原理原相論(試論) 夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生

 


原理原相論(試論)

夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生

論者:三代王権天一聖殿 教会長


-1 ◆真の愛の本体は父子関係の愛
-2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓
-3 ◆愛は感覚ではない愛は父子の愛
-4 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造
<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは1◆共通概念考察


イエス様にみる真の愛

原理講論は

「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)

という聖句から性相と形状、その属性である陽陰の二性性相の神を解きました。


それでは、神様の真の愛は、何を見れば明らかに認めることができるのでしょうか?

ヨハネによる福音書14章にこうあります。


ヨハネによる福音書 14:9-11 

9イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 10わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。 11わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。


「わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。」


この聖句は「イエス様を見たものは、父なる神を見たのである」と言っています。

続く聖句は「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」ということですから、イエス様は神ご自身でもあるということを言っています。


ですから、イエス様の真の愛は神様の真の愛と一体であるということです。つまりイエス様の愛から神様の真の愛を知ることができるということなのです。

イエス様の生涯はまさにこの真の愛に絶対服従する生涯路程でした。

イエス様が従われた真の愛とはどのような愛でしょうか?


それは神様とイエス様との関係を見れば分かります。

別の存在である神様とイエス様であるのに、イエス様は神ご自身である理由は何でしょうか?

それは、イエス様は神の子であるからということです。

つまり神様とイエス様は父子の関係であるということであり、そのような愛の関係にあるということです。


ここから明らかに、真の愛とは、神様との父子の関係の愛であることが分かります。


神様の真の先惟は天宙の中心である


私達は天地創造以前、時間と空間創造以前の神を夜の神といい、天地創造が始まった時からの神を昼の神といいます。

ヨハネによる福音書1:1~18の聖句を見てみると、イエス様は創造以前の神、即ち、夜の神様から来られたことが分かります。

ですから、真の愛とは、夜の神様との父子の関係の愛であるということなのです。

つまりヨハネによる福音書1:1~18の聖句は、イエス様の愛を見れば、夜の神様の真の愛を見出すことが出来るということを言っています。


それでは、ヨハネによる福音書1:1~18を見てみましょう。


ヨハネによる福音書1章

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 


9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 

12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 

14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

 18神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである


10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」 

この1章10節は、イエス様はこの世に来られましたが、この世はイエス様によって創造されたということですから、イエス様は天地創造の神であるということです。


それですから1章1節から3節1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 」は、全てのものはイエス様の言によって創造されたということを言っているのです。


天地創造の前に言(ロゴス)があり、その言には既に命があります。

その言は誰によって発せられたのでしょうか?

ヨハネによる福音書 14:9-11「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」のですから、その言は神様によって発せられ、イエス様の口から発せられたのです。


そして、その言によってイエス様は天地を創造され、時間と空間も光もイエス様が創造されたのです。

このようにイエス様はその言(ロゴス)以前、時間と空間も光もない創造以前の闇、夜の神様とともに太初におられたのですから、イエス様は夜の神様であるとも言えるのです。


そして神様とイエス様は父子の関係であるのですから、イエス様は創造以前から、夜の神様の子として夜の神様とともにおられたということなのです。

つまりイエス様は、夜の神の父子の関係として創造以前に既に存在しておられたということがわかります。

そのような夜の神様の位相から、夜の神様の精子として来られた方がイエス様なのです。


愛とは関係であり関心ですから、天地創造以前の、この夜の神様とイエス様の、父子の関係の愛が、縦的真の父母の、夜の神様の位相の真の愛の起源なのです。

ですから、根源的天地創造以前の真の愛とは、夜の神様との父子の関係の愛であるということなのです。


愛とは関係であり関心ですから、夜の神様が天宙創造において一番先に考えられたこと(最先惟対象)が天宙の中心です。それが父子の関係の愛であったということです。


父と子と聖霊の三位一体は愛の関係性、キリストはその本体


父と子と聖霊の三位一体は愛の関係性を表します。

ヨハネによる福音書 14:9-11「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」というこの三位一体は、天地創造が始まった後に存在するのではありません。

天地創造以前から、夜の神様の中にイエス様がおられ、夜の神様はイエス様の中におられるということなのです。イエス様の神性が三位一体の中に有ったのではなく本体がともに存在したということです。


ヨハネによる福音書17章24節には、

17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。

17:24 Father, I will that they also, whom thou hast given me, be with me where I am; that they may behold my glory, which thou hast given me: for thou lovedst me before the foundation of the world.

というイエスの祈りの言葉があります。

天地創造の前から神様はイエス様を愛し、イエス様に栄光を与えておられたのです。

この神様の愛がアガペーの愛であり、アガペーの愛は、天地創造前から存在していたのです。



即ち、このヨハネによる福音書1:1~18は、そしてこのヨハネによる福音書17:24は父と子と聖霊の三位一体は天地創造以前の夜の神様の位相から存在していることを言っています。

そして、ヨハネによる福音書 14:9-11は、その夜の神様の三位一体という関係の中心が父子の関係という愛であるということを言っているのです。

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しかし、キリスト教(Christianity)では、キリスト論(Christology)の内容があり、イエスを神として扱っています。非常にレベルの高いキリスト論です。

人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。

それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。

三位一体のシステムそのものから「愛」を相互間応答(reciprocate)しているわけです。

2021年3月23日キングスリポート

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この御言は、イエス・キリスト、お父様・キリストは、神の天宙創造以前から父なる神とともに存在しておらた夜の神様ということです。


どのような夜の神様としておられたのか?

それは神の息子として創造以前から存在しておらえたということです。


それでは、三位一体における「神は愛である」という愛の相互間応答(reciprocate)とは何でしょうか?

当然ながら、父なる夜の神様と子なるキリスト、イエス様とお父様の父子の関係という、愛の相互間応答(reciprocate)です。


ヨハネによる福音書1:1~18、そしてヨハネによる福音書 14:9-11は、このようにイエス様が、成約においてはお父様も共に、天宙創造以前から、天宙創造以前の神と共に存在しておられたということを表し、その関係は父と子の関係であり、その関係が愛であるということです。

三位一体における「神は愛である」とは、神はそのような父子の関係の愛であるということです。「神は父子関係の愛である」ということなのです。


ヨハネ1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」 

この聖書の言葉を、二代王様は次のように言っておられます。

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夜の神様から顕現されたキリスト。時間と空間の(創造)以前の神様。夜の神様、昼の神様。それは二つの神様ではなく、創造前、創造後。摂理の立場ではすべてが昼ではない、神様の創造以後に神様から来て、キリストは夜の神様。すべての創造物と創造世界を創られる前、神様と本体、神様と一つになられた方、その方はキリストです、キリスト。


それは唯一キリスト、神様の実体、本体を持っていらっしゃる神様の精子の種を持っていらっしゃる方が新しい夫婦、家族、宗族、民族、国家、世界、天宙を建設することができるのです。

文亨進天一国二代王帰還勝利祝勝会御言ソウル2022 0524

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真お父様が、私は夜の神様から来たという言われたのは、このヨハネ1:10 にあるように、すべての創造物と創造世界は夜の神が造られ、その子であるイエス様、そしてお父様が創造し造られたという意味なのです。


ピリポの手紙2章

6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、


5 Let this mind be in you, which was also in Christ Jesus:

6 Who, being in the form of God, thought it not robbery to be equal with God:


그는 근본 하나님의 본체시나 하나님과 동등됨을 취할 것으로 여기지 아니하시고、


お父様は原理本体論の本体( 본체)を韓国語の聖句から用いられました。

この本体の英語訳 original substanceを二代王様は叱責されました。(2022年7月31日 成約時代のキリストの顕現

ですから本体とは「神様のかたち」、「the form of God 」つまり「original  form」なのです。

これはつまり三位一体に創造以前から子として存在しておられた、神様の本体という意味です。


多くの人が勘違いするのですが、性相と形状の形状ではありません。神様そのものであるということです。創造以前から存在する神の子ということなのです。

この父子の関係とその神の愛を表すのが三位一体なのです。

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お父様は、原理講論の中でも、この言葉に重点を置いて、本体(본체)に血統と種、神の種、血統とキリストの種という意味を付与する名前を付けられたのです。全世界をキリストの家族にするということが、その起源です。この聖句は、神の形(본체)であることを表しています。

成約時代のキリストの顕現

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お父様は、本体(본체)に血統と種、神の種、血統とキリストの種という意味を付与する名前を付けられました。神の種を継ぎ、血統を成す存在は誰ですか?息子です。

この本体(본체)とは父子の関係の愛を表すのです。

この本体は夜の神の子でした。神の子として神の本体でした。

そのような天宙天地創造以前から存在したイエス・キリスト、お父様・キリストを表し、その父子の関係の愛、神は愛であるということを表すのが三位一体なのです。


次に、父子の関係を語られた、お父様の御言を見てみます。

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では天宙の中心とはなんでしょうか。天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。

何年もの苦悶の祈りの中で、ついに「宇宙の中心的出発点は父子の関係である」と答えが与えられました。それは鍵であり基台なのです。私たちはこの父子関係の原理を実行することによって、平和な一つの統一された世界を築くことができるのです。そのようにこの宇宙が父子の関係で創造されたので、あなた方はお互いに兄弟姉妹の関係になるのです。

真のお父様1979年4月15日ベルベディア


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。

天聖経

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ヨハネによる福音書 14:9-11及び、ヨハネによる福音書1:1~18、ヨハネによる福音書17:24から、父と子と聖霊の三位一体とは夜の神様における、父子の関係を現すことを先に証明しました。

「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。神様の血統に真の愛の種、真の生命があるのです」というこの御言は、この父子の関係の愛よりも重要なのは、血統であるということなのです。


ですから「宇宙の中心的出発点は父子の関係である」というお父様の御言は、父子の関係の愛を愛の種、真の生命として、この神様の真の愛よりも重要な血統を求めて、その血統王権を求めて天地創造をされたということなのです。


この事実は、次の御言でより一層明確になります。

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神様御自身がなぜ宇宙をつくったのかというとき、愛を中心として父子の関係を結ぶためです。ですから、宇宙の根本は父子の関係だという結論が出てきます。

(118-290、1982.6.20)

What are the characteristics of the father-son relationship? It is a relationship of true love, true life, and true lineage. Without the true love of true parents as a prerequisite, our true life cannot exist. In other words, before God, human beings were created as the relative of absolute true love. This is where the axis is established, with God as the father and human beings as sons and daughters.

Peace Scripture, Peace Message 1.14–15, September 12, 2005



父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私たちの真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。

平和神経、平和メッセージ 1.14 ~15、2005.9.12


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「愛を中心として父子の関係を結ぶためです。」

父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。

この真の愛の、父子の関係を永遠に結ぶために血統、血筋が必要であり、この血統、血筋のために神ご自身は天宙を創造されたということなのです。


そして、今や、真のカインとアベルが勝利し、真のお父様、二代王、三代王の血筋による三代王権の血統によって、その天地創造の目的が成されたということなのです。


その天地創造、天宙の中心は何かというと「父と息子」の関係であるという御言なのです。

それは次の御言によって、お父様は説明しておられます。

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神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。(69-78)

天聖教57p

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「父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。」


この御言は「愛と生命と理想が交差する中心」が父と息子の関係であると言っておられます。「愛と生命と理想が交差する中心」を決定し得る最初の因縁が、父と息子の関係だということなのです。

宇宙の中心は、「父と母」でもなく、「母と子」でもなく、「父と娘」でもなく、「父と息子」の関係です。

母でもなく娘でもなく、息子との関係、つまり父なる神は息子との関係、つまり男性との関係を先に考えた、先惟したということなのです。


それは先に見たヨハネによる福音書 14:9-11「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」の聖句に表されています。

そして、先に見たように、このヨハネによる福音書1:1~18は、父と子と聖霊の三位一体は天地創造以前の夜の神様の位相から存在していることを表しているのですから、

夜の神様が天宙創造の時、最も最初に考えた対象(最先惟対象)が、「天宙の中心的法則・原理」の中心とは父子の関係であり、それは息子との関係であるということです。


それだから「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」というこのお父様の御言は、

夜の神様の位相からの縦的「父子の関係」による「天宙の中心的法則・原理」によって宇宙が創造されたということなのです。


つまり、このお父様の御言、「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」とは、ヨハネによる福音書 14:9-11及び、ヨハネによる福音書1:1~18、ヨハネによる福音書17:24と同じ夜の神様を聖父とする父と子と聖霊の三位一体のことを言っておられるのです。

即ち、お父様のこの御言は夜の神様を聖父とする父と子と聖霊の三位一体の父子の関係によって宇宙が創造されたということなのです。


ここで言う父とは誰でしょうか?夜の神様です。それでは子とは誰であるかといえば、、イエス様であり、真のお父様です。

これがイエス様である真のお父様は、ご自身が夜の神様から来られたという理由です。


この真のお父様は夜の神様からだと言われたのは、ヨハネによる福音書 14:9-11及び、ヨハネによる福音書1:1~18、ヨハネによる福音書17:24に表される、父と子と聖霊の三位一体とは、夜の神様の位相における父子の関係であり、この子の位置に、イエス様と真のお父様がおられるということなのです。

イエス様、お父様の神性が三位一体の中に有ったのではなく本体がともに存在したということです。


つまり夜の神様が最も最初に考えた対象(最先惟対象)はイエス様であり、真のお父様であったということです。

お父様が「私は夜の神から来た」と言われたその意味は、宇宙は父子の関係によって創造されたのであり、その夜の神の子である私、真のお父様によって、宇宙は創造されたということを言っておられのです。


ヨハネによる福音書1:10「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」 

真のお父様の、「あなたたちは昼の神からだが、私は夜の神からだ」とは、このヨハネによる福音書1:10の聖句と同じように、「世は私、真のお父様によって創造された。あなたたちも真のお父様によって創造された。しかしあなたがたはそれを知らない」ということなのです。


このように「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」というこのお父様の御言は、

夜の神様の位相からの縦的「夜の神様とその子たるイエス様、真のお父様の、父子の関係」による父と子と聖霊の三位一体の、「天宙の中心的法則・原理」によって宇宙が創造されたということなのです。



愛の交差する中心を決める最初の因縁、父子関係


「天宙の中心的法則・原理は、父と息子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」と言われるお父様の御言から、夜の神様がもっとも先に関心をもった対象は「天宙の中心的法則・原理」の中心である父子の関係であることは説明しました。


夜の神様の太初における関心が父子の関係であったということは、この天宙創造の中心である父子の関係を、天地創造の原理の段階で創造されたのではなく、夜の神様の無意識のなかに既に存在していた真の愛の基準が「父子関係」であったということです。

つまり夜の神様自体内において夜の神様が最も大切にしたい、ご自身の心の中心的本質が「父子関係」であったということです。


それは先に取り上げた次の御言によって、お父様は説明しておられます。

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神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。(69-78)

天聖教57p

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この御言は「父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。」ということです。

この御言は、愛と生命と理想が交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係であると言っています。

これは父子の関係が、愛と生命と理想の中心を決める前に存在しているということを言ってるのです。その父と息子の関係の因縁が中心を決めるのですから、父と息子の関係とは夜の神様の位相にすでに存在したということになるのです。


思わなければ関心をもつことができません。だから愛の反対は無関心ということになるのです。

父と子と聖霊の三位一体が夜の神の太初から存在するのは、父と子と聖霊が、夜の神が関心を持つその時から存在したからということです。それは夜の神様の内部に既に存在していたということです。夜の神様が最も大切にしたい夜の神様の心の中心心情ということなのです。

ですから父子の関係が夜の神の太初からの縦的中心軸、縦的中心核であるということになるのです。

この夜の神様の「父と息子の関係の縦的愛」が真の愛の起源であり、中心ということです。

このように、神様の縦的愛とは、この「父子関係の縦的愛」なのです。


ヨハネによる福音書17章24節の、

17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。


というイエスの祈りの言葉は、この父子の関係の愛は、天地創造前から存在した縦的愛であり、これが天地創造の前から神様はイエス様を愛し、イエス様に栄光を与えておられたアガペーの愛なのです。


このお父様の御言、「父子関係の因縁が決定する、愛と生命と理想の交差の中心」がどのようにして定着するのか、お父様の次の御言を見てみます。

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神様は人間にとって、真の愛をもった縦的な父母です。その縦的な垂直関係というものは、一つしかありません。絶対的です。二つとあり得ません。その縦的父母だけをそのまま置いたのでは倒れてしまいます。ですから横的父母を探し立てて連結しなければなりません。それを詳しく説明するならば、創造主は真の愛の縦的父母であり、創造されたアダムとエバは、子の立場でありながら神様の体である横的な父母の立場に立ちます。それらが内外一つとなることによって、内外の共鳴体となって授受作用をすれば、中心が生じると同時に、その内外の共鳴圏の中心が植えつけられるのです。それが、皆さんの生まれた生命の根源です。(183-40, 1988.10.29)


神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が90度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することにより、すべての根本的な難問題が解決されるのです。

天聖経(252-319, 1993.1.5)

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これらの御言は神様は縦的な父であり、同時に縦的、真の父母であるということです。真の愛の縦的父母である神様に対して、アダムとエバは横的父母であり、その縦的な父である神様が、横的父母であるアダムとエバが、90度で定着するということです。


その90度の中心点は先のお父様の御言によれば「父子関係の因縁」によって決定されて定着するのです。

このように、愛と生命と理想が90°に直角に交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係なのですから、この父子関係の愛は縦的愛になるしかないのです。

つまり夜の神様から起因する、真の愛の縦的中心核は、「父子関係の縦的愛」なのです。


「天宙の中心的法則・原理」の中心である父子関係そしてその役事を成す聖霊、そのような三位一体からイエス様と、真のお父様がこられました。だからイエス様と真のお父様は夜の神様から来られたいうことができます。


「神様の真の先惟は天宙の中心である」にて、天宙の中心は父子の関係であることを説明しました。

つまり真の愛とは父子の関係を中心核とするということです。


真の愛の完成実体は、四大心情圏三大王権として現れますが、その愛と生命と理想が寸分違わず90°、直角に交差するようにする最初の因縁となる真の愛の縦的中心核が父子関係なのです。

ですから真の愛の縦的中心核は、「父子関係の縦的愛」であり、真の愛の夜の神様の無意識の基準からの最初の因縁愛が「父子関係の縦的愛」なのです。


ですから、真の愛とは何か?という問いに、極端的に言うならば「父子関係の愛です。」「その父子関係の愛を核として四大心情圏からなる真の愛を実体的に完成することが神様の真の愛の創造理想です。」ということになります。

このように真の愛とは、実現は極めて難しいにしても、言葉で表せば非常にシンプルなのです。

「真の愛とは、父子関係の愛を核とした四大心情圏の愛です」、実にシンプルです。


愛と生命と理想が交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係であり、この「愛と生命の理想」の源泉である夜の神様は、縦的真の父母なのです。

絶対的男性格である夜の神様ご自身が、このような縦的真の父母の愛を、横的に展開するために横的真の父母を創造する必要があったということなのです。

この横的真の父母を創造する必要性を感じられた時、夜の神様は絶対的男性格であり、縦的真の父母であるご自身であることを自覚されました。

この時から「父子関係の因縁」「父子関係の縦的愛」が存在するようになったのです。


ですからご自身が、そのような縦的真の父母であることを、その真の愛の主体であることに覚醒されたが故に、横的真の父母を創造するためにロゴス創造、天地創造が始まったということができるのです。

横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました。


原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -2 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓

原理原相論(試論)

夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生

 論者:三代王権天一聖殿 教会長


夜の神様が絶対服従する愛とは

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宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。

(198-237, 1990.2.3)

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真の愛の中心核が父子の関係である神様が、真の愛に絶対に服従するということは、この父子の関係の真の愛に絶対服従するということであり、横的真の父母の愛にも、絶対性の愛にも服従するのではありません。

それは「絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷」、愛の理想郷です。理想郷とは何でしょうか?愛の理想であり、愛のコンセプトです。

その真の愛の核は父子の愛、父子関係の縦的愛なのです。その愛の理想、コンセプトに絶対服従するのです。


女性や対象的存在に対して先惟する或るいは先感する横的愛は夜の神様の創造物であって、真の愛の中心核にはなりえません。


ロゴスにおける横的真の父母の愛、絶対性の愛は、父子関係の愛を核とする真の愛を縦的に中心に立てて、横的真の父母の愛と授受作用することによって真の愛の創造物になることができるということです。

つまり父子関係が夜の神様の位相から存在する天宙創造以前からの絶対的主体であるということです。




真の愛に絶対服従する愛は、男性的主体的真の愛


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どうして愛は愛ではないのか。

愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。

子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。


だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。


だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。

御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 

愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。

現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。

ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!

流される血。だから宝血と言うではないか。

ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!

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イエス様の十字架の犠牲の愛は父子関係の血の犠牲の愛でした。

イエス様の十字架の愛は、この縦的父子の愛、アガペーの愛に絶対服従した子の父への真の愛でした。

イエス様が、血統を残すために体を持たれたように、絶対性愛を持っておられました。しかし、この十字架上のイエス様の愛は、そのようなエロスの愛は微塵も無い、絶対父子の愛を貫く絶対縦的アガペーの愛でした。十字架に磔になったイエス様の愛は天のお父様を思う絶対縦的父子の愛だったのです。


ここに妻となるはずだった女性のことを思う愛、摂理的目的愛はあっても、そのような横的な夫婦の愛は一切なかったのです。

イエス様は愛と生命と血統を成すために、必要なエバを探し求めておられました。

そのように重要な、神様が求め、復帰摂理が求めてきた女性のことさえも、この十字架の血の犠牲愛にはなかったという事なのです。

それどころか、その神なる父の人類に対する愛に完全服従し、磔になった体全身で、ご自身を鞭打ち磔にした恩讐、敵をも愛された絶対父子の愛のイエス様でした。


人々は真の愛に従順屈服する愛を、対象の愛、女性的愛と考えます。

しかし実際の真の愛に従順屈服する愛は極めて男性的主体的強い愛です。

イエス様がトゲが付いた鞭で何十回も鞭打たれ、皮膚が肉が飛び散り、イバラの王冠で血を流し、両手両足を太い釘で貫かれ、十字架に磔られ嘲笑されても、それでもこの父子関係の縦的真の愛に従順屈服し、そのようにむち打ち突き刺す者を愛されました。

このような真の愛に従順屈服する愛を、対象の愛、女性的愛であるとは言えません。

極めて男性的な父の愛なのです。それが父子関係の愛だということなのです。



イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓とともにあった


二代王様はこう言っておられます。

「いや、お父様はメシアなので特別だ。ただの人間ではない。お父様は神から来られたのであり、夜の神から来られたのだ。創造以前の神から来られた。」ということです。

つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられたということなのです。

お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性◆キングスリポート2021年3月23日


この御言はキリストであるイエス様、お父様は天地創造以前から夜の神様とともにおられ、天地創造後、肉体をもって夜の神さまから、イエス様、お父様は地上にこられたということなのです。


この説教は、先に説明した、ヨハネによる福音書1:1~18、そして、ヨハネによる福音書 14:9-11のことを指します。


それでは、キリストの心は天地創造以前に、夜の神様の時、神様の心と一緒にあったのでしょうか?なかったのでしょうか?


二代王様:しかし真のお父様とイエスの霊的な心(生心)は「神様」です。完全な神です。

イエスであれば、神と同じ生心を持っていらっしゃるということです。イエスの生心は神であるはずです。

お父様も同様です。お父様も現われるとき霊的な体(霊体)があると思いますが、お父様の霊的な心(生心)は神と全く同一だということです。


お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性◆キングスリポート201年3月23日


真のお父様、イエス様の心が神様なのです。天地創造以前の夜の神様とともにあった心だということなのです。


キリストにおいて、ローマ兵に突き刺された血を流す心臓です。子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛」その心臓です。


先に説明したように、ヨハネによる福音書1:1~18は、父と子と聖霊の三位一体は天地創造以前の夜の神様の位相から存在しており、ヨハネによる福音書 14:9-11は、その夜の神様の三位一体という関係の中心が父子の関係という愛であるということでした。


それですから、この聖句が表すように、

つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられた」のですから、真の愛とは、このような子のため犠牲となる父の宝血の愛が、夜の神様とともにあった心だということなのです。

つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられた」ということは、夜の神様とイエス様と真のお父様のこのような父子の関係によって、その心臓がお互いに「子のため犠牲となる父の宝血の愛」で共鳴しあっているということなのです。

子を思う父の愛だから、真の父母の愛の共鳴ということです。


従ってイエス様、真のお父様の十字架の血の犠牲の愛の根源である夜の神様の愛も、このような父親の犠牲の真の父母の愛が根本であるということなのです。


母のように子を思う愛をもちながら、その愛のために鞭打たれ血を流し死んでも子を守るという強い父の愛。

それだから神様とキリストの愛は、一人の父にして真の父母の愛なのです。

神様は一なる父でありながら、そのような真の父母の愛を持っている、縦的な真の父母なのです。


つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられた」ということは、

「つまり、キリストの心臓は創造以前から神と一緒にありました」と言えます。


人類の不信仰により、残念ながら、この犠牲の宝血は流されてしまいました。

本来この父の犠牲の宝血は流されるべきではありませんでしたが、天地創造以前から、夜の神様の心、キリストであるイエス様の心、再臨のキリストである真のお父様の心に、このような、父の犠牲の真のご父母様の心臓(心)が天地創造以前の夜の神の位相から一緒にあったということなのです。天地創造以前の夜の神の位相から、この「子のため犠牲となる父の宝血の真の父母の愛」で共鳴しあっていたのです。



真の愛に絶対服従する夜の神様の心情

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ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。この根本原因からの宇宙の生成が、正に神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。

宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開

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内的な心情が外的に流れるものが愛です」愛の内的心情とは何でしょうか?

対象を愛したいという心情の、その衝動の中核は、この極めて強い真の愛に従順屈服しようとする父の愛なのです。この父子関係の愛に従順屈服したいという衝動は、愛したいという心情の動機の中核なのです。


この父の真の愛に従順屈服する心情が中核になければ対象を愛したい与えたいという心情は、十字架の血の犠牲の恐怖の前に怖気づき吹き飛ばされてしまいます。

このような体中の皮膚がトゲの鞭で飛び散る十字架の中にあっても、従順屈服し、その愛を貫いた強い心情を動機とする父の強い愛のその対象は「父子関係の愛」なのです。


真の愛の種、真の愛のコンセプト

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神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本はどのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。


(中略)

ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。問題になります。宇宙の根本とはどこでしょうか。宇宙の根本はどのように生まれたのでしょうか。これが問題です。神様がどのように生まれたのかというのです。神様を見ましたか。それはどのように生まれましたか。皆さんはどのようにして生まれたのですか。宇宙のすべての要素の津液を取って、総合して生まれたのが正に「私」です。

愛の中心は神様なのです。宇宙生成以前からいらっしゃる、唯一的であり、永遠的であり、不変的な存在なのです。


ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。この根本原因からの宇宙の生成が、正に神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。


宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。


神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。

宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開

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宇宙の根本となる愛の種とは何でしょうか?お父様はその愛の種とは、結局、愛はコンセプト(概念)と言っておられます。

つまり宇宙が生まれる前の愛は、その愛の種は、感性でもなく感覚でもなく、神様のコンセプトだということです。

夜の神様の愛を人の感性や感覚で考えると、神様の愛の概念を間違えてしまいます。

イエス様の十字架にこの真の愛のコンセプトが表されました。


「ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。」


この愛のコンセプト、愛の種は、神様の心情が指向する目的がコンセプトということです。

ですから「神様の内的心情が外的に流れるコンセプト(種)が愛」ということになります。

神様において愛はコンセプト(概念)、「基準となる考え方、方向性」です。その真の愛のコンセプト(種)の中心、真の愛の中心は、夜の神様の心情が指向する内的目的が「父子の関係」ということなのです。

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父子の関係が縦的な垂直関係なのに比べて、夫婦関係は横的な水平関係です。ですから父子関係と夫婦関係は互いに直角(90度)を成して、ここに前後関係である兄弟関係が合わさることによって、すべての愛の関係が球形を成します。それで、愛によって成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです。このように成された球形の中心位置ですべての愛が統一され、定着しますが、この場に神様がいらっしゃるのです。

すなわち、神様とその息子、娘である人間の垂直関係を中心として男性の愛と生命と血統が右側に位置するならば、左側は女性の愛と生命と血統が定着するのです。ここに兄弟の愛が前後の方向に定着すれば、このすべての愛を中心として宇宙全体がバランスを取るようになりますが、これらが一番の核として出会うところに神様がいらっしゃるのです。

真の父母が伝授する世界と南北統一教本(316-235, 2000.2.13)

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「愛の交差する中心を決める最初の因縁、父子関係」において説明したようにこの父子の関係は、縦的真の父母と横的真の父母とが90度で交差するその中心です。「ここに前後関係である兄弟関係が合わさることによって、すべての愛の関係が球形を成します。それで、愛によって成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです、愛が球形になるための中心を決める中心軸が父子の関係だということなのです。

縦的真の父母の中心軸が父子の関係であり、横的真の父母の中心軸も父子の関係です。

ですからこの愛のコンセプト(種)の考え方、方向性は縦的真の父母と横的真の父母が交差する中心点であると言えるのです。

そしてその中心点が何を理想郷としているのか、これが愛のコンセプト(種)の理想、目的になるのです。

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すなわち、神様とその息子、娘である人間の垂直関係を中心として男性の愛と生命と血統が右側に位置するならば、左側は女性の愛と生命と血統が定着するのです。ここに兄弟の愛が前後の方向に定着すれば、このすべての愛を中心として宇宙全体がバランスを取るようになりますが、これらが一番の核として出会うところに神様がいらっしゃるのです。これを平面的に横にしてみれば、愛の一番の根に、生命の一番の根に、血統の一番の根に、そして良心の一番の根に神様がいらっしゃるのです。このように神様を中心とした家庭では縦と横、そして前後の愛が一つになりますが、このような家庭から宗族になり、民族、国家、世界、そして天宙に至るまで拡大していきますが、その根本中心は常にお一人、神様であられるのです。

真の父母が伝授する世界と南北統一教本(316-235, 2000.2.13)

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愛と生命と血統の定着するところで、良心の根が神様が臨在されるようになり、その父子の関係の真の愛が家庭、民族、国家、世界、天宙に至るまで拡大していくことが神様の理想郷なのです。


それが神・真の父母・孫の縦の三大王権であり、真の父母・息子・孫という横の三大王権という血統による神の王国の創建なのです。

そして三代王が祝福を受けることにより、このコンセプトが目指す真の父母の血統王権、キリスト王権が三代王権によって創建されました。

即ち子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛」その心臓の実体が三代王権ということなのです


このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです


「愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。

宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開


それでは愛の種、愛のコンセプトが相対を中心として吸収するとはどういうことでしょうか?

統一的存在、つまり本性相と本形状の完全なる統一体であられる夜の神様には相対は存在しません。

また、本性相と本形状の完全なる統一体という意味は、二性性相で創造された被造世界から見た概念であって、この二性性相自体がまだ創造されていないということです。二性性相自体が無いのですから、相対であるとか対象であるとかが存在するはずもありません。


ですから愛のコンセプトの相対とは、真の愛の中心は、夜の神様の心情が指向する内的目的が「父子の関係」の「相対」ということになります。

夜の神様が、この「父子関係」を心情の志向する内的目的として、その相対つまり「愛と生命と血統」を外的コンセプトとする愛の目的を持ったということなのです。


そのように愛の種、愛のコンセプトの相対である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、夜の神様にこのコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)という心情動機が生じ爆発的になり、このコンセプト(愛)に絶対服従したいという心情の決意的動機が始まり爆発的になったという事を知ることができます。


この与えたい(愛したい)という爆発的心情と、このコンセプト(愛)に絶対服従したいという両方の爆発的心情によって、夜の神様はご自身の統一的存在性を「性相と形状によって構成されるようになったのです。

このようにして、夜の神様は神ご自身自体内における二性性相の創造が始まったのです。

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宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。

(198-237, 1990.2.3)

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つまりこの真の愛のコンセプトには性相コンセプトと形状コンセプトがあり、この真の愛の性相コンセプトと形状コンセプトからなる絶対的に服従したい愛の理想郷を持つことによって、夜の神様はご自身の統一的存在性を「性相と形状によって構成」され、そのようにして神様が産まれたということなのです。



お父様は「神様が絶対的に服従したい愛の理想郷をもつことで神様が生まれた」と言われます。

神様が愛に絶対服従するという時、アダムがエバに、エバがアダムに愛で絶対服従すると勘違いしている人をよく見かけますが、絶対的神様が絶対服従したいのはこの愛の理想郷なのです。


ではこの与えたい(愛したい)という爆発的心情と、このコンセプト(愛)に絶対服従したいという両方の爆発的心情が、どうして爆発的なのでしょうか?


夜の神様の心情が爆発的である理由

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「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」 

「御旨と世界」  人間に対する神の希望

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一時期、神御自身が自己中心的」な、夜の神様とはどのような夜の神様でしょうか?


そのような「為に生きたい」という思いで、夜の神様は一時期自己中心的であった、絶対的に為に生きる利他的なご自身に自己中心的であったということです。

どういうことでしょうか?


御自身以外の何ものをも意識することなく存在」されていたということは、夜の神様ご自身は、本性相と本形状の統一的存在ですから、この一時期、「為に生きたい」という内的心情にご自身が絶対的自己中心的でした。

神様は、神が創造に着手される前、自己中心的でした。


御自身以外の何ものをも意識することなく存在」するとは自己完結した、他からの影響や認識を全く必要としない存在の状態を指しています。ただ「ある」という純粋な存在です。

時間や空間の制約すらも超越している存在だということです。

つまり神の自己愛が「真の愛の道(tao)を極める」為の、神の無意識世界にまでも及ぶ深い瞑想ということです。

この真のお父様が言われる神の「一時期自己中心」とは、次に「御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられた」と説明しておられるように、夜の神の創造前の絶対無の位相においての深い瞑想によって、自己の中心を極める自己愛によって真の愛の道を極められたというこです。


愛である神が、創造前に他者が存在しない場合、そのように神は自身を愛する状態にあるということになります。

他者を愛するためには、まず自分を愛することが出来ないと、ましてや他者を愛することは出来ません(臨床心理学:F・フロム-ライヒマン)。


この堕落世界において、自己中心的とは、他者を犠牲にするという意味ですが、このお父様が言われる自己中心的一時期とは、自分自身を愛せない者がましてや、他のために生きることなどできないという創造前の神の自己愛のことを言っておられます。そのような真の愛の道(tao)を極める神の無意識世界にまでも及ぶ深い瞑想のことを言っておられるのです。


この創造前の深い瞑想は、神は御自身の完全性(全知全能、真、善、美)を自己認識し、これを愛されました。

この神の自己愛は、完全な知的・意志的行為であり、欠乏やナルシシズムとは無縁の愛です。動的であり、関係性を生み出す力を持つのです。

神のこの完全性が「他者性」を求める内在的動機となり、生成を導くのです。

これをお父様は「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」と表現されました。


真の愛の道(tao)を極め、為に生きる犠牲の愛に生きるための自己認識は、御自身の完全性(全知全能、真、善、美)を自己認識することによって生まれます。この自己認識無くして他の為に生きる愛の信念など生まれるはずもありません。

そのような欠乏やナルシシズムとは無縁の関係性を生み出す自己愛の力は、愛の理想郷を持つことになります。この愛の理想郷を持つことで、神はために生きる愛に絶対的に服従したい愛の神として生まれることになります。


このように、「為に生きたい」という思いで、夜の神様は一時期自己中心的であったというのです。


そのことを次のお父様の御言に見ます。


宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。

(198-237, 1990.2.3)


つまり真のお父様は「神様が絶対的に服従したい愛の理想郷をもつことで神様が生まれた」と言われました。

神様が愛の理想郷を持っことによって、

統一的存在内部における自己中心性(御自身の中心を極める完全性の自己認識と自己愛)は、その情の力が心情エネルギーとなり、その統一的存在性相全体が爆発するほどに、その「為に生きたい」という心情エネルギーがご自身の統一的存在性相に膨張充満するしかありませんでした。

「為に生きたい」という心情エネルギーだけでは、ご自身の統一的存在性相が爆発するほど膨張することはできません。


同時に、「為に生きることに絶対服従したい」「為に生きることに妥協したくない」という内的心情の情の力もまた、絶対的自己中心的ですから、「為に生きたい」という内的心情を強烈に押し出し膨張させていく心情エネルギーとして、その統一的存在性相全体が爆発するほどに、その心情エネルギーがご自身の統一的存在性相に膨張充満するようになりました。


このようにして神の自己愛が「愛の道を極める」ことで真の父の愛となり、ペリコレーシス(perichoresis:相互内在)の相互関係愛となり、三位一体を形成していくのです。

「排他的ではなく、創造的・拡張的」であり、「与えたい」「生きたい」という夜の神の真の父としての心情を誘発し「真の愛の道(tao)、真の父の愛を極める」ことにより、真の愛の完全性を追求するこのプロセスが宇宙的・調和的な秩序、ロゴス、原理となっていくのです。


このようにして、愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」の相対である「愛と生命と血統」を「中心として受け止め吸収」した時、夜の神様にこのコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)という心情動機が生じ高まっていきました。

この時同時に生じた心情動機、「このコンセプト(愛)」に、「絶対的に服従したい理想郷」のコンセプトに絶対服従したいという心情の決意的動機が、「このコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)」という心情をさらに強烈に押し出し爆発的心情になったということなのです。



このように、夜の神様の深い瞑想は自己探求、自己肯定と他者への愛の基盤として排他的ではなく、創造的・拡張的、そして与えたい為に生きたいという神の心情を誘発するのです。

そして”0秒でありながら永遠であり、α(アルファ:始まり)でありΩ(オメガ:終わり)でありながら父だけ”のアガペー本体の愛となったのです。

それは父の犠牲の愛となり、この父の愛が、これもまた”0秒でありながら永遠でありα(アルファ)でありΩ(オメガ)でありながら相互内在(ペリコレーシス:perichoresis)、相互関係愛相互犠牲愛の三位一体”となっていったのです。


キリストの血の、犠牲をかえりみず恩讐を愛する父性的愛の強烈な力強さは、夜の神様のここから来ているのです。


そしてこの爆発的「為に生きたい」という心情エネルギー、その「為に生きること」に「絶対に服従したい」という爆発的心情エネルギーが万有原力の源泉となったのです。

いわゆる統一思想のいう前段階エネルギー(Prio-stage Energy)です。


夜の神様がご自身を性相と形状に構成されたプロセス

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愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。

宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開

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夜の神様が、愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」の相対である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、前段階エネルギー(Prio-stage Energy)、つまり本形状を形成するようになりました。このようにして「神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました」。


ですから本形状の前段階エネルギーとは、「為に生きたい」という方向性的心情エネルギーと、その「為に生きること」に「絶対に服従したい」という押出的心情エネルギーによって永遠に万有原力を生みだす万有権力の源となったなのです。

そして、聖霊とは、この本形状である前段階エネルギーから来ているということなのです。


ヨハネによる福音書14章15-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。


聖霊、御霊は助ける主です。聖霊は助ける能力があるということです。能力は力がなければなりません。ですから聖霊の助ける能力は神様の本形状の前段階エネルギーから来ているということが言えるのです。


このようにして「神様自体が性相と形状によって構成される」ようになることで、ロゴス(原理)の構想とロゴス(原理本体)、横的真の父母の創造が始まりました。

こうして真の愛の種、愛のコンセプトが創造以前に生まれ、その主体が夜の神様なのです。


夜の神様は「父子関係」を内的目的として、その目的の相対として「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種、真の愛のコンセプトの主体なので、夜の神様は絶対的男性格であって縦的真の父母なのです。


横的真の父母を創造するための性相と形状


愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。

そして次に

「ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。」

と御言が続きますが、どうして性相と形状に構成された次に性相と形状に分かれるのでしょうか?

横的真の父母の創造のためです。横的真の父母は実体です。


それでは実体はどのようにして創造することが出来るのでしょうか?

本形状から形状を取り出すことによりそれが可能になりました。


では、どうして形状を取り出し実体をつくる必要があったのでしょうか?


愛とは観念ではなく実際に目に見えなくとも実体として存在しなければなりません。

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その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。

韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会

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ところが、縦的真の父母である夜の神様は、男性格であり、縦的真の愛の中核である「父と息子の関係」も男性格です。

「愛と生命と血統」を実体的に創造するためには、横的真の父母を創造する必要がありました。横的真の父母を創造するためには女性を、真の母を創造する必要がありました。

そして夜の神様は、形状から女性を創造していかれたということなのです。


創 2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。

男から女を造ったというこの創世記2:22の聖句は、アダムのあばら骨からエバを造った、ということだけではなく、夜の神様ご自身も、夜の神様ご自身のあばら骨から、女性を造ったということも表しています。

夜の神様は、自己の本形状から形状を取り出し女性を創造されたということなのです。


ですから、真のお父様は「性相と形状に分かれた」と表現されましたが、統一的存在である夜の神様が性相と形状に分かれることはありません。正確に表現するならば、「夜の神様は性相と形状をご自身の本性相と本形状から取り出された」のです。


夜の神様は「父子の関係」という愛の種、愛のコンセプトの相対である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、夜の神様にこのコンセプト、つまり真の愛のために与えたいという爆発的心情、この真の愛に絶対服従したいという心情の決意的動機が始まり、夜の神様は爆発的にご自身を本性相と本形状に構成され、横的真の父母の創造を目的として、性相と形状をもって爆発的に天地創造していかれました。


それは最終的には本形状からくる形状、エバを創造するためでもあったのです。

それが故に、天地創造後の神として、”真の母”を”昼の神”という表現を真お父様はされたのです。


完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。

宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点


この御言はそのように形状、女性をつくるに至った本形状が女性の性相に入るということなのです。そしてアダムには、縦的真の父母の性相が入って行くという意味の御言なのです。


夜の神様が、愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」の相対である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、前段階エネルギー(Prio-stage Energy)、本形状を形成するようになり、「神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました」と説明しました。

これは真の愛の性相コンセプトと形状コンセプトによって、夜の神様はご自身の統一的存在性を「性相と形状によって構成」されたということでした。

ですから、完成すれば、この愛のコンセプト(種)の「父子の関係」という縦的真の父母という神様の真の愛の性相と、その性相コンセプト(性相的種)が、アダムの心に入り、

「愛と生命と血統」という真の愛の形状と、その形状コンセプト(形状的種)がエバの心に入るということなのです。


それが故に、男性は”天”を象徴し、女性は”地”を象徴するというのです。


ところが、イエス様は縦的父子の愛の為に、エバを再創造することを捨てざるを得ませんでした。

そして、イエス様の十字架は、この夜の神様の真の愛のコンセプト、真の愛の種を血の犠牲の実体をもって示されたのです。

この夜の神の心情根本から来る、父子関係の縦的真の愛の中心の基準とする愛と生命と血統という真の愛のために殉じて行かれたのです。



原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -3 ◆愛は感覚ではない愛は父子の愛

原理原相論(試論)

夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生

 論者:三代王権天一聖殿 教会長


愛は愛ではない。愛は感覚ではない

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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。

あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。


どうして愛は愛ではないのか。

愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。

子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。


だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。


だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。

御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 

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愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。


この御言のように、愛は愛ではありません。愛は感覚でもありません。

しかし、「愛は愛である、その愛の感覚が大切。その感覚こそが神の愛」とする、お父様が、二代王様が異端神、サタン主義文化として批判排斥される、そのような異邦神の女神がキリスト教会にさえも掌握し世間を支配し闊歩しています。


この十字架に表された愛が絶対的男性の父母の愛、縦的父子関係の愛、アガペーの愛なのであり、ここに女性を対象として思うエロスの愛は微塵もありません。感性でも感覚でもありません。

同様に夜の神様の、真の愛のコンセプトに、女性を対象とした愛は無いことが分かるのです。


夜の神様から来られたイエス様の愛が、このような絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛ですから、

イエス様の父である夜の神様の愛も同じように、

このような愛、つまり絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛の、夜の神様という結論が導き出せるのです。


愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。


人類を導かれた神様は血の涙を流していかれました。血の涙を流しながら真の愛に従順屈服しながら人類を導いてこられました。

その血の涙の、愛したいという対象は父子の関係でした。

イエス様が十字架で、この父子関係の真の愛に絶対服従されるときの夜の神様のご心情はどれほどの痛みと悲しみであったでしょうか。


しかし夜の神様を全人類を愛するがゆえに、この父子関係の真の愛に絶対服従していかれたのです。

このように真の愛に従順屈服したい愛は極めて強い父の男性性相の心情動機の中核なのです。

その外的愛として流れる愛が「愛と生命と血統」であるので、神様は縦的真の父母なのです。



絶対性の愛に、神様は父子関係の縦的愛として臨在される

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神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て、「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。

 (9-168, 1960.5.8)天聖教 p100


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経

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男女が絶対性の関係を結ぶ時においても、当然ながら、神の創造物であり神様の感覚に無い絶対性のエロスの愛にも、真の夫婦の愛にも、神様が絶対服従することはありません。

夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、このように、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、その愛の目的が成し遂げられる喜びなのです。


神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。


神様は、このイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服したいのです。

神様の愛の喜びは、このように人が考える快楽のような喜びは一切ありません。その真の愛のコンセプト、目的が成し遂げられる喜びなのです。

この根本的な喜びの違いを認識しないと、神様への認識、真の愛への認識を大きく勘違いし間違ってしまいます。


ですから夫婦が結ばれる絶対性の愛は、本質的にはイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服する横的父母の愛として、その血の十字架の犠牲愛の目的を成し遂げるためのロマンスの愛、エロスの愛であるということです。

そしてこのロマンスの愛、エロスの愛は、あくまでも絶対的男性である神様の縦的父母の愛である父子関係の愛が、横的に展開し実を結ぶために神様が創造した横的愛なのです。

絶対的男性、絶対縦的真の父母の愛である神様は、愛を実体化するためには、女性という存在が必要であり、そうであるなら絶対性も必要であるとして、横的真の父母を創造していかれたからです。

夜の神様にこれらの被造物は存在しないのです。


このように、アダムの体の中に神様が入り喜ぶという意味を、神がこのようなエロス的愛の刺激を受けるためと考える信徒もいますが、まったく違います。

エバは神の妻であるという意味合いをそのように考える信徒もいますが、まったく違うのです。

もしもこのようなエロスの愛が神の目的であるとするならば、イエス様が示された血の十字架の縦的父子の関係の愛に絶対服従したい愛ではなく、父親が娘と交わることを真の愛とするとても悍ましい愛の神になってしまいます。


アダムとエバが男女の関係を結び喜ぶ時、神様は人に与えた、そのようなエロスの愛を感じて喜ぶのではありません。神様にはそのような感性感覚はまったくありません。

夜の神様から始まった、天地創造の縦的真の愛である父子関係の真の愛の目的が達成されることを喜ばれるということであり、愛と生命と血統の天地創造理想の実現するための対象であるという意味でエバは神の妻であるということなのです。神様のエバの関係に性愛は一切ありません。


神様は、そのようなイエス様が示された血の十字架の、縦的父子関係の真の愛に絶対服従し臨在されるのです。


完全なるプラスの神様に女性的対象は存在しない

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完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは、宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は、誰でしょうか。これが問題です。神様は、なぜ人を造られたのでしょうか。人は、神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。

(129-138, 1983.10.9)天聖教P86

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完全なプラスである神様には女性的存在、女性的対象は、夜の神様の位相には存在しません。夜の神様はそのような絶対的男性です。


絶対性の愛は、真の愛の中心軸である父子関係の縦的愛に絶対服従する横的愛の関係であり、そのように父子関係の縦的愛を横的に展開し実体化するために、神様は完全なるマイナス、横的真の父母の愛と、絶対性の愛を創造されたのです。

この時初めて、父子関係の縦的愛を実現させるためには、完全なるマイナスとして女性、エバが必要となり、ロゴスの段階からエバの創造から始まりました。

つまり夜の神様がご自身が男性格であるという自覚は、ロゴス創造の時からであり、このロゴス創造の時に、横的真の父母の愛の創造のためには完全なるマイナスとして女性が必要であることに気が付かれたのです。


夜の神様は真の愛の種の所有者として創造以前に存在しておられました。

「父子関係」を内的目的として、「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種の所有者であり、真の愛の主体なので夜の神様は絶対的男性格です。

そしてこの真の愛の種は「生命と血統」の種でもあるので、真のお父様は、夜の神様のことを縦的真の父母と呼ばれるのです。「生命と血統」という意味で母の言葉はありますが、この父母という言葉には一切のいわゆる母やそのような女性的要素は一切ないのです。


夜の神様は完全なるプラスであり縦的真の父母です。

それゆえに夜の神様ご自身が絶対的男性であり縦的真の父母であることに覚醒されたとき、完全なるマイナス相対的実体存在として横的真の父母が必要になり、この時初めて、実体的に生命をうみだす存在として女性という存在をロゴスにおいて考え創造されました。

エロスの愛、ロマンスの愛もこの時、横的に真の愛が展開し四大心情圏の真の愛が実体的に実ることを目的として創造された被造物なのです。


夜の神様の先有条件

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ですから、絶対価値観のための絶対条件とは何でしょうか。アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。それが「先有条件」です。先にある条件ということです。女性が先に形態を備えて現れたのではないのです。姿形を構想された神様は、女性に合うように男性を造られたのです。女性がいなければ、男性のような姿形にはなりません。ですから、何を「先有条件」にしたのかといえば、見えない女性であり、それを手本にして男性を造られたのです。

第九回「安侍日」 2004年7月8日 麗水・清海ガーデン

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このお父様の御言はまさに「横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました」という意味の御言です。


横的真の父母を創造するためには、夜の神様の位相の縦的真のアダムのために、横的な存在、女性という存在を創造する必要性がありました。これが絶対条件なので昼の神の位相のアダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うように横的存在である昼の神の位置のアダムを造られたということです。


女性先惟という本来の神様の構想の位相は、横的真の父母を創造するためにロゴスを創造されたこの時に、「先有条件」として女性を先惟されたということなのです。


「先有条件」として、神様は女性を手本にして、アダムを造られましたが、このアダムとは横的真の父母におけるアダムであり、ロゴス創造、天地創造が始まったときからの横的アダム、昼の神様の位置のアダムということなのです。


当然ながら、このロゴス創造の太初に、絶対性の愛、ロマンスの愛も構想され、創造していかれました。

女性という存在はその概念も含め、ロゴス創造の時からであって、それ以前はまったく存在してないのです。


横的真の父母様の構想、実体的四大心情形成に必要な愛の要素はこの時、夜の神は構想されたのです。

その横的真の父母の愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心を決定し得る最初の因縁が、父子関係です。


この「父と息子の関係」という絶対男性的縦的真の父母の愛に、真のアダム、イエス様、真のお父様は既に存在しておられました。

だから、イエス様を、真のお父様を、夜の神様から来た真のアダムというのです。


一方女性は、天地創造の太初に「先有条件」として構想され創造された被造物であるがゆえに、そして創造以前の夜の神の位相では存在しない存在であるがゆえに、エバのことを昼の神といえます。

ですから、真のお父様は、夜の神様から来た真のお父様と、昼の神様から来た韓鶴子総裁との争いのことを、「夜の神と昼の神が戦っている」と表現されました。


そのように「女性先惟、先有条件」この御言の本当の意味は、「イエス様、真のお父様は、ロゴス創造、天宙創造の太初に昼の神様の位置のエバを先に考え、昼の神様の位置の横的アダムを創造された」ということなのです。


ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 


このヨハネの福音書1:3の聖句の通り、すべてのもの、つまりエバも、これ、真のアダム、イエス様によって創造されたのです。



真の愛、縦的神の愛と真の父母の愛


ですから真の母とは夜の神様の父子の縦的愛が、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を考えた時に先惟された絶対精子を求めて創造されたロゴスを起源とする被造物ということなのです。


父と子と聖霊の三位一体で見るならば、時間と空間創造以前に夜の神様とともに三位一体としておられた真のお父様(イエス様)は真の母を創造した縦的天の父母であり、真のお父様はロゴスにおいて、横的天の父母を創造したということなのです。

ですから横的天の父母は、縦的父母である夜の神様の被造物だということです。


これがお父様(イエス様)が、夜の神から来て、女性(真の母)は昼の神から来たと言われる理由がここにあります。

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神様は何をもっているかといえば、男性的性稟と女性的性稟をもっていらっしゃるというのです。二性性相の主体という言葉が出てくるのです。それで、統一教会は、「二性性相の主体が神様である」という素晴らしい結論を下すのです。見えないものがプラスであり、見えるものがマイナス的父母です。見えない父母が原因的であり、見える父母は結果的です。ゆえに、愛を中心として一つになるのが父母の位置ですが、神様は見えない父母であり、これは見える父母です。これは何かというと横的父母であり、これは縦的父母です。

(宙の根本 第二章一、1.人間の男性と女性


皆さんは真の愛の定義を知らなければなりません。真の愛とは神の愛と真の父母が一つとなったものです。これが永遠に変わらないものです。なぜならば神が中心であり、真の父母が実体としているからです。

創立三十周年記念日に際して 1984年5月1日


その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。

韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会

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この3つの御言から、

「神様は見えないプラス的、原因的父母つまり縦的父母であり、

(真の父母は)見えるマイナス的、結果的父母、つまり、横的父母です。

真の愛の定義は、縦的神の愛と、横的真の父母の愛が一つになったものです。

神の縦的愛と真の父母の愛を一つにすることができる愛の基準を、血統を通して生命体を中心として再び実らせる(実現する)愛が真の愛です。」ということです。


そして、真の愛は、血統を通した生命体を中心として実現するということです。

真の愛の基準が、血統を通した生命体を中心としてその実体に現れてこそ、真の愛の体が実現したといえるということです。


物事を実現するためには、基準がなければなりません。

夜の神が天地創造をしようとされたその縦的神の愛の基準は何か、その真の愛の基準は何を中心として設定されたのでしょうか?


その真の愛の実現の基準は、血統を通した生命体を中心として設定されたということです。

縦的な神の愛とは、天地創造以前の夜の神の愛です。その夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定されたということです。


ではどうして、夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定したのでしょうか?


天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。

そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された

真のお父様1979年4月15日ベルベディア


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経


夜の神の愛の基準は、上記の御言のように、父子の関係がその基準であるということです。

この天宙創造の中心である父子の関係を、天地創造の原理の段階で創造されたのではなく、夜の神様の創造前の意識のなかに既に存在していた真の愛の基準が父子の関係であったということです。

この夜の神様の「父子の縦的愛」が真の愛の起源であり、中心なのです。

ですから、縦的な神の愛とは、夜の神様の「父子の縦的愛」のことを言うのです。


ところで愛とは観念ではなく実際に目に見えなくとも実体として存在しなければなりません。

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その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。

韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会

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そのような真の愛とは、縦的な神の愛と横的な真の父母の愛が一つとなって実ったものが、真の愛です。

夜の神様の「父子の縦的愛」が「横的真の父母の愛」が一つになったものが、真の愛であるということです。


この夜の神の「父子の縦的愛」が夜の神の無意識の中に既に存在していたがゆえに、夜の神は、父子の関係を先惟し、これが真の愛の基準となり父子の関係の三位一体が、真の愛の起源となりました。


そして、この真の愛の起源は、愛と生命と血統が実ること、実現するために天宙創造の原理、ロゴスがつくられ、天宙創造が始まったのです。

このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえに、この父子の関係を天の父母ということもできるのです。

この父子の愛が、夜の神の愛の中心ですから、夜の神の愛を縦的父母の愛ということも可能なのです。

それだからお父様は神様を縦的真の父母と言われるのです。


神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母になっていたことでしょう。そのような二つの父母の血肉を受けて生まれた人間の心は縦的な自分になり、体は横的な自分となって、一心、一体、一念、一和の人生を営むことができたでしょう。

2007年6月13日、韓国の天正宮博物館


夜の神様が一なる男性格でありながら、その愛は縦的な真の父母の愛であるという理由は、このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえだからなのです。



アダムとエバが横的真の父母になる愛の条件


夜の神様は「縦的な真の父母」であり「アダムとエバは横的な真の父母」になるべきでした。

ではアダムとエバはどのように愛を結べば横的真の父母になれたのでしょうか?


神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が90度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することにより、すべての根本的な難問題が解決されるのです。

天聖経(252-319, 1993.1.5)


それは、夜の神様の縦的真の父母の愛と、横的真の父母の愛が90°に焦点を合わせ定着することだったのです。


そのような「縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる因縁で、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせること」を成せば、アダムとエバは、横的真の父母になることが出来たのです。


すでに論述したとおり、父子の関係の縦的真の父母の愛は、エバ、真の母を創造することがロゴスの起原でした。真の母を創造しなければ横的真の父母を創造することが出来ません。

そのエバが真の父母になる愛の基準が、横的真の父母の完成になるのです。

その基準の中心点が、夜の神様の縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が90°に交差するところなのです。

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そこで一つになってぶつかる日には、360度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経るのです。このような愛の力が爆発すれば、男性と女性は完全に一つとなり、その中に神様が入っていかれるのです。神様は二性性相になっているでしょう? 「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、どのような方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃいます。その主体の本質は何ですか。愛だというのです。絶対的愛だというのです。

宇宙の根本 第二章三、1.神様と人間が出会う愛の決着点


神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、神様は核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。

宇宙の根本 第二章一、1.人間の男性と女性

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「神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です」。

神様の愛と人間の愛はいつ一つになるのでしょうか?

それは「神様が核の位置に立つ中心点」ということです。

つまり縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が90°に交差してこそ、その中心点が神様が核の位置に立つことが出来るということなのです。

そのように縦と横の真の愛が90°に交差してこそ、「360度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経る」ようになるのです。

そしてその神様の縦的真の父母の愛が360°となり、横的真の父母の愛を360°包む時、完全なる真円球形体の真の愛となっていくのです。


そのように、縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛を90°に交差することにより、「神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになる」ことができるのです。

それでは90°に交差させるためにはどうすればいいのでしょうか?

それは、夜の神様の愛の種、愛のコンセプト、「父子関係」とその相対である「愛と生命と血統」を基準にして合わせるということなのです。


完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。

宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点


このようにして、形状、女性をつくるに至った本形状が女性の性相に入り、そして男性には、縦的真の父母の性相が入って行くようになるのです。


ところが、アダムとエバは、この夜の神様の縦的真の父母の愛に、自分たちの横的真の父母の愛を90°に交差させることができず、長成期、60°の角度で間違った愛の関係を持ったが故に、極めて破滅的、破壊的、悪魔的な「愛と生命と血統」を持って、神様を悲しみのどん底に陥れることになってしまったのです。


原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -4 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造


原理原相論(試論)

夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生

 論者:三代王権天一聖殿 教会長


聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造


「父と子と聖霊の三位一体は愛の関係性、キリストはその本体」にて、既に説明しましたが、ここでは、三位一体による天宙天地創造について論じます。


・三位一体は父子の関係の愛を表す


真のお父様の「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係であり、この宇宙は父子の関係で創造された」という神学は何でしょうか?

父と子と聖霊の三位一体論はまさにこのお父様のみ言のことを言っているのです。


ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。


ヘブル 1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。


17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。

17:24 Father, I will that they also, whom thou hast given me, be with me where I am; that they may behold my glory, which thou hast given me: for thou lovedst me before the foundation of the world.


これらの聖句は三位一体論において重要な聖句です。

神の子たるイエスによってこの天宙は創造されたとするこの聖書の御言は、この天宙は父子の関係によって創造されたということなのです。

この聖句は、イエス様、そしてお父様は、この天宙を創造された創造主であると言っています。それは神様との関係が父子の関係だからということなのです。

ですから、それを突き詰めれば、神とイエス様、そしてお父様との関係が父子の関係であり、その父子の関係が天宙を創造したということです。


ですから結論として「父と子と聖霊の三位一体論の中心的法則・原理は、父子の関係であり、この宇宙は父子の関係で創造された」ということになります。

三位一体の中心は父子の関係という結論なのです。

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生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。

天聖経

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三位一体とは真の愛の充足を表します。

ですから現代神学の三位一体のアプローチでは人類を創造する必要がありません。しかしどうして神は人を創造されたのか、その答えがこの真のお父様の「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です」という御言なのです。

二代王様も、神が人類を創造したのは、神自身の必要性からではなく、完全な恩恵によるものであるという立場です。神の愛が三位一体の中で完結しており、創造は神の愛の必然的な結果ではないという立場です。


三位一体のシステムそのものから「愛」を相互間応答(reciprocate)しているわけです。

それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。

お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日


現代神学において三位一体では、その真の愛は完全に満ち足りて何の不足もないのです。

この反論として創造が神の愛の表現であり人類の創造は必然だと主張するキリスト諸派があり、二代王様のこの御言に憤慨する人もいます。


しかし人類創造は神の完全なる恩恵であることを受け入れられない場合、神に栄光を返すことができず、自分の栄光を求めることになります。


・三位一体による天地創造の理由


それでは充足しているのにどうして、夜の神様は天宙を創造されたのでしょうか?

その理由は上に上げたお父様の御言にあります。


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。


それは、この三位一体の中心が父子の関係であり、その充足された真の愛よりも重要なものが血統であったからです。

つまり、天宙の中心であり、三位一体の中心である父子の関係は真の愛よりも血統を求めるという意味は、父子の関係とは、その三位一体で完全に満ち足りたその愛を、永遠に与えたいとう完全犠牲の愛を与えたい真の愛の関係だということなのです。

このように、父と子と聖霊の三位一体は、愛は与えて忘れる犠牲愛の根本理由であるアガペーの愛は血統をめざす父子の愛からくることを表しているのです。


ですから父子の関係とは、真の愛と真の生命として子が父となり子を生み、その子が父となり真の愛と真の生命として子を生む、この真の愛と真の生命の永続性、永遠に愛と命を与え続け愛したい自分がどんなに犠牲なっても子を愛したというアガペーの愛の源泉ということなのです。


そのような父と息子の愛なので大初の三位一体の3つの格位は全て男性格です。つまり三位一体とはそれ自体が男性格主体なのです。

この三位一体の、愛を与えたい真の愛の相互間応答は絶対精子をつくり、そのための男性生殖器を先惟したということなのです。


だから真の愛と真の命は父子の関係であるが故に、その父子の関係の永続性である血統を求めるのです。

この血統のためにエバが必要なのであり、ロゴス創造の時初めてエバ創造を先惟構想し次にアダムの生殖器をエバに合わせて具体的に構想されました。


『アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。第九回「安侍日」 2004年7月8日』

このお父様の言われる女性の「先有条件」の意味は、先に論じたように、実際に天宙天地創造のためのロゴスを創造されたとき、先に神様が考えたのは女性であったということなのです。本形状のコンセプト、愛と生命と血統の実現のために女性を男性よりも先に具体的に構想されたのです。


これが、イエス様が、真のお父様が、夜の神様の精子から来られたということであり、愛と生命と血統の中でより重要なのが血統であるという真のお父様の御言の意味です。


完全に充足された完全なる真の愛は、完全に充足されているがゆえに、どのように自身が犠牲になろうとも愛を与えることが出来るのです。

その真の愛がアガペーの愛が犠牲であり、一切求めることはなく、ただ与え続けたいのは、この父子の関係からくるのです。

そのような真の愛の父子の関係はであるがゆえに、この真の愛と、真の生命の継続性、永遠性が血統ということなのです。父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるのです。


逆説的言えば、それが故に、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるということが証明できるのです。


それだから、夜の神様が天宙創造の時、最も最初に考えた対象(最先惟対象)とは、天宙の中心であり、三位一体の中心である「父子の関係」というであり、それは息子との関係であるということも証明されるのです。


・聖霊は男性格か、女性格か


ここで、聖霊(聖神)は男性格であることを次の亨進二代王、國進監査院長の御言から再確認しておきます。

聖霊(聖神)は女性格であるとする従来の統一原理との整合性は後ほど説明します。

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二代王「聖父聖子聖神 성부성자성신、いわゆる父と子と聖霊は一つの神性から出ていますが、三つの個体の性格を持っています。(2017年6月6日キングスリポート)」


國進様「神様ご自身の中には、男性的な性質と女性的な性質があり、それが神様の二性性相です。ですから、みなさんが見ている聖霊の現れというものは、一人の神様の中にある、その性質の表れであり、それは神様の対象的な相対によって映し出されます。

2016年8月16日Q&A」

<王妃様が二代王様が書れたとその時書かれた図の訳>

「この方は見えない神様の形象」

ここで王妃様は聖霊ではなく聖神と書いておられる。


イエスが教会を導く父の位置にいらっしゃるとしたら聖霊は母のように教会に愛を与える側面だということです。

しかし、教会に侵入した多くのフェミニストたちは、聖霊を女性に変えようとしました。

もちろん、それは完全に異端的な内容であり、キリスト教的世界観を破壊する内容なのです。


聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるものです。聖霊がイエスの妻という意味ではありません。


主体と対象の関係は結婚しない関係にもあります。多くの人が、これを勘違いしていますが。もう一度言います、聖霊は女ではなく、イエスの妻でもありません。しかし、神がイエスの霊人体の対象の立場として聖霊を送られたのです。ここでもイエスの霊人体と聖霊には違いがあります。同一のものではありません。


またイエスの霊体の中にも霊的な体と心(霊体と生心)があり、イエスの生心が神と一つになっているということです。

お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日


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「聖父聖子聖神 は一つの神性から出ている」、そして「聖霊の現れというものは、一人の神様の中にある、その性質の表れ」「聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるもの」ということですから、

「聖霊とは男性である一人の神様の神性の、女性的性質が対象として現れた神の神性である。従って性別を問うのなら男性である神様からの神性なので男性格である。聖父も男性であり、聖子も男性であり、そして聖神も男性である。よって聖父聖子聖神の三位一体も男性格である。」

という結論が導き出せます。


これは、原理講論の

「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」

という記述の理解について、

本形状的女性を「圧倒的女性的性質も、あらゆる男性性相の一つ」であるから男性性相であると理解できれば、聖霊も男性性相であることが理解できます。

神は、二性性相が中和して一つの統一体である性相的男性格なのですから当然、本形状的女性も、性相的男性として父である神の、あらゆる男性性相の中の一つであるということです。

これは神を父(男性)とする高位(高い)キリスト論の三位一体論と一致します。


ところで、原理講論では、聖霊について、はっきりと

「聖霊(聖神)は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊(聖神)を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊(聖神)は女性神であられる」

と書いてあります。


しかし、お父様は、新しい御言として、”夜の神・昼の神論”を提示され、真の母は昼の神から来たと言われました。つまり真の母は創造物であり、私文鮮明は、夜の神、つまり創造前から来たのであり、創造前から存在していたという新しい御言を下さいました。

これは父と子と聖霊の三位一体は創造前から存在し、聖霊も当然、創造前から存在したということになります。

しかし真の母は昼の神、創造後の存在ということなのです。


聖霊は創造前から存在し、真の母は創造後であるのなら、原理講論に書いてある聖霊は創造後となり矛盾します。

ここから理解できることは、原理講論で書いてある聖霊(聖神)とは、創造が始まったときの聖霊の役割のことを、原理は言っていることがわかります。

つまり創造前から神とキリストとともに有った聖霊は、創造が始まりエバを創造し、そして真の母をつくる天地創造の役割があったということです。

そのような働きをする聖霊を韓国語原理講論は特に聖神と呼び聖霊(聖神)を女性神、あるいは真の母であると表現したという理解ができます。


このことを、真のお父様は”昼の神夜の神論”により明確にされたのです。

そしてニ代王様、國進監査院長は、聖霊を”キリストの対象である”と言われたのです。



・イエス様とお父様は夜の神様の本性相とともにおられた


ここで大切なことがあります。

二代王様は、三位一体の図をこのように書かれました。

ヨナ王妃:2代王様は次のように説明されます。(三位一体の図を描いて)神様がいらっしゃり、ここに独り子神様の息子であられる真のお父様とイエス様がいらっしゃり、その次にここ聖霊様がいらっしゃいますが、神様から独り子が出て神様から聖霊が出て、矢印が中側に行きますね。

2021聖霊大学秋学期 リーダー会議◆二代王妃 文妍雅様のみ言葉◆2021年9月15日


イエス様は真お父様とともに、聖子の位置におられるということです。

聖父と聖子と聖霊の三位一体とは、『聖父(夜の神)と聖子(イエス様、真のお父様)と聖霊(助ける霊:対象)』の三位一体ということなのです。

イエス様も、真のお父様も、夜の神様とともに聖子としておられ、イエス様も、真のお父様も夜の神様から来られたということです。


ヨハネによる福音書14章15-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。


聖霊、御霊は助ける主です。聖霊は助ける能力があるということです。ですから神様の能力です。神の能力はどこから来ているのでしょうか?神様の本形状の前段階エネルギーは神様の能力を表しています。

ですから聖霊、御霊は神様の本形状から来ているということが言えるのです。

イエス様、真のお父様の本体は、この神様の能力と共に天地創造以前から存在しておられたということなのです。

神様の本形状と共におられたのですから、イエス様、お父様の神性が三位一体の中に有ったということではなくイエス様、お父様の本体が、神様の本性相ともに存在したということです。

お父様、イエス様というキリストの本体が夜の神様とともにあるのが聖父と聖子と聖霊の三位一体ということなのです。


ですから、イエス様、お父様の神性が三位一体の中に有ったということではなくイエス様、お父様の本体がともに存在したということです。

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人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。

それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。


前者(ローマカトリックとプロテスタント)は、「聖霊」(holy spirit)は聖父(father)と聖子(son)から始まっているといわれています。聖霊は聖父と聖子の両方から始まっているということです。 2021年3月23日キングスリポート 

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聖霊は、聖父からくるのではありません。聖霊は聖父と聖子の両方から始まっているのです。

つまりお父様キリストとイエス・キリストは聖父、夜の神様の本性相とともに創造以前から存在しておられたということです。

神様が聖霊をイエス様、お父様に与えられたとは、夜の神と共に存在したご自身が、この地上に肉体を持って現れたご自身に聖霊を与えたということです。

お父様、イエス様というキリストの本体が夜の神様とともにあるのが聖父と聖子と聖霊の三位一体ということなのです。

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しかし真のお父様とイエスの霊的な心(生心)は「神様」です。完全な神です。

イエスであれば、神と同じ生心を持っていらっしゃるということです。イエスの生心は神であるはずです。

お父様も同様です。お父様も現われるとき霊的な体(霊体)があると思いますが、お父様の霊的な心(生心)は神と全く同一だということです。

それで、もし我々が真のお父様とイエスと同時にお会いできることになっても、真のお父様とイエスの生心は神と完全に一つだということです。

お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日

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お父様の生心、イエス様の生心は神様と全く同一であるとはどういうことでしょうか?

それは即ち子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛」その心臓もこの聖父と聖子と聖霊の三位一体にあるということなのです。天地創造以前から、この心臓が、この宝血が、夜の神様、イエス様、真のお父様とともに有ったということなのです。

つまり愛と生命と血統の心臓が聖父と聖子と聖霊の三位一体の実体とともに有るのです。


イエス様、お父様の神性が三位一体の中に有ったのではなく本体がともに存在し、その宝血の心臓が本体の心臓として存在したということです。

三位一体は父子の関係の愛を表します。従って三位一体は縦的真の父母の縦的父子の関係の愛を表しているのです。その本体の、宝血の心臓が縦的真の父母に存在しているのです。愛と生命と血統の心臓が存在するので縦的真の父母なのです。

このように三位一体とは愛と生命と血統の心臓、子どものために死ぬことができる宝血の心臓を表し、縦的真の父母とはこの宝血の心臓を表しているのです。


・夜の神の三位一体と昼の神の三位一体


聖霊(聖神)は女性格であるとする従来の統一原理との整合性について説明します。

聖霊が女性でないとするなら、聖霊(聖神)を女性としてきた原理講論や、お父様の御言に対する齟齬が起きます。

この問題は、縦的真の父母によって横的真の父母が創造されていったことをすでに論じましたが、天地創造のためのロゴス創造の時初めて女性を考えられたことをもって解明できます。

この愛と生命と血統のためにエバが必要なので、ロゴス創造の時初めてエバ創造を先惟構想されたということです。


天地創造前の三位一体は、このロゴス創造、エバ創造にあって、聖霊がエバ創造に携わります。

つまり縦的真の父母が、横的真の父母を創造するためにエバが必要になったということです。

天地創造前にはエバが存在しないのでエバを創造する必要があるということです。

ですから天地創造後の三位一体における聖霊は、その意味においてその役割、その性質において女性神、エバであるということが出来ます。

しかし性相的男性格主体の一つの神性から来る霊なので男性格です。

ここでこの聖霊を女性神にするのならば神は、女性の霊、女性神という別の神をつくる二元論に陥ります。

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國進様「そしてこれは、異端教会家庭連合の主張の一つでもあり、それはお母様が聖霊であり、女性神feminine spiritだという内容であって、またそれは男性神masculine spiritとは異なるものでなければならないというのです。

しかし、この神学解釈には非常に重大な誤りがあります。なぜなら、女性神を信じるとすれば、一神教を捨てることになり、基本的にお一人である神様を万物の創造主として理解することをやめることになるからです。 2016年8月16日Q&A」

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男性である夜の神様の本形状からくる聖霊は天地創造後であっても男性から女性に性転換することはありません。

女性の霊の創造は女性の創造、エバの創造の時からなのです。エバを創造されたとき初めて女性神、つまり昼の神が創造されるのです。

昼の神の三位一体、つまり天地創造後の三位一体における聖霊はこの意味を表します。


完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。

宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点


神様の形状が女性だから女性の心の中に入るのではありません。既に論じたように真の愛の理想の形状的側面「愛と生命と血統」の理想愛が、エバ、女性の心の中に入っていくということです。それだからエバは形状であるという表現が可能です。


聖霊も同じことです。真の愛の理想の形状的側面「愛と生命と血統」の理想愛その性質その能力が聖霊として現れたので聖霊をエバ、女性と呼ぶことも可能です。

しかしそのように女性神、母神と呼称したとしても、性別で言うのなら創造主という神の一つの神性から来ているので男性なのです。


どうして真のお父様は、三位一体における聖霊をエバと言われたのでしょうか?

それは真の母を求めて来られたからです。


またクリスチャンである真のお父様にとって、性相的男性格主体である神様からの聖霊が別の女性神そのものでないことはあまりにも自明であり、あまりにも当然です。そのため、その役割、性質が女性的なので、それを表すためにエバと言われた、ただそれだけに過ぎないということです。


天地創造後、やっと創造した女性霊、唯一の女性霊であったエバが堕落しました。

神様の三位一体は再び完成したエバの霊の再創造を求めて復帰摂理が始まりました。この女性霊の再創造がメシアの使命です。三位一体において聖父の子、聖子であるイエス様、お父様が成さなければならない使命です。真の母の創造です。聖婚で終わりではなくこのエバを完成させる使命があります。

これが昼の神における三位一体の意味です。


聖霊はその女性霊を再創造するためにイエス様、お父様の対象、助け主(ヨハネ14:15-17)として復帰摂理の開始の時からその使命を持つようになったのです。

完成した女性霊を創造する使命を持っておられる真のお父様であるから、そのような使命を持つ聖霊を女性神と呼ばれたのは非常に納得がいくのです。


真の母を探すために聖霊をエバと表現された真のお父様。そのお父様と聖霊の使命を勝利された方が康賢實お母様なのです。神様が天地創造において求めて来られた完成した女性の霊となった一番最初の女性、完成した真の母が康賢實お母様なのです。


以上の説明で、真のお父様が聖霊をエバ、女性、オモニ神、母なる神と呼ばれたこと、原理講論に聖霊は後のエバ、霊的真の母と書かれている理由を多くの人々が理解できたと思います。

真のお父様が語られ、多くの御言に書かれているこれらの女性に関する御言は復帰摂理におけるエバの再創造、昼の神の三位一体に関してということなのです。


以上、天地創造前の夜の神の三位一体と、天地創造後の昼の神の三位一体、復帰摂理における三位一体について説明しました。

これからは「私は夜の神から来られた」と言われたお父様の御言の観点から聖霊に対する理解する必要があります。


二代王様「聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるものです。聖霊がイエスの妻という意味ではありません。」


聖霊は天地創造において昼の神、女性として現れますが、対象の立場であり、性相的男性格主体という一つの神性の本形状から来ているので性別を問うのなら男性です。


それでは八代教材教本の内容を、夜の神様論に合わせて書き換える必要があるのでしょうか?

結論は必要ありません。

なぜなら、完成した真の母を求めて夜の神様から来られた真のお父様にとって、聖霊を女性と言ってこられたことはあまりにも当然だからです。

私達は三位一体論を天地創造前の夜の神と復帰摂理の観点から、これを知って後世に伝えていけばいいのです。


それは何でしょうか?真の愛のコンセプトの本性相は父子の関係の愛でした。神様の本形状の真の愛の理想は何でしたか?


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。


本形状としての目的は実体的な神様の血統を立てることでした。その血統の果実が何でしょうか?創造前、創造後、復帰摂理における三位一体の実体は何でしょうか?

真のお父様の三代王権です。

ですから、この天地創造以前の三位一体の心臓を受け継いだ実体が三代王権ということなのです。


アガペーの愛、エロスの愛


前項、「父と子と聖霊の三位一体は天宙の中心、父子の関係を表す」では、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であり、真の愛が犠牲の愛であるアガペーの愛であるのは父と子の関係の愛を中心とするからであることを述べました。

即ちアガペーの愛とは父と子の関係が中心であり、それが真の愛の原相ということです。


一方、エロスの愛は、自分に欠けたものを得たいと求める衝動、それはロマンスの愛であり、性的な愛として現れます。

従って、絶対性の愛は世俗的エロスの愛ではなく、絶対相対関係における真のエロスの愛です。このようなエロスの愛は、父子の関係を中心とする真の愛、夜の神の位置、三位一体の位置には一切存在しません。


もう一度、真の愛、アガペーの愛について確認します。


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。(天聖経)


血統が生命より貴く、愛よりも重要であるという理由は、神様の真の愛の種とその生命は、父子の縦的アガペーの愛を中心として、この「父と息子」の縦的な血統を通して続いていくからなのです。

宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるから、父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるということです。


つまり、真の愛とは、父子の関係の愛、父子の縦的愛、父子のアガペーの愛であるということです。このような真の愛を中心軸として父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛の四大心情圏の愛が造られていくということです。


夜の神様はその四大心情圏の中心軸、この縦的な父子の愛に従順屈服したいのです。

私達はこの父子の縦的愛、父子のアガペーの愛の実体である王権を幕屋とする共同体です。


エロスの愛は夜の神の被造物


このアガペーの愛に対し、アダムとエバの絶対性、エロスの愛とはどのような愛でしょうか?それは生命を創り出すために、神様が創造された重要な要素です。

しかし、絶対性の愛は神様の父子の関係の縦的愛を、横的に展開するための横的愛であって神様の創造物であって、神様ご自身にはありません。そのような感覚も一切、神様にはありません。


夜の神様が最も先に考えた対象が父子の関係でした。

宇宙の中心、三位一体の中心である父子の関係は、神様の真の愛の種とその生命は、「父と息子」の血統を求める縦的愛です。


夜の神がこの三位一体において、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を先惟したことにより絶対精子思想が現れ、さらに、そこから「父と息子の関係」の対象として女性を考えたのです。


父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるから、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。


ロマンスの愛、エロスの愛と、アガペー犠牲の愛は明確に違います。

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愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。

現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。

ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!

流される血。だから宝血と言うではないか。

ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!

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犠牲の愛が真の愛の中心です。それは父が子女のために犠牲になる愛です。

その犠牲の愛が血として流されたのです。

そのように流れた愛の血は、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。

真の愛の中心は、感覚の愛、ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではありません。神様との父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるがゆえ流された犠牲的愛、アガペーの愛の血なのです。


夜の神様は100%男性格であるのに、その真の愛は父母の愛であるという意味は、このような縦的父子の愛から来て、このような横的な父母の愛を作り出した縦的父母の愛ということであって、一切の女性性相の要素がない完全男性性相の縦的な父子の愛なのです。


それだから夜の神様は、父と子の関係を対象として先惟したとき、その生命と血統を実体的に被造世界に創造するために男性の種を先惟した結果、女性が必要となり、そして絶対性、エロスの愛が必要になり、エロスの愛を創造されたのです。

アガペーの愛が神的愛であり、エロスの愛は人的愛とキリスト教哲学でいわれているのは、エロスの愛が神の被造物であるからです。


絶対性の愛は夜の神の被造物


性は被造物です。

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2021年6月22日(火)キングスリポート

サタンは性を武器として使用しますが、神は愛のために使用されます。神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。彼らの心情的な関係と彼らの生き方において親密さを証明できるようにされるのです。


文鮮明先生は性依存症なのか再臨主なのか◆ 2024年4月3日

絶対性は絶対者、神様が定められた性です。ですからこの世俗的な倫理的な基準ではありません。絶対性は失われた創造本然の性、すなわち神様の血統を言う概念です。ですから絶対性は神様の血統です。ですから、真のお父様は自身が絶対性の主人だとおっしゃいました。

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「神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。」

「絶対性は絶対者、神様が定められた性です。」

絶対性とは夫と妻の関係を、性の喜びをもって深く結束させるために、神様が使われる神様が定められた被造物です。


絶対性は、神様の血統のために神様が定め創造された性、横的愛であるということです。

定めるということは、創造する前段階で必要なことです。定めないで創造することは出来ません。絶対性を先有条件を設定した設定者こそが、創造主なる神様なのです。

神様が定めた絶対性、つまり絶対性は神様の被造物だということです。


そして神様が絶対性を創造したということは、神様にはもともと無かったということです。つまり、このように性を定める神様には、そのような性の喜びの感覚、感性は無いから、アダムとエバのために絶対性という先有条件を設定、定めて創造され、使用されたということです。

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天聖経

根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。

「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。

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男性と女性というペア・システムの共鳴とは何でしょうか?絶対性の共鳴です。共鳴するとは何でしょうか?絶対性の愛の喜び、真のエロスの愛によって共鳴するということです。


男性と女性というペア・システムの共鳴は「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と、神様が定めたものです。

ですからこの共鳴は神様が創造された被造物です。つまりペア・システムの共鳴という愛は真の愛を中核として造られた神様の創造物です。

このようにペア・システムの絶対性は神様の被造物ですし、絶対性の愛の喜びもこの被造物によって生じるのであって、これを定めた創造主には、この絶対性の愛は無いということです。


つまり、アダムとエバの愛の核におられる神様の喜びとして、これは多くの人が勘違いしているのですが、神様はアダムとエバの絶対性の愛の中で、喜ばれるという意味は、神様が先有条件として設定した絶対性の愛自体、エロスの愛の喜びを神様が感じて喜ばれるのではありません。


つまり絶対性という先有条件を設定した神様には横的愛、そのような絶対性的なエロス的な感性感覚は本質的に持っておられないということです。

絶対性の愛の喜びは神様がアダムとエバに与えて下さった贈り物、創造物です。


それではこの絶対性の共鳴の中における神様の喜びとは何でしょうか?

神様が設定し創造された、その絶対性の愛を横的な愛として、この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が、実体化していくことに対する喜びなのです。

血統が、生命より貴く、愛よりも重要だからです。



横的真の父母の愛、女性の愛も被造物


では「横的真の父母の愛」とはどのような愛でしょうか

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愛の観念が先か、それとも、男・女が生まれることによって愛の観念が生まれたのか、どちらか。真剣な質問だ。愛の観念が初めだ。


神は愛のためにこの世界を造ったのだから、愛を目的にしなければ、被造世界も造られません。


何故神は相対世界を造られたかというと、真の愛のためである。


真の愛とは一体どんなもの? 為に生きるというのはどんなこと? 神の願いに沿って生きるということはどんなこと? その基準は一体何か、はっきり答えなさい。真の愛の出発点は、神が相対者を造る。 

聖酒式の御言1971年8月24日

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神が相対者を創る真の愛の出発点とは、どの位相でしょうか?夜の神の原相でしょうか?原理本体、ロゴスの位置でしょうか?


すでに論じたように、父子の関係という縦的真の愛の観念が先であり、次に「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と神様が思われた結果、創造されたのがロゴスの形状なのです。


ここで夫婦の二性性相の愛、夫が妻を思い愛と妻が夫を思う愛が創造され、絶対性の愛が創造され、このロゴスで男性・女性という意味での父母の愛が創造されました。

このように夫と妻の愛、絶対性は昼の神の位相に存在する被造物であることは前項、「3-9.アガペーの愛、エロスの愛」にて論じました。


三位一体の中心は父子の関係であり、その愛の関係は縦的な愛、父子の愛であるがゆえに、女性は夜の神の原相”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であり、女性の愛も、”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であるということです。

従ってこの”父と子と聖霊の三位一体”の愛の関係は、愛と生命と血統を求めて横的な男女の愛も創造する必要があったのです。


女性先惟はロゴス創造の時


このような女性の愛という横的愛を創造する時、ここで女性を先惟する必要性が出てきます。神が男性格であるがゆえに女性を考えたということが出てきます。


しかし神様は、父子の関係の縦的真の愛であられるので、エロスの愛を創造することが出来ても、エロスの愛を感じることはありません。女性的な対象を感じるという感覚はお持ちではありません。

エロスの愛はすでに論じたように夜の神様の、アダムとエバへの贈り物なのです。


夫が妻を思う愛も、妻が夫を思う愛も、父子の愛を基準として造られた愛であり、従って絶対性も被造物ということです。


”父と子と聖霊の三位一体”とは、このような縦的父子の愛を言うのであり、一切の女性的性相も絶対性の愛も存在しないアガペーの愛であるがゆえに、女性を対象として創造する必要があり、その横的関係のために絶対性の愛を被造物として創造されました。


創世記2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」


創世記2:23においてアダムは女性に女という名をつけました。エバではなく女です。

これは、アダム、男性が第二創造主として女性を創造したということです。


ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 


そして、ヨハネ1:3において、被造物の中でイエス様によって造られなかったものは一つもなかった、即ち、女性もイエス様、男性によって造られた被造物だという聖句です。このように女性とは夜の神様の原相、”父と子と聖霊”によって創造された被造物なのです。

   *参照:3-5.アダムは第二創造主としてエバを創造した


横的真の父母の愛は縦的真の愛で創造されたロゴスの愛


ここで、愛と生命と血統のために父子の愛を核として、男女という意味で横的父母の愛が創造されました。

このように、父子の縦的愛を核として横的父母の愛が創造され、絶対性が創造されたのです。

それが神様とともに太初に存在したロゴスということです。


これが真のお父様が、神様は、前を見れば男性生殖器であり、後ろを見れば女性生殖器であると言われた神様、つまりロゴスに現れた神様ということになります。


このロゴスは当然、父子の関係の縦的愛を核として創造されました。絶対性の愛も、アダムとエバは実際に愛を交わすときにも、当然ながら、この父子の関係の縦的愛、アガペーの愛を核として一つとなることが、このロゴスの構想理想であることは言うまでもありません。


この父子の縦的愛には絶対性の愛は一切無いことは先に論じました。

夜の神様にこのようなエロス的愛の感性は無いことも論じました。

妻と夫、アダムとエバ、これらの愛、お互いを思う感性感覚は、アダムとエバに絶対性の愛の喜び、エロスの愛として、神様が与えてくださった被造物だからです。


神の愛の喜びにエロスの愛の喜びはない


ですからアダムとエバが絶対性を交わす時、神様がアダムの体を自分の身体にされた時、感じる喜びは、絶対性愛の喜びではないということが分かります。

この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が実体化していくことに対する喜びなのです。


エロスの愛は神の創造物であり、神様には本来的にエロス的感性がもともと有りませんから、アダムの体を自分の身体にされて、その絶対性の愛の中に在ってもエロス的愛は一切感じることはありません。

では絶対性における神の喜びとは何でしょうか?


アダムとエバの絶対性の交わりの時、神様が感じる喜びは、父と子と聖霊の縦的な父子の縦的アガペーの愛の感性が、生命と血統が創造され、ぞの創造理想、父子の真の愛が実現されることを感じる時生じる、父子の愛の喜びです。

それは、親が仲睦まじい子供夫婦を見る喜び、子供夫婦が子女を抱いている姿を見て喜ぶ喜びに似ています。


それだから、天地創造主が夜の神様の原相、三位一体としてアダムの体を借りて、つまり実体を持って成そうとされる、この縦的な天の父子の愛の目的は、このロゴスによって創造された被造世界に、実体的父子の関係として神様の血統王権、つまりアダムの三大王権を立てることであり、復帰摂理においてはキリストの三代王権をたて、その上で三大王権を立てるということなのです。


アダムとエバの絶対性の時、絶対性のエロスの愛でアダムとエバが喜ぶ時、神様が感じる喜びとは、神様がその絶対性に臨在され天地創造の中心目標が成される喜びということなのです。

この神の喜びに、官能的な、エロス的な感性的な愛は、神様にはまったくないのです。


ルーシェルとエバ、その命をかけて愛し合ったエロスの愛


ところが、エロスの愛で堕落したエバとルシファの子孫であるがゆえに、祝福を受けて、宗族王と王妃になっても、この官能的なエロスの愛で、この性的二性性相の愛と感性で、アダムとエバの愛の核に臨在される神様の喜びも同じものだと考えてしまいます。それが真の愛だと勘違いするのです。


なぜ勘違いするのでしょうか?エバは取って食べてはならないというルーシェルとの愛に、本気で死んでもいいと、ルーシェルに命を捧げ愛を捧げて真剣に愛し合いました。

命をも捧げる犠牲の愛であるがゆえに、これをアガペーの愛と真剣に勘違いし、過ちの愛であるとことさえも分からないで、この愛を求めるのです。


エバのその生命を越えて愛を求めあったその感性が面々と引き継がれてきたので、この過ちの愛こそが真の愛と信じ込み、この過ちの愛が真の愛にとって代ってきたということです。


過ちの愛といえども、そのような人類最初の、命を捧げた愛ですから祝福を受け神の血統になっても、どんなに御言を学んでも、愛は原理より強いがゆえに人々の愛の情念に現れてくるということなのです。

これはメシア、キリストでさえも取り除くことのできない過ちの愛の記憶、過ちの愛の感性なのです。

しかし、神にはそのようなエロスの愛、ましてやその愛に包まれるというような感覚はありません。その愛の感覚はルーシェルのエバの愛で包まれて強烈な愛の減少感を癒したと思ったエバに対する愛が起源であり本体なのです。

このルーシェルとエバの愛については、別の論、<異端の夜の神>で論じたいと思います。



<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは1◆共通概念考察


 <異端の夜の神>

女性先惟先感論が言う真の愛とは1

共通概念考察

夜の神の位相において女性を願う神学論の真の愛について考察します。

これは、天地創造前に女性的存在を置く神学、夜の神に男性と女性の二性性相を考える神学が該当します。

家庭連合は夜の神様も男性と女性の二性性相で考えます。

聖殿でも夜の神様を男性と女性の二性性相で考えるケースが多いようです。


「夜の神も男女の二性性相である」「創造の先有条件として夜の神様は女性を願われた。」「夜の神様は女性を先に考えられた。先惟された。」「夜の神様は、何か女性的なものを先に感じた。」


これらの神学は、『女性に対する関心、それは女性的な存在に対する思考であったり、感覚や感性であったり、女性的な何らに対する感心を中心軸として神様は天宙創造された。従って天宙の中心は「神様の女性に対する関心である」』とする真の愛の起源論です。

これらを総合的に称して女性先惟先感論といいます。


これらは女性的な存在に対する思惟、関心、感覚、感性が誠の愛の起源とする神学です。

しかしこれが真の愛の起源ではありません。


天宙創造の以前から神様は「父子関係を願われました」ではなく、「女性を願われました」あるいは「感じた」と、「父子関係」ではなく夜の神様の太初から女性に関心感覚があったというのですから、この女性に関する関心感覚が縦的真の愛の起源だとこれらの女性先惟先感論は主張します。


愛の反対は無関心、愛とは関心をもつことから始まります。

願うにしても先惟するにしても関心がなければ始まりません。

関心とはある事物に特に心を引かれ、注意を向けることだからです。 

ですから、そのためにはその事物が既に存在しなければなりません。

関心をもつにはその事物を感じる必要があります。先感する、つまり先に感じる必要があります。


「父と子と聖霊の三位一体」が夜の神の太初から存在するということは、父と子と聖霊が夜の神が関心を持つその時から存在したからということです。父と子の関係を先感したということです。だから真の愛の縦的愛の起源が「父子関係」であることは既に説明した通りです。


ですから、夜の神様の太初の段階で、夜の神様が関心を持った、先感した存在が女性的対象であるとするならば、その対象が既に存在したということです。


感じ思うとは、情緒的感情的に既に存在していた、ということを示します。

「父子関係」を先感すれば、この「父子関係」が既に夜の神様の無意識の中に存在し真の愛の中核になったということに対して、

女性的対象を先感した場合、そのような女性神が夜の神様の無意識に存在し、これが真の愛の縦的愛、中核になったということになります。

これが女性先惟先感論が言う真の愛のコンセプトということです。


ですから、この女性先惟先感論は、先に考えるというより女性を先に求める、あるいは引かれる感性がもともとあったという、女性先惟どころか女性先感神学と言える神学で

あるという結論になるのです。


この女性先感神学を次のように、定義できます。


『神様は女性を先惟先感したのですが、この関係がもつ特定の内容が何か? 男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生で先惟あり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、女性先惟先感の関係です。

つまり、女性先惟先感神学は夜の神様が男性格主体であるがゆえに女性的対象に心を引かれ、その刺激を求める感性感覚の因縁が、天宙の愛の中心を決定しえる最初の因縁なのです。よって夜の神様は、その女性的対象に対する関心愛を因縁に縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が交差する中心核を定め原理を創造し、時間と空間をを創造し天宙創造、天地創造をした』とする。つまり女性先惟先感神学は「真の愛の中心核は女性的対象に対する関心」と主張する神学です。

(女性先惟先感神学)


本来のお父様のみ言と比較してみます。

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神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。(69-78)

天聖教57p

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真のお父様は『父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』『それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です』と言われました。

しかしこの女性先惟先感神学は『男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』『それを決定し得る最初の因縁が、女性先惟先感の関係』とお父様の御言を書き換えるのです。

それだから、結局は『夜の神様が男性格主体であるがゆえに女性的対象に心を引かれ、その刺激を求める感性感覚の因縁が、天宙の愛の中心を決定しえる最初の因縁なのです。

という真の愛の心情の本質をこの感性感覚に規定してしまうのです。


ところが、真のお父様の『父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』と言われる御言よりも、

この『男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』という女性先惟先感論の方が、心ときめく人が多いでしょう。

なぜなら父子関係の愛は、イエス様の血の十字架の愛、血の犠牲の愛であり、

一方この女性先惟先感論はロマンスの愛、エロスの愛、感性感覚の愛であるからです。



さらに言えば、人は、エバとルーシェルとのこのロマンスの愛、エロスの愛の感性感覚を引き継いでいるからです。人類最初の愛はルーシェルとの死を覚悟した恋愛でした。エバとルーシェルも全てを犠牲にして生命をかけて真剣に愛し合ったのです。その危険な恋の蜜の味、そのような危険なロマンスの愛の感性感覚を堕落により引き継いだエバの末裔でもあるからです。


絶対性の愛、真のロマンスの愛、そして横的父母の愛は、神様がことばロゴスを創造される時、ことばロゴスに存在するようになった夜の神の被造物であることは先に説明しました。

しかし、この夜の神女性先惟先感神学は、このようなロマンスの愛、絶対性の愛を、真の愛の中心核にし、この絶対性の愛が宇宙の中心軸とする神学ということになります。


そのように「女性との関係の愛」「絶対性の愛」の根源を、ロゴスではなく、そのロゴス創造以前の、天宙を創造しよう思われた、夜の神様の意識の始まりに求める神学です。

そしてその本来夜の神様が先感した「父と子の関係の愛」は、ロゴスの中にある、つまり「父と子の関係」は神の創造物であるとする神学であるということになります。


従って女性先惟先感神学のいう真の愛とは、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様ということになります。このような「女性的対象との関係の愛」「真のロマンスの愛」「絶対性の愛」に絶対服従したい夜の神様であるということになるのです。


女性先惟先感の愛は、父子関係の愛を主管性転倒する


これは絶対性の愛の起源が、時間と空間、四位基台を作り出すロゴスにではなく、夜の神様自体に真のロマンスと絶対性の愛の起源がもともと存在したとする神学です。


つまりこの場合、真の愛の中核が、縦的な愛である父子の愛ではなく、横的な愛である絶対性の愛、男女の二性性相の愛、エロスの愛であるということになります。

真の愛の核が縦的は真の愛である父母の愛ではなく、横的な絶対性の愛、エロスの愛が中心核を決める縦的愛になってしまうのです。

そして「父子の関係」がロゴスの位相にあるとするこの神学では、父子関係の愛は、縦的な愛ではなく横的な愛へと入れ替わってしまうのです。


天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。

そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された

真のお父様1979年4月15日ベルベディア


このみ言が、女性先惟先感神学で解釈すると

「天宙の中心的法則・原理は、女性的対象との関係です。それがすべての出発点です。そのようにこの宇宙が女性的対象との関係で創造された」(女性先感神学)


と、このように、その天宙の中心的法則・原理、全ての出発点が、女性的対象との関係の愛に主管性転倒されてしまうのです。


「天宙の中心的法則・原理であり、すべての出発点である関係」とはどのような位相関係にある関係を言うのでしょうか?

原理、法則、理法(ロゴス)を創造するにあたって一番の中心的基軸になる、全ての出発点なのですから、ロゴス構想、創造以前に存在していなければなりません。

つまり夜の神様の位相にて、さらには夜の神様の無意識の世界から存在していたということなのです。


愛とは関係であることは説明しました。

「真の愛の定義は、縦的神の愛と、横的真の父母の愛が一つになったものです。神の縦的愛と真の父母の愛を一つにすることができる愛の基準を、血統を通して生命体を中心として再び実らせる(実現する)愛が真の愛」でした。


ですから「天宙の中心的法則・原理であり、すべての出発点である関係」とは縦的神の愛、つまり夜の神の愛であるということです。

ですから、この「父子の関係」は明らかに夜の神様の縦的愛、天宙創造前の夜の神様の真の愛であるのです。


お父様は「夜の神、昼の神」に御言を言われる前から、「縦的神の愛」という表現で夜の神、「横的真の父母の愛」という表現で昼の神のことを言っておられたのです。

そして夜の神から、お父様が来られと言われたのは、キリスト、真の父の愛は、この縦的真の愛からこられた夜の神様とともに創造以前から存在したということを明らかにされたのです。


それであるのに、女性先惟先感神学は、このお父様のこの御言はロゴスの位相のことであると規定してしまいます。

父子の関係という天宙の中心的法則・原理は、全ての出発点ではなく、女性的対象との関係という縦的愛によって創造された天宙の中心的法則・原理の一つであるとしています。


つまり父子の関係の愛の神性を、夜の神様から昼の神様の横的愛に、縦と横、主体と対象を入れ替えた上に低めています。

この父子の関係を、ロゴス創造の時に創造された中心的ではあるがロゴス、理法の一つであると横的な中心法則に変質させているのです。

この父子の関係は、女性的対象を先感する絶対性の愛を縦的愛を中核として、創造された横的愛にしてしまいます。

即ち、これは縦的愛と横的愛を逆転、逆主管してしまっているのです。


その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。

韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会


この、お父様の御言は「真の愛とは(父子の関係の)縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び(父子の関係の)愛の基準を実らせること」が本来の御言です。


端的にいえば縦的神の愛と、横的な真の父母の愛の統一は父子関係の愛によってなされるのであり、真の父母の愛は父子の関係を基軸とすることによって真の愛になることができるということなのです。


ところが女性先惟先感神学では、

「真の愛とは(女性的対象との関係の)縦的神の愛と、横的な(父子の関係の)真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び(女性的対象との関係の)愛の基準を実らせること」、

端的にいえば縦的神の愛と、横的な真の父母の愛の統一は女性的対象との関係の愛によってなされるのであり、真の父母の愛は「女性的対象との関係」によって真の愛になることができると、このようにお父様の御言を主管性転倒し捻じ曲げているのです。


ですので女性先惟先感神学のいう真の父母の愛とは、父子の愛ではなく、女性的対象との関係の愛を中心軸とするエロスの愛なのです。


ですから、夜の神様は、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様、エロスの愛に絶対服従したい非常に感性感覚的な神様になってしまうのです。

エロスの愛、性愛は縦的な父子関係の愛によって主管されてこそ、真の愛の中の一つ、夫婦の愛になります。

ところがこの父子関係という中心核を外してしまった愛は、横的に流れてしまい、自由恋愛的愛、感覚的愛、快楽愛、官能愛へと変質していくのです。

つまり夜の神様が、感覚愛を中心核とする官能愛の神様になってしまうのです。


女性先惟先感の愛は、父と子と聖霊の子を女性に変えてしまう


女性先惟先感の真の愛とは(女性的対象との関係の)縦的神の愛ですから、父と子と聖霊の三位一体における父子関係を、父と息子の関係から、父と娘の関係に変えてしまいます。

つまり子とはイエス様、お父様と言いながら、本質は独生女という偽りのイエス様が、その関係の位置にすり替わるのです。

女性先惟先感の愛に絶対服従したいということは、その女性的対象との愛に絶対服従したいのですから、父と子と聖霊の三位一体という時、この子とは女性になってしまうのです。

そして、この独生女は夜の神様の種を、ロゴスからの被造物、昼の神の種に位相を移し変えるのです。

女性先惟先感の真の愛は、夜の神から来る種を消し去り、独生女の絶対卵子は夜の神から来るようにしてしまうのです。


女性先惟先感の愛は、イエス様を夜の神様の位置から追放する


夜の神様は、父子関係の縦的父の愛、縦的真の父母の愛によって、横的真の父母を創造するため、まず先に女性を創造することを考えられました。そうして昼の神の位相のアダムを考え創造していかれました。

この縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が交差するその中心を決定する最初の因縁が、「父と息子の関係」です。その夜の神様とともにいた息子がイエス様であり、真のお父様でした。


ところが、女性先惟先感神学がいう、この夜の神様の位相の太初に存在するとする女性先惟先感の愛は、この夜の神様の位相から、この三位一体の位置からイエス様をお父様を追放し、そこに独生女を置いてしまう愛なのです。


 女性先惟先感の愛は、父と子と聖霊の三位一体を創造物にする


女性的対象との関係愛が神様の縦的愛であり、父子関係がロゴスの時に存在するのであれば、「父と子と聖霊の三位一体」は夜の神、昼の神のどの位相に存在することになるのでしょうか?


「父と子と聖霊の三位一体論の中心的法則・原理は父と子の関係」でした。

女性先惟先感神学は、父子の関係はロゴスとして創造された、昼の神に位置するとします。

ですから、女性先惟先感神学によれば「父と子(息子)と聖霊の三位一体」は昼の神の位相に存在する、ロゴスの位相でつくられた夜の神様の創造物となってしまいます。


それでは、女性先惟先感神学においては「父と子(息子)と聖霊の三位一体」はどのような愛を縦的愛として造られるのでしょうか?

女性先惟先感神学は「女性的対象との関係の愛」を、真の愛の縦的愛とします。

つまり、「父と子(息子)と聖霊の三位一体」の愛は、「女性的対象との関係の愛」によって横的に造られた愛であるとするのです。

女性先惟先感神学は「女性的対象との関係の愛」が「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を縦的に主管するという神学、

或いは、女性先惟先感神学は「父と子(娘)と聖霊の三位一体」が「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を縦的に主管するという神学なのです。

「父と子と聖霊の三位一体」は次の聖句から来ているのは皆様、周知の通りです。


ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。


ヘブル 1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。


これらの聖句は三位一体論において重要な聖句です。


ところが、「父子の関係」「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を昼の神の位置、ロゴスの置く女性先惟先感神学により、この2つの聖句の性質は次のようになってしまうのです。


すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼女は世にいた。そして、世は彼女によってできたのであるが、世は彼女を知らずにいた。

この終りの時には、独生女によって、わたしたちに語られたのである。神は独生女を万物の相続者と定め、また、独生女によって、もろもろの世界を造られた。


このように女性先惟先感神学においては『「父と子」「父と子と聖霊の三位一体」、即ち、御子、イエス・キリスト、真お父様は「女性的対象との関係の愛」によって創造された昼の神であり、「女性的対象」が夜の神から来たのである』という神学がその正体なのです。

つまり、夜の神から「父と子(息子)」「父と子と聖霊の三位一体」が消えてしまい、イエス・キリスト、真お父様は夜の神から来た方ではなくなってしまい、代わりに「女性的対象」が夜の神から来たということです。

散りばめられた数々のお父様の御言、聖書の御言を着飾りながらその本質、正体を隠しているのです。


このように女性先惟先感神学の三位一体論は、父子(息子)関係を昼の神とします。そして「女性的対象」を主体、「父と子(娘)と聖霊の三位一体」が主体の、夜の神様の位置であり「父と子(息子)と聖霊の三位一体」が対象であるとします。このように縦と横、主体と対象の逆転、逆主管してしまう三位一体論なのです。


父子の関係よりも男女の関係を求める愛


女性先惟先感の愛が、夜の神様の縦的愛であるならば、愛と生命と血統の目的は、女性的存在との実体的な愛の関係になってしまいます。


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

この御言が

生命より貴く、血統よりも重要なものが愛です。

に書き換えられてしまいます。


これは天宙を創造し生命を生み出し、血統をつなぐのは女性的存在との実体的愛の関係を永遠に結ぶためということになります。

つまり父子関係の愛よりも女性的存在との愛がもっとも重要だということになるのです。


ところが、人々は「愛と生命と血統」のなかでいちばん重要なのは「愛」だと思いこんでいます。お父様の血統が一番重要だという御言を知っていても、無意識的に「愛」だと思いこんでいます。

女性先惟先感の愛は、「生命より貴く、血統よりも重要なものが愛です」という意味なので、人々は女性先惟先感の愛に魅了されてしまうのです。


しかしイエス様の愛は「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です」という父の犠牲の愛でした。

父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛

このイエス様の十字架も血の犠牲の意味は、私達に対する父子関係の愛からくる父親の犠牲の愛でした。

父子関係の愛は、愛と生命と血統、アダム王権、キリスト王権を血統、血筋として残すためにありました。それが出来ないことが分かった時、イエス様は十字架の道に従順屈服に殉じ、その真の父の愛を貫かれました。


しかし、父子関係の愛よりも女性的存在との愛がもっとも重要とするこの女性先惟先感の愛は、子女よりも女性的対象との愛の関係になりますから、イエス様は十字架の道を選ぶ必要はありません。イエス様は、信仰基台を立てたマグダラのマリアのような女性たちと愛の関係を結び、子をなしながらそのキリスト血統王権、その血筋を成せなよいということになります。いわゆる血分けの救いになってしまいます。そのような血分けの王権になってしまうのです。

子女は、この男女の愛を永遠に継ぐための生命、単なる道具になってしまいます。父子関係よりも男女の愛が重要になり、この男女の愛のために子女を犠牲にしてもよい愛になってしまうのです。


女性的対象との関係愛に絶対服従する夜の神の姿


従って女性先惟先感論のいう真の愛とは、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様ということになります。このような「女性的対象との関係の愛」「絶対性の愛」に絶対服従したい夜の神様であるということです。


このような横的な絶対性愛を真の愛、その核とする夜の神様が、被造世界にあらわれる神様はどのような神様になるのでしょうか?


愛の感覚神の正体


女性的対象との関係という横的関係を先惟先感する神は、この横的愛である男女の関係の愛に服従したい神様になってしまいます。

神様は男性であるがゆえに、女性的対象の愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛を求める神ということになります。

つまりアダムとエバの絶対性の愛、絶対エロスの愛の関係のなかで、エバのエロスの愛を感じて喜ぶ神になってしまうのです。

それは、この神様は絶対性の愛に服従する、このような神様の姿とは女性の愛の刺激に囲まれて喜ぶ悍ましい神の姿になってしまうということです。

エロスの神、性愛に恍惚とする神という悍ましい神になってしまうのです。


女性からの対象的愛に抱擁され、そのような性愛に恍惚と喜ぶ、そのような神が夜の神であり、そのような神様を天の父として愛し栄光を捧げなければならないということになりますが、わたし達はそのような神様にイエス様の十字架に殉じて神様にその愛と生命と敬愛をささげることが出来るのでしょうか?


この女性的対象の愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛は、エロス的な性的愛の刺激ですから、特定の女性でなくても良いということにもなります。

一人の男性、一人の女性という結婚の絶対性は、父子関係の縦的愛という天宙的基準からきます。

その基準が、その中心がないがゆえに、愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛を天宙の中心基準とするがゆえに、男女の性的関係は一人の男性と一人の女性という根拠がなくなり絶対性の秩序が崩壊してしまうのです。

つまりこの神は女性なら誰とでも性関係を結びたい神様になってしまいます。

男と女を創造したのは、多くの男を通じて、性の悦楽を得るためのすべての女性と淫乱関係をむすぶ神ということになります。

女性から見れば、神様は男性の体を借りるだけなので、どの男性と性関係を結んでも問題ないという倫理道徳を生んでしまいます。


或いは特定の男性だけを立てて、そこにこの神が宿り、数多くの女性と性関係を結ぶということにもなるでしょう。


このように「天宙の中心が愛と生命と血統を求める父子の関係」が縦的基準でなければ、性の関係の相手は特定の男性と女性でなければならない必然性も、絶対性も無くなってしまうのです。

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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。

あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。

神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。

子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。

しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです

御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 

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本来、夫婦の絶対性愛は、イエス様が示されたこの神様の十字架の血、神の父の愛が聖霊として臨在する中での愛の関係です。

本来、神様の父子関係の縦的父の愛の喜びとは、夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、イエス様が十字架で示されたその真の愛の目的が成し遂げられる喜びであり、この真の愛の神性が実現するために夫婦の愛に臨在されるのです。

神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。


ところが、女性的対象との関係という横的関係を先惟先感する神は、この女性からの対象的愛に抱擁され、そのような性愛に恍惚と喜ぶ悍ましい神になってしまうのです。


さらには、神様がエロス的刺激を感じることがそのような感覚が宇宙の中心なら、そのエロス的刺激を与えてくれるのなら、どのような女性相対的な存在でもいいということになってしまいます。

つまり相手が男性でも女性的相対として神様を迎え入れるのなら、神様もその感覚に喜ぶ神になってしまいます。

つまりゲイセックスの中でも喜ぶ神になってしまうということです。性的愛の刺激、感覚が宇宙の中心だからです。ゲイセックスの相手のためにアガペー的に全てを犠牲にして捧げる愛になります。このような神はそのような性的犠牲の愛もアガペーの愛というようになるのです。


そして、その対象的に抱擁される感覚は動物でもいいということになります。獣姦の中でも喜ぶ神ということになってしまうのです。

そして次に来るのは小児性愛、子どもたちとの性関係です。


絶対性の愛の神聖さ、その天的高貴さは、父子の縦的愛である父子のアガペーの愛を中心として、この父子の愛に従順屈服するときに、その神々しい神聖さを持つのです。


ところが対象として父子ではなく、女性を先惟したり先感したその絶対性の愛は、神様を対象の愛で抱擁されるがゆえに、神様の神聖を地に貶める非常に下賤な、汚らわしい醜い愛になってしまいます。エロスの愛ではなくエロチック、ポルノチックな醜い愛になってしまいます。行き着く先は小児性愛児童性暴行です。


この女性先惟先感神学は、夜の神様をこれほどまでに貶めてしまうのです。

つまり女性先惟先感神学は天のお父様に対する侮辱以外の何ものでもありません。

このようにイエス様の父の犠牲の十字架の愛を貶める極めてサタン的な愛なのです。

堕落は、天使長がアダムによって、愛の基、権力の位置に立つことのできないその愛の嫉妬、その満たされない思いを、エバの対象的愛に抱擁されて、その満たされない愛の減少感を癒やすために、エバを誘惑することから始まりました。

つまり支配権力の前にエバを先惟先感したということです。


ルーシェルは単にエバを利用しただけではありません。

ルーシェルはエバに、それまで経験したことのない抱擁感を体験し愛に目覚めました。ルーシェルは男女の愛に覚醒し本気でエバを愛するようになったのです。


アダムとエバを堕落させこの地上を支配するようになった堕落天使、ルシファーの

その堕落天使の思いが、その動機と経路に基づく感性感覚が女性先惟先感神学という神学として、この地上に現れたのです。


それ故この女性先惟神学に悍ましさを感じる人もいるでしょう。


一方で、この女性先惟先感神学に秘められた、強烈な死のロマンスの愛に魅了され、恍惚となる人もいるでしょう。ほとんどの人が魅了されるのではないでしょうか。


人は、エバと天使長との生命をかけた死のロマンスの愛の結果として生まれました。ルーシェルもエバも死んでも良いと生命をかけて真剣に愛し合ったのです。原理軌道を逸脱するほどの激しい死のロマンス、熱情的愛をの愛、エバはどれほどそのロマンスの愛にときめいたことでしょうか。


エバがアダムを求めた時、アダムのことを愛していたでしょうか?

いいえ、ルーシェルとの愛の恐怖から逃れたい、本来の位置に戻りたい、それだけです。

ではエバは、アダムと夫婦となってアダムを心から愛したでしょうか?

いいえ、ルーシェルとのその激しい愛、その危険なロマンスの愛、この初愛を忘れられずルーシェルに対する恋心を持ち続けたのです。


人はこの堕落の原体験、原記憶、原初愛のエバとルーシェルとのこの危険なロマンスの愛、エロスの愛の感性感覚、その恋心を引き継いでいるがゆえに、この愛に魅了される人は多いことでしょう。

そのような観点で、原理を学べば学ぶほど、お父様の御言を学べば学ぶほど、このロンスの愛に惹き込まれる人、そのような観点で御言を解釈するようになる人もいるでしょう。


これは原理よりも強い愛の問題、初愛の問題であるため、この女性先惟先感神学のロマンスの愛から目覚めるのも非常に難しいかもしれません。


女性先惟先感の神は女神、両性具有神である

結局女性先惟先感の縦的父母の愛は、神様を父とし先有条件で存在した女性を神、女性神とする、天の父母の男女の愛です。

家庭連合で言う天の父母です。

結局、夜の神様は男性であると主張しながら、この夜の神は女性神に主管される神です。陽陰二性性相の愛に主管される神です。


このように夜の神様の位相で女性的対象を先惟先感する神とはどのような神でしょうか?

女性的対象を先惟先感することにより、女性神を創造する神とはどのような神でしょうか?

女性的対象を先惟することにより、イエス様、真のお父様を夜の神様の位置から追放し主管性転倒しようとする神とはどんな神でしょうか?


神を主管する陽陰二性性相の愛の神とはどのような神でしょうか?両性具有神です。

陽陰二性性相の愛に主管される神です。

その正体は、独生女であるという女性神をうみだした、天の父母という両性具有神だということです。

このように「神様は男性だから女性を先惟して」と言った瞬間に、家庭連合と同じ二性性相の性愛、エロスの愛の神に陥ってしまうのです。

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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。

あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。

しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです

御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 

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このように女性先惟先感神学は結局、愛を感覚に変える異邦神の女性神、サタン神学なのです。巧妙に女性神、アスタルト、アシェラ、アシュタロテを忍ばせている女性神学です。


これは宇宙の中心と中心の因縁を合わせる縦的真の愛である父子関係からイエス様、真のお父様を追放し、そこに独生女をイエス様であると偽って置き換えることにより、愛と生命と血統の中でもっと重要な血統を貶める両生具有神がこの偽りの夜の神の本当の姿です。

つまり神の種、血統を対象にし、女性を主体にして主管性を転倒させ、イエス・キリストの真お父様、神の種、神の血統、血筋を台無しに消し去ろうする偽りの夜の神なのです。


ロマンスはサタンの誘惑、エバはルーシェルとのロマンスで堕落しました。だからこの感性を相続した人々はこのロマンスの神学、神様は男性だから女性を思った感じた、このような感性感覚を大変好みます。


しかし、結局女性先惟先感神学は、愛を感覚にすることにより、高位キリストのお父様とイエス様を夜の神様の位置から低位キリストの人間的位置まで低め、独生女を夜の神の妻の位置まで神性を高める神学です。

このようにして、キリストの血統、血筋を、父息子から、母娘の血統血筋に変えてしまいます。

そのようにして、結局は、父と息子の関係からくるキリスト王権、三代王権の血統を、根絶やしにしようとする、サタンの企みが潜んでいる両生具有神、女神学なのです。

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