しいビデオ。韓国語で送らなければならないのに、説教ラップ。アボニム、アボジ、というビデオだが、児童性暴行者たちを捕まえるテリーおじさんのビデオは約2週間のうちに一千何百人かが見たのだが、1日でアボジと言う説教ラップは数千名を超えましたね。そうだろ、オンマ。


一度あげてみなさい。キングブレッドヘッドの説教ラップ。探してみなさい、テックチーム。信萬が編集を上手にしました。


だから、私たちの食口たちは、そこに入ってクリックしてLike(いいね)してこそ、もっと遠くに出て行きます。

ああ1200が見たね。2週間前のビデオよりもはるかにたくさん見たね。1日で。

堕落論のビデオも、・・・だからこれは全て英語でするので、韓国日本の食口たちは理解できません。理解できないので。


・・・しかしこれはずいぶん前から書いたのだが、他のビデオもあげなければならないので、これは先延ばしになっていたのだが、今回お父様にこのようにビデオが上がったのだが、韓国の字幕もつけました。王妃が字幕を、食口たちが理解することができるように。


おそらく2週間ごとに新しいビデオが出てくる時、字幕をつけなければならないようです。とにかく、そのようなビデオ。礼拝の時、これを見ても関係ありません。そこに入ってクリックしてくれれば、それがもっと遠くに出て行きます。どういうことか分かりますね。


だから、礼拝を見ることは関係ありません。礼拝を見るのではなく、ランブルに入ってクリックしてライク、シェア、コメント。そのようにしてこそ、ランブルでも少しずつ。監査院長の話でも「ランブルでも私たちをいまだにシャドウバーニングしていると。」


とにかく、今はYouTube、YouTubeでまた秘密チャンネルを1つ作って、このような児童性暴行者達を死刑にしろ。このようなビデオをあげないで、ただ宗教的な内容、トランプの内容、このような内容をあげようとしています、そこに。


次に児童性暴行者達を死刑にしろ、そのようなビデオが出てきたら小さなクリップにしてランブルに行け、これは削除されるだろうと。YouTubeでショーツと言って、そのようにしながら人々を、YouTubeに入ってきてランブルに行くことができるように。


とにかく、私たちは、監査院長様はこの歌を聞いて、3回聞いて、3回泣きました。それほど大変感動的な内容ですが、一般の説教では表現することができない部分が多いです。だから音楽と一緒に表現するので、完全にその部分が、もっと。

・・・韓国語の字幕はあげましたが、日本語ではおそらく他の聖殿がするでしょう。日本で。日本で、そこで、翻訳通訳もして日本の食口たちがみな見ることができるように。


とにかく、とても、このビデオはとても良い反応がありますが、愛国者の友達たちも皆反応が良いです。「お父様はいつ亡くなられたのですか?」と尋ねて、このようにしながら、相当に多くの関心を持つようになりました。私たちの愛国者の友達も。食口ではありませんが、それでも近い愛国者の友達、クリスチャンの友達たち。それほど好きだそうです。このビデオが。


マルコによる福音書11章、ロバに乗った王の王


さあ、とにかく、今日は何ですか。今日はマルコによる福音書11章ですね。マルコによる福音書11章。ロバ、ザカリアの預言をするロバの話ですね、これは。だから9節まで、1節から11節。


マルコによる福音書11章1節から訓読します。


11:1さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、11:2「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。

ろばの子!

それを解いて引いてきなさい。11:3もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。11:4そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。11:5すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。11:6弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。11:7そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。11:8すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。11:9そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、

「ホサナ、

主の御名によってきたる者に、祝福あれ。

11:10今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。

いと高き所に、ホサナ」。

11:11こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。


アーメン、アジュ


さあ、一度ダビデ、ソロモンの聖殿の絵を見てみましょう、再び。私たちは日曜日に見ましたね。英語の礼拝の時に。ダビデ王、ソロモンの聖殿。ロバに乗って入ってきたのに、テックチーム、日曜日と同じ絵をあげてください。

ここがエルサレムの聖殿ですね。ユダヤ人たちもここまで入ることができて、ここから女性たちは入ることができません。ユダヤ人の男性と女性たちはここに入ることができて、ここには女性たちは入ることができません。再視聴だけが入ることができて、次にこの外の部分は異邦人達も行くことができます。

そうしながらこれは完全にお城のようにできていますね。何かの中世時代のお城のように見えますね、これは。そうしながら、この黄色い部分が何かといえばここにパリサイ人たちが、ユダヤ人の判事たちがそこに集まります。だからそこにはスーパーエリートたちが、ユダヤ人の最も大きな祭司長達と、このようなパリサイ人たちも全てそこに集まります。赤い部分に。


そうしながら、その人たちはここで、これは2階3階、3階です。3階から下を眺めているのだが、その当時3階は高いではないですか。高い建物はないではないですか、その時。そして、イスラムは平坦で。

だから2階3階から下を見たらどれほど実際高いですか?パリサイ人たちが。しかし、主、イエス様がこの小さな門に、馬ではなくロバに乗ってその小さなものが入ってくる。どれほどみすぼらしく、どれほど悲惨か。


この人たちは皆、イエス様の12弟子が入って行っているのに、皆ここで「ホザナ!ホザナ!」このように大騒ぎしているのです。「ホザナ!ホザナ!」このように。その中でこいつらは皆、それを見ている。いやあ・・・。


だから、殺されるしかありません。本当に。イエス様は本当に、狂った騒ぎをたくさんされました。ハハハ。それは殺される行動ですね。

だから、主はカイザ王の王ではないですか。カイザ王の王ではないですか。


それから、カイザ王は大きな白馬に乗って「ブルブルブル」と回るのに、イエス様は小さなロバで「ブルル、ブルル」とこのように。それはどれほど悲惨ですか。カイザ王の王なのに。いやあ・・・。それがどれほど、どれほど悲惨ですか。


だからそのような悲惨な始まりから、キリスト教が始まりました。


マルコによる福音書11章、神殿浄化事件


そうしながらこいつらが「そいつを捕まえろ」としてイエス様を殺しましたね。

マルコによる福音書、ここでも、イエス様がここに来て、聖殿浄化事件。


それが何か分かりますか?それは、動物などを販売する人たち、このような事と銀行家たち、お金を受け渡ししているこのような部分を、イエス様はテーブルをひっくり返してこの人たちを叩いて。それをどこでしたか。ここでしました。


ここでしたのでこいつらは皆見たではないですか。暴力的にイエス様を、こいつらのシステム、このシステムをこいつらは主管しているではないですか。パリサイ人たちはこの聖殿を主管しているではないですか。そうですか?そうではないですか?


そうしながらイエス様が大騒ぎして「ホザナ!ホザナ!」と声だけではなくテーブルまでひっくり返して人々を叩いて。それを見てパリサイ人たちはどれほど憤怒したか。その赤い部分で。「殺せ、殺せ」このように。


そのように悲惨な状況で、キリスト教が始まって。

・・・考えてみなさい。どれほど失敗的な宗教であったか、実際。

イエス様が生きていらっしゃる時、12名の弟子だけがいて、もちろん治療を受けたい人たちは来ますが、しかし主に従う人、自分の命をかけて人々を実際、12名もいないイスカリオテのユダは背信したので。


そうしながらキリスト教は何百年もかかったではないですか。何百年も。キリスト教をどのように罵りましたか、最初は。

お前たちがお前たちの神、お前たちの神の血と肉を食べている狂ったやつらだ。人食い人種の宗教。このように言うのです。クリスチャンたちは人食い人種の宗教である。ハハハ。いやあ・・・。


これはどれほど大きな悪口ですか。ある女性と寝るセックスカルト、それよりもはるかにひどい、ひどいあれですね。


マグダラのマリアの異端教

実際イエス様は初期のキリスト教においてマグダラのマリアの異端教もありましたね、その時。マグダラのマリアの異端教。

韓鶴子バビロンの淫婦のように、マグダラのマリア異端の宗教では、マグダラのマリアは月の神で、イエス様は太陽の神だった。このように言うのです。


だから使徒達もこれと戦わなければなりませんでした。なくしてしまう。女性神の宗教になってしまいました。韓鶴子バビロンの淫婦のように。


だからこのような部分としてキリスト教は、大変このような悲惨な始まりから、さらに、自分の主、自分の神、イエス、自分が、・・・だから他の宗教と比べたら自分の神も死刑になったではないですか。犯罪者であり。


300年の迫害、ローマ宗教化とローマカトリック邪悪化


しかし今や、その宗教が300年の間とてつもない迫害、とてつもない嘲弄、とてつもない悪口を言われて、そしてクリスチャンたちがたくさん死刑にされました、その時。

そうしながら、コンスタンチヌス王がクリスチャンたちを受け入れた次に、もちろん他の宗教なども見なければなりませんが、それでもクリスチャンたちを利用するために、クリスチャンの宗教を受け入れましたが、そのような部分を通してそれからはクリスチャンたちがついに、ついに、死刑にされないで、ローマ宗教になることができる、そのようになりました。


そのような内容を通して、ローマサタン主義の政治サタン主義のシステムに入って、カトリックが出てきて、カトリックが堕落し始めました。

カトリックは徐々に邪悪になるようになりました。だから、プロテスタントが出てこなければならない状況も、約1000年後に出てくるようになりました。

いやあ、本当に悲惨な悲惨な歴史です。悲惨な歴史。


しかし、最初に始まった時はものすごく小さく始まりました。だから私たちと比べたら、これは驚くべき、お父様はその当時のクリスチャンたちは何もなかった。イエス様の言葉もなかった。御言も聖書自体がなかったではないですか。聖書自体は325年、381年、このように約4世紀に少しずつ聖書の御言が出てくるようになりました。


その当時に、聖書の御言までありませんでした。本がありませんでした。

全てこの人はこのように言った、この使徒がこのように言った、この人は・・・、このようです。

何もない。経典もなく、国もなく、建物もなく、継続して死刑にされて、イエス様は人食い人種だと言われて、人食い人種の宗教。完全に失敗だらけでした。


しかし、聖霊の役事を通して多くの人が主を知るようになり、愛と赦しを知るようになりながら霊的救いを受けることができる役事に参与をすることができるようになりました。

しかし、初期には何もなかった。


初期キリスト教より恵まれた再臨主の基盤

毎週戻ってくる家庭連合


比べたら、私たちには全てあります。お父様は全て勝利されました。世界的基盤だけではなく、お父様は血筋血統三代王権まで立てられて、カインとアベルを立てられ、ついには真のお母様も探されて、全てあります。天一国王国もあり、天一国憲法もあり、鉄の杖王国もあり、自由と責任もあり、平和軍警察もある。私たちには全てあります。


初期キリスト教を考えてみなさい。二代(二世)から完全にもっとひどくなったではないですか。何の基盤もなく。

(しかし成約時代は)韓鶴子バビロンの淫婦のサタンの役事が起こっても、毎週人々は救いの道に来ているではないですか。(家庭連合の人が)戻ってきていて。


そうしながら世界的に今や私たちは、全ての国々がほとんど聖殿が起こっているではないですか。

フィリピンのコミュニティも再び大きくなっており、アフリカのコミュニティも大きくなっており、タイのコミュニティも大きくなっており、日本のコミュニティも大きくなり、韓国のコミュニティも、・・・韓国のコミュニティも毎週お父様の権威圏に戻ってきています。毎週、毎週。


どうして?お父様がメシアでなければ、お父様が選ばれた後継者、相続者、代身者、二代王が言う預言は違わなければならないではないですか。

韓鶴子バビロンの淫婦が本当に天の父母、天の父母の夫人・・・それが神様なら、韓鶴子バビロンの淫婦の預言は実体化されなければならないではないですか。


滅び行く犯罪者組織、家庭連合


しかし10年が過ぎてどのようになりましたか?

韓鶴子バビロンの淫婦の預言は全て失敗、滅びました。偽り、詐欺。全て滅びました。

同じ時に、お父様の代身者、後継者、相続者は何もなかったのに、数千数百兆を捨てたのに、何もないのに、10年後に私たちが言った預言は、カインとアベル、全て成されたではないですか。


マクロコスモスの審判、マクロコスモスの疾病、マクロコスモスの経済滅亡、マクロコスモスの世界戦争!今勃発しているではないですか。

同時に、ミクロコスモスの、とんでもない、マクロコスモスの世界滅亡。


いや、10年前に世界が滅亡すると言った時、皆笑ったではないですか。皆笑ったではないですか。

今や10年後に全ての国々が貧しくなった。全ての国々の世界政府の抑圧と世界政治サタン主義、共産党、共産化されたではないですか、全ての国が。全ての国が暴君主義になってしまった。


さらに同時に、どのようになりましたか?このようなミクロコスモスとマクロコスモスの滅亡と同時に、まさにお父様に背信したその宗教、数万個の宗教の中でその組織が爆発無茶苦茶、核爆弾が落ちたではないですか。霊界から。


まさにその組織が、家庭詐欺連合が、その組織が、さらに自分たちが、まさにその国、日本で、お金を盗みを行ったその国で、その国に核爆弾が落ちた。オーマイゴッド!これをどのように説明しますか。そのようにしながら全ての政府がこいつらの門を閉じるようにしました。


3ヶ月ごとに全ての資産の発表をしなければなりません。公式的に全ての市民に。だからそいつらは完全に死にました。

お金を盗ることができません。全ての市民たちが、全ての政府がそいつらをなくすようになりました。

どうして?そいつらはお父様の基盤を持って犯罪を犯したから。犯罪者たちが。詐欺師たちが。


自分たちはティム・エルダー本部長に「自分は200年の間美味しく楽しくお金持ちのように遊ぶことができる」と、そのように言ったではないですか。

10年で飛んで行った。そのような狂った欲望、お父様の血統、お父様の血筋、お父様の三代王権までなくそうとした欲望まみれの詐欺師たち。10年で飛んで行ったではないか。


同時にお父様の天一国王国は何もなかったのに三代王権とカインとアベルと、今や真のお母様を立てて、今や宗族の王と王妃たちが戻ってきて、だから天一国が継続して大きくなっています、比較することができません。


私たちはそのような邪悪な国の反逆、そいつらは邪悪な反逆をして、それでも、そいつらが盗んで行った内容は滅亡して、お父様の後継権、代身権、王権が生きています。ハレルヤ、アジュ


殺すことはできません、そいつらは。詐欺師たち。


だから天福が再び、こいつらは、天福は完全に飛んで行ってしまい、天福は三代王権に落ちたので、こいつらは全て・・・。「ああ、どうしよう、どうしよう」とバカな奴ら。お金と地位だけを求めたバカなやつら。空っぽな詐欺師たち、堕落して。どれほどバカなやつらか。


それでも悔い改めて戻って来たら良い


しかし、とにかく悔い改めてお父様の権威圏に戻ってきたら良いのです。

悔い改めながら。悔い改めて一世として戻ってきて3日行事と再び祝福を受けてサタンの血、サタンの祝福、サタンの呪いを受けたので、今や主に祝福を再び受けて3日行事を再びして、完全に自分の罪を悔い改めながら主の恩恵によって、再び生かされて、再び戻ってくることができるそのような道を開いてくださったお父様に大きな拍手、感謝の拍手をお捧げします。アジュ


これは驚きですね。そのような驚くべき道です。


人々は本当にバカです。お金と地位と位置だけを見る人たちです。お父様に対する愛がなくなってしまいました。お金だけ地位だけ求めるバカたち。大きな失敗をしました。地獄に行く道を選びました。

しかしこいつらはお父様が再び戻ってくることができるそのような部分を世界的に広げて出て行っているので、毎週私たちは報告を受けます。ほとんどそれぞれの国で全て、全ての国で戻っています。続々と戻って来ています。


家庭詐欺連合が爆発すれば爆発するほどもっと多く戻ってきます。

それは全てお父様の恩恵です、恩恵。最後が最初になり、最初が最後になります。どうして?最初は傲慢な奴が多いです。自分が間違ったと認めたくない、こいつらは。そのような者が最後になるのです。


謙遜であることと、私たちが間違ったという人たちが再び戻ってくるようになります。

その方達がそのような大きな幹部と位置だけ好きなやつよりもはるかに上に行きます。お金とそのような幹部職と、そのような内容を求める奴らは全て地獄に行きます。

悔い改めるようになれば、最後になります。最後。赦しを受けますが最後になります。


だから本当に驚くべき、驚くべき内容です。初期のキリスト教と比べても、私たちはすでに二代(二世)には全てあります。


信俊三代王の神学と開所式


信俊三代王も、その子もYouTubeチャンネルでキリスト教弁証論を統一教弁証論にしているではないですか。

あるビデオは約30万名見て。堕落論について。もちろん政治に対して話していないので、未だに。自分でも分かっています。YouTubeチャンネルが削除することを。行けば行くほど共産主義とそのようなことに対して話したら、そこに出てくるではないですか。そのようにしていけば監視検閲になってしまう。

すでに6000名が見たか?すでに6000名になったね。サブスクライバー、チャンネル登録者。

しかし、今日も信俊三代王のタイニーホームも今回完成して、今日は礼拝を早く終えなければなりません。早く終わらせて私たちは小さな三代王のタイニーホーム開所式があります。拍手(拍手)


自分たちは祝福を受けたのに家がない。アッパの家に住んでいるのだ。この子たちは。アッパの家も大きくはない。タイニーホームだ。

だから臨時的に住んでいるのだが、今や多くの人たちの愛を受けて、タイニーホーム工事が終わったのです。そうですね?終わったでしょ?今日。そうでしょ?電気も全て通ったね?一度見なければならないね、今日。


皆一緒に上がって行きましょう。

そこに行って開所式をしなければならない。そこに行って祈祷をして、次に信俊とチウが入って、そこでポッポ、ポッポ、キスをして、そこで絶対性とロマンスをたくさん訓練しなければならない。家全体が揺れるほど。ハハハ。家を揺らすことができるくらい。ハハハ。

2024年1月13日土曜日

キリスト再臨アドベント13_神の計画は失敗できるのか?_文信俊三代王◆ Can God's Plan Fail?_The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント13

神の計画は失敗できるのか?

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H.


13. (2024.0109) 

Principle Series 3a - Can God's Plan Fail?


1月9日に文信俊3代王様が挙げて下さった動画です。これは、昨年9月26日に挙げて下さった動画を手直しされたものです。


原理シリーズ3a -神の計画は失敗できるのか?


信俊二ム(The Advent)のコメント

皆さん、こんにちは!祝福された一日を過ごしていらっしゃることを願っています。

このビデオでは、神が摂理の中でどのようにご自身の子女たちに対されるかについてお話しします。



これは以前のビデオからの再アップロードですが、この聖書の教理をより明確に説明するために、スクリプトとグラフィックに手を加えました。このビデオを楽しんでいただければ幸いです!


キリスト教神学では、神の予知の問題をめぐって多くの議論が交わされてきました。

このビデオでは、首尾一貫した聖書神学を提供することによって、預言の二重性を論じ、神の予知を明らかにします。


このビデオはシリーズの一部です。

そのため、このシリーズの前のビデオを見なければ、このビデオが基礎としている聖句とその背景を完全に理解することはできないでしょう。とはいえ、このビデオを楽しんでいただければ幸いです。



聖書によれば、神はご自身の子女たちにどのように対されるのでしょうか?

申命記の中で、神ははっきりとこう語っていらっしゃいます。


(申命記11:26-28)

11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。

11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。

11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。


主は、後の章でもこの思いを繰り返していらっしゃいます。


(申命記30:19)

わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫とが生きながらえることができるであろう。


この箇所でわかるように、神はご自身の子女たちが祝福の道を選ぶことを常に願っていらっしゃいます。


しかし、神が私たちに自由意志を与えられ、それによって私たちは神に逆らうことができ、その行為は結果的には私たちの不利益になるのに、それを許されたのは、神の愛に満ちた本性に基づいているのです。


さらに、主はご自身の民が選ぶことのできる、祝福か呪いかという2つの道を提示していらっしゃいます。


申命記には明確に記されていますが、祝福か呪いか、生か死かという概念は、創世記からヨハネの黙示録に至るまで、神のすべての命令において暗示されています。


園では、アダムとエバが神の定めの時まで自制するかどうかによって、善か悪か(祝福か呪いか)が決まったのです。

残念ながら、彼らは後者を選びました。


終わりの日において、キリストに仕えることを選ぶ者は神の国を受け継ぎ、この世を追い求める者は聖なる者から引き離されます。


この祝福か呪いかの話から、2つの結論が導き出されます。

第一に、神の祝福か呪いかの表明は、ほとんどの場合、人々の従順に依存しているということです。

第二に、私たちは神の子としての責任を負っているということです。


まず、前者について詳しく見てみましょう。

聖書全体を通して、神が 「if もし」、「may かもしれない」、「perhaps おそらく」といった条件付きの言葉を用いている例が数多くあります。


さらに、神が明確に条件付きの命令であることを述べていなくても、聖書は、神の命令はほとんどの場合、民の反応に依存していると述べています。


この考え方は、エレミヤ書18章ほど明確に示されているものはありません。


(エレミヤ書18:7-10)

18:7 ある時には、わたしが民または王国を抜く、破る、滅ぼすという事があるが、

18:8 もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。

18:9 またある時には、わたしが民または王国を建てる、植えるということがあるが、

18:10 もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

エレミヤ書に表現されているこの神の悔いと暗黙の条件という原則は、ヨナの明白な宣言によって証明されています。


(ヨナ書3:4) 「四十日を経たらニネベは滅びる!」


この滅亡(あるいは呪い)の重大な警告によって、町全体がその放蕩を悔い改め、その結果、町は荒廃せずに済みました。


ヨナの宣言に条件的な要素がないことに注目してください。


(ヨナ書3:9) あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼさないかもしれない。誰がそれを知るだろう。


このことは、神が自分たちを赦してくださるかどうかについてニネベの民が不安を抱いていたことからも明らかであるばかりでなく、この神の憐れみ深さこそが、そもそもヨナがニネベへの旅に抵抗した理由なのです。

ヨナ書4:2で彼が言っているように。

4:2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。」


聖書には、神の悔いの例はもっとたくさんあります。

この神の心変わりという概念をよりよく理解するためには、例え話が役に立つと思います。


次のようなことを想像してみてください。

あなたは強大な国を治める王です。

あなたが高齢になり始めたので、王国をあなたと同じ心と使命を持つ息子の一人に譲らなければなりません。

長男が忠実さを示し始めたので、あなたは王国を長男に譲ろうと考え、示唆し始めました。

しかし、王国譲渡の数週間前、彼は不当に軍隊を集め、同盟国を攻撃します。


そのため、あなたは彼が相続権を得るだろうと言っていたとしても、彼の行動の変化を考慮すると、彼は王国の相続人にはならないでしょう。

別の人が彼の代わりになるのです。


この例えの中で、あなたが気まぐれだからとか、あるいは何らかの単なる理由で考えを変えているのではないということに注目してください。

むしろ、王位は、長男の忠実な行いが続くことが条件だったのです。


言い換えれば、一見無条件に見えるあなたの発言には、その中に条件的な要素があることが暗黙のうちに含まれていたのです。


これは現実世界では誰にとっても常識です。


しかし、私たちが神学を行うとき、なぜか不思議なことに、この自明の概念を、聖書の生きていらっしゃる人格的な神から切り離してしまいます。

同じように、神が何かを宣言するとき、一見無条件に見える発言にも暗黙のうちに条件が含まれています。


誤解が生じないように、このことをはっきりさせておきましょう。

神は誠実な御方であり、約束を実行されます。

神は、イザヤ書46:11でこう述べていらっしゃいます。


(イザヤ46:11) わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う。


しかし、エレミヤ書に記されているように、主が国に対して祝福を宣言されるとき、その国が主の戒めを守り続けるならば、主はその約束を果たされます。


(エレミア18:9-10)

18:9 またある時には、わたしが民または王国を建てる、植えるということがあるが、

18:10 もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。


別の聖書の例を挙げると、サムエル記上13:13に記されているように、神はもともとサウルの王国をイスラエルの上に永遠に維持するつもりでした。


(サムエル記上13:13) サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう」


しかし、サウルの度重なる不従順によって、神は15章で、サウルを王にしたことを二度も嘆きます。


(サムエル記上15:11) 「私はサウルを王としたことを悔いる」。 

(サムエル記上15:35) 主はサウルをイスラエルの王としたことを悔いられた。


これらの例から、厳密に言えば、最初に変わるのは神ではないことを明確にしなければなりません。

むしろ、私たちの不従順のゆえに、神はご自身の計画を変更しなければならないのです。


個人レベルから国家レベルに至るまで、神の命令に直面したとき、人は2つの道を歩むことができます。すなわち、神に従順であり、その結果、真の幸福を知り、永遠の命を受け継ぐか、あるいは、この世を追い求め、目先の快楽と霊的な死を得るかです。


この預言の二面性を、私たちは二重預言と呼んでいます。

別の言い方をすれば、預言の結果は人々の反応に大きく左右されます。


しかし、イスラエルが歩むことのできる道は2つあるとはいえ、神の愛に満ちた本性と前述の文章から明らかなように、神はイスラエルが呪いよりも祝福を選ぶことを切に願っていらっしゃいます。

私たちの天の父は、私たちに歩んでほしいと望んでいらっしゃる道があります。


(申命記30:19) わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福と呪いをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。


しかし、それを決めるのは私たちの自由意志です。

私たちに責任の一端があるということは、私たちがすべてを行い、神はほとんど何もしないということではありません。


その逆です。 

聖書全体がこのことを証言していますが、イザヤ書5章1節から5節は特に重要です。

この物語の中で、神はぶどう園の所有者として描かれており、ぶどう園はイスラエルを象徴しています。


神は、豊かな収穫をもたらすために、可能な限りのことをなさいます。

選び抜かれたブドウの木を植え、石を取り除き、肥沃な丘を選び、望楼を置き、そして当然のように豊かな収穫を期待されます。

しかし、ぶどう畑は良いぶどうの代わりに野ぶどうを実らせました。


そのため、神はこうおっしゃいました。


(イザヤ書5:4) わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。


この責任の大きさの違いを象徴的に示すために、私たちは神の責任を95%、人間の責任を5%と表現します。

結局のところ、私たちの存在そのものが神の恵みによるものなのです。

私たちの責任は、御言葉を聞き、それを信じ、人生の第三段階である霊界に到達するその日まで、御言葉の戒めを生活の中で実現することです。


神の95%に比べれば、私たちの5%は微々たるものかもしれませんが、その小さな5%には100%の努力が必要なのです。


しかし、これだけははっきりさせておきたいです。 

このこと(私たちの5%の責任をなすために100%努力すること)によって、私たちが救いを得ることができると言っているのではありません。

救いは100%神の恵みによる賜物なのです。


しかし、贈り物をくださる神を信じ、贈り物を受け入れ、自分の人生を捧げ、神のために生きることは、5%によって表されます。

言い換えれば、神の恵みに協力することによって、私たちは真のクリスチャンであることが証明されるのです。私たちの主がヨハネ福音書14:15で述べていらっしゃるように。


(ヨハネ福音書14:15) もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしの戒めを守るべきである。


したがって、その5%さえも、私たちをこの世で神の手足として用いてくださる神の恵みによってのみ可能なのです。

祝福か呪いかの成就において、私たちは神の御言葉を信じ、それを実現するという責任の一端を果たさなければなりません。知的な向上や、神の命令を単に聞くだけでは十分ではありません。

主が述べていらっしゃるように、

あなたがたの神、主の命令に聞き従いなさい」申命記11:26-28。


このように、預言は本来、分かれ道であるため、私たちは神の戒めに注意深く耳を傾け、私たちの責任分担を果たすべき生活の中でそれを実現させなければなりません。


しかし、この重大な実現は、私たちの個人的な生活にとって不可欠であるだけでなく、預言は責任分担と切り離せない関係にあるというこの聖書の深遠な公理を認識することによって、私たちはメシア預言に関する二重の預言的性質に進むことができるようになります。


この聖書の概念がしっかりと確立された今、私たちはこう問います。

メシアの使命とは何であったのか?