2018年1月15日月曜日

英語聖日礼拝鉄の杖の王国31月14日<ポイント訳3編>


Kingdom of the Rod of Iron 3

鉄の杖の王国3 1月14日<ポイント訳3編>

愛と正義と慈愛の神様と鉄の杖の王国


サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載(ポイント)です。字幕化は2nd Israelさん。教会ブログであるため御言をコレクションしています。聖殿食口以外からも読んで頂いています。ありがとうございます


翻訳:サンクチュアリNEWS管理人
鉄の杖の王国シリーズその3に入ります。
これを本にするときにははっきりと章に分けるつもりです。
また聖句をみていきましょう。繰り返し読むことが重要です。

この中でエマソン・エガリッチの「Love & Respect (愛と尊敬)」を読んだ人はいますか。
夫は妻を愛し、妻は夫を尊敬するという素晴らしい著作です。作者はこの本を書くにあたりたった一つの聖句をもとにしたのです、それはエペソ人への手紙第5章からでした。

夫は無条件に妻を愛しなさい、妻は無条件で夫を敬いなさいという、ほんとうに鍵となる聖句です。これは神様の戒めであり、選択の余地はありません。神様を信じ、神様に忠実であろうとする者である限り、どうこういうことができません。妻を無条件で愛するということ、時には愛し難い時もあるかも知れません、そういう時、夫は忍耐強く愛をもって変えるのです。またその逆に王妃(妻)からすると無条件に王(夫)を敬わなければなりません。見下すのではなく尊敬をもって夫を変えるというのです。これが大切です。男性である夫に口やかましくいうこと、これは尊敬を欠く行為です。

これは神様から頂いた戒め、命令だと知らなければなりません。だから実践するのです。いつもそれを完璧にできるひとはいません。しかしそれをやろうとしなければなりません。
神様の命令です、とやかく言えるものではない、選択の余地はありません。

著者(エガリッチ)の本のすべてはエペソ人への手紙第5章の中の聖句だけをもとにしているのです。この本も、そのシリーズもその聖句から湧き出たものなのです。まさに夫と妻の関係について鍵を解き放つような聖句だったのです。

われわれは王国の聖句、鉄の杖の聖句について学んでいますが、これは一つや二つの聖句どころではありません。それをみればイエス様が「福音」とは何かはっきりと話しておられ、それは「神の国」、「神の国(御国)」こそが良き知らせだとおっしゃっているのです。

またその神の国について、特に、再臨の時には鉄の杖で治められるというのです。もちろんキリストは愛の神様ではあり、その中心が愛であることは間違いありませんが、同時に鉄のつえで御国を治められるというのです。これはキリスト教会の一般の人々にはそれがどういうことか理解することが難しい。

どうしたらそうなるのか鉄の杖に関する聖句をみるまえに、「王国の福音」についての聖句を読むことにします。先週も読みましたがこれは「主の祈り」です。

マタイ6章
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」この聖句は絶対的に重要だというのです。神の国は天界の国でもなく、霊的な国でもありません、死後に待ち望む王国ではないのです。これは実体的(物理的)な王国です。通常の伝統的なキリスト教神学ではこれを肉体の復活だと解釈します。つまり主イエスが戻られるとき、死人が墓も中から文字通り生き返ると、多くのキリスト教徒の兄弟姉妹は信じています。これは皆さんもご存知でしょう。そして肉体をまとってイエス様と一緒に地上で暮らすというのです。そうして千年統治に同参する。

天国が地上にくるということ、これが重要なことです。天界の王国でもなく、死後の天の王国でもなくキリストが地上で打ち建てる王国なのです。それは正義の王国であり、善の王国であり、愛と正義の王国です。しかしそこにはまた統治の鍵となる部分があり、それは王国の支配は鉄の杖によってなされるということなのです。

しかしクリスチャンの兄弟はそれがどういうふうに実現するのか理解できません。もちろん神様はこれを、原理を通し、天一国憲法を通して、万王の王の三大王権を通して明快に示してくださっています。愛と正義と慈愛の神様と鉄の杖の王国、それが何の矛盾もないことを示してくださったのです。

マタイ6章33節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

マタイ7章221節
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

ルカ4章43節
しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。

イエス様ご自身が、私は神の国の福音を宣べ伝えるためにつかわされたとおっしゃっているのです。決して、「皆のために死ぬために来た」とか、「十字架に架かるために来た」などといっていない。われわれは、それによって霊的救いがなされたことは知っています。しかしイエス様はもう一度来なければならないのです。イエス様も私はまた来るといわれました、それは地上天国が来なければならないからです。

ルカ4章43節ではっきりとおっしゃっています。これは2000年前の文献です!なのにこれを誰も見ようとしなかったのです。誰もこの聖句を読みたがらなかったのです。これがローマ・カトリックの正統的神学、あるいはギリシャ正教の神学と一致しないからです。そうした伝統的弁証学と合致しない。

ルカ4章43節で、イエス様が自らの口で話しているではないですか。ここを避けて通ることなどできないのです。無視することなどできません。イエス様と聖書の権威は、この世のすべての教会にまさっているではないですか。それらは、その権威の下位にあるものです。

キリスト教の伝統、正統性、そのようなものにかかわらず、聖書はそれらを凌駕するものです。特にイエス様ご自身が語られたご自身のこと、宣べ伝えた福音の内容ともなればなおさらです。イエス様が最高の権威をもっているのです、いかなる教派も問題にならない、その下位に属するのです。イエス様はこう語られました。

わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである (ルカ4:43)

マタイ4:23では、
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった

マルコ1:14では、
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

だから、神の福音とは神の国だというのです。
王国というのはバシリア(ギリシャ語)で、こればバシリウス、王という単語から派生したものです。民主主義でも社会主義でも共産主義でもないのです。マルクス主義でもない。王国です、王国。    

イエスが福音とは何かはっきりと言っていることが分かります。

福音は、神の国の福音なのです。

もう一度言いますが、福音は十字架の福音ではないのです。

通常のキリスト教神学からみれば、まったくの神聖冒涜でしょう。

伝統的に(十字架の福音だと)そういってきたからです。

また、それを用いて神様はこれまで救いの御業を行ってこられたからです。

しかしそれは、キリストが再臨するまでの話です。

(聖書で)神様は福音とは何だといっておられますか。

それは神の国だといっているのです。それを創建し、それを宣べ伝えるのが私がつかわされた目的だとおっしゃっているのです。しかし人々の不信仰によって神様は第2の道を進まなければなりませんでした。もちろん最終的に神様はそれを達成されるでしょう。神の国が創建されるでしょう。この聖句(神の国の福音)が消えることなどない、期限切れになることもないのです。

「福音」とはエウアンゲリオン、「良い知らせ」、「よい音信」という意味です。そしてそれは神の国のことなのです。福音のいう神の国・・・そこではライオンが羊と共に横たわる・・・いいですか、ライオンがオオカミと共に横になるとはいっていません。それは共産主義者の信条です。カトリック教会は基本的にライオン(獅子)がオオカミと一緒になる・・・と教えています。(イエス様がライオンだとすれば)自分たちは中央集権で支配するオオカミだというのです。(カトリック教会は)堕落の組織、ビルダーグループ、ダボスグループ、国際銀行家、巨大なマフィアのカルテルたちと結託する者たちです。教会を装いながらそういう者たちとグルになっている! イスラム急進派も同じです。一緒になって動いている。

神様はライオンがオオカミと共に寝そべるなどとは言っていません。ライオンが子羊と一緒に寝そべるといっているのです。

羊は羊飼いの声を聞きわけるのです。

だからイエス様ご自身が、神様が福音とは神の国の福音だとはっきりといっているのです。

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。(マタイ25:34)

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(マタイ24:14)

これは説得力があります。

御国(神の国)が再び述べ伝えられるとき、それが終わりの時、最後だというのです。これが終末です。種ともみ殻がわけられるとき、山羊と羊がわけられるとき、その分別のときが今です。善と悪も分けられる。

世間を見ても、いまそうなっています。

善なる人はさらに、さらに善になり、キリストをより愛する人になっています。邪悪な人は暴き出されるとともにさらに邪悪になっています。その悪さ加減が先鋭化しているのです。まさにバルカン化(Balkanization)が起こっているようです。誰も中間位置に留まることができません。中間位置で隠れていることができないというのです。主権と全体主義のどちらを選ぶか、その中間で楽しく、お上品に隠れていることができません。

これが時のしるしです。この神の国の福音が説かれるとき、全世界に宣べ伝えられるとき、最後が来るのです。

イエス様が御国(王国)について話をされるとき、王国について教え、王国を治められるといいました。ではいかにして御国を治められるのでしょうか。どのようにして信仰者たちがキリストと共に共同相続人になるのでしょうか。神様といかに王国を統治するのでしょうか。

忘れてはならないことは、王国は神様と神様の愛、人類への神様の賜物が基礎にあるということです。神の国が打ち建てられた後も神様の本性は不変です。神様は創造の神であり、イエスという人に臨在される方です。神の国創建が実現した途端に、(独裁者の)フィデル・カストロや金正恩のような人間になるはずもないのです。アジアのポーキー・ピッグ(豚)にはならないというのです。

北朝鮮のバーベキューでは皆、樹の皮まで食べるのです。だから体内には何十センチもの寄生虫がいる。

神の国ができた途端に神様の本性が変わるわけはないのです。聖書には神様は永遠不変のお方とあります。だからその性質は変わらない。新約旧約の愛なる神が、神の国ができた途端に独裁の神になったりしないというのです。

キリスト教界の問題は、だれも神様による統治、鉄の杖の統治について語ろうとしないことです。愛なる神様がどのように鉄の杖で治められるというのか。また、どのように信徒たちが神の王国で王、王妃となってキリストの共同相続者になりうるのか。「あなたの冠がだれにも奪われないように」(黙3:11)

信仰ある者たち、生き延びた者たちは神様とともに立ち、地を受け継ぐというのです。詩編2:8に書かれています。

わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える(詩編2:8)

それはわれわれが権力を誇示するためでも傲慢に、不遜になるためでもありません。

ただ、神様がおっしゃったからそうなるのです。

だから善人がしなければならないことは・・・それは私自身も乗り越えたことですが、すなわち、神様が相続権を与えてくださったら、それを受け取らなければならない、ということです。それは自己中心だからではなく、神様が選んで与えてくださった、ただそれだけの理由があるからです。分かりますか。

もしそれを受け取らない時には、神様がくださった相続という責任を放棄したら、サタンがそれを取るというのです。ほかの誰かが奪っていく。

皆さんは私の歩みをずっと見てきました。王座に座ることに大きな抵抗を感じたりもしたのです。私は一番末の息子です。そこにいる若い人たちもわかるでしょう。そんなことはしたくないのです。私は他にもいろいろスキルをもち、あらゆる格闘技を学んできた男です。それを人前では見せなかったのです。見せびらかすことが嫌だったのです。

しかしそうしなければなりませんでした。もしお父様の後継者、相続者として席に着かなければ、お父様、神様の選びに応えなければ、その席にサタンが座るのです。だから私に選択の余地はないのです。それが相続の難しい所です。善人は往々にして謙遜です。謙虚だからいつも「自分は相応しくない」という思いをもつのです。

しかし神様には、あなたが相応しいかどうか関係ないというのです。それは神様の判断基準にはならないのです。神様はもっと他の基準で判断されるのでしょう。われわれが相応しいかどうか、そんなことが問題ではありません。もしそうなら、山ほどのサタンが「自分こそ相応しい」と名乗りを上げるでしょう。むしろ、自分などとんでもない、と思う点を神様が取られるのかもしれません、「じゃあ、もう少しおまえを信じてみよう」となるのです。


お父様の文化は、巨大な天正宮やショッピングモールの文化ではありません―


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キリストによる王国支配を特徴づけるその定義は鉄の杖なのです!
それは鉄の杖なのです。そこを避けて通ることはできません。
この間、銃の展示即売会(GUN SHAW)に行ってきました。
行った人はいますか?
私は良い機会なので年長の息子たちを連れていきました。
息子たちも楽しんだようです。
展示会の会場に入って、銃の展示や会場に来ている人々を眺めていました。
そこには。サバイバルのグッズや釣り用具、そして銃器、関連するハンティングの装備やライフルなどを見ているうちに、その文化は、まさしくお父様の文化であることを思い出しました。
人々はそのことを知りません。
お父様の文化は、巨大な天正宮やショッピングモールの文化ではありません。
それらは韓オモニの文化です、それらはお父様の文化ではないのです。
お父様の文化はジャングルの中、汗して働く労働者たちと共にある文化、ボートに乗ったり、漁をしたり狩りをしたり、・・・ お父様が済州島でハンティング、イノシシ狩りをされる、そこで狩りをする人たちこそ、お父様が多く交わった人々でした。
こういう人々がお父様の周りにいたのです、イエス様も最初に漁師を伝道したではないですか。だから、われわれも「文化」の殻を破らなければなりません。まだ、(ハンティングなど)この文化に関わる人はエリート主義者が多いのです。必ずしもそれは悪くはないのですが、また、われわれもそれに習熟しなければなりません。しかしそれがサタン王国でのエリート主義者になる条件になっていないか注意しなければなりません。つまりそこで汗を流して働く人びとを歓迎しない者となっていないかどうか。
とくにアジア人は気をつけなければなりません、私もアジア人です。(アジア人は)階層に分けたがるのです。誰それは漁師だ、日焼けした労働者だと、その意味ではアジア人はとても差別主義者なのです。スーパー差別主義者です。黒人の中でも差別主義者はいる、それと同じものなのです。アジア人はアジア人同士でとても差別します。肉体労働者をみると、本当に見下すのです。相当な差別主義者だというのです。これは(過去の)中国の支配から入ったもの、サタンの文化です。
アジア人はそのことにかなり罪の意識も感じています。アジアの兄弟姉妹もいますが、十分に気をつけなければなりません。
われわれはお父様が愛した文化を愛すべきです。それを伝えていかなければなりません。
お父様が常にともにいた人びとはアウトドアを愛する人たちでした、ハンティングやフィッシング、ときには体臭もする。ジーパンと迷彩服で歩くものもいます。ベルトに銃をむき出して吊るして歩き回る者もいる。大きなゴム製の釣り防水つなぎを着てボートを操縦する者たち、その姿で教会に来る、鮭を釣ってきたといって。(笑)
そういう文化世界が、万王の王の生涯の一部でありライフスタイルだったのです。
ときにはホテルで会議を開いたりしましたが、それはお父様のライフスタイルではありません。
お父様は完全にアウトドアの人でした。
だから自分のイメージでお父様を描いてはいけません、それは罪です。ありもしないお父様の姿を想像で描くなというのです、本物のアウトドアの方でした。
アマゾンのジャングルのワニのことをいっているのです。
十代の子供がどうしてアマゾンのジャングルの奥地でワニやピラニアがいるところで釣りをするのかというのです。お父様がそこでされているから、私たちも行ったのです。そこに行って(お父様に)合流しなければならなかったのです、お父様の訓練に。
いやでも何でも関係ありません。ワニがうようよいる(アマゾンの)河で何も知らずに泳いでいたのです。私たち(兄弟)は、「ああ、あそこに滝がある」などとはしゃぎながら愚かにも泳ぎ回っていました。そこでアナコンダ(巨大へび)が泳いでいく姿も見ました。私たちはアマゾンのジャングルのど真ん中で川を泳ぎ下っていたのです。
「よく、川底のアカエイを踏まなかったな!」と現地の人に言われました。
足の立つところでは、われわれ兄弟は歩き回っていました。本当にバカなことをしましたが神様が守ってくださいました。どこに行こうとワニがいました。ピラニアも泳ぎ回っています。

とにかくそれがどれほど素晴らしい経験だったでしょう。お父様はそういう体験を、11才から13才の息子たちに味わわせられたのでした。 
サケ釣りにアラスカにも行かなければなりませんでした。寒い上に濡れるので皆が始終不平をいっていました。熊までいるし、何をしていいのかもわからずに、皆、ニューヨークから行ったのです!ニューヨークでスケートボードをしていた子供がアラスカでサケ釣りです。(笑)

ゴムの釣り着を生まれて初めてはきました。スケートボードをする場所もありません。
スケボーの公園がないのです!(笑)
小中学生の頃、そういう野生の地に行かなければなりませんでした。正真正銘の荒野です。
チニアックってどこでした?そこに小さな飛行機で行きました。ヤブの他何もないのです。それと鮭とクマ。そのような場所に小中学生がいくのです。
お父様はそういう荒野で訓練されたのだと思いますが、当時はいやでいやで仕方なかったのです。だから(当時)iPoneやiPadがあったなら一日中それで遊んでいたことでしょう。
えっ?(アラスカでは)通じないですって?
とにかく幼い時はとても行きたくなかった。一言でいうと、絶対嫌だった。
しかし今、振り返ってみれば、最大の恵みでした。私の中にまかれた種でした。成長するとともに、それが芽を吹き育っていきます。だからまた自然の中で自然を愛し荒野を愛することがたやすくできました。お父様がそうされたのです、そう訓練されました。
いやでもなんでも、年に一回は行かなければならなかったのですが、お父様の場合は年中、いつもいつも行かれるのです。ショッピングモールには行かない。(お父様は)荒野の奥地を好まれました。
私と共に苦難の時を過ごした皆さんにはわかるでしょうが、私にとって意味のある路程でした。
そこでお父様の臨在を感じ取ることができ、お父様と、お父様の文化に対する愛を再発見することができたのです、これは信じられない恵みです。われわれの文化をお父様の文化だと語ることをせず、お父様の文化に従うのです。フィッシングのトーナメントを開いたり、ハンティングのトーナメントも実際に行う。それを自分の種にする。
われわれは完璧ではありませんが、お父様が愛したものに対する愛が日ごとに深まっていくことでしょう。これはとても重要なことです。若者の中にもマーシャル君のように釣りを愛する者がいます。マス釣りに情熱を燃やして、マスを追いかけてあちこちの湖に出かけています。その姿を見るとお父様の釣りに対する情熱を彷彿(ほうふつ)とさせます。
アウトドアを愛することは神様の被造物の中にいることを愛することです。

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2018年1月7日「鉄の杖の王国2」ポイント訳全文


2018年1月7日「鉄の杖の王国2」ポイント訳全文

Kingdom of the Rod of Iron Ⅱ


サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載(ポイント)です。字幕化は2nd Israelさん。教会ブログであるため御言をコレクションしています。聖殿食口以外からも読んで頂いています。ありがとうございます

翻訳:BAMBOOS

十字架・復活の福音でなく王国の福音

興味深い内容をシリーズで続けます。「鉄の杖の王国」2です。同じテーマでさらに深く掘り下げていくということです。

テッドも繰り返していましたが、これは私の言葉ではなく聖句です。二代王がこれを考え出したのではありません。聖書にあるみ言なのです。私たちは、イエス様ご自身や天国の福音として認められるその福音のことをでっち上げているのではありません。それはイエス様ご自身が2千年前に語られたことです。

教会は教えて来なかったとしてもそれが核心なのです。しかし教会が何をやってきたかが重要ではありません。イエス様は明確に語っておられます。私たちも毎回聖句を確認してきました。

それで皆さんに注意して欲しいのは、繰り返し聖句を見ていると心が閉ざされてしまうということです。そこでやるべきことは心を向けることです。こういった聖句を読んでもう一度心を向け、記憶し、より深く追及するのです。というのもそれが人の持つ問題であるからです。聖句を知っても、その神様のみ言に心を閉ざせばそれは傲慢な態度を取るということです。

このような聖句は心に入り、神様のみ言を聞けば信仰が増します。聖書にはそのように書いてあります。神様のみ言を聞いて「知っています」「聞きました」のようなことを言うのではありません。それは愚かな考えです。信仰的な考え方ではありません。私たちは実際このことが分かっていないのです。自分の生活の中で体現していません。

実際に先週聞いたかもしれませんが、瞑想や神様との関係において、深い祈りの中や心の奥底にまでは入っていません。それが現実です。先週の話を聞いた後でも、昼食のにおいがした途端にすべて忘れてしまったのです。

ですから新鮮な気持ちをもって見なければなりません。

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何度も聞いたかもしれませんが、初めて見る人はどうでしょうか。初めてここに来た人にはどうでしょうか。初めての人にこのビデオを送ったとしたらどうでしょう。初めて聞く人のために思いやりを持ってください。

マタイによる福音書6章9節からです。非常に重要な聖句です。これらを見ていくのは神様が私たちに王国について、骨組みについて、未来の王国について、また千年王国がどのようにできるのかを教えている重要な聖句だからです。

(マタイによる福音書6章9-10節)

だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

みんな知っていますね。知っていることだと思って、もう目を伏せ始めていますよ。

(マタイによる福音書6章33節)

まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

それがクリスチャンのやるべきことです。私たちがまずやるべきことは、神様の王国を求めることです。神様の王国とは何か私たちを暖かく快適な気持ちにさせてくれるものではありません。それが、神様が私たちのためにはっきりと書いてくださったことです。それを相続するのが私たちの役割であり義務なのです。自分のイメージを作り出すことではなく、自分の心の中で作り上げるものではありません。

それは神様が私たちに、生育し、繁殖し、地球を主管し征服するようにと意図されたことです。そのように主権を持って支配するのですが、そこでは善をもって、愛をもって、慈悲をもって、徳をもって、まず神の国とその義を求めるということです。

義がとても重要だという話をしました。自分のではなく神様の義です。神様の善、神様の正義です。私たちは神様との関係を築く中で、神様がどのように支配するかを理解するようになり、そうして私たちは王国でキリストのような人物に近づいていくのです。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」ということです。

(マタイによる福音書7章21節)

わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

如何なるクリスチャンも神様の前に謙虚でなくてはならないということを思い起こさせる内容です。

(マタイによる福音書10章7節)

行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

(ルカによる福音書4章43節)

しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。

イエス様は王国の福音を宣べ伝える目的のために送られた方です。再臨主の時代には王国を建設されます。それがキリストの使命です。そのように語られ、ルカによる福音書4章43節にそれがあります。

(マタイによる福音書4章23節)

イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

ここでも福音は神様の王国のことです。神の王国が福音です。福音とは神様の王国のことです。それを避けて通ることはできません。

通常は、福音とは十字架であり死でありイエス・キリストの復活であると言っています。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」というのが、ヨハネによる福音書3章16節にある聖句です。福音派がそれを引用して説教するのを聞くことが多くあります。

しかし、キリストが福音をどのように説明しているかと言えば、それは王国の福音であり、人々にそれを説いていたために当時のローマ人と指導者たちを怒らせることになりました。

イエス様が説き続けたこの福音は、彼らの権力、権威、中央集権の天使長的な権力との共謀を揺るがすものでした。ですからいつもイエス様を殺すよう求めていました。

(マルコによる福音書1章14節)

ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」

これは本当に衝撃的なことです。というのは何世紀もの間、これが福音ではないと言ってきたからです。福音は十字架、死、復活であるのだと言って。繰り返しますが、聖句を見ればイエス様はご自身の福音を定義しています。福音を与える方にはそれを定義する権利があると思います。イエス様は福音を与えたその人であり、福音を神様の王国として定義されているのです。今日はそれを深く探求していきます。

全ての市民が鉄の杖を持つことの意味


(マタイによる福音書9章35節)

イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。

王国のことです。民主主義のことではなく、テクノクラシー(科学主義、技術主義)のことではなく、寡頭制のことではなく、共産主義のことではなく、赤い中国でも何でもありません。王国のことであり、いうまでもなく過去のサタンの王国のことではありません。神様の王国は過去のサタンの王国とは正反対になるのです。

(マタイによる福音書24章14節)

そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

マタイによる福音書25章34節

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

これはいうまでもなく、神様が統治していたエデンの園と神様がアダムとエバに相続させたものに立ち返るということです。生育し、繁殖し、地を主管するということです。神様が相続させたものに戻る時であるということであり、また相続ということを見れば、それは鉄の杖の聖句を見出すことになります。これが相続に関係しているのです。

西洋では家族が大きく分断されてしまいました。それは中央集権の連邦政府が家族を分断し、力を持った個々の単位を弱くしようとすることに従事してきたためです。そうやって、社会をもっと容易に自分たちの望むような立場に導くことができるようにしています。

アメリカ人は相続というものを十分に理解していません。というのは、学校では親が悪者扱いされており、教師から情報を得るべきだと学校のシステムが教えているからです。親は教育を受けていないかもしれず、伝統的な非現代的価値観を持っているかもしれないのだと言って、MTVや大衆文化、主要メディアなどによって悪者扱いされています。あなたにとって何が最適か知っているのは、エリート階級の教授であり、教師であり、政府の役人であり、そういう人が子供を育てるべきだというのです。

特にヨーロッパでは、子供たちが政府のものになることが合法化されています。言うまでもなくヒラリー・クリントンがアメリカでもやろうとしていたことがそれです。ホームスクールを禁止してしまうのです。ヨーロッパではもうやっています。ドイツではホームスクールが禁止され、子供は国営の洗脳キャンプに送らなければなりません。そうしなければ自分が刑務所に入れられます。

そのような悪いいじめのシステムでは、子供に自分の価値観や信念、知識と資産と富を相続させることができません。相続が世代を超えてできないようになっているのは、世代を超えて確実に受け継がれると成長する傾向があるからです。

子供の中で最も責任感のある者を選んで、その子供が王国を守るためのあなたと同じ使命を受け継ぎ、王国に対する最大の忠誠心を持ちます。子供全員を気分良くさせて平等に分配するのは違います。それは共産主義です。

Vimeo 49:07

鉄の杖が何を示すかについては話している通りですが、それはまた今日掘り下げていこうとしている考え方全体のことを示すものでもあります。その考え方全体とは王らしい考え方でありますが、非常に成熟したものです。そして文化でもあります。

(詩篇2篇8-9節)

わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」と。

国を相続として与えようというのです。ですから道徳がとても大切になります。「地のはて」が神の人によって所有されるようになるとき、それはまた神様の霊、神様の道徳によって支配されなければなりません。

私は一緒に訓練する「忍者NINJA」たちに絶えず言うことがあります。いつでもあなたを殺すことができる人が一緒にいるということは恵みである、ということです。あなたをチェックすることができる人がいるというのは祝福です。ここで学んだことを無責任なやり方で使おうとするなら、他の「忍者」があなたを殺すことができるということです。何かばかなことをして傷つけたり、学んだことを使って致命的な方法で誰かを脅したりするなら。

チェックアンドバランス(相互抑制と均衡)を持つこと、自分を殺すことができる人がいるということは重要です。奇妙に聞こえますが実際その通りなのです。民兵が重要なのはそういうことです。すべての人がお互いに殺し合う能力を持つということです。人は生きたいので殺し合いません。感情的にではなく、法的に論理的に違いを区別しようとします。

なぜかといえば、感情的な解決は争いにつながり、最終的には死に至るからです。結果は非常に重大ですがそれに感謝すべきです。というのは、本当に人間を愛し、自分を愛するだけでないのであれば、自分を殺せる人が他にいることを感謝するからです。なぜならそのために抑制されるからです。

公立学校ではこのようなことを教えてもらうことはないでしょう。大学でも教わりません。ですから責任感のある銃所有者が他にいることに感謝するのです。文字通りお互いの命を握らせているということです。

全ての市民が鉄の杖を持つことが、あらゆる社会で最大のチェックアンドバランスとなります。悪いことをして致命的なことをするなら捕まって死ぬのです。

(ヨハネの黙示録2章27節)

彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。

(ヨハネの黙示録12章5節)

女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。

(ヨハネの黙示録19章15節)

その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。

なぜキリストの肢体である教会では、自分たちが世界の守護者であるべきだと、世界の相続者となるべきだと教えられていないのでしょうか。クレフロ・ダラー、ジョエル・オースティンのような偽の強欲な人たちのようになることはありません。「イエス様を信じればもっとお金がもうかって金持ちになります」などというのは馬鹿げたことです。

天一国ができれば世界で最も豊かな国民になるでしょう。自由市場であり、起業して人のために働くのに馬鹿げた政府の認定などありませんので驚くほど繁栄するでしょう。しかしそこに価値を見出すのではありません。

価値は相続されるものであり、全能なる神様が授けてくださるものです。私たちはそれに感謝して、当たり前のことだとは思わずにそれを守るのです。

お金と富よりも大きな考えを持っています。もっと大きな目的があります。訓練の時、強くなろうとするだけのことや人を殴ることより、もっと大きな目的があるのだと青年たちに話しました。その目的とは神様を愛し隣人を愛することです。訓練するのはそのためであり、それが動機となるべき理由です。すると70歳や80歳になっても、神様を愛し隣人を愛するために、訓練して自分をより良くすることができます。自分を愛し守るように、隣人を愛し守ることができます。

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鉄の杖があるところに王国があります。鉄の杖とはどのような法でしょうか。これはキリストの肢体(クリスチャン)の間では明確にされていません。ですから未来について考えるとき、こう言うのです。

「しまった。本当にイエス様に来て欲しいと思うし、それはわくわくすることだが、イエス様は本当に激しい方で、本当にひどくて、独裁的であるようだ。我々はアメリカで自由を謳歌できることを本当に楽しんでいるが、イエス様が独裁的な人だとすれば・・・それは楽しみなことだがもうそのことを考えることはやめよう。なるようになるだろうが、それについて考えることはやめよう」

そうではありません。考えなければなりません。これはキリストが王国について説明していることなのです。キリストの肢体であるクリスチャンは、キリストは最初、慈愛をもって来られるが次に来られるときは審判すると言います。その通りです。

しかし、ここでまた審判のことを考えています。鉄の杖の法は独裁的なものだと。その後の段階はどのようなものでしょうか。いわば白紙の状態になった後はどうなるでしょうか。千年王国を実体化させてからは。その後どうやって治めるのでしょうか。それはキリストの肢体では答えが出ていません。考えてすらいません。これは、キリストの肢体が考えなければならない深刻な問題なのです。

ダム・ラソのビデオを見せます。すばらしい元ネイビーシールズ隊員です。格闘家でブラジリアン柔術をやっています。人並外れたトレーナーです。ジョン・レヴェルやダム・ラソのような人たちに訓練を受けるべきです。彼らは私たちのコミュニティを愛しています。ラリー・プラット氏は、私たちが子供たちにブラジリアン柔術と総合格闘技、ナイフ戦闘、銃の訓練をしていると話したらとても喜んでいました。

平和警察平和軍に関連して、非常に重要なことを言っていますのでこのビデオを見てみましょう。

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである

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王国の本質を理解するために、マタイによる福音書5章で2つの重要な聖句を見てきましたが、今度は章全体を見ていきます。というのは、それによって平和警察平和軍の文化の全般的な骨組みが分かるからです。

もちろん有名なものであり、それを選んだというのではなく、王国の聖句を見ていく中で今回マタイによる福音書5章のところに来たということです。3章と4章は先週やりましたので。

(マタイによる福音書5章3節-6節)

 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

このような内容は全て、本当に慈悲深く善良な社会についてのものです。善良で慈悲深い人々の性格や特徴が全てあります。

イエス様が語られたのは、国のレベル、王国のレベルで見て正しい人々にとって不可欠な特徴のことです。なぜなら、今私たちは、生と死に対する主権と責任を持って行動しようとしているからです。それで今すべての聖句を、王国の福音の聖句と鉄の杖の聖句を通して見ているところです。そのような視点で聖句を見ています。

銃の訓練をしているのであれば分かることですが、道徳を持つこと、人間の基本的な徳を持つことが非常に重要です。というのは、大きな権力と権威を持つ場合、人はそれに責任を持たなければならないからです。

神様は私たちに「臆する霊」ではなく、愛の力と健全で自制心を持った心を与えたのです。

(マタイによる福音書5章 7節-9節)(最初から読まれていますが重複部分は省略)

あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

平和警察・平和軍はケンカを売ろうということではありません。力による平和の文化を生み出そうとしているのです。なぜかといえば自分の子供が死ぬのを見たくないからです。人を食い物にする人たちに支配権を握られ、マフィアに圧倒されて子供をレイプされたくないからです。それゆえに私たちは平和警察平和軍を持つのであり、鉄の杖を持つのです。

またこの鉄の杖はアメリカ人のためだけのものではありません。地球上のすべての人のためのものです。自己防衛の権利、自己保全の権利、隣人保全の権利はアメリカ人(だけ)の権利ではありません。人間の権利です。南アメリカの人はそれを持つ権利があります。臓器狩りの残酷なプーこと、習近平に抑圧されている中国の人々も。

習近平をくまのプーさんと呼ぶとそれは検閲されます。中国では違法なのです。それで私たちは、残酷な臓器狩りのプーと呼んでいます。全体主義の独裁者、悪魔です。16億の哀れなアジアの人々を抑圧しています。まさに地上で活動するサタンそのものです。私たちは自分の子供や子孫、近所の人々にそのようなサタンの支配を受けさせたくありません。

ですから平和警察平和軍・・・銃に習熟し、格闘技に習熟する人々は最も平和的な人々なのです。戦争に行きたいと思っていません。戦いたくないのです。というのも、その武器がどのような悲惨な結果をもたらすか知っているからです。彼らは平和を作る人々です。

GOA(Gun Owners of America)のラリー・プラット氏が私たちを支持してくれていることに感謝しています。できればヨーロッパにも広めようとしています。奥様はラテンアメリカの人ですのでラテンアメリカにも。アフリカ、アジア。すべての人は習近平やビルダーバーグ・グループ、ダボス・グループの奴隷となるべきではないからです。

人は神様によって生育し、繁殖し、地上を主管するように創造されたのです。ですから私たちは神様の王国とその義を追い求めなければなりません。力を持つだけではなく愛さなければなりません。聖書には「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである」(テモテへの第二の手紙1章 7節)とあります。

銃のコミュニティは勇ましく強い人になろうというものではないのです。それは人を愛するがゆえに命がけで練習するということなのです。そして独裁者が支配することや悪者が支配することを恐れるというのです。また奴隷になりたくない人にとっては、訓練してあげることが愛なのです。それが動機であり推進力であり、意志です。神様がそれを求めるのであれば最高の機会を得ます。つまり必要なら信仰者として、結果は保証できなくても悪い人を止めようとするということです。

(マタイによる福音書5章10節)

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

キリスト教会では、銃の所有に真剣に取り組む銃所有者ほど迫害を受けた人はいません。キリスト教会では同性愛を公表している人よりも迫害されているというのです。それほどまでに教会がおかしくなってしまっています。オオカミに扉を開いています。そして文明を本当に守っている人を遠ざけて軽蔑しているのです。

心が清く、あわれみ深く、義に飢えかわき、謙遜です。様々な国で迫害され、弱い人々。王国では慰められます。力を与えられます。

「平和をつくり出す人たちは、さいわいである」それが平和警察平和軍のことです。力により平和を作るということです。備えによって平和を作ります。どう言っても良いです。力による平和です。オオカミの話す言葉は一つだけです。それは捕食です。ですからすべての地域にやってきます。すべての住宅所有者協会はそれについて話し合わなければなりません。自分が刺激となり、触媒となり、中心人物となることができます。地元の人たちを刺激するのです。そして王国に参加できるようにします。そして善なる人々が鉄の杖を手にすることがなぜ重要なのか理解できるようにします。

(マタイによる福音書5章11-12節)

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

誰かに侮辱されてもただ気を悪くするのではないのです。誰かが侮辱したとしても大丈夫です。銃で撃たれるわけではありません。命にかかわることではありません。左翼はいつもこれをヘイトクライムにしようとしています。何か悪いことを言えば、「それは犯罪だ。私を侮辱した」と言いますが、違います。何かを言っただけのことです。ばかげた名前で呼んだだけではないですか。無視して行ってしまいなさい。左翼は言葉を本当の攻撃のようにしてしまおうとしています。

誰が賛成しますか。男性でしょうか、女性でしょうか。女性のみなさん嘘をつかないで。

誰かが言葉で攻撃したらただ無視してください。誰かが弾丸を撃ってくるのとは全く違います。首をつかんでくることとは全く違います。生命にとっては完全に異なるレベルの脅威です。


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悪口を言われても気分を悪くしないでください。ただ「ありがとう」と言うのです。自分のYouTubeチャンネルでいつも悪口を書き込まれ、挑発されたからと言ってそれがどうしたというのでしょうか。興奮していちいち回答しようとしないでください。彼らは愚かなロボットのような、インターネットのキーボード戦士にすぎません。弱虫です。現実の生活で向き合えば逃げ出すような人たちです。過呼吸に陥って紙袋を使っているような。
(マタイによる福音書/5章13節)
あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。
私たちは守ります。塩は食べ物を守るものです。味を付けます。風味を添えます。食べ物に対してこのような良い効果があります。神様は生ぬるい中途半端がお嫌いです。熱いのか冷たいのかのどちらかを好みます。みなさんはぬるいコーヒーが好きですか。おいしくて熱いコーヒーか紅茶ですね。
(マタイによる福音書5章 14節)
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
神様は私たちの自尊心を満足させようといっているのではありません。神様は父であって母ではありません。
王妃が母親の愛について言っていました。母親は外が寒いとき子供に「上着を着なさい」「靴下をはきなさい」と言いますが、父親は「行きなさい。15分で戻るように。そんな服装で報いを受けるのは自分だ」と言うのです。
神様は父ですから、私たちの自尊心を満足させるためにこのような言葉を書いたのではありません。私たちに教えを授け、弱虫になるなと言っているのです。「あなたを励まして言いますが、あなたは塩です。そして光となるのです」と言って、そういうわけだから弱虫になってはいけないということです。
誰かが攻撃しているとき弱虫にならずに、喜びなさい、心配するなと言っているのです。励ましています。それは本当に大切なことです。良いコーチ、良い教師、良い父親は叱って真実を伝える方法を知っています。子供がナルシスト的になって偽善に陥っているときに率直に真実を語りますが、同時に励ましてあげます。
(マタイによる福音書5章 15節-16節)
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
神様は愛のある父です。霊と真実で教えながら私たちの霊を励まします。すばらしいではないですか。父なる神様を賛美しましょう。天のお父様を愛します。
(マタイによる福音書5章 17-19節)
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
天一国がそうだと言えるでしょう。もし神様に反対する人を教えているとすれば、あなたの評判は下がっていきます。処罰されるとさえ言っていません。「天国で最も小さい者と呼ばれる」と言っているのです。自由市場はまさしくそのように機能するものです。
あなたが無能で約束を果たさず、人に悪い扱いをし、不正なことを行うなら、自分の評判を貶めることになります。誰もあなたやあなたの子供を助けたいと思わなくなります。
見てください。「しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」とあります。王国とはユダヤ・キリスト教の世界です。そこではやはり十戒を守ります。やはり神様を愛し、自分を愛するように、自分を守るように隣人を愛することに従います。
(マタイによる福音書5章 20節)
わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。
パリサイ人は共産主義の独裁者であるローマ帝国の寡頭体制と共謀していました。当時マルクスはいませんので名前は違いますが、同じような愚かな体制です。現代の言葉にすれば共産党の一派です。
そうすると義がまさるのは全く容易です。難しくもありません。人に対して抑圧、搾取、殺人、レイプ、略奪をしないようにするだけのことです。それほど高い制約ではありません。誠実な心を持っていればパリサイ人にまさるのは難しいことではありません。
みなさんは神様を愛し、人を愛し、故意に人を傷つけたくないと思っています。搾取したくないと思っています。問題ないです。王国でもちゃんとやれます。しかし、これはいらないなどと言っていると自分の評価を傷つけることになります。「天国で最も小さい者と呼ばれ」、評判は落ちてしまいます。

お父様「3回まで殴らせたら反撃しても良い」


(マタイによる福音書5章 38-39節)

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
殺させても良いとは言っていません。右を打たれ左を打たれ、(その次に)刺しても良いとしたら殺されてしまいます。右と左を打たれて、反撃のための正当性が得られたということです。お父様が「3回まで殴らせたら反撃しても良い」と言われことと同じです。
誰かが致命的な武器を持ってきて、ここを撃たれたら「こちらも撃ってください」とはなりません。頬を殴られても殺されないと分かっているのです。腎臓を刺されたら心臓も刺してもらえとは言っていません。
(マタイによる福音書5章 40-41節)
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
ある翻訳では、「兵士が道具を運ぶのを手伝わなければならないなら2マイル行きなさい」としています。慈悲深くありなさいということです。
(マタイによる福音書5章 42節)
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
気前良くしなさいということです。誰かがお金を借りなければならないとかいったことで、
大きな困難に会っていれば、責任を持たせながらもそういう人たちに気前良くしなさいと言っているのです。政府が道を外れてしまったら、地元の教会や個人がチャリティーで隣人を助けます。しかしそれは善良な人を搾取して良いということではありません。そんなことをすれば今度はイエス様の名で叱責を受けるでしょう。
(マタイによる福音書5章 43-44節)
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
教会のクリスチャンはみな、ISISのために祈るべきです。勝利するようにではありません。ISISの家族がすべて救われるように祈るということです。なぜキリスト教会でそのように教えないのでしょうか。なぜISISの下で抑圧されている子供たちや妻たちのために祈らないのでしょうか。主イエス・キリストが彼らを救うように、と。中世の古めかしい死のカルトから解放されるように、と。レイプと略奪と暴力、抑圧のカルトから。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」というのは、彼らの勝利を祈るということではありません。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」ということが鉄の杖によってどのように働くのでしょうか。非常に簡単なことです。彼らの勝利を祈るのではなく、彼らが救われることを祈るのです。悪なる人のために祈るのはとても簡単です。祈ることで愛するのです。それは彼らの魂が救われて欲しいと思うからです。
しかし、彼らが悪行を働き、罪のない人を殺しレイプすることを支持するのではありません。このことで葛藤するのが理解できません。それは言い訳に過ぎないのです。それでも悪と戦うことができ、自己防衛することができ、その上彼らのために祈り愛することができるのです。どうしてそのことで葛藤するというのでしょうか。ばかげています。
しかしそれが道徳です。結局キリスト教の法律学というのはここから来ています。たとえ訴えられた人であっても「疑わしきは罰せず」なのです。その人はこんなことをした、といった訴えがあってもやはり裁判にかけられます。それでも証拠を示さなければなりません。それはこのような教えから来ているものです。
サンヘドリンの裁判から来ているのではありません。それは国と共謀して死を宣告できるものでした。ユダヤ人が、パリサイ人がやっていたとされています。イエス様はそれをサタンのシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)と呼びました。
重要な点はイエス様が原理主義的、正統派のユダヤ教徒でなかったということです。サタンの会堂と言って原理主義的、正統派のユダヤ教徒を非難していたのです。決して正統派のユダヤ教徒ではありません。決して主流のユダヤ教徒ではありません。福音派の中には、イエス様を実際よりも過度に正統派のユダヤ教徒であったかのようにしようとする人がいます。説教もギリシャ語でしていました。ヘブライ語は当時すでに死語となっていました。学問のための言葉であり日常的には使われていなかったのです。
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(マタイによる福音書5章 45節)
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
キリスト教社会はあるところまでは寛容な社会です。いったん一般的な寛容の限界を超えて逸脱し、他人の権利を侵害するようになり、子供を騙し、赤ちゃんを殺すようになれば、罰を受けるようになります。キリスト教文化は相対主義の文化ではありません。相対主義は、それ自体が最善であるという主張以外、どんなことに対しても何もしないというものです。しかしそのようなことはあり得ないのです。なぜなら最善のものなどないというのが相対主義の主張であるからです。
何でも異なる意見を持つ人のことは好きではないかもしれません。しかし、そういう人を単に滅ぼしてしまうことはできません。神様は悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせます。
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神様から離れずに祈り、そして鉄の杖を持つのです。私たちがキリストの肢体に平和警察平和軍を組織しなさいと言うようになって一年になりますが、今や銃コミュニティのトップのトレーナーの中に、その話をする人が現れています。驚くべきことです。
私たちはクリスチャンとして、鉄の杖の目的と義務を理解しなければなりません。そして王冠についても同様です。それは神様からの相続であり、その愛であり道徳です。
天聖経645を一緒に読みましょう。
「そのような観点でイエス様は、心と体が一致し得る内容をもち、左右に傾く環境を除去しながら前進できる主体性を備えてこそ、天国を迎えるようになるという事実を教えてくださったのです。
 天国は、他人によって来るのではありません。自分によって来るのです。我々は、堕落した人間なので、自分を否定しなければなりません。自分自ら天国を提示できなくなるときには、他人を通して提示するようになるでしょう。そのようになれば、私は天国を提示した人と一つになってこそ、天国に行くことができます」
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