創造主を信じる宗教の方々へ
私達は菅井(クルト)派が言う自己中心神を信じていません
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他宗教の信徒の方々にお伝えします。
聖臨連合を始めとする菅井派は、サンクチュアリ教会ではありません。サンクチュアリ教会を装う別の宗教です。
彼らは「お父様はこのように言っている」と主張するため、これがサンクチュアリ教会の教えだと勘違いする方もおられますが、彼らの勝手な言説であることをお伝えします。
この「お父様はこのように言っている」とする教えに対してサンクチュアリ教会の指導者、文亨進牧師(文鮮明師の後継者、代身者、相続者)は菅井派に影響を受ける人が目を覚ますように警告や啓蒙をしなさいとサンクチュアリ教会長たちに指示しています。
これを否定する菅井派は、文亨進師からサンクチュアリ教会としての任命の祈祷を受け証明する必要があります。
この指示にもとづき、菅井派の詐欺に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他宗教の信徒の方々が騙されないようこれを書きます。
サンクチュアリ教会最大である日本サンクチュアリ協会では厳しく対処していますのでリンク先を御覧ください。
●キリスト教の最も大切なアガペーの愛を貶め冒涜する菅井派
まずキリスト教の皆様にお伝えしたことを振り返ります。
キリスト教において、我々ももちろん大切にするアガペーの愛を、菅井派は貶めるキリストを信じる者にとって甚だしい心情蹂躙の宗教であることをお伝えしました。→キリスト教に興味のある皆様へ
私達を導く文亨進師は、以下のように高キリスト論のアガペーの愛が真の愛であると教えて下さいます。
キリスト教の皆様への釈迦に説法になってしまいますが、これは創造前からの父なる神と、その子としての神との三位一体の愛、アガペーの愛です。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。
だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
ところが菅井派はこの”愛は感覚ではなくアガペーである”と言われるこの文亨進師の教えを受けて、次のように真っ向から「いやアガペーの愛は肉的感覚だ」と否定します。
菅井氏:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものです。https://kuruto.muragon.com/entry/169.html
さらに釈迦に説法ですが、神は愛であり、それはアガペーの愛であり、このアガペーの愛で父と子と聖霊のペルソナは一つであることを表す三位一体を、これほどまでに「肉的五感の感覚的刺激」によるものだと貶めるのですからイエス様、イエス様を信じる者たち、そして文亨進師に対する、どれほどの心情蹂躙なのかというのです。
だから私達とは別の宗教なのです。
しかも、菅井派は自分たちが勝手に文亨進師の高キリスト論は象徴だと解釈しているのに彼らは”文亨進師に直接確認しろ”と言います。どこまでも自己中心的です。我々は文亨進師の高キリスト論をその如く信じているので確認する必要などありません。菅井派自分たちで正々堂々と確認すべきことです。
●管井派の神は、キリスト教、イスラム教にとって自己中心神(悪魔サタン)
この自己中心についてです。
この菅井派の”神の愛、アガペーの愛を侮辱する心情蹂躙”は創造主の根源を自己中心の神とするところから起因します。
キリスト教、イスラム教にとって自己中心利己的であるとは罪であると考えます。
キリスト教では、自己中心的な性質は原罪の結果の一つ、罪として捉えます。
キリスト教、イスラム教では、そのような他者犠牲の利己的自己中心の根源的霊的存在とは、サタン(イスラム教ではイブリース)のことです。この自己中心で神に反逆したからです。
イスラム教においても、慈悲深いアッラー(創造主)を自己中心的だと表現することは、重大な冒涜行為です。神を自己中心的だと叫ぶ者はイスラム法(シャリーア)に基づいて、信仰の根幹をゆるがす重い罪であり、非常に厳しい対応がとられる可能性があります。
ところが菅井派は、神様のアガペーの愛、犠牲の愛も創造後の肉体的五感からくる愛だと、神の愛を貶めるだけでなく、真の愛に目覚める前、天地創造を始める前の神様は、このキリスト教が罪であるとする同質の自己中心、利己的で自己中心的な性質の神であったと主張し徹底的に神様を貶めます。神のアガペーの愛を侮辱します。
しかも、菅井派は”神はその自己中心を悔い改めた”と言います。
菅井氏:そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。https://kuruto.muragon.com/entry/232.html
自己中心を悔い改めるとは、キリスト教にとっては、「罪から離れ、赦しを求めて神に心を向ける」ことを言います。
この菅井派の教えはキリスト教、イスラム教にとって「そのような自己中心という罪深い神であることが、真の愛の前にあって、その存在自体の最初が罪であり悪であった、これが神の創造前の性質であった」ということになります。
「世界の根源は悪であって、その自己中な悪が悔い改めて天地創造した」ということになってしまうのです。
これを極簡単に言えば、「神の根源は悪魔である」と、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の皆様に言っているのです。
これは、キリスト教、イスラム教にとって、極めて重大な名誉毀損、心情蹂躙になります。
ですから、まさに菅井派はキリスト教、イスラム教にとって根本的重大な敵です
ですから菅井派は、キリスト教、イスラム教に対して、そして我々に対しても、創造主は自己中心利己的な悪魔サタンだと神聖冒涜し、そのような悪魔を崇拝すると叫ぶ異端宗教ということになるのです。
彼らは気づいていないようですが、我々が信じる神は悪魔サタンだ、悪魔が天地創造をしたのだと人々に向かって言ってることと同じなのです。
菅井派は、「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」と語られ文鮮明師の御言をもって、これぞ真の御父様が伝えたかった御言だというのですから、当然、これはキリスト教、イスラム教の皆様に対して、御父様を貶めることになります。
だから菅井派は我々にとって別の宗教異端なのです。
いくら、神は悔い改めた後は、真の愛の神になったのだと、キリスト教、イスラム教の100億回弁明し叫んでも無駄でしょう。その悔い改めたという表現自体がキリスト教徒、イスラム教徒にとって、そして私達にとっても心情蹂躙だからです。
しかし、違うというのなら菅井派はキリスト教各派、イスラム教各派から、
菅井派:そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。
このような悔い改める神は正しいという同意をもらって公表する必要があります。
そんなことはないと言うのなら、モスクに行ってアッラーの慈悲の愛に対する菅井派のこの言説は正しいという認定書を貰って証明すればいいのです。
●永遠の神のアガペーの愛を否定する菅井派
ヨハネの黙示録22章
13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
この聖句は、神は永遠であり、神の絶対的な権威と存在の完全性を表します。
私達の愛する創造主は最初から最後まで永遠に変わりのないアガペーの愛、真の愛なる方です。
しかし菅井教の神は最初は自己中心の神が、悔い改めて真の愛に目覚めたといいます。
つまり途中で真の愛に目覚めた、存在根源が自己中心利己心であるので、永遠の愛ではないということです。
永遠でもなく根源が自己中心なので、いつ豹変して本来の自己中心の神になるか分からない恐ろしい神だということになります。
おそらく、”悔い改めて真の愛に覚醒したのだからアルパでありオメガ、永遠の愛である”、或いは”この聖句は愛の質のことを言っているのではない存在性のことを言っている”など、思いつく様々な屁理屈を叫ぶのでしょうが、覚醒前と後では、心情の質がまったく違うということを覆すことは出来ません。
これは、創造前から全てにおいて「神は愛である(ヨハネ第一 4:8)」とするキリスト教の根幹さえも侮辱する詭弁です。
そして、先に述べたようにアガペーの愛、犠牲の愛など「肉的五感の感覚的刺激」との関係によって生じる愛であると侮辱します。
これは、アガペーの愛は、創造前から有ったのではなく、肉体が創造されてから生じるようになった愛だということになります。つまりアガペーの愛のその永遠性を否定します。
このようにして真の愛から永遠のアガペーの愛、犠牲の愛を排除します。
このように、キリスト教にとって、菅井派の神は「アルパであり、オメガである」というこの聖句、この永遠のアガペーの愛、永遠の真の愛を破壊する神、邪神、悪魔の類です。
キリスト教にとって、見せかけの真の愛で誘って、何かあれば自己中心の恐ろしい神に豹変する神ということになってしまうのです。
ですから菅井派はこのような神を信じるので、我々にとっては別の宗教であり異端なのです。
菅井派は自ら、彼らはまったく気がついていないのですが、
菅井氏:そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。https://kuruto.muragon.com/entry/232.html
などと言うことは、キリスト教、イスラム教にとって、自分たちが信じる神は「自己中心神、悪神、邪神、悪魔、サタンである」と人々に叫んでいることと同じです。
彼らは”これが御父様の真理だ”と言って、「自己中心の神が、真の愛の神に覚醒した」の類の論説で、「自己中心の神」を主張しつづけるでしょう。
しかしそれは、キリスト教、イスラム教の皆様に、自分たちは「サタン(イブリース)、悪魔、邪神」を信じていると叫び続けることになるのです。
菅井派には別宗教として、頑張って下さいとエールを送りたいと思います。
そのような神をサンクチュアリ教会は当然信じていません。
私達は、このようなキリスト教、イスラム教の敵になるような菅井派のこのような言説を信じていません。
菅井派はサンクチュアリ教会ではない、まったく別の宗教であることを、理解いただきたいと思います。
↓菅井派に対する御言
↓菅井派に対する公式見解と関連記事
↓菅井派に対する記事
菅井睦雄氏は偽預言者 菅井派は聖殿異端、別宗教
↓菅井派のように、女性に対する感性や発想が先にあったとする、フェミニズム神学の考察
↓菅井派の”真の父母様の本体論”に対する考察
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菅井氏の主張をどこまで確認されてのものですか?
返信削除なるほど「自己中心神」ですが、これは(男性格としてのみおられた)創造前の(夜の)神様についてお父様が語られていたみ言を引用してのものを彼は書いていました。もしもそれに関して異論を唱えるとすれば、ファンクラブさんはどれだけお父様のみ言に精通しているかの疑問が生じてきます。
但し、私・自称ルポライターtomy4509が菅井氏に反対する理由は、創造に際し
◆「シムソン氏(菅井氏)曰く「神様のオモチャとして人間を創造された?!」
」
https://plaza.rakuten.co.jp/peace3world/diary/201912170000/
かのように、神様を侮辱していたことによるものでした。
あなたの”試論”とやらもほとんど読んでいませんが、文亨進氏メッセージ「夜の神様、昼の神様」を元にしたものであり、菅井氏と五十歩百歩でしょう。
◆文亨進氏の『夜・昼の神様』、フンスク様の『夜の神、昼の神様』
https://plaza.rakuten.co.jp/peace3world/diary/201906280001/
同じ文総裁のみ言を聞きながら、その解釈の違いは何だったでしょう。
私からは、お父様み言を原語で聞いたか、FMラジオの英語訳(英誤訳)で聞いたかの違いを推論として提起していました。
あなたと菅井氏のいずれも文亨進氏解釈をベースとしていますので、どんぐりの背比べで競っているようなものです。もう一度フンスク様解釈の「夜昼の神様」にも目を向けられてはいかがでしょう。