文鮮明師・司会ティム・エルダー本部長
監修編集タイトル:fanclub
翻訳:お父様の御言含め全文minion
皆さんこんにちは。今日は天基12年6月26日の韓国礼拝を始めます。今日は二代王様が早朝にテネシーに出発されました。今、皆さんの祈祷、そして神様の恩恵のおかげでテネシー州清平の土地の本契約を締結することができる時が迫ってきています。まだですが、迫ってきています。必ずそれはなさることでしょう。
そのために二代王様は出発されて他の関係者達も二代王様に仕え、(テネシーに)向かっている途中です。
それで、今日の水曜礼拝は・・・、礼拝は私たちが神様に約束したもので、霊界にも約束したものです。二代王様がいらっしゃらなくてもいらっしゃる場合と同じ基準を維持しなければなりません。
しかし誰かが説教を準備するよりもお父様の講演を読むことがより適当ではないかと考えて今日はお父様の615巻ある御言選集から講演文を選びました。
この講演文が何かと言えば、お父様が1971年の年末に米国に到着されました。60年代も米国を訪問されたことはあったのですが、71年に到着されたことは米国の公的路程を始めるために来られたのでした。
そして陽暦の次の年に72年2月初めに初めて一般の米国国民の前で講演をされました。それがどこかと言えばニューヨークシティーのマンハッタンにあるリンカーンセンターでされました。その時はおそらくアリス・タリー・ホールという、リンカーンセンターにはいくつか建物があるのですが、その中のアリス・タリー・ホールの講堂で初めて御言を語られました。
そしてお父様は米国人を初めてご覧になりながら、もちろん食口はいますが、食口ではなく一般米国人を初めてご覧になりながらどのような御言を語られるのか、これは特に米国がこのような危機にあるのでその時語られた御言をもう一度私たちが確認して、私たちが活動するのですが参考にすることが良いのではないかと考えてこの講演文を選択しました。
お父様のこの日の題目は「一つの神様と一つの世界宗教」です。私たちが、私とユ・ノスク勧士と代わる代わる読みますが、まず私が読みます。そんなに長くないです。11ページなので、それほど長くはありません。
----- 8:10 ~ 38:22
一つの神様と一つの世界宗教 文鮮明師
期:1972年2月3日 於:リンカーン・センター
紳士淑女の皆様!今夜このように天候が思わしくないにもかかわらず、沢山お集まりいただき、心より感謝いたします。
「皆さんにこのように会いたいという思いは、数十年前からしてきました。今夜初めて皆様にお会いでき、まず皆様に感謝を申し上げると同時に、神様の前に心から感謝を申し上げます。
今夜、皆様の前に申し上げようとする題目は「一つの神様と一つの世界宗教」です。ここニューヨークに住んでいる方々は、「神様」と言うと神は死んだと連想するかもしれません。しかし神様はいらっしゃるのに、いらっしゃる神様を持って神様は死んだと言ったら、これ以上の罪はないと見ることができます。神様がいないのに神様がいるという事は、いらっしゃる神様を死んだというよりはまだ良いと言えます。
今夜、お話しする「一つの神様と一つの世界宗教」という題目を置いて見ても、ここに人がいなければ何の問題になりません。人がいるからその人とひとつの神様が必要なのであって、人がいるからその人と神様が合わさってなされる宗教が必要なのです。
もし、絶対的な神様が一人でいらっしゃるなら、その神様がいる場所は幸せな場所ではないと考えるしかありません。
もし、米国の大統領が一人でいながら喜んで笑って神様だと言っても、神様一人好きで喜んでこのようなら、その神様は正常的な神様ではないと言うのです。
しかしその神様が誰もいないところで、小さな対相対一つを見ながら「ハハハ」と笑いながら好きになれば、それは正常的なのです。いくら小さなものを見て笑ったとしても、その笑う神に対して狂ったと言うならば、狂ったと言う人がむしろ狂った人になるでしょう。ですから、相対的存在がどれほど尊いかについて、まず皆さんにお話ししたいと思います。不幸だとか悲惨だとかいう言葉は、相対がいないところから始まる言葉です。
それならば、神様が相対を好むなら、この世界でいったいどのような存在が好きだと思いますか?感覚のない鉱物ですか?違います。植物でもありません。植物よりは動物はより関心事になるでしょう。このように見ると、この被造物の中で神様の関心事となり得る中心的存在は何かと尋ねたら、それは幼稚園児であっても人間だと指摘するでしょう。皆様はそう考えませんか?こうして見ると、人は被造物の中で最高傑作品だということを否定できないのです。ですから、神様も対象を訪ねて行くならば、人間を除いては訪ねて行く対象がないという結論になるのです。
今日のこの複雑な情勢の中で,今後のアメリカの運命とか,あるいは世界の運命を考えるとき,神様がいたら良いのか,いなければ良いのか,という問題は,深刻に考えてみる問題であるに違いありません。
絶対者がおり、真は真とみなし、悪は悪として処断できれば良いのですが、そのような方がいなければ今後の世界が問題にならざるを得えません。そのため、神様がいないことよりいたら良いということが私たちの願いであるに違いないのです。それでは、神様がいるのかいないのか、これが問題です。
二性性相の神様
この宇宙は存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには力がなければならないということを知っています。その力があるためには、力が先か存在が先かということが問題なのです。力がなければ存在もありません。ところが、その力というのは作用せずには現れないというのです。力が出る前に作用という現象が必ず必要です。
また、作用するならそこには力がある前に先行条件として主体と対象が絶対に必要であることが否定できません。この主体と対象がやり取りすることで働き、働くことによって力が存続するのです。つまり、力が出る前になければならないものが何かというと、主体と対象だということです。
主体と対象はお互い異なる立場にあるため、これらが作用するためにはお互いが相対的内容に合わせてこそ、そうでなければ作用できないのです。そのため、主体と対象が作用するときには主体の目的と対象の目的が合わさる起点がなければなりません。そうでなければ作用しないのです。
私たちの人で言うなら、何かの事で外部に出ていく時、自分が損をするために出る人はいないでしょう。ここニューヨークのタイムズスクエアに多くの人が行き交っていますが、その人たちが家から出てくるとき「私は今日、1ドルでも損をするために家から出る」と言って出てきた人は一人もいないでしょう。出てくる時は必ず自分の利益になれることを望んで、自分にプラスになる何かを望んで出発するのです。
皆さんが友達に会う所にいても、或いは好きな所にいても、お互いマイナスになり、今よりも悪くなるかもしれない場所では絶対に会いません。しかい、甲という人と乙という人の2人がお互いに会う所では、今よりより良くなるお互いの目的を見るために、そこで作用が起こり1つに合わせることが起こるのです。このように見ると、力が作用する所は二重目的、つまり主体と対象が、お互いの目的をプラスさせるようなものがなくては一つに合うこともなく、作用もしないという結論になります。
原子なら原子を見るとき、原子には陽子を中心として電子が回っています。それもやはり二つの目的を結合することができる、与えて受ける場所にあるために、それが一つの原子の形を形成するのです。ですから電子の目的と陽子の目的を兼ねる目的を中心に合わさっているのです。
大きく見ると、神も存在者です。神も存在するなら実存体でおられるのです。それならば、神様もまた主体と対象の関係になっていて、完全に授け受けすることができる二重の目的性を中心として結合された位置に立たなければ永遠に存在できないのです。ということは、神様も結局は主体性と対象性が合わさって一つの神様としていらっしゃるというのです。
人間の良心作用から見た神の実存性
聖書の創世記1章27節を見ると、「1:27神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」という言葉があります。それを帰納的に追求すると、神様は一人の男性と一人の女性を合わせた方、という結論になるのです。
そういう神様が一人でいてはいけないので、対象を必要として、この世界を創造せざるを得なかったというのです。それで建てられたのが神様の一人の男性で一人の女性です。人を見ても、人には心と体があります。この心と体が授け受けするのです。これが万が一、間違えるようになるとき、痛みを感じます。どちらかが傾くというのです。しかし、これが合わさって上がるようになれば嬉しくなるのです。これが完全に一つになった男性がいたら、彼は完全な男性でしょう。
もし絶対者がいるならどんな男性を要求しますか。そういう男性を要求することでしょう。女性も同じです。心と体が完全に一つになった女性がいるなら、神様はそういう女性に会おうとせずにはいられません。絶対者の威信を見ても、人が会うところには、最高の男性、最高の女性に会わなければならないというのです。そのように天を探すことを望み、天の前に堂々と出られる人を天は要求するのであり、私たちも要求するのです。
私たち人間を見るようになれば、原因的な存在ではないということを否定することはできません。人は結果的な存在なのです。皆さんが存在するしないを自由にできますか?できません。原因にならないので結果的な立場にあることが否定できません。結果的な存在も原因が絶対的であれば、絶対的な相対の座に立つことができるわけです。
1930
人体の神秘を通じて見た神の実存性.
皆様!簡単に神様がいるかいないかについて、少し話してみましょう。私たちが人類の始祖を訪ねて上がっていけば、最初の人類の始祖が現れるでしょう。その人類の始祖は地上に生れたのです。
その生まれた最初の人間が地上に生まれながら太陽があり目で見ることを、それ自体が自ら準備してきたのか、そうでなければそれ自体を知らずに出てきたのか、ということを考えてみましょう。
この地に出てきて、目は太陽があることを知るようになることを、その生まれた自分は知らなかったとしても、すでに天体に太陽があり、見ることができると知り、目がそのように生じたのです。
皆さんの目を見れば瞬きをします。それは大地の熱を受けて目の水分が蒸発するので湿らせなければならないことを知ったから瞬きするのです。また、まつげは埃があるので、埃を防がなければならないことを知って生じました。これを見ると、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです。
皆様、目を見て下さい。目は汗をかくことがわかりましたね。分かってこの貴重なところに異物が入ると大変なことになるので、防波堤を作っておいたというのです。そして、人が立って歩くことが分かったということです。また耳を見てください。これはすでに三方向に音波を聞くことができるようにすべて分かってできたというのです。また鼻を見てください。鼻がどうしてこのように下に向いているのかというのです。鼻に汗や雨水が入ってはいけないので、防波堤を作って下に向けたのです。すべて分かって作られたというのです。それが自分勝手に生じることができるのかというのです。
このように、私たちの人体を見ると、神秘的な王宮のようになっています。これは、ただ生じることはできません。人間が生まれた時、自分自信は知りませんでしたが、それを知っている方が存在したのか存在しなかったのかという問題になります。そのように生まれたことを分からないで、ただ生まれたと言うことはできません。それを事前に分かっていた方が誰かと言うと、神様です。
神様との関係から見た人間本来の価値
それでは神様が人間を造られたとしたら、私たち人間をどのような位置に置いてどのような関係を結ぶために造られたのか、神様が私たち人間とどのような関係を結ぼうとされたのかを見てみましょう。神様がもし人間を造られたなら、作った神様の目的があったはずです。また、そのように造られた人ならば、その人自身にも目的があるのです。造られた人の目的と造られた神様の目的が別々に離れてはいけません。必ず一致点がなければならないということです。その場所は神様も望み、私たち人間も望むでしょう。
ここに来られた方の中に世界的な大統領がいらっしゃったら、どの大統領よりも低くなりたい人がいますか?高くなりたいですか、低くなりたいですか?高くなりたいのです。最高に高くなりたいのです。世界で最も高い方がいれば、その方と関係を結びたいのが人間の欲望です。
そしてその高い人を中心にして一つになったとしても、それよりさらに高い人がいれば、その方とも一つになりたいというのです。それは男性も女性もそのような心を持っています。どんなに劣った人でも、そんな考えをすべて持っているというのです。もし、天地を創造した絶対者の神様がいらっしゃるとしたら、その神様と関係を結びたいですか、結びたくないですか?
そして、その神様を占領したとしても、神様の中に一つしかない愛を占領することができない時は安心できないというのです。神様を占領し、神様の中に一つしかない愛まで占領したら、万事が全てオーケーなのです。その方の愛だけを占領する日には、その方のものは私のものになるというのです。良心は私たちをそこまで追い出す作用があると言うことを、そういう本来、人間の価値的な場所があるので、そのような作用をしていることを私たちは否定できません。
神様は愛の神様ですが、私たち人間を愛そうとするならどんな場所で愛したいですか。また、私たち人間はどんな場所で神様の愛を受けたいでしょうか。このように追求するとき、その場所は親子関係、つまり父と息子の場所しかないというのです。
ですから今日キリスト教において天の父と呼ぶことは、人間にあっては当然のことです。父親と息子なら上下関係です。人間の欲望と見るとき、その高い父の所に私も一度行きたいと望むしかないのです。そうなるとき父が駄目だというなら大変な事になります。ですから父はそれまでも気遣って私たちの心、すなわち内的な場所に入って来て、私たち人間自身は外、すなわち神様の体のようになる場所まで私たちに許すというのです。そうすると同等な位置に立つようになります。
人間として見たら、その父が貴重なら、一つしかないその父をどこかに保管する場所がないというのです。遠くに置きたくないというのです。常に私と共に、私だけが会って、私だけが好きな場所に置いておきたいのです。ですから神様が見えないことを願うのです。神様をどこかに置いてはいけないというのです。自分だけが知っている心の中に置きたいのが、人間の欲望に違いありません。
ですから、創造主である神様は被造物である私たち人間を神様と同じ位置に置くと言うのです。私たち人間を神様の息子の席で愛されるようにして下さり、神様と同等の席に立たせてくださろうとしたのです。
神様は天地を創造した能力を持った方なので、その創造能力までも持たせたかったというのです。神様が人間を創造してから、私たち人間を作って見たとき、どれほど可愛らしくどれほど愛おしかったか、それまでも、そのような妙味までも、私たち人間に感じさせたかったという事です。
その神様の創造能力を受けようとするなら、神様は一人の中に完全な男性と女性の姿としていらっしゃるので、分かれて生まれた男性と女性も完全な男性と女性が一つになって神様の相対にならなければなりません。神様の相対になることによって創造的役割を代身することができます。
ですから、夫婦の愛を通じて一つになることによって、神様と同じ立場で創造能力を実現できることが子女だというのです。子供を産んで神様がどれほど喜ばれたかということを私たちに知らせるために、神様は子供に対して愛することのできる心を私たちにくださいました。
このように見る時、神様は一番良いものを私たち人間にすべて注いでくださったというのです。このように永遠な神様の愛と一つになって幸せと満足の中で平和なエデンで暮らすように私たち人間を造られたのです。そうなることによって、絶対的な神様の前で、人間は神様の愛を中心として、永遠に相対となる立場で、分かれても分かれることのできない幸せな人として生きることが、人間本来の姿だったということを、私たちは知る必要があります。
世界を救うべき宗教の使命
絶対的な神様が建てた存在物は一つの目的を持たなければならないに違いないのです。ところで、先ほどお話しした神様の愛を中心にして絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか?いません。絶対的な神様が立てたのですから、一つの目的を目指す人間になるべきなのに、私たちを見ると、二律背反的な反対の目的になったもう一つの道に立っていることが分かります。ある人はこれを人にとっての主体と対象の関係と見ていますがそうではありません。良心作用が内的なプラスだとすると、私心(ししん)はもう1つのプラスです。つまり、反発が起こるのです。そういう立場に立っているのが、この地上に生きている私たちの人生です。
神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対的価値の理念を喪失してしまい、私たち自身は反対的な二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければばりません。言い換えると、壊れた人になっているというのです。ところで、絶対的な神様は、人間を相対にするしかないので、人間を放っておくことができず、歴史の過程を通して再生させる運動をしてこられたのです。すなわち、修理工場を作らなければならないというのです。それが宗教だというのです。
世界には数多くの宗教があります。文化が異なり、または民族の背景が異なる基準に従って、数多くの宗教を立てて糾合してこられたのです。宗教が望む目的は世界を救うことです。神様が望む目的も世界を救うことです。世界を救おうとする宗教でなければ長くは残りません。
宗教指導者は民族主義者ではなく、世界主義者であり、天を中心とする世界的運動を提示した人々です。私たちが今、四大聖人だといって4人を挙げることを知っています。イエス·キリスト、釈迦牟尼、孔子、マホメットを挙げます。ある人はソクラテスを選んでいますが、ソクラテスは哲人であり聖人ではありません。知識を持っては命を救うことができません。天だけが生命を左右するのです。
そのため、四大聖人がどんな人々かというと、すべて世界的な大宗教の宗主になっています。天に仕えない人はいません。皆さん、聖人は尊重視しながら、天を無視する人になってはならないというのです。
世界的中心宗教はキリスト教
それでは、この修理工場のような使命を宗教がしますが、神様が絶対者であるなら、絶対者が最も好む宗教がどのような宗教なのかを、この四大宗教の中で知る必要があります。これが問題です。
儒教を見ると、神様に対する確かなことを教えてあげることができませんでした。善を行うと天が福を与え悪を行うと怒りを与えるということしか教えることができませんでした。仏教を見たら、法的な神様は認めますが人格的な神様は知りません。またイスラム教を見ると、これはキリスト教を受け継いだ中間的な宗教です。これはコーランか剣かという武力的な宗教です。これは天が喜ぶことではありません。
しかし、ただイエス·キリストだけが主張した内容が異なります。彼が現れて「私は神様の独り子だ」と言いました。人類の歴史上で神様の独り子だと主張した人はイエス様しかいないのです。次に「私を見た人は神様を見た人だ」と言いました。「私があなたの中にいて、あなたが私の中にいて、父は私の中にいて、私は父の中にいる」と言いました。それだけでなく「私は新郎であり、あなたたちは新婦だ」と言いました。
このようなことを見ると、誰を中心にしてこれを成し遂げようとしたかと言うと、神様を中心にして成し遂げようとしたというのです。言い換えれば、神様を中心とし、息子となって一体となり、ひとつの新郎新婦を築き、ひとつの家庭を作ろうというのがキリスト教の目的なのです。前に述べた私たち人間にとって、最高の価値として与えられた息子の地位と同等の地位、そして創造の偉業と創造したその後の喜びを感じることができる家庭的な起源を、イエス様は教えて行かれたのです。
キリスト教の限界
ところで、イエス様は神様の息子であり、天のお父様と一体になりましたが、相対できる新郎新婦の席を用意することができませんでした。もしイスラエルの国とユダヤ教が、その当時イエスと一つになった場所でイエス様が新婦を迎えることができていたら、イエス様は神様と直接的相対になって創造の能力を発揮できる基盤を持つことができたのに、それを果たすことができませんでした。
このような神様を中心とした息子、娘が出てきて、家庭をつくり、新しい宗族、民族、国家、新しい世界になっていたら、この地球上はすなわち天の国になっていたはずです。神様を中心とした天の国になったはずです。イスラエルの国の人々が信じることができず、ユダヤ教の人々が信じることができなくてイエス様が死んだのであって、信じていたならイエス様は死ななかったでしょう。
もし、あの時イスラエルの国とユダヤ教が、イエス様を信じて神様が理想としていた新郎新婦を迎えて新たな出発をしていたら、イスラエルの国の人々は、そのように分かれ、第2次世界大戦中に6百万人のユダヤ教徒がヒトラーに虐殺されることはなかったはずです。歴史以来初めて出た、神様の対象になって神様が愛せる方を打ってしまったからそうなったのです。これ以上大きな罪はないというのです。
今ここにもイエス様を信じる人がたくさん来られたと思います。今信じているキリスト教ではだめなのです。そうしていくと、イスラエル民族のようにばらばらになってしまうかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として、一つになり再び来られる主が、この使命を持って来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなくては、これからのこの世界の展望は悲惨だと考えざるを得ません。
その方が来て、新郎として新婦を迎えて婚姻を挙げるというのがヨハネの黙示録にある子羊の宴です。堕落したため私たちは堕落した偽りの親を持ちました。神様がモデルとして考えた善な真の父母は現れませんでした。この計画したものを終わりの日に来て、再び合わせなければならないというのです。真の父母が現れて再び生み、再び接ぎ木する事をしなくては、世界中のすべての人は救われないのです。皆様、これを確実に知らなければなりません。
新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教会
これから、来られる主はどのような使命をもって来られるのでしょうか。堕落しないで善の父母の立場で完成する真の父母を失ったので、それを再び成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛を受けることができる道を開くために来られるお方が、再臨主だと言うことをしらなければなりません。
神様の愛を受ける息子、娘たちがこの地で生きて、家庭的に天国に行くことが幸福でしょうか。現在、キリスト教で信じるように、ただよく信じて、母親は天国に行き、父親は地獄に行くようになって、別々に別れていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入らなければならないというのです。家庭が入り、宗族が入り、国が入り、世界がすべて入らなければなりません。
このような新しい父母を中心とした世界的な家庭がこれから生じ、そこから因縁を持ち、人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とした新しい文化と伝統がこの地球星に顕現するようになるとき、今のこの複雑で罪悪に満ちた世界ではなく、新しい地上天国になるのです。
そのようになるためには、ここで皆様がどのように手続きを踏まなければならないのかを知るべきです。ですから、そのような内容を教えるのが、私たち統一教会の使命であると知っています。
膨大な内容をこのように短くして短い時間で話そうとしましたので、飛躍も多く、理解しづらい点もあったかもしれませんが、皆様が了解して聞いてくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。
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以上、お父様の公演の内容でした。
お父様が公的な場所で講演されるとき、原理を主として御言を語られることが多いです。創造原理から始まって堕落論、イエス様の使命、キリスト論、そして救いをどのようにして受けるか、ですから、原理講論の順序と殆ど似たように今日も御言を語られて、このような講演文はこのような順序で語られることが多いと言う事をわたしが今まで見てきました。ですから、お父様の講演文は原理講義だと見ることが出来ます。
お父様が初めて一般のアメリカ人に会って、まず、神様は実際にいらっしゃると話されて、しかし今、神様と人間の関係がどのようにならなければならないのか、しかしできなかった、それをどのように再び回復するのか、このような内容を語られました。
実際、この講演文はリンカーンセンターで、私が知っていることは3日間御言を語られた前日の御言で、お父様は7大都市を巡回されました。ニューヨークから始められて米国の全国の人達を集めて御言を語られました。
その時は本当に恥ずかしいことに、米国の食口達もお父様の使命がよく分からず初めは良く協助できませんでした。しかしそういう事にもかかわらずお父様は私たちを忍耐心を持って導いて下さり巡回講演がなされたと、その時私はまだ入教していない時でしたが、例えば私はリンカーンセンターで御言を語られた時も「チケットを売りなさい」と言われたそうです。
食口達は「チケットを売る?私たちがどのようにして?お父様を知っている人なんて全くいないのに、どうして人々がお金を出して来るのだ。」と言って反対しました。しかしお父様は「必ずしろ」と言われてリンカーンセンターの場所を予約することも最初は米国教会の指導者達はしないようにしました。反対、反対、反対して結局はお父様が直接リンカーンセンターの事務所に行かれて直接場所を予約されたそうです。そのくらい私たちは無知でした。
この講演文を見るたびに私たちはそれを考えて、もう一度・・・、その時、私はいませんでしたがその時いた人達の代わりに悔い改めたい気持ちがあります。実際、私はその時ニューヨークにいました。しかしメシアがこのように講演されることも知らず、自分の思いのままに生きていました。それも悔い改めます。
お父様はこのように71年から始められて数十年間米国の人に投入されました。今も二代王様を通して米国を生かそうと愛を投入されて私たちを導いておられることを考えるとき、本当に感謝申し上げます。最後にお祈りして終わります。
- 祈祷 ー
天のお父様感謝申し上げます。今日はお父様が1972年2月リンカーンセンターのアリス・タリー・ホールで3日間された御言の中から前日の御言を訓読しました。お父様が米国市民に訴えられた内容、神様は確実にいらっしゃり、私たちを再び救いたいそのような神様でいらっしゃることを教えて下さいました。
その時、全ての米国国民が何も知らない所に来られて私たちを教育して下さいました。特にキリスト教徒達を対象に「今の現在のキリスト教を持ってしては駄目だ。キリスト教が一つになってこそメシアに会うことができる、救世主に会うことができる」このように御言を語られた事を考えるとき、今日の日も米国のキリスト教が一つになる事ができていないことを本当にお父様の前に悔い改めるしかありません。
二代王様は今、アベル的キリスト教、すなわち、キリスト教の教会に通っていなくても、キリスト教の基本的信仰を信じて、基本的倫理道徳を守る人達、その様な人達を集めて摂理をされていることを知っています。
本当にこれを持って私たちが米国を救い、米国をもう一度神様の前に立つことができる国として立てたいです。
神様、感謝申し上げます。この機会を下さったことを感謝申し上げます。今、現政権の前にこの国が間違った方向に行っていますが、本当にトランプ大統領が継続して戦い出て、この間違った流れを再び善の方向に戻すことができる、その様な事がなされるように導いて下さる事を懇切にお願い申し上げます。感謝申し上げます。
この全ての内容を祝福中心家庭ティム・エルダー、ユ・ノスクの名によってお捧げし報告申し上げます。アジュ
では、今日の水曜韓国礼拝をこれで終わります。皆さん来週までさようなら。
神様王権樹立勝利億万歳、天宙天地人真の父母様三代王権勝利億万歳、天一国創建億万歳
ありがとうございました。
45:00
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