The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series
キリスト再臨アドベント30
キリストの本来の願いは十字架ではなかった、さらなる10の理由
30. (20250101) 10 MORE Reasons Christ’s Original Desire was NOT the Cross
キリストの本来の願いは十字架ではなかった、さらなる10の理由
[このビデオでは、以前挙げた、イエスが死ぬために来られたのではない理由トップ10に加え、キリストの第一の願いは十字架ではなく、(霊的かつ実体的な)神の王国であった理由をさらに10取り上げます。聖書的、神学的、歴史的に、キリストがもともと死ぬために来られたのではない理由を一緒に探りましょう。]
前回、イエスの本来の使命が十字架ではなく、天の王国を地上にもたらすことであった10の理由を探りました。
しかし、それを示唆する証拠がさらにあるとしたらどうでしょう。
そこでこのビデオでは、キリストが神のみ旨の完全な成就を熱烈に願ったにもかかわらず、選民の不信仰によって、イエスは十字架という二次的な道を歩まなければならなかった、さらなる10の理由について論じたいと思います。
第一の理由は、
1. 旧約聖書の預言を背景とした新約聖書の預言
差し迫った栄光の時代に関する新約聖書の預言を読むとき、イエスとイスラエルの将来の運命に関する預言的な発言は、神の、より望ましい道を示す力強い指標を明らかにします。
特に旧約聖書の文脈におけるこれらの宣言は、霊的なレンズだけでとらえるべきものではなく、むしろ預言的なことばの枠組みは、霊的な王国と実体的な王国の両方、地上天国です。
それでは、いくつかの例を挙げてみましょう。
神のみ意を直接伝える天使ガブリエルは、マリアの前で預言します。
(ルカによる福音書1:32-33)
32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの玉座をお与えになり、
33 彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう。
旧約聖書の預言を背景に、キリストに関するガブリエルの預言は、ダビデの家に対する約束のすべてを表していました。
ダビデの子孫から生まれるメシアは、永遠に続く実体的・霊的王国に導き、その豊かな祝福を全世界に広げるでしょう。
ザカリアも同様に、ついに話すことができた時、来るべきメシアの時代について聖霊によって預言しました。
(ルカによる福音書1:68-75)
68 主なるイスラエルの神は、ほむべきかな。神はその民を顧みてこれをあがない、
69 わたしたちのために救いの角を 僕ダビデの家にお立てになった。
70 古くから、聖なる預言者たちの口によってお語りになったように、
71 わたしたちを敵から、またすべてわたしたちを憎む者の手から、救い出すためである。
72 こうして、神はわたしたちの父祖たちにあわれみをかけ、その聖なる契約をおぼえて、
74 わたしたちを敵の手から救い出し、
75 生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである。
神殿の祭司であったザカリアは、若い頃からヘブライ語の聖典に親しんでいました。
そのため、彼が先祖の契約の約束を思い起こしたとしても不思議ではありません。
(ルカ1:68-75) 「古くから、聖なる預言者たちの口によって[神が]お語りになったように、」
メシアの使命について、同時代と未来の聴衆に思い出させています。
ザカリアにとっても、ヘブライ語聖書は圧倒的に明確でした。
(イザヤ書9:1-7) しえたげる者からのイスラエルの解放は、エッサイの根により、まつりごとはその肩にあり、公平と正義とをもって、その国を治め、永遠に続く平和な支配を築くであろう。
これは、ユダヤ人が今日2000年間抱いているメシア的ビジョンと同じです。
イエスは旧約聖書の預言の大部分を成就しなかったので、もし成就しないならメシアではないというのが、ユダヤ人がキリスト教に対して提示する主な論拠の一つです。
このビデオでは、マリアや3人の賢者、預言者アンナなど、他の人物について説明する時間がありませんが、
ユダヤ人社会のすべての階層が、富裕層から貧困層まで、老若男女を問わず、何世紀も前の預言者たちと同様に、メシアを待望していることがわかります。
この崇高な終末論的ビジョンは、彼らの王の降臨とともに預言の域を超えました。
旧約聖書を通して広められたメシアの預言は、ついに成就の可能性に達したのです。
しかし、人々は平和の君を歓迎するのでしょうか?
それこそが重要な問題でした。
2. イエスと詩篇110篇の二番目の主との関連性
ダビデの詩篇における二番目の主としてのイエスの自己同定。
(詩篇110篇)
預言者たちによって予告された勝利の解放者としてのイエスの使命を直接的に証明しています。
イエスはパリサイ派の人々に尋ねられました。
(マタイ22:42-45)
42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。
43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。
45 ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。
肉体的にはダビデの子孫であるにもかかわらず、ダビデの上に立つ主であると間接的に自らを明らかにすることで、イエスは詩篇110篇で二番目の主であると長い間主張して来た、彼の神聖な身分を指し示しています。
多くの人は詩篇110篇4節に親しんでいますが、
(詩篇110篇4節) 「あなたは、メルキゼデクの位にしたがって、とこしえに祭司である」。
この箇所全体を読むと、メシアの使命の全体像、祭司としてだけでなく、王であることが明らかになります。
ダビデの詩篇にある二番目の主としてのイエスの関連性の意味合いを私たちが認識する時、キリストの発言が極めて明白になります。
(詩篇110篇)
1 主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。
2 主はあなたの力あるつえをシオンから出される。あなたはもろもろの敵のなかで治めよ。
3 あなたの民は、あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に心から喜んでおのれをささげるであろう。(…)
4 主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、「あなたはメルキゼデクの位にしたがって、とこしえに祭司である」。
5 主はあなたの右におられて、その怒りの日に王たちを打ち破られる。
6 主はもろもろの国のなかでさばきを行い、(…)
キリストが自らをダビデの王座に座る祭司王と名乗ったのは、ユダヤ人が抱いていたメシア像とまったく同じです。
しかしながら、実際にイエスはダビデの王座に座り、イスラエルの民を牧会したのでしょうか?
いいえ。正反対です。
(使徒行伝7:51-53)
52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
ヤコブの子孫は悲しいことに、キリストを裏切り殺害しました。
これは、イエスの十字架刑が神の本来のみ心の成就ではなく、裏切りであったことを証明しています。
従って、ダビデの詩篇とイエスの主張の間にあるメシア的な結びつきは、キリストの願いがダビデの王座に座し、祭司王として公平と正義とをもってこの地を治める、詩篇110篇の全文を成就することを示しています。
3. モーセは、キリストを信じなかったその世代を強く非難した。
イエスがユダヤ人の集会の前で語られた、ヨハネによる福音書5章37節から47節を読んでみましょう。
(ヨハネによる福音書5:37-47)
37 わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。
38 [しかし、] 神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
彼の父の明確な証言とユダヤ人の不信仰を対比させることで、イエスは間接的に、イスラエルの神でさえイエスを証しするのであれば、ユダヤ人自身もまた、自分たちの王を証しするべきだと宣言しています。
さらにイエスは、神の御言を再び自分たちに宿らせるためには、神が遣わされた方を信じなければならないと言われます。
イエスはさらに続けます。
(ヨハネによる福音書5:37-47)
39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
45 わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。
46 もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。
47 しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。
イエスはまたもや、選ばれた民が新しい命を受けるためにイエスのもとに来ることを拒むので、叱責しています。
彼らがイエスを信じないために、イエスは事実上、こう言われるのです。
「わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。」
あなたがたを裁くのは私ではなく、モーセです。
偉大な預言者であり、イスラエル文明全体の基礎となった律法を与えたモーセは、ユダヤ教の歴史を通じて最高の敬意を払われてきましたし現在もそうです。
神に導かれ、イスラエルの民を束縛から救い出し、約束の地へと奇跡的に導いた人物であることを思い出してください。
もしこの人が、不信仰なイスラエルの指導者たちの行動に真っ向から対立する人なら、イエスが実際に、選ばれた民がご自身を受け入れ、信じることを望んでいることは明らかです。
そうでなければ、彼らが実際、神の御旨を助け、早める重要な役割を担っているのに、なぜイエスは彼らの不信仰を咎めるのでしょうか。
もしイスラエルが神の呼びかけに聞き従い、彼が彼らに命じたように実際にイエスを信じたとしたら、イエスは何と言ったでしょうか。
イエスは彼らに命じたでしょう。いや、私の言うことを聞くな、私がずっと命じてきたことを聞くな。あなたがたは私を信じず、殺さなければならない。
もし、一世紀のイスラエルが実際に神の御業を行い、神が遣わされた方を信じていたなら。
(ルカによる福音書19:42) 「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。」
彼らはその日、旧約聖書の信仰者たちに反対される代わりに、平和をもたらすものを知ったでしょう。
モーセ、アブラハム、そしてすべての忠実な先祖たちとともに、信仰によって結ばれたことでしょう。
天の王国を地上にもたらすために、義なる王とともに勇敢に立ち向かったことでしょう。
もしそうであったなら、イエスは彼らの不信仰に対する裁きとして、この地に完全な滅亡の命令を下す必要はなかったでしょう。
(マラキ4:6)
エルサレムのために泣くこともなかったでしょう。
めんどりがひなを集めるように、イエスは絶えず彼らを集めようと努力されたにもかかわらず、彼らの信仰の欠如を嘆かれました。
(マタイ23:37-39)
つまり、ヨハネによる福音書5章で、モーセが彼らの行為に反対しているとキリストが述べているのは、イスラエルの中心的指導者に裏切られ殺されたくないというキリストの本来の願望を明確に示しています。
4. イエスは何よりもまずユダヤ人に来られた。
この点で、ユダヤ人だけが接ぎ木されることになっていると私が言っているのではありません。
確かに、聖書の多くの箇所は、諸国民が神の救いの賜物に含まれることを証明しています。
イザヤ書49章6節はこのことを明確にしています。
(イザヤ49:6) 「わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救を地の果にまでいたらせよう」
ですから、諸国民が接ぎ木されることになっていたのは間違いなく事実です。
しかしながら、諸国民が将来的に伝道されるという全体的な文脈を見ると、それはイスラエルを通して成就するはずでした。
先に述べたイザヤ書49章6節とともに、1節から読むと。
この過程的約束は、旧約聖書の預言書全体を通して、数多く裏付けられています。
一例を挙げれば、預言者ゼカリヤは、神がイスラエルに宿られる終わりの日に、さまざまな国から来た10人の男がそのユダヤ人をつかまえて次のように言うと告げます。
(ゼカリヤ8:23) 『あなたがたと一緒に行こう。神があなたと共にいますことを聞いたから』
時間の関係上、他の例を挙げることはできませんが、旧約聖書の聖句からは、この本来のメシアの聴衆はこれ以上ないほど明確です。
それでは、先祖の預言的な言葉と一致している新約聖書はどうでしょうか。
イスラエルの世継ぎとして来られたイエスは、彼の12弟子を送り出しながら、話されます。
(マタイによる福音書10:5-6) 彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。また、サマリヤ人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。」
同様に、マタイによる福音書15章24節で、イエスはカナン人の女たちに次のように述べています。
(マタイ15:24) 「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
キリストが本来、誰に遣わされたのかに関するキリストの言葉は、どのような人々のグループが最初にキリストを信じ、迎え入れることになっていたのかを明らかに示しています。
使徒パウロもまた、使徒行伝13章で、ユダヤ人の集まりについて述べるときに、異邦人の接ぎ木のこの順序を認めています。
(使徒行伝13章)
46 「神の言はまず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者としてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。」
パウロが述べているように、ユダヤ人とイスラエル民族全体として、神の王国の福音を受け継ぐはずであったにもかかわらず、彼らは自分たちの救い主を殺してしまいました。
それで、神は当初、選ばれた民がこの福音を受け入れ、キリストを受け入れることを計画していたのだと、すべての国々は、本来のアブラハム契約を繰り返して、祝福されるはずだったと、聖句を通して結論づけたのです。
(創世記12:1-3) 「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたを大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。(…) 地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
残念なことに、彼らは自分たちの王を裏切り、殺したため、本来の進行順序が成り立ちませんでした。
(使徒行伝7:51-53)
しかし、もしユダヤ人から異邦人へという定められた順序が、不信仰のために、直接的には未達成のまま残されたのであれば、それは、キリストが死ぬはずでなかったのなら、本来の順序が預言通りに展開されたということを示します。
このように、イエスがユダヤ人のために最初に来られたという進行順序は、キリストの使命が栄光の王となることであったことを証明しています。
5. サタンがユダの心を満たす
複数の聖句を読むと、サタンがユダの心を満たし、キリストを裏切るように仕向けたとあります。
例えば、ルカによる福音書22章3節には次のように書かれています。
(ルカ22:3) そのとき、12弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれていたユダにサタンがはいった。
ユダはイスラエルの指導者たちと共謀した後、イエスを捕らえ、十字架につけるために彼らを園に導きました。
この文章から明らかなように、不信仰なイスラエルの指導者たちと共謀してイエスを殺害するようユダを唆したのはサタンです。
しかし、もし世の初めから、イエスは殺されるのが神のみ旨であったなら、なぜ天地創造以来、神に敵対してきたサタンが、ユダの心を満たしたのでしょうか。
これに対する一般的な反応は、キリストを十字架につけるのは、神の初めからの密かな計画だったので、サタンは騙されてキリストを十字架につけたというものです。
神は完璧な罠を用意していて、キリストが十字架につけられたことで、サタンとその仲間は追い込まれたのです。
一見もっともらしく聞こえるかもしれませんが、この説にはいくつかの欠陥があります。
サタンが騙されたという説は、サタンの能力と知性を過小評価しているように思えます。
堕落のプロセスを基本的に開始し、それ以来、執拗な反乱を主導してきたのはこの者であることを忘れてはなりません。
もしこれが創世以前からの神の唯一の計画であったなら、サタンは知っていて、その場合、サタンはイエスをひとりにしておきたくないのではないでしょうか。
あるいは、選ばれた民の間で信仰と従順を鼓舞することによって、キリストを十字架につけるという神の計画に逆らいたいとさえ思ったのではないでしょうか。
そうすれば、サタンは反逆を長引かせ、イエスを信じるすべての人に霊的な救いを与えるのを止めることができたはずです。
この理由と、サタンが実体的世界に対する権威を保持しているという事実と結びつけるとき、アブラハムから離れてサタンに耳を傾けたパリサイ派の人々をイエスが間接的に叱責したときに述べたように、サタンは騙されたのではなく、まったく逆のことが起こったことを証拠が示唆しています。
パリサイ派の人々を戒めるイエスの正義の怒りは、選ばれた民がイエスを十字架につけることを望んでいないことを明らかに示しています。
なぜイエスはあれほどまでに明らかに怒り、後にイスラエルの行為に涙したのでしょうか?
もし、最初からの秘密の計画が、キリストは拒絶されることになっていたというのなら、彼らの十字架刑の陰謀に対するイエスの強い感情は、神の完全な御心が十字架上で成し遂げられないことを直接的に示しています。
最後に、そしておそらく最も重要なことは、サタンがだまされたというこの説が、キリストの行動における人格に疑問を抱かせるように、急速に下降していくことです。
キリストを殺害しようとするイスラエルの陰謀に対するイエスのすべての非難は、神から見れば、ひとつひとつの機会がキリストを十字架につけようとサタンを誘い込むものであり、裏を返せば、悔い改めと信仰を呼びかけるのはすべて、サタンを欺くための単なる策略だったのですか?
イエスがエルサレムで悔し泣きをされるときはどうでしょうか。
ご自身の翼の下に彼らを避難させたいと民に叫んだのもまた、サタンを騙すための行動だったのでしょうか。
神がユダヤの民に与えたそれらすべての預言はどうでしょうか。
それは、サタンを欺くためだけでなく、選ばれた民を欺くために存在したのでしょうか?
この辺で止めておきますが、例は何十とあります。
キリストの言葉と行動、そして彼の人格を額面通りに受け止めてはどうでしょうか。
残念ながら、再び、イエスがただ死ぬためだけに来られたという私たちの狭い神学的視点が、キリストの人格そのものに疑問を投げかけざるを得なくさせているのです。
しかしながら、キリストの最初の運命は十字架刑ではなかったという考えを示すなら、なぜサタンが不信仰を鼓舞し、キリストを殺害する方法を画策したのか、完全に理にかなっているのです。
このように、サタンが、神の子を十字架につけるという邪悪な計画を実行するために、ユダの心を満たしたことは、闇の君が行う最も論理的な行動だったでしょう。
これも、キリストが死ぬために来たのではない、もう一つの理由です。
6. キリストの降臨によって、収穫の季節がやってきた。不信仰によって迎えられ、機会は閉じられた。
マタイによる福音書4章17節にこのような宣言が記されています。
(マタイ4:17) 「悔い改めよ、天国は近づいた」。
イエスは絶えず、神の御心が地上に成就する時が近いことを強調しています。
バプテスマのヨハネもまた、来るべき神の怒りが間近に迫っていることを証言しています。
(マタイ3:10) 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
収穫の時が来て、木の前に斧が置かれます。
神の王国のために実を結ぶ者と、神の王国に反対する者とを分ける準備が整っています。
ヨハネは、収穫の季節が来たのだから、すべての人は悔い改めて神のもとに立ち帰るべきだと警告しています。
私たちは、イエスが実を収穫する準備が整ったという同じメッセージを説いているのがわかります。
(マタイ9:37-38) 「収穫は多いが、働き人は少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
イエスが明らかにした問題は、ユダヤ人にとって王国の時がずっと閉ざされていたことでも、収穫の季節が来なかったことでもありません。
それは全く正反対です。
問題は、適切な時期がすでに来ていたにもかかわらず、摂理が労働力不足に陥っていたことです。
そこで、彼は弟子たちに命じています。
彼が行く先々で収穫のためにもっと多くの労働者を集めるために、収穫のためにもっと多くの労働者を送ってくださるように、収穫の主に懇願して熱心に祈るようにと。
キリストは人々に次のように勧めています。
(ヨハネ6:28-29) 「神がつかわされた者を信じ」、
天の王国が一刻も早く地上に建国されるように祈るようにと。
しかしながら、注意深く育てても、木は実を結ぼうとしません。
そこでイエスはユダヤ人に、ルカによる福音書13章6節から9節に書かれたたとえ話を通して、悔い改めるにはあと少ししか時間がないことを告げられます。
(ルカ13:6-9)
6 「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しに来たが見つからなかった。
7 そこで園丁に言った、『わたしは3年間も実を求めて、このいちじくの木のところに、来たのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
8 すると園丁は答えて言った。『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
「園丁」として表されたイエスは、選ばれた民が信仰を持つために、もう少しだけ時間を与えてほしいと、「ある人」である神に懇願しています。
この箇所は、イザヤ書5:1-5を思い起こさせます。
ぶどう園の主人である神は、ぶどう園が良いぶどうを実らせるためにあらゆる手を尽くし、地面を耕し、岩や根を取り除き、肥沃な土地に選び抜かれたぶどうの木を植えられました。
新鮮なぶどうを期待していたにもかかわらず、野生のぶどうを手に入れます。
憤慨した主は尋ねます。
(イザヤ書5:4) わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。
イザヤ書5:1-5と同じように、このたとえ話からも明らかなように、神はご自身のぶどう園から良いぶどうが収穫されることを当然のように期待していたのです。
もう一度言いますが、決して収穫の時が来ないということではありません。
切り倒されるのは、実のなる時期に実を結べなかったからです。
しかし、彼らはもう一度チャンスを与えられるのです。
神は彼らに、実を結ぶために、もう少しだけ時間を与えようとされました。
残念ながら、それは十分ではありませんでした。
ユダヤ教の指導者たちは、長い間待ち望んでいたメシアを殺そうと決心していました。
その結果、イエスはこう言われました。
(マタイ21:43) それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
イエスが述べていることに注目して下さい。
彼は、神の国はあなたがたから取り上げられると述べています。
イエスの言わんとすることは、神の王国は事実上イスラエルの運命であったということです。
それは神が願っておられたことです。
イエスは、神の王国が彼らから取り上げられるのは、彼らの不信仰が直接的な理由であると明言しています。
神がご自身の息子を十字架につけるために摂理を密かに導いたというよりむしろ、マタイによる福音書23章13節にあるキリストの言葉は、この点をさらに強調しています。
(マタイ23:13) 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。
イエスはイスラエルの指導者たちが人々の面前で王国の門を閉ざしたことを叱責しています。
キリストは、彼らが門を開けるのに失敗したとか、最初からの神の十字架の御計画のために門が閉ざされていたとは言われませんでした。
むしろ、もともと大きく開いていた門が、彼らの偽善と不信仰のためにバタンと閉められてしまったのです。
悲劇的に、収穫の機会は悲惨な結末を迎えました。
イエスがエルサレムを前にして泣かれたのは、このためです。
「この日、平和をもたらすものを知る」機会があったことを悼みながら、
(ルカ19:42) もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら
悲しく悔しいことに、
(ルカ19:44) おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである。
彼らは今、不信仰のために裁かれます。
イエスがこの日と指定したのは、イエスと同時代のイスラエル人が彼らの時代を認識し、キリストと収穫の主を信じる信仰を持っていたはずだという証拠です。
このように、収穫が認識されず、木々が季節に実を結ばないのは、イエスが一世紀のイスラエルに神の意志を完全に結実させたいと願った、もう一つの理由です。
7. 洗礼者ヨハネは彼の使命を失敗した。
バプテスマのヨハネがその使命に成功したかどうかを見るためには、私たちは彼の使命が何であったかを知る必要があります。
ヨハネによる福音書1章7節は、10,000フィートの眺望を与えてくれます。
(ヨハネ福音書1:7) [ヨハネ]はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によって、すべての人が信じるためである。
しかしながら、より具体的には、
(ルカ1:17、マタイ11:14、マタイ17:12-13)
預言者マラキがキリストについて人々に証しして述べたように、ヨハネはきたるべきエリヤでした。
(マラキ書4:5-6)
5 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
6 彼は、父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心を父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。
それでは、バプテスマのヨハネの使命とは何でしょうか?
それは、イエスをメシアとして信じ、キリストについて人々に証しすることです。
聖書によれば、バプテスマのヨハネは、キリストをメシアとして信じていたのでしょうか。
最初は絶対にそうでした。
例を挙げれば、彼はこうは語っています。
(マタイによる福音書3:11) 「わたしは悔い改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力があるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
しかし、キリストの伝道が進むにつれて、彼のイエスに対する信仰は薄れていきました。
代わりに、ヨハネはヘロデ王の婚姻問題を裁くことに巻き込まれ、結果的に、彼は投獄されました。
イエスに対する彼の疑念は、ヨハネが投獄された最後の日々に頂点に達します。
弟子たちを遣わして、イエスのメシヤ性を問いただしたときです。
(マタイ11:3) 『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか。』
ヨハネのキリストに対する信仰の欠如へのキリストの挫折感は彼の答えによく現われています。
(マタイ11:6) わたしにつまずかない者は、さいわいである。
ヨハネの弟子たちが去った後、イエスはバプテスマのヨハネに関するご自分の姿勢をさらに明確にされました。
(マタイ11:7-11)
7 「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
9 預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。
10 『見よ、わたしは使いをあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのはこの人のことである。
11 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
イエスが述べているように、バプテスマのヨハネはメシアのための第一のメッセンジャーであり、人類の中で最も大きな使命を負っていました。
しかし、イエスが断言しているように、天国で最も小さい者も、彼よりは大きいと。
ヨハネが光について証しする使命を果たせなかったとイエスは述べているのです。
このことは、ヨハネがユダヤ教の指導者たちから質問された後、エリヤとしての彼の使命を否定したときのように、これ以上ないほど明確に示されています。
ヨハネがエリヤであるというイエスの宣言を否定することによって、ヨハネは間接的に、キリストが偽預言者であるか、あるいは自身の高揚のために嘘をついているかのどちらかであると述べたのです。
一世紀のユダヤ人なら、どちらの人を信じたいと思うでしょうか。
一方では、ヨハネの誕生には奇跡と預言があっただけでなく、
(ルカ1:11-22, 1:64-79)
彼は若い時から荒野で美学的な信仰生活を送り、ユダヤ全土に大規模な基盤を集め、
(ルカ1:80)
彼の輝かしい経歴は、祭司やレビ人に、彼がメシアであるかどうか尋ねられたほどでした。
(ヨハネ1:20)
その一方で、イエスは婚外子ではないかと疑われました。
(マルコ6:3、ヨハネ8:41)
ナザレの貧しい大工であったイエスが、30年の歳月を経て突然、永遠の命への唯一の道は自分を通してであり、自分は永遠の神の子であると主張したのです。
それだけでなく、イエスは狂人か悪魔に取り憑かれた人物であるというのが、イエスの家族や当時の聖職者たちの認識でした。
(e.g. マルコ3:21)
もう一度尋ねます。一世紀のユダヤ人は、どちらを信じる可能性が高いでしょうか?
尊敬を集める洗礼者ヨハネと、悪魔に取り憑かれた狂人のように見えるイエスのどちらを。
残念ながら、答えは明白です。
ヨハネが再来したエリヤであるというキリストの主張を全面否定したことは、キリストのミニストリーに影響を与えたことでしょう。
しかし、後半はどうでしょうか。
洗礼者ヨハネは光を証しすることに成功したのでしょうか。
正確な人数は不明ですが、マルコによる福音書1章5節にあるように、洗礼者ヨハネには間違いなく何千人もの信者がいました。
(マルコ1:5) ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、ヨハネからバプテスマを受けた。
これを考えると、もしヨハネがメシアの降臨を宣べ伝えることに成功したのであれば、なぜ、イエス御自身の自己宣言の前に、イエスがメシアであるという認識がほとんどないのでしょうか。
ヨハネによって人々がすでに準備されていたのではなく、人々はイエスの正体について当惑しているのです。
(マルコ8:27-28)
27 さて、イエスは弟子たちと、ピリポ・カイザリヤの村村へ出かけられたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた。「人々は、わたしをだれと言っているか」。
28 彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。また、エリヤだと言い、また、預言者のひとりだと言っている者もあります」。
イエスが預言者であるのか、キリストであるのか、あるいはバプテスマのヨハネが復活したのかどうか、彼らは内輪で言い争いました。
(ヨハネ福音書7:40-44)
40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
41 ほかの人たち、「この方はキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
42 キリストはダビデの子孫から、また、ダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
44 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。
事実、バプテスマのヨハネのおかげでイエスに直接従うようになった人は、ヨハネによる福音書の第1章にしか出てきません。
そして、実際にイエスに従おうと決心したのは、バプテスマのヨハネが築いた信じられないような基盤から、たった二人だけです。
キリストが先に、収穫のための労働力が不足していると述べていたことを考えれば、ヨハネの基盤は、王国のために実を収穫する上で絶対的に重要だったのではないでしょうか。
ヨハネがイエスを光として証しすることに成功していたら、ヨハネとその弟子たちは、イエスの不変の信仰の教えを成就させ、その基台を築くことができたでしょう。
彼らは、エルサレムでのイエスの伝道と世界への伝道を推進する上で、重要な役割を果たしたでしょう。
しかし、残念ながらそれは実現しませんでした。
このように、バプテスマのヨハネが主のために道をまっすぐにする使命を果たせなかったことは、キリストの本来の運命が十字架ではなかったことを明確に示しています。
8. イエスは二度来られる。
確かに、これはもっと弱い理由かもしれません。
しかし、キリストが二度目に来られるという概念ではないでしょうか。
キリストが初臨の際に、完成させたいと願ったすべてを完成させることができなかったことは、すでに証明しています。
私たちはすでに、イエスが天の王国をイスラエルの最初の世紀内にもたらそうとしたことを示す多くの兆候を見ました。
キリストの再臨が必要とされたのは、不信仰のためでした。
このことは、再臨の教義がタナハ(Tanakh/ユダヤ教聖典)とユダヤ教神学に存在しないことからもさらに証明されます。
再臨の教義を、キリストがもともと死ぬために来られたのではないというすべての理由を背景にして検討するとき、キリストは一世紀中に王国の到来を告げたかったけれども、不信仰のため、摂理は再臨を必要としたことを示します。
9. 十字架刑に対する使徒たちの反応
イエスの一番近くにいた弟子たちの即座の反応を見ると、キリストの摂理的運命に変化があったことを示す複数の兆候を見ることができます。
第一に、キリストが昇天される直前の弟子たちの質問です。
(使徒行伝1:6) 「主よ、イスラエルのために王国を復興なさるのは、この時なのですか」。
この聖句は、イエスが実体的な神の王国を告げ知らせてくださるという期待を、彼らが抱いていたことを物語っています。
イエスとともに3年以上暮らした弟子たちが、なぜイエスがイスラエルを復興すると期待したのでしょうか。
もしイエスが最初からカルバリのメッセージを説いていたのなら、昇天前のイエスへの最後の質問は、この全時間が旧約聖書の預言の大部分と彼らの先祖全員と一致していたことを示しています。
彼らはイエスがイスラエルに平和をもたらしてくれると期待していました。
マタイによる福音書16章21節には、栄光の王から苦難のしもべへの摂理の転換の証拠が記されています。
(マタイ16:21) この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
「この時から」という限定は、弟子たちがその瞬間まで、十字架刑の運命をこれほどはっきり明瞭に聞いていなかったことを示しています。
それで、ペテロは立ち上がり、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません(マタイ16:22)」と言って、キリストを叱責し始めました。
突然の転換は、キリストが苦難の道を歩まなければならないと告げられた後の、弟子たちの混乱した反応にも表れています。
(ルカ18:34、(ルカ9:45、マルコ9:32)) 弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。この言葉が彼らに隠されていたので、イエスの言われた事が理解できなかった。
イエスが死ぬために来られたのではない、他のすべての理由の文脈で見るとき、弟子たちの思考プロセスは自然な反応となります。
結局のところ、イエスはどこに行っても神の王国を説き、弟子たち全員に、王国が霊的だけでなく実体的にも来るように祈るように命じたのです。
このように、キリストの発言に加え、前述のすべての理由は、メシアの本来の使命が急に変更された証拠です。
10. サタンは今も世の支配者であり続けている。
十字架刑後の使徒たちの手紙を読むと、さまざまな節で、サタンが依然として実体的世界の支配者であることは一目瞭然です。
パウロは、サタンはこの世の神であると書いています。
(コリント人への第二の手紙4:4) 彼らの場合、この世の神が不信の者たちの思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光の福音の輝きを、見えなくしているのである。
そして、彼らの君/支配者として、不信者の人生にひそかに働いています。
(エペソ人への手紙2:2) かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
ヨハネはその書簡の中で、全世界は悪しき者の力の下にあると述べています。
(ヨハネの第一の手紙5:19) わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。
ヤコブとペテロは、悪魔が食い尽くす者を求めて、凶暴なライオンのようにうろつくので、サタンの誘惑に常に用心し、悪魔に抵抗するようにと、仲間の信者に警告しました。
(ペテロの第一の手紙5:8) 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを求めて歩き回っています。
サタンはこの世の神であり、全世界を支配する君/支配者であるだけでなく、サタンはまた、信者と非信者の両方を神から地獄へと誘惑することができます。
重要なのは、これがすべて十字架につけられた後のことだということです。
クリスチャンである私たちは、悪魔がまだ徘徊していることを知っています。
聖典を読んでも、自分自身の中に罪があると見ても、腐敗した政治構造同様に歴史における悪魔の策略を認識しても。
しかし、もしサタンが十字架上で本当に敗北したのなら、神は悪魔の誘惑と野蛮を終わらせたいのではないでしょうか。
ここで何が問題になっているのか、それは神の子供たちの永遠の魂であることを忘れてはなりません。
(コリント人への第二の手紙11:14-15)
14 しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。
15 だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。
(テサロニケ人への第一の手紙3:5) そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのために私たちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。
伝統的なキリスト教では、サタンは神に対抗する主要因者です。
人々を誘惑し、欺き、神から離れた永遠の苦しみと破滅へと導くのです。
私たちの愛に満ちた天の父としての神は、
(ペテロの第二の手紙3:9) ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
答えは明白です。
もし、神の働きとは、神が遣わされた方を信じることであり、サタンの働きとは、神が遣わされた方を信じないようにすることならば、私たちは、キリスト御自身が、彼を十字架につけるサタンの業をやめるようイスラエルに警告し、叱責するのを見ています。
(ヨハネ福音書8:44) あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。
さらに、上で見たように、ユダの心を満たし、キリストを裏切るよう彼の謀略を扇動したのはサタンでした。
もし、キリストの本来の運命が十字架ではなかったとしたら、これはまさに予想されることです。
悪魔は、自分が負ける側にいることを知っています。
神の創造原理は、最終的に成功することが保証されています。
しかし、サタンは、最終的な敗北を遅らせるために、全力を尽くすでしょう。
もし、サタンがいまだに実体的世界を支配しているとすれば、それは、キリストが初臨ですべてを成就できなかったことを明確に示しているのではないでしょうか?
したがって、サタンがキリストの勝利後も実体的世界を支配していることは、キリストの唯一の運命が十字架刑であることを否定するもう一つの証拠です。
それでは、イエスが死ぬために来られたのではない、さらなる10の理由は何でしょうか。
1. 旧約聖書の預言を背景とした新約聖書の預言
2. 詩篇110篇の二番目の主とイエスとの関連性
3. モーセはキリストを信じなかったその世代を非難する。
4. イエスは何よりもまずユダヤ人に来られた。
5. サタンがユダの心を満たす。 ルカ22:3、ヨハネ13:27
6. キリストの降臨によって、収穫の季節が来た。不信仰によって、その機会は閉ざされた。
7. バプテスマのヨハネは、その使命を果たせなかった。
8. イエスは二度来られる。
9. 十字架刑に対する使徒たちの反応
10. 実体的世界の支配者として残るサタン
このように、キリストが死ぬはずではなかったことを示す、10の追加的な理由を見てきました。
これらの多くは、キリストの第一の使命が死ぬことではなかったことを証明する単独の理由であるにもかかわらず、私はより大局的な見地から、これを累積的なケースとしてとらえるよう、皆さんに呼びかけたいです。
しかし、私が強調したいのは、キリストは、地上に天の王国を建設するという第一の願いを果たすことはできませんでしたが、御国への道がすべて閉ざされていたときに、天の父に完全かつ深く従順に進み出たということ、私たちのために命を捧げられたことです。
事実上、すべての人が彼を拒絶し、裏切ったときでさえも、それでもなお、彼は計り知れない霊的救いの賜物を私たちにもたらされました。
神は最大の悪を、さらに大きな善に用いることができることを証明されたのです。
これは、キリストの使命に対する新たな視点かもしれませんので、私はさらに、そのことを繰り返したいです。
神とその息子に、彼らの視点を理解するのを助けてくださるよう尋ねながら、心から祈り、聖句を熟考してくださるよう、私は皆さんにお願いします。
そのようにする時にのみ、イエスが血の汗を流しながら必死に祈られた時の御言葉に真に共鳴し、理解することができると私は信じます。
(マタイ26:39) 「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
イエスの御心を思い起こしましょう。
彼の絶え間ない信仰指導、イスラエルの行為に直面したときの彼の正義の怒り、そして、悔やみ苦悩の念に駆られながら、民に向かって叫んだときの彼の悲しみの深さを。
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」(マタイ23:37)
少し考えて見ましょう。
もし彼らが喜んで応じていたとしたら、もし人々が、あれほど熱烈に情熱的に教え導かれたキリストの呼びかけに実際に耳を傾けていたら、どうだったでしょうか。
もし彼らが、神が遣わされた方を信じなさいというキリストの命令に耳を傾け、拒むのではなく、王国を歓迎していたら、どうだったでしょうか。
私たちは今日、どのような世界に生きていたでしょうか。
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