2015年7月20日月曜日

2015年7月19日 「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」 文亨進 ほぼ全訳

2015年7月19日 「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」 

Deep Faith with God


ヘブル人への手紙11:1-3、6

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰ゆえに賞賛された。信仰によって、私達は、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現われているものから出てきたのでないことを悟るのである。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来るものは、神のいますことと、ご自身を求める者に報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである。


今日は神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう。この聖句について少し考えて見ましょう。信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。これが今日の礼拝のテーマです。しかし、その前にその背景をお話しましょう。


お母様の指導の下、天聖経は80%変えられ、天一国国歌、家庭盟誓、聖婚問答も変えられました。一神教から二元論に変えられ、天一国憲法から原理講論が除外されました。私は何度も、このことを言ってきました。









そして、お母様ご自身を神やメシヤと呼び、従順な対象の位置を離れました。メシヤの血統以外は全てサタンの血統です。サタンの血統である韓氏族の血統をお母様は神の血統と宣言し、お父様の玉座に座るようになりました。



これらのことを話す時はいつも、私はとてもつらいのです。なぜならお母様は私の母だからです。


2013年の基元節の祝福の時、このようなことが起こっていたとは、私達も知りませんでした。祝福指輪の内側にお母様の名前だけが刻まれているのです。お父様の名前が祝福指輪から消されてしまいました。

祝福指輪はあなたの指にはめられ、神様と共にかわした祝福の永遠の契約を象徴するものです。そこにお母様の名前だけしかないのです。それだけでも、とても信じられないことです。

私達は今このような状況にあります。このような状況が、どのようにして起こったのでしょうか。これは私達にとって、また、私達が次世代の子女を教育していくにおいても、とても重要なことです。

どのようにしてお母様は、魂の闇夜を消化したのでしょうか。信仰者の道や、キリストに向かっていく道には、必ず魂の闇夜があります。それは信仰の路程の一部です。いかにそれに対応するかが、あなたがどのような道を行くかを決定するのです。

では、お母様はどのようにこの「魂の闇夜」に対応されたのでしょうか。信じることとと信仰の違いは何でしょうか。これは私達の信仰生活にとって、とても深刻な質問です。

ウエブスター辞典に載っている「信仰」という言葉の定義をみてみましょう。

1.誰かか何かの中にある強い確信または信頼
2.神の存在に対する確信、強い宗教的感覚または確信
3.宗教的信念の体系

信仰とは何かを確信することですね。私達は皆何かを確信しようと努力します。

私達が魂の闇夜に直面する時、私達は神様に「私は何を間違ったのでしょうか。なぜ私は今魂の闇夜を経験しているのでしょうか。」と尋ねます。

私達が信仰上の問題に直面した時、私達の一般的な反応は「神様、私は何を間違ったのでしょうか。」と問いかけることです。それでは、信じることと信仰の違いは何でしょうか。

カルビンは信仰について次のように述べています。「信仰は私達に神様が願うことを知らせてくれる。したがって、信仰と神様が願っていることは、聖書の中で直接つながっている。」

信仰は単に確信だけではなくある種の知識でもあります。ただ信じることだけではないのです。信仰は神様の願いを私達に知らせてくれるものなのです。信仰を通して私達は神様の願いを理解することができるのです。

それは私達にとって最高の知識です。信仰は神様から受けるもので、私達が生み出すものではありません。このことは私達の心を広げることでしょう。

信仰は神様から受けるものです。それは決して私達が生み出すものではありません。それはとても興味深いことです。

ローマ人への手紙12章3節を見てみましょう。

私は、自分に与えられた恵みによって、あなた方一人一人に言う。思うべき限度を超えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰のはかりに従って、つつしみ深く思うべきである。

言い換えれば、神様は私達一人一人に信仰のはかりを与えているということです。これは、私達が普通信仰と考えていることと180度違う考えです。

次にエペソ人への手紙2章8節から9節を見てみましょう。

あなた方の救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方から出たものではなく、神の賜物である。

これが信仰者が陥りやすい問題です。私がこれを信じたから、私が祈祷条件をしたから、また私が断食したから私の信仰は深まっている。私達は私達の信仰を生み出していると考える傾向があります。

このことに対する問題点は、自己満足に陥りやすいことです。信仰は神様からの贈り物なのです。信仰は自分の内部から来るものではなく、外部から来るものなのです。

信仰は神様からの贈り物で、私達に神様の願いを知らせてくれる知識なのです。信仰という言葉のギリシャ語は「説得すること」と言う意味です。これは、私達が私達自身を説得するという意味ではなく、神様が私達を説得するということです。それは神様の意思による知識です。

それは大きな滝の下で、私達が信仰の水をつかもうとしているのではなく、私達が手を広げて、落ちてくる信仰の水の中に入っていくようなものです。そして私達は信仰という神様からの贈り物に感謝するのです。

また、それは誰かがあなたの家のドアをノックするようなものです。信仰とは神様からの贈り物で、あなたがドアを開けて受け入れるものです。これはとても興味深いことですね。

これは、私達が普通考えていた信仰と言う意味から、全く違うものです。私達が、私達は信仰がないと悩のは、それは、信仰が私たち自身の中からくると思っているからです。

しかし、信仰が神様からの贈り物だということがわかれば、あなたの考え方は完全に変わります。

チャールズプライスという神学者の信仰と信じることに関するすばらしい文章を紹介したいと思います。

私達は、信仰は神様から与えられた恵みであるにもかかわらず、私達の心の状態のようにしてしまった。私達は神様が与えてくださった時にだけ信仰を受け取るのである。

あなたは信仰を生み出すことはできない。あなたは約束を信じることはできる。そして同時に、それに適した信仰を持たないこともある。

純粋な聖書的な信仰は、私達の能力によるのではなく、私達の心に与えられた深い神聖な意識によるのである。それは神様だけが与えることのできる信仰で、神様の意思とは矛盾しない。

私達が神様を信じることを信仰と呼ぶのは間違えである。キリストは生きた言葉であり、私達にとって十分なものである。

私達が神様との約束を信じることについて考えて見ましょう。それは私達の祈りなどを通してなされますが、信じることは私達の責任であり、きわめて重要なことです。

しかし、キリストとの個人的な出会いは、彼と彼のみことばとの本当のつながりであり、それは信じることを信仰に格上げするのにいつも必ず必要なことです。

信仰はただ信じることではなくて、それは人間の魂の中に与えられる神様からの贈り物なのです。それは深い意識の中にある、神様との約束はなされるという知識なのです。

もしあなたが、キリストとの個人的な出会いが、彼自身か彼のみことばとの間になければ、それは信仰ではありません。それがなければ、あなたは何かをただ信じているだけなのです。この違いがわかりますか。

信仰が何であるかを理解することはとても重要なことです。原理講論の総序にはどのように書いてあるかを見てみましょう。

今まで神を信ずる信徒達が罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うことがなかったからである。

神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄へ引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。

ここにはっきり書かれている通り、神様に対する実感が必要なのです。キリストとの出会いが必要なのです。そうでなければ、あなたはただ信じているだけで、それは信仰ではありません。

聖書には、からし種程の信仰があればあなたは山を動かすことができる(マタイ17:20)と書いてあります。この小さな種は神様から来ているのです。そして、この小さな種は宇宙を動かす力があるのです。

私達が信仰をこのように理解すれば、私達は信じることと信仰の違いを知ることができます。

次に、マタイによる福音書8章5節から10節までを見てみましょう。

さて、イエスがカペナウムに帰ってこられた時、ある百卒長がみもとに来て訴えて言った。「主よ、私の僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています。」イエスは彼に、「私が行って治してあげよう。」と言われた。

そこで百卒長は答えて言った、「主よ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人のものに「行け」と言えば行き、他の者に「来い」と言えば来ますし、また、僕に、「これをせよ」と言えば、してくれるのです。」

イエスはこれを聞いて非情に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエルの人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」

この百卒長の信仰を見てください。彼がキリストに出会いに行く時、彼はキリストを信じていたです。そして、彼がキリストに出会った時、このような信仰を示したのです。「ただお言葉をください。そうすれば僕は治ります。」と言ったのです。

このように信仰はキリストとの出会いに直接つながっているのです。それは、キリストかキリストのみことばとの関係が必要なのです。最初にみことばがあったのです。そしてみことばが実体化されたのです。

キリストは生きたみことばです。キリストに出会うか、キリストのみことばに出会わなければ、私達は信仰を持つことができません。それがなければ、何かを信じただけで、固い信仰には到達できません。

私達の生活においても同じことです。そのために私達は聖霊やお父様との交流の経験を求めているのです。そして、時が来た時、お父様の恵みによって私達が信じていることが信仰に格上げされるのです。

その信仰に私達が到達した時、私達は山をも動かす力を得るのです。からし種ほどの信仰を得る為にも、私達はキリストに出会わなければなりません。それは必要なことです。

私達はお祈りする時、「私が神様に出合うことができるようにしてください」とお祈りしてください。

次にマタイによる福音書9章20節から22節を見てみましょう。

するとその時、12年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスの後ろから衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、治していただけるだろう、と心の中で思っていたからである。

イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女は、その時にいやされた。

これは長血をわずらっていた女の話です。この話をよんで、「そうか、私はそれを信じさえすればよいのか」と思うかもしれません。しかし、それは違います。

信じることだけでは、いやしは起こらないし、祝福を受けることもできません。それは重要なことですが、信仰ではありません。その女性がイエス様に近づいて行く時、その衣にさわればいやされることを信じていました。しかし、彼女はそれに触らなければなりません。

皆さんは神様に触りたいですか。私達は神様に触らなければなりません。触らなければ信仰を持つことはできません。

ただ信じることは、信仰とは大きく違うことです。ローマ人への手紙9章31節から32節を見てみましょう。

しかし、義の律法を追い求めたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。

どれだけの統一教会の人が、行いによって得られるかのように追い求めているでしょうか。私の努力によって、私の信じる心によって、私は私の信仰基台を作る。それはすでに信仰を誤解しているのです。

信仰によらないで、私達自身の努力によって義を求めているのです。ガラテヤ人への手紙3章21節から22節を見てみましょう。

では、律法は神の約束と相いれないものなのか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義は確かに律法によって実現されたであろう。

しかし、約束が、信じる人々にイエスキリストに対する信仰によって与えられる為に、聖書は全ての人を罪の下に閉じ込めたのである。

ここに「キリストに対する信仰によって与えられる」と書かれています。「私の信仰によって与えられる」とは書いてありません。イエス様に対する信仰によって与えられるのです。

誰が絶対信仰を持っていますか。信仰は与えられるのです。信じることは一部であり、私達の責任ではありますが、それは信仰ではありません。信仰は信じることが神様から与えられた意識に昇華されたときなされるのです。それは岩のように固いものです。

私がお母様と過ごした時のことを思い出すと、お母様に何が起こったのかを知ることができます。お母様が魂の闇夜を経験した時はいつも、何か暗い行動をしていました。

お母様には習慣がありました。子供達に「なぜお父様はこうなんでしょうか。」とか、「なぜお父様はこのようなことをされるのでしょうか。」とか言われていました。このような考えをいつもされ続けていました。

お母様はキリストと一緒におられたのですが、お母様の信仰は全て彼女自身から来ていたのです。お父様と共にいて、多くの恵みがお父様を通して来ている事を理解できなかったのです。

それが、自己憐憫に陥り、独善的になりました。それは、「全ては私がやった。私がお父様を作った。私はこんなに苦しんだのに、お父様はそれほど苦しまなかった。私が彼を作った。」と考えるようになられ、しだいにまわりにいる悪魔達に操られるようになってしまったのです。

全ての人が経験する信仰の闇夜を経験した時、私達は「神様、私は何か間違いをしたのでしょうか。」と問うのではなく、「神様、今何をされているのですか。」とか、「神様、今私にどのように働かれているのですか。私をどこに導いていらっしゃるのですか。」と問いかけるべきです。

私達は魂の闇夜から抜け出したいのです。私達が困難なことを経験する時、私達はそこから逃げたいのです。それには直面したくないのです。

アビラのテレサは、魂の闇夜を経験している時は雑草を抜く時ではないと言いました。信仰的に困難なことを経験している時は、雑草(不快な人やもの)を抜く時ではないというのです。それは植木屋と共に雑草の中へ行く時だというのです。

なぜなら、神様があなたを試練を与えるには理由があるからです。多くの場合、神様があなたを目覚めさせる為に、シュミタ(安息年)やスーパーシュミタのように試練を与えるのです。


私達がそのような魂の闇夜を経験している時、神様に「神様、あなたは私をどこへ導いているんですか。私は雑草を見に行きたいのです。」と問いかけるのです。

私は雑草を見たいのです。植木屋と共に雑草を見せてください。植木屋が雑草をみせてくれるでしょう。これはあなたにとってとても重要なことです。逃げることのできない重要なことです。

もしあなたがそれに対処しなければ、それはあなたを永遠に追い続けるでしょう。神様は私達に暗い夜を与えるのです。それは昼があって夜があるのと同じことです。

あなたの魂がどこにいても、その時が、あなたが雑草を見るときです。

多くの人が、キリストとの関係において喜びを追い求めます。お母様の周りに多くの悪魔や天使長達がいるのを私は見ます。彼らはキリストとの関係ではなく、車や宮殿やマンションやショッピングやレストランなどの利益をを求めているのです。

コリント人へ第二の手紙12章9節には、

「私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

と書いてあります。私達が魂の闇夜を経験している時、あるいは、信仰的に困難なことを経験している時、その弱さが私達の強さになることがあるのです。

それが神様が私達をより深いところへ導くことができるところです。神様は神様との新しい依存関係を構築する為に、わざと私達の弱点を示す時があるのです。もし私達が魂の闇夜から逃げ出さなければ、私達が死の影の谷を歩こうとも、そこには悪はありません。恐れることはありません。

天聖経を読みましょう。

絶対信仰によって、あなたは1つの位置を見つけます。それは神様が存在する絶対的な位置です。そこから全ての問題は解決し始めるでしょう。

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