Kingdom of the Rod of Iron 3
鉄の杖の王国3 1月14日<ポイント訳3編>
愛と正義と慈愛の神様と鉄の杖の王国
サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載(ポイント)です。字幕化は2nd Israelさん。教会ブログであるため御言をコレクションしています。聖殿食口以外からも読んで頂いています。ありがとうございます。
翻訳:サンクチュアリNEWS管理人
鉄の杖の王国シリーズその3に入ります。
これを本にするときにははっきりと章に分けるつもりです。
また聖句をみていきましょう。繰り返し読むことが重要です。
この中でエマソン・エガリッチの「Love & Respect (愛と尊敬)」を読んだ人はいますか。
夫は妻を愛し、妻は夫を尊敬するという素晴らしい著作です。作者はこの本を書くにあたりたった一つの聖句をもとにしたのです、それはエペソ人への手紙第5章からでした。
夫は無条件に妻を愛しなさい、妻は無条件で夫を敬いなさいという、ほんとうに鍵となる聖句です。これは神様の戒めであり、選択の余地はありません。神様を信じ、神様に忠実であろうとする者である限り、どうこういうことができません。妻を無条件で愛するということ、時には愛し難い時もあるかも知れません、そういう時、夫は忍耐強く愛をもって変えるのです。またその逆に王妃(妻)からすると無条件に王(夫)を敬わなければなりません。見下すのではなく尊敬をもって夫を変えるというのです。これが大切です。男性である夫に口やかましくいうこと、これは尊敬を欠く行為です。
これは神様から頂いた戒め、命令だと知らなければなりません。だから実践するのです。いつもそれを完璧にできるひとはいません。しかしそれをやろうとしなければなりません。
神様の命令です、とやかく言えるものではない、選択の余地はありません。
著者(エガリッチ)の本のすべてはエペソ人への手紙第5章の中の聖句だけをもとにしているのです。この本も、そのシリーズもその聖句から湧き出たものなのです。まさに夫と妻の関係について鍵を解き放つような聖句だったのです。
われわれは王国の聖句、鉄の杖の聖句について学んでいますが、これは一つや二つの聖句どころではありません。それをみればイエス様が「福音」とは何かはっきりと話しておられ、それは「神の国」、「神の国(御国)」こそが良き知らせだとおっしゃっているのです。
またその神の国について、特に、再臨の時には鉄の杖で治められるというのです。もちろんキリストは愛の神様ではあり、その中心が愛であることは間違いありませんが、同時に鉄のつえで御国を治められるというのです。これはキリスト教会の一般の人々にはそれがどういうことか理解することが難しい。
どうしたらそうなるのか鉄の杖に関する聖句をみるまえに、「王国の福音」についての聖句を読むことにします。先週も読みましたがこれは「主の祈り」です。
マタイ6章
9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」この聖句は絶対的に重要だというのです。神の国は天界の国でもなく、霊的な国でもありません、死後に待ち望む王国ではないのです。これは実体的(物理的)な王国です。通常の伝統的なキリスト教神学ではこれを肉体の復活だと解釈します。つまり主イエスが戻られるとき、死人が墓も中から文字通り生き返ると、多くのキリスト教徒の兄弟姉妹は信じています。これは皆さんもご存知でしょう。そして肉体をまとってイエス様と一緒に地上で暮らすというのです。そうして千年統治に同参する。
天国が地上にくるということ、これが重要なことです。天界の王国でもなく、死後の天の王国でもなくキリストが地上で打ち建てる王国なのです。それは正義の王国であり、善の王国であり、愛と正義の王国です。しかしそこにはまた統治の鍵となる部分があり、それは王国の支配は鉄の杖によってなされるということなのです。
しかしクリスチャンの兄弟はそれがどういうふうに実現するのか理解できません。もちろん神様はこれを、原理を通し、天一国憲法を通して、万王の王の三大王権を通して明快に示してくださっています。愛と正義と慈愛の神様と鉄の杖の王国、それが何の矛盾もないことを示してくださったのです。
マタイ6章33節
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
マタイ7章221節
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
ルカ4章43節
しかしイエスは、「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」と言われた。
イエス様ご自身が、私は神の国の福音を宣べ伝えるためにつかわされたとおっしゃっているのです。決して、「皆のために死ぬために来た」とか、「十字架に架かるために来た」などといっていない。われわれは、それによって霊的救いがなされたことは知っています。しかしイエス様はもう一度来なければならないのです。イエス様も私はまた来るといわれました、それは地上天国が来なければならないからです。
ルカ4章43節ではっきりとおっしゃっています。これは2000年前の文献です!なのにこれを誰も見ようとしなかったのです。誰もこの聖句を読みたがらなかったのです。これがローマ・カトリックの正統的神学、あるいはギリシャ正教の神学と一致しないからです。そうした伝統的弁証学と合致しない。
ルカ4章43節で、イエス様が自らの口で話しているではないですか。ここを避けて通ることなどできないのです。無視することなどできません。イエス様と聖書の権威は、この世のすべての教会にまさっているではないですか。それらは、その権威の下位にあるものです。
キリスト教の伝統、正統性、そのようなものにかかわらず、聖書はそれらを凌駕するものです。特にイエス様ご自身が語られたご自身のこと、宣べ伝えた福音の内容ともなればなおさらです。イエス様が最高の権威をもっているのです、いかなる教派も問題にならない、その下位に属するのです。イエス様はこう語られました。
わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである (ルカ4:43)
マタイ4:23では、
イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった
マルコ1:14では、
ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
だから、神の福音とは神の国だというのです。
王国というのはバシリア(ギリシャ語)で、こればバシリウス、王という単語から派生したものです。民主主義でも社会主義でも共産主義でもないのです。マルクス主義でもない。王国です、王国。
イエスが福音とは何かはっきりと言っていることが分かります。
福音は、神の国の福音なのです。
もう一度言いますが、福音は十字架の福音ではないのです。
通常のキリスト教神学からみれば、まったくの神聖冒涜でしょう。
伝統的に(十字架の福音だと)そういってきたからです。
また、それを用いて神様はこれまで救いの御業を行ってこられたからです。
しかしそれは、キリストが再臨するまでの話です。
(聖書で)神様は福音とは何だといっておられますか。
それは神の国だといっているのです。それを創建し、それを宣べ伝えるのが私がつかわされた目的だとおっしゃっているのです。しかし人々の不信仰によって神様は第2の道を進まなければなりませんでした。もちろん最終的に神様はそれを達成されるでしょう。神の国が創建されるでしょう。この聖句(神の国の福音)が消えることなどない、期限切れになることもないのです。
「福音」とはエウアンゲリオン、「良い知らせ」、「よい音信」という意味です。そしてそれは神の国のことなのです。福音のいう神の国・・・そこではライオンが羊と共に横たわる・・・いいですか、ライオンがオオカミと共に横になるとはいっていません。それは共産主義者の信条です。カトリック教会は基本的にライオン(獅子)がオオカミと一緒になる・・・と教えています。(イエス様がライオンだとすれば)自分たちは中央集権で支配するオオカミだというのです。(カトリック教会は)堕落の組織、ビルダーグループ、ダボスグループ、国際銀行家、巨大なマフィアのカルテルたちと結託する者たちです。教会を装いながらそういう者たちとグルになっている! イスラム急進派も同じです。一緒になって動いている。
神様はライオンがオオカミと共に寝そべるなどとは言っていません。ライオンが子羊と一緒に寝そべるといっているのです。
羊は羊飼いの声を聞きわけるのです。
だからイエス様ご自身が、神様が福音とは神の国の福音だとはっきりといっているのです。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。(マタイ25:34)
そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。(マタイ24:14)
これは説得力があります。
御国(神の国)が再び述べ伝えられるとき、それが終わりの時、最後だというのです。これが終末です。種ともみ殻がわけられるとき、山羊と羊がわけられるとき、その分別のときが今です。善と悪も分けられる。
世間を見ても、いまそうなっています。
善なる人はさらに、さらに善になり、キリストをより愛する人になっています。邪悪な人は暴き出されるとともにさらに邪悪になっています。その悪さ加減が先鋭化しているのです。まさにバルカン化(Balkanization)が起こっているようです。誰も中間位置に留まることができません。中間位置で隠れていることができないというのです。主権と全体主義のどちらを選ぶか、その中間で楽しく、お上品に隠れていることができません。
これが時のしるしです。この神の国の福音が説かれるとき、全世界に宣べ伝えられるとき、最後が来るのです。
イエス様が御国(王国)について話をされるとき、王国について教え、王国を治められるといいました。ではいかにして御国を治められるのでしょうか。どのようにして信仰者たちがキリストと共に共同相続人になるのでしょうか。神様といかに王国を統治するのでしょうか。
忘れてはならないことは、王国は神様と神様の愛、人類への神様の賜物が基礎にあるということです。神の国が打ち建てられた後も神様の本性は不変です。神様は創造の神であり、イエスという人に臨在される方です。神の国創建が実現した途端に、(独裁者の)フィデル・カストロや金正恩のような人間になるはずもないのです。アジアのポーキー・ピッグ(豚)にはならないというのです。
北朝鮮のバーベキューでは皆、樹の皮まで食べるのです。だから体内には何十センチもの寄生虫がいる。
神の国ができた途端に神様の本性が変わるわけはないのです。聖書には神様は永遠不変のお方とあります。だからその性質は変わらない。新約旧約の愛なる神が、神の国ができた途端に独裁の神になったりしないというのです。
キリスト教界の問題は、だれも神様による統治、鉄の杖の統治について語ろうとしないことです。愛なる神様がどのように鉄の杖で治められるというのか。また、どのように信徒たちが神の王国で王、王妃となってキリストの共同相続者になりうるのか。「あなたの冠がだれにも奪われないように」(黙3:11)
信仰ある者たち、生き延びた者たちは神様とともに立ち、地を受け継ぐというのです。詩編2:8に書かれています。
わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える(詩編2:8)
それはわれわれが権力を誇示するためでも傲慢に、不遜になるためでもありません。
ただ、神様がおっしゃったからそうなるのです。
だから善人がしなければならないことは・・・それは私自身も乗り越えたことですが、すなわち、神様が相続権を与えてくださったら、それを受け取らなければならない、ということです。それは自己中心だからではなく、神様が選んで与えてくださった、ただそれだけの理由があるからです。分かりますか。
もしそれを受け取らない時には、神様がくださった相続という責任を放棄したら、サタンがそれを取るというのです。ほかの誰かが奪っていく。
皆さんは私の歩みをずっと見てきました。王座に座ることに大きな抵抗を感じたりもしたのです。私は一番末の息子です。そこにいる若い人たちもわかるでしょう。そんなことはしたくないのです。私は他にもいろいろスキルをもち、あらゆる格闘技を学んできた男です。それを人前では見せなかったのです。見せびらかすことが嫌だったのです。
しかしそうしなければなりませんでした。もしお父様の後継者、相続者として席に着かなければ、お父様、神様の選びに応えなければ、その席にサタンが座るのです。だから私に選択の余地はないのです。それが相続の難しい所です。善人は往々にして謙遜です。謙虚だからいつも「自分は相応しくない」という思いをもつのです。
しかし神様には、あなたが相応しいかどうか関係ないというのです。それは神様の判断基準にはならないのです。神様はもっと他の基準で判断されるのでしょう。われわれが相応しいかどうか、そんなことが問題ではありません。もしそうなら、山ほどのサタンが「自分こそ相応しい」と名乗りを上げるでしょう。むしろ、自分などとんでもない、と思う点を神様が取られるのかもしれません、「じゃあ、もう少しおまえを信じてみよう」となるのです。
お父様の文化は、巨大な天正宮やショッピングモールの文化ではありません―
Vimeo49:30
キリストによる王国支配を特徴づけるその定義は鉄の杖なのです!
それは鉄の杖なのです。そこを避けて通ることはできません。
この間、銃の展示即売会(GUN SHAW)に行ってきました。
行った人はいますか?
私は良い機会なので年長の息子たちを連れていきました。
息子たちも楽しんだようです。
展示会の会場に入って、銃の展示や会場に来ている人々を眺めていました。
そこには。サバイバルのグッズや釣り用具、そして銃器、関連するハンティングの装備やライフルなどを見ているうちに、その文化は、まさしくお父様の文化であることを思い出しました。
人々はそのことを知りません。
お父様の文化は、巨大な天正宮やショッピングモールの文化ではありません。
それらは韓オモニの文化です、それらはお父様の文化ではないのです。
お父様の文化はジャングルの中、汗して働く労働者たちと共にある文化、ボートに乗ったり、漁をしたり狩りをしたり、・・・ お父様が済州島でハンティング、イノシシ狩りをされる、そこで狩りをする人たちこそ、お父様が多く交わった人々でした。
こういう人々がお父様の周りにいたのです、イエス様も最初に漁師を伝道したではないですか。だから、われわれも「文化」の殻を破らなければなりません。まだ、(ハンティングなど)この文化に関わる人はエリート主義者が多いのです。必ずしもそれは悪くはないのですが、また、われわれもそれに習熟しなければなりません。しかしそれがサタン王国でのエリート主義者になる条件になっていないか注意しなければなりません。つまりそこで汗を流して働く人びとを歓迎しない者となっていないかどうか。
とくにアジア人は気をつけなければなりません、私もアジア人です。(アジア人は)階層に分けたがるのです。誰それは漁師だ、日焼けした労働者だと、その意味ではアジア人はとても差別主義者なのです。スーパー差別主義者です。黒人の中でも差別主義者はいる、それと同じものなのです。アジア人はアジア人同士でとても差別します。肉体労働者をみると、本当に見下すのです。相当な差別主義者だというのです。これは(過去の)中国の支配から入ったもの、サタンの文化です。
アジア人はそのことにかなり罪の意識も感じています。アジアの兄弟姉妹もいますが、十分に気をつけなければなりません。
われわれはお父様が愛した文化を愛すべきです。それを伝えていかなければなりません。
お父様が常にともにいた人びとはアウトドアを愛する人たちでした、ハンティングやフィッシング、ときには体臭もする。ジーパンと迷彩服で歩くものもいます。ベルトに銃をむき出して吊るして歩き回る者もいる。大きなゴム製の釣り防水つなぎを着てボートを操縦する者たち、その姿で教会に来る、鮭を釣ってきたといって。(笑)
そういう文化世界が、万王の王の生涯の一部でありライフスタイルだったのです。
ときにはホテルで会議を開いたりしましたが、それはお父様のライフスタイルではありません。
お父様は完全にアウトドアの人でした。
だから自分のイメージでお父様を描いてはいけません、それは罪です。ありもしないお父様の姿を想像で描くなというのです、本物のアウトドアの方でした。
アマゾンのジャングルのワニのことをいっているのです。
十代の子供がどうしてアマゾンのジャングルの奥地でワニやピラニアがいるところで釣りをするのかというのです。お父様がそこでされているから、私たちも行ったのです。そこに行って(お父様に)合流しなければならなかったのです、お父様の訓練に。
いやでも何でも関係ありません。ワニがうようよいる(アマゾンの)河で何も知らずに泳いでいたのです。私たち(兄弟)は、「ああ、あそこに滝がある」などとはしゃぎながら愚かにも泳ぎ回っていました。そこでアナコンダ(巨大へび)が泳いでいく姿も見ました。私たちはアマゾンのジャングルのど真ん中で川を泳ぎ下っていたのです。
「よく、川底のアカエイを踏まなかったな!」と現地の人に言われました。
足の立つところでは、われわれ兄弟は歩き回っていました。本当にバカなことをしましたが神様が守ってくださいました。どこに行こうとワニがいました。ピラニアも泳ぎ回っています。
とにかくそれがどれほど素晴らしい経験だったでしょう。お父様はそういう体験を、11才から13才の息子たちに味わわせられたのでした。
サケ釣りにアラスカにも行かなければなりませんでした。寒い上に濡れるので皆が始終不平をいっていました。熊までいるし、何をしていいのかもわからずに、皆、ニューヨークから行ったのです!ニューヨークでスケートボードをしていた子供がアラスカでサケ釣りです。(笑)
ゴムの釣り着を生まれて初めてはきました。スケートボードをする場所もありません。
スケボーの公園がないのです!(笑)
小中学生の頃、そういう野生の地に行かなければなりませんでした。正真正銘の荒野です。
チニアックってどこでした?そこに小さな飛行機で行きました。ヤブの他何もないのです。それと鮭とクマ。そのような場所に小中学生がいくのです。
お父様はそういう荒野で訓練されたのだと思いますが、当時はいやでいやで仕方なかったのです。だから(当時)iPoneやiPadがあったなら一日中それで遊んでいたことでしょう。
えっ?(アラスカでは)通じないですって?
とにかく幼い時はとても行きたくなかった。一言でいうと、絶対嫌だった。
しかし今、振り返ってみれば、最大の恵みでした。私の中にまかれた種でした。成長するとともに、それが芽を吹き育っていきます。だからまた自然の中で自然を愛し荒野を愛することがたやすくできました。お父様がそうされたのです、そう訓練されました。
いやでもなんでも、年に一回は行かなければならなかったのですが、お父様の場合は年中、いつもいつも行かれるのです。ショッピングモールには行かない。(お父様は)荒野の奥地を好まれました。
私と共に苦難の時を過ごした皆さんにはわかるでしょうが、私にとって意味のある路程でした。
そこでお父様の臨在を感じ取ることができ、お父様と、お父様の文化に対する愛を再発見することができたのです、これは信じられない恵みです。われわれの文化をお父様の文化だと語ることをせず、お父様の文化に従うのです。フィッシングのトーナメントを開いたり、ハンティングのトーナメントも実際に行う。それを自分の種にする。
われわれは完璧ではありませんが、お父様が愛したものに対する愛が日ごとに深まっていくことでしょう。これはとても重要なことです。若者の中にもマーシャル君のように釣りを愛する者がいます。マス釣りに情熱を燃やして、マスを追いかけてあちこちの湖に出かけています。その姿を見るとお父様の釣りに対する情熱を彷彿(ほうふつ)とさせます。
アウトドアを愛することは神様の被造物の中にいることを愛することです。
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