天一国憲法の重要性
天一国憲法の重要性を社会学的にフェニズムは文化相対主義を交えて説明してくださっています。
いつも英語説教を翻訳して下さるサンクチュアリNEWSさんの、
2017年3月5日説教「万王の王の王国」【英語説教日本語訳】(全文:一部要約) からの全文転載です。いつもありがとうございます。
2017年3月5日説教「万王の王の王国」
Kingdom of King of Kings
【英語説教日本語訳】(全文:一部要約)
使徒行伝19章
1:アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、2:彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。3:「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。4:そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。5:人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。6:そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。7:その人たちはみんなで十二人ほどであった。8:それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。9:ところが、ある人たちは心をかたくなにして、信じようとせず、会衆の前でこの道をあしざまに言ったので、彼は弟子たちを引き連れて、その人たちから離れ、ツラノの講堂で毎日論じた。10:それが二年間も続いたので、アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、主の言を聞いた。
パウロがエペソでも反乱を始めるという興味深いエピソードです。なぜなら、そこにはアルテミスの女神の像を作る者がいたからです。それはもちろん、月の女神であり、永遠の処女であり、狩人のところに現れてセックスをするというものです。これはでっち上げられたものであって、女神信仰は常に売春カルトへとつながるのです。またアフロディーテとも呼ばれ、神殿娼婦として知られています。
人や文明が別の神に引き渡されるときはいつでも、別の結果が起こるようになります。別のものに仕えれば別のことが起こるのです。神でなくても西洋社会の多文化主義を信じなければ、差別主義者であり偏った人物だということになります。すべての宗教は同じ山を目指して登るようなものだと言っています。それはまったく真実ではありません。
ある神が子供を殺害せよと言っている一方、別の神は子供を守りなさいと言っているとすれば、それは非常に大きな違いなのです。同じ神ではありません。
エペソでも、福音を説き神の王国を説くパウロに反対する運動がありました。そしてパウロはエペソから追い立てられ追い出されようとします。4節のところから注目してみましょう。
4:そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。5:人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
私達は西洋社会の多文化主義に洗脳されているかもしれません。私たちは「教育を受けた人間」として、すべての宗教は同じ道をたどるものであり、すべてが神様へとつながり、すべてが真実なのだと信じなければならないのです。そして、多文化主義の主張こそが絶対で、それ以外に絶対的に真実であるという主張はできないのだと。それに同意しなければ差別主義者、偏った考え、同性愛嫌悪、などと言われます。彼らは寛容なふりをしていますが、まったく不寛容なのです。
ヨハネの洗礼は私たちに罪からの悔い改めをさせましたが、罪の悔い改めがイエスの名による洗礼とどれだけ違うものか注意してください。なぜならイエス様ご自身は罪の悔い改めではありません。彼は考えや思想ではありません。宗教でもありません。イエス様は、人間なのです。イエスと言う名前の人を示しているのです。ヨハネは苦行して悔い改めの洗礼を与えていたかもしれませんが、それは人ではないのです。
他のすべての宗教は良い行いをすれば報いを受け、悪い事をすれば罰を受けるということに焦点を当てています。イエス様は、「私は世の光である」と言われました。多文化主義で言えばイエスもまた偉大な教師の1人だということになりますが、偉大な教師という基準で見ると、イエス様はとんでもないひどい教師ということになるのです。
いつも自分のことを称賛して、世の光であるとか道であり真理である、自分によらなければ父に至ることはできない、私を見た者は父を見たものだ、と言っていたのです。現代の感覚で言うとひどい先生だというのです。ですから、C.S.ルイスは、イエスは嘘つきかキチガイか、神のいずれかである、と書いたのです。どれでもあると言うことはできません。どれか一つだというのです。
ヨハネの洗礼は人々を罪の悔い改めに至らせます。聖霊による洗礼は、イエスという人に至らせるのです。それは非常に大きな違いです。私たちは原則を崇拝しているのではありません。私たちは行いを崇拝しているのではありません。何らかの道徳的な達成を崇拝しているのではないのです。道徳的な姿勢のようなものを崇拝しているのではありません。心理学のようなものを崇拝しているのではありません。私たちは1人の人を崇拝しています。私たちが救いを受けるのは、キリストという、イエス様という人からなのです。イエス様の原理や、キリスト教と関連する実践からではありません。道徳的な達成からではありません。
イエス様は、「あなたは神聖で完璧な神様にとって十分にふさわしい者には決してなれない」と言われるのです。「神様のように欠陥のない者になることはない」というのです。あなたは既に神様の前に罪を犯しているのであって、聖なる裁きに対して罪を犯してしまっている、ということです。
エマーソン・アグリッチ、サラ・アグリッチの素晴らしいプログラムを見ていました。夫と妻の、愛と尊敬の関係についての素晴らしい内容です。非常に素晴らしい5つのDVDシリーズがあります。あなたの結婚生活がまったく別の次元になることでしょう。結婚を控えている人も見た方が良いです。非常に洞察に満ちていて、神様のみ言葉に骨の髄を貫かれるかのようです。祝福や結婚の前に見れば多くの苦難を省くことができるでしょう。まだ決定ではありませんが、王妃が次のHSUセメスターで教えることを検討しています。5つのビデオをすべて見ましたが、非常に神様のみ言葉に根ざしていて素晴らしいものです。
すべては人なのです。神様の王国はただの素晴らしい世界によって来るのではありません。願望だけによって、私たちの道徳的行いだけによって、私たちの信仰だけによって来るのではありません。私たちが義務を果たして、良い行いをした結果として来るものではないのです。
神様の王国は、キリストという人間が現れたときに初めて訪れます。なぜならその王国は原理を中心とするものではないからです。法律を中心としているのでもありません。すべてはある人から来るものです。実体的な人間です。
罪の悔い改めの洗礼は宗教上の行いとして見ることができるでしょう。それは告白して許しを受けるというような宗教的な制度が持つ道徳制度です。現代の心理学ですら告白と許しのようなものがあります。神様の真似事をしているのです。
本当の洗礼はある人と共にあることを必要とします。あなたが完璧でなくともある人と共にあることを求めます。その人と共に生きることが必要なのです。ですからそれは、道徳的な命令を守るということとは全く異なるのです。それは人を愛するということであり、その人に喜びをもたらしたいと思うということなのです。私が妻を愛するとき、彼女に喜びをもたらしたいと思い、それが私にも喜びを与えます。それが私の魂を満足させるのです。それが私の永遠性を心地よく刺激します。
原理と結婚はしません。何かの行いと関係を持つことはありません。私が関係を持つのは人なのです。結局私たちは、人々と深い関係を結びたいと願っているのです。インターネットやソーシャルメディアは私たちを様々なところでつないでくれますが、一方では私たちをバラバラにします。スカイプで離れたところから顔を向き合わせられるのは素晴らしいですが、その会っているというのは人ではないでしょうか。
原理や思想、ある種の活動や宗教、信仰、命令、決まり、といったものがそこにはまだあるのですが、すべての目標、永遠の目標は、いわばマザー・テレサになることではないということです。
聖書には、人の善行は汚れた敷物のようだとあります。汚れた服のようだと。それが問題なのではありません。自分のほうが良い行いをしたとかそういうことではなく、私たちすべてはこの人を必要としていると認識することなのです。
イエス様は自分が罪人でないふりをしている人より、自分が罪人であると知っている人のほうが高いのだと言われていました。もちろん私たちは、原理や思想に従って自分を導く必要もあります。しかし、結局のところその命の水はある人から注がれるものなのです。
その水は、神様が人のかたちをとって現れた人物を源として出てくるのです。私たちをご自分のかたちに創造された慈悲深い善なる創造主。それが、私たちがつながるものです。
クリスチャンの本当の意味は、キリストと共にある、キリストの、ということです。死んだときにどの宗派を選ぶかという意味ではありません。神様との関係を持つということなのです。
エペソ5章には、分かりやすく言えば、夫は妻を、たとえ彼女を愛せなくても無条件に愛しなさい、とあります。そして妻は夫が尊敬できなくても尊敬しなさい、とあります。それが命令であって選択の余地はありません。あなたが神様を愛するならそうしなければなりません。それが簡単だからでもなく、自分がそうしたいからでもなく、神様がそれをあなたに求めているからです。あなたの配偶者はこの世界における神様のみ旨のための道具だからです。
あなたが交流し合う人を通して、最終的には神様との関係を助けることになります。男性は肩と肩で付き合いますが、女性は顔を向き合わせて付き合います。それには社会実験の研究結果があって、女性を同じ部屋で一緒に過ごさせると年齢に関係なくいつの間にかお互い向き合って話をし出すということが分かっています。男性の場合は、そのまま壁を向いたままで何もしゃべらずにいるのです。
良い例があります。ジョーとロブという二人の男性が三日間の狩猟から帰ってきて、妻が何を話したか聞くと「別に」と答えます。「どうして?ロブの奥さんが妊娠したって聞いてなかったの?」「何だって?妊娠?」このように男性同志は肩と肩で過ごすのです。
スターバックスに行っても、男性はコーヒーを頼んで出て行きますが、テーブルについているのはほとんど女性です。コミュニケーションの仕方が違うというわけです。女性はフェイストゥーフェイスなのです。
それで夫がそのようにしないからと言って悪循環(ヘル・サイクル)が始まってしまうのです。愛されないと夫を尊敬しなくなり、夫は愛さなくなり、ということです。それで結婚がうまく行かなくなっていきます。
私たちが本当に尊敬されていると感じ、妻が自分のことを本当に気にかけていると感じ、自分が一家の父親であることを認め、子供たちの前で私たちの権威を守ってくれ、このような神様を信じる女性がなすべきことをすべてしてくれるなら、最終的に自分たちが望むように家庭を守り安定させることになり、それが喜びであり幸せであり、強い結婚であり、家族の関係になります。
神様には計画がありますが、それは神様と関係を持つときに実現します。それは単に何かの原則に従うだけでは実現しないのです。私たちはとても世俗化してしまったので、例えばこの本を読んで7つの原則を学べばこうなる、とか、そうではないのです。問題は人なのです。
人生の目的は喜びです。喜びを与えることです。自分のことではなく、あなたのことではなく、喜びを与えることです。すべての人に相対的な喜びを与えるという意味ではありません。多くのサタンがいます。不正は罰せられなければなりません。小児性愛者に喜びを与えてはいけないのです。ですから文脈を無視して私の言葉を捉えないでください。
私達の目的は創造主に喜びを与えることです。それは個人的な関係です。神様は個人的であると同時に個人的でないことはできません。神様は、子供を守ると同時に殺したりレイプしたりする神様であることはできないのです。善であるか悪であるかのどちらか一方でしかあり得ないというのです、
宗教的な性質の洗礼によって罪を悔い改めたり、より良い人間になったりするかもしれませんが、そのようにして聖霊を受ける事はないというのです。神様の火を注入されることはありません。自分の中に生きた神様の力を受ける事はありません。
洗礼を受けて本当にイエス様を知り、彼に服従し、自分をなくしてイエス様の命、キリストの命の中に生まれ変わるとき、そのようなときこそ人々は聖霊を受けるというのです。
原理に服従するのと実際の人に服従するのではとても大きな違いがあります。あなたはその人に対して説明責任があるのであって、原理や道徳的な決まりのようなものに対して説明責任があるのではないのです。私たちがある人に服従するとき、その人は私たちが結婚生活で真の愛と尊敬を持つことを求めます。その人は私たちが強い家庭を持つことを願うのです。その人は自分が私たちを愛するように、私たちが次の世代を愛することを願います。彼が悪から自分を分立しているように、私たちもそのようにします。
自分を誰につなげるのか、自分をどの神様につなげるのかが、私たちの根本的な核となる思想なのです。
デイビッド・ウッドの素晴らしいビデオを見ます。宗教の心理学研究についての内容であり、特にムハンマドについての心理学についてのものです。彼はイスラム教の弁明に対して論争しています。彼はイスラム教の擁護者との論争においては最高レベルの学者であり、彼自身はクリスチャンです。そして、この中で彼はムハンマドを取り巻くいくつかの問題点について心理学的に分析しています。
もちろん私たちはイスラム教徒を愛しています。すべての人、クリスチャンもこの人々を愛すべきです。しかし、それは彼らの言っている事や行っている事、信じている事に同意するということではありません。そして私たちは彼らに真実を話すべきだということです。それによって彼らが真実をつかむことができるように助けようというのです。時には彼らに議論を挑み、彼らが洗脳から抜け出せるようにして真実に到達できるようにすることもあるのです。
この中で無神論に対する難しい問題もありますが、ビデオを見てみましょう。
<デイビッド・ウッドの動画視聴>
クリスチャンは「スカイダディ(神様を軽蔑的に表現した言葉)」を信じているが、自分は無神論者で知的なのだという人がいますが、有名な無神論者は父親がいなかったり、父親との愛情関係が無かったりしたということが調査の結果分かっているのです。その当然の結果として、彼らの感情に合う思想をその投影として追求するようになり、筋金入りの無神論者になって行ったのです。
ここで重要なのは、サタンは人の心の中の考えに対してだけでなく、あなたが関係を持つ人に対して戦いを仕掛けるということです。インフォ・ウォーズで「心の中の戦争」と言っていますが、実際は「関係性の戦争」だというのです。心の中だけではありません。悪魔は心を攻撃するだけでなく、あなたの関係性を壊そうとするのです。孤立させて叩くのです。
最終的にはキリストとの関係性を求めるということです。
ニュルンベルクで、あるフランス人のクリスチャンがドイツ人から拷問を受けるとき「私の体は殺せても、私にあなたを憎ませることはできない」と言ったのです。手短に結論だけ言うと、戦争が終わってその二人が生き残って離れ離れになったのですが、そのフランス人はその拷問したドイツ人が山の上に隠れているということを聞き、仲間と一緒にそのドイツ人を捜しに行きました。そして痩せてひげを生やしたそのドイツ人を見つけたのでした。その日はイースターでフランス人の仲間は皆信者でした。そして彼らはイースターの食事をこの男に持って来たのでした。そして、「あなたが私を殺そうとしたときに言ったように、あなたのことを憎ませることはできない。私の歯を抜き、腹から内臓をはぎ取っても私を憎ませることはできない。あなたは私の魂に対して何の力も持たないのだ」と言ったのでした。
ですから、政治的な悪魔崇拝は非常に危険なのです。なぜなら、彼らは聖書にあるように狼だからです。イエス様が再臨して王国が訪れようとする今、ライオンが子羊と共に横たわると言われているのは興味深いことです。ライオンが狼と横たわるとは言いませんでしたし、ライオンがヤギと横たわるとも言いませんでした。
私たちは政治的な悪魔崇拝と神主義を理解していますので分かります。狼はサイコパスを表しています。それは中央集権の権力を使う政府のことです。ヤギというのは心理学者が社会の3割から4割を占めると言っているソシオパスのことです。彼らは悪に同意しなくても自分が利益を得るためにそれに従っていくのです。彼らが聖書で言っているヤギのことです。
しかし、彼らは子羊なのです。実際は善良な人々です。彼らは従っていくことを望んでいませんがそれについてしゃべりません。しかし、心の中では良心からこれは間違っているので従うことはできないと思っています。
聖書で言っているライオンが子羊と共に横たわるという話は非常に重要です。国が運営する世界中の偽りの教会では、イエス様を狼と共に横たわるライオンだと教えようとしています。そうではありません。それは過去の悪なるサタンの王なのです。しかし、ユダの獅子である真の王、再臨主は、子羊と共に横たわるのです。
動物の捕食が無くなるのだという解釈が普通ですが、それはキリストの体(教会)が思考停止に陥ってしまったためです。
ライオンが子羊と共に横たわり、子羊と仲間になるだけでなく彼らを守るようになります。誰から?終わりのときに彼によって分けられる狼やヤギからです。羊は右にヤギは左に分けられます。ヤギは自分たちの魂を狼に売り渡してしまったのです。本物の狼を悪く言うつもりはありませんよ。私は本物の狼は大好きです。聖書ではたとえが用いられているのです。狼はエコシステムの中でも重要です。
神様は天使長にも社会で生きることを許しています。エデンの園でも天使長には役割がありました。僕でなければならず決して主人になってはならなかったのです。堕落歴史の問題は、天使長が常に主人であったことです。
それは常に悪なる王や帝国、現代の社会主義や共産主義、どんなものであれそれらは人間の騎士道、善、高潔といったものを抑圧する同じ愚かな体制の繰り返しでありました。名前が違うだけですべて同じ政治的な悪魔崇拝だというのです。
そしてその結実として子供を殺害するというような実体的な悪魔崇拝を生み出す実際の文明へとつながっていきます。また、結婚制度を破壊し、相対化して、家族の関係を破壊するのです。これらはすべて、サタンそのものが求めるものの結実である政治的な文明のために働くものなのです。左翼の人やその体制を支援する人々は必ずしも天使長ルーシェルを崇拝する必要はありません。しかし、実際に人々は、天使長の欲望を代表する文明を実現するという彼の意志に従って働いているわけです。
神様の王国は、王の王から来ます。原則からではなく、考えからではなく、思想からではありません。それはある人から、私たちがつながる人から来るものなのです。人々はいつかそのような王国で暮らすようになり、ある人の恩寵と祝福の下で暮らすようになるのです。市民が王と王妃を持ちます。私たちはキリストの共同後継者としての自分の役割と責任を理解しています。私たちは王国の特権ではなく役割を理解しています。自分の王国のために命も喜んで犠牲にするというのです。
エマーソン、サラ・アグリッチは、常に男性を非難する現代のフェミニスト運動と文化について素晴らしいディスカッションをしていました。絶え間なく男性をいじめて男性の価値を低く抑え込んでいます。本当に五分五分が良いのであれば、月曜に泥棒が来たら夫がやっつけて、火曜に来たらあなた(妻)がやっつけなければなりません。水曜日はまた夫の番です。木曜日にレイプ犯が来てもあなたがやっつけなければならないのです。
夫がドアを開けてくれてうれしいと思いますか。それではいけません。あなたも夫にドアを開けてあげなければなりません。
ある研究によれば女性は家庭で実際に権威を持つことを望んでいません。家族の重要な決定を行いたくないのです。
優しいクリスチャンの男性であるがゆえに、男性をいつもけなし続けてきました。それを50年、60年、70年と続けてきたので男性はもうそのような女性と一緒になりたくないというのです。少なくとも夫を尊敬するラテンアメリカやアジアの女性のところに行こう、となるのです。大学生は恐れをなして女性とデートしたくないと思っています。
もしあなたが大統領の地位だけ与えられてどんな決定を行う権威もないとしたら、それは本当に大統領だと言えるでしょうか。
誰かが重大な責任を与えられた会社を持っていたとしたら、権威を持っていなければなりません。もし権威を持たせなければ、どうでしょうか。「あなたは社長だが、実際は私が後ろから支配する」と。それが、女性が行ってきた私たちの文化だということです。
「私のために戦って、私を守ってほしいの。でも私の言うことは何でも聞きなさい」と夫に言ってきたのです。
家庭の長となり、家庭の聖職者となるよういに神様が夫に与えた召命を守らずにこき下ろして、子供にも「お父さんはバカだ」などと言っていれば、子供を殺しているようなものなのです。子供を駄目にしてしまいます。神様の前に重大な罪を犯していることになります。神様の命令に背いているということなのです。
一般的な善良な男性は、何か脅威にさらされたら死んでもあなたを守るのが自分の責任だと考えています。女性はなぜそれを当然だと考えるのでしょうか。私たちがあなたのために死ぬほど何がそんなに特別だというのでしょうか。男性があなたのために死にますと言っているのに、「それがどうしたの。ばか」などとは言えないのです。もしそのようなことをするなら男性を侮辱することになります。彼の献身と名誉を傷つけることになるのです。
この文化の中で「私のために死ぬのは当然よ。私は女神だから」と言うならどうでしょうか。それはまったく神様の言葉ではありません。私たちが気づいていない悪に満ちているというのです。ですからそのために、離婚率も高く女性も実際にあまり幸福ではないのです。そしてそのような善良なクリスチャンの男性を非難することで、スウェーデンやヨーロッパのようにまたアメリカも今そうなっていますが、危険な男性をその文明の中に招き入れるという文化になってしまうのです。トランプの下ではそうではないですが、以前はそのようになっていました。
実際にスウェーデンに行った記者のビデオがありますので、フェミニズムと左翼リベラルがしたことを見てみましょう。
男性を憎み、家庭で権威を持った父親を攻撃し憎むような文化によって、女性は素晴らしい男性と危険な男性の違いを判別できなくなってしましました。
善良な本物の男性の名誉を汚す文化になっています。愚かなフェミニストの教授が結婚は墓場だと言っていますが、自分たちは結婚していないのです。そのような人々を見ると非常に悲しく思いますが、ある種の教化を受けたカルトのようなものです。
社会学的な研究によって、家庭の中の父親は決定的な要素を持っているということが結論として明らかになっています。将来の収入、離婚率、犯罪率、非行率、アルコール中毒といったものが父親に関係しているのです。
パウロの聖句を見ればわかるように、それは地域のすべての人を苛立たせるものでした。なぜそのような政治的な騒ぎを起こすのでしょうか。本当の王国の福音を説くとなぜそれほど大きな問題になってしまうのでしょうか。霊的なことや心理学的なことを話すだけならだれも問題にしないのです。本当の悪の組織や本当の問題、そしてそれらがどのように
自分たちの周りに存在しているのかを示し始めると問題になります。 実際にどのように働き、どのような組織、体を自分の覇権を持つためにサタンが使っているかを示すと、突然、「政治のことは話さないでください。霊的な話だけにして」と言われるのです。
キリストは実体的な王国の始祖であるので実体的な王国をもたらすのです。それはサタンの支配層に完全に反対するものなのです。それは彼らの権力の独占にとっては疫病のようなものだというのです。
王国の福音が説かれると、実際の権力者を煽ることになります。そういうわけで神様は、真実を語ることで迫害され死ぬことに備えなさいと言われたのです。
真実とは単なる原則や思想ではなく、人なのです。道であり真理であり命であると言われました。その人から実際の会の国ができるのです。
その人との関係、キリストとの関係によって、私たちが死んで彼によって生まれ変わり、それが聖霊の贈り物だというのです。
最後には自分の名声や友情、家族を危険にさらしても、自分はもう奴隷ではないのだと、怖くはないのだと、口を開いてこのみ言葉を語るのだと・・。友達や他の誰が自分を憎んだとしても気にすることなく自分は語るのだと。
キリストの体である牧師、教師は世界のサタンの体制の悪を示すことができなければならないのです。それらに反対して語ることができなければなりません。
天一国憲法です。
「天一国合衆国の国民である我々は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、福祉一般を促進し、我々と我々の子孫のために自由という神の恩恵を確保する目的をもって、ここに天一国合衆国のために、天の父のみ名において、この憲法を制定し、確定する。」
天一国の国民は天の父につながっているのです。
自分は無神論者になりたいというのであれば、そこには信教の自由があります。神様が与えた選択の自由があるのです。しかし、政治的な権力を持って憲法を変えることはできません。なぜなら神様の王国は、あなたの王国ではないからです。それは王の王という人から来たものです。
三つの悪の権力のブロックがあります。アングロサクソンの銀行カルテルブロック、正統的ワッハーブ派イスラム教ブロック、そして中国ブロックです。これら三つの悪の体は天の父を認めず、それを憎んでいます。
私達がどれだけ良いかは関係ありません。すべては天の父がどれほど良い方かということです。私たちの愛が問題ではなく、すべては私たち罪人を救ってくださった天の父の愛がいかに偉大であるかということです。それがお父様の愛なのです。その愛から来るものが、原則1の「神の清い血統を維持せよ」ということなのです。
「性の区別は神が定めたものであり、男性は主体的配偶者であり、女性は対象的
配偶者である。」女性は主体ではありません。対象です。
半々だと言うなら女性も強盗をやっつけなければならなくなります。
アメリカの西洋の女性はいつも拒否権を持っているではないですか。
神様は夫が家族のリーダーの立場にあることを求めています。
男性は一家の聖職者として家族を神様に導く責任があります。訓読会をしたり礼拝に連れて行ったりするのは夫の責任です。
西洋の世界では女性が常に正しい、手出しできない魔法の生き物のようになっているのです。判断を間違えてもいつも夫のせいにします。
神様を信じる女性は夫を支配したりしません。
「性の区別は神が定めたものであり、男性は主体的配偶者であり、女性は対象的
配偶者である。議会はこの神の定めに反する法律は制定してはならない。」
この意味が分かりますか。議会が人為的に女性を持ち上げるようなことはできないということです。例えば西洋では法制度が男性に不利になっているため、男性が結婚したいと思えないのです。西洋は男性が女性に献身することを怖がるような社会を作ってしまいました。文化によって男性が家庭で尊敬されないようになってしまいました。
神様は、夫は妻が愛せなくても無条件に愛し、妻は夫が尊敬できなくても無条件に尊敬しなさいと言われました。私たちがそれを行うなら神様はその小さなことでも心を奪われるというのです。
「男女間で相互に貞節を守る結婚は、神の創造理想であり、天一国合衆国の政府
は、この神の法に干渉する、もしくは反する法律を制定してはならない。」
政府は同性婚の法律のような他のタイプの結婚を定めることを禁じられています。自由がないということではありません。罪を犯し同性愛の関係を持つ人々もそこにはいるでしょう。そのために首を切られることも、政府から支援されることもありません。
「?男女間で相互に貞節を守る結婚の成果は、子女を授かることであるので、議会は、生まれし者、未だ生まれし者に危害を及ぼすことを許容する法律を決して制定してはならない。」
子供を殺すことに政府が資金を提供することはできなくなります。国の権力がそのようなライフスタイルをすべての人に適用させることを強いることはできません。
「新婚の夫婦にとって、結婚前の純潔を守ることが、理想的であるので、議会は、これに代わるほかの価値観に基づく行動様式を支持し、または、援助する法律を制定してはならない。」
天一国の国民は自由意思を持っています。誰も婚前交渉をしないということではないのです。しかし、そのようなライフスタイルが政府の資金援助を受けることはありません。
キングスレポートで取り上げた、プランド・ペアレントフッドのミスター・ペニスとミセス・ヴァギナの話を見ましたか。彼らはアニメを作っているのです。それを見るまで信じない人がいました。5歳の子供向けに。
天一国では中央集権の教育、公立学校は違法です。中央銀行も違法です。中央集権の軍隊も違法です。
それで悪がないかというとそうではありません。国民は自由意思を持っています。しかし、悪が国の中枢を奪うことはできません。
ワシントンの言葉があります。「政府は理由ではなく、雄弁ではなく、力だ。それは危険な奴隷であり恐ろしい主人だ」
お父様は、アメリカの憲法はすでに長成期段階であり主によって天国が来る前にできる最善のものだと言われました。しかし、再臨主が来られるまではそれを完璧にすることはできないのです。
天一国には自由がありますので、愚かな選択をすることもできるでしょう。しかし、結果が付いて来るのです。
スティーブン・クラウダーがトランスジェンダーで初めてアメリカの知事になった人をインタビューしました。2年前彼はジェフでしたが今はジェスというのだそうです。自分で見てもらえば良いと思いますが、基本的なポイントは、生物学的な実態、基盤がないという事なのです。医者に行って精巣の検査をするのかと聞くと、そうだと答えていました。
自分は女性だとするトランスジェンダーの少年がレスリングの州大会で圧倒的な差で優勝しました。現実の世界で起きている現実の影響なのです。
こういうわけで教会では政治のことを話すことが許されません。政治は、政治的な悪魔崇拝が支配したいことであり、政治を通して人々の生活と文明を支配できるからなのです。
最終的にどのようなスポーツでも女性がトランスジェンダーの女性に負けることになります。やられてしまいます。男性には勝てません。
神様は最初に男性と女性と創造しました。神様の愛という点では男性も女性も平等です。役割は異なり、性格も異なりますが、神様の目には平等です。クリスチャンはそれを信じています。イスラム教はそのように信じていません。デービッド・ウッズの動画を見てください。女性が知るべきコーランの言葉が3つあります。女性は半分(の価値)であるという事。2番目はいつでも夫から性交渉を受けるということ。3番目は夫に従わなければ別の部屋に連れて行って打ちのめされるということです。
聖書では女性は夫がキリストに服従するように、夫に服従するようにと書いてあります。しかし、聖書では別の部屋で懲らしめて良いと言っているのではありません。夫はあなた(妻)を守り、一家の聖職者となるべき義務を与えられているのです。彼があなたより大きな責任を持っているなら、あなたは彼の権威を認めるべきです。彼は命がけであなたを守る責任を持っているというのに、その権威を全く認めないというのでしょうか。
あらゆる重責を持っているというのに子供たちの前で何の権威もないとすれば、あなたは破壊しているのであり、冒涜しているのです。それで愛を持って自分を扱ってもらえると思っている・・・それは神様の前に罪を犯しているという事を理解しなければなりません。
私達の文明は、心の中の戦いだけでなく関係性の戦いの中にあります。なぜならサタンはすべてを、神様との関係を含めたすべての関係性をめちゃくちゃにすることができるからです。あなたのすべの人生を破壊することができます。
サタンは自分に服従すれば楽になると囁きますが、決してそうはなりません。天使長に服従すれば必ず悪くなり、決して良くなることはありません。
イスラム教は政治的な仕組みを持っています。法律の規定を持っているのです。
キリストの体も法律も持ちます。ですから天一国憲法が発表されたのです。今、キリストの体には本当の法があります。そしてそれは、人類歴史に照らしてもあらゆる他の法と根本的に異なるものだという事が分かります。それは、悪魔崇拝と政治的悪魔崇拝に対しては最も暴力的で危険な方なのです。最も攻撃的で危険な国がこの世界に存在することになるでしょう。なぜなら善が最後には必ず勝つからです。
今この時、大統領のために祈らなければなりません。彼は完璧ではなく、イエスでも再臨主でもありません。彼は繋がっているのです。神様の摂理の霊の中に入るでしょう。彼は世界中で今起きている革命と共に動いています。
マリーナ・ル・ペンについても、彼らは彼女を牢屋に入れようとしているのです。彼女を本当に脅威に感じています。主権復帰の動きが世界中で起きています。そしてサタンもそれを倒すために準備しています。
人々は死と破壊のカルトに教化されているのです。そして文字通り暴力に訴える準備をしています。ジョージ・ソロスの資金を受けたアメリカの春の話をしたと思います。深刻で本当のことです。しかしそれは、どのような関係性を私たちが持つかということに帰着するのです。
最悪の場合は私たちが皆死ぬことになるかもしれません。アメリカで暴力革命が起こり、トランプを殺して愛国者たちをすべて殺し・・・彼らはできると思っていても、愛国者たちは皆銃を持って訓練も受けて退役軍人もいます。リベラルの進歩主義社は60年の間スターバックスでコーヒーを飲んでいただけなので銃の撃ち方も知りません。リベラルは傲慢にも、その甘やかされた金持ちの若者たちは退役軍人や銃所持者、ハンターに戦いを挑めると思っています。
最悪の事態が起こらないことを祈りましょう。私達は死にません。なぜなら彼らは私達の体は殺せても私達の魂を殺すことは決してできないからです。
そしてこの魂は神様を切望し、人類の解放を切望し、神様の王国が地上に来ることを切望するのです。そして繰り返される圧政と私たちを支配している悪に打ち勝つのです。この魂は、神様の民が神様に接ぎ木され、世界の王と王妃の真の自覚を理解するのです。自己崇拝ではなく、その位置の元に栄光を捧げるのです。ですから王の王です。私たちは王国の王と王妃として立ちます。権力の誇示や自己崇拝ではありません。
私達がその位置に立つのは、その位置が私達個人の神様から与えられたからなのです。「人」とのつながりです。あなたの子供や孫、子孫は王国に住むのです。そして、その子供たちが「お父さん、どうやって王様になったの?お母さんどうやって王妃になったの?」と尋ねます。すると彼らは「昔々あるところに、王の王がいました。そして彼が、あなたのひいひい・・・おじいさんを作ったのだ。だからあなたのお父さんとお母さんが王と王妃なのだ」と言うでしょう。それ以外に理由はないのです。
ある「人」につながっているという事なのです。それが王国のすべてなのです。
天聖経659
神様が願うことは、個人の天国ではありません。個人が成立させた天国を眺めて喜ばれるのではありません。一人が喜ぶのを見て、天国がすっかりできたと言えるでしょうか。神様は、喜ぶことができる一人、イエス・キリストをこの地に送ったのは、彼を中心に万国を横的につなげて、全体の天国を模索しようとされたのです。それゆえメシヤをこの地に送り、犠牲にしたのです
翻訳:BAMBOOS
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