原理原相論(試論)
夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 Ver.2.0 0906.2026~
(無断盗作禁止)
論者:三代王権天一聖殿 教会長
-1 ◆真の愛の本体は父子関係の愛
-2 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造
-3 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓
-4 ◆絶対性、愛は感覚ではない愛は父子の愛
<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは1◆共通概念考察
原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -1 ◆真の愛の本体は父子関係の愛
統一思想は創造前のキリスト(救世主)を否定する
統一思想のイエス様に対する神か人間かのキリスト論は
「イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。原理講論第七章キリスト論第二節(三)」
であると結論づけています。
文鮮明先生も、「イエスは神御自身ではない」という数多くの御言を語っておられます。
「神様が神様に祈るのですか。では、神様が2人いるのですか。 それではイエス様が十字架にかけられて亡くなったとき、神様御自身が十字架にかかられたということになってしまうのです。(22-283, 1969.5.4)」など、「イエスは神御自身ではない」という数多くの御言を語っておられます。
「イエス様を神そのものと見るキリスト教の観念は間違っている。」
これが統一思想の結論です。
従って、統一思想は、キリスト(救世主)はアダムとエバの堕落によって復帰摂理のために必要になったのであって、本来、アダムが完成したのなら来る必要もなかっと主張する、キリスト神学でみるならば低いキリスト論です。
この「堕落によるメシア必要論」は、文鮮明先生は「アダムが失敗したので、失敗した三位一体の空席を埋めるためにイエス様が来られたのです(22-283, 1969.5.4)」と表現しておられます
ところで文鮮明師の正統教会であるサンクチュアリ教会(世界平和統一聖殿)では、この低位キリスト論を完全に否定します。文鮮明先生、統一思想が否定する正統派キリスト教の高いキリスト論を支持します。
つまりキリスト(救世主)は三位一体の神として創造前から存在しておられたと主張します。
これは文鮮明師(真のお父様)は、昇天する数年前、ご自身は「夜の神昼の神論」で創造前から来た、即ちご自身は創造前からいたと、最後の最後に今まで言えなかった、むしろ否定してこられた真実を語られたからです。
即ち、イエス・キリスト、文鮮明・キリストを聖子とする三位一体の唯一神として存在していた真実を証し昇天されました。
この教えを直接受けた文鮮明師の正統後継者・相続者・代身者である文亨進二代王の説教を次に見てみます。
● すべての創造物と創造世界を創られる前、神様と本体、神様と一つになられた方、その方はキリストです、キリスト。
文亨進天一国二代王帰還勝利祝勝会御言ソウル2022 0524
● 私たちは、高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じています。私たちはイエスの神性を信じています。つまり、私たちは高位(高い)キリスト論(a high chrustology)を信じているのです。
モルモン教やエホバの証人とは違います。キリストはただの人間であると教えます。
統一原理もそのように、かつてそれを教えていましたが、お父様は最後に昼の神と夜の神を教え、お父様ご自身は夜の神から来たことを明らかにされました。
それだから、これは「極めて高いキリスト論」です(that's a extremely high Christology)。
キリスト教と団結し、聖霊とともに素晴らしい収穫を得る能力を私たちにもたらします。 ええ、私たちはキリストの神性を信じています。三位一体説の特定の形、つまり正統派に近い形の三位一体説を信じています。
私達は極めて高いキリスト論 ◆2025年1月26日MAGA勝利英語日曜礼拝 ”教会”
● 私たちのキリスト学は完全に高いではないですか。私たちはイエス様が神様の実体だと考えているではないですか。お父様が夜の神様昼の神様の教えを通して。私たちのキリスト学は高いです。高いキリスト学です。その言葉は、主は本体。神様の本体。当人、本体。
2025年2月26日 テネシー水曜礼拝
つまり文亨進師は、文鮮明師の最晩年の御言「夜の神昼の神論」によって、サンクチュアリ教会(世界平和統一聖殿)は、カトリック教会や正教会のキリスト論、三位一体論と同じく、イエス様を創造前から存在する神御自身であるとする神学を主張されます。
文鮮明先生を再臨のイエス・キリストであるとするサンクチュアリ教会では文鮮明真の御父様は創造前から三位一体の神の子、神本体として存在していたという神学です。
そして信徒に対して文亨進師は、この「キリストを神本体とする高いキリスト論」、とくに正教会の立場で統一思想を理解することを求められます。
台湾からの説教も、「私達は、真の御父様(文鮮明師)は神本体(본체)であると信じています。」この御言を何度も語られます。
しかし、「創造目的を完成した人間は、被造世界を総合した実体相」であるから、「イエスは第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない 」という教育を信仰の初期から徹底して教え込まれ、また講義してきた信徒たちにとっては、極めて受け入れ難い神学です。
体感としては98%のサンクチュアリ教会の信徒は、この文亨進師の、文鮮明先生は創造前からおられた神本体であるというキリスト論を受け入れられないようです。
ところが、キリスト(救世主)のロゴスが神が創造を始まる前から存在したとする「夜の神論」の立場においては、原理講論の記述では説明がつかなくなります。
従って原理講論で「イエスは神御自身ではない」と否定する幾つかの聖句を取り上げ、「”創造という概念さえもなかった創造前の夜の神”の神学」の立場で、統一思想を理解しながらこれらの聖句を見ていきます。
この試論は、そのような正統派キリスト教の高キリスト論の立場で、正統派キリスト教会と対話ができるよう、キリスト教高キリスト論で使われる神学用語を交えながら、「”夜の神”の神学論」によって統一思想神学を論じる試みです。
もちろん統一思想の言葉と正統派キリスト教の言葉の定義が同じということではありません。類似性が高いという立場で考察します。
イエス様にみる真の愛
原理講論は
「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)
という聖句から性相と形状、その属性である陽陰の二性性相の神を解きました。
それでは、神様の真の愛は、何を見れば明らかに認めることができるのでしょうか?
ヨハネによる福音書14章にこうあります。
ヨハネによる福音書 14:9-11
9イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 10わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。 11わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
「わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。」
この聖句は「イエス様を見たものは、父なる神を見たのである」と言っています。
続く聖句は「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」ということですから、イエス様は神ご自身でもあるということを言っています。
ですから、イエス様の真の愛は神様の真の愛と一体であるということです。
つまりイエス様の愛から神様の真の愛を知ることができるということなのです。
イエス様の生涯はまさにこの真の愛に絶対服従する生涯路程でした。
イエス様が従われた真の愛とはどのような愛でしょうか?
それは神様とイエス様との関係を見れば分かります。
別の存在である神様とイエス様であるのに、イエス様は神ご自身である理由は何でしょうか?
それは、イエス様は神の子であるからということです。
つまり神様とイエス様は父子の関係であるということであり、そのような愛の関係にあるということです。
ここから明らかに、真の愛とは、神様との父子の関係の愛であることが分かります。
三位一体は創造前の愛、父子の関係の愛を表す
私達は天地創造以前、時間と空間創造以前の神を夜の神といい、天地創造が始まった時からの神を昼の神といいます。
ヨハネによる福音書1:1~18の聖句を見てみると、イエス様は創造以前の神、即ち、夜の神様から来られたことが分かります。
これは創造前に「神とイエス様の関係」、即ち父子の関係が存在したことを意味しますから、真の愛とは、夜の神様との父子の関係の愛であるということなのです。
つまりヨハネによる福音書1:1~18の聖句は、イエス様の愛を見れば、夜の神様の真の愛を見出すことが出来るということを言っています。
それでは、ヨハネによる福音書1:1~18を見てみましょう。
ヨハネによる福音書1章
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
12しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
14そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
18神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
「10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」
この1章10節は、イエス様はこの世に来られましたが、この世はイエス様によって創造されたということですから、イエス様は天地創造の神であるということです。
それですからヨハネの福音書1章1節から3節
「1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 」
これは、全てのものはイエス様の言によって創造されたということを言っているのです。
愛とは関係であり関心ですから、天地創造以前の、この夜の神様とイエス様の、父子の関係の愛が、縦的真の父母の、夜の神様の位相の真の愛の起源なのです。
ですから、根源的天地創造以前の真の愛とは、夜の神様との父子の関係の愛であるということなのです。
愛とは関係であり関心ですから、夜の神様が天宙創造において一番先に考えられたこと(最先惟対象)が天宙の中心です。それが父子の関係の愛であったということです。
つまりその父子関係の愛が、父と子と聖霊の三位一体の一なる神として創造前から存在していました。
一なる三位一体の父子の関係の愛が存在し、それが唯一神であるということです。
キリスト教の父と子と聖霊の三位一体は一なる神を表します。父が計画し、子が実行し、聖霊が私たちの中に実現させます。或いは父が太陽であり、子はその光であり、聖霊はその温かさであるので一つの神だと言います。
即ちイエス・キリストを子とする三位一体は本質的に一体である唯一の神を表します。
統一思想による三位一体の原相
ここまで、神とイエス様の関係を表す三位一体は創造前の愛、父子の関係の愛を表すことを説明しました。
ここではこの「創造前の夜の神”の神学」の立場で統一思想を理解しながら、創造前の神の原相を説明します。
ヨハネの福音書1章1節から3節
「1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 」
この聖句は、全てのものはイエス様の言によって創造されたということを説明しています。
この聖句の「言」を統一思想ではロゴスとして扱っています。
このロゴスが、神の本性相と本形状にどのような様相で存在したか、その原相を、創造前の三位一体によって説明します。
● 生命あるロゴス
ヨハネの福音書1章4節「 4この言に命があった。」
天地創造の前に言(ロゴス)があり、その言には既に命があります。
これについて統一思想では、「生命あるロゴス(生きた新生体、生きた構想)」として説明しています。
神が宇宙を創造した言であるロゴスは生命が入っている生きた新生体であり、生きた構想なのである。ヨハネによる福音書一章にはその事実が次のように書かれている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ一・一―四)。
『統一思想』第1章 - 原相論 (二)(1) 四位基台の構成要素
参考:中村仁史著「統一思想」から見た神による創造の二段階過程Ⅱ
その言は誰によって発せられたのでしょうか?
ヨハネによる福音書 14:9-11「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」のですから、その言は神様によって発せられ、イエス様の口から発せられたのです。
そして、その言によってイエス様は天地を創造され、時間と空間も光もイエス様が創造されたのです。
このようにイエス様はその言(ロゴス)以前、時間と空間も光もない創造以前の闇、夜の神様とともに永遠におられたのですから、イエス様は夜の神様であるとも言えるのです。
聖霊は統一思想でみれば本形状に由来するイエスの対象であり神の能力(役事)の霊です。
このように「神とイエス様と御業(役事)をなす能力の聖霊」が一つの神であることを「父と子と聖霊の三位一体」といいます。
それゆえ「父と子と聖霊の三位一体」は、父として一なる神の原相を表します。
そのように「父と子と聖霊の三位一体」は、神は二性性相中和的主体統一体の本性相的男性格主体の真の愛そのものであることを表します。
そして神様とイエス様は父子の関係であるのですから、イエス様は創造以前から、夜の神様の子として夜の神様とともにおられたということなのです。
つまりイエス様は、夜の神の父子の関係として創造以前に既に存在しておられたということがわかります。
この三位一体の父子関係の愛は神そのものであり、それ故に父子関係を表す「父と子と聖霊の三位一体」は、本質において完全に一つである唯一の神そのものを表しています。
これがキリスト教がいう三位一体は一つの神であるという意味です。
● 性相内三位一体と生命ある性相内ロゴス
この三位一体は創造前、神の本性相の中にありました。つまり本性相内の内的性相と内的形状の中にあるということです。
・本性相を中心として見るとき、その内部にも性相(内的性相)と形状(内的形状)があり、外部にも性相(本性相)と形状(本形状)があるということになる。性相と形状が共通要素を中心として相対的関係を結べば必ず授受作用が行われる。
・神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。
【本性相(内的性相 ⇔ 内的形状→性相内ロゴス ⇔ 本形状→構想体ロゴス】
以上に説明を加える統一思想の説明では本性相は
・ 内的性相(機能的部分:知・情・意)
・ 内的形状(対象的部分:観念・概念・原則・数理)
の授受作用を心情を中心とした愛を基礎とした真善美の価値観が成立し本形状とともに、被造物の有形的部分の根本原因になっていると説明しています。
例えば内的性相である知情意の機能が心情を中心として作用するとき、愛を基礎とした真美善の価値観が成立するようになる。知情意に対応する価値が真美善である。そして内的形状は知情意の対象的部分であると同時に、本形状とともに、被造物の有形的部分の根本原因になっている
そのような夜の神様の位相から、本性相内の「生命ある救済の性相内ロゴス・創造理想の種(文亨進師の言葉でいえば「夜の神の精子」)」として来られた方がイエス様なのです。
この本性相内の性相内ロゴス(前構想ロゴス)が、
「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス:具体的な天地創造のロゴス)を創っていきます。
即ちイエス様の口から発せられたロゴスです。
この「本形状とのロゴス(具体的な天地創造のロゴス)」が創造開始直前のロゴスです。
この「本形状とのロゴス」によって時空間が創造され、具体的に天地創造が始まっていきます。この始まりは夜の神が昼の神となる瞬間とも言えます。
即ち本性相内の内的性相と内的形状による性相内ロゴスがイエス様であり文鮮明先生です。
従って、この性相内ロゴスは「生命あるロゴスとしてのアダム」です。
神の本性相内のロゴス、神の生心による、神の生心とともにあるロゴスですから神の生心でもあります。性相内三位一体はこの原相を表します。
この本性相の性相内三位一体はキリスト教の内在的三位一体(The Immanent Trinity )に通じる神の本性相の三位一体です。
● 性相内ロゴスによる本形状(前段階エネルギー)の形成
統一思想では愛の力を次のように説明しています。
統一思想<本性相の内部構造>
本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は一九七四年五月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」と語っておられる。)
これは、端的に言えば「愛の根源である心情が土台であるので、愛の力が作用する」、即ち本性相の心情には愛の力があるということです。
また原相の二段階構造からも分かるように、本形状は本性相の内的性相と内的形状に授受作用によって「性相内ロゴス」は内的形状に由来する心情の愛の力を持って、本形状の前段階エネルギーを形成していきました。創造ではなく形成です。
例えば内的性相である知情意の機能が心情を中心として作用するとき、愛を基礎とした真美善の価値観が成立するようになる。知情意に対応する価値が真美善である。そして内的形状は知情意の対象的部分であると同時に、本形状とともに、被造物の有形的部分の根本原因になっている
この統一思想の、「内的形状は知情意の対象的部分であると同時に、本形状とともに、被造物の有形的部分の根本原因になっている 」という説明は、「愛の根源である心情が授受作用の土台」となって、内的性相と内的形状の授受作用によって本形状(前段階エネルギー)が形成されたことが分かります。
これは本形状の中心は本性相内の内的形状ということになります。
統一思想では本性相の内的性相と内的形状の授受作用を内的発展的授受作用といい、本性相と本形状の授受作用と外的発展的授受作用といいます。
つまり原理講論の記述、「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体(統一体)」とは、内的発展的授受作用(性相内授受作用)と外的発展的授受作用との授受作用によって神は天地創造をしていかれる天地創造太初の神(太初の昼の神)の様相を表しています。
また「愛の根源である心情が授受作用の土台」であるので、本形状(前段階エネルギー)にもその土台となった心情があることになります。
つまり本形状の前段階エネルギーは人格的エネルギーということです。
「本形状の中心は本性相内の内的形状であり、本形状には内的性相の心情がある」、
これが原理講論の記述、「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体である(統一体)」という意味です。
このように神の中和的主体統一体は極めて人格的です。
文鮮明先生はこのことを次のように表現しておられます。
「愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開」
この形成に関する詳細は「夜の神様がご自身を性相と形状に構成されたプロセス」の項で述べます。
「性相と形状に構成されたプロセス」、つまり「本形状とのロゴス」によって時空間が創造される、具体的天地創造開始の直前に性相内ロゴスによる展開があったということです。
これは時空間がまだなかった夜の神において、天地創造の知情意によって本形状(前段階エネルギー)が神御自身の中で形成され、二性性相の中和的主体(統一体)となられたということです。
従って本形状(前段階エネルギー)は極めて人格的です。
このように神の中和的主体統一体は極めて人格的なので、中和的主体からの万有原力も人格的エネルギーであり、よって全ての授受作用も人格的です。
統一思想では、本形状(前エネルギー:前段階エネルギー)を用いて万物を造られたと説明しています。
神はまず一定の目的を立てて、万物の創造を構想したあと、材料に相当する形状(前エネルギー)を用いて、構想したとおりに万物を造られた。ここで神が構想する段階が内的発展的授受作用の段階であり、実際に万物を造る段階が外的発展的授受作用の段階である。
この内容を先の文鮮明師の「神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました」という御言で理解するならば、
「本性相の内的性相と内的形状の内的発展的授受作用」によって本形状(前エネルギー)を形成し、この形成した本形状と本性相(内的発展的授受作用)が外的発展的授受作用をすることによって神は天地創造をしていかれたということになります。
キリスト教正教会では神のエネルギーは神の本質、エッセンス(ウーシア ousia)から溢れ出る神のエネルゲイア(energeia )による働き(御業、役事)として理解します。
従って本性相は正教会で言う神の本質、エッセンス(ウーシア ousia)に該当します。
形成された本形状(前段階エネルギー)はキリスト教正教会でいえばエネルゲイア(energeia )になります。
統一思想で見るならば、神の本質、エッセンス(ウーシア ousia)には内的ウーシア(internal ousia)と内的エネルゲイア(internal energeia )が外的発展的授受作用しエネルゲイア(energeia )が形成されたということになります。
これがエネルゲイアが人格的である理由です。
以上より、夜の神(創造前の神)とは本性相内の内的性相と内的形状の相互内在授受作用としての統一体だけで存在しておられたことになります。
よって夜の神は本性相的中和統一主体ということができます。
本性相内における内的性相と内的形状の内的発展的授受作用により、本形状(前段階エネルギー)が神御自身の中で形成され、二性性相の中和的主体(統一体)となられたということです。
従って原理講論の記述、「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体」とは、創造開始するために時空間が創造され光が生じたその瞬間の太初の神様のことです。
即ち昼の神の位相の創造主のことです。
夜の神(創造前)と昼の神(創造後)の本性相は、創造主の同じ本性相であるので当然ながら創造主における夜の神と昼の神は同じ神です。同じ一つの天宙天地創造主です。
この論考で、創造主を夜の神という場合、本性相的中和統一主体のことを指します。
● 性相内三位一体と経綸的三位一体
キリスト教のいう経綸は「神の支配と導き.摂理.神の御業(役事).救いの御業(役事)」を意味します。
このような「支配、導き、摂理、救い」をなす三位一体を経綸的三位一体といいます。
また経綸的三位一体は、性相内三位一体と本形状とによる三位一体です。
経綸的三位一体は天地創造の構想体ロゴスによって天地創造を開始し具体的に創造していく三位一体です。
従って性相内三位一体は夜の神(創造前の神)の三位一体であり、
経綸的三位一体は昼の神(創造後の神)の三位一体です。
性相内三位一体は内的主体的であり経綸的三位一体は外的対象的です。
経綸的三位一体(昼の神:創造後)の中心は性相内三位一体(夜の神:創造前)です。
従って天宙天地創造主は夜の神であろうと昼の神であろうと、同じ一つの天宙天地創造主です。
この経綸的三位一体は具体的天地創造のために天使を創造し天地創造を始めました。
以上より、ヨハネの福音書1章1節から3節の記述、
「1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は初めに神と共にあった。 3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 4この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 」
とは、経綸的三位一体のことであり、原理講論の記述「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体」とは経綸的二性性相中和統一体であるということができます。
従って、創造主の夜の神とは性相内的神、創造主の昼の神とは経綸的神であるといえます。
この論考で、創造主を夜の神という場合、性相内三位一体のことを指します。
● 性相内聖霊と経綸的聖霊
聖霊は統一思想でみれば本形状に由来する、イエスの対象であり神の能力(役事)の霊です。
性相内三位一体の聖霊を性相内聖霊、
経綸的三位一体の聖霊を経綸的聖霊、或いは「本形状からの聖霊」と呼びます。
「性相内聖霊」は「性相内三位一体」「性相内ロゴス」に「永遠の愛と交わりの内的な生命」と力、能力を与える本性相内の内的形状に由来する真の愛の力、イエスの対象です。
先ほど見たように統一思想では愛の力を「愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、原力にも万有原力にも、愛の力が含まれている」と説明しています。
これは、即ち心情には愛の力があるということです。本性相の心情には愛の力があるということです。
従ってこの「性相内聖霊」は人格的聖霊です。
経綸的聖霊(本形状からの聖霊)は具体的に天地創造していく創造開始そして創造後(昼の神)の聖霊です。
この「経綸的聖霊」は、イエスの対象です。
経綸的聖霊(本形状からの聖霊)は性相内三位一体の性相内聖霊による聖霊です。つまり経綸的聖霊の中心が「性相内聖霊」です。
従ってこの「経綸的聖霊」は人格的聖霊です。
「生命あるロゴスとしてのアダム」の詳細は、『夜の神様の本性相「救済のロゴス」キリスト』の章で述べます。
父と子と聖霊の三位一体は愛の関係性、キリストはその本体
前章で統一思想にみる三位一体の原相について説明しましたが、ここでは、その内的性相と内的形状における神とイエス様の関係を詳細に見ていきます。
● アガペーの愛は、天地創造前から存在していた
愛とは関係性のことです。愛とは関係性という存在です。そのような愛の関係性という一なる神が創造前の永遠から存在していました。
父と子と聖霊の三位一体は父子の関係性を表します。そのような愛の関係性という唯一神が創造前から存在していました。
愛の関係性ゆえに三位一体は一なる神を表します。
ヨハネによる福音書 14:9-11「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」というこの三位一体は、天地創造が始まった後に存在するのではありません。
天地創造以前から、夜の神様の中にイエス様がおられ、夜の神様はイエス様の中におられるということなのです。イエス様の神性が三位一体の中に有ったのではなく本体がともに存在したということです。
ヨハネによる福音書17章24節には、
17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
17:24 Father, I will that they also, whom thou hast given me, be with me where I am; that they may behold my glory, which thou hast given me: for thou lovedst me before the foundation of the world.
というイエスの祈りの言葉があります。
天地創造の前から神様はイエス様を愛し、イエス様に栄光を与えておられたのです。
この神様の愛がアガペーの愛であり、アガペーの愛は、天地創造前から存在していたのです。
即ち、このヨハネによる福音書1:1~18は、そしてこのヨハネによる福音書17:24は父と子と聖霊の三位一体は天地創造以前の夜の神様の位相から存在していることを言っています。
そして、ヨハネによる福音書 14:9-11は、その夜の神様の三位一体という関係の中心が父子の関係という愛であるということを言っているのです。
● 神の息子として創造以前から存在しておらえた文鮮明師
以上、イエス・キリストを中心に創造主の原相と三位一体の原相を説明しました。
ここからは文鮮明師(真のお父様)を再臨のイエス・キリストとする立場の表現で、論を進めます。
この三位一体論を、文亨進二代王は次のように現代神学を説明しています。
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しかし、キリスト教(Christianity)では、キリスト論(Christology)の内容があり、イエスを神として扱っています。非常にレベルの高いキリスト論です。
人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。
それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。
三位一体のシステムそのものから「愛」を相互間応答(reciprocate)しているわけです。
それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。
ですから、原理講論の内容だけを見ると、我々はメシアに対する低いキリスト論を持っているのです。メシアを神として見なかったのです。女性から生まれた人としては見ましたが、神としては見なかったのです。
お父様が夜の神、昼の神の神学の内容を明らかにされた時、お父様はそのキリスト論を昇格させられたのです。
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この文亨進師の結論は「現代神学の結論がいっているように再臨のキリストである真のお父様(文鮮明師)は創造以前から神と一緒におられた」ということです。
つまり、文亨進二代王のこの結論は文鮮明師の夜の神論は現代神学のこの主たる結論をもって証明できるということです。
どのような夜の神様としておられたのか?
それは神の息子として創造以前から存在しておらえたということです。
● 相互内在授受作用
それでは、三位一体における「神は愛である」という愛の相互間応答(reciprocate)とは何でしょうか?
当然ながら、父なる夜の神様と子なるキリスト、イエス様とお父様の父子の関係という、愛の相互間応答(reciprocate)です。
これをキリスト教ではペリコレーシス(perichoresis)と言います。
これは相互内在と訳されます。これはヨハネの福音書の次の聖句からくる概念です。
<ヨハネによる福音書14節>
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
統一思想で見るならば授受作用です。しかし、単なる授受作用ではなく相互に内在する授受作用です。
これを相互内在授受作用といいます。
三位一体とは父と子と聖霊が相互内在するから三つの神ではなく一つの神である、
父と子と聖霊が相互内在することにより神がこの三位一体の一なる神、唯一神であるということです。
このキリスト教の愛の相互間応答を成しペリコレーシスするので、即ち相互に内在するので、統一思想の授受作用の観点から相互内在授受作用として理解します。
つまり原理講論の、
「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体である」
という記述の中和的主体(統一体)の中和という本質の意味は、
本性相と本形状が相互に内在する相互内授受作用によって「本性相とは本形状であり、本形状とは本性相である」という完全一体統一された一なる主体であることを示しています。
つまりこの本性相と本形状の相互内在授受作用は、創造後の被造世界における全ての二性性相の授受作用の根源となる授受作用です。
ヨハネによる福音書1:1~18、そしてヨハネによる福音書 14:9-11は、このようにイエス様が、成約においては文鮮明真のお父様も共に、天宙創造以前から、天宙創造以前の神と共に相互内在授受作用により存在しておられたということを表し、その相互内在授受作用の関係は父と子の関係であり、その関係が愛であるということです。
三位一体における「神は愛である」とは、神はそのような父子の関係の愛であるということです。「神は父子関係の愛である」ということなのです。
「父と子と聖霊」が、この「父子の関係の愛」による相互内在授受作用によって相互内在する三位一体は全ての創造後の授受作用の根源であり、創造の主体、創造主なのです。
● 神の本体としておられた文鮮明師
「ヨハネ1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」
この聖書の言葉を、文亨進二代王は次のように言っておられます。
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夜の神様から顕現されたキリスト。時間と空間の(創造)以前の神様。夜の神様、昼の神様。それは二つの神様ではなく、創造前、創造後。摂理の立場ではすべてが昼ではない、神様の創造以後に神様から来て、キリストは夜の神様。すべての創造物と創造世界を創られる前、神様と本体、神様と一つになられた方、その方はキリストです、キリスト。
それは唯一キリスト、神様の実体、本体を持っていらっしゃる神様の精子の種を持っていらっしゃる方が新しい夫婦、家族、宗族、民族、国家、世界、天宙を建設することができるのです。
文亨進天一国二代王帰還勝利祝勝会御言ソウル2022 0524
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文鮮明師が、私は夜の神様から来たという言われたのは、このヨハネ1:10 にあるように、すべての創造物と創造世界は夜の神が造られ、その子であるイエス様、そして文鮮明真のお父様が創造し造られたという意味なのです。
ピリポの手紙2章
6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
5 Let this mind be in you, which was also in Christ Jesus:
6 Who, being in the form of God, thought it not robbery to be equal with God:
6 그는 근본 하나님의 본체시나 하나님과 동등됨을 취할 것으로 여기지 아니하시고、
文鮮明師は原理本体論の本体( 본체)を韓国語の聖句から用いられました。
この本体の英語訳 original substanceを文亨進二代王は叱責されました。(2022年7月31日 成約時代のキリストの顕現)
ですから本体とは「神様のかたち」、「the form of God 」つまり「original form」なのです。
これはつまり本性相内の三位一体に、創造以前から子として存在しておられた、神様の本体という意味です。
性相と形状の、形状ではありません。神様そのものであるということです。創造以前から存在する神の子ということなのです。
これは神様とキリスト(イエス様、文鮮明師)と聖霊が相互内在授受作用して一つの神になっているのでキリスト(イエス様、文鮮明師)は神本体( 본체)であるいうことです。
すなわち、キリスト(イエス様、文鮮明師)は神の愛なのです。この父子の関係とその神の愛を表すのが三位一体なのです。
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お父様は、原理講論の中でも、この言葉に重点を置いて、本体(본체)に血統と種、神の種、血統とキリストの種という意味を付与する名前を付けられたのです。全世界をキリストの家族にするということが、その起源です。この聖句は、神の形(본체)であることを表しています。
成約時代のキリストの顕現 2022年7月31日
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文鮮明師は、本体(본체)に血統と種、神の種、血統とキリストの種という意味を付与する名前を付けられました。神の種を継ぎ、血統を成す存在は誰ですか?息子です。
この本体(본체)とは父子の関係の愛を表すのです。
この本体は夜の神の子でした。神の子として神の本体でした。
そのような天宙天地創造以前から存在したイエス・キリスト、文鮮明師・キリストを表し、その父子の関係の愛、神は愛であるということを表すのが三位一体なのです。
● 父子の関係は生命よりも愛よりも血統を求める
次に、父子の関係を語られた、文鮮明師の御言を見てみます。
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では天宙の中心とはなんでしょうか。天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
何年もの苦悶の祈りの中で、ついに「宇宙の中心的出発点は父子の関係である」と答えが与えられました。それは鍵であり基台なのです。私たちはこの父子関係の原理を実行することによって、平和な一つの統一された世界を築くことができるのです。そのようにこの宇宙が父子の関係で創造されたので、あなた方はお互いに兄弟姉妹の関係になるのです。
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。
天聖経
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ヨハネによる福音書 14:9-11及び、ヨハネによる福音書1:1~18、ヨハネによる福音書17:24から、父と子と聖霊の三位一体とは夜の神様における、父子の関係を現すことを先に証明しました。
「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。神様の血統に真の愛の種、真の生命があるのです」というこの御言は、この父子の関係の愛よりも重要なのは、血統であるということなのです。
ですから「宇宙の中心的出発点は父子の関係である」という文鮮明師の御言は、父子の関係の愛を愛の種、真の生命として、この神様の真の愛よりも重要な血統を求めて、その血統王権を求めて天地創造をされたということなのです。
この事実は、次の御言でより一層明確になります。
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神様御自身がなぜ宇宙をつくったのかというとき、愛を中心として父子の関係を結ぶためです。ですから、宇宙の根本は父子の関係だという結論が出てきます。
(118-290、1982.6.20)
父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。真の父母の真の愛が前提とならなければ、私たちの真の生命が存在することはできません。すなわち、神様の前に人間は、絶対的な真の愛の相対として創造されたということです。そこは、正に神様が父となり、人間は息子、娘となる軸が立てられる所なのです。
平和神経、平和メッセージ 1.14 ~15、2005.9.12
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「愛を中心として父子の関係を結ぶためです。」
「父子の関係がもっている特性とは何でしょうか。真の愛と真の生命と真の血統の関係です。」
この真の愛の、父子の関係を永遠に結ぶために血統、血筋が必要であり、この血統、血筋のために神ご自身は天宙を創造されたということなのです。
そして、今や、真のカインとアベルが勝利し、文鮮明師、二代王、三代王の血筋による三代王権の血統によって、その天地創造の目的が成されたということなのです。
● 天宙の中心は父と息子の関係
その天地創造、天宙の中心は何かというと「父と息子」の関係であるという御言なのです。
それは次の御言によって、文鮮明真のお父様は説明しておられます。
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神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。(69-78)
天聖教57p
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「父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。」
この御言は「愛と生命と理想が交差する中心」が父と息子の関係であると言っておられます。「愛と生命と理想が交差する中心」を決定し得る最初の因縁が、父と息子の関係だということなのです。
宇宙の中心は、「父と母」でもなく、「母と子」でもなく、「父と娘」でもなく、「父と息子」の関係です。
母でもなく娘でもなく、息子との関係、つまり父なる神は息子との関係、つまり男性との関係を先に考えた、先惟したということなのです。
文鮮明師のこの御言は、キリスト教の三位一体論に基づいての御言であることが分かります。
三位一体論では父子の関係は愛と生命と理想が交差する中心点だからです。
○ 父子の愛の交差:
三位一体の本質は父子の関係は愛の交わり(Communio Love)です。
愛は対象があって初めて成立するため、神の中に「愛する者(父)」と「愛される者(子)」が存在することが、神がアガペーの愛の本源である証しとなります。
○ 生命の交差:
父から子へと永遠に注がれる生命の奔流が、万物の創造と救済のエネルギーとなります。
(生命ある性相内ロゴス)
この生命の循環「相互内在授受作用(ペリコレーシス perichoresis)」こそが、すべての生けるもののひな型となります。
そしてこの「永遠の愛と交わりの内的な生命」を与えるのが聖霊です。
○ 理想の交差:
理想は神なる父の完全な自己表現であり、神の知恵と理想が具体化された姿です。この父子関係の愛の絆と調和こそが、人間や宇宙が目指すべき究極の秩序(理想)のモデルとなります。
このように父と子の垂直的な絆に聖霊の水平的な広がりが加わることで、三位一体は「生きた愛のダイナミズム」となるのです。
それは先に見たヨハネによる福音書 14:9-11「神様の中にイエス様がおられ、神様はイエス様の中におられる」の聖句に表されています。
そして、先に見たように、このヨハネによる福音書1:1~18は、父と子と聖霊の三位一体は天地創造以前の夜の神様の位相から存在していることを表しているのですから、
夜の神様が天宙創造の時、最も最初に考えた対象(最先惟対象)が、「天宙の中心的法則・原理」の中心とは父子の関係であり、それは息子との関係であるということです。
○ この宇宙が父子の関係で創造された:
それだから「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」というこのお父様の御言は、
夜の神様の位相からの縦的「父子の関係」による「天宙の中心的法則・原理」によって宇宙が創造されたということなのです。
つまり、このお父様の御言、「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」とは、ヨハネによる福音書 14:9-11及び、ヨハネによる福音書1:1~18、ヨハネによる福音書17:24と同じ夜の神様を聖父とする父と子と聖霊の三位一体のことを言っておられるのです。
即ち、お父様のこの御言は夜の神様を聖父とする父と子と聖霊の三位一体の父子の関係によって宇宙が創造されたということなのです。
○ イエス様、文鮮明先生が神本体という意味:
ここで言う父とは誰でしょうか?夜の神様です。創造前の神様です。それでは子とは誰であるかといえば、イエス様であり、文鮮明師です。
これが再臨のイエス様である文鮮明師は、ご自身が夜の神様から来られた、即ち創造前から存在しておられ、創造前から来たという理由です。
文鮮明師は夜の神様からだと言われたのは、ヨハネによる福音書 14:9-11及び、ヨハネによる福音書1:1~18、ヨハネによる福音書17:24に表される、父と子と聖霊の三位一体とは、夜の神様の位相における父子の関係であり、この子の位置に、イエス様と文鮮明師がおられるということなのです。
イエス様、文鮮明真のお父様の神性が三位一体の中に有ったのではなく本体がともに存在したということです。
これは相互内在授受作用していたということです。
三位一体とは相互内在するから三つの神ではなく一つの神である、父と子と聖霊が相互内在することにより神がこの三位一体の一なる神、唯一神であるということであり、イエス様、文鮮明師は神本体であるということです。
つまり夜の神様が最も最初に考えた対象(最先惟対象)はイエス様であり、文鮮明師であったということです。
お父様が「私は夜の神から来た」と言われたその意味は、宇宙は父子の関係によって創造されたのであり、その夜の神の子である私、文鮮明師によって、宇宙は創造されたということを言っておられのです。
ヨハネによる福音書1:10「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」
文鮮明師の、「あなたたちは昼の神からだが、私は夜の神からだ」とは、このヨハネによる福音書1:10の聖句と同じように、「世は私、文鮮明師によって創造された。あなたたちも文鮮明師によって創造された。しかしあなたがたはそれを知らない」ということなのです。
このように「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」というこのお父様の御言は、
夜の神様の位相からの縦的「夜の神様とその子たるイエス様、文鮮明師の、父子の関係」による父と子と聖霊の三位一体の、「天宙の中心的法則・原理」によって宇宙が創造されたということなのです。
愛の交差する中心を決める最初の因縁、父子関係
● 真の愛に永遠から存在する真の愛の因縁「父子関係」
「天宙の中心的法則・原理は、父と息子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」と言われるお父様の御言から、夜の神様がもっとも先に関心をもった対象は「天宙の中心的法則・原理」の中心である父子の関係であることは説明しました。
夜の神様の永遠における関心が父子の関係であったということは、この天宙創造の中心である父子の関係を、天地創造の原理の段階で創造されたのではなく、夜の神様の無意識のなかに既に存在していた真の愛の基準が「父子関係」であったということです。
つまり夜の神様自体内において夜の神様が最も大切にしたい、ご自身の心の中心的本質が「父子関係」であったということです。
それは先に取り上げた次の御言によって、お父様は説明しておられます。
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神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。(69-78)
天聖教57p
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この御言は「父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。」ということです。
この御言は、愛と生命と理想が交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係であると言っています。
これは父子の関係が、愛と生命と理想の中心を決める前に存在しているということを言ってるのです。その父と息子の関係の因縁が中心を決めるのですから、父と息子の関係とは夜の神様の位相にすでに存在したということになるのです。
思わなければ関心をもつことができません。だから愛の反対は無関心ということになるのです。
父と子と聖霊の三位一体が夜の神の永遠から存在するのは、父と子と聖霊が、夜の神が関心を持つその時から存在したからということです。
それは夜の神様の内部に既に存在していたということです。夜の神様が最も大切にしたい夜の神様の心の中心心情ということなのです。
ですから父子の関係が夜の神の永遠からの縦的中心軸、縦的中心核であるということになるのです。
この夜の神様の「父と息子の関係の縦的愛」が真の愛の起源であり、中心ということです。
このように、神様の縦的愛とは、この「父子関係の縦的愛」なのです。
ヨハネによる福音書17章24節の、
17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
というイエスの祈りの言葉は、この父子の関係の愛は、天地創造前から存在した縦的愛であり、これが天地創造の前から神様はイエス様を愛し、イエス様に栄光を与えておられたアガペーの愛なのです。
● 愛と生命の理想の交差の中心点定着
このお父様の御言、「父子関係の因縁が決定する、愛と生命と理想の交差の中心」がどのようにして定着するのか、お父様の次の御言を見てみます。
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神様は人間にとって、真の愛をもった縦的な父母です。その縦的な垂直関係というものは、一つしかありません。絶対的です。二つとあり得ません。その縦的父母だけをそのまま置いたのでは倒れてしまいます。ですから横的父母を探し立てて連結しなければなりません。それを詳しく説明するならば、創造主は真の愛の縦的父母であり、創造されたアダムとエバは、子の立場でありながら神様の体である横的な父母の立場に立ちます。それらが内外一つとなることによって、内外の共鳴体となって授受作用をすれば、中心が生じると同時に、その内外の共鳴圏の中心が植えつけられるのです。それが、皆さんの生まれた生命の根源です。(183-40, 1988.10.29)
「神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が90度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することにより、すべての根本的な難問題が解決されるのです。
天聖経(252-319, 1993.1.5)
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これらの御言は神様は縦的な父であり、同時に縦的、真の父母であるということです。真の愛の縦的父母である神様に対して、アダムとエバは横的父母であり、その縦的な父である神様が、横的父母であるアダムとエバが、90度で定着するということです。
その90度の中心点は先のお父様の御言によれば「父子関係の因縁」によって決定されて定着するのです。
このように、愛と生命と理想が90°に直角に交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係なのですから、この父子関係の愛は縦的愛になるしかないのです。
つまり夜の神様から起因する、真の愛の縦的中心核は、「父子関係の縦的愛」なのです。
「天宙の中心的法則・原理」の中心である父子関係そしてその役事を成す聖霊、そのような三位一体からイエス様と、文鮮明師がこられました。だからイエス様と文鮮明師は夜の神様から来られたいうことができます。
「神様の真の先惟は天宙の中心である」にて、天宙の中心は父子の関係であることを説明しました。
つまり真の愛とは父子の関係を中心核とするということです。
真の愛の完成実体は、四大心情圏三大王権として現れますが、その愛と生命と理想が寸分違わず90°、直角に交差するようにする最初の因縁となる真の愛の縦的中心核が父子関係なのです。
ですから真の愛の縦的中心核は、「父子関係の縦的愛」であり、真の愛の夜の神様の無意識の基準からの最初の因縁愛が「父子関係の縦的愛」なのです。
ですから、真の愛とは何か?という問いに、極端的に言うならば「父子関係の愛です。」「その父子関係の愛を核として四大心情圏からなる真の愛を実体的に完成することが神様の真の愛の創造理想です。」ということになります。
このように真の愛とは、実現は極めて難しいにしても、言葉で表せば非常にシンプルなのです。
「真の愛とは、父子関係の愛を核とした四大心情圏の愛です」、実にシンプルです。
愛と生命と理想が交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係であり、この「愛と生命の理想」の源泉である夜の神様は、縦的真の父母なのです。
絶対的男性格である夜の神様ご自身が、このような縦的真の父母の愛を、横的に展開するために横的真の父母を創造する必要があったということなのです。
この横的真の父母を創造する必要性を感じられた時、夜の神様は絶対的男性格であり、縦的真の父母であるご自身であることを自覚されました。
この時から「父子関係の因縁」「父子関係の縦的愛」が存在するようになったのです。
ですからご自身が、そのような縦的真の父母であることを、その真の愛の主体であることに覚醒されたが故に、横的真の父母を創造するために「本形状とのロゴス(具体的な天地創造のロゴス)」の創造、天地創造が始まったということができるのです。
横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました。
原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -2 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造
聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造
「父と子と聖霊の三位一体は愛の関係性、キリストはその本体」の存在様相と創造が始まるまでついて今まで説明しましたが、ここでは、この三位一体による天宙天地創造について論じます。
● 三位一体は父子の関係の愛を表す
では天宙の中心とはなんでしょうか。天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
何年もの苦悶の祈りの中で、ついに「宇宙の中心的出発点は父子の関係である」と答えが与えられました。それは鍵であり基台なのです。私たちはこの父子関係の原理を実行することによって、平和な一つの統一された世界を築くことができるのです。そのようにこの宇宙が父子の関係で創造されたので、あなた方はお互いに兄弟姉妹の関係になるのです。
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
文鮮明真のお父様の「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係であり、この宇宙は父子の関係で創造された」という神学は何でしょうか?
父と子と聖霊の三位一体論はまさにこのお父様のみ言のことを言っているのです。
ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
ヘブル 1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
17:24 父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。
17:24 Father, I will that they also, whom thou hast given me, be with me where I am; that they may behold my glory, which thou hast given me: for thou lovedst me before the foundation of the world.
これらの聖句は三位一体論において重要な聖句です。
神の子たるイエスによってこの天宙は創造されたとするこの聖書の御言は、この天宙は父子の関係によって創造されたということなのです。
この聖句は、イエス様、そしてお父様は、この天宙を創造された創造主であると言っています。それは神様との関係が父子の関係だからということなのです。
ですから、それを突き詰めれば、神とイエス様、そしてお父様との関係が父子の関係であり、その父子の関係が天宙を創造したということです。
ですから結論として「父と子と聖霊の三位一体論の中心的法則・原理は、父子の関係であり、この宇宙は父子の関係で創造された」ということになります。
三位一体の中心は父子の関係という結論なのです。
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生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。
天聖経
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三位一体とは真の愛の充足を表します。
ですから現代神学の三位一体のアプローチでは人類を創造する必要がありません。しかしどうして神は人を創造されたのか、その答えがこの真のお父様の「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。」という御言なのです。
文亨進二代王も、神が人類を創造したのは、神自身の必要性からではなく、完全な恩恵によるものであるという立場です。神の愛が三位一体の中で完結しており、創造は神の愛の必然的な結果ではないという立場です。
三位一体のシステムそのものから「愛」を相互間応答(reciprocate)しているわけです。
それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。
お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日
現代神学において三位一体では、その真の愛は完全に満ち足りて何の不足もないのです。
そのような「愛」を相互間応答(reciprocate:perichoresis)、統一思想的にいえば相互内在授受作用しているということです。
この反論として創造が神の愛の表現であり人類の創造は必然だと主張するキリスト諸派があり、文亨進二代王のこの御言に憤慨する人もいます。
しかし人類創造は神の完全なる恩恵であることを受け入れられない場合、神に栄光を返すことができず、自分の栄光を求めることになります。
● 三位一体による天地創造の理由
それでは充足しているのにどうして、夜の神様は天宙を創造されたのでしょうか?
その理由は上に上げた文鮮明師(真のお父様)の御言にあります。
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。
それは、この三位一体の中心が父子の関係であり、その充足された真の愛よりも重要なものが血統であったからです。
つまり、天宙の中心であり、三位一体の中心である父子の関係は真の愛よりも血統を求めるという意味は、父子の関係とは、その三位一体で完全に満ち足りたその愛を、永遠に与えたいとう完全犠牲の愛を与えたい真の愛の関係だということなのです。
このように、父と子と聖霊の三位一体は、愛は与えて忘れる犠牲愛の根本理由であるアガペーの愛は血統をめざす父子の愛からくることを表しているのです。
ですから父子の関係とは、真の愛と真の生命として子が父となり子を生み、その子が父となり真の愛と真の生命として子を生む、この真の愛と真の生命の永続性、永遠に愛と命を与え続け愛したい自分がどんなに犠牲なっても子を愛したというアガペーの愛の源泉ということなのです。
そのような父と息子の愛なので大初の三位一体の3つの格位は全て男性格です。つまり三位一体とはそれ自体が男性格主体なのです。
神の本性相内の各位なので、当然ながら男性格なのです。
この三位一体の、愛を与えたい真の愛の相互内在授受作用は「命ある性相内ロゴス(創造理想の種)」となっていきます。
だから真の愛と真の命は父子の関係であるが故に、その父子の関係の永続性である血統を求めるのです。
この本性相の性相内ロゴスが「本形状とのロゴス」(具体的な天地創造のロゴス)を創っていきます。
この血統のためにエバが必要なのであり、性相内ロゴスによる「本形状とのロゴス」(具体的な天地創造のロゴス)創造の時、初めてエバ創造を先惟構想し次にアダムの生殖器をエバに合わせて具体的に構想されました。
『アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。第九回「安侍日」 2004年7月8日』
このお父様の言われる女性の「先有条件」の意味は、先に論じたように、実際に「本形状とのロゴス」、構想体ロゴスである「天宙天地創造のためのロゴス」を創造されたとき、先に神様が考えたのは女性であったということなのです。
本形状のコンセプト、愛と生命と血統の実現のために女性を男性よりも先に具体的に構想されたのです。
本性相内の性相内ロゴス(前構想ロゴス)は父子の関係よる息子のロゴスから始まりましたが、
その性相内ロゴスと本形状の授受作用による「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)「天宙天地創造のためのロゴス」の創造はエバ、女性を先に考えて創造されたということです。
それ故にこの「永遠の生命ある性相内ロゴス」は「本形状とのロゴス」「エバを先惟した天宙天地創造のためのロゴス(文鮮明先生の言葉ではブループリント)」に対しては種ということにもなります。
これが、文亨進師が言われる、文鮮明真のお父様が、夜の神様の精子(生命ある性相内ロゴス)から来られたということであり、愛と生命と血統の中でより重要なのが血統であるという真のお父様の御言の意味です。
夜の神の精子とは当然ながら、生物学的な意味ではなく統一思想で言うところの「生命あるロゴス」です。
統一思想:神が宇宙を創造した言であるロゴスは生命が入っている生きた新生体であり、生きた構想なのである。ヨハネによる福音書一章にはその事実が次のように書かれている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ一・一―四)。
『統一思想』第1章 - 原相論 (二)(1) 四位基台の構成要素
この本性相内の性相内ロゴスが「本形状とのロゴス」(具体的な天地創造のロゴス)を創っていきます。
性相内ロゴスは内的性相と内的形状によるロゴスであり、「本形状とのロゴス」は本性相と本形状によるロゴスです。
参考:統一思想<本性相の内部構造>
神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。
詳細は、『夜の神様の本性相「生命ある救済のロゴス」キリスト』の章で述べます。
完全に充足された完全なる真の愛は、完全に充足されているがゆえに、どのように自身が犠牲になろうとも愛を与えることが出来るのです。
その真の愛がアガペーの愛が犠牲であり、一切求めることはなく、ただ与え続けたいのは、この父子の関係からくるのです。
そのような真の愛の父子の関係であるがゆえに、この真の愛と、真の生命の継続性、永遠性が血統ということなのです。父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるのです。
逆説的言えば、それが故に、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるということが証明できるのです。
それだから、夜の神様が天宙創造の時、最も最初に考えた対象(最先惟対象)とは、天宙の中心であり、三位一体の中心である「父子の関係」というであり、それは真の愛の父と息子との関係による血統であるということが証明されるのです。
この父子関係愛による三位一体相互内在の形成について次から説明します。
父子関係愛による三位一体相互内在の形成1
真の愛に絶対服従する夜の神様の心情
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ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。この根本原因からの宇宙の生成が、正に神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開
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「内的な心情が外的に流れるものが愛です」愛の内的心情とは何でしょうか?
対象を愛したいという心情の、その衝動の中核は、この極めて強い真の愛に従順屈服しようとする父の愛なのです。この父子関係の愛に従順屈服したいという衝動は、愛したいという心情の動機の中核なのです。
この父の真の愛に従順屈服する心情が中核になければ対象を愛したい与えたいという心情は、十字架の血の犠牲の恐怖の前に怖気づき吹き飛ばされてしまいます。
このような体中の皮膚がトゲの鞭で飛び散る十字架の中にあっても、従順屈服し、その愛を貫いた強い心情を動機とする父の強い愛のその対象は「父子関係の愛」なのです。
父子関係愛による三位一体相互内在の形成2
真の愛の種、真の愛のコンセプト
● 宇宙の根本となる愛の種
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神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本はどのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。
(中略)
ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。問題になります。宇宙の根本とはどこでしょうか。宇宙の根本はどのように生まれたのでしょうか。これが問題です。神様がどのように生まれたのかというのです。神様を見ましたか。それはどのように生まれましたか。皆さんはどのようにして生まれたのですか。宇宙のすべての要素の津液を取って、総合して生まれたのが正に「私」です。
愛の中心は神様なのです。宇宙生成以前からいらっしゃる、唯一的であり、永遠的であり、不変的な存在なのです。
ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。この根本原因からの宇宙の生成が、正に神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。
宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。
神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開
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宇宙の根本となる愛の種とは何でしょうか?お父様はその愛の種とは、結局、愛はコンセプト(概念)と言っておられます。
つまり宇宙が生まれる前の愛は、その愛の種は、感性でもなく感覚でもなく、神様のコンセプトだということです。
夜の神様の愛を人の感性や感覚で考えると、神様の愛の概念を間違えてしまいます。
イエス様の十字架にこの真の愛のコンセプトが表されました。
「ところで、愛は心情の流れです。内的な心情が外的に流れるものが愛です。ゆえに神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。」
この愛のコンセプト、愛の種は、神様の心情が指向する目的がコンセプトということです。
ですから「神様の内的心情が外的に流れるコンセプト(種)が愛」ということになります。
神様において愛はコンセプト(概念)、「基準となる考え方、方向性」です。その真の愛のコンセプト(種)の中心、真の愛の中心は、夜の神様の心情が指向する内的目的が「父子の関係」ということなのです。
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父子の関係が縦的な垂直関係なのに比べて、夫婦関係は横的な水平関係です。ですから父子関係と夫婦関係は互いに直角(90度)を成して、ここに前後関係である兄弟関係が合わさることによって、すべての愛の関係が球形を成します。それで、愛によって成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです。このように成された球形の中心位置ですべての愛が統一され、定着しますが、この場に神様がいらっしゃるのです。
すなわち、神様とその息子、娘である人間の垂直関係を中心として男性の愛と生命と血統が右側に位置するならば、左側は女性の愛と生命と血統が定着するのです。ここに兄弟の愛が前後の方向に定着すれば、このすべての愛を中心として宇宙全体がバランスを取るようになりますが、これらが一番の核として出会うところに神様がいらっしゃるのです。
真の父母が伝授する世界と南北統一教本(316-235, 2000.2.13)
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「愛の交差する中心を決める最初の因縁、父子関係」において説明したようにこの父子の関係は、縦的真の父母と横的真の父母とが90度で交差するその中心です。「ここに前後関係である兄弟関係が合わさることによって、すべての愛の関係が球形を成します。それで、愛によって成されたすべての存在は球形です。宇宙全体が球形になっているのです」、愛が球形になるための中心を決める中心軸が父子の関係だということなのです。
縦的真の父母の中心軸が父子の関係であり、横的真の父母の中心軸も父子の関係です。
ですからこの愛のコンセプト(種)の考え方、方向性は縦的真の父母と横的真の父母が交差する中心点であると言えるのです。
そしてその中心点が何を理想郷としているのか、これが愛のコンセプト(種)の理想、目的になるのです。
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すなわち、神様とその息子、娘である人間の垂直関係を中心として男性の愛と生命と血統が右側に位置するならば、左側は女性の愛と生命と血統が定着するのです。ここに兄弟の愛が前後の方向に定着すれば、このすべての愛を中心として宇宙全体がバランスを取るようになりますが、これらが一番の核として出会うところに神様がいらっしゃるのです。これを平面的に横にしてみれば、愛の一番の根に、生命の一番の根に、血統の一番の根に、そして良心の一番の根に神様がいらっしゃるのです。このように神様を中心とした家庭では縦と横、そして前後の愛が一つになりますが、このような家庭から宗族になり、民族、国家、世界、そして天宙に至るまで拡大していきますが、その根本中心は常にお一人、神様であられるのです。
真の父母が伝授する世界と南北統一教本(316-235, 2000.2.13)
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愛と生命と血統の定着するところで、良心の根が神様が臨在されるようになり、その父子の関係の真の愛が家庭、民族、国家、世界、天宙に至るまで拡大していくことが神様の理想郷なのです。
それが神・真の父母・孫の縦の三大王権であり、真の父母・息子・孫という横の三大王権という血統による神の王国の創建なのです。
そして三代王が祝福を受けることにより、このコンセプトが目指す真の父母の血統王権、キリスト王権が三代王権によって創建されました。
即ち「子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛」その心臓(生命ある性相内ロゴス)の実体が三代王権ということなのです
このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。
父子関係愛による三位一体相互内在の形成3
自分のための時から、相手のための時への展開
● 愛、生命、血統の絶対的な『中心(起源)』、創造本然の自己中心
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「我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。」
「御旨と世界」 人間に対する神の希望
https://m.cafe.daum.net/ckatkfkdrhdqn/VVQ9/1161
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「一時期、神御自身が自己中心的」な、夜の神様とはどのような夜の神様でしょうか?
そのような”「(与える)為に生きたい」という思いで、夜の神様は一時期自己中心的であった、絶対的に為に生きる利他的なご自身に自己中心的であった”ということです。
どういうことでしょうか?
性相形状中和的主体(統一体)という美しく調和する、その統一性のことを言っておられるのです。
つまり、
「神ご自身がすべての愛、生命、血統の絶対的な『中心(起源)』である」
神の心情根源自体が(与える)為に生きる性質をもつ」
ということであり、
「人間や宇宙を創造される前の『絶対唯一(無相対)の神』が、「対象(愛の相手)を求めて自発的に(与える)愛を展開し始められる、その出発点の絶対主体としての状態」を指しています。
これは神以外の存在がゼロである以上、神の意識、神の喜び、神の真理、神の存在価値のすべてが、神ご自身の本性相の内部だけで完全に満ち満ちて完結していた絶対的自己充足し、すべての中心・軸が神ご自身の中にあった状態です。
神の創造本然の自己中心です。
このように神が絶対的唯一なる「中心」=中和的主体(統一体)として厳然と存在されるからこそ、その中心から溢れ出る無限の「真の(与える)愛」を投入して、万物や人間という「対象」を創造することができるのです。
即ち文鮮明師は神とはそのようなたった一人の時から「(与える)為に生きる真の愛」そのものであることを、キリスト教の「神は愛なり」という、その如くをここで言っておられるのです。
神の自己中心とは、一般的に人々が連想する、自分のことしか考えない「利己主義(エゴイズム)」ではありません。
絶対的な主体としての状態です。
「創造本然の自己中心」、即ち無限の愛を外に投入するための「絶対的な核(出発点)」です。
「神様ご自身の自己存在性を中心とする」という意味での純粋な自己存在です。
文鮮明師は「為に生きる神」とは、投入し与える神であると言っておられます。神の中和的主体(統一体)の全てが、そのような与える愛だということです。
それは、
絶対的基準として、神様ご自身が価値、真理、愛の唯一の源泉であり、それ以外の基準が存在せず、
内的な衝動として、神様の内なる「真の愛と喜び」を実現したいという本性的な心情存在であり、
原因性として、全ての結果(被造世界)の絶対的な原因であり、他に原因を求める必要がない存在、
要するに、神様の「自己中心」とは、その存在自体が完全であり、その存在の根拠と目的が自己の内部に完結している状態を指すのです。
● すべてを無条件に生み出す源泉としての絶対無
これを次の文鮮明師の御言で検証します。
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創造する前と創造した後が違うのです。創造する前は自分を考えましたが、創造を始めてから対象のための時代へ節に転換されるということです。私がいることは、私のためにいるのではなく、相手のためにいる、息子の娘のためにある、そうなることです。
(中略)
だからこそ、真なる神様は相対を創造するにおいて、完全投入することによって、より価値的であり理想的な完全形を展開されたのです。神様もアダムとエバを造っておいては、アダムとエバのためにいようということです。神様のためではないというのです。自分のための時から、相手のための時に展開されるのです。理想的な存在とは、自分を主(中心、基準)にしません。理想的存在とは、他者のためにすることに、対象のためにすることにあるのです。この原則が宇宙の根本であることを、確実に知らなければなりません。これを知らなければならないのです。
文鮮明先生말씀選集 69 - 5. 인간에 대한 하나님의 소망 (1973.10.20)
창조하기 전과 창조하고 난 후가 다른 것입니다. 창조하기 전에는 자기를 생각했지만 창조를 하기 시작하면서부터 대상을 위하는 시대로 절로 전환된다는 거예요. 내가 있는 것은 나를 위해서 있는 것이 아니라 상대를 위해 있다, 아들딸을 위해 있다, 이렇게 되는 거라구요.
(중략)
그렇기 때문에 참된 하나님은 상대를 만드는 데 있어서 완전 투입함으로 말미암아 보다 가치적이고 이상적인 완전형을 전개한 것입니다. 하나님도 아담 해와를 지어 놓고는 아담 해와를 위해서 있겠다는 거라구요. 하나님을 위해서가 아니라구요. 자기를 위하던 때에서 상대를 위하는 때로 전개되는 것입니다. 이상적 존재라는 것은 자기를 위주하지 않습니다. 이상적 존재는 남을 위하는 데에, 대상을 위하는 데에 있는 것입니다. 이 원칙이 우주의 근본이라는 것을 확실히 알아야 되겠습니다. 이것을 알아야 되겠다구요.
文鮮明先生말씀選集 69 - 5. 인간에 대한 하나님의 소망 (1973.10.20)
(69-82, 1973.10.20)
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この御言の
「自分のためにいた時から相手のための時に展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。理想的な存在は他者のために、対象のためにあることです。」
このセンテンスが、「一時期、神御自身が自己中心的」な、夜の神様のことを表しています。
自分のためにいた時から、そのような自己中心であった時から、対象のためにある理想的な存在、それが創造前の神であるというのです。
「自分のためにいた時から相手のための時に展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。」
この矛盾、相反するかのようなこの御言は、神は愛の関係性という唯一神として創造前から存在したという事を表しています。
神は実体としては絶対無なる存在ですが、すべてを無条件に生み出す源泉であり、万有原力の前段階エネルギーをも何もかも無条件に生み出す『「為に生きる、犠牲的に生きる」絶対有「1」』を内包する絶対根源的な「0」として存在する究極的な実存です。
それ故、「為に生きる、犠牲的愛(1)」として絶対的に存在する絶対有「1」を「真の愛(1)」ということができるのです。
これは「神が創りたもうた方程式」と言われる数学における最も美しい定理
オイラー の等式{0=ei+1}で表すことが出来ます。
「絶対有(真の愛・絶対存在)」= 1
「絶対無(対象の不在・見えない無限の器)」= ei(虚数と無限が織りなす見えない空間)
この二つが究極の調和をなした状態 = 0(絶対根源の神・中和的主体)
オイラー自身は気づいていませんが、この数式が表すことは、つまり神とは(与える)為に生きる愛という真の愛ご自身ということなのです。
数学の異なる分野から5つの基本定数が奇跡的に共存しているこのオイラー の等式は神がまさに神は数理の神であることも示しています。
ヨハネの第一の手紙4:7-8
互いに愛し合うこと。なぜなら愛は神から出ており、愛する者は神を知っているからである。神は愛である。
神は存在根本永遠において、アガペーの愛、犠牲の愛、父の犠牲の愛、為に生きる愛という四大心情圏の愛の種となる心情を持っておられる方なのです。
だから神は愛でありその愛をアガペーの愛と言うのです。
神はそのように絶対無と絶対有の究極的な中和的主体{ei+1=0}として実在する、他の何ものにも依らず、それ自身が「ある」として存在する究極的な自性的実在する「真の愛」それ自体です。
出エジプト記録3:14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。
Exodus 3:14 And God said unto Moses, I AM THAT I AM:
出エジプト記で神御自身が証された、御自身の名「わたしは、有って有る者」とは、このように他の何ものにもよらないという意味で絶対であり、すべてをそれ自身で生み出す存在です。
「御自身以外の何ものをも意識することなく存在」するとは自己完結した、他からの影響や認識を全く必要としない存在の状態を指しています。ただ「わたしは、有って有る者」”I AM THAT I AM:”。という純粋な存在です。
時間や空間の制約すらも超越している存在だということです。
「自分のためにいた時から相手のための時に展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。」
자기를 위하던 때에서 상대를 위하는 때로 전개되는 것입니다.이상적 존재라는 것은 자기를 위주하지 않습니다.
文鮮明先生말씀選集 69 - 5. 인간에 대한 하나님의 소망 (1973.10.20)
神は御自身の完全性(全知全能、真、善、美)を自己認識し、この神御自身である三位一体を愛されました。
この神の三位一体の自己愛は、完全な知的・意志的行為であり、欠乏やナルシシズムとは無縁の愛です。動的であり、関係性を生み出す力を持つのです。
神のこの三位一体の完全性が「他者性」を求める内在的動機となり、生成を導くのです。
これをお父様は「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」「自分のためにいた時から相手のための時に展開される」と表現されました。
神様が愛の衝動、愛の喜びを現実化するためには、無限の自己充足から、
神御自身自体内に「愛の対象(相対)」を設定して関係性を結ぶ、自己限定による相転移、つまり神様は相手のために展開され、その極められた真の愛として現れたのが父子の関係の相互内在授受作用による三位一体の愛なのです。
神は愛の関係性という唯一神であり、この愛の関係性とは、父と子と聖霊の三位一体なのです。一なる神が三位一体として創造前から存在するのは、真の愛とはそもそもが関係性という愛の本体であるからです。そのように神は三位一体の真の愛本体なのです。
そのような欠乏やナルシシズムとは無縁の関係性を生み出す父と子と聖霊の自己愛の力は、愛の理想郷を持つことになります。この愛の理想郷を持つことで、神は為に生きる愛に絶対的に服従したい愛の神として生まれることになります。
神の本質は「与えるために生きる愛(アガペー)」です。そして与える愛とは本質的に、「自分一人(自己充足)」の中だけでは絶対に完結しない性質を持っています。
神は最初からそのような「為に生きる愛(アガペー)そのもの」であり、愛を投入するための「中心(核)」が最初から完全完璧に備わっていたからこそ、一瞬にして外側(対象)に向けて愛を大爆発させることができたのです。
どれほど自分の中で愛が満ち満ちていても、それを「向け、与えるべき相対(対象)」がなければ、愛の喜びは永遠に生きた形になりません。その対象は愛の理想郷、という愛のコンセプト(概念)でなく実体的愛の理想郷でなければなりません。
「この全存在をかけて、愛する対象を生み出し、その相手のためにすべてを投入したい(為に生きたい)」という強烈な心情の衝動、愛の衝動により爆発的に相転移しました。
これが、文鮮明先生が言われた「自分のためにいた時から、相手のための時に展開される」という宇宙創造の瞬間です。
絶対無と絶対有の究極的な中和的主体{0=ei+1}の夜の神が、{1=0-ei}の昼の神として天地創造を始められた瞬間です。
● 「絶対的に服従したい理想郷をもつ」ことによる相互内在授受作用
そのことを次の文鮮明師の御言に見ます。
宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。
(198-237, 1990.2.3)
つまり真のお父様は「神様が絶対的に服従したい愛の理想郷をもつことで神様が生まれた」と言われました。
神様が愛の理想郷を持っことによって、中和的主体統一的存在の内部における三位一体の創造本然の自己中心性は、その心情の力が心情エネルギーとなり、その中和的主体統一的存在性相全体が爆発するほどに、その「為に生きたい」という心情エネルギーがご自身の統一的存在性相に膨張充満するしかありませんでした。
本性相内の内的性相と内的形状の相互内在授受作用による本形状形成です。
つまり神が「絶対的に服従したい理想郷をもつ」ことにより、統一思想で言うならば対象のために神御自身を100%投入する究極の「為に生きる中和的主体(統一体)」になられたのです。
父と子と聖霊が互いに自らを与え受け授け合う「循環的な愛」そのものが究極の為に生きる相互内在授受作用です。
これはキリスト教で言うところの「ケノーシス(永遠の自己空虚化)」です。
三位一体の父と子と聖霊がお互いに「永遠に自己を空け渡し授け受け合う愛の循環」の中にあり、この授け受け合う自己空虚化が三位一体の、神の「永遠の充足」となるのです。
神の本質そのものが「永遠に自己を空け渡す(与え尽くす)真の愛」であるからです。
この三位一体の「永遠の授け受け合う為に生きる自己空虚化」ケノーシス(究極の為に生きる授受作用)、これが全ての二性性相・授受作用・四位基台の根本根源源泉となるのです。
同時に、「為に生きることに絶対服従したい」という内的心情の情の力もまた、「絶対的な核(出発点)」ですから、「為に生きたい」という内的心情を強烈に押し出し膨張させていく心情エネルギーとして、その統一的存在性相全体が爆発するほどに、その心情エネルギーがご自身の統一的存在性相に膨張充満するようになりました。
このようにして、本性相の内的性相が愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」による「愛と生命と理想」の対象である「愛と生命と血統」を「中心として受け止め吸収」した時、夜の神様にこのコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)という心情動機、心情的衝動が生じ高まっていきました。
この時同時に生じた心情動機、「このコンセプト(愛)」に、「絶対的に服従したい理想郷」のコンセプトに絶対服従したいという心情的衝動が、三位一体の相互内在授受作用における「このコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)」という心情をさらに強烈に押し出し爆発的心情になったということなのです。
その愛の理想郷を実現するための原理として、御自身の統一的存在性相を絶対中和統一していた真の愛の原理、二性性相・授受作用を神御自身に用いられ「本形状とのロゴス」(具体的な天地創造のロゴス)を創造され具体的に天地創造をしていかれたのです。
そして”0秒でありながら永遠であり、α(アルファ:始まり)でありΩ(オメガ:終わり)でありながら父だけ”のアガペー本体の愛となったのです。
それは父の犠牲の愛となり、この父の愛が、これもまた”0秒でありながら永遠でありα(アルファ)でありΩ(オメガ)でありながら相互内在授受作用、相互関係愛、相互犠牲愛の三位一体”となっていったのです。
キリストの血の、犠牲をかえりみず恩讐を愛する父性的愛の強烈な力強さは、夜の神様のここから来ているのです。
そしてこの爆発的「為に生きたい」という心情エネルギー、その「為に生きること」に「絶対に服従したい」という、この三位一体の相互内在授受作用(ペリコレーシス)による爆発的心情エネルギーが前段階エネルギー(Prio-stage Energy)を形成していくのです。
父子関係愛による三位一体相互内在の形成4
夜の神様がご自身を性相と形状に構成されたプロセス
● 性相と形状の構成による神の二性性相中和的主体(統一体)形成
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神様は何のために、どのように生まれたのでしょうか。愛によって生まれました。宇宙の根本はどのようになされたのでしょうか。愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。皆さんと同じです。父母の愛によって受けた皆さんの生命の種、一つの細胞が大きくなって今の皆さんが生まれてきたのと同じように、神様もそのように大きくなったというのです。神様も、目が生じ、鼻が生じてこのように生まれました。全く同じだというのです。
(中略)
ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。問題になります。宇宙の根本とはどこでしょうか。宇宙の根本はどのように生まれたのでしょうか。これが問題です。神様がどのように生まれたのかというのです。神様を見ましたか。それはどのように生まれましたか。皆さんはどのようにして生まれたのですか。宇宙のすべての要素の津液を取って、総合して生まれたのが正に「私」です。
愛の中心は神様なのです。宇宙生成以前からいらっしゃる、唯一的であり、永遠的であり、不変的な存在なのです。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開」
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それでは愛の種(愛のコンセプト)が相対を中心として吸収するとはどういうことでしょうか?
統一的存在、つまり本性相と本形状の完全なる統一体であられる夜の神様には御自身以外に相対は存在しません。
愛のコンセプトが相対を中心として吸収するとは、これは統一思想でいえば、神の本性相内の内的性相(主体)と内的形状(対象)の内的発展的授受作用(相互内在授受作用)のことをいいます。
内的性相(主体)と内的形状(対象)の内的発展的授受作用(相互内在授受作用)によって本性相内の性相内ロゴスが形成されていきます。
この性相内ロゴスと本形状の内的発展的授受作用(相互内在授受作用)によって構想体ロゴス(具体的な天地創造のロゴス)を創っていきます。
性相内ロゴスは内的性相と内的形状によるロゴスであり、構想体ロゴスは本性相と本形状によるロゴスです。
参考:統一思想<本性相の内部構造>
・神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。
・神の性相は内的性相と内的形状から成っているが、内的性相は内的形状より内的である。そして心情は内的性相よりさらに内的である。
ですから愛のコンセプトの相対とは、内的性相(主体)と内的形状(対象)によって形成された内的目的が「父子の関係」でありこの「父子の関係」という内的目的が「相対」ということです。
夜の神様が、この「父子関係」を心情の志向する内的目的として、その相対つまり「愛と生命と血統」を外的コンセプトとする愛の目的を持ったということなのです。
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宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。
(198-237, 1990.2.3)
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お父様は「神様が絶対的に服従したい愛の理想郷をもつことで神様が生まれた」と言われます。
神様が愛に絶対服従するという時、アダムがエバに、エバがアダムに愛で絶対服従すると勘違いしている人をよく見かけますが、絶対的神様が絶対服従したいのはこの真の愛の理想郷なのです。
ではこの与えたい(愛したい)という爆発的心情と、このコンセプト(愛)に絶対服従したいという両方の爆発的心情が、どうして爆発的なのでしょうか?
そのように愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」による「愛と生命と理想」の対象である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、夜の神様にこのコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)という心情動機が生じ爆発的になり、このコンセプト(愛)に絶対服従したいという心情の絶対的動機が始まり爆発的になったという事を知ることができます。
この与えたい(愛したい)という爆発的心情と、このコンセプト(愛)に絶対服従したいという両方の爆発的心情によって、夜の神様はご自身の統一的存在性を「性相と形状によって構成される」ようになったのです。
つまり「本形状とのロゴス」(具体的な天地創造のロゴス)の形成です。
このようにして、夜の神様は神ご自身自体内における本性相と本形状の二性性相中和的主体統一体の形成が始まり構成されるようになったのです。
つまりこの真の愛のコンセプトには内的性相の性相コンセプトと内的形状の形状コンセプトがあり、この真の愛の性相コンセプトと形状コンセプトからなる絶対的に服従したい愛の理想郷を持つことによって、夜の神様は、ご自身の中和的主体統一的存在性を「性相と形状によって構成」され、そのようにして神様が生まれたということなのです。
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愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開
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父と子と聖霊の三位一体である夜の神様が、愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」による「愛と生命と理想」の対象である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、前段階エネルギー(Prio-stage Energy)、つまり本形状を形成するようになりました。このようにして「神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました」。
この前段階エネルギー(本形状)は本性相内の、内的性相と内的形状における愛の力によって構成されるようになったのです。
統一思想には愛の力を以下のようにいっています。
統一思想<本性相の内部構造>
本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物なのである。したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのである(文先生は一九七四年五月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」と語っておられる。)
これは、端的に言えば「愛の根源である心情が土台であるので、愛の力が作用する」即ち心情には愛の力があるということです。
それならば「前段階エネルギー(Prio-stage Energy)」は当然ながら本性相内の内的本性相(心情基台)と内的本形状の作用による愛の力によって形成されたということが言えます。
「神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。何を中心としてそのようになっているのでしょうか。愛を中心として形成されています。」とは統一思想も到達していなかったこの、愛を中心とした神自体の性相と形状の構成形成のことを言っておられるのです。
ですから本形状の前段階エネルギーとは、「為に生きたい」という利他的心情エネルギーと、その「為に生きること」に「絶対に服従したい」という絶対的心情エネルギーによって永遠に万有原力を生みだす万有権力の源となったなのです。
そして、聖霊とは、この本形状である前段階エネルギーから来ているということなのです。
ヨハネによる福音書14章15-17
16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
17 それは真理の御霊である。
聖霊、御霊は助ける主です。聖霊は助ける能力があるということです。能力は力がなければなりません。ですから聖霊の助ける能力は神様の本形状の前段階エネルギーから来ているということが言えるのです。
このようにして「神様自体が性相と形状によって構成される」ようになることで、天地創造のためのロゴス(原理)の構想とロゴス(原理本体)である横的真の父母の創造が始まりました。
こうして真の愛の種、愛のコンセプトが創造以前に生まれ、その主体が夜の神様なのです。
そして夜の神様は「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種、真の愛のコンセプトの主体なので、夜の神様は絶対的男性格であって縦的真の父母なのです。
● 横的真の父母を創造するための性相と形状
愛の種があり、それが相対を中心として吸収してみたところ、神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました。
そして次に
「ここにおいて、性相と形状がなぜ分かれるのでしょうか。」
と御言が続きますが、どうして性相と形状に構成された次に性相と形状に分かれるのでしょうか?
これは本質において二性性相の中和的主体(統一体)という神の本質に反してこの統一体自体が性相と形状に分かれるということでは決してありません。永遠に相互内在授受作用する一なる中和統一体の形成のことです。
これは横的真の父母の創造のためです。横的真の父母は実体です。
それではこの実体はどのようにして創造することが出来るのでしょうか?
御自身の本形状(前段階エネルギー)を使って天地創造を始められたということです。
本形状をもって実体を創造していかれたということなのです。
これを「性相と形状がわかれた」と言っておられるのです。
では、どうして実体をつくる必要があったのでしょうか?
愛とは観念ではなく実際に目に見えなくとも実体として存在しなければなりません。
愛の実体とは何でしょうか?
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その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。
韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会
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生命体です。「縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる血統を通した生命体」です。
ところが、縦的真の父母である夜の神様は、男性格であり、縦的真の愛の中核である「父と息子の関係」も男性格です。
「愛と生命と血統」を実体的に創造するためには、横的真の父母を創造する必要がありました。横的真の父母を創造するためには女性を、真の母を創造する必要がありました。
そして夜の神様は、形状から女性を創造していかれたということなのです。
創 2:22主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
男から女を造ったというこの創世記2:22の聖句は、アダムのあばら骨からエバを造った、ということだけではなく、神様ご自身のあばら骨から、女性を造ったということも表しています。
夜の神様は、自己の本形状から形状を取り出し女性を創造されたということなのです。
ですから、真のお父様は「性相と形状に分かれた」と表現されましたが、統一的存在である夜の神様が性相と形状に分かれることはありません。
正確に表現するならば、本性相内における内的性相と内的形状の相互内在授受作用によって本形状を形成し、二性性相中和的主体(統一体)になられたのです。
夜の神様は「父子の関係」という「父と子と聖霊の三位一体」の愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」による「愛と生命と理想」の対象である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、夜の神様にこのコンセプト、つまり真の愛のために与えたいという爆発的利他的心情、この真の愛に絶対服従したいという絶対的心情の衝動により、夜の神様は爆発的にご自身を本性相と本形状に構成され、横的真の父母の創造を目的として、性相と形状をもって爆発的に天地創造をしていかれました。
それは最終的には本形状からくる形状、エバを創造するためでもあったのです。
それが故に、天地創造後の神として、”真の母”を”昼の神”という表現を文鮮明師はされたのです。
完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。
宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
この御言はそのように形状、女性をつくるに至った本形状、そのコンセプト「愛と生命と血統」が女性の性相に入るということなのです。
そしてアダムには、縦的真の父母の性相が入って行くという意味の御言なのです。
夜の神様が、愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」による「愛と生命と理想」の対象である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、前段階エネルギー(Prio-stage Energy)、本形状を形成するようになり、「神様自体が性相と形状によって構成されるようになりました」と説明しました。
これは真の愛の性相コンセプトと形状コンセプトによって、夜の神様はご自身の統一的存在性を「性相と形状によって構成」されたということでした。
ですから、完成すれば、この愛のコンセプト(種)、「父子の関係」という縦的真の父母からなる神様の真の愛の性相と、その性相コンセプト(性相的種)が、アダムの心に入り、
「愛と生命と血統」という真の愛の形状と、その形状コンセプト(形状的種)がエバの心に入るということなのです。
このようにして創造前の三位一体が、創造後の三位一体として実体の四大心情圏三代王権皇族圏がつくられて行くのです。
それが故に、男性は”天”を象徴し、女性は”地”を象徴するというのです。
ところが、イエス様は縦的父子の愛の為に、エバを再創造することを捨てざるを得ませんでした。
そして、イエス様の十字架は、この夜の神様の真の愛のコンセプト、真の愛の種を血の犠牲の実体をもって示されたのです。
この夜の神の心情根本から来る、父子関係の縦的真の愛の中心の基準とする愛と生命と血統という真の愛のために殉じて行かれたのです。
原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -3 ◆イエス様の血の心臓は夜の神様の心臓
夜の神様が絶対服従する愛とは
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宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。
(198-237, 1990.2.3)
宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。
神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開
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真の愛の中心核が父子の関係である神様が、真の愛に絶対に服従するということは、この父子の関係の真の愛に絶対服従するということであり、横的真の父母の愛にも、絶対性(アブソルートセックス)の愛にも服従するのではありません。
それは「絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷」、愛の理想郷です。理想郷とは何でしょうか?愛の理想であり、愛のコンセプトです。
その真の愛の核は父子の愛、父子関係の縦的愛なのです。その愛の理想、コンセプトに絶対服従するのです。
「本形状とのロゴス(具体的な天地創造のロゴス)」における横的真の父母の愛、絶対性の愛は、父子関係の愛を核とする真の愛を縦的に中心に立てて、横的真の父母の愛と授受作用することによって真の愛の創造物になることができるということです。
つまり父子関係が夜の神様の位相から存在する天宙創造以前からの絶対的主体であるということです。
真の愛に絶対服従する愛は、男性的主体的真の愛
● イエス様の十字架に見る愛
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どうして愛は愛ではないのか。
愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。
子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。
だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。
だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。
現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。
ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!
流される血。だから宝血と言うではないか。
ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!
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イエス様の十字架の犠牲の愛は父子関係の血の犠牲の愛でした。
イエス様の十字架の愛は、この縦的父子の愛、アガペーの愛に絶対服従した子の父への真の愛でした。
イエス様が、血統を残すために体を持たれたように、絶対性愛を持っておられました。しかし、この十字架上のイエス様の愛は、そのようなエロスの愛は微塵も無い、絶対父子の愛を貫く絶対縦的アガペーの愛でした。十字架に磔になったイエス様の愛は天のお父様を思う絶対縦的父子の愛だったのです。
ここに妻となるはずだった女性のことを思う愛、摂理的目的愛はあっても、そのような横的な夫婦の愛は一切なかったのです。
イエス様は「愛と生命と血統」を成すために、必要なエバを探し求めておられました。
そのように重要な、神様が求め、復帰摂理が求めてきた女性のことさえも、この十字架の血の犠牲愛にはなかったという事なのです。
それどころか、その神なる父の人類に対する愛に完全服従し、磔になった体全身で、ご自身を鞭打ち磔にした恩讐、敵をも愛された絶対父子の愛のイエス様でした。
人々は真の愛に従順屈服する愛を、対象の愛、女性的愛と考えます。
しかし実際の真の愛に従順屈服する愛は極めて男性的主体的強い愛です。
イエス様がトゲが付いた鞭で何十回も鞭打たれ、皮膚が肉が飛び散り、イバラの王冠で血を流し、両手両足を太い釘で貫かれ、十字架に磔られ嘲笑されても、それでもこの父子関係の縦的真の愛に従順屈服し、そのようにむち打ち突き刺す者を愛されました。
このような真の愛に従順屈服する愛を、対象の愛、女性的愛であるとは言えません。
極めて男性的な父の愛なのです。それが父子関係の愛だということなのです。
イエス様の宝血の心臓は夜の神様の心臓とともにあった
● イエス様の十字架に創造前の愛、原相の愛
文亨進二代王はこう言っておられます。
「いや、お父様はメシアなので特別だ。ただの人間ではない。お父様は神から来られたのであり、夜の神から来られたのだ。創造以前の神から来られた。」ということです。
つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられたということなのです。
お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性◆キングスリポート2021年3月23日
この御言はキリストであるイエス様、お父様は天地創造以前から夜の神様とともにおられ、天地創造後、肉体をもって夜の神さまから、イエス様、お父様は地上にこられたということなのです。
この説教は、先に説明した、ヨハネによる福音書1:1~18、そして、ヨハネによる福音書 14:9-11のことを指します。
それでは、キリストの心は天地創造以前に、夜の神様の時、神様の心と一緒にあったのでしょうか?なかったのでしょうか?
ここで大切なことがあります。
文亨進二代王は、三位一体の図をこのように書かれました。
ヨナ王妃:2代王様は次のように説明されます。(三位一体の図を描いて)神様がいらっしゃり、ここに独り子神様の息子であられる真のお父様とイエス様がいらっしゃり、その次にここ聖霊様がいらっしゃいますが、神様から独り子が出て神様から聖霊が出て、矢印が中側に行きますね。
2021聖霊大学秋学期 リーダー会議◆二代王妃 文妍雅様のみ言葉◆2021年9月15日
イエス様は文鮮明師とともに、聖子の位置におられるということです。
聖父と聖子と聖霊の三位一体とは、『聖父(夜の神)と聖子(イエス様、真のお父様)と聖霊(助ける霊:対象)』の三位一体ということなのです。
イエス様も、真のお父様も、夜の神様とともに聖子としておられ、イエス様も、真のお父様も夜の神様から来られたということです。
ヨハネによる福音書14章15-17
16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
17 それは真理の御霊である。
聖霊、御霊は助ける主です。聖霊は助ける能力があるということです。ですから神様の能力です。神の能力はどこから来ているのでしょうか?神様の本形状の前段階エネルギーは神様の能力を表しています。
ですから聖霊、御霊は神様の本形状から来ているということが言えるのです。
イエス様、真のお父様の本体は、この神様の能力と共に天地創造以前から存在しておられたということなのです。
神様の本性相の生命ある性相内ロゴスとして神様の本性相の内的形状と共におられたのですから、イエス様、文鮮明真のお父様の神性が三位一体の中に有ったということではなくイエス様、お父様の本体が、神様の本性相ともに存在したということです。
お父様、イエス様というキリストの本体が夜の神様とともにあるのが聖父と聖子と聖霊の三位一体ということなのです。
文亨進ニ代王はこの心(生心)についての御言を見ています。
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しかし真のお父様とイエスの霊的な心(生心)は「神様」です。完全な神です。
イエスであれば、神と同じ生心を持っていらっしゃるということです。イエスの生心は神であるはずです。
お父様も同様です。お父様も現われるとき霊的な体(霊体)があると思いますが、お父様の霊的な心(生心)は神と全く同一だということです。
それで、もし我々が真のお父様とイエスと同時にお会いできることになっても、真のお父様とイエスの生心は神と完全に一つだということです。
お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日」
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文鮮明真のお父様の生心、イエス様の生心は神様と全く同一であるとはどういうことでしょうか?
それは即ち「子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛」その心臓(生命ある内的性相ロゴス)も、即ちその生心がこの聖父と聖子と聖霊の三位一体にあるということなのです。
天地創造以前から、この心臓が、この宝血が、夜の神様、イエス様、真のお父様とともに有ったということなのです。
つまり神の本性相の中に「愛と生命と理想」の心臓(生命ある内的性相ロゴス)としての生心が聖父と聖子と聖霊の三位一体の実体とともに有るのです。
心臓としての生心は、即ち生命(生心のロゴス)だということです。
これは三位一体の各位である聖霊がキリスト教で言えばペリコレーシス、相互内在授受作用して、生命として存在したということです。
即ち心臓としての生心は生命であるということです。
この父から子へと永遠に注がれる生命の奔流その循環「相互内在授受作用(ペリコレーシス )」こそが、すべての生けるもののひな型と救済になります。
この父子の関係の理想郷、愛のコンセプトに父と子の関係という心情が命を吹き込んだということです。父子関係の心情という生命です。この父子の関係に「永遠の愛と交わりの内的な生命」を与えられたのです。
この「永遠の愛と交わりの内的な生命」を与えるのが「性相内聖霊」です。
つまり統一思想でいうところの、本性相の中の内的形状による愛の力です。
この父子の関係に「永遠の愛と交わりの内的な生命」を与える「性相内聖霊」により、
この父子の関係はキリスト教で言えば、生きた愛の相互間応答(reciprocate)、統一思想的に言えば相互内在授受作用をするようになります。
聖霊は父子の関係の愛の絆となり、これがお互いに内在するよう相互内在授受作用を成して永遠の内在的三位一体(The Immanent Trinity )、本性相の性相内三位一体となるのです。
この性相内三位一体内の、神の心情と生命が吹き込まれた生命が神の子であるイエス様であり文鮮明師なのです。
真のお父様、イエス様の心(生心)が神様なのです。天地創造以前の夜の神様とともにあった心だということなのです。
キリストにおいて、ローマ兵に突き刺された血を流す心臓です。「子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛」その心臓です。
先に説明したように、ヨハネによる福音書1:1~18は、父と子と聖霊の三位一体は天地創造以前の夜の神様の位相から存在しており、ヨハネによる福音書 14:9-11は、その夜の神様の三位一体という関係の中心が父子の関係という愛であるということでした。
それですから、この聖句が表すように、
「つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられた」のですから、真の愛とは、このような子のため犠牲となる父の宝血の愛が、夜の神様とともにあった心だということなのです。
「つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられた」ということは、夜の神様とイエス様と真のお父様のこのような父子の関係によって、その心臓がお互いに「子のため犠牲となる父の宝血の愛」で相互間応答(reciprocate)を成し、聖霊は父子の関係の愛の絆となり、これがお互いに内在するよう「相互内在授受作用(ペリコレーシス perichoresis)」を成して永遠の一なる神、三位一体となっていたということなのです。
子を思う父の愛だから、真の父母の愛による相互内在授受作用による永遠の三位一体、唯一神本体ということです。
従ってイエス様、真のお父様の十字架の血の犠牲の愛の根源である夜の神様の愛も、このような父親の犠牲の真の父母の三位一体の愛が根本であるということなのです。
母のように子を思う愛をもちながら、その愛のために鞭打たれ血を流し死んでも子を守るという強い父の愛。
それだから神様とキリストの愛は、一人の父にして真の父母の愛なのです。
神様は一なる父でありながら、そのような真の父母の愛を持っている、縦的な真の父母なのです。
「つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられた」ということは、
「つまり、キリストの心臓は創造以前から神の三位一体としてありました」と言えます。
創造前の神様とイエス様、文鮮明真の御父様のこのキリストの三位一体の心臓からは創造前からその犠牲の血を流され、血の涙を流しておられました。
それは天地創造前から、既に全ての十字架の犠牲の愛により人類を赦し愛しておられたということです。
それだから、創造前からイエス様がおられ文鮮明真の御父様が既に存在し、既に血の涙を流しておられたのです。
一なる三位一体の神による天地創造はこの血の涙をもって始まったのです。
● 本性相の中にある宝血の心臓「犠牲の血のロゴス」「救済のロゴス」
これはイエス様、文鮮明真のお父様の神性が三位一体の中に有ったのではなく本体がともに存在し、その宝血の心臓(生心のロゴス)が本体の心臓(生心のロゴス)として存在したということです。
即ち生命が夜の神様の本性相にイエス様、お父様文鮮明師が生命として存在したということです。
創造前の神の本性相にキリストの宝血の心臓「犠牲の血のロゴス」「救済のロゴス」が生命として存在していたのです。
犠牲の血とはもちろん生物学的な意味ではなく心情の痛みを表した表現です。
三位一体は父子の関係の愛を表します。従って三位一体は縦的真の父母の縦的父子の関係の愛を表しているのです。
その本体の、宝血の心臓が縦的真の父母に存在しているのです。「愛と生命と理想」の心臓が存在するので縦的真の父母なのです。
このように三位一体とは「愛と生命と理想」の心臓、その生心が、子どものために死ぬことができる父にして真の父母の宝血の心臓を表し、縦的真の父母とはこの宝血の心臓、つまりその生命を表しているのです。
創造前の本性相内における性相内三位一体の、このような様相で、父なる神様の真の父母の生心と子たるイエス様の真の父母の生心、子たる真のお父様の真の父母の生心、宝血の心臓、生命として夜の神様の本性相に創造前から存在しておられたのです。
この血の涙、血の心臓は、三位一体は創造前、神の本性相のなかに「犠牲の血のロゴス」「救済のロゴス」としてありました。つまり本性相内の内的性相と内的形状の中に生心のロゴスとして存在したのです。
犠牲の血とはもちろん生物学的な意味ではなく心情の痛みを表した表現です。
・本性相を中心として見るとき、その内部にも性相(内的性相)と形状(内的形状)があり、外部にも性相(本性相)と形状(本形状)があるということになる。性相と形状が共通要素を中心として相対的関係を結べば必ず授受作用が行われる。
・神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。
【本性相(内的性相 ⇔ 内的形状→性相内ロゴス)⇔ 本形状→構想体ロゴス】
本性相内の内的性相と内的形状による性相内ロゴスであるキリスト(イエス様であり文鮮明師)は神の生心とともにある「生心のロゴス」ですから血の涙を共有する神の生心、血の心臓でもあります。即ちキリスト(イエス様・文鮮明先生)の生心は神の生心と同じなのです。
祝福を受け血統転換に用いる聖酒にはこの聖なる宝血が入っているのです。
この「犠牲の血のロゴス」については、後述する”夜の神様の本性相「救済のロゴス」キリスト”において説明します。
人類の不信仰により、残念ながら、この犠牲の宝血は実際に流されてしまいました。
本来この父の犠牲の宝血は流されるべきではありませんでしたが、天地創造以前から、夜の神様の心、キリストであるイエス様の心、再臨のキリストである真のお父様の心に、このような、父の犠牲の真のご父母様の心臓(心)が天地創造以前の夜の神の位相から一緒にあったということなのです。
天地創造以前の夜の神の位相から、この「子のため犠牲となる父の宝血の真の父母の愛」で相互内在授受作用による永遠の三位一体を形成していたのです。
このような父子の関係性の愛という「相互内在授受作用(ペリコレーシス perichoresis)」による三位一体の唯一神が創造前から存在していたのです。
四大心情圏の愛の存在は創造前の三位一体から始まった
この神の本性相内の生命の循環「相互内在授受作用(ペリコレーシス )」は四大心情圏の源泉になります。
文鮮明師:神様のためではないのです。自分のためにしていた時から相手のためにする時に展開されるのです。理想的な存在というのは自分を中心にしません。理想的な存在は他人のために、対象のためにあることです。この原則が宇宙の根本であることを確実に知る必要があります。(69-82, 1973.10.20)
하나님을 위해서가 아니라구요. 자기를 위하던 때에서 상대를 위하는 때로 전개되는 것입니다. 이상적 존재라는 것은 자기를 위주하지 않습니다. 이상적 존재는 남을 위하는 데에, 대상을 위하는 데에 있는 것입니다. 이 원칙이 우주의 근본이라는 것을 확실히 알아야 되겠습니다.
文鮮明先生말씀選集 69 - 5. 인간에 대한 하나님의 소망 (1973.10.20)
この御言にあるように、創造前に対象のための時に展開される、この展開とは神様の愛が四大心情圏の愛へと展開されることを表します。
天地創造が始まったその開始のときから、四大心情圏の愛は存在したのです。
父と子と聖霊の三つの各位は完全な愛の交わり、完全な愛の絆があります。
この絆が「子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛」の根源です。
創造前、三位一体において愛を相互間で応答するために人類は必要でなかった三位一体の神が、アガペーの愛で対象のために四大心情圏を展開したことが、神が創造を始めた理由です。
三位一体の愛の相互間応答の展開として四大心情圏を展開するとき、この三位一体の神は初めて女性を「天宙天地創造のためのロゴス」の「先有条件」として考えました。女性の愛、母の愛の創造です。
性相内三位一体の神は本形状との相互間応答授受作用から「天宙天地創造のためのロゴス」、「女性の愛、母の愛」を創造し四大心情圏の愛を展開していったのです。
従って実際に天宙天地創造のための「本形状とのロゴス」「天宙天地創造のためのロゴス」を神様が創造されたとき、先に三位一体の神様が考えるのは当然ながら女性です。女性を「先有条件」として具体的に創造していかれました。
こうして、本形状のコンセプト、愛と生命と血統の実現のために女性を男性よりも先に具体的に構想していったのです。
この女性の愛、母の愛を「先有条件」として創造され四大心情圏の愛を創造して行かれた過程は次のようになります。
先に述べた性相内三位一体の「愛と生命と理想」の三つの交差である「父子の愛の交差」「生命の交差」「理想の交差」が、「父子の愛の交差」を中心として、父から子へと永遠に注がれる生命の奔流となり、万物の創造と救済のエネルギーとなります。
「父子の愛の交差」は「父子関係の心情という生命」を持つようになり「生命の交差」「理想の交差」となります。
この父と子の生命の本流が「生命の交差」と「理想の交差」となり、この三つの交差と生命の循環「相互内在授受作用(ペリコレーシス )」が、すべての生けるもののひな型となります。
この「父子関係の心情という生命」は「生命の交差」と「理想の交差」によりつくりだされた「愛の理想郷」という生命本体となっていきます。
これが本形状と授受作用することにより、女性を先有条件として「本形状とのロゴス」「天宙天地創造のためのロゴス」が作られていきます。
そのようにして女性の愛、母の愛が「父子の愛の交差」「生命の交差」「理想の交差」の3つの相互内在授受作用の中で造られ、四大心情圏の愛が造られていきます。
同時に「愛と生命と血統」の天宙天地創造の創造理想も造られていきます。
四大心情圏の愛は、「父子の愛の交差」を中心とする、この「創造理想との交差」のなかで造られます。
これが時空間創造前の夜の神における父と子と聖霊の相互内在授受作用による内的創造、内的成長です。
このようにして真の愛の実体的創造理想が完成し、この真の愛の実体的完成、愛と生命と血統の実体完成の創造理想の完成を求めて天地創造が始まったのです。
このような三つの交差によって、父と子と聖霊の三位一体の神様が、愛の種、愛のコンセプト「父子の関係」による「愛と生命と理想」の対象である「愛と生命と血統」を中心として受け止め吸収した時、四大心情圏の愛を創造し、本形状を形成するようになりました。
このように真の愛の性相コンセプトと形状コンセプトによって、夜の神様はご自身の統一的存在性を「性相と形状によって構成」されるようになったのです。
そしてこの「愛と生命と血統」の創造理想に「永遠の愛と交わりの内的な生命」を与えるのが本形状との聖霊、経綸的聖霊です。
この経綸的聖霊が創造を開始するとき女性を創造していきます。
この女性を創造する経綸的聖霊を特に聖神と言います。この聖霊、聖神の御業でエバ、女性を造っていきます。
完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。
宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
そして、この御言のように、そのように形状、女性をつくるに至った本形状(神の本形状)が女性の心の中に入ります。アダムには、神様の縦的真の父母の性相(神の本性相)が入って行きます。
ですから、完成とは、この愛のコンセプト(種)、「父子の関係」という縦的真の父母からなる神様の真の愛の性相と、その性相コンセプト(性相的種)が、アダムの心に入り、
「愛と生命と血統」という真の愛の形状と、その形状コンセプト(形状的種)がエバの心に入るということです。
このように天地創造の目的、創造理想は創造前の性相内三位一体が、創造後の経綸的三位一体として実体の四大心情圏、実体の三代王権皇族圏を造っていくことにあります。
しかしアダムとエバは完成する前に堕落し神様の性相と形状をそれぞれ受けることができませんでした。
この神様の本性相の内的性相を生まれながら持って来られた方がイエス様であり、文鮮明真のお父様なのです。
夜の神様の本性相「生命ある救済のロゴス」キリスト
イエス様、文鮮明真のお父様は神様の本性相の内的性相を生まれながら持って来られました。
この事について、ここでは聖父聖子聖霊の三位一体の聖子にイエス様と文鮮明真の御父様が創造前から宝血の心臓「生命ある救済のロゴス」「生命ある犠牲の血のロゴス」として共に実存しておられたことについて言及します。
犠牲の血とはもちろん生物学的な意味ではなく心情の痛みを表した表現です。
これはキリスト教会では到底受け入れがたい再臨論に関わるテーマであり、統一思想を学んできた者には、三位一体ではなく、四位一体ではないかという批判にもなります。
それらのことを考慮しながら聖子という三位一体の各位を取り扱います。
前述において
『創造以前、「神様の生心、イエス様の生心、真のお父様の生心」が真の父、真の父母の宝血の心臓、つまり生命として性相内三位一体として神様の本性相の中におられた』
と説明しました。
つまり神様の本性相は、イエス様の性相であり文鮮明真のお父様の性相であるということです。
「-1 ◆真の愛の本体は父子関係の愛」において既に説明した通り、夜の神様が先惟した最初の愛の対象、愛の関係とは父子の関係です。そして聖霊が生命としてともにある父子の関係です。
これは夜の神様の本性相の中にイエス様、真の御父様が生命として存在したということになります。
生命ある性相内ロゴスとしてのアダム
これについて統一思想では、「生命あるロゴスとしてのアダム」として説明しています。
神が宇宙を創造した言であるロゴスは生命が入っている生きた新生体であり、生きた構想なのである。ヨハネによる福音書一章にはその事実が次のように書かれている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものはこれによってできた。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ一・一―四)。
『統一思想』第1章 - 原相論 (二)(1) 四位基台の構成要素
参考:中村仁史著「統一思想」から見た神による創造の二段階過程Ⅱ
『知情意の機能を備えた生命ある存在が、神の本性相内のロゴス、すなわち「ロゴスとしてのアダム」として存在していた』、
簡単に言えば、「神の創造の前に、神様の本性相のなかに知情意を持つ生命(アダム)が存在する」という統一思想の研究成果です。
これがイエス様であり、文鮮明真の御父様ということです。
これは、創造前からの神の本性相内に父と子と聖霊の三位一体として、イエス、真の御父様が存在したということを表します。
第一アダム格、第二アダム格、第三アダム格が夜の神様の本性相に存在していたということです。
ところで「生命あるロゴス」とは何でしょうか?
統一思想ではこれを解明できていません。
これは前述したように、三位一体の各位である聖霊が相互内在授受作用(ペリコレーシス )し生命としてロゴスが存在したということです。
この父子の関係の理想郷、愛のコンセプトを中核としたロゴスに父と子の関係という心情が命を吹き込みました。父子関係の心情という生命です。この父子の関係に「永遠の愛と交わりの内的な生命」を与えられたのです。
こうして、この父子の関係は生きた愛の相互内在授受作用によりお互いの生命をもった生心は父子の関係の愛の絆となり、これがお互いに内在し永遠の三位一体となります。
この三位一体内の生命(Immanent Trinity)を持った生心が神の子であるイエス様であり文鮮明真のお父様なのです。
この存在様相を、この試論原理原相論では「神とイエス様と真の御父様の三位一体」と表現します。
神の心情と生命が吹き込まれた『永遠の生きた性相内ロゴス・独生子キリスト』ということです。キリスト教のいうペルソナ(位格)でいうならばイエス様、文鮮明師は別々のペルソナ(位格)ではなく、独生子キリストという1つのペルソナ(位格)ということです。
これはキリスト教や、文亨進師が主張する「創造前からキリストが神本体として存在していた」とは、独立した別の人間や人格そのものが神の隣にいたという意味ではなく、
神の本性相の中に、究極の愛の対象(独生子:独り子 )が、神ご自身の完全な自己表現である『”愛の理想・真の父母の原型”のロゴス』が、神の「永遠の生命ある性相内ロゴス」として存在していたということです。
その「創造前の神の本性相内部の性相内ロゴス(夜の位相のロゴス):前構想ロゴス」が、本形状との授受作用によって「昼の位相のロゴス(本形状とのロゴス:構想体ロゴス)」によって時空間が創造され顕現展開されたのがです。
文鮮明師が「私は夜の神から来た」と言われたのは、つまり文鮮明師の本質・起源は、被造世界創造の次元を超えた、神の本性相のなかの「性相内ロゴス」「永遠の生命あるロゴス」からということです。
創造前の神の本性相内部の「生命ある性相内ロゴス」には、単に「アダムの最初の完成形」だけでなく、「もしアダムが堕落した場合に、それを絶対に完成させなければならない三数の復帰摂理(第一、第二、第三アダム)による「愛の理想郷の実体」の完成という一つの「救済のロゴス」=「救いの復帰摂理のすべて」が、この神の本性相内部の「性相内ロゴス」として創造前の本性相自体内のアルファの瞬間から「オメガの完成像(愛の理想郷完成のロゴス)」が、「一なる独生子のロゴス」として存在していたのです。
これは「第一、第二、第三アダム」は別の3つの聖子ではなく1つの聖子であることを意味します。
キリスト教でいう聖子というペルソナ(位格)は1つのペルソナ「第一、第二、第三アダム:一なる独生子のロゴス」ということです。
これは創造前の神の本性相の内部には、本性相の「内的性相と内的形状の相互内在授受作用」によって、神の心情と生命が吹き込まれた一つのペルソナ(位格)『永遠の生きた性相内ロゴス・独生子キリスト』が永遠から存在していたということです。
つまりイエス様(第二アダム)も文鮮明先生(第三アダム)も、神の本性相内部の「完全な救いのロゴス」の中に、アルファの時点からオメガの完成像として内包されていた「絶対的真理(ロゴス)の結実」として「一なる独生子のロゴス」なのです。
当然ながらその第一アダム、第二アダム、第三アダムはどのような性格、人格であるかのロゴスも内包されています。「生命ある性相内ロゴス」として、生命ある性格、生命ある人格ということになります。
しかし「救済のロゴス」としてみれば「一なる独生子のロゴス」なのです。
性相内ロゴスとしてイエス様、文鮮明師それぞれの個別の人格のロゴスがありながら『性相内ロゴス・独生子キリスト』と一人の息子(独生子)というロゴスというのか?
それは「真の愛の創造理想」「真の父母思想」という「永遠の生命ある性相内ロゴス」を中心として見れば1つの性相内ロゴス、一人の息子(一人一代)であるからです。
これはちょうどアブラハムが象徴献祭に失敗しイサク、ヤコブへ縦からなる横的蕩減復帰を果たすことにより、その個体は異なるが、み旨(愛の創造理想)を中心として見れば、みな一体であり、三代であるが一代であるということと同じなのです。
つまり文亨進二代王が「お父様の生心は神と完全に一つであり、創造前から父と共にあった」「お父様は神の本体」と表現されたのは、
創造前からイエス様と文鮮明真の御父様の本質が、神の本性相内部にあった「永遠の性相内ロゴス・独生子キリスト」そのものであったからに他なりません。
その意味で第一アダムは、その神の本性相内部の「永遠の性相内ロゴス」を、創造後の地上の時空間において責任分担というロゴスを完成させることによって内的御言、性相内ロゴスを「実現実体化」させるために立てられた最初の被造物なのです。
三位一体に存在した生命ある性相内ロゴスとしてのアダム
天地創造前のロゴス(構想)としてのアダムとは何でしょか?
次の御言は「-1 ◆真の愛の本体は父子関係の愛」で父子の関係について説明した文鮮明師の御言です。
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宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。
(198-237, 1990.2.3)
宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません。
神様は、なぜ創造をされたのでしょうか。愛のためにされました。愛は、一人ではできないのです。相対がいなければなりません。一人でいる愛は縦的な愛なので、環境的条件がありません。
宇宙の根本 第1章 宇宙の根本秩序 1)神様の二性性相の大展開
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ロゴス(構想)が成立するためには、そのロゴス(構想)の軸となるコンセプト(概念)がなければなりません。それが「愛のコンセプト(概念)」であり、この愛のコンセプトとは「絶対的に服従したい理想郷」です。
では天宙の中心とはなんでしょうか。天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
それは、「-1 ◆真の愛の本体は父子関係の愛」にて解明した通り、宇宙の中心である父子の関係よって作られる愛の理想郷です。
ロゴス(構想)の軸となるコンセプト(概念)は、
神の父子の関係を中心とする心情が絶対に服従したいコンセプト「愛の理想郷」となり、
このコンセプトを実現することに絶対的に服従し為に生きる愛が、真の愛なのです。
この「愛の理想郷」実現するための愛の中心愛が、父の犠牲心情愛、アガペーの愛なので、神の愛は、父の愛、アガペーの愛ということができます。
この父の愛、アガペーの愛の中心核、絶対服従したい理想郷の愛の原型、その核が父子関係の心情なのです。
この父子の関係の理想郷、愛のコンセプトに神は命を吹き込まれました。
愛の理想郷に絶対的に服従する為に生きる愛、つまり真の愛に命を吹き込まれました。
それが「父子関係の心情という生命」です。
この父子の関係に「永遠の愛と交わりの内的な生命」を与えられました。
このようにして神は性相内三位一体の真の愛の神になられたのです。
この父子の関係の性相内三位一体の観点で見るならば統一思想のいう「生命あるロゴスとしてのアダム」とは、
「父子関係の心情という生命」を持つ、「愛の理想郷に絶対的に服従する生命本体」ということができるのです。
永遠の神、性相内三位一体内の永遠の生命は、愛の理想郷に絶対服従する永遠の生命であるが故にこの理想郷に永遠の命を望まれました。
永遠の命、つまり血統です。
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生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。
天聖経
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それだから、この文鮮明師の御言のように、命よりも真の愛よりも重要なのが血統なのです。
愛の理想郷を実現するためには血統が必要だからです。血統という対象です。
神のその創造目的はこの神の血統が実現する、神の三大王権の血統、その血筋です。
四大心情圏と三大王権と皇族圏の完成はこれが血統となり血筋となることです。これが愛の理想郷の中心コンセプトです。
血統を望むのですから、愛の理想郷は真の父母思想でつくられたということになります。
父子関係の愛の理想郷は永遠の命、真の愛の血統が作り出す理想郷だからです。
それだから、この愛の理想郷は真の父母思想によってつくられているがゆえに、「愛の理想郷に絶対的に服従する生命本体」は真の父母なのです。
神の血筋血統の創造のためには、真の愛の創造理想の種(精子)が必要です。
ではこの永遠の三位一体内にある永遠の神の種(精子)とは何でしょうか。
それは、「父子関係の心情という生命」を持つ、「愛の理想郷に絶対的に服従する生命本体」です。
この生命本体は愛の理想郷という愛のコンセプト(概念)を持ちます。つまり「真の父母思想によって作られた真の愛のコンセプト理想郷」を持つということです。
これが統一思想がいう「生命あるロゴスとしてのアダム」ということです。
(第一、第二、第三アダム)は「生命あるロゴスとしてのアダム」としてみるならば3つのアダムではなく1つのアダムであることを意味します。
唯一の「生命あるアダムのロゴス」の中の(第一、第二、第三アダム)ですから、キリスト教でいう聖子というペルソナ(位格)は3つではなく1つのペルソナ(位格)なのです。
このような「真の愛のコンセプト理想郷」そして「父子関係の心情という生命」を持つ「愛の理想郷に絶対的に服従する生命本体」、それが真の父母「初臨のキリスト、イエス様」、真の父母「再臨のキリスト、文鮮明師」なのです。
天地創造後、最初のアダムは責任分担を果たせず、
イエス様は霊的復帰摂理を完成され、霊的メシア、霊的キリストとして勝利されました。
再臨のキリスト、文鮮明師は霊肉ともの天宙的キリストとして勝利圏を成され、神の創造理想である三代王権、キリスト三大王権の血統血筋を立てられたのです。
このキリスト皇族三代王権が文亨進二代王、文信俊三代王と続くキリスト血統王権です。
そのキリスト血統王権をつくるための夜の神の三位一体の種、三位一体内の永遠の生命として聖子(初臨のキリスト、再臨のキリスト)が天地創造前からおられたのです。
次に、これに関する文國進監査総監の御言から確認します。
ですから、このような観点で見るとき、お父様が言われていたことは、お父様は基本的に生まれる前から存在していたということでありましたが、これは初臨のキリストの教えと同じであり、キリスト教の観点からキリスト論を理解するときに、神様は永遠の神様として存在され、イエス・キリストとして地上に降臨され、その後、神格に戻られました。
そしてお父様が言われているのは、神格から文鮮明師として、つまり再臨主として地上に戻ってこられて、また夜の神様としての神格に戻られたということです。
ですから、お父様が教えられたそのような神学、つまりキリスト論を理解するなら、創造主である永遠の神様、イエス・キリスト、再臨主である文鮮明師の三者は同じ人であり、同じ霊なのです。
サンクチュアリの教えでは、イエス・キリストとお父様は同じ霊であり人であるということです。2016年10月31日 亨進様・国進様との質疑応答
この文國進監査総監の御言で確認考察できることは、創造主神格、イエス神格、文鮮明神格があり、この神格は同じ一つの神の神格であるということです。
同じ夜の神、創造主の神格です。
この「生命あるロゴスとしてのアダム」とは「父子関係の心情という生命」を持つ「愛の理想郷に絶対的に服従する生命本体」であると説明しました。
この生命本体は、神の「父子関係の心情という生命」と愛の理想郷(コンセプト)を中心とした夜の神の神格とイエス神格、文鮮明神格が三位一体で一つになっていたのです。
この神そのものである神格とイエス神格、文鮮明神格の3つの神格が三位一体の一つの神格として夜の神の本性相のなかに創造前から存在していたのです。
この神の本性相の中の3つの神格の三位一体を、この試論原理原相論では「神とイエス様と真の御父様の三位一体」と表現しています。
神の「父子関係の心情という生命」と愛の理想郷(コンセプト)を「アダムのロゴス」といいます。「アダムのロゴス」は唯一です。
「父子関係の心情という生命」を持つ「愛の理想郷に絶対的に服従する生命本体」であるイエス様と文鮮明師は聖子という三位一体の一つの格位の中で、お互い相互内在授受作用する「独り子(独生子)」として創造前から存在しておられました。
これは、聖子が、イエス様と文鮮明師の二人を内包しても、聖子として独生子として一つの格位であったということです。
この「生命あるアダムのロゴス」は唯一であるが故に、その中にある(第一アダム、第二アダム、第三アダム)は一人同一の独生子なのです。
責任分担という理想郷、コンセプトから見るアダムとキリスト
周知の通り、アダムはこの神の創造理想、真の愛の理想郷を実現するための責任分担に失敗しました。
これに関する御言を文鮮明師の原理原本の一節から確認します。
アダムとエバが罪を犯すと、本来、アダムとエバに注入して授けた神の根本の基、すなわち生心を中心に成長し、神が臨在できる基となるべきだったアダムの霊人体(霊)は、悪に犯された自らの体にいることができず、神が引き取られたのである。そして、罪を犯す前の霊が神の右側に座し、第二アダム格として送られたのである。その方が正にひとり子イエスであった。「ひとり子」という名詞の意味もここで明白になる。つまり、罪を犯す前のアダムの霊がイエスの霊に注入され、再び来られたということである。
『原理原本』p89
この原理原本の一節で確認考察できることは、第一アダム格、第二アダム格、第三アダム格があり、イエス様は第二アダム格、文鮮明師は第三アダム格であるということです。
イエス様は神格であり、文鮮明師もまた神格であり、創造主と同じ神格、一つの神です。
しかし第一アダムを神格とはいいません。
これは、
「父子関係の心情という生命」を持つ「第一アダム格、第二アダム格、第三アダム格には「愛の理想郷に絶対的に服従する」ためのそれぞれ一部だけ異なったロゴスがあったためです。
第二アダム格のロゴス、第三アダム格のロゴスは神の本性相の中の性相内ロゴスとして神の内的性相を持っていました。
第一アダム格のロゴスは内的性相ではなく責任分担を持っていました。
この責任分担をアダムが果たす目的は、原理講論にもあるように、
神の創造性に似るため
万物を主管する権限を持たせるため
でした。
この責任分を果たし完成してこそ、第一アダム格に神の内的性相が入ることによって神格になることができます。
それでは、神が引き取られた神の右側に座す「神が臨在できる基となるべきだったアダムの霊人体(霊)」とは何でしょうか?
これは次の原理講論の節を見れば分かります。
創8:9 はとは足の裏をとどめる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰ってきた。水がまだ全地のおもてにあったからである。彼は手を伸べて、これを捕え、箱舟の中の彼のもとに引き入れた
(創八・9)。この最初の鳩は、初めのアダムを象徴しているのである。したがって、このみ言は創世前から神のうちにあったその創造理想が、アダムという完成実体となって実現されることを願って、彼を地上に創造されたが、しかし、彼が堕落したので、彼を中心としては、地上にその創造理想を実現できなくなり、神はやむを得ず、そのみ旨成就を後日に回して、その理想をいったん、地上から取り戻されたということを意味するものである。
この原理講論の一節の通り、神は創造理想をいったん、地上から取り戻されました。
これが即ち、「父子関係の心情という生命を持つ愛の理想郷」という「生命ある性相内ロゴス」なのです。
この事を文鮮明真の御父様は、神様の性相であると次のように言っておられます。
完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。
宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
この文鮮明師の御言は、第一アダムのロゴスはアダムが完成することにより、神様の性相が入るということです。
つまり第一アダムがその責任分担を果たし「父子関係の心情という生命を持つ愛の理想郷」という性相内ロゴスを完成したのなら神の性相が入るということです。
この神の性相とはイエス様の性相であり、文鮮明真の御父様の性相なのです。
このイエス様の性相と文鮮明真の御父様の性相は「父子関係の心情と愛の理想郷に絶対的に服従する性相」です。
つまりこの神の性相とは神様・イエス様・文鮮明真のお父様との本性相三位一体の本性相です。
第一アダムのロゴスは、父と子と聖霊の三位一体の中に、創造前から「生命ある性相内ロゴス」として相互内在授受作用していたのですが本性相はありませんでした。
本性相はありませんが「責任分担」がありました。
この「アダムの生命」とは「責任分担という創造理想のロゴスをもつ生命」です。本性相内の内的性相は無いが本性相内の内的形状として存在していたということです。
・本性相を中心として見るとき、その内部にも性相(内的性相)と形状(内的形状)があり、外部にも性相(本性相)と形状(本形状)があるということになる。性相と形状が共通要素を中心として相対的関係を結べば必ず授受作用が行われる。
・神の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっている。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいう。
【本性相(内的性相 ⇔ 内的形状→性相内ロゴス)⇔ 本形状→構想体ロゴス】
この「生命ある責任分担というロゴスとしてのアダム」は、創造前のイエス様、文鮮明師のように神本体になるためには、創造後「とって食べてはならない」という神の戒命を守り完成し、完成したエバと結婚することでアダムに神の性相が、エバに神の形状が入ることで神の本体となるようになっていました。
性相内三位一体の一なる神は、創造前に、そのようなロゴス、愛の理想郷、「父子関係の心情という生命を持つ愛の理想郷に絶対的に服従する本性相」即ち、「真の愛本体、真の父母」を持っておられたのです。
それがイエス様であり、文鮮明真のお父様なのです。
このようにイエス様、文鮮明師は神と一体となった1つだけの独生子として、生命ある本性相を持つ性相内ロゴスとして、父と子と聖霊の三位一体の一つの格位として、創造前から存在していました。
つまり救世主、メシア、キリストとして天地創造前から宇宙の一なる神本体として存在しておられたのです。
しかし、ともにあったこの第一アダムのロゴスには「父子関係の心情という生命」は存在しても神の性相がありませんでした。「愛の理想郷に絶対的に服従する本性相」がなかったのです。
天地創造前にアダムの生心は生命をもつロゴスとして存在しており、創造後アダムが完成した時に神の性相がアダムのロゴスが実体化したそのアダムの生心に入っていくことになっていました。
この神の性相がすなわちキリストです。それはイエス様の性相であり、文鮮明真の御父様の性相でもあります。
イエス様、文鮮明師は三位一体の神本体であるからです。
それゆえにアダムが堕落する時、この「父子関係の心情という生命を持つ愛の理想郷」という「アダムのロゴス」は、創造前からの生命であるがゆえに決して汚されてはなりません。
アダムの堕落の時、神はこの創造前の性相内三位一体からくる「父子関係の心情という生命を持つ愛の理想郷」という「生命あるアダムのロゴス」を引き取られ、再び神の右座に座すようになったのです。
そして人類に残されたのが、アダムに託された責任分担というロゴスでした。
従って第一アダム自身の完成は復帰摂理が完全に成就し、全人類がその責任分担を果たした時はじめて完成することが出来ます。
● 創造前から犠牲の血を流していた「生命ある救済のロゴス」キリスト
キリストであるイエス様、文鮮明真のお父様にはこの個性完成というアダムの責任分担はありません。
アダムに責任分担を与えるということは、アダムが責任を果たせなかった場合の「救済のロゴス」が必要になります。
つまりキリストはこの人類を救う救世主メシアとして創造前から神の本体として存在していたのです。
第一アダムが責任を果たせなければ、その原罪とその責任はキリストにあるのではなく第一アダムの子孫たちにあります。
キリストに第一アダムの責任があるのなら、いくら原罪が無くても、このキリストは失敗を蕩減しなければならなくなるためアダムの責任、人類の罪を贖う権威も権限も無いことになります。
この第一アダムの責任分担、その原罪は、第一アダムの子孫である男性たちに残されたのです。イエス様、文鮮明真のお父様には、神の息子として創造主の責任があったのです。
それが父の犠牲の愛、寶血です。キリストは天地創造前から既に人類の罪を背負い犠牲の血を流しておられました。
「犠牲の血のロゴス」が創造前の神の本性相に本体として存在していたということです。
それがイエス様でありキリスト文鮮明真の御父様なのです。
「救済のロゴス」において、アダムとエバがその責任分担を果たせないということは、神様にとって子を失うという大変な悲しみです。
それは、この堕落した人類を救うためにご自身の息子を救い主メシア、キリストとしてこの復帰摂理に送らなければならないことを意味します。
この神の息子キリストを、中心人物・選民・人類がキリストとしてメシアとして受け入れることに失敗すれば、結局その人類の罪を息子に背負せて、この罪人失敗者の代わりに息子キリストを犠牲にし血を流させて、この罪人失敗者を救うしかありません。
そういう「救済のロゴス」を立てるしかありません。
しかし、それを思うだけで神様の心情に血が流れました。つまり「犠牲の血のロゴス」です。
救世主メシアキリストである息子もこれを覚悟されました。つまり心臓から犠牲の血を流し、血の涙を流しておられました。創造前から神様もキリストも犠牲の血を流しておられたのです。
そのようにして、この「救済のロゴス」は神とキリストの血の涙、犠牲の寶血「犠牲の血のロゴス」によってつくられたのです。
それは天地創造前から、既に全ての十字架の犠牲の愛により人類を赦し愛しておられたということです。
それだから、創造前からイエス様がおられ文鮮明真の御父様が既に存在し、既に血の涙を流しておられたのです。
一なる三位一体の神による天地創造はこの血の涙「救済のロゴス」をもって始まったのです。
一方、アダムとエバの堕落によって、従って人類にはキリストが来ることができる信仰基台と実体基台の完成という復帰摂理の責任分担と、来られる完成した真の父、真の父母としてのキリストを受け入れる責任分担が残されたのです。
そうして、この人類を救うために完成したアダム、創造前から存在していた神の子、神の実体として「血の涙のロゴス」「犠牲の血のロゴス」と「愛の理想郷のロゴス」を携えてキリスト(イエス様、文鮮明真の御父様)が来るようになったのです。
それ故にキリスト(救世主)なのです。
キリストはアダムのその責任分担遂行如何によっては「愛の理想郷に絶対的に服従する本性相」「真の愛本体、真の父母」として降臨されるようになっていたのです。
イエス様の時、人類がイエス様を受け入れ、真の母も完成していたのなら文鮮明真の御父様も神の三位一体の本性相としてイエス様の本性相とともにおられたのです。
何故ならイエス様と文鮮明真の御父様は、創造前から一つであったからです。
しかし人類はイエス様を十字架に磔たがゆえに文鮮明真の御父様は再臨主として再び来られたのです。
人類はキリストを受入れ従い、キリストが実体の四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成する御旨に参与し、その人類の責任分担を果たすことによってこそ、キリストが創造前から三位一体として持っておられた四大心情圏と真の愛を相続することが出来るのです。そして四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成する責任分担が個々人、祝福家庭にあるのです。
● 責任分担という理想郷、コンセプトから見るエバ
神様の性相がアダムの心に入ることと同様にエバの心には神様の形状が入っていきます。神様の形状は男性格です。ですから当然、その形状の格位は男性格です。
それでは、聖神はどのような方でしょうか。エバが完成したならば、実体の母となっていたはずでしたが、堕落することによって、エバの霊性が神様によって引き取られました。イエス様が地上で新婦を迎えたならば、それがその新婦に再臨して実体の形状をもとうとしましたが、イエス様の新婦の基盤がなくなることにより、イエス様は実体の父母の位置に進むことができませんでした。それで仕方なくイエス様は、聖神と共に霊的父母の位置にだけでも進んでいかなければならなかったのです。そうしなければ、み旨を導いていける基盤も残すことができなかったのです。
(『文鮮明先生御言選集』114-27,1981.5.14)
エバのロゴスは「父と子と聖霊の性相内三位一体」が天地創造の必要性を考えた時つくられました。
つまり最初にこの性相内三位一体の聖霊から創造された生命をもつ「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス:具体的な天地創造のロゴス)でした。
このエバの創造に関わる「本形状とのロゴス」と生命「エバのロゴスと生命」を持つ聖霊を経綸的聖霊といいます。このエバ創造の役事を行う経綸的聖霊を特に聖神と言います。
「三位一体の相互内在の生命」であり「父子関係の心情という生命」であり「愛の理想郷に絶対的に服従する本性相」である「真の愛本体、真の父母」が天地創造を始めるその最の段階で「エバのロゴスと生命」を持つようになった経綸的聖霊、それが聖神です。
この上の御言にある「エバの霊性が神様によって引き取られました」にある「エバの霊性」とは「エバのロゴスと生命」なのです。
この聖神は、このようにエバを創造するためエバのロゴスと生命を持つ聖霊ですが、その格位は女性格ではなく男性格です。
この聖神は非常に女性らしく感じるので女性神として文鮮明師の御言に多数現れます。それは現れが女性であるのであって、その格位は男性格です。
女性霊の創造は実体のエバの創造の時からです。
「父と子と聖霊の性相内三位一体」の神は、この聖神をもって具体的にどのように、アダムよりも先にどのようなエバを創造するか、どのように実体的なエバの身体を造るか考えらました。
その後にアダムの身体をどのように造るかを神は考えました。これが、エバに対する先有条件です。
このようにして造られた絶対性の原理本体である「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)が、前を見れば男性器、女性器と言われた御言の真相です。
その凸凹は誰の凸凹ですか?神様は男性格ですか、女性格ですか?(「男性格です」)神様が男性格であれば生殖器がありますか、ありませんか?(笑)前には男性生殖器、後ろには女性生殖器がついていると考えなければならないというのです。振り向いてもこれも生殖器であり、振り返ってもこれも生殖器なので、男性と女性に分けて出てきたため凹凸が必要というのである!わかったの、わからないの!(「わかりました!)
그 오목 볼록이 누구의 오목 볼록이에요? 하나님이 남성격이에요, 여성격이에요?「남성격입니다.」하나님이 남성격이면 생식기가 있겠어요, 없겠어요? (웃음) 앞에는 남자 생식기, 뒤에는 여자 생식기가 달려 있다고 생각해야 된다구요. 돌아서면 이것도 생식기고 돌아서면 이것도 생식기이니, 남자 여자로 갈라놨기 때문에 오목 볼록이 필요하더라! 알싸, 모를싸!「알싸!」
(「文鮮明先生御言選集」306巻より
「父と子と聖霊の性相内三位一体」の神は、このような絶対性(アブソルートセックス)原理本体である「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)とともに天地創造の前におられたのです。
宇宙の神本体として創造前からおられたキリストは、それ故に一人の男性にして真の父母様なのです。
キリストは「愛の理想郷に絶対的に服従する内的性相」「真の愛本体、真の父母」なのです。
そして、天地創造後、エバが地上に誕生する時、エバの生心は生命をもつロゴスとして存在するようになり、エバが完成した時に神の形状がその完成したエバの生心入っていくことになっていました。
つまり「愛の理想郷に絶対的に服従する本形状」がエバの生心に入ったです。
このように女性格の霊の存在は、エバが具体的に誕生する時から始まります。
つまり女性の霊人体と肉体は聖神により造られていったのであり、女性の霊人体とその生心の具体的創造はアダムを具体的に創造した後です。
そして聖神(「エバのロゴスと生命」を持つ聖霊)が創造したエバが完成した時に、神の本形状がエバの生心に入っていくことになっていたのです。
しかし、エバが堕落することにより、エバの霊性、つまり「エバのロゴスと生命」が神様によって引き取られました。
そして地上に残されたのは「エバの責任分担」というロゴスでした。
これは即ち「アダムの責任分担」が、堕落したアダムの子孫たちに相続されたように、エバの子孫、女性たちに相続されていったのです。
そしてこの女性の責任分担を完成し、完成したキリストの花嫁となられたのが康賢實真の御母様なのです。
従って人類にはキリストが来ることができる信仰基台と実体基台の完成という復帰摂理の責任分担と、来られる完成した真の父、真の父母としてのキリストを受け入れる責任分担、男性にはアダムの責任分担が、女性にはエバの責任分担が残されたのです。
そうして、この人類を救うために完成したアダム、創造前から存在していた神の子、神の実体として、愛の理想郷を携えて「愛の理想郷に絶対的に服従する本性相」「真の愛本体、真の父母」としてキリスト(イエス様、文鮮明真の御父様)が来るようになったのです。
人類はキリストを受入れ従い、キリストが実体の四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成する御旨に参与し、その人類の責任分担を果たすことによってこそ、キリストが創造前から三位一体として持っておられた「四大心情圏」「真の愛」と「真の愛の理想郷」を相続することが出来るのです。
そして四大心情圏と三大王権と皇族圏を完成し「真の愛の理想郷」を完成させる責任分担が個々人、祝福家庭にあるのです。
従ってこの祝福家庭は、「愛の理想郷に絶対的に服従する本性相」「真の愛本体、真の父母」であるキリストとして実体の四大心情圏と三大王権と皇族圏を完全に勝利され地上に残されたこの血統三代王権とこれに続く血統三第王権に侍り、
「真の愛の理想郷」の実体である新エルサレムと天一国を建設し創造本然の天一国を完成させることにより、アダムとエバが残した責任を果たす責任分担が一人一人に残されているのです。
夜の神の三位一体と昼の神の三位一体
● 聖霊は男性格か、女性格か
ここで、聖霊(聖神)は男性格であることを次の亨進二代王、國進監査院長の御言から再確認しておきます。
聖霊(聖神)は女性格であるとする従来の統一原理との整合性は後ほど説明します。
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二代王「聖父聖子聖神 성부성자성신、いわゆる父と子と聖霊は一つの神性から出ていますが、三つの個体の性格を持っています。(2017年6月6日キングスリポート)」
國進様「神様ご自身の中には、男性的な性質と女性的な性質があり、それが神様の二性性相です。ですから、みなさんが見ている聖霊の現れというものは、一人の神様の中にある、その性質の表れであり、それは神様の対象的な相対によって映し出されます。
2016年8月16日Q&A」
<王妃様が文亨進二代王が書れたとその時書かれた図の訳>
「この方は見えない神様の形象」
ここで王妃様は聖霊ではなく聖神と書いておられる。
イエスが教会を導く父の位置にいらっしゃるとしたら聖霊は母のように教会に愛を与える側面だということです。
しかし、教会に侵入した多くのフェミニストたちは、聖霊を女性に変えようとしました。
もちろん、それは完全に異端的な内容であり、キリスト教的世界観を破壊する内容なのです。
聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるものです。聖霊がイエスの妻という意味ではありません。
主体と対象の関係は結婚しない関係にもあります。多くの人が、これを勘違いしていますが。もう一度言います、聖霊は女ではなく、イエスの妻でもありません。しかし、神がイエスの霊人体の対象の立場として聖霊を送られたのです。ここでもイエスの霊人体と聖霊には違いがあります。同一のものではありません。
またイエスの霊体の中にも霊的な体と心(霊体と生心)があり、イエスの生心が神と一つになっているということです。
お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日
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「聖父聖子聖神 は一つの神性から出ている」、そして「聖霊の現れというものは、一人の神様の中にある、その性質の表れ」「聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるもの」ということですから、
「聖霊とは男性である一人の神様の神性の、女性的性質が対象として現れた神の神性である。従って性別を問うのなら男性である神様からの神性なので男性格である。聖父も男性であり、聖子も男性であり、そして聖神も男性である。よって聖父聖子聖神の三位一体も男性格である。」
という結論が導き出せます。
これは、原理講論の
「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。」
という記述の理解について、
中和的主体は男性格であるので本形状的女性とは「圧倒的女性的性質も、あらゆる男性性相の一つ」であるから男性性相格であると理解できれば、聖霊も男性性相格であることが理解できます。
神は、二性性相が中和して一つの統一体である性相的男性格なのですから当然、本形状的女性も、性相的男性として父である神の、あらゆる男性性相の中の一つであるということです。
これは神を父(男性)とする高位(高い)キリスト論の三位一体論と一致します。
ところで、原理講論では、聖霊について、はっきりと
「聖霊(聖神)は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊(聖神)を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊(聖神)は女性神であられる」
と書いてあります。
しかし、お父様は、新しい御言として、”夜の神・昼の神論”を提示され、真の母は昼の神から来たと言われました。
つまり真の母は創造物であり、私文鮮明は、夜の神、つまり創造前から来たのであり、創造前から存在していたという新しい御言を下さいました。
これは父と子と聖霊の三位一体は創造前から存在し、聖霊も当然、創造前から存在したということになります。
しかし真の母は昼の神、創造後の存在ということなのです。
聖霊は創造前から存在し、真の母は創造後であるのなら、原理講論に書いてある聖霊は創造後となり矛盾します。
ここから理解できることは、原理講論で書いてある聖霊(聖神)とは、創造が始まったときの聖霊の役割のことを、原理は言っていることがわかります。
つまり創造前から神とキリストとともに有った聖霊は、創造が始まりエバを創造し、そして真の母をつくる天地創造の役割があったということです。
そのような働きをする聖霊を韓国語原理講論は特に聖神と呼び聖霊(聖神)を女性神、あるいは真の母であると表現したという理解ができます。
このことを、真のお父様は”昼の神夜の神論”により明確にされたのです。
そしてニ代王様、國進監査院長は、聖霊を”キリストの対象である”と言われたのです。
● 聖霊(聖神)は女性格であるとする従来の統一原理との整合性
聖霊(聖神)は女性格であるとする従来の統一原理との整合性について説明します。
聖霊が女性でないとするなら、聖霊(聖神)を女性としてきた原理講論や、お父様の御言に対する齟齬が起きます。
この問題は、縦的真の父母によって横的真の父母が創造されていったことをすでに論じましたが、「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)である「天宙天地創造のためのロゴス形成」の時初めて女性を考えられたことをもって解明できます。
この愛と生命と血統のためにエバが必要なので、「「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)」の時初めてエバ創造を先惟構想されたということです。
天地創造前の性相内三位一体は、この「本形状とのロゴス」を創造し、経綸的聖霊がエバ創造の役事をしていきます。
つまり縦的真の父母(性相内ロゴス)が、横的真の父母を創造するためにエバが必要になったということです。
天地創造前にはエバが存在しないのでエバを創造する必要があるということです。
ですから天地創造後の三位一体における「経綸的聖霊(本形状からの聖霊)」は、その意味においてその役割、その性質において女性神、エバであるということが出来ます。
しかし性相的男性格主体の一つの神性、本形状から来る霊なので男性格です。
ここでこの聖霊を女性神にするのならば神は、女性の霊、女性神という別の神をつくる二元論に陥ります。
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國進様「そしてこれは、異端教会家庭連合の主張の一つでもあり、それはお母様が聖霊であり、女性神feminine spiritだという内容であって、またそれは男性神masculine spiritとは異なるものでなければならないというのです。
しかし、この神学解釈には非常に重大な誤りがあります。なぜなら、女性神を信じるとすれば、一神教を捨てることになり、基本的にお一人である神様を万物の創造主として理解することをやめることになるからです。 2016年8月16日Q&A」
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男性である夜の神様の「本形状からの聖霊(経綸的聖霊)」は天地創造後であっても男性から女性に性転換することはありません。聖霊は三位一体創造前から一つだからです。
女性の霊の創造は女性の創造、エバの創造の時からなのです。エバを創造されたとき初めて女性神、つまり昼の神が創造されるのです。
昼の神の三位一体、つまり天地創造後の三位一体における聖霊はこの意味を表します。
つまり「経綸的聖霊(本形状からの聖霊)」の役割はエバの創造なのです。その「経綸的聖霊(本形状からの聖霊)」の役割の実体として、女性を聖霊実体と我々は呼びます。
聖霊は男性格ですが、その相対としての役割はエバとして現れました。聖霊は男性格ですが、その聖霊の役事は対象としての働くのです。
天地創造前から存在した父と子と聖霊の性相内三位一体は性相内ロゴス(前構想ロゴス)をもってエバを創造しました。
そして創造前の三位一体の、その対象としての役割を果たすためにエバを創造前からの性相内三位一体が創造したのですから、実際の創造されたエバを聖霊実体ということもできるのです。
完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。
宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
神様の形状が女性格だから女性の心の中に入るのではありません。既に論じたように真の愛の理想の形状的側面「愛と生命と血統」の理想愛が、エバ、女性の心の中に入っていくということです。それだからエバは形状であるという表現が可能です。
「経綸的聖霊(本形状からの聖霊)」も同じことです。真の愛の理想の形状的側面「愛と生命と血統」の理想愛その性質その能力が聖霊として現れたので聖霊をエバ、女性と呼ぶことも可能です。
それだから女性を聖霊実体と言うことも出来るのです。
しかしそのように聖霊を女性神、母神と呼称したとしても、性別で言うのなら創造主という神の一つの神性から来ているので男性格なのです。
どうして文鮮明真のお父様は、三位一体における聖霊をエバと言われたのでしょうか?
それは「創造後における本形状からの聖霊(経綸的聖霊)」にはそのような使命が有るからです。その聖霊の役割の実体、つまり聖霊実体として、真の母を求めて来られたからです。
またクリスチャンである真のお父様にとって、性相的男性格主体である神様からの聖霊が別の女性神そのものでないことはあまりにも自明であり、あまりにも当然です。そのため、その役割、性質が女性的なので、それを表すためにエバと言われた、ただそれだけに過ぎないということです。
天地創造後、やっと創造した女性霊、唯一の女性霊であったエバが堕落しました。
神様の三位一体は再び完成したエバの霊の再創造を求めて復帰摂理が始まりました。この女性霊の再創造がメシアの使命です。性相内三位一体において聖父の子、聖子であるイエス様、文鮮明真のお父様が成さなければならない使命です。真の母の創造です。聖婚で終わりではなくこのエバを完成させる使命があります。
これが昼の神における三位一体の意味です。
本来女性を創造する使命をもっている聖霊はその女性霊を再創造するためにイエス様、お父様の対象、助け主(ヨハネ14:15-17)として復帰摂理の開始の時からその使命を持つようになったのです。
完成した女性霊を創造する使命を持っておられる真のお父様であるから、そのような使命を持つ聖霊を女性神と呼ばれたのは非常に納得がいくのです。
真の母を探すために聖霊をエバと表現された真のお父様。そのお父様と聖霊の使命を勝利された方が康賢實お母様なのです。神様が天地創造において求めて来られた完成した女性の霊となった一番最初の女性、完成した真の母が康賢實お母様なのです。
以上の説明で、真のお父様が聖霊をエバ、女性、オモニ神、母なる神と呼ばれたこと、原理講論に聖霊は後のエバ、霊的真の母と書かれている理由を多くの人々が理解できたと思います。
真のお父様が語られ、多くの御言に書かれているこれらの女性に関する御言は復帰摂理におけるエバの再創造、昼の神の三位一体に関してということなのです。
以上、天地創造前の夜の神の三位一体と、天地創造後の昼の神の三位一体、復帰摂理における三位一体について説明しました。
これからは「私は夜の神から来られた」と言われたお父様の御言の観点から聖霊に対する理解する必要があります。
文亨進二代王「聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるものです。聖霊がイエスの妻という意味ではありません。」
聖霊は天地創造において昼の神、女性として現れますが、対象の立場であり、性相的男性格主体という一つの神性の本形状から来ているので性別を問うのなら男性です。
それでは八代教材教本の内容を、夜の神様論に合わせて書き換える必要があるのでしょうか?
結論は必要ありません。
なぜなら、完成した真の母を求めて夜の神様から来られた真のお父様にとって、聖霊を女性と言ってこられたことはあまりにも当然だからです。
私達は三位一体論を天地創造前の夜の神と復帰摂理の観点から、これを知って後世に伝えていけばいいのです。
それは何でしょうか?真の愛のコンセプトの本性相は父子の関係の愛でした。神様の本形状の真の愛の理想は何でしたか?
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。
本形状としての目的は実体的な神様の血統を立てることでした。その血統の果実が何でしょうか?創造前、創造後、復帰摂理における三位一体の実体は何でしょうか?
真のお父様の三代王権です。
ですから、この天地創造以前の三位一体の心臓を受け継いだ実体が三代王権ということなのです。
原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -4 ◆ 絶対性、愛は感覚ではない愛は父子の愛
愛は愛ではない。愛は感覚ではない
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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。
どうして愛は愛ではないのか。
愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。
子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。
だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。
だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
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「愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。
この御言のように、愛は愛ではありません。愛は感覚でもありません。
しかし、「愛は愛である、その愛の感覚が大切。その感覚こそが神の愛」とする、お父様が、文亨進二代王が異端神、サタン主義文化として批判排斥される、そのような異邦神の女神がキリスト教会にさえも掌握し世間を支配し闊歩しています。
この十字架に表された愛が絶対的男性の父母の愛、縦的父子関係の愛、アガペーの愛なのであり、ここに女性を対象として思うエロスの愛は微塵もありません。感性でも感覚でもありません。
同様に夜の神様の、真の愛のコンセプトに、女性を対象とした愛は無いことが分かるのです。
夜の神様から来られたイエス様の愛が、このような絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛ですから、
イエス様の父である夜の神様の愛も同じように、
このような愛、つまり絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛の、夜の神様という結論が導き出せるのです。
「愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。
人類を導かれた神様は血の涙を流していかれました。血の涙を流しながら真の愛に従順屈服しながら人類を導いてこられました。
その血の涙の、愛したいという対象は父子の関係でした。
イエス様が十字架で、この父子関係の真の愛に絶対服従されるときの夜の神様のご心情はどれほどの痛みと悲しみであったでしょうか。
しかし夜の神様を全人類を愛するがゆえに、この父子関係の真の愛に絶対服従していかれたのです。
このように真の愛に従順屈服したい愛は極めて強い父の男性性相の心情動機の中核なのです。
その外的愛として流れる愛が「愛と生命と血統」であるので、神様は縦的真の父母なのです。
絶対性の愛に、神様は父子関係の縦的愛として臨在される
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神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て、「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。
(9-168, 1960.5.8)天聖教 p100
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経
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男女が絶対性(アブソルートセックス)の関係を結ぶ時においても、当然ながら、神の創造物であり神様の感覚に無い絶対性のエロスの愛にも、真の夫婦の愛にも、神様が絶対服従することはありません。
夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、、「愛と生命と理想」の実現、このように、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、その愛の目的が成し遂げられる喜びなのです。
神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。
神様は、このイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に絶対服従したいのです。
神様の愛の喜びは、このように人が考える快楽のような喜びは一切ありません。その真の愛のコンセプト、目的が成し遂げられる喜びなのです。
この根本的な喜びの違いを認識しないと、神様への認識、真の愛への認識を大きく勘違いし間違ってしまいます。
ですから夫婦が結ばれる絶対性の愛は、本質的にはイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服する横的父母の愛として、その血の十字架の犠牲愛の目的を成し遂げるためのロマンスの愛、エロスの愛であるということです。
そしてこのロマンスの愛、エロスの愛は、あくまでも絶対的男性である神様の縦的父母の愛である父子関係の愛が、横的に展開し実を結ぶために神様が創造した横的愛なのです。
絶対的男性、絶対縦的真の父母の愛である神様は、愛を実体化するためには、女性という存在が必要であり、そうであるなら絶対性(アブソルートセックス)も必要であるとして、横的真の父母を創造していかれたからです。
夜の神様にこれらの被造物は存在しないのです。
このように、アダムの体の中に神様が入り喜ぶという意味を、神がこのようなエロス的愛の刺激を受けるためと考える信徒もいますが、まったく違います。
エバは神の妻であるという意味合いをそのように考える信徒もいますが、まったく違うのです。
もしもこのようなエロスの愛が神の目的であるとするならば、イエス様が示された血の十字架の縦的父子の関係の愛に絶対服従したい愛ではなく、父親が娘と交わることを真の愛とするとても悍ましい愛の神になってしまいます。
アダムとエバが男女の関係を結び喜ぶ時、神様は人に与えた、そのようなエロスの愛を感じて喜ぶのではありません。神様にはそのような感性感覚はまったくありません。
夜の神様から始まった、天地創造の縦的真の愛である父子関係の真の愛の目的が達成されることを喜ばれるということであり、愛と生命と血統の天地創造理想の実現するための対象であるという意味でエバは神の妻であるということなのです。神様のエバの関係に性愛は一切ありません。
神様は、そのようなイエス様が示された血の十字架の、縦的父子関係の真の愛に絶対服従し臨在されるのです。
完全なるプラスの神様に女性的対象は存在しない
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完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは、宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は、誰でしょうか。これが問題です。神様は、なぜ人を造られたのでしょうか。人は、神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。
(129-138, 1983.10.9)天聖教P86
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完全なプラスである神様には女性的存在、女性的対象は、夜の神様の位相には存在しません。夜の神様はそのような絶対的男性です。
絶対性の愛は、真の愛の中心軸である父子関係の縦的愛に絶対服従する横的愛の関係であり、そのように父子関係の縦的愛を横的に展開し実体化するために、神様は完全なるマイナス、横的真の父母の愛と、絶対性の愛を創造されたのです。
この時初めて、父子関係の縦的愛を実現させるためには、完全なるマイナスとして女性、エバが必要となり、「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス:具体的な天地創造のロゴス)の段階からエバの創造から始まりました。
つまり夜の神様がご自身が男性格であるという自覚は、「本形状とのロゴス」形成の時からであり、このロゴス形成の時に、横的真の父母の愛の創造のために被造物であるエバを創造されたときからです。
夜の神様は真の愛の種の所有者として創造以前に存在しておられました。
「父子関係」を内的目的として、「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種の所有者であり、真の愛の主体なので夜の神様は絶対的男性格です。
そしてこの真の愛の種は「生命と血統」の種でもあるので、真のお父様は、夜の神様のことを縦的真の父母と呼ばれるのです。「生命と血統」という意味で母の言葉はありますが、この父母という言葉には一切のいわゆる母やそのような女性的要素は一切ないのです。
夜の神様は完全なるプラスであり縦的真の父母です。
それゆえに夜の神様ご自身が絶対的男性であり縦的真の父母であることに覚醒されたとき、完全なるマイナス相対的実体存在として横的真の父母が必要になり、この時初めて、実体的に生命をうみだす存在として女性という存在をロゴスにおいて考え創造されました。
エロスの愛、ロマンスの愛もこの時、横的に真の愛が展開し四大心情圏の真の愛が実体的に実ることを目的として創造された被造物なのです。
夜の神様の先有条件
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ですから、絶対価値観のための絶対条件とは何でしょうか。アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。それが「先有条件」です。先にある条件ということです。女性が先に形態を備えて現れたのではないのです。姿形を構想された神様は、女性に合うように男性を造られたのです。女性がいなければ、男性のような姿形にはなりません。ですから、何を「先有条件」にしたのかといえば、見えない女性であり、それを手本にして男性を造られたのです。
第九回「安侍日」 2004年7月8日 麗水・清海ガーデン
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このお父様の御言はまさに「横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました」という意味の御言です。
横的真の父母を創造するためには、夜の神様の位相の縦的真のアダムのために、横的な存在、女性という存在を創造する必要性がありました。これが絶対条件なので昼の神の位相のアダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うように横的存在である昼の神の位置のアダムを造られたということです。
女性先惟という本来の神様の構想の位相は、横的真の父母を創造するために「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)「天宙天地創造のためのロゴス」を創造されたこの時に、「先有条件」として女性を先惟されたということなのです。
「先有条件」として、神様は女性を手本にして、アダムを造られましたが、このアダムとは横的真の父母におけるアダムであり、「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)の創造、天地創造が始まったときからの横的アダム、昼の神様の位置のアダムということなのです。
当然ながら、この「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)「天宙天地創造のためのロゴス」形成の太初に、絶対性の愛、ロマンスの愛も構想され、創造していかれました。
女性という存在はその概念も含め、「本形状とのロゴス」「天宙天地創造のためのロゴス」形成の時からであって、それ以前はまったく存在してないのです。
横的真の父母様の構想、実体的四大心情形成に必要な愛の要素はこの時、夜の神は構想されたのです。
その横的真の父母の愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心を決定し得る最初の因縁が、父子関係です。
この「父と息子の関係」という絶対男性的縦的真の父母の愛に、真のアダム、イエス様、真のお父様は既に「永遠の生命ある性相内ロゴス」として存在しておられました。
だから、イエス様を、真のお父様を、夜の神様から来た真のアダムというのです。
一方女性は、天地創造の太初に「天宙天地創造のためのロゴス」の「先有条件」として構想され創造された被造物であるがゆえに、そして創造以前の夜の神の内的性相の位相では存在しない存在であるがゆえに、エバのことを昼の神と言うことができます。
ですから、真のお父様は、夜の神様から来た真のお父様と、昼の神様から来た韓鶴子総裁との争いのことを、「夜の神と昼の神が戦っている」と表現されました。
そのように「女性先惟、先有条件」この御言の本当の意味は、「イエス様、真のお父様(性相内ロゴス)は、「天宙天地創造のためのロゴス」である「本形状とのロゴス」形成、天宙創造の太初に昼の神様の位置のエバを先に考え、昼の神様の位置の横的アダムを創造された」ということなのです。
ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
このヨハネの福音書1:3の聖句の通り、すべてのもの、つまりエバも、これ、真のアダム、イエス様(生命ある性相内ロゴス)によって創造されたのです。
真の愛、縦的神の愛と真の父母の愛
ですから真の母とは夜の神様の父子の縦的愛が、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を考えた時に先惟された創造理想の種(命あるロゴス)の実現を求めて形成されたロゴスを起源とする被造物ということなのです。
父と子と聖霊の三位一体で見るならば、時間と空間創造以前に夜の神様とともに三位一体としておられた真のお父様(イエス様)は真の母を創造した縦的天の父母であり、真のお父様はロゴスにおいて、横的天の父母を創造したということなのです。
ですから横的天の父母は、縦的父母である夜の神様の被造物だということです。
これがお父様(イエス様)が、夜の神から来て、女性(真の母)は昼の神から来たと言われる理由がここにあります。
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神様は何をもっているかといえば、男性的性稟と女性的性稟をもっていらっしゃるというのです。二性性相の主体という言葉が出てくるのです。それで、統一教会は、「二性性相の主体が神様である」という素晴らしい結論を下すのです。見えないものがプラスであり、見えるものがマイナス的父母です。見えない父母が原因的であり、見える父母は結果的です。ゆえに、愛を中心として一つになるのが父母の位置ですが、神様は見えない父母であり、これは見える父母です。これは何かというと横的父母であり、これは縦的父母です。
(宙の根本 第二章一、1.人間の男性と女性
皆さんは真の愛の定義を知らなければなりません。真の愛とは神の愛と真の父母が一つとなったものです。これが永遠に変わらないものです。なぜならば神が中心であり、真の父母が実体としているからです。
創立三十周年記念日に際して 1984年5月1日
その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。
韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会
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この3つの御言から、
「神様は見えないプラス的、原因的父母つまり縦的父母であり、
(真の父母は)見えるマイナス的、結果的父母、つまり、横的父母です。
真の愛の定義は、縦的神の愛と、横的真の父母の愛が一つになったものです。
神の縦的愛と真の父母の愛を一つにすることができる愛の基準を、血統を通して生命体を中心として再び実らせる(実現する)愛が真の愛です。」ということです。
そして、真の愛は、血統を通した生命体を中心として実現するということです。
真の愛の基準が、血統を通した生命体を中心としてその実体に現れてこそ、真の愛の体が実現したといえるということです。
物事を実現するためには、基準がなければなりません。
夜の神が天地創造をしようとされたその縦的神の愛の基準は何か、その真の愛の基準は何を中心として設定されたのでしょうか?
その真の愛の実現の基準は、血統を通した生命体を中心として設定されたということです。
縦的な神の愛とは、天地創造以前の夜の神の愛です。その夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定されたということです。
ではどうして、夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定したのでしょうか?
「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された」
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経
夜の神の愛の基準は、上記の御言のように、父子の関係がその基準であるということです。
この天宙創造の中心である父子の関係を、天地創造の原理の段階で創造されたのではなく、夜の神様の創造前の意識のなかに既に存在していた真の愛の基準が父子の関係であったということです。
この夜の神様の「父子の縦的愛」が真の愛の起源であり、中心なのです。
ですから、縦的な神の愛とは、夜の神様の「父子の縦的愛」のことを言うのです。
ところで愛とは観念ではなく実際に目に見えなくとも実体として存在しなければなりません。
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その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。
韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会
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そのような真の愛とは、縦的な神の愛と横的な真の父母の愛が一つとなって実ったものが、真の愛です。
夜の神様の「父子の縦的愛」が「横的真の父母の愛」が一つになったものが、真の愛であるということです。
この夜の神の「父子の縦的愛」が夜の神の無意識の中に既に存在していたがゆえに、夜の神は、父子の関係を先惟し、これが真の愛の基準となり父子の関係の三位一体が、真の愛の起源となりました。
そして、この真の愛の起源は、愛と生命と血統が実ること、実現するために天宙創造の原理、ロゴスが形成され、天宙創造が始まったのです。
このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえに、この父子の関係を天の父母ということもできるのです。
この父子の愛が、夜の神の愛の中心ですから、夜の神の愛を縦的父母の愛ということも可能なのです。
それだからお父様は神様を縦的真の父母と言われるのです。
神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母になっていたことでしょう。そのような二つの父母の血肉を受けて生まれた人間の心は縦的な自分になり、体は横的な自分となって、一心、一体、一念、一和の人生を営むことができたでしょう。
2007年6月13日、韓国の天正宮博物館
夜の神様が一なる男性格でありながら、その愛は縦的な真の父母の愛であるという理由は、このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえだからなのです。
アダムとエバが横的真の父母になる愛の条件
夜の神様は「縦的な真の父母」であり「アダムとエバは横的な真の父母」になるべきでした。
ではアダムとエバはどのように愛を結べば横的真の父母になれたのでしょうか?
「神様は縦的な父」という言葉が出てきます。真の愛を中心として神様は縦的な父であり、アダムとエバは真の愛を中心として横的な父母です。縦横が90度で定着するのです。これが宇宙の根本です。結局は、神様が結婚式をするために人間を造られたというのです。神様の愛のために創造されたというのです。このように解明することにより、すべての根本的な難問題が解決されるのです。
天聖経(252-319, 1993.1.5)
それは、夜の神様の縦的真の父母の愛と、横的真の父母の愛が90°に焦点を合わせ定着することだったのです。
そのような「縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる因縁で、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせること」を成せば、アダムとエバは、横的真の父母になることが出来たのです。
すでに論述したとおり、父子の関係の縦的真の父母の愛は、エバ、真の母を創造することがロゴスの起原でした。真の母を創造しなければ横的真の父母を創造することが出来ません。
そのエバが真の父母になる愛の基準が、横的真の父母の完成になるのです。
その基準の中心点が、夜の神様の縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が90°に交差するところなのです。
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そこで一つになってぶつかる日には、360度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経るのです。このような愛の力が爆発すれば、男性と女性は完全に一つとなり、その中に神様が入っていかれるのです。神様は二性性相になっているでしょう? 「原理」で論じている二性性相の主体としていらっしゃる神様は、どのような方ですか。二性性相の神様であると同時に、二性性相の中和的主体としていらっしゃいます。その主体の本質は何ですか。愛だというのです。絶対的愛だというのです。
宇宙の根本 第二章三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です。これが歴史的な問題であり、宇宙創造以降の重大な問題です。これが解決されない限り、宇宙の根本が解決されない限り、絶対に結果が解けないのです。真の愛を中心としては、神様は核の位置に立たなければなりません。それでは、アダムとエバは何でしょうか。アダムとエバは、核を包み込む二つのかけらと同じです。皆さん、くりのようなものを見れば、二つのかけらになって胚芽を包んでいるでしょう? それと同じように、神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになるのです。
宇宙の根本 第二章一、1.人間の男性と女性
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「神様の愛と人間の愛がいつ一つになるのかということが問題です」。
神様の愛と人間の愛はいつ一つになるのでしょうか?
それは「神様が核の位置に立つ中心点」ということです。
つまり縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が90°に交差してこそ、その中心点が神様が核の位置に立つことが出来るということなのです。
そのように縦と横の真の愛が90°に交差してこそ、「360度、四方に行くすべての力の作用がこの点を経る」ようになるのです。
そしてその神様の縦的真の父母の愛が360°となり、横的真の父母の愛を360°包む時、完全なる真円球形体の真の愛となっていくのです。
そのように、縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛を90°に交差することにより、「神様を核として、男性と女性が愛を中心として完全に一つになる」ことができるのです。
それでは90°に交差させるためにはどうすればいいのでしょうか?
それは、夜の神様の愛の種、愛のコンセプト、「父子の関係」による「愛と生命と理想」の対象である「愛と生命と血統」を基準にして合わせるということなのです。
完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。
宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点
このようにして、形状、女性をつくるに至った本形状が女性の性相に入り、そして男性には、縦的真の父母の性相が入って行くようになるのです。
ところが、アダムとエバは、この夜の神様の縦的真の父母の愛に、自分たちの横的真の父母の愛を90°に交差させることができず、長成期、60°の角度で間違った愛の関係を持ったが故に、極めて破滅的、破壊的、悪魔的な「愛と生命と血統」を持って、神様を悲しみのどん底に陥れることになってしまったのです。
アガペーの愛、エロスの愛
前項、「父と子と聖霊の三位一体は天宙の中心、父子の関係を表す」では、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であり、真の愛が犠牲の愛であるアガペーの愛であるのは父と子の関係の愛を中心とするからであることを述べました。
即ちアガペーの愛とは父と子の関係が中心であり、それが真の愛の原相ということです。
一方、エロスの愛は、自分に欠けたものを得たいと求める衝動、それはロマンスの愛であり、性的な愛として現れます。
従って、絶対性の愛は世俗的エロスの愛ではなく、絶対相対関係における真のエロスの愛です。このようなエロスの愛は、父子の関係を中心とする真の愛、夜の神の位置、三位一体の位置には一切存在しません。
もう一度、真の愛、アガペーの愛について確認します。
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。(天聖経)
血統が生命より貴く、愛よりも重要であるという理由は、神様の真の愛の種とその生命は、父子の縦的アガペーの愛を中心として、この「父と息子」の縦的な血統を通して続いていくからなのです。
宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるから、父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるということです。
つまり、真の愛とは、父子の関係の愛、父子の縦的愛、父子のアガペーの愛であるということです。このような真の愛を中心軸として父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛の四大心情圏の愛が造られていくということです。
夜の神様はその四大心情圏の中心軸、この縦的な父子の愛に絶対服従したいのです。
私達はこの父子の縦的愛、父子のアガペーの愛の実体である王権を幕屋とする共同体です。
エロスの愛は夜の神の被造物
このアガペーの愛に対し、アダムとエバの絶対性、エロスの愛とはどのような愛でしょうか?それは生命を創り出すために、神様が創造された重要な要素です。
しかし、絶対性の愛は神様の父子の関係の縦的愛を、横的に展開するための横的愛であって神様の創造物であって、神様ご自身にはありません。そのような感覚も一切、神様にはありません。
夜の神様が最も先に考えた対象が父子の関係でした。
宇宙の中心、性相内三位一体の中心である父子の関係は、神様の真の愛の種とその生命は、「父と息子」の血統を求める縦的愛です。
夜の神がこの三位一体において、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を先惟したことにより「本形状とのロゴス」を形成する絶対精子思想(生命ある性相内ロゴス)が現れ、さらに、そこから「父と息子の関係」の対象として女性(「本形状とのロゴス」)を考えたのです。
父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるから、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。
ロマンスの愛、エロスの愛と、アガペー犠牲の愛は明確に違います。
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愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。
現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。
ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!
流される血。だから宝血と言うではないか。
ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!
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犠牲の愛が真の愛の中心です。それは父が子女のために犠牲になる愛です。
その犠牲の愛が血として流されたのです。
そのように流れた愛の血は、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。
真の愛の中心は、感覚の愛、ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではありません。神様との父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるがゆえ流された犠牲的愛、アガペーの愛の血なのです。
夜の神様は100%男性格であるのに、その真の愛は真の父母の愛であるという意味は、このような縦的父子の愛から来て、このような横的な父母の愛を作り出した縦的父母の愛ということであって、一切の女性性相の要素がない完全男性性相の縦的な父子の愛なのです。
それだから夜の神様は、父と子の関係を対象としたとき、その生命と血統を実体的に被造世界に創造するため、女性が必要となり、「天宙天地創造のためのロゴス」の先有条件として先にエバ、女性を考えられたのです。
そしてアダムを具体的に考え、絶対性、エロスの愛が必要になり、エロスの愛を創造していかれたのです。
アガペーの愛が神的愛であり、エロスの愛は人的愛とキリスト教哲学でいわれているのは、エロスの愛が神の被造物であるからです。
絶対性の愛は夜の神の被造物
性は被造物です。
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サタンは性を武器として使用しますが、神は愛のために使用されます。神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。彼らの心情的な関係と彼らの生き方において親密さを証明できるようにされるのです。
文鮮明先生は性依存症なのか再臨主なのか◆ 2024年4月3日
絶対性は絶対者、神様が定められた性です。ですからこの世俗的な倫理的な基準ではありません。絶対性は失われた創造本然の性、すなわち神様の血統を言う概念です。ですから絶対性は神様の血統です。ですから、真のお父様は自身が絶対性の主人だとおっしゃいました。
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「神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。」
「絶対性は絶対者、神様が定められた性です。」
絶対性とは夫と妻の関係を、性の喜びをもって深く結束させるために、神様が使われる神様が定められた被造物です。
絶対性(アブソルートセックス)は、神様の血統のために神様が定め創造された性、横的愛であるということです。
定めるということは、創造する前段階で必要なことです。定めないで創造することは出来ません。絶対性を「天宙天地創造のためのロゴス」の中心ロゴスとして設定した者こそが、創造主なる神様なのです。
神様が定めた絶対性、つまり絶対性は神様の被造物だということです。
そして神様が絶対性を創造したということは、神様にはもともと無かったということです。つまり、このように性を定める神様には、そのような性の喜びの感覚、感性は無いから、アダムとエバのために絶対性という具体的創造ロゴス(本形状とのロゴス、構想体ロゴス)を設定、定めて創造され、使用されたということです。
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天聖経
根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。
「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。
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男性と女性というペア・システムの共鳴とは何でしょうか?絶対性の共鳴です。共鳴するとは何でしょうか?絶対性の愛の喜び、真のエロスの愛によって共鳴するということです。
男性と女性というペア・システムの共鳴は「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と、神様が定めたものです。
ですからこの共鳴は神様が創造された被造物です。つまりペア・システムの共鳴という愛は真の愛を中核として造られた神様の創造物です。
このようにペア・システムの絶対性は神様の被造物ですし、絶対性の愛の喜びもこの被造物によって生じるのであって、これを定めた創造主には、この絶対性の愛は無いということです。
つまり、アダムとエバの愛の核におられる神様の喜びとして、これは多くの人が勘違いしているのですが、神様はアダムとエバの絶対性の愛の中で、喜ばれるという意味は、神様が「天宙天地創造のためのロゴス」である絶対性の愛自体、エロスの愛の喜びを神様が感じて喜ばれるのではありません。
つまり絶対性という「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)を設定した神様には横的愛、そのような絶対性的なエロス的な感性感覚は本質的に持っておられないということです。
絶対性の愛の喜びは神様がアダムとエバに与えて下さった贈り物、創造物です。
それではこの絶対性の共鳴の中における神様の喜びとは何でしょうか?
神様が設定し創造された、その絶対性の愛を横的な愛として、この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が、実体化していくことに対する喜びなのです。
血統が、生命より貴く、愛よりも重要だからです。
横的真の父母の愛、女性の愛も被造物
では「横的真の父母の愛」とはどのような愛でしょうか
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愛の観念が先か、それとも、男・女が生まれることによって愛の観念が生まれたのか、どちらか。真剣な質問だ。愛の観念が初めだ。
神は愛のためにこの世界を造ったのだから、愛を目的にしなければ、被造世界も造られません。
何故神は相対世界を造られたかというと、真の愛のためである。
真の愛とは一体どんなもの? 為に生きるというのはどんなこと? 神の願いに沿って生きるということはどんなこと? その基準は一体何か、はっきり答えなさい。真の愛の出発点は、神が相対者を造る。
聖酒式の御言1971年8月24日
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神が相対者を創る真の愛の出発点とは、どの位相でしょうか?夜の神の原相でしょうか?原理本体、「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)の位置でしょうか?
すでに論じたように、父子の関係という縦的真の愛の観念が先であり、次に「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と神様が思われた結果、創造されたのが「本形状とのロゴス」なのです。
ここで夫婦の二性性相の愛、夫が妻を思い愛と妻が夫を思う愛が創造され、絶対性の愛が創造され、このロゴスで男性・女性という意味での父母の愛が創造されました。
このように夫と妻の愛、絶対性は昼の神の位相に存在する被造物であることは前項、「アガペーの愛、エロスの愛」にて論じました。
三位一体の中心は父子の関係であり、その愛の関係は縦的な愛、父子の愛であるがゆえに、女性は夜の神の原相”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であり、女性の愛も、”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であるということです。
従ってこの”父と子と聖霊の三位一体”の愛の関係は、愛と生命と血統を求めて横的な男女の愛も創造する必要があったのです。
女性先惟は「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)形成の時
このような女性の愛という横的愛を創造する時、ここで女性を先惟する必要性が出てきます。神が男性格であるがゆえに女性を考えたということが出てきます。
しかし神様は、父子の関係の縦的真の愛であられるので、エロスの愛を創造することが出来ても、エロスの愛を感じることはありません。女性的な対象を感じるという感覚はお持ちではありません。
エロスの愛はすでに論じたように夜の神様の、アダムとエバへの贈り物なのです。
夫が妻を思う愛も、妻が夫を思う愛も、父子の愛を基準として造られた愛であり、従って絶対性も被造物ということです。
”父と子と聖霊の三位一体”とは、このような縦的父子の愛を言うのであり、一切の女性的性相も絶対性の愛も存在しないアガペーの愛であるがゆえに、女性を対象として創造する必要があり、その横的関係のために絶対性の愛を被造物として創造されました。
創世記2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」。
創世記2:23においてアダムは女性に女という名をつけました。エバではなく女です。
これは、アダム、男性が第二創造主として女性を創造したということです。
ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
そして、ヨハネ1:3において、被造物の中でイエス様によって造られなかったものは一つもなかった、即ち、女性もイエス様、男性によって造られた被造物だという聖句です。このように女性とは夜の神様の原相、”父と子と聖霊”によって創造された被造物なのです。
横的真の父母の愛は縦的真の愛で創造されたロゴスの愛
ここで、愛と生命と血統のために父子の愛を核として、男女という意味で横的父母の愛が創造されました。
このように、父子の縦的愛を核として横的父母の愛が創造され、絶対性が創造されたのです。
それは神様とともに天地創造が始まった太初に存在した「本形状とのロゴス」(構想体ロゴス)によってということです。
これが真のお父様が、神様は、前を見れば男性生殖器であり、後ろを見れば女性生殖器であると言われた神様、つまり「天宙天地創造のためのロゴス」に現れた神様ということになります。
この「本形状とのロゴス」は当然、父子の関係の縦的愛を核として形成されました。絶対性の愛も、アダムとエバは実際に愛を交わすときにも、当然ながら、この父子の関係の縦的愛、アガペーの愛を核として一つとなることが、この「本形状とのロゴス」、「天宙天地創造のためのロゴス」の構想理想であることは言うまでもありません。
この父子の縦的愛には絶対性の愛は一切無いことは先に論じました。
夜の神様にこのようなエロス的愛の感性は無いことも論じました。
妻と夫、アダムとエバ、これらの愛、お互いを思う感性感覚は、アダムとエバに絶対性の愛の喜び、エロスの愛として、神様が与えてくださった被造物だからです。
神の愛の喜びにエロスの愛の喜びはない
ですからアダムとエバが絶対性を交わす時、神様がアダムの体を自分の身体にされた時、感じる喜びは、絶対性愛の喜びではないということが分かります。
この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が実体化していくことに対する喜びなのです。
エロスの愛は神の創造物であり、神様には本来的にエロス的感性がもともと有りませんから、アダムの体を自分の身体にされて、その絶対性の愛の中に在ってもエロス的愛は一切感じることはありません。
では絶対性における神の喜びとは何でしょうか?
アダムとエバの絶対性の交わりの時、神様が感じる喜びは、父と子と聖霊の縦的な父子の縦的アガペーの愛の感性が、その創造理想の対象である生命と血統が創造され、父子の真の愛が実現されることを感じる時生じる、父子の愛の喜びです。
それは、親が仲睦まじい子供夫婦を見る喜び、子供夫婦が子女を抱いている姿を見て喜ぶ喜びに似ています。
それだから、天地創造主が夜の神様の原相、三位一体としてアダムの体を借りて、つまり実体を持って成そうとされる、この縦的な天の父子の愛の目的は、この「本形状とのロゴス」、「天宙天地創造のためのロゴス」によって創造された被造世界に、実体的父子の関係として神様の血統王権、つまりアダムの三大王権を立てることであり、復帰摂理においてはキリストの三代王権をたて、その上で三大王権を立てるということなのです。
アダムとエバの絶対性の時、絶対性のエロスの愛でアダムとエバが喜ぶ時、神様が感じる喜びとは、神様がその絶対性に臨在され天地創造の中心目的が成される喜びということなのです。
この神の喜びに、官能的な、エロス的な感性的な愛は、神様にはまったくないのです。
ルーシェルとエバ、その命をかけて愛し合ったエロスの愛
ところが、エロスの愛で堕落したエバとルシファの子孫であるがゆえに、祝福を受けて、宗族王と王妃になっても、この官能的なエロスの愛で、この性的二性性相の愛と感性で、アダムとエバの愛の核に臨在される神様の喜びも同じものだと考えてしまいます。それが真の愛だと勘違いするのです。
なぜ勘違いするのでしょうか?エバは取って食べてはならないというルーシェルとの愛に、本気で死んでもいいと、ルーシェルに命を捧げ愛を捧げて真剣に愛し合いました。
命をも捧げる犠牲の愛であるがゆえに、これをアガペーの愛と真剣に勘違いし、過ちの愛であるとことさえも分からないで、この愛を求めるのです。
エバのその生命を越えて愛を求めあったその感性が面々と引き継がれてきたので、この過ちの愛こそが真の愛と信じ込み、この過ちの愛が真の愛にとって代ってきたということです。
過ちの愛といえども、そのような人類最初の、命を捧げた愛ですから祝福を受け神の血統になっても、どんなに御言を学んでも、愛は原理より強いがゆえに人々の愛の情念に現れてくるということなのです。
これはメシア、キリストでさえも取り除くことのできない過ちの愛の記憶、過ちの愛の感性なのです。
しかし、神にはそのようなエロスの愛、ましてやその愛に包まれるというような感覚はありません。その愛の感覚はルーシェルのエバの愛で包まれて強烈な愛の減少感を癒したと思ったエバに対する愛が起源であり本体なのです。
このルーシェルとエバの愛については、別の論、<異端の夜の神>で論じたいと思います。
<異端の夜の神>女性先惟先感論が言う真の愛とは1◆共通概念考察
<異端の夜の神>
女性先惟先感論が言う真の愛とは1
共通概念考察
夜の神の位相において女性を願う神学論の真の愛について考察します。
これは、天地創造前に女性的存在を置く神学、夜の神に男性と女性の二性性相を考える神学が該当します。
家庭連合は夜の神様も男性と女性の二性性相で考えます。
聖殿でも夜の神様を男性と女性の二性性相で考えるケースが多いようです。
「夜の神も男女の二性性相である」「創造の先有条件として夜の神様は女性を願われた。」「夜の神様は女性を先に考えられた。先惟された。」「夜の神様は、何か女性的なものを先に感じた。」「神様の理想相対。」
これらの神学は、『女性に対する関心、それは女性的な存在に対する思考であったり、感覚や感性であったり、女性的な何らに対する感心を中心軸として神様は天宙創造された。従って天宙の中心は「神様の女性に対する関心である」』とする真の愛の起源論です。
これらを総合的に称して女性先惟先感論といいます。
本来、真のお父様の言われる女性の「創造の先有条件」とは、実際に天宙天地創造を始める前、天宙創造のためのロゴスを創造されるとき、先に神様が女性を設計されたという意味です。
ところがこれら女性先惟先感論は、真の愛に女性的存在をおき、女性的な存在に対する思惟、関心、感覚、感性が、真の愛の起源であるとする神学です。
しかし女性先惟先感が真の愛の起源ではありません。
天宙創造の以前から神様は「父子関係を願われました」ではなく、「女性を願われました」あるいは「感じた」と、「父子関係」ではなく夜の神様の太初から女性に関心感覚があったというのですから、この女性に関する関心感覚が縦的真の愛の起源だとこれらの女性先惟先感論は主張します。
愛の反対は無関心、愛とは関心をもつことから始まります。
願うにしても先惟するにしても関心がなければ始まりません。
関心とはある事物に特に心を引かれ、注意を向けることだからです。
ですから、そのためにはその事物が既に存在しなければなりません。
関心をもつにはその事物を感じる必要があります。先感する、つまり先に感じる必要があります。
「父と子と聖霊の三位一体」が夜の神の永遠から存在するということは、父と子と聖霊が夜の神が関心を持つその時から存在したからということです。父と子の関係を先感したということです。だから真の愛の縦的愛の起源が「父子関係」であることは既に説明した通りです。
ですから、夜の神様の永遠の段階で、夜の神様が関心を持った、先感した存在が女性的対象であるとするならば、その対象が既に存在したということです。
感じ思うとは、情緒的感情的に既に存在していた、ということを示します。
「父子関係」を先感すれば、この「父子関係」が既に夜の神様の無意識の中に存在し真の愛の中核になったということに対して、
女性的対象を先感した場合、そのような女性神が夜の神様の無意識に存在し、これが真の愛の縦的愛、中核になったということになります。
これが女性先惟先感論が言う真の愛のコンセプトということです。
ですから、この女性先惟先感論は、先に考えるというより女性を先に求める、あるいは引かれる感性がもともとあったという、女性先惟どころか女性先感神学と言える神学で
あるという結論になるのです。
この女性先感神学を次のように、定義できます。
『神様は女性を先惟先感したのですが、この関係がもつ特定の内容が何か? 男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生で先惟あり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、女性先惟先感の関係です。
つまり、女性先惟先感神学は夜の神様が男性格主体であるがゆえに女性的対象に心を引かれ、その刺激を求める感性感覚の因縁が、天宙の愛の中心を決定しえる最初の因縁なのです。よって夜の神様は、その女性的対象に対する関心愛を因縁に縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が交差する中心核を定め原理を創造し、時間と空間をを創造し天宙創造、天地創造をした』とする。つまり女性先惟先感神学は「真の愛の中心核は女性的対象に対する関心」と主張する神学です。
(女性先惟先感神学)
本来のお父様のみ言と比較してみます。
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神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。(69-78)
天聖教57p
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真のお父様は『父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』『それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です』と言われました。
しかしこの女性先惟先感神学は『男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』『それを決定し得る最初の因縁が、女性先惟先感の関係』とお父様の御言を書き換えるのです。
それだから、結局は『夜の神様が男性格主体であるがゆえに女性的対象に心を引かれ、その刺激を求める感性感覚の因縁が、天宙の愛の中心を決定しえる最初の因縁なのです。』
という真の愛の心情の本質をこの感性感覚に規定してしまうのです。
ところが、真のお父様の『父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』と言われる御言よりも、
この『男と女が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です』という女性先惟先感論の方が、心ときめく人が多いでしょう。
なぜなら父子関係の愛は、イエス様の血の十字架の愛、血の犠牲の愛であり、
一方この女性先惟先感論はロマンスの愛、エロスの愛、感性感覚の愛であるからです。
さらに言えば、人は、エバとルーシェルとのこのロマンスの愛、エロスの愛の感性感覚を引き継いでいるからです。人類最初の愛はルーシェルとの死を覚悟した恋愛でした。エバとルーシェルも全てを犠牲にして生命をかけて真剣に愛し合ったのです。その危険な恋の蜜の味、そのような危険なロマンスの愛の感性感覚を堕落により引き継いだエバの末裔でもあるからです。
絶対性の愛、真のロマンスの愛、そして横的父母の愛は、神様がことばロゴスを形成される時、ことばロゴスに存在するようになった概念による夜の神の被造物であることは先に説明しました。
しかし、この夜の神女性先惟先感神学は、このようなロマンスの愛、絶対性の愛を、真の愛の中心核にし、この絶対性の愛が宇宙の中心軸とする神学ということになります。
そのように「女性との関係の愛」「絶対性の愛」の根源を、ロゴスではなく、そのロゴス形成以前の、天宙を創造しよう思われた、夜の神様の意識の始まりに求める神学です。
そしてその本来夜の神様が先感した「父と子の関係の愛」は、ロゴスの中にある、つまり「父と子の関係」は神の創造物であるとする神学であるということになります。
従って女性先惟先感神学のいう真の愛とは、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様ということになります。このような「女性的対象との関係の愛」「真のロマンスの愛」「絶対性の愛」に絶対服従したい夜の神様であるということになるのです。
女性先惟先感の愛は、父子関係の愛を主管性転倒する
これは絶対性の愛の起源が、時間と空間、四位基台を作り出すロゴスにではなく、夜の神様自体に真のロマンスと絶対性の愛の起源がもともと存在したとする神学です。
つまりこの場合、真の愛の中核が、縦的な愛である父子の愛ではなく、横的な愛である絶対性の愛、男女の二性性相の愛、エロスの愛であるということになります。
真の愛の核が縦的は真の愛である父母の愛ではなく、横的な絶対性の愛、エロスの愛が中心核を決める縦的愛になってしまうのです。
そして「父子の関係」がロゴスの位相にあるとするこの神学では、父子関係の愛は、縦的な愛ではなく横的な愛へと入れ替わってしまうのです。
「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された」
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
このみ言が、女性先惟先感神学で解釈すると
「天宙の中心的法則・原理は、女性的対象との関係です。それがすべての出発点です。そのようにこの宇宙が女性的対象との関係で創造された」(女性先感神学)
と、このように、その天宙の中心的法則・原理、全ての出発点が、女性的対象との関係の愛に主管性転倒されてしまうのです。
「天宙の中心的法則・原理であり、すべての出発点である関係」とはどのような位相関係にある関係を言うのでしょうか?
原理、法則、理法(ロゴス)を形成するにあたって一番の中心的基軸になる、全ての出発点なのですから、ロゴス構想以前に存在していなければなりません。
つまり夜の神様の位相にて、さらには夜の神様の無意識の世界から存在していたということなのです。
愛とは関係であることは説明しました。
「真の愛の定義は、縦的神の愛と、横的真の父母の愛が一つになったものです。神の縦的愛と真の父母の愛を一つにすることができる愛の基準を、血統を通して生命体を中心として再び実らせる(実現する)愛が真の愛」でした。
ですから「天宙の中心的法則・原理であり、すべての出発点である関係」とは縦的神の愛、つまり夜の神の愛であるということです。
ですから、この「父子の関係」は明らかに夜の神様の縦的愛、天宙創造前の夜の神様の真の愛であるのです。
お父様は「夜の神、昼の神」に御言を言われる前から、「縦的神の愛」という表現で夜の神、「横的真の父母の愛」という表現で昼の神のことを言っておられたのです。
そして夜の神から、お父様が来られと言われたのは、キリスト、真の父の愛は、この縦的真の愛からこられた夜の神様とともに創造以前から存在したということを明らかにされたのです。
それであるのに、女性先惟先感神学は、このお父様のこの御言はロゴスの位相のことであると規定してしまいます。
父子の関係という天宙の中心的法則・原理は、全ての出発点ではなく、女性的対象との関係という縦的愛によって創造された天宙の中心的法則・原理の一つであるとしています。
つまり父子の関係の愛の神性を、夜の神様から昼の神様の横的愛に、縦と横、主体と対象を入れ替えた上に低めています。
この父子の関係を、ロゴス形成の時に形成された中心的ではあるがロゴス、理法の一つであると横的な中心法則に変質させているのです。
この父子の関係は、女性的対象を先感する絶対性の愛を縦的愛を中核として、創造された横的愛にしてしまいます。
即ち、これは縦的愛と横的愛を逆転、逆主管してしまっているのです。
その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。
韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会
この、お父様の御言は「真の愛とは(父子の関係の)縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び(父子の関係の)愛の基準を実らせること」が本来の御言です。
端的にいえば縦的神の愛と、横的な真の父母の愛の統一は父子関係の愛によってなされるのであり、真の父母の愛は父子の関係を基軸とすることによって真の愛になることができるということなのです。
ところが女性先惟先感神学では、
「真の愛とは(女性的対象との関係の)縦的神の愛と、横的な(父子の関係の)真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び(女性的対象との関係の)愛の基準を実らせること」、
端的にいえば縦的神の愛と、横的な真の父母の愛の統一は女性的対象との関係の愛によってなされるのであり、真の父母の愛は「女性的対象との関係」によって真の愛になることができると、このようにお父様の御言を主管性転倒し捻じ曲げているのです。
ですので女性先惟先感神学のいう真の父母の愛とは、父子の愛ではなく、女性的対象との関係の愛を中心軸とするエロスの愛なのです。
ですから、夜の神様は、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様、エロスの愛に絶対服従したい非常に感性感覚的な神様になってしまうのです。
エロスの愛、性愛は縦的な父子関係の愛によって主管されてこそ、真の愛の中の一つ、夫婦の愛になります。
ところがこの父子関係という中心核を外してしまった愛は、横的に流れてしまい、自由恋愛的愛、感覚的愛、快楽愛、官能愛へと変質していくのです。
つまり夜の神様が、感覚愛を中心核とする官能愛の神様になってしまうのです。
女性先惟先感の愛は、父と子と聖霊の子を女性に変えてしまう
女性先惟先感の真の愛とは(女性的対象との関係の)縦的神の愛ですから、父と子と聖霊の三位一体における父子関係を、父と息子の関係から、父と娘の関係に変えてしまいます。
つまり子とはイエス様、お父様と言いながら、本質は独生女という偽りのイエス様が、その関係の位置にすり替わるのです。
女性先惟先感の愛に絶対服従したいということは、その女性的対象との愛に絶対服従したいのですから、父と子と聖霊の三位一体という時、この子とは女性になってしまうのです。
そして、この独生女は夜の神様の種を、ロゴスからの被造物、昼の神の種に位相を移し変えるのです。
女性先惟先感の真の愛は、夜の神から来る種を消し去り、独生女の絶対卵子は夜の神から来るようにしてしまうのです。
女性先惟先感の愛は、イエス様を夜の神様の位置から追放する
夜の神様は、父子関係の縦的父の愛、縦的真の父母の愛によって、横的真の父母を創造するため、まず先に女性を創造することを考えられました。そうして昼の神の位相のアダムを考え創造していかれました。
この縦的真の父母の愛と横的真の父母の愛が交差するその中心を決定する最初の因縁が、「父と息子の関係」です。その夜の神様とともにいた息子がイエス様であり、真のお父様でした。
ところが、女性先惟先感神学がいう、この夜の神様の位相の太初に存在するとする女性先惟先感の愛は、この夜の神様の位相から、この三位一体の位置からイエス様をお父様を追放し、そこに独生女を置いてしまう愛なのです。
女性先惟先感の愛は、父と子と聖霊の三位一体を創造物にする
女性的対象との関係愛が神様の縦的愛であり、父子関係がロゴスの時に存在するのであれば、「父と子と聖霊の三位一体」は夜の神、昼の神のどの位相に存在することになるのでしょうか?
「父と子と聖霊の三位一体論の中心的法則・原理は父と子の関係」でした。
女性先惟先感神学は、父子の関係はロゴスとして形成された、昼の神に位置するとします。
ですから、女性先惟先感神学によれば「父と子(息子)と聖霊の三位一体」は昼の神の位相に存在する、ロゴスの位相でつくられた夜の神様の創造物となってしまいます。
それでは、女性先惟先感神学においては「父と子(息子)と聖霊の三位一体」はどのような愛を縦的愛として造られるのでしょうか?
女性先惟先感神学は「女性的対象との関係の愛」を、真の愛の縦的愛とします。
つまり、「父と子(息子)と聖霊の三位一体」の愛は、「女性的対象との関係の愛」によって横的に造られた愛であるとするのです。
女性先惟先感神学は「女性的対象との関係の愛」が「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を縦的に主管するという神学、
或いは、女性先惟先感神学は「父と子(娘)と聖霊の三位一体」が「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を縦的に主管するという神学なのです。
「父と子と聖霊の三位一体」は次の聖句から来ているのは皆様、周知の通りです。
ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
ヘブル 1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。
これらの聖句は三位一体論において重要な聖句です。
ところが、「父子の関係」「父と子(息子)と聖霊の三位一体」を昼の神の位置、ロゴスの置く女性先惟先感神学により、この2つの聖句の性質は次のようになってしまうのです。
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼女は世にいた。そして、世は彼女によってできたのであるが、世は彼女を知らずにいた。
この終りの時には、独生女によって、わたしたちに語られたのである。神は独生女を万物の相続者と定め、また、独生女によって、もろもろの世界を造られた。
このように女性先惟先感神学においては『「父と子」「父と子と聖霊の三位一体」、即ち、御子、イエス・キリスト、真お父様は「女性的対象との関係の愛」によって創造された昼の神であり、「女性的対象」が夜の神から来たのである』という神学がその正体なのです。
つまり、夜の神から「父と子(息子)」「父と子と聖霊の三位一体」が消えてしまい、イエス・キリスト、真お父様は夜の神から来た方ではなくなってしまい、代わりに「女性的対象」が夜の神から来たということです。
散りばめられた数々のお父様の御言、聖書の御言を着飾りながらその本質、正体を隠しているのです。
このように女性先惟先感神学の三位一体論は、父子(息子)関係を昼の神とします。そして「女性的対象」を主体、「父と子(娘)と聖霊の三位一体」が主体の、夜の神様の位置であり「父と子(息子)と聖霊の三位一体」が対象であるとします。このように縦と横、主体と対象の逆転、逆主管してしまう三位一体論なのです。
父子の関係よりも男女の関係を求める愛
女性先惟先感の愛が、夜の神様の縦的愛であるならば、愛と生命と血統の目的は、女性的存在との実体的な愛の関係になってしまいます。
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
この御言が
生命より貴く、血統よりも重要なものが愛です。
に書き換えられてしまいます。
これは天宙を創造し生命を生み出し、血統をつなぐのは女性的存在との実体的愛の関係を永遠に結ぶためということになります。
つまり父子関係の愛よりも女性的存在との愛がもっとも重要だということになるのです。
ところが、人々は「愛と生命と血統」のなかでいちばん重要なのは「愛」だと思いこんでいます。お父様の血統が一番重要だという御言を知っていても、無意識的に「愛」だと思いこんでいます。
女性先惟先感の愛は、「生命より貴く、血統よりも重要なものが愛です」という意味なので、人々は女性先惟先感の愛に魅了されてしまうのです。
しかしイエス様の愛は「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です」という父の犠牲の愛でした。
父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛
このイエス様の十字架も血の犠牲の意味は、私達に対する父子関係の愛からくる父親の犠牲の愛でした。
父子関係の愛は、愛と生命と血統、アダム王権、キリスト王権を血統、血筋として残すためにありました。それが出来ないことが分かった時、イエス様は十字架の道に従順屈服に殉じ、その真の父の愛を貫かれました。
しかし、父子関係の愛よりも女性的存在との愛がもっとも重要とするこの女性先惟先感の愛は、子女よりも女性的対象との愛の関係になりますから、イエス様は十字架の道を選ぶ必要はありません。イエス様は、信仰基台を立てたマグダラのマリアのような女性たちと愛の関係を結び、子をなしながらそのキリスト血統王権、その血筋を成せなよいということになります。いわゆる血分けの救いになってしまいます。そのような血分けの王権になってしまうのです。
子女は、この男女の愛を永遠に継ぐための生命、単なる道具になってしまいます。父子関係よりも男女の愛が重要になり、この男女の愛のために子女を犠牲にしてもよい愛になってしまうのです。
女性的対象との関係愛に絶対服従する夜の神の姿
従って女性先惟先感論のいう真の愛とは、この女性先惟先感の愛に絶対服従したい神様ということになります。このような「女性的対象との関係の愛」「絶対性の愛」に絶対服従したい夜の神様であるということです。
このような横的な絶対性愛を真の愛、その核とする夜の神様が、被造世界にあらわれる神様はどのような神様になるのでしょうか?
愛の感覚神の正体
女性的対象との関係という横的関係を先惟先感する神は、この横的愛である男女の関係の愛に服従したい神様になってしまいます。
神様は男性であるがゆえに、女性的対象の愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛を求める神ということになります。
つまりアダムとエバの絶対性の愛、絶対エロスの愛の関係のなかで、エバのエロスの愛を感じて喜ぶ神になってしまうのです。
それは、この神様は絶対性の愛に服従する、このような神様の姿とは女性の愛の刺激に囲まれて喜ぶ悍ましい神の姿になってしまうということです。
エロスの神、性愛に恍惚とする神という悍ましい神になってしまうのです。
女性からの対象的愛に抱擁され、そのような性愛に恍惚と喜ぶ、そのような神が夜の神であり、そのような神様を天の父として愛し栄光を捧げなければならないということになりますが、わたし達はそのような神様にイエス様の十字架に殉じて神様にその愛と生命と敬愛をささげることが出来るのでしょうか?
この女性的対象の愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛は、エロス的な性的愛の刺激ですから、特定の女性でなくても良いということにもなります。
一人の男性、一人の女性という結婚の絶対性は、父子関係の縦的愛という天宙的基準からきます。
その基準が、その中心がないがゆえに、愛の刺激に触れて喜ぶ横的愛を天宙の中心基準とするがゆえに、男女の性的関係は一人の男性と一人の女性という根拠がなくなり絶対性の秩序が崩壊してしまうのです。
つまりこの神は女性なら誰とでも性関係を結びたい神様になってしまいます。
男と女を創造したのは、多くの男を通じて、性の悦楽を得るためのすべての女性と淫乱関係をむすぶ神ということになります。
女性から見れば、神様は男性の体を借りるだけなので、どの男性と性関係を結んでも問題ないという倫理道徳を生んでしまいます。
或いは特定の男性だけを立てて、そこにこの神が宿り、数多くの女性と性関係を結ぶということにもなるでしょう。
このように「天宙の中心が愛と生命と血統を求める父子の関係」が縦的基準でなければ、性の関係の相手は特定の男性と女性でなければならない必然性も、絶対性も無くなってしまうのです。
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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。
神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。
子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。
しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
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本来、夫婦の絶対性愛は、イエス様が示されたこの神様の十字架の血、神の父の愛が聖霊として臨在する中での愛の関係です。
本来、神様の父子関係の縦的父の愛の喜びとは、夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、イエス様が十字架で示されたその真の愛の目的が成し遂げられる喜びであり、この真の愛の神性が実現するために夫婦の愛に臨在されるのです。
神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。
ところが、女性的対象との関係という横的関係を先惟先感する神は、この女性からの対象的愛に抱擁され、そのような性愛に恍惚と喜ぶ悍ましい神になってしまうのです。
さらには、神様がエロス的刺激を感じることがそのような感覚が宇宙の中心なら、そのエロス的刺激を与えてくれるのなら、どのような女性相対的な存在でもいいということになってしまいます。
つまり相手が男性でも女性的相対として神様を迎え入れるのなら、神様もその感覚に喜ぶ神になってしまいます。
つまりゲイセックスの中でも喜ぶ神になってしまうということです。性的愛の刺激、感覚が宇宙の中心だからです。ゲイセックスの相手のためにアガペー的に全てを犠牲にして捧げる愛になります。このような神はそのような性的犠牲の愛もアガペーの愛というようになるのです。
そして、その対象的に抱擁される感覚は動物でもいいということになります。獣姦の中でも喜ぶ神ということになってしまうのです。
そして次に来るのは小児性愛、子どもたちとの性関係です。
絶対性の愛の神聖さ、その天的高貴さは、父子の縦的愛である父子のアガペーの愛を中心として、この父子の愛に従順屈服するときに、その神々しい神聖さを持つのです。
ところが対象として父子ではなく、女性を先惟したり先感したその絶対性の愛は、神様を対象の愛で抱擁されるがゆえに、神様の神聖を地に貶める非常に下賤な、汚らわしい醜い愛になってしまいます。エロスの愛ではなくエロチック、ポルノチックな醜い愛になってしまいます。行き着く先は小児性愛児童性暴行です。
この女性先惟先感神学は、夜の神様をこれほどまでに貶めてしまうのです。
つまり女性先惟先感神学は天のお父様に対する侮辱以外の何ものでもありません。
このようにイエス様の父の犠牲の十字架の愛を貶める極めてサタン的な愛なのです。
堕落は、天使長がアダムによって、愛の基、権力の位置に立つことのできないその愛の嫉妬、その満たされない思いを、エバの対象的愛に抱擁されて、その満たされない愛の減少感を癒やすために、エバを誘惑することから始まりました。
つまり支配権力の前にエバを先惟先感したということです。
ルーシェルは単にエバを利用しただけではありません。
ルーシェルはエバに、それまで経験したことのない抱擁感を体験し愛に目覚めました。ルーシェルは男女の愛に覚醒し本気でエバを愛するようになったのです。
アダムとエバを堕落させこの地上を支配するようになった堕落天使、ルシファーの
その堕落天使の思いが、その動機と経路に基づく感性感覚が女性先惟先感神学という神学として、この地上に現れたのです。
それ故この女性先惟神学に悍ましさを感じる人もいるでしょう。
一方で、この女性先惟先感神学に秘められた、強烈な死のロマンスの愛に魅了され、恍惚となる人もいるでしょう。ほとんどの人が魅了されるのではないでしょうか。
人は、エバと天使長との生命をかけた死のロマンスの愛の結果として生まれました。ルーシェルもエバも死んでも良いと生命をかけて真剣に愛し合ったのです。原理軌道を逸脱するほどの激しい死のロマンス、熱情的愛をの愛、エバはどれほどそのロマンスの愛にときめいたことでしょうか。
エバがアダムを求めた時、アダムのことを愛していたでしょうか?
いいえ、ルーシェルとの愛の恐怖から逃れたい、本来の位置に戻りたい、それだけです。
ではエバは、アダムと夫婦となってアダムを心から愛したでしょうか?
いいえ、ルーシェルとのその激しい愛、その危険なロマンスの愛、この初愛を忘れられずルーシェルに対する恋心を持ち続けたのです。
人はこの堕落の原体験、原記憶、原初愛のエバとルーシェルとのこの危険なロマンスの愛、エロスの愛の感性感覚、その恋心を引き継いでいるがゆえに、この愛に魅了される人は多いことでしょう。
そのような観点で、原理を学べば学ぶほど、お父様の御言を学べば学ぶほど、このロンスの愛に惹き込まれる人、そのような観点で御言を解釈するようになる人もいるでしょう。
これは原理よりも強い愛の問題、初愛の問題であるため、この女性先惟先感神学のロマンスの愛から目覚めるのも非常に難しいかもしれません。
女性先惟先感の神は女神、両性具有神である
結局女性先惟先感の縦的父母の愛は、神様を父とし先有条件で存在した女性を神、女性神とする、天の父母の男女の愛です。
家庭連合で言う天の父母です。
結局、夜の神様は男性であると主張しながら、この夜の神は女性神に主管される神です。陽陰二性性相の愛に主管される神です。
このように夜の神様の位相で女性的対象を先惟先感する神とはどのような神でしょうか?
女性的対象を先惟先感することにより、女性神を創造する神とはどのような神でしょうか?
女性的対象を先惟することにより、イエス様、真のお父様を夜の神様の位置から追放し主管性転倒しようとする神とはどんな神でしょうか?
神を主管する陽陰二性性相の愛の神とはどのような神でしょうか?両性具有神です。
陽陰二性性相の愛に主管される神です。
その正体は、独生女であるという女性神をうみだした、天の父母という両性具有神だということです。
このように「神様は男性だから女性を先惟して」と言った瞬間に、家庭連合と同じ二性性相の性愛、エロスの愛の神に陥ってしまうのです。
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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。
しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
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このように女性先惟先感神学は結局、愛を感覚に変える異邦神の女性神、サタン神学なのです。巧妙に女性神、アスタルト、アシェラ、アシュタロテを忍ばせている女性神学です。
これは宇宙の中心と中心の因縁を合わせる縦的真の愛である父子関係からイエス様、真のお父様を追放し、そこに独生女をイエス様であると偽って置き換えることにより、愛と生命と血統の中でもっと重要な血統を貶める両生具有神がこの偽りの夜の神の本当の姿です。
つまり神の種、血統を対象にし、女性を主体にして主管性を転倒させ、イエス・キリストの真お父様、神の種、神の血統、血筋を台無しに消し去ろうする偽りの夜の神なのです。
ロマンスはサタンの誘惑、エバはルーシェルとのロマンスで堕落しました。だからこの感性を相続した人々はこのロマンスの神学、神様は男性だから女性を思った感じた、このような感性感覚を大変好みます。
しかし、結局女性先惟先感神学は、愛を感覚にすることにより、高位キリストのお父様とイエス様を夜の神様の位置から低位キリストの人間的位置まで低め、独生女を夜の神の妻の位置まで神性を高める神学です。
このようにして、キリストの血統、血筋を、父息子から、母娘の血統血筋に変えてしまいます。
そのようにして、結局は、父と息子の関係からくるキリスト王権、三代王権の血統を、根絶やしにしようとする、サタンの企みが潜んでいる両生具有神、女神学なのです。
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