■1月3日説教「生きたみ言」文亨進<全文>
<1月3日の礼拝、亨進様の言葉から>
これはある本屋さんで買ったものです。かなり以前から用いています。
私たちは毎朝の訓読会はお父様の伝統を守り朝5時に行っています。それは小さな子供がいたり、学校に通う子供がいる時には厳しいものがあります。
うちには17歳から9歳までの子供がいます。全員を朝5時に起こすのは結構大変なのです。
ですからリマ(Rheema)としてこういうものを用いています。リマは霊的闘いのさなかに与えられるみ言です。悪魔や困難に出会う時、時に応じて神様がくださるみ言です。霊的闘いの武器としてくださるものです。その武器を得るためにはしかしみ言によらねばなりません。神様のみ言は霊的な剣となるからです。
エペソ人への手紙6章では神の武具について語っています。闘いの剣は「御霊の与える剣」だというのです。だからこのみ言から剣を得ます。毎朝、私の子供たちはここからみ言を引くことでリマを得ます。少し実演してみましょう。
(亨進様がメンバーのところを回って‘み言のカード’を一枚ずつ引かせる)
新年の目標などをよく決めますね。何キロやせるとか…(笑)
そこで(今年は)イエス様からの贈り物を贈ろうと思いました。これほど大きな贈り物はないでしょう?神様の贈り物を贈るのです。お父様の権限圏にある者としてつねにみ言に返り、また子供にもその力を与えてあげるのです。これは新年にたてる目標としては貴重なものになるでしょう。
(カードを引いたメンバーに向かって)あなたはどんなみ言を引きましたか?
-あなたは私の避け所となるでしょう 詩編61.
このように私たちは引き当てたリマを読み、また次の子供がみ言を選んでいきます。問題は子供たちがリマを読んだ後すぐまた眠りだすことです(笑)。
だから自分のみ言について考えることをしません。だから私は彼らに例えば「避け所」とはどういう意味か、と聞きます。このように私は訓読会をしています。
み言を選んでそれについてしばらく思いを巡らす。これは私の選んだみ言ではなく神様が選んだ今日のみ言です。
そこの兄弟のえらんだみ言は何ですか?
-夜も光が私を照らし出す 詩編139
皆さん、昼に光が必要でしょうか。
光は闇において力を発揮します。様々な困難に直面するときに神様のみ言が威力を発揮するというのです。月明りもないまったく闇に包まれた森の中に入ったことのある人はいますか。恐ろしいですね。それが光に包まれるということです。
いつもこのようにしてリマを選ぶのです。このように子供の大人もリマを得て、それについて深く考えることで大きな恵みを得ることができます。
(別の兄弟が一枚選ぶ)み言を読んでください。
-主に愛される者、彼は安らかに主のそばにある 申命記33:12
「主に愛される」とはどういう意味ですか。心情的に近いということです。「安らか(peace)」とはどういう意味ですか―とこういう風に子供たちに聞いていくのです。普通は「争いのない事」などと答えます。しかし真の「安らかさ」はキリストであるということです。戦争、困難、審判のさなかにあったとしても安らかであるのです。われわれは往々にして、外に安らかさを求めます。しかしそれはキリストというお方であるというのです。
(次の兄弟が読む)
-主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守る 詩編121:7
すべての災い、「すべて」とありますね。このとき(ダビデは)逃げ回って洞窟に隠れていたのです。このとき神様はダビデにすべての災いから守ると言われたのです。サウル王がダビデを殺そうとしていた時です。ダビデはジグラグの洞窟に隠れていたのです。そのときのみ言です。洞窟ではダビデ独りきりでした。彼は誰に向かって話しかけたのでしょう。自分自身に向かってです。自分に向かって神様が真実なお方であると言い聞かせているのです。自分に向かって語ることも時には必要なことです。神様の約束の言葉を自分に言い聞かせるのです。このように小さなみ言から大きな恵みを得ることができるのです。
(次の姉妹が自分の選んだみ言を読む)
-主を畏れる人には何も欠けることがない 詩編34:10
今日、神様は詩編を与えられるようです。祈りの時にも詩編を読む用意をしていました。
こういうことを子供たちとして下さい。子供に神様からの贈り物を与えることになります。受け身で説教を聞くのとは違い神様との関係性の中でみ言を聖霊によって頂く。そしてそのみ言を味わうことでより大きく見えてきます。
世界中のサンクチュアリに勧めたいですね。
別にこういうものでなくとも聖書でもいいのです。 神様に「どうか今日のみ言をください」と祈って心のままに素早く聖書を開きます。
(1人の兄弟が聖書を開いてみ言を読む)
-呼ぶに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか、神を責めたてる者よ、答えるがよい。ヨブ記40:1-2
このように必ずしもカードは必要ありません。聖書はただの本ではなく、生きたみ言が詰まっています。映画などで古代の書物がゆっくり開くと光が漏れてくるといったシーンがあるでしょう。
聖書の言葉は生きたみ言なのです。その生きた言葉と相互作用するのです。ただ最初から淡々と読み進めていくのではなく、働きかけるのです。神様のみ言はあなたに知恵と知識、そして信仰を与えてくれるのです。霊の賜物をくださる神様と交わるきっかけを与えてくれます。
訓読会でも「お父様のみ言をよんでいればよい。聖書はまた別の機会に…」という人がいますが、イエス様と共におられた神様は再臨主と共におられた方ではないですか。ですから同じみ言です。
イエス様が明かしたみ言はお父様の明かしたみ言と同じです。お父様はみ言の完成級の理解を私たちに教えて下さいましたが、イエス様のみ言から逸脱するものではありません。両者は同じだというのです。原理は聖書を解説するもので、聖書は顧みなくてよいことにはなりません。聖書を打ち捨てておくことは神様のみ言を打ち捨てるのと同じです。聖書は生きた力なのです。つねに働きかけることが必要です。
私たちは原理という観点をもち、完成級の解釈をもっています。聖書の暗号を解読することができますが、わたしたちを導いて下さる神様の霊が必要です。
「今年は髪の色を変えてみよう」とか、「少しやせよう」か、「食事は豆類も食べよう」かなどと、それも結構ですが、「命のパン」はどうですか。あなたに糧を与えてくれる生命の水。
生きたみ言と関わることを今年の生活目標にしてみてください。多くの人は「神様はなぜ私の願いを聞いて下さらないのだろう」と言います。あなたのリマはどうですか、生きたみ言を頂いていますか。答えは「いいえ」です。
なにか問題が起こった時、それを解決しようとするとき、答えてくだるお方がいるにもかかわらず聞かないとするなら、おかしなことでしょう。み言をキャッチして、それについてあれこれ思索することです。そうしたって失うものなど何もないでしょう。み言との関わりを取り戻せば人生が変わります。同じところにとどまることはありません。
神様に対して「あなたのおっしゃることに耳を傾けます」という姿勢が大切です。
ある柔術など総合格闘技をマスターした人が語るのを聞いたことがあります。多くの人がやって来て「練習してもらっていいですか」とやってくるのですが、少し自信のある人は「私と手合わせしてみますか」などと言ってきます。その結果、彼らは打ちのめされて怪我をすることもあるのです。
そうではなく「私はこういう状況での姿勢でこういう場合の戦い方が分かりません。この姿勢からの戦い方を教えてくれますか」という風に、尊敬、敬意を示すとするなら、喜んで教えてくれるでしょう。少しでも生意気で傲慢なところを見せればやられてしまいます。獰猛な格闘家としてではなく先生として扱うのが良いと彼は言いました。敬意を見せることです。
敵であるような人をコーチに変えるのです。神様に対するときも同じことが言えます。神様は瓶の中にいる魔法使いではないのです。「あれをください」「これをください」とだけ言ってあとは見向きもしない。「この傲慢なもの!何もかなえてやらない。」となりませんか。
人に対するように尊敬を示すべきでしょう。神様をみ言を介して接することのできる生きた人格と考えることです。聖句の謎が解けます。創造主と生きた関係を築くのです。すべてご存知です。
「いまここに箱いっぱいのキャンディをください」と神様はそれをかなえてくれることはありません。何故でしょう?(末の子女様に聞かれる)「(神様が)そうすることを続けると人間を甘やかせてダメにしてしまいます」
神様は愛の方であるので人間を損なうことはされないということです。そのようなことをされると怪物人間になってしますでしょう。両親の教育はかくも重要だというのです。神様は決して腐った怪物をおつくりになられません。
訓読会ではただ読むだけではなくこういうやり取りをするので、時には四〇分~一時間に及ぶこともあります。そして格闘技の訓練もするし銃器を扱う訓練もします。2016年は生きたみ言を生活の一部にして下さい。もう一つ希望される人に本を差し上げます。それは「大工以上のお方(more than a carpenter)」という本です。著者はもともと無神論者でキリスト教徒を科学で実証されない古代、中世の文書を信じる愚か者と思っていた人です。現代人はそのような時代遅れのものを信じないと言い切っていた人です。そこで彼は、その愚かしい書物、聖書を反論してやろうと思ったのです。彼はある時、女友達が「私は変えられた」というのを聞いて「よしてくれよ、そんな宗教を持ち出すのは」というと彼女は「宗教じゃない。イエス・キリストよ」と答えたといいます。
あまりにも多くの人がイエス・キリストとの関わりを宗教だと考えています。私たちは宗教に関心などありません。お父様は宗教を作りに来られたのではないのです。お父様は何度も郭グループ、金グループなどをかき混ぜ、ひっくり返したではありませんか。清平もそうです。お父様が願われたのは「関係性」です。そこが鍵です。関係性こそ鍵だというのです。み言と交わる時、キリストに関わっているのです。
私たちは宗教を実践しているのではなく真実なる場を見出そうとしているのです。この本(more than a carpeter)の中で著者が自らの体験を通して知りえたことを示してきます。一度読んでみることをお勧めします。
著者はこう指摘します。「(会話に)イエスの名がでると、ある人はとても気落ちする。また非常に喜ぶ人もいれば、怒り出して会話を中断する人もいる。では釈迦やムハンマドの場合はどうであろう。孔子の場合は?そうはならない。なぜならイエスは「神の子」だと主張しているからだ。「神と完全に一体化している」と主張しているからだ。それは全く神聖冒涜行為である」またこの本には「嘘つきの狂人、あるいは主」という章があります。
著者はイエスの本当の姿を求めて様々な聖句を引用しています。「私を憎むものは、私の父を憎むのであある」「私を見たものは神を見たのである」これらの言葉は普通ならば完全に神を冒涜する言葉です。「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない」(ヨハネ5:23)
このようにイエスはたいそう過激に自分の立場を主張しています。私たちは原理講義を通じて何十年もの間イエス様は一人の人間だと教えられてきました。しかしお父様が最晩年は語られたことがあります。それは「夜の神様、昼の神様」です。いったいこれは何でしょうか。
お父様は「私は「夜の神様」から来た。私のほか、「夜の神様」から来たものはない」と仰いました。そして「夜の神様」は天地創造以前の神様である、「時間」さえも超越した神様であると説明されました。お父様はその「夜の神様」から送られたと言われたのです。この点でまったくイエス様と同じです。「私を見たものは神を見たのである」。
「道徳倫理の教師としてのイエスは受け入れられるが、神の子としてのイエスは受け入れられない」と多くの人が言います。この本の著者はこの点についてこの述べています。
イエスを偉大な道徳教師として受け入れることはできるが神の子のイエスは受け入れ難い」という人がいるが、それはやめた方がいい。なぜなら「自分は神の子だ」と主張する者が「道徳的」であるはずがないからだ。
普通の人間でそのようなことを言い張るとすれば、彼は「自分は目玉焼きである」と主張するのと同じレベルの狂人か、地獄の悪魔である。
イエスは「神の子」、「狂人」あるいは「地獄の悪魔」のうちいずれかであるかをあなたは選択しなければならない。
原理的にはおかしいと感じるかもしれません。しかし最晩年にお父様がおっしゃったことを想起してください。これは神学的には自己啓示(self-revelation)といわれるもので非常に大きな意味を持つものです。メシアの自己規定であり非常に重要な内容です。わたしたちが認識する内容ではなくメシア自身がこの世に向けて公表した自己のアイデンティティです。「夜の神様」「昼の神様」。これは大きな爆弾だといえます。お父様は「(夜の)神様から来た」と言われたのです。あまりにショッキングな言葉なので私たちは、このみ言をどう扱えばよいのかわかりませんでした。
50年以上にわたって、キムさん、ユさん、リーさんやパクさんなどが教えてきた内容とは180度も異なるみ言です。
この50年で私たちは「宗教」になっていました。生きた神様に合わせて生きることをしてこなかったのです。なぜ聖霊がいなくなってしまったかわかりますか。
「この組織に従っていかなければならない」「公文に従わなければ…」「今日の訓読会で2ページから8ページまで読みたいのですが、指示通りですか?」「それは公文の指示とは違います」などなど。まったく(神様、キリストとの)生きた関係とは関わりのない宗教組織になってしまいました。
最後の2年間、私はお父様のお側にいました。そこはまったく宗教とは関わりのない、ただ関係性の世界でした。儀式もありません。訓読会でもお父様は自由に様々なことを語られました。絶対性、結婚について、また釣った魚やボートについて語られることもありました。それは関係性です。実際、スケジュールもありませんでした。お父様の啓示に従って動きました。
しかしそうして私たちの既成観念から離れてみると、心から自由を感じました。真の自由、本物、真の関係性を体感することができました。
窓を通してみるお父様ではなく、カメラを通してみるお父様でもない。韓国幹部を通してみるお父様でもない。御自身の子女との間にも韓国幹部は割って入ろうとするので、これは(真の家庭の)子女であっても起こりうることだったのです。
私は太平洋の真ん中で小さな船室の中でお父様と二人っきりで眠ったこともあります。
韓国幹部は追い出しました。お父様といたいから出て行ってくれと言いました。その写真もあります。お父様に毛布をおかけしている写真もありました。これこそ神様が望む関係性です。宗教ではありません。
とにかくこの本「More than a carpenter」はお勧めです。聖書は難しいという子供さんがいればこの本は素晴らしい入門書になるでしょう。現代社会のことから科学、社会に影響力をもつ新無神論についても解説されています。イエスを信じることはそんなに愚かな、非科学的なことなのか。日々み言から力を得てください。神様が導いて下さるでしょう。
ところで、今日ステージの中央においてある画架をご覧ください。数週間前、キリストの花嫁たちをステージに呼んで花婿に歌を捧げました。その中で大きな愛を感じました。超自然的な愛です。注がれる聖霊の力。そこで今日は「神様があなたにお願いするように私に言われました」と言ってマーサさんにお願いしました。ここで「讃美描画(Praise painting)」を開拓して欲しいと。マーサさんは今日、読まれるみ言を知りません。神様から与えられるみ言をあらかじめ知らされることなく、すべて自由に即興で絵を描くのです。だから完全にLIVE中継ということです。
私はマーサさんに言いました「神様がどんなみ言をあなたに下さるがワクワクします」。当然マーサさんは緊張しているでしょう。皆さんの目の前で絵を描くことになりましたから。そこで「マーサ、リマを得て、何を描くべきか神様を信頼して神様から啓示を得なさい」と私は言いました。どういう方向に導きを受けるかわかりません。それは山であるかもしれないし、樹や花であるかもしれません。あるいは戦士の姿かもしれない。ただ霊に導かれるまま描いて下さいとお願いしました。ただ神様のみ言に感応するのです。ではマーサさんにリマを引いてもらいましょう。新たな道を拓きます。
あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。マタイ6:32
マーサさん、何を描くのか、私たちには明かすことなく、導かれるまま描いて下さい。
神様も芸術を愛され、お父様もそれを愛されました。多くの芸術の問題点はどこにあるのでしょう。見映えよく、快楽主義的で自己中心。ゲイやフリーセックスを奨励する。神様の願いを無視した自己顕示。
世界中のサンクチュアリ教会にいっておきたいことはこれです。
「聖書的でありなさい」
世俗の歌を少しでも採用すればそれは徐々に浸食し支配し、結局、悪魔を招来することになるでしょう。
ここで行う芸術はこの世のものとは全く異なるものです。
悪魔の芸術ではなく神様のみ言を中心とした芸術です。
み言は私たちをフリーセックスやゲイなどみだらな世界にさまようことを防ぐからです。聖書中心ということが重要です。
ここに若者たちがいることがうれしいのです。若者の祈りも必要です。彼らは何ともないように演奏していますが、いつも闘っているのです。自分が若い時を思い起こしてください。不安定な気持ちを抱えているものです。自意識も今よりも強かったでしょう。
この舞台に上がり、神様を讃美することには大きな勇気がいるのです。なぜならインターネットで彼らを見てあざけり、馬鹿にする者もいるからです。この若者たちそういう心配を断って神様に集中するのです。それは簡単なことではありません。
神様を讃美するわれわれを意気消沈させ、怖れを抱かせる霊がたまにやってくるのを感じます。内気にさせ、臆病にさせる霊です。わずかな恐れも悪魔には大いに役立つのです。神への賛美は霊的闘いです。神様を喜ばせることは同時にサタンの怒りを呼び起こすのですから。
世界的な(金融・政治などあらゆる権力を握る)超エリートに向かって、「イエスこそ主であり、あなたになどひざまずくことはしない」などというと彼らは怒るでしょう?権力者である彼らはあなたをひざまずかせたいからです。
神様を讃える時、サタンは怒り狂うのです。だから讃美するときありとあらゆる手段を使って妨害活動をするのです。カメラが回っている、この顔のしわが・・とか髪型が・・とかそういう不安をもってはいけません。その一つをつかんでいかれるのです。スパーリングと同じです。格闘技をある程度学ぶと、練習試合をします。そういうことがここでも起こります。
ああ、カメラがアップを取らなければよいのだが…、あの人が見ている…など。お判りでしょう。そうして悪魔はひとりずつさらっていきます。そういうことを頭において、しっかりと縦的に繋がっておくのです。その語りかける雑念に意識して耳を傾けるのもよいのですが、主管されてはいけません。
お父様は仰いました。「あなたはサタンにとって主体なのか、サタンがあなたの主体なのか」。
世界中のサンクチュアリは神様が臨在する戦場だというのです。ここで修練を積んで強くなるのです。そのことを心に言い聞かせて讃美するのです。霊的闘いです。
リマ(Rheema)をして霊性を高め出発しましょう!
無作為に聖書を開いてその聖句の意味に霊性を合わせることです。今日のリマは何でしたか?
私の今日のリマはエゼキルエル書第11:4
「それゆえ、彼らに向かって予言せよ。人の子よ予言せよ。」
これは
どのサンクチュアリでもいいのでお父様の権威に戻る祝福を2月13日までに受けてください。
と叫びなさいということかと思いました。
この予言に相応しい映像を贈ります。
リマを理解するため是非ご覧ください。
皆様の今日のリマは?
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