LIVE:第63回_真の子女の日
第35回_天宙統一国開天日
天基13年天暦10月1日 2022年10月25日
63rd True Children’s Day 10/25//2022
訓読
『文鮮明先生御言選集』 第9巻20~23ページ、1960年4月3日
翻訳提供:江利川総会長
私たちの一身をもう一度反省してみるとき、皆さんは何を感じていますか? 私たちの心では、二つに分かれて争いが起こっています。今日、幸福を感じたとしても、その幸福を明日も明後日も、生涯の始めから終わりまで持続できる権限がありません。私が今日、愛する人をつかんで幸福を謳歌できるとしても、その人を中心として永遠に幸福を謳歌することはできないのです。時間がたつにつれて変わります。どんな主義も、価値あるその何かも、存在世界の前に永遠に誇ることはできないという事実を否定できないでしょう。そのような自分であることを皆さん、この時間にもう一度考えてみてください。
それでは、この体はどこに行こうとするか? この心はどこに行こうとするか? この心情はどこに行こうとするか? 問題はこれです。私たちは、生まれる時からあるべき場をもてずに生まれました。安息できる環境をもてずに生まれたのです。我知らず争いの環境に陥った存在として生まれました。誰が絡み合うようにしたのか分からず、誰が混乱させたのかも分からない環境に生まれたのです。
ですから、このような問題を一つひとつ解決するために、人倫、道徳や道理というものが出てきたのであり、これを何度も越えて、最後にはこの地上のすべてを放棄して、天を訪ね求めていくようになったのです。それゆえ私たちは、行こうにも行くことのできない環境に固着しています。私たちの習慣が、私たちが生まれ、生きてきながら形成された生活的な観念や認識が、私たちを縛りつけているのです。さらには、理解できない何かの罪悪相が私たちを束縛しています。
このようなことを考えるとき、皆さんは誰の息子、娘ですか? 皆さんが悪なる世界の息子、娘になっているというのです。これを否定できません。皆さんは悪なる世界の息子、娘です。善を慕う心はありますが、善なる立場にいることができず、悪なる立場で嘆息しているので、結論的に悪なる世界の息子、娘です。キリスト教は、これを結論づけて堕落した人間と言います、堕落した人間。堕落という二文字に引っかかった人生なので、堕落の血統を抜け出すことのできない罪悪の人間だというのです。
ここから私たちは離れなければなりません。自分がいる環境を整備して行かなければならないのです。どのように? 体が反対すれば、体を打って行かなければなりません。心が反対すれば、心を打って行かなければなりません。心情がその道を遮れば、この心情を打ち破ってでも行かなければならないのです。この道を開拓する道が修養の道です。修養の道は捨てて行く道、退けて行く道、あらゆるものを忘れて行かなければならない道です。
そのように数千年の間、求めながら行こうとしてきましたが、行った者がなく、勝利した者がいないのですから、どうしますか? 今まで歴史路程で、多くの人たちがこの嘆息の血統を抜け出そうと、罪悪の子女の名を断ち切り、善なる子女の名をもとうと飛び出してきましたが、すべて行ったという勝利の姿は、いまだにないというのです。問題はここにあります。
天国があり、地獄があるとすれば、その天国と地獄は私の心にあります。重死と重生の分かれ道に立っている私たち、その私たちを中心として善と悪が闘っているのです。皆さんは今、終末時代に訪れてくる世界的な恐怖に震えていますが、真の人生を慕い、真の本郷の目的地を求めていこうとする人であるならば、外的に現れたその恐怖が問題ではなく、自分の心中で善悪が闘っていることが、もっと恐ろしいことを知らなければなりません。
ここで敗者になれば、永遠に悪なる父母の血肉から抜け出すことができないため、死亡世界の子女になるのであり、勝利して天が公認できる父母の血肉を受けた子女の立場に立てば、地の歴史を超越した天的な価値の世界に残る子女になるのです。ですから私たちは、心をしっかりつかんで闘わなければなりません。
その闘いは、相対的な何かの存在が解決してくれるのではなく、自分の心中から解決しなければならないのです。それでイエス様は、天国はどこにあるのかと弟子たちが尋ねたとき、天国はあなたの心にあると答えられました。いくら良心的な人、いくら善なる人だとしても、その心が全宇宙と共に、その父母を謳歌できる生活が生涯にわたって継続されないとすれば、彼は遮断された者であり、塞がれた立場だということを知らなければなりません。
行かなければならない私たちです。私が嫌でも、歴史はそこに向かって進んでおり、私が行くまいとしても、この世界はそこに向かって進んでいます。ある民族が世界の運勢に背けば、その民族を打ってでも天は追い立てるのです。ある個人がその運勢の方向を遮って行くまいとすれば、彼を打ってでも大宇宙の目的地に向かって動くでしょう。私たちはそこに向かって行かなければなりません。
私たちはよく言います。ある人が私たちの国を代表し、ある国際競技に出ていくとき、彼を指して「大韓の息子、娘だ」と言います。さらには、国内のある団体を代表し、ある氏族を代表する人を指して、その団体や氏族の息子、娘と言います。また、家庭に入っていけば、その父母の息子、娘だと言います。このように、息子、娘という名詞は広範囲に使われています。
それでは、真なる息子、娘が行くべき人生行路は、どのような航路でしょうか? 私たちは天が公認できる息子、娘になれませんでした。そのような息子、娘の基準も、この地上に出てきていません。出てきていないのです。それは確言できます。天が公認する国家の息子、娘と言える基準も出てきていません。そのような基準がありますか? ありません。天地が生じて以降、天が公認する一家、氏族、民族の息子、娘だと言える戒律も何もないというのです。
イスラエル民族が天の息子、娘になりましたか? なれませんでした。天に背くことが度々あり、時代時代において天の前に逆賊の行路を歩むことにふけったその民族、送られたメシアを殺したその民族は、天の息子、娘になれませんでした。
神様が「よし、お前は世界を代表する私の息子、娘だ」と言われ、愛することができる位置に立つこともできず、選民として国家を立て、その国家に代わる天の息子、娘だと言える位置に立つこともできませんでした。氏族に代わる天の息子、娘だと言えるものは何もありません。さらには、家庭を中心としても、天の息子、娘だと言える立場になれませんでした。そのようになったという人、手を挙げてみてください。問題です。
このように考えるとき、天はかわいそうな天です。天が心情で願ったことは何だったでしょうか? 堕落していない本然の人間、堕落していない私たちの先祖を、世界的な息子、娘として立てることだったでしょう。世界を統治でき、国家の主権に代わり得る息子、娘として立てることを夢見たのは間違いなく、氏族やある家庭の息子、娘として立てることを夢見たのは間違いないのです。
ところが、天が立てようとしていたその基準がすべて断ち切られることによって、人生は苦しみとなり、苦痛を受けるようになりました。ですから私たちは、堅固な悪魔の鉄格子の窓を蹴飛ばして解放の一日を迎え、天が認定できる父母を求め、孝道を行かなければなりません。
このことを考えるとき、あぜんとするとすれば、これ以上にあぜんとすることはありません。天は今まで6000年間苦労され、言葉にできない犠牲の祭壇を築いてきたのに、そのような基準をもち得る位置にいることができないとは、どういうことでしょうか? 痛嘆すべき私たちであることを知らなければなりません。
私たちは集まってきました。迫害の道を意に介さずに集まってきました。私たちは訪ねてきました。悲しみの谷間を意に介さずに訪ねてきました。何のために? 悪なる世界の息子、娘から抜け出し、真なる善の息子、娘になるために訪ねてきたのです。
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