2025年3月7日金曜日

アメリカングローバリズム ②◆アメリカングローバリズムの中東戦略◆講話:S講師

アメリカングローバリズム

アメリカングローバリズムの中東戦略

講話:S講師


アメリカ・グローバリズム勢力による歴史の闇1-2.S講師



アメリカ・バイデン政権の誕生によって始められた2つの戦争、

ロシアによるウクライナへの侵攻と、

ハマスによるイスラエルへの攻撃を理解するためには、

その背後にあったアメリカの暗躍を知らなければいけません。


前回はそのうち、

ロシアによるウクライナへの侵攻はなぜ起こったのかについて解説させていただきました

そして今回はアメリカによる中東政策についての解説になります。



中東情勢は第二次世界大戦後のイスラエル建国以降、

より複雑なものとなってしまいました。


それは西暦70年にローマ帝国によって滅ぼされ、

約2000年間世界中を彷徨してきたユダヤ民族が、

シオニズム運動によってイスラエルの地に帰還することによってもたらされた混乱でした。


当然イスラエルの地には2000年間アラブ民族が暮らしてきたのであり、

ユダヤ民族だけではなく、

アラブ民族にとっても譲ることのできない故郷であったからです。


そんな地にユダヤ民族が強引に割り込み、

イスラエルを建国したばかりか、

自分たちにとって脅威となる隣国、

特にイラン、イラク、シリアを排除するための計画

クリーン・ブレイク・レポートを立案し、

クリントン大統領、ブッシュ大統領等アメリカの政治家を抱き込み、

アメリカを使って強引な政策を推し進めた結果であったのです。


その結果イランでは約20万人、イラクでは約150万人、シリアでも約50万人の犠牲者を出し、

決して消し去ることなどできないような恨みを残してしまったために、

中東地区における地域紛争をより複雑なものにしてしまいました。


その結果中東諸国はイスラエルばかりかアメリカをも敵視し、

決してアメリカ覇権の世界秩序には組しない遺恨を起こしてしまったのです。


そのような歴史的背景も知らずして中東情勢を正しく分析し、

今抱えている問題を解決することなどできないのであり、

決して中東地域に平和をもたらすことなどできないのです


今回の講義が中東地域の理解に、少しでも役立つことを願います。


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2025年3月6日木曜日

原理原相論(試論)◆夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生 -4 ◆聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造

原理原相論(試論)

夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生

 論者:三代王権天一聖殿 教会長

 -1 ◆イエス様にみる真の愛

の続きです。

聖父聖子聖霊の三位一体による天宙天地創造



「父と子と聖霊の三位一体は愛の関係性、キリストはその本体」にて、既に説明しましたが、ここでは、三位一体による天宙天地創造について論じます。


・三位一体は父子の関係の愛を表す


真のお父様の「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係であり、この宇宙は父子の関係で創造された」という神学は何でしょうか?

父と子と聖霊の三位一体論はまさにこのお父様のみ言のことを言っているのです。


ヨハネ1:9すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 1:10彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。


ヘブル 1:2この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。


これらの聖句は三位一体論において重要な聖句です。

神の子たるイエスによってこの天宙は創造されたとするこの聖書の御言は、この天宙は父子の関係によって創造されたということなのです。

この聖句は、イエス様、そしてお父様は、この天宙を創造された創造主であると言っています。それは神様との関係が父子の関係だからということなのです。

ですから、それを突き詰めれば、神とイエス様、そしてお父様との関係が父子の関係であり、その父子の関係が天宙を創造したということです。


ですから結論として「父と子と聖霊の三位一体論の中心的法則・原理は、父子の関係であり、この宇宙は父子の関係で創造された」ということになります。

三位一体の中心は父子の関係という結論なのです。

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生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。生命と愛が合わさって創造されるものが血統です。これらのうち、生命がなくても、愛がなくても血統は創造されません。愛、生命、血統のうち、その実りが血統なのです。神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。

天聖経

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三位一体とは真の愛の充足を表します。

ですから現代神学の三位一体のアプローチでは人類を創造する必要がありません。しかしどうして神は人を創造されたのか、その答えがこの真のお父様の「生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です」という御言なのです。

二代王様も、神が人類を創造したのは、神自身の必要性からではなく、完全な恩恵によるものであるという立場です。神の愛が三位一体の中で完結しており、創造は神の愛の必然的な結果ではないという立場です。


三位一体のシステムそのものから「愛」を相互間応答(reciprocate)しているわけです。

それで愛を相互間で応答するために人類が必要ではなかったのです。そのため神が人類を作る必要がなく、したがって、これ(人類を作ったこと)は神の完全な恩恵になるのです。これが現代神学の主たる結論です。

お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日


現代神学において三位一体では、その真の愛は完全に満ち足りて何の不足もないのです。

この反論として創造が神の愛の表現であり人類の創造は必然だと主張するキリスト諸派があり、二代王様のこの御言に憤慨する人もいます。


しかし人類創造は神の完全なる恩恵であることを受け入れられない場合、神に栄光を返すことができず、自分の栄光を求めることになります。


・三位一体による天地創造の理由


それでは充足しているのにどうして、夜の神様は天宙を創造されたのでしょうか?

その理由は上に上げたお父様の御言にあります。


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。


それは、この三位一体の中心が父子の関係であり、その充足された真の愛よりも重要なものが血統であったからです。

つまり、天宙の中心であり、三位一体の中心である父子の関係は真の愛よりも血統を求めるという意味は、父子の関係とは、その三位一体で完全に満ち足りたその愛を、永遠に与えたいとう完全犠牲の愛を与えたい真の愛の関係だということなのです。

このように、父と子と聖霊の三位一体は、愛は与えて忘れる犠牲愛の根本理由であるアガペーの愛は血統をめざす父子の愛からくることを表しているのです。


ですから父子の関係とは、真の愛と真の生命として子が父となり子を生み、その子が父となり真の愛と真の生命として子を生む、この真の愛と真の生命の永続性、永遠に愛と命を与え続け愛したい自分がどんなに犠牲なっても子を愛したというアガペーの愛の源泉ということなのです。


そのような父と息子の愛なので大初の三位一体の3つの格位は全て男性格です。つまり三位一体とはそれ自体が男性格主体なのです。

この三位一体の、愛を与えたい真の愛の相互間応答は絶対精子をつくり、そのための男性生殖器を先惟したということなのです。


だから真の愛と真の命は父子の関係であるが故に、その父子の関係の永続性である血統を求めるのです。

この血統のためにエバが必要なのであり、ロゴス創造の時初めてエバ創造を先惟構想し次にアダムの生殖器をエバに合わせて具体的に構想されました。


『アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。第九回「安侍日」 2004年7月8日』

このお父様の言われる女性の「先有条件」の意味は、先に論じたように、実際に天宙天地創造のためのロゴスを創造されたとき、先に神様が考えたのは女性であったということなのです。本形状のコンセプト、愛と生命と血統の実現のために女性を男性よりも先に具体的に構想されたのです。


これが、イエス様が、真のお父様が、夜の神様の精子から来られたということであり、愛と生命と血統の中でより重要なのが血統であるという真のお父様の御言の意味です。


完全に充足された完全なる真の愛は、完全に充足されているがゆえに、どのように自身が犠牲になろうとも愛を与えることが出来るのです。

その真の愛がアガペーの愛が犠牲であり、一切求めることはなく、ただ与え続けたいのは、この父子の関係からくるのです。

そのような真の愛の父子の関係はであるがゆえに、この真の愛と、真の生命の継続性、永遠性が血統ということなのです。父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるのです。


逆説的言えば、それが故に、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるということが証明できるのです。


それだから、夜の神様が天宙創造の時、最も最初に考えた対象(最先惟対象)とは、天宙の中心であり、三位一体の中心である「父子の関係」というであり、それは息子との関係であるということも証明されるのです。


・聖霊は男性格か、女性格か


ここで、聖霊(聖神)は男性格であることを次の亨進二代王、國進監査院長の御言から再確認しておきます。

聖霊(聖神)は女性格であるとする従来の統一原理との整合性は後ほど説明します。

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二代王「聖父聖子聖神 성부성자성신、いわゆる父と子と聖霊は一つの神性から出ていますが、三つの個体の性格を持っています。(2017年6月6日キングスリポート)」


國進様「神様ご自身の中には、男性的な性質と女性的な性質があり、それが神様の二性性相です。ですから、みなさんが見ている聖霊の現れというものは、一人の神様の中にある、その性質の表れであり、それは神様の対象的な相対によって映し出されます。

2016年8月16日Q&A」

<王妃様が二代王様が書れたとその時書かれた図の訳>

「この方は見えない神様の形象」

ここで王妃様は聖霊ではなく聖神と書いておられる。


イエスが教会を導く父の位置にいらっしゃるとしたら聖霊は母のように教会に愛を与える側面だということです。

しかし、教会に侵入した多くのフェミニストたちは、聖霊を女性に変えようとしました。

もちろん、それは完全に異端的な内容であり、キリスト教的世界観を破壊する内容なのです。


聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるものです。聖霊がイエスの妻という意味ではありません。


主体と対象の関係は結婚しない関係にもあります。多くの人が、これを勘違いしていますが。もう一度言います、聖霊は女ではなく、イエスの妻でもありません。しかし、神がイエスの霊人体の対象の立場として聖霊を送られたのです。ここでもイエスの霊人体と聖霊には違いがあります。同一のものではありません。


またイエスの霊体の中にも霊的な体と心(霊体と生心)があり、イエスの生心が神と一つになっているということです。

お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日


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「聖父聖子聖神 は一つの神性から出ている」、そして「聖霊の現れというものは、一人の神様の中にある、その性質の表れ」「聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるもの」ということですから、

「聖霊とは男性である一人の神様の神性の、女性的性質が対象として現れた神の神性である。従って性別を問うのなら男性である神様からの神性なので男性格である。聖父も男性であり、聖子も男性であり、そして聖神も男性である。よって聖父聖子聖神の三位一体も男性格である。」

という結論が導き出せます。


・イエス様とお父様は夜の神様の本性相と共におられた


ここで大切なことがあります。

二代王様は、三位一体の図をこのように書かれました。

ヨナ王妃:2代王様は次のように説明されます。(三位一体の図を描いて)神様がいらっしゃり、ここに独り子神様の息子であられる真のお父様とイエス様がいらっしゃり、その次にここ聖霊様がいらっしゃいますが、神様から独り子が出て神様から聖霊が出て、矢印が中側に行きますね。

2021聖霊大学秋学期 リーダー会議◆二代王妃 文妍雅様のみ言葉◆2021年9月15日


イエス様は真お父様とともに、聖子の位置におられるということです。

聖父と聖子と聖霊の三位一体とは、『聖父(夜の神)と聖子(イエス様、真のお父様)と聖霊(助ける霊:対象)』の三位一体ということなのです。

イエス様も、真のお父様も、夜の神様とともに聖子としておられ、イエス様も、真のお父様も夜の神様から来られたということです。


ヨハネによる福音書14章15-17

16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。

17 それは真理の御霊である。


聖霊、御霊は助ける主です。聖霊は助ける能力があるということです。ですから神様の能力です。神の能力はどこから来ているのでしょうか?神様の本形状の前段階エネルギーは神様の能力を表しています。

ですから聖霊、御霊は神様の本形状から来ているということが言えるのです。

イエス様、真のお父様の本体は、この神様の能力と共に天地創造以前から存在しておられたということなのです。

神様の本形状と共におられたのですから、イエス様、お父様の神性が三位一体の中に有ったということではなくイエス様、お父様の本体が、神様の本性相ともに存在したということです。

お父様、イエス様というキリストの本体が夜の神様とともにあるのが聖父と聖子と聖霊の三位一体ということなのです。


ですから、イエス様、お父様の神性が三位一体の中に有ったということではなくイエス様、お父様の本体がともに存在したということです。

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人(man)であると同時に神であり、三位一体で創造以前から父と共にしていた存在であるということです。

それがキリスト教で扱われている「神は愛である」という内容です。


前者(ローマカトリックとプロテスタント)は、「聖霊」(holy spirit)は聖父(father)と聖子(son)から始まっているといわれています。聖霊は聖父と聖子の両方から始まっているということです。 2021年3月23日キングスリポート 

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聖霊は、聖父からくるのではありません。聖霊は聖父と聖子の両方から始まっているのです。

つまりお父様キリストとイエス・キリストは聖父、夜の神様の本性相とともに創造以前から存在しておられたということです。

神様が聖霊をイエス様、お父様に与えられたとは、夜の神と共に存在したご自身が、この地上に肉体を持って現れたご自身に聖霊を与えたということです。

お父様、イエス様というキリストの本体が夜の神様とともにあるのが聖父と聖子と聖霊の三位一体ということなのです。

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しかし真のお父様とイエスの霊的な心(生心)は「神様」です。完全な神です。

イエスであれば、神と同じ生心を持っていらっしゃるということです。イエスの生心は神であるはずです。

お父様も同様です。お父様も現われるとき霊的な体(霊体)があると思いますが、お父様の霊的な心(生心)は神と全く同一だということです。

それで、もし我々が真のお父様とイエスと同時にお会いできることになっても、真のお父様とイエスの生心は神と完全に一つだということです。

お父様の生心は神の生心、 聖霊は対象だが男性格◆キングスリポート3月23日

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お父様の生心、イエス様の生心は神様と全く同一であるとはどういうことでしょうか?

それは即ち子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛」その心臓もこの聖父と聖子と聖霊の三位一体にあるということなのです。天地創造以前から、この心臓が、この宝血が、夜の神様、イエス様、真のお父様とともに有ったということなのです。


つまり愛と生命と血統の心臓が聖父と聖子と聖霊の三位一体の実体とともに有るのです。

イエス様、お父様の神性が三位一体の中に有ったのではなく本体がともに存在し、その宝血の心臓が本体の心臓として存在したということです。

三位一体は父子の関係の愛を表します。従って三位一体は縦的真の父母の縦的父子の関係の愛を表しているのです。その本体の、宝血の心臓が縦的真の父母に存在しているのです。愛と生命と血統の心臓が存在するので縦的真の父母なのです。

このように三位一体とは愛と生命と血統の心臓、子どものために死ぬことができる宝血の心臓を表し、縦的真の父母とはこの宝血の心臓を表しているのです。


・夜の神の三位一体と昼の神の三位一体


聖霊(聖神)は女性格であるとする従来の統一原理との整合性について説明します。

聖霊が女性でないとするなら、聖霊(聖神)を女性としてきた原理講論や、お父様の御言に対する齟齬が起きます。

この問題は、縦的真の父母によって横的真の父母が創造されていったことをすでに論じましたが、天地創造のためのロゴス創造の時初めて女性を考えられたことをもって解明できます。

この愛と生命と血統のためにエバが必要なので、ロゴス創造の時初めてエバ創造を先惟構想されたということです。


天地創造前の三位一体は、このロゴス創造、エバ創造にあって、聖霊がエバ創造に携わります。

つまり縦的真の父母が、横的真の父母を創造するためにエバが必要になったということです。

天地創造前にはエバが存在しないのでエバを創造する必要があるということです。

ですから天地創造後の三位一体における聖霊は、その意味においてその役割、その性質において女性神、エバであるということが出来ます。

しかし性相的男性格主体の一つの神性から来る霊なので男性格です。

ここでこの聖霊を女性神にするのならば神は、女性の霊、女性神という別の神をつくる二元論に陥ります。

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國進様「そしてこれは、異端教会家庭連合の主張の一つでもあり、それはお母様が聖霊であり、女性神feminine spiritだという内容であって、またそれは男性神masculine spiritとは異なるものでなければならないというのです。

しかし、この神学解釈には非常に重大な誤りがあります。なぜなら、女性神を信じるとすれば、一神教を捨てることになり、基本的にお一人である神様を万物の創造主として理解することをやめることになるからです。 2016年8月16日Q&A」

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男性である夜の神様の本形状からくる聖霊は天地創造後であっても男性から女性に性転換することはありません。

女性の霊の創造は女性の創造、エバの創造の時からなのです。エバを創造されたとき初めて女性神、つまり昼の神が創造されるのです。

昼の神の三位一体、つまり天地創造後の三位一体における聖霊はこの意味を表します。


完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入っていくのです。アダムとエバの実体結婚式は、神様の結婚式なのです。

宇宙の根本 第二章 三、1.神様と人間が出会う愛の決着点


神様の形状が女性だから女性の心の中に入るのではありません。既に論じたように真の愛の理想の形状的側面「愛と生命と血統」の理想愛が、エバ、女性の心の中に入っていくということです。それだからエバは形状であるという表現が可能です。


聖霊も同じことです。真の愛の理想の形状的側面「愛と生命と血統」の理想愛その性質その能力が聖霊として現れたので聖霊をエバ、女性と呼ぶことも可能です。

しかしそのように女性神、母神と呼称したとしても、性別で言うのなら創造主という神の一つの神性から来ているので男性なのです。


どうして真のお父様は、三位一体における聖霊をエバと言われたのでしょうか?

それは真の母を求めて来られたからです。


またクリスチャンである真のお父様にとって、性相的男性格主体である神様からの聖霊が別の女性神そのものでないことはあまりにも自明であり、あまりにも当然です。そのため、その役割、性質が女性的なので、それを表すためにエバと言われた、ただそれだけに過ぎないということです。


天地創造後、やっと創造した女性霊、唯一の女性霊であったエバが堕落しました。

神様の三位一体は再び完成したエバの霊の再創造を求めて復帰摂理が始まりました。この女性霊の再創造がメシアの使命です。三位一体において聖父の子、聖子であるイエス様、お父様が成さなければならない使命です。真の母の創造です。聖婚で終わりではなくこのエバを完成させる使命があります。

これが昼の神における三位一体の意味です。


聖霊はその女性霊を再創造するためにイエス様、お父様の対象、助け主(ヨハネ14:15-17)として復帰摂理の開始の時からその使命を持つようになったのです。

完成した女性霊を創造する使命を持っておられる真のお父様であるから、そのような使命を持つ聖霊を女性神と呼ばれたのは非常に納得がいくのです。


真の母を探すために聖霊をエバと表現された真のお父様。そのお父様と聖霊の使命を勝利された方が康賢實お母様なのです。神様が天地創造において求めて来られた完成した女性の霊となった一番最初の女性、完成した真の母が康賢實お母様なのです。


以上の説明で、真のお父様が聖霊をエバ、女性、オモニ神、母なる神と呼ばれたこと、原理講論に聖霊は後のエバ、霊的真の母と書かれている理由を多くの人々が理解できたと思います。

真のお父様が語られ、多くの御言に書かれているこれらの女性に関する御言は復帰摂理におけるエバの再創造、昼の神の三位一体に関してということなのです。


以上、天地創造前の夜の神の三位一体と、天地創造後の昼の神の三位一体、復帰摂理における三位一体について説明しました。

これからは「私は夜の神から来られた」と言われたお父様の御言の観点から聖霊に対する理解する必要があります。


二代王様「聖霊は女性ではなく、イエスに対して対象の立場にあるものです。聖霊がイエスの妻という意味ではありません。」


聖霊は天地創造において昼の神、女性として現れますが、対象の立場であり、性相的男性格主体という一つの神性の本形状から来ているので性別を問うのなら男性です。


それでは八代教材教本の内容を、夜の神様論に合わせて書き換える必要があるのでしょうか?

結論は必要ありません。

なぜなら、完成した真の母を求めて夜の神様から来られた真のお父様にとって、聖霊を女性と言ってこられたことはあまりにも当然だからです。

私達は三位一体論を天地創造前の夜の神と復帰摂理の観点から、これを知って後世に伝えていけばいいのです。


それは何でしょうか?真の愛のコンセプトの本性相は父子の関係の愛でした。神様の本形状の真の愛の理想は何でしたか?


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。


本形状としての目的は実体的な神様の血統を立てることでした。その血統の果実が何でしょうか?創造前、創造後、復帰摂理における三位一体の実体は何でしょうか?

真のお父様の三代王権です。

ですから、この天地創造以前の三位一体の心臓を受け継いだ実体が三代王権ということなのです。


アガペーの愛、エロスの愛


前項、「父と子と聖霊の三位一体は天宙の中心、父子の関係を表す」では、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であり、真の愛が犠牲の愛であるアガペーの愛であるのは父と子の関係の愛を中心とするからであることを述べました。

即ちアガペーの愛とは父と子の関係が中心であり、それが真の愛の原相ということです。


一方、エロスの愛は、自分に欠けたものを得たいと求める衝動、それはロマンスの愛であり、性的な愛として現れます。

従って、絶対性の愛は世俗的エロスの愛ではなく、絶対相対関係における真のエロスの愛です。このようなエロスの愛は、父子の関係を中心とする真の愛、夜の神の位置、三位一体の位置には一切存在しません。


もう一度、真の愛、アガペーの愛について確認します。


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。(天聖経)


血統が生命より貴く、愛よりも重要であるという理由は、神様の真の愛の種とその生命は、父子の縦的アガペーの愛を中心として、この「父と息子」の縦的な血統を通して続いていくからなのです。

宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるから、父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるということです。


つまり、真の愛とは、父子の関係の愛、父子の縦的愛、父子のアガペーの愛であるということです。このような真の愛を中心軸として父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛の四大心情圏の愛が造られていくということです。


夜の神様はその四大心情圏の中心軸、この縦的な父子の愛に従順屈服したいのです。

私達はこの父子の縦的愛、父子のアガペーの愛の実体である王権を幕屋とする共同体です。


エロスの愛は夜の神の被造物


このアガペーの愛に対し、アダムとエバの絶対性、エロスの愛とはどのような愛でしょうか?それは生命を創り出すために、神様が創造された重要な要素です。

しかし、絶対性の愛は神様の父子の関係の縦的愛を、横的に展開するための横的愛であって神様の創造物であって、神様ご自身にはありません。そのような感覚も一切、神様にはありません。


夜の神様が最も先に考えた対象が父子の関係でした。

宇宙の中心、三位一体の中心である父子の関係は、神様の真の愛の種とその生命は、「父と息子」の血統を求める縦的愛です。


夜の神がこの三位一体において、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を先惟したことにより絶対精子思想が現れ、さらに、そこから「父と息子の関係」の対象として女性を考えたのです。


父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるから、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。


ロマンスの愛、エロスの愛と、アガペー犠牲の愛は明確に違います。

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愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。

現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。

ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!

流される血。だから宝血と言うではないか。

ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!

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犠牲の愛が真の愛の中心です。それは父が子女のために犠牲になる愛です。

その犠牲の愛が血として流されたのです。

そのように流れた愛の血は、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。

真の愛の中心は、感覚の愛、ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではありません。神様との父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるがゆえ流された犠牲的愛、アガペーの愛の血なのです。


夜の神様は100%男性格であるのに、その真の愛は父母の愛であるという意味は、このような縦的父子の愛から来て、このような横的な父母の愛を作り出した縦的父母の愛ということであって、一切の女性性相の要素がない完全男性性相の縦的な父子の愛なのです。


それだから夜の神様は、父と子の関係を対象として先惟したとき、その生命と血統を実体的に被造世界に創造するために男性の種を先惟した結果、女性が必要となり、そして絶対性、エロスの愛が必要になり、エロスの愛を創造されたのです。

アガペーの愛が神的愛であり、エロスの愛は人的愛とキリスト教哲学でいわれているのは、エロスの愛が神の被造物であるからです。


絶対性の愛は夜の神の被造物


性は被造物です。

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2021年6月22日(火)キングスリポート

サタンは性を武器として使用しますが、神は愛のために使用されます。神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。彼らの心情的な関係と彼らの生き方において親密さを証明できるようにされるのです。


文鮮明先生は性依存症なのか再臨主なのか◆ 2024年4月3日

絶対性は絶対者、神様が定められた性です。ですからこの世俗的な倫理的な基準ではありません。絶対性は失われた創造本然の性、すなわち神様の血統を言う概念です。ですから絶対性は神様の血統です。ですから、真のお父様は自身が絶対性の主人だとおっしゃいました。

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「神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。」

「絶対性は絶対者、神様が定められた性です。」

絶対性とは夫と妻の関係を、性の喜びをもって深く結束させるために、神様が使われる神様が定められた被造物です。


絶対性は、神様の血統のために神様が定め創造された性、横的愛であるということです。

定めるということは、創造する前段階で必要なことです。定めないで創造することは出来ません。絶対性を先有条件を設定した設定者こそが、創造主なる神様なのです。

神様が定めた絶対性、つまり絶対性は神様の被造物だということです。


そして神様が絶対性を創造したということは、神様にはもともと無かったということです。つまり、このように性を定める神様には、そのような性の喜びの感覚、感性は無いから、アダムとエバのために絶対性という先有条件を設定、定めて創造され、使用されたということです。

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天聖経

根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。

「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。

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男性と女性というペア・システムの共鳴とは何でしょうか?絶対性の共鳴です。共鳴するとは何でしょうか?絶対性の愛の喜び、真のエロスの愛によって共鳴するということです。


男性と女性というペア・システムの共鳴は「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と、神様が定めたものです。

ですからこの共鳴は神様が創造された被造物です。つまりペア・システムの共鳴という愛は真の愛を中核として造られた神様の創造物です。

このようにペア・システムの絶対性は神様の被造物ですし、絶対性の愛の喜びもこの被造物によって生じるのであって、これを定めた創造主には、この絶対性の愛は無いということです。


つまり、アダムとエバの愛の核におられる神様の喜びとして、これは多くの人が勘違いしているのですが、神様はアダムとエバの絶対性の愛の中で、喜ばれるという意味は、神様が先有条件として設定した絶対性の愛自体、エロスの愛の喜びを神様が感じて喜ばれるのではありません。


つまり絶対性という先有条件を設定した神様には横的愛、そのような絶対性的なエロス的な感性感覚は本質的に持っておられないということです。

絶対性の愛の喜びは神様がアダムとエバに与えて下さった贈り物、創造物です。


それではこの絶対性の共鳴の中における神様の喜びとは何でしょうか?

神様が設定し創造された、その絶対性の愛を横的な愛として、この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が、実体化していくことに対する喜びなのです。

血統が、生命より貴く、愛よりも重要だからです。


横的真の父母の愛、女性の愛も被造物


では「横的真の父母の愛」とはどのような愛でしょうか

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愛の観念が先か、それとも、男・女が生まれることによって愛の観念が生まれたのか、どちらか。真剣な質問だ。愛の観念が初めだ。


神は愛のためにこの世界を造ったのだから、愛を目的にしなければ、被造世界も造られません。


何故神は相対世界を造られたかというと、真の愛のためである。


真の愛とは一体どんなもの? 為に生きるというのはどんなこと? 神の願いに沿って生きるということはどんなこと? その基準は一体何か、はっきり答えなさい。真の愛の出発点は、神が相対者を造る。 

聖酒式の御言1971年8月24日

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神が相対者を創る真の愛の出発点とは、どの位相でしょうか?夜の神の原相でしょうか?原理本体、ロゴスの位置でしょうか?


すでに論じたように、父子の関係という縦的真の愛の観念が先であり、次に「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と神様が思われた結果、創造されたのがロゴスの形状なのです。


ここで夫婦の二性性相の愛、夫が妻を思い愛と妻が夫を思う愛が創造され、絶対性の愛が創造され、このロゴスで男性・女性という意味での父母の愛が創造されました。

このように夫と妻の愛、絶対性は昼の神の位相に存在する被造物であることは前項、「3-9.アガペーの愛、エロスの愛」にて論じました。


三位一体の中心は父子の関係であり、その愛の関係は縦的な愛、父子の愛であるがゆえに、女性は夜の神の原相”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であり、女性の愛も、”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であるということです。

従ってこの”父と子と聖霊の三位一体”の愛の関係は、愛と生命と血統を求めて横的な男女の愛も創造する必要があったのです。


女性先惟はロゴス創造の時


このような女性の愛という横的愛を創造する時、ここで女性を先惟する必要性が出てきます。神が男性格であるがゆえに女性を考えたということが出てきます。


しかし神様は、父子の関係の縦的真の愛であられるので、エロスの愛を創造することが出来ても、エロスの愛を感じることはありません。女性的な対象を感じるという感覚はお持ちではありません。

エロスの愛はすでに論じたように夜の神様の、アダムとエバへの贈り物なのです。


夫が妻を思う愛も、妻が夫を思う愛も、父子の愛を基準として造られた愛であり、従って絶対性も被造物ということです。


”父と子と聖霊の三位一体”とは、このような縦的父子の愛を言うのであり、一切の女性的性相も絶対性の愛も存在しないアガペーの愛であるがゆえに、女性を対象として創造する必要があり、その横的関係のために絶対性の愛を被造物として創造されました。


創世記2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」


創世記2:23においてアダムは女性に女という名をつけました。エバではなく女です。

これは、アダム、男性が第二創造主として女性を創造したということです。


ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 


そして、ヨハネ1:3において、被造物の中でイエス様によって造られなかったものは一つもなかった、即ち、女性もイエス様、男性によって造られた被造物だという聖句です。このように女性とは夜の神様の原相、”父と子と聖霊”によって創造された被造物なのです。

   *参照:3-5.アダムは第二創造主としてエバを創造した


横的真の父母の愛は縦的真の愛で創造されたロゴスの愛


ここで、愛と生命と血統のために父子の愛を核として、男女という意味で横的父母の愛が創造されました。

このように、父子の縦的愛を核として横的父母の愛が創造され、絶対性が創造されたのです。

それが神様とともに太初に存在したロゴスということです。


これが真のお父様が、神様は、前を見れば男性生殖器であり、後ろを見れば女性生殖器であると言われた神様、つまりロゴスに現れた神様ということになります。


このロゴスは当然、父子の関係の縦的愛を核として創造されました。絶対性の愛も、アダムとエバは実際に愛を交わすときにも、当然ながら、この父子の関係の縦的愛、アガペーの愛を核として一つとなることが、このロゴスの構想理想であることは言うまでもありません。


この父子の縦的愛には絶対性の愛は一切無いことは先に論じました。

夜の神様にこのようなエロス的愛の感性は無いことも論じました。

妻と夫、アダムとエバ、これらの愛、お互いを思う感性感覚は、アダムとエバに絶対性の愛の喜び、エロスの愛として、神様が与えてくださった被造物だからです。


神の愛の喜びにエロスの愛の喜びはない


ですからアダムとエバが絶対性を交わす時、神様がアダムの体を自分の身体にされた時、感じる喜びは、絶対性愛の喜びではないということが分かります。

この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が実体化していくことに対する喜びなのです。


エロスの愛は神の創造物であり、神様には本来的にエロス的感性がもともと有りませんから、アダムの体を自分の身体にされて、その絶対性の愛の中に在ってもエロス的愛は一切感じることはありません。

では絶対性における神の喜びとは何でしょうか?


アダムとエバの絶対性の交わりの時、神様が感じる喜びは、父と子と聖霊の縦的な父子の縦的アガペーの愛の感性が、生命と血統が創造され、ぞの創造理想、父子の真の愛が実現されることを感じる時生じる、父子の愛の喜びです。

それは、親が仲睦まじい子供夫婦を見る喜び、子供夫婦が子女を抱いている姿を見て喜ぶ喜びに似ています。


それだから、天地創造主が夜の神様の原相、三位一体としてアダムの体を借りて、つまり実体を持って成そうとされる、この縦的な天の父子の愛の目的は、このロゴスによって創造された被造世界に、実体的父子の関係として神様の血統王権、つまりアダムの三大王権を立てることであり、復帰摂理においてはキリストの三代王権をたて、その上で三大王権を立てるということなのです。


アダムとエバの絶対性の時、絶対性のエロスの愛でアダムとエバが喜ぶ時、神様が感じる喜びとは、神様がその絶対性に臨在され天地創造の中心目標が成される喜びということなのです。

この神の喜びに、官能的な、エロス的な感性的な愛は、神様にはまったくないのです。


ルーシェルとエバ、その命をかけて愛し合ったエロスの愛


ところが、エロスの愛で堕落したエバとルシファの子孫であるがゆえに、祝福を受けて、宗族王と王妃になっても、この官能的なエロスの愛で、この性的二性性相の愛と感性で、アダムとエバの愛の核に臨在される神様の喜びも同じものだと考えてしまいます。それが真の愛だと勘違いするのです。


なぜ勘違いするのでしょうか?エバは取って食べてはならないというルーシェルとの愛に、本気で死んでもいいと、ルーシェルに命を捧げ愛を捧げて真剣に愛し合いました。

命をも捧げる犠牲の愛であるがゆえに、これをアガペーの愛と真剣に勘違いし、過ちの愛であるとことさえも分からないで、この愛を求めるのです。


エバのその生命を越えて愛を求めあったその感性が面々と引き継がれてきたので、この過ちの愛こそが真の愛と信じ込み、この過ちの愛が真の愛にとって代ってきたということです。


過ちの愛といえども、そのような人類最初の、命を捧げた愛ですから祝福を受け神の血統になっても、どんなに御言を学んでも、愛は原理より強いがゆえに人々の愛の情念に現れてくるということなのです。

これはメシア、キリストでさえも取り除くことのできない過ちの愛の記憶、過ちの愛の感性なのです。

しかし、神にはそのようなエロスの愛、ましてやその愛に包まれるというような感覚はありません。その愛の感覚はルーシェルのエバの愛で包まれて強烈な愛の減少感を癒したと思ったエバに対する愛が起源であり本体なのです。

このルーシェルとエバの愛については、別の論、<異端の夜の神>で論じたいと思います。