2025年11月9日日曜日

宗教指導者の方々へ ◆ 菅井(クルト)派は文鮮明師を貶める裏切り者たちです

 宗教指導者の方々へ

菅井(クルト)派は文鮮明師を貶める裏切り者たちです


キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他宗教の宗教指導者の皆様にお伝えします。

聖臨連合を始めとする菅井派は、サンクチュアリ教会ではありません。サンクチュアリ教会を装う別の宗教です。

彼らの言説はサンクチュアリ教会の神学とはまったく別物であることをお伝えします。

子女の結婚相手として忌避する、別宗教として離婚も認めるなど、サンクチュアリ教会最大である日本サンクチュアリ協会などでは厳しく対処していますのでリンク先を御覧ください。


菅井派は、我々が愛する真の御父様、文鮮明師の「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」の御言をもって、神様をこのような自己中心の神、悪魔にしてしまい、真の御父様の名誉を徹底的に貶めます。

文鮮明師は悪魔の預言者だと非難しているのと同じです。


このお父様はこのように言っているとする教えに対してサンクチュアリ教会の指導者、文亨進牧師(文鮮明師の後継者、代身者、相続者)は菅井派に影響を受ける人が目を覚ますように警告や啓蒙をしなさいとサンクチュアリ教会長たちに指示しています。


この指示にもとづき、文鮮明先生の名誉を守るために、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他宗教の信徒の方々にこれを書きます。

菅井派には別宗教として頑張って下さいと、エールを送りたいと思います。

●菅井(クルト)派は「文鮮明師は偽キリストである」と叫ぶ裏切り者たちです


管井派は、文鮮明師(真のお父様)が”ある一時期、「神御自身が自己中心的であられた」と言われた、この御言を根拠に”真の愛への覚醒”以前の神様は世間一般(堕落後の世界)で言うところの”利己的・自己中心的”であると主張します。

当然、この理解はサンクチュアリ教会の教義ではありません。


文鮮明師を貶める、菅井派が「神は一時期、自己中心であった」の根拠とする御言は次の文章です。


真のお父様:

 我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。  人間に対する神の希望 1973.10.20 ワシントン リスナー講堂


普通ですと、この自己中心について、「たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられた」という説明を受けて

「唯一神だから、そうだね。そういう意味の自己中心ね」というような理解をします。

「世俗的な他者に迷惑をかける自己中心とは違う」ことは誰もがシンプルに理解できます。

私が学生だった時から過去何度か、そして最近も何度か、この御言について話題になったことがありますが、堕落後の世界の自己中心で考える人に会ったことがありません。


ところが、菅井派は神の太初を「そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。https://kuruto.muragon.com/entry/232.html

と言うのです。


これは、キリスト教、イスラム教の皆様に、「我々が信じる神は、自己中心によって反逆したサタン(イブリース)だ」と、自分たちの宗教の本質はサタン教だと自白していることになると、お伝えしたことがあります。→創造主を信じる宗教の方々へl


同じことを繰り返しますが、悔い改めるとは、罪を認めるということですから、悔い改める前は罪悪な神だったということです。キリスト教では罪悪とするそのような利己的で自己中心的な神が悔い改めたということです。これは罪で堕落した神が悔い改めたということになります。

つまり、「神は善の根源ではなく、悪の根源」という”教え”が菅井神学の根幹です。


我々は「御父様の言われる神の自己中心とは、そのような悔い改めなければならないような堕落後の自己中心ではない。悪ではなく善である」と、半世紀近く話し合ってきたのですが、これを徹底して否定し嘲笑い、真御父様を徹底的に貶めます。

このように菅井派は「悔い改める前の神は、絶対的に罪悪世界でいう利己的自己中心の神であった!」と、アガペーの神、キリストの神を徹底的に貶め嘲笑い、誇る宗教です。

まさに宗教が違います。


菅井派は、このように、

我々が愛する真の御父様、文鮮明師の「ある一時期、神御自身が自己中心的であられた」の御言をもって、神様をこのような自己中心の神、悪魔にしてしまい、真の御父様の名誉を徹底的に貶めるのです。このような形で文鮮明師は悪魔の預言者だと非難するのです。


これほど真のお父様の心情蹂躙する言説を、お父様はこのように言っている、これぞ真のお父様が本当に語りたかった見えない御言!というのですから、お父様の名でお父様をこれほど汚し侮辱貶めるとは、なんという残酷残忍な宗教団体なのか!というのです。

だから異端であり、別宗教なのです。


菅井派は、キリスト教、イスラム教の皆様の前に、「文鮮明師は”神は利己的・自己中心的”であると神を冒涜する悪魔サタンの如き偽キリストである」と叫び、御父様を非難する、イスカリオテのユダ以上の主を売る裏切り者たちなのです。

イスカリオテのユダのように、真のお父様の名で、真のお父様を売り渡し、文鮮明師、文亨進師を徹底的に貶め、統一教会、サンクチュアリ教会は、悪魔サタンの教会であると世界に向かって非難する裏切り者たちなのです。


彼らには、神様、イエス様、文鮮明先生、文亨進師に対する愛などありません。見せかけ、口だけです。

それだから、

菅井派は文鮮明よ、イエスよ、お前の創造前の本質は、利己的・自己中心的なのだとお父様、イエス様に唾を吐きかけ、

菅井氏:「アガペーの愛」と言われる「犠牲の愛」も、「肉的五感の感覚的刺激」との関係性があって初めて生じるものですhttps://kuruto.muragon.com/entry/169.html

と、このように、

イエスよ、お前の犠牲の愛なんぞ「肉的五感の感覚的刺激」からの愛だ!と、キリスト教の人々にとっては、イエス様の脇腹に刺さった槍をもっと深く突き刺し、キリスト教の大切な宝血の心臓をえぐる、そのような心情蹂躙の言葉を平気で言い嘲笑うのです。


このように、

”文鮮明よ、お前の父の犠牲の愛なんぞ「肉的五感の感覚的刺激」からの愛だ!”と飛行機十字架で苦しむお父様の足を、笑いながら引っ張り嘲笑うような、心情蹂躙な言葉を息を吐くように簡単に言えるのです。


これからも、

イエス様、文鮮明師を嘲笑い貶めるのが彼らの本質なので、私こそがお父様を愛しているという詐欺を働きながら、

この悪魔を意味する、罪に起因して生じた類の自己中心の神を言いつづけるでしょう。

文鮮明先生を裏切る背信を意味する”自己中心”を言い続けるでしょう。


彼らはサンクチュアリ教会をこれからも自称するでしょうが、菅井派はサンクチュアリ教会でないことは理解いただけたと思います。

このようにイエス様を愛し、真のお父様を愛し、文亨進師を愛する私達サンクチュアリ教会とって菅井派はまったく別の宗教なのです。


だから、文亨進牧師は菅井派に影響を受ける人が目を覚ますように警告や啓蒙をしなさいとサンクチュアリ教会長たちに指示しているのです。

サンクチュアリ教会最大である日本サンクチュアリ協会では厳しく対処しているのです。



為に生きる自己中心と、世間一般のいう利己的自己中心とは違う


文鮮明先生の自己中心に関する先程の御言を「唯一神だから、そうだね。そういう意味の自己中心ね」「世俗的な他者に迷惑をかける自己中心とは違う」、このように理解できる方は、ここから先は少し長いので読む必要はないと思いますが、よろしければご参考ください。

---


菅井派は絶対信仰をもって悔い改める自己中心な神を主張します。そのような悔い改めなければならない神の自己中心を主張します。

つまり菅井派は御父様の自己中心を世間一般の、他者を意識した自己中心で捉えてしまっているということです。

キリスト教で捉えられる、そのような罪からくる自己中心と同じ自己中心であると捉えています。

それが故に、キリスト教、イスラム教に、”文鮮明先生を、神様の愛を蹂躙する悪魔、偽メシアとして売り、文鮮明先生を裏切る結果”になるのです。


キリスト教の皆様、イスラム教の皆様、文鮮明先生の言われる神の自己中心とは、菅井派が捉えるような、世間一般(堕落後の世界)で言うところの”利己的・自己中心的”ではありません。


文鮮明先生は、為に生きる愛、アガペーの愛、犠牲の愛を神様の愛の根本としておられるのです。

そのことを、先程引用した文鮮明先生の御言のその先も、少し長いですが見てみます。


文鮮明先生:

 我々人間のすべての特質は、神から来ているのであります。我々は、人間には利己的な傾向があるということを知っています。これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。しかしながら、神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。


 創造とはどういうことでしょうか? 創造とは創造主なる神が、御自身を実体のかたちに投影していかれること以外の何ものでもありません。神は御自身を、宇宙の中に象徴的に実体化され、人間の中に直接的に実体化されました。霊がかたちをとるとき、それが創造であります。神は、その創造において御自身を投入されました。神のエネルギーの投入が創造なのであります。

(中略)

創造は、神の仕事の一切であり、御自身を与える努力の一切であったのです。神は、その対象の創造に御自身の心と魂のすべてを注がれた時、御自身を百パーセント投入されていたのです。このようにして初めて神は、第二の御自身、すなわち目に見える神を創造することができたのです。


 それゆえに、創造ののち、神はもはや、単に御自身のために存在されるのではなく御自身の息子と娘、すなわちアダムとエバのために存在されるようになりました。神は愛するために存在し、与えるために存在されるのです。神は完全に利他的な存在であります。神はお一人で存在されることはできないのです。「愛」と「理想」は二者が互いに補足し合う関係にあるときにのみ、その意味をもつものであります」 

 人間に対する神の希望 1973.10.20 ワシントン リスナー講堂


<御父様の自己中心は他者を意識しない自己中心>


文鮮明先生の、ここで使っておられる自己中心的とは、世間一般で使われる自己中心とは違うことをまず考えなければなりません。


堕落後の罪としてこの堕落後の世界でいうところの自己中心とは、他の存在を意識して自分が利益を得る、他者を犠牲にして利を得るという意味です。

ところが御父様は、「たった一人で御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられた」ということですから、この世俗一般的な「自分さえ良ければ」「他を配慮できない」など、他の存在を前提とした自己中心ではないことが分かります。


ですから文鮮明先生は、この自己中心とは、創造以前の神は、他のいかなる存在にも依存しない絶対的な主体であり、神ご自身の価値、真理の存在法則を中心とした純粋な自己存在という意味の、自己中心を言っておられることが分かります。

お父様が東洋哲学に詳しいことを知ってる我々は、これは、天上天下唯一独尊、涅槃寂静に類する御言であることは容易に理解できます。


しかし絶対的に「悔い改めなければならないほどの自己中心」でなければならない菅井派は、これを否定します。

その結果、文鮮明先生は「自己中心という罪から来る悪をもった神」であると主張する悪なる偽メシアにしてしまうのです。

これからも、菅井派はこのような自己中心の神を主張し、キリスト教、イスラム教の皆様に文鮮明先生は悪であると言い続けるでしょう。


ですから菅井派は、サンクチュアリ教会とは全く違う別の宗教なのです。



御父様の自己中心は「為に生きる」「為に存在する」を中心軸とする自己中心>


文鮮明師は「神は、今や、御自身のためではなく、その対象物のために生きるようになったのです。つまり創造に着手する前は「神は御自身のために生きていた」と言っておられます。

ここから「為に生きる」という言葉が重要であることが分かります。


それに続く、「創造ののち、神はもはや、単に御自身のために存在されるのではなく御自身の息子と娘、すなわちアダムとエバのために存在されるようになりました。

という文は「神は創造前はご自身のために存在した」と言っておられます。

ここでも「為に存在する」という言葉が重要であることが分かります。


つまり、御父様の言われる自己中心とは、「自分のために生きていた」「ご自身のために存在した」という意味のことを言っておられることが理解できますす。



<神は自身の為に生きることに一時期自己中心的であった>


御父様の御言から創造を始める前の神は

神は御自身のために生きていた

神は創造前はご自身のために存在した

であることを先程説明しました。


このことから「たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられた」という神の意識はどこに向かっていたかということですが、これはご自身のために意識が向かっていたということになります。


このことを考慮し、

「これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。この事実はあなたを驚かすかもしれませんが、しかし、神は人間と宇宙とを創造される前は、たった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく存在しておられたということを理解しなければなりません。」

という御言を整理すると、


創造前の神の存在は、

「神はたった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく、ご自身のために生き、自身のために存在しておられた。そのような神として一時期、自己中心的であられた」ということになります。

この御父様の自己中心と言われた、御言の文章を端的に言えば「神は為に生きることに自己中心的であった」ということになるのです。


ここで「為に生きる」「為に存在する」心情の本質が、犠牲的愛、アガペーの愛の中核として心情であれば、自身のために生きること、自分のために存在することを追求すれば、当然ながら、他者の存在を意識せざるを得ません。これが絶対的な主体である神ご自身の価値、アイデンティティ、真理存在法則だからです。


ところが、菅井派はこのお父様が言われる「為に生きる」「為に存在する」を否定します。


菅井氏:そもそも自己中心的な瞑想に入る前の、神様の「為に生きたい」という思いはどのように発揮されていたのでしょうか。神様しかおられないのに、他の何のために生きたいという事なのでしょうか????https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12929745377.html


菅井氏:「為に生きる」においても、神様が最初から心に抱いていたように受け止めているようです。https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913417180.html


菅井氏:「為に生きたい」という思いで自己中心的であったと設定した時点で破綻しています!https://ameblo.jp/hosizoralove/entry-12913213692.html


菅井氏の「神様しかおられないのに、他の何のために生きたいという事なのでしょうか????

と言う疑問に対しては、先程のお父様の御言から、「神は御自身のために生きていた」という回答になります。


これは菅井氏が「為に生きる」とは「他者の為に生きる」しかないと思い込んでいた結果です。

「自分の為に生きる」という概念を持ち合わせていないので、「為に生きる」と「自己中心」

が相反しているから破綻だという判断になってしまいます。「自分の為に生きる」と「自己中心」とは整合性が有ります。


最近、菅井氏はお父様は、「神は創造前はご自身のために存在した」と言っておられることにやっと気がついたようです。https://kuruto.muragon.com/entry/234.html


ところが、菅井派は創造前の、アガペーの愛、犠牲の愛の存在を認めていません。神の愛だと認めていません。「肉的五感の感覚的刺激」からの愛だと定義付けています。

従って、この神の「為に生きる」「為に存在する」の「ために」という性質を、キリスト教では罪とされる、他者犠牲の自己中心的心情であると捉えます。


菅井氏:そこに、神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。https://kuruto.muragon.com/entry/232.html

自己中心的なこれまでの存在を悔い改めるというのですから、先に述べたようにキリスト教でいう罪、堕落以降に生じた他者を犠牲にする世俗的な自己中心であるということです。

従って菅井派は、この「為に生きる」「為に存在する」の「為に」とは「他者を犠牲にする為に」という意味の「為に」であると理解するしかないのです。


文鮮明先生が語られた「神はたった一人で、御自身以外の何ものをも意識することなく」、神は創造前はご自身のために存在した」のであれば、この「為に」の性質が、「利己的」なのか、「利他的」なのか、どちらの性質かは分かりません。


しかし、これは「神が創造に着手されたその瞬間に、神の中の生命という概念が完全にかたちとして現れてきたのです。」という御言から分かります。

生命という概念、これが利己的な奪う生命では神は存在できません。利他的な与える生命でなければ神は存在できません。

よって、この「為に」の本質は、「利他的」な与える生命の概念であることが分かります。

また、何も難しく考える必要もなく、神の性質は善なのか悪なのか、その感性で容易に理解できます。邪悪でなければ。


しかし、神は世俗的利己的な神(悪霊)であると信じる、そのような邪悪な感性である菅井派には根本的にとうてい理解できないでしょう。

矛盾だ、破綻だと非難し続けるでしょう。

菅井派は「神ご自身の価値、真理の存在法則を中心とした純粋な自己存在という意味の自己中心」を徹底して否定し続けるでしょう。

それは神ご自身の価値、アイデンティティ、真理の法則、それがアガペーの愛であると感じ取れる感性が欠片もないからです。

精神が病んでいるとしか言いようがありません。

普通ならば、こんな色々と説明しなくても文鮮明先生の先の御言だけで「唯一神だから、そうだね。そういう意味の自己中心ね」とシンプルに理解できるのですが・・・


そして、これからも、自分は空っぽだと実感して悔い改めなければならないほどの、キリスト教で言う罪から来る他者犠牲の自己中心が、創造前の神の本質だと菅井派は主張し続けるでしょう。

『文鮮明師が「これはある一時期、神御自身が自己中心的であられたので自然なことなのです。」言ったのだから「神様の自己中心的なこれまでの存在に対する悔い改めが生じるのです。https://kuruto.muragon.com/entry/232.html』と言い続けるでしょう。


この言説は、結果的には、すでに申し上げた通り「文鮮明師、文亨進師を裏切り、徹底的に貶め、統一教会、サンクチュアリ教会は、悪魔サタンの教会であると世界に向かって非難する」ことになりますが、永遠に言い続けるでしょう。

なぜなら、そのような悪性の自己中心から悔い改めた神、根源が悪の神を信じるからです。


宗教指導者の皆様、菅井派はサンクチュアリ教会ではありません。

彼らはサンクチュアリ教会であると自称するでしょうが、宗教指導者の皆様は、くれぐれも菅井派の詐欺ペテンに騙されないようご注意いただければと思います。


菅井派には別宗教として頑張って下さいと、エールを送りたいと思います。


↓菅井派に対する御言



↓菅井派に対する公式見解と関連記事


↓菅井派に対する記事


↓菅井派のように、女性に対する感性や発想が先にあったとする、フェミニズム神学の考察


↓菅井派の”真の父母様の本体論”に対する考察


0 件のコメント:

コメントを投稿