2019年2月20日水曜日

利己心は逆に按手を通して呪いを受けるでしょう◆2019年2月10日英語説教 _文亨進二代王


利己心は逆に按手を通して呪いを受けるでしょう。

本文より:
もし皆さんが、快楽主義的でナルシストのような利己心を持って来たとするなら、自分を高めようという動機できたとするなら、神様の恵みを受けることはできないでしょう。逆に呪いを受けるでしょう。按手を通して呪いを受けるでしょう。これを理解することが大切です。
イエス様がいわれたように「主なるあなたの神を試してはならない」ということです。多くの人が神様を試そうとしてやってきます。それはサタンの意志を実行しているのです。それをすると呪われるでしょう。
神様に祈りが導かれるように祈ります。神様の神秘な力の中で、神の王国の霊的証の中で導かれますように。そして按手を求めて来たすべての人が利己的な目的できたのではないということを求めます。むしろ(献げ物として)死ぬために来たのです。「(日本語で)分かりますか」。「(韓国語で)分かりましたか、分かりませんか」


サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載です。字幕化は2nd Israelさん。いつもありがとうございます。

2019年2月10日英語説教 文亨進二代王

翻訳:Harry

聖霊役事の内的意味とその深刻さ


着席して下さい。少しストレッチ(体を伸ばす)をするのもいいでしょう。
レビ記から読みます。皆さんのために祈る前に、多くの人が今日のために祈ってくれました。
レビ記第1章です。焼き尽くす捧げものの所です。3節から読みます。いや1節から読みます。

01:01主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった。 01:02イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちのうちのだれかが、家畜の献げ物を主にささげるときは、牛、または羊を献げ物としなさい。 01:03牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、 01:04手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。 01:05奉納者がその牛を主の御前で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を臨在の幕屋の入り口にある祭壇の四つの側面に注ぎかけてささげる。 01:06奉納者が献げ物とする牛の皮をはぎ、その体を各部に分割すると、 01:07祭司アロンの子らは祭壇に薪を整えて並べ、火をつけてから、 01:08分割した各部を、頭と脂肪と共に祭壇の燃えている薪の上に置く。 01:09奉納者が内臓と四肢を水で洗うと、祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げ物であり、燃やして主にささげる宥めの香りである。

ここにもありますが、他にもリストアップしています。旧約聖書のレビ記においてすらいくつかの聖句は按手(あんしゅ)について記しています。按手については内的な意味があるのです。新約聖書では多くの按手を行い、それによって癒す場面があります。しかし内的な深い意味はレビ記の焼き尽くす献げ物の中に見ることができるのです。神のみ前に出て、祈りを受け入れてくださるように願うなら、イサク(アブラハムのことか)のような心を持たなければなりません。息子を捧げたくはないがそれでも祭壇に向かう。そういう時に(神様の)御手が差し伸べられるのです。死の直前の一瞬、そうなるというのです。これは興味深いところです。
あなたが神の祭壇に向かって進んでいくとき、そこで命を惜しまず、命を持捧げようとするとき・・・ちょうどキリストが言ったように「死なんとするものが生きる」ということです。だから祈祷を受けようと思ってやってくるとき、ある具体的な目的のために按手するというよりも、旧約聖書にあるように、死の直前の瞬間であることが必要になる、興味深い話ではないですか。そう、まさに死のうとするその直前です。
新約聖書ではキリストは、(古い)自分は死んで、私によって新しく生まれなさい、といわれています。それは自分自身を手放すということです、われわれの願望も意志も含めて。そうして神様の主管を願う。私たちの人生を委ねるということです。すべて祭壇の上に載せるということです。それが心構えであり、霊的決意であり、魂の姿勢、それによって御手が臨むのです。御手による救い(按手)は神様の霊の内にあるとても力強い賜物です。
レビ記の1章4節を見てください。
「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」とあります。同3章2節はこうです。「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」この献げものの儀式には子供も参加していたのです。
ここでも若い人たちが前に来て祈りますが、これは若き祭司が立つことなのです。若き王、祭司が生まれてくることです。だから若者たちが前に来て(聖霊の役事で倒れた)人々に手を置くでしょう。その時にこの聖句を思い出してください。力強い内的背景があるのです。神様への捧げもののような気持ちになること。
聖句をもう少し深く読み込んでみましょう。レビ記3章2節からです。
「奉納者が献げ物とする牛の頭に手を置き、臨在の幕屋の入り口で屠ると、アロンの子らである祭司たちは血を祭壇の四つの側面に注ぎかける」「奉納者がこの牛を燃やして主にささげる和解の献げ物とする場合は、内臓を覆っている脂肪、内臓に付着するすべての脂肪、 03:04二つの腎臓とそれに付着する腰のあたりの脂肪、および腎臓と共に切り取った肝臓の尾状葉を取る」
いいですかここで献げ物に火を放って燃やし尽くすというのです。だから御手の働きを体験するとき多くの人が神の火を感じるのです。皆さんは祭壇に登り、そこで献げられた物は火で焼き尽くされるのですから。旧約聖書のここに手を置く情景があります。新約聖書にもその情景は描かれています。ここで4章15節に飛びます。13節から読みます。
「イスラエルの共同体全体が過ちを犯した場合、そのことが会衆の目にあらわにならなくても、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、 04:14その違反の罪に気づいたときは、会衆は若い雄牛を贖罪の献げ物としてささげ、それを臨在の幕屋の前に引いて行く。15共同体の長老たちは主の御前に立って牛の頭に手を置き、主の御前でその牛を屠る。油注がれた祭司は牛の血を取って、臨在の幕屋に携えて入り、 04:17指を血に浸し、垂れ幕の前で主の御前に七度血を振りまく。・・・」
わかりますか。(献げ物の)命を奪う動物の前にあってさえ、その上に手を置くとき全会衆が悔い改めるのです。悔い改め。悔い改めが献げ物の額に置かれるのです。献げ物を捧げる前に。これと同じように見ることができます。癒しは起きますがその内的な意味はキリストに屈服することです。キリストの名のためなら喜んで死ぬ覚悟です。そうするとキリストが心に入ってきて共に住まれるのです。その権能と火と神の愛が共にあります。(聖霊役事で)祈って、横たえる。祈ってあげる。普通に話せばこうなりますが、手をかざす(按手する)ということはとんでもなく深刻なことなのです。ずっと深刻です。「あなたの死の直前」だというのです。ずっとずっと深刻な、アノインティングであり祈りであるということです。今見たような献げ物を捧げる場面たというのです。
レビ記16章を見ましょう。ここはすべて献げ物について書かれています。
「21 そしてアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろもろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らなければならない」
新約聖書に移って使徒言行録の6章6節、
「6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた」
新約でも手を上に置くというところがでてきますが、それはアノインティングの場面です。そして献げ物の場面、捧げものです。神様のみことばは連結しているからです。旧約と新約は連結している。
新約聖書では、手を置くと病が癒されたとなっています、しかし旧約聖書では、キリストや使徒の前に癒しを求めてやってくる人々に対してこれらの内的な意味が示されているのです。これは最初の聖句をみれば明らかです。
「軽々しく人に手をおいてはならない(Iテモテ22)」
だからやたらと手をおいてはいけないのです。「手を置く」ということは特別な行為なのです。だから聖書は、「軽々しく手を置くな」「誰にでも構わす手を置くな」と警告しているのです。「それによって人の罪の責任を背負い込むな(Iテモテ22)」。だから誰彼構わず、ただすればよいというものではないのです。「手を置く」行為は特別なことなのです。
「たまたま、ポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていた。そこでパウロは、その人のところにはいって行って祈り、手を彼の上においていやしてやった(使徒28:8)」
この新約聖書の短い聖句から手を置いて癒されたということがわかります、またそれが聖霊の業であるということも理解します。しかしその内的な意味は癒される人が神の祭壇に自分を献げたということ、そこに祭司が手を置くことで聖霊が働く、祭司の手が道具として使われたということです。ちょうど献げ物となる動物の上に手を置いたのとおなじです。次にその人は霊によって倒されます。自ら一度死んで、それからキリストにおいて新生するということです。
そして祭壇が火に包まれる。焼き尽くされるというのです。それは聖霊の炎です。不純なものを燃やし、神の火で人を満たす。失われた子供-堕落した人間を救おうとする愛の炎です。最後の時、収穫を得ようとする燃えるような願望です。だからその行為にとても深い意味がるのです。聖書をそういうふうに読まないので、起こっていることの背景と意味を悟ることができませんでした。これを理解するとき、イスラエル神殿から聖霊による生きた神、天の父の証にいたるまで「手を置く」ことによって起きることの意味が分かるのです。
「手を置く」のはわれわれだけでなく若者も関与します。聖句を読めば、アロンの息子たちが献げ物の動物を用意したことが分かります。それを切り分けたちがことも記されています。彼らは、動物の内臓を洗ったり、火が献げ物を焼き尽くすまで火が消えないように見張っていました。これは世代を超える作業だったのです。祭司だけの仕事ではなくすべての世代が協力しておこなわれたのです。若者たちは自分たちのしていることの意味が分からないかもしれません。ただ祈るだけかもしれません。しかしその間、聖書にしるされる一連の作業のように献げ物が切り分けられ、頭部が取り除かれ、胴が切り取られる。そして一部の臓器が洗われる、そうして捧げものになるのです。こうした一連の流れを理解するとき、イスラエル神殿で神のみ前で行われたこと、その聖なる意味が分かるのです。それで、手を置くときに自分や他の若者がしていることの内側の意味をうかがい知ることができるのです。
手を置かれるとき(聖霊役事を受けるとき)、いま読んだレビ記の聖句を思い出してください。神様を試すためではなく、(献げ物として)死ぬために来るのです。神様を試すのではありません。そういう人は待たなければなりません、まだ聖霊を受ける準備ができていないのです。
手を置いてほしいと願うなら、アロンの息子たちにいろいろ準備してもらいたいのなら、いま言った心構えで来なければなりません。祭壇の上で喜んで献げものになる心情でこなければなりません。アロンの息子たちが完全で、罪を犯したことがないなどと言いません。神様が王となり祭司となるように願われた者たちです。
黙示録第1章5節から見てみましょう。
「更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」
私たちを王とし、祭司としてくださる・・とあります。王や祭司にしてくれるだろう、と未来形で述べていません。「わたしたちを王とし、・・・祭司としてくださった方」とすでにあったこととして述べているのです。だからここの若者が完全だから皆さんのために祈ってくれるということではないのです。完全な器が必要というわけではないのです。神様はいつでも完璧な器を用いられるとは限りません。ここまで大丈夫ですか。それでも神様はその器を用いられるのです。ここの若者たちは深い意味は分かりません。ただ忠実に、ただ信仰をもって人を助けたいと思っているだけです。どうにか自分の祈りが天に通じるものにしたいと彼らは思っているのです。それで(倒れた人に)手を置いて、祈っているのです。
祈りが通じたから癒されるのではありませんし、超能力を持っているからでもありません。神様の道具に徹するから、聖霊の道具になるから治癒するのです。
だから癒しを得ることができるのです。だから奇跡が起こり、答えが与えられるのです。自ら命を投げ出して(献げ物になる)、新たに生まれようとする人、新たな神の願いを持とうとする人のゆえに得られるのです。神様は私たちの心を見ておられます。何を待ち望んでいるのか。この世のものではなく、神を待ち望むのです。だから若者に頼むときこれをおかしなことだと思ってはいけません。きょう見た聖句をご覧なさい、生ける神の証があります。レビ人達は若者をよんで献げものの準備をさせたのです。分かりますか。将来の祭司です。これらの若者はキリストと共に立つ、家庭では王になるべき者たちです。古い自分は死んで新たにキリストを心に迎えるのです。だから若者を前に来させて祈らせることは重要なことなのです。

祭壇に載せて下さいといえますか


しかし注意しなければなりません。誰彼なしに手を置いて祈ることはしてはいけないのです。聖書がそれを記しています。
「ああ、あの人が癒され病気が治った!」「ああ、この人はすごい体験をした!」
そんなことは知らないというのです。私は神さまを試すつもりはありません。
あなたの神、主なる神を試みてはならないのです。

おそらくそういうことを思ったことがないでしょう。神様はあなたが偽り者であることを見抜かれます。手を置いて祈ることはとても深刻な種類の祈りだということです。それが献げものになるからです。それは献げられなければなりません。ただ祈りをうけるために来てはいけません。死ぬ覚悟ができていなければならないのです。(献祭のため)山に登る心構えが必要です。自分の父が自分を祭壇の上で献げものにするつもりでもよろこんで祭壇に載る心構えです。私ならそうします、イサクのように。
そういう心情を持っています。喜んで死ぬという心情を。
私を祭壇に載せてください死ぬ用意はできています。

皆さんなら踵(きびす)を返して山を降りようとするでしょう。それはだめです、登りなさい。ここまで分かりましたか。人に手を置いて祈るのには、こういうことを知っておかなければなりません。
若者はいま流行りの服を着て、迷彩柄、オレンジに緑色の服、Tシャツを着ている人もいるでしょう。われわれはバカではありません。服装に騙されません。わざわざ祭司のローブを着る必要はありません。パーカーでもレインコートでもいいのです。(笑)
心がそこに在るなら神様が用いるのです。他人の誉れのために祈ることがなければ、・・ああ、私が治してやる、これはだめです。通過体でなければならないのです。役に立つ電気の導線のようになって、さっと電気が流れるようにするのです。若者の心は純粋で、その動機は真実です。自分が手お置いて祈ることになるということを知らなくてもいいのです。普段の生活ではいないことをするのです。たいてい若者は自己中心であり、自分のことしか考えません。それが彼らにとっても喜ばしく心楽しいことだからです。
しかし生まれて初めて、そこから踏み出して、実際に人のために祈ったのです。この若者たちにとって誰かのために、ここで、祈るということは初めての体験なのです。なぜなら世の中の世俗的文化に染められ、教え込まれて、快楽主義者になり、喜びを探し求める者、ドーパミン・ハイにさせられて、ナルシスト、利己的になっているからです。
気にかかるのは、もう自分、自分と自分のことばかり。自分が楽しければ自分が嬉しければと。だから彼らの多くにとっては、今回、人のために手を置き祈るということは人生で初めてのことだったのです。しかしそれは関係ありません。何回人のために祈ったかなど関係ないのです。10年間祈り続けて1度の癒しも与えられなくてもいいのです。祈りの目的はそこにはないからです。
彼らの多くは初めて皆さんのために祈りました。自分でも何をしているか分かっていないのです。彼らはただ一生懸命に皆さんのためにと、意識をそこに集中させていました。
神様は、からし種ほどの信仰さえあれば山をも動かすことができると言われるのです。だから皆さんは信じられないかもしれませんが。「彼らにほんの小さな信仰さえあるなら神様が用いることができる」といっても、神様が必ず用いられるとは限りません。
用いることがあるかも知れないということです。なぜなら神様はすべての背景をご存知だからです。あらゆる角度から状況を把握しておられる。ここの若い男女の青年全員が前に出て祈ったとして、自分達も知らないうちに、神様が用いられます。
だから祈祷を受ける人は御言葉が言うことを信じなければなりません。彼らは献げ物に参加する一部です。ちょうど祭司長がアロンの息子たちを呼んだように。子供を。
進み出て参加しなさいと。
こうすることはサタン世界が行なう罪なき子供殺しに関係あるのです。
神様は子供を育て上げてほしいと願っておられます。子供を殺すのではなく、育て上げる。これらの少年少女たちの心の中で何かが起こります。彼らには見ることもできなければ感じることもできません。彼らが人のために祈るとき、もちろん完全ではありませんが、「よし、ここは一度、自分のことを気にするのではなく、人のために祈ろう」と。
不幸にも彼らは世の中で、ナルシスト、利己主義者、快楽主義者になる訓練を受けてきました。大きな影響を受けているのです。ブラックボックスが彼らの中にあり・・・ところで「猿の惑星」の映画ではブラックボックスが猿をコントロールしていました。
ブラックボックスが!
しかし神様はそれを大きなブレイクスルー(現状打破)に変えられます。
「ああ、二代王は私ではなくあの人を祈られた」こんなばかげたことを言ってはいけません。なぜなら私が、一緒に祈りなさいと言った時、一緒に祈る人も献げ物を捧げる祭壇の一部になっているからです。
私が、あの人の所に1秒いて、この人の所に3時間いたとしてもそんなことは関係ありません。ここはそのような利己的な思いを充満させる場ではないのです。
手を置いて祈るということは、聖霊にその人を委ねるということです。お父様がいてくださり導いて下さる、完全に主管していただく場だというのです。「ああ、この人よりも私を祈ってください」などと言っていてはダメです。関係ありません。
献げ物の場に同参している若者たち、彼らが手を置いて祈るときそれは私が祈ることと全く同じだということです。全体の一部だからです。献げ物の祭壇の場の一部です。皆さんは私の祈りを彼らを通して受けるのです。お父様があなたの所に来られるということです。手を置いて祈るその場の全体の一部なのです。だから自己中心の思いを持ってはいけません。
皆さんが海を渡ってここに来られたことは私たちにとって嬉しいことです。しかしそれが神様が恵みを与えてくださる条件になるとは限りません。航空チケットを買ってやってきた、だから恵みを受ける、神様が困難を打開して下さる、その資格がある、ということにはならないのです。
もし皆さんが、快楽主義的でナルシストのような利己心を持って来たとするなら、自分を高めようという動機できたとするなら、神様の恵みを受けることはできないでしょう。逆に呪いを受けるでしょう。按手を通して呪いを受けるでしょう。これを理解することが大切です。
(聖霊役事に)こうした様々な働きと意味があるということを聖書を通して知ることができます。私たちは熱烈に祈り、すべての者が皆さんのために祈ります。自らの命とエネルギーを皆さんのために祈りに注ぎ込みます。彼らは献げ物の祭壇の場の一部なのです。青年たちが皆さんのために祈る必要はありません。彼らのエネルギーを皆さんの健康のために投入する必要は必ずしもないのです。しかし彼らは祈ります。神の平安のための道具になるために、神様が用いることができるように。
だから手を置いて祈る、その祈り(聖霊役事)を受けるときには、いま述べた背景全体を理解しておかなければなりません。ただやってきて「恵みを受けたい」というのではいけません。どれほどの人数を神様が同時に用いるか知ってください、あなたが一度死んでキリストと共に新生するために。多くの人が今回は関わります。
手を置いて祈るのは、聖書によれば(献げ物の)動物が命を絶たれる直前に行われるものです。
「私はただ二代王から祝祷されたいだけだ」「友達が行くから私もお願いしよう」などと考えてやってくるなら私は祈りません。それは快楽主義です。そういう人のために祈る必要を感じません。それは聖所で献祭を捧げる正しい姿勢ではありません。それは汚れた献祭をするときの姿勢です。そのように献げられた若雌牛はうち捨てられるでしょう。ここでは傷のない若雌牛が選ばれるべきです。
だから按手を求めて来るときには、準備を整えたイサクの心を持ってこなければなりません。決意したイサクの心構えをもって。死の決意をしたイサクの心構えです。こうして聖霊が働くのです。あなたのために選ばれた道具-それは何人かの若い青年かもしれません-それに関していかなる偏見を持つべきではありません。聖霊が彼らを通して働くのです。
そうすると、霊的障壁、霊的ブロック、心の壁をつくることがないのです。
イエス様がいわれたように「主なるあなたの神を試してはならない」ということです。多くの人が神様を試そうとしてやってきます。それはサタンの意志を実行しているのです。それをすると呪われるでしょう。
神様が用意したものを受けるために来たとしたらどうですか。祭壇の上で死んでその血を祭壇に撒かれるとするなら。そこにアロン(レビ族)の息子たちがいて、彼らは次の世代の祭司です。いまはもちろん、物を知らないかもしれません、成長の過程です。神様がそれを用いるとするなら、そのようなことは関係ありません。
若者たち、いつも私がいっているように、君たちの力でするのではありません。ただ、人のために祈りたいという願い、思いがあるならば、神様がその人に受け取らせたいと願われるものを受け取って欲しいと願うなら・・・ある人には叱責が必要かもしれません、あるいは厳しい非難が必要な場合もあるでしょう、例えて言うなら、その人の罪をあからさまにするスピーカーを頭の上につけて。また(祭壇の上で)死ぬ前に罪を悔い改める必要のある人もいるでしょう。イスラエルの罪をその頭上に載せて、そこに手を当てて、霊が打ち倒されるのです。
神様に祈りが導かれるように祈ります。神様の神秘な力の中で、神の王国の霊的証の中で導かれますように。そして按手を求めて来たすべての人が利己的な目的できたのではないということを求めます。むしろ(献げ物として)死ぬために来たのです。「(日本語で)分かりますか」。「(韓国語で)分かりましたか、分かりませんか」
では祈りましょう。
お父様、この時この日を感謝いたします。
あなたは霊を注ぎ、み言葉を注いでくださいました。
主よ、あなたが生きて私たちの中に住まわってくださることを感謝します。
あなたは完全に私たちの心の内に住むことを願っておられます。
神様、今日、われわれは祈りとともに按手をしたいと願っております。
皆、あなたを慕い求める者たちです。御顔を求め、あなたのご臨在を求める者たちです。
祭壇の前に立つイサクのように勇敢に信仰をもって信頼しながら、喜んで死なんとする人々です。
何があろうと、われわれは父なる神を、敬慕し愛する息子です。
神様、どうか祈りの按手を受けようと求める人々もそのような心情でありますように。どうかすべてのことを導き指示して下さいますように。そしてあなたの権威のもとにおいて下さい。
相応しいのなら、目を閉じ、人々に手を置いて祈りたいのです。いかなる場面においてもキリストに命を差し出したことのない人は今日がその時になるでしょう。神様は理由があって皆さんを呼び集めました。キリストに命捧げることができるように。多くの他の方法を求めましたが皆さんはうまくいくことがありませんでした。皆さんの方法では救いに至ることができないことは自分で知っているのです。年を取り、自分の死ぬ時を知ることもできません。体は弱くなり、この世の楽しみは色あせました。永遠の生命がなんであれ、死ねばそこに移るのです。キリストに命を預けたことがないとするならば、それこそあなたが今日ここにいる理由です。キリストに命を捧げることこそいま、神様に与えられた機会なのです。キリストに屈服することです。皆さんがそれを望むのなら今日皆さんのために祈ろうと思います。もし内なる葛藤、内なる痛みを魂に抱えているとするならば、弱さ、柔弱に打ち勝ちなさい。皆さんのために祈ります。特に若者が皆さんのために祈るでしょう。
もし外的な事情、身体の故障などと闘っているのなら、また自分の事業が失敗したなど外的な問題、サタンが讒訴できる条件を抱えているのなら、皆さんは次のステップを見てください。穴に落ち込んでいても、神様が次の段階を見せてくださることを心から切望するでしょう。われわれも皆さんのためにお祈りします。
最後に、あなたが救いについて確証がもてないのなら、かつてキリストにその命を捧げたけれど、その信仰が一進一退し、その熱が冷め、かつての信仰の火を失っているとするなら、自分が神の側にいることを知りたいのなら、あなたが死ぬときはサタンの側でなく神の側にいることを知ることを願うのなら。今日皆さんのために祈ります。
いま述べたどれかに自分が当てはまるなら、他の人を見ずに、手を挙げてください。
神様感謝します。
皆さん、立ち上がって神様に栄光を賛美し、今日祈祷を受ける人たちのために大きな拍手を送りましょう。
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