2025年11月19日水曜日

”父と子と聖霊の三位一体”による絶対性創造とその目的

 ”父と子と聖霊の三位一体”による絶対性創造とその目的


論者:三代王権天一聖殿 教会長


序文

この論文は、

原理原相論(試論) 夜の神様における真の愛、夜の神様の誕生

から、絶対性に関する論を、集めたものです。

最近の文亨進師のバソプレッシン・オキシトシン、真の愛ホルモンの授受作用等の絶対性の説教に関して、二代王様の三位一体論から、この真の愛ホルモンの授受作用の神学的意義が分かる内容になっています。


文亨進師はお父様から直接夜の神論の教えを賜り「お父様が創造前から存在していた」という事から高いキリスト教論をそのまま受け止めた、いわゆるヨハネの福音書にもとづく高いキリスト教の三位一体論を教えてくださっています。


しかしながらサンクチュアリ教会でも、文亨進師の言われる、いわゆるキリスト教の三位一体論を信じる人は残念ながら少数であるのが現実です。


この試論は、あまりにも文亨進師の三位一体論を受け入れる信徒が少ないことに、むしろ悪用する群れがあることに心を痛め、その文亨進師の高いキリスト論を多くの方に理解していたけるよう、その文亨進師の三位一体論の言葉通りに受け止め書いた論です。


従って、この文亨進師の三位一体論・キリスト論をその言葉如く受け入れる事が出来ないサンクチュアリ教会の方からは、キリスト教過ぎると批判を受けています。

一方で、まだ少ないと思いますが、この文亨進師の三位一体論・キリスト論をその言葉の如く受け入れて下さる方も、それなりに増えているようです。

少なくとも日本と韓国の大陸会長は、「お父様は神本体である」ことを受け入れ表明してくださいました。


文亨進師の三位一体論を受け入れられない信徒が多いことはよく分かっていますが、

今回は絶対性に関する箇所を重点にお届けします。

長文ですが、創造前から神の子たる神としておられたイエス様、真のお父様の、絶対性に対する真の父母としての愛を感じて頂けましたら、幸いです。



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夜の神様が絶対服従する愛とは

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宇宙の根本は、愛から始まりました。神様は、どのようにして生まれたのでしょうか。愛が中心です。ですから結論は、絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷をもたなければならないということです。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があるのです。

(198-237, 1990.2.3)

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真の愛の中心核が父子の関係である神様が、真の愛に絶対に服従するということは、この父子の関係の真の愛に絶対服従するということであり、横的真の父母の愛にも、絶対性の愛にも服従するのではありません。

それは「絶対的な神様も、絶対的に服従したい理想郷」、愛の理想郷です。理想郷とは何でしょうか?愛の理想であり、愛のコンセプトです。

その真の愛の核は父子の愛、父子関係の縦的愛なのです。その愛の理想、コンセプトに絶対服従するのです。


女性や対象的存在に対して先惟する或るいは先感する横的愛は夜の神様の創造物であって、真の愛の中心核にはなりえません。


ロゴスにおける横的真の父母の愛、絶対性の愛は、父子関係の愛を核とする真の愛を縦的に中心に立てて、横的真の父母の愛と授受作用することによって真の愛の創造物になることができるということです。

つまり父子関係が夜の神様の位相から存在する天宙創造以前からの絶対的主体であるということです。



真の愛に絶対服従する愛は、男性的主体的真の愛


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どうして愛は愛ではないのか。

愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。

子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。


だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。

愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。


だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。

御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝 


愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。

現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。

ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!

流される血。だから宝血と言うではないか。

ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!


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イエス様の十字架の犠牲の愛は父子関係の血の犠牲の愛でした。

イエス様の十字架の愛は、この縦的父子の愛、アガペーの愛に絶対服従した子の父への真の愛でした。

イエス様が、血統を残すために体を持たれたように、絶対性愛を持っておられました。しかし、この十字架上のイエス様の愛は、そのようなエロスの愛は微塵も無い、絶対父子の愛を貫く絶対縦的アガペーの愛でした。十字架に磔になったイエス様の愛は天のお父様を思う絶対縦的父子の愛だったのです。


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絶対性の愛に、神様は父子関係の縦的愛として臨在される

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神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て、「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。

 (9-168, 1960.5.8)天聖教 p100


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経

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男女が絶対性の関係を結ぶ時においても、当然ながら、神の創造物であり神様の感覚に無い絶対性のエロスの愛にも、真の夫婦の愛にも、神様が絶対服従することはありません。

夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、このように、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、その愛の目的が成し遂げられる喜びなのです。


神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。


神様は、このイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服したいのです。

神様の愛の喜びは、このように人が考える快楽のような喜びは一切ありません。その真の愛のコンセプト、目的が成し遂げられる喜びなのです。

この根本的な喜びの違いを認識しないと、神様への認識、真の愛への認識を大きく勘違いし間違ってしまいます。


ですから夫婦が結ばれる絶対性の愛は、本質的にはイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服する横的父母の愛として、その血の十字架の犠牲愛の目的を成し遂げるためのロマンスの愛、エロスの愛であるということです。

そしてこのロマンスの愛、エロスの愛は、あくまでも絶対的男性である神様の縦的父母の愛である父子関係の愛が、横的に展開し実を結ぶために神様が創造した横的愛なのです。

絶対的男性、絶対縦的真の父母の愛である神様は、愛を実体化するためには、女性という存在が必要であり、そうであるなら絶対性も必要であるとして、横的真の父母を創造していかれたからです。

夜の神様にこれらの被造物は存在しないのです。


このように、アダムの体の中に神様が入り喜ぶという意味を、神がこのようなエロス的愛の刺激を受けるためと考える信徒もいますが、まったく違います。

エバは神の妻であるという意味合いをそのように考える信徒もいますが、まったく違うのです。

もしもこのようなエロスの愛が神の目的であるとするならば、イエス様が示された血の十字架の縦的父子の関係の愛に絶対服従したい愛ではなく、父親が娘と交わることを真の愛とするとても悍ましい愛の神になってしまいます。


アダムとエバが男女の関係を結び喜ぶ時、神様は人に与えた、そのようなエロスの愛を感じて喜ぶのではありません。神様にはそのような感性感覚はまったくありません。

夜の神様から始まった、天地創造の縦的真の愛である父子関係の真の愛の目的が達成されることを喜ばれるということであり、愛と生命と血統の天地創造理想の実現するための対象であるという意味でエバは神の妻であるということなのです。神様のエバの関係に性愛は一切ありません。


神様は、そのようなイエス様が示された血の十字架の、縦的父子関係の真の愛に絶対服従し臨在されるのです。


完全なるプラスの神様に女性的対象は存在しない

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完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは、宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は、誰でしょうか。これが問題です。神様は、なぜ人を造られたのでしょうか。人は、神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。

(129-138, 1983.10.9)天聖教P86

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完全なプラスである神様には女性的存在、女性的対象は、夜の神様の位相には存在しません。夜の神様はそのような絶対的男性です。


絶対性の愛は、真の愛の中心軸である父子関係の縦的愛に絶対服従する横的愛の関係であり、そのように父子関係の縦的愛を横的に展開し実体化するために、神様は完全なるマイナス、横的真の父母の愛と、絶対性の愛を創造されたのです。

この時初めて、父子関係の縦的愛を実現させるためには、完全なるマイナスとして女性、エバが必要となり、ロゴスの段階からエバの創造から始まりました。

つまり夜の神様がご自身が男性格であるという自覚は、ロゴス創造の時からであり、このロゴス創造の時に、横的真の父母の愛の創造のためには完全なるマイナスとして女性が必要であることに気が付かれたのです。


夜の神様は真の愛の種の所有者として創造以前に存在しておられました。

「父子関係」を内的目的として、「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種の所有者であり、真の愛の主体なので夜の神様は絶対的男性格です。

そしてこの真の愛の種は「生命と血統」の種でもあるので、真のお父様は、夜の神様のことを縦的真の父母と呼ばれるのです。「生命と血統」という意味で母の言葉はありますが、この父母という言葉には一切のいわゆる母やそのような女性的要素は一切ないのです。


夜の神様は完全なるプラスであり縦的真の父母です。

それゆえに夜の神様ご自身が絶対的男性であり縦的真の父母であることに覚醒されたとき、完全なるマイナス相対的実体存在として横的真の父母が必要になり、この時初めて、実体的に生命をうみだす存在として女性という存在をロゴスにおいて考え創造されました。

エロスの愛、ロマンスの愛もこの時、横的に真の愛が展開し四大心情圏の真の愛が実体的に実ることを目的として創造された被造物なのです。


夜の神様の先有条件

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ですから、絶対価値観のための絶対条件とは何でしょうか。アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。それが「先有条件」です。先にある条件ということです。女性が先に形態を備えて現れたのではないのです。姿形を構想された神様は、女性に合うように男性を造られたのです。女性がいなければ、男性のような姿形にはなりません。ですから、何を「先有条件」にしたのかといえば、見えない女性であり、それを手本にして男性を造られたのです。

第九回「安侍日」 2004年7月8日 麗水・清海ガーデン

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このお父様の御言はまさに「横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました」という意味の御言です。


横的真の父母を創造するためには、夜の神様の位相の縦的真のアダムのために、横的な存在、女性という存在を創造する必要性がありました。これが絶対条件なので昼の神の位相のアダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うように横的存在である昼の神の位置のアダムを造られたということです。


女性先惟という本来の神様の構想の位相は、横的真の父母を創造するためにロゴスを創造されたこの時に、「先有条件」として女性を先惟されたということなのです。


「先有条件」として、神様は女性を手本にして、アダムを造られましたが、このアダムとは横的真の父母におけるアダムであり、ロゴス創造、天地創造が始まったときからの横的アダム、昼の神様の位置のアダムということなのです。


当然ながら、このロゴス創造の太初に、絶対性の愛、ロマンスの愛も構想され、創造していかれました。

女性という存在はその概念も含め、ロゴス創造の時からであって、それ以前はまったく存在してないのです。


横的真の父母様の構想、実体的四大心情形成に必要な愛の要素はこの時、夜の神は構想されたのです。

その横的真の父母の愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心を決定し得る最初の因縁が、父子関係です。


この「父と息子の関係」という絶対男性的縦的真の父母の愛に、真のアダム、イエス様、真のお父様は既に存在しておられました。

だから、イエス様を、真のお父様を、夜の神様から来た真のアダムというのです。


一方女性は、天地創造の太初に「先有条件」として構想され創造された被造物であるがゆえに、そして創造以前の夜の神の位相では存在しない存在であるがゆえに、エバのことを昼の神といえます。

ですから、真のお父様は、夜の神様から来た真のお父様と、昼の神様から来た韓鶴子総裁との争いのことを、「夜の神と昼の神が戦っている」と表現されました。


そのように「女性先惟、先有条件」この御言の本当の意味は、「イエス様、真のお父様は、ロゴス創造、天宙創造の太初に昼の神様の位置のエバを先に考え、昼の神様の位置の横的アダムを創造された」ということなのです。


ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 


このヨハネの福音書1:3の聖句の通り、すべてのもの、つまりエバも、これ、真のアダム、イエス様によって創造されたのです。


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アガペーの愛、エロスの愛


前項、「父と子と聖霊の三位一体は天宙の中心、父子の関係を表す」では、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であり、真の愛が犠牲の愛であるアガペーの愛であるのは父と子の関係の愛を中心とするからであることを述べました。

即ちアガペーの愛とは父と子の関係が中心であり、それが真の愛の原相ということです。


一方、エロスの愛は、自分に欠けたものを得たいと求める衝動、それはロマンスの愛であり、性的な愛として現れます。

従って、絶対性の愛は世俗的エロスの愛ではなく、絶対相対関係における真のエロスの愛です。このようなエロスの愛は、父子の関係を中心とする真の愛、夜の神の位置、三位一体の位置には一切存在しません。


もう一度、真の愛、アガペーの愛について確認します。


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。(天聖経)


血統が生命より貴く、愛よりも重要であるという理由は、神様の真の愛の種とその生命は、父子の縦的アガペーの愛を中心として、この「父と息子」の縦的な血統を通して続いていくからなのです。

宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるから、父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるということです。


つまり、真の愛とは、父子の関係の愛、父子の縦的愛、父子のアガペーの愛であるということです。このような真の愛を中心軸として父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛の四大心情圏の愛が造られていくということです。


夜の神様はその四大心情圏の中心軸、この縦的な父子の愛に従順屈服したいのです。

私達はこの父子の縦的愛、父子のアガペーの愛の実体である王権を幕屋とする共同体です。


エロスの愛は夜の神の被造物


このアガペーの愛に対し、アダムとエバの絶対性、エロスの愛とはどのような愛でしょうか?それは生命を創り出すために、神様が創造された重要な要素です。

しかし、絶対性の愛は神様の父子の関係の縦的愛を、横的に展開するための横的愛であって神様の創造物であって、神様ご自身にはありません。そのような感覚も一切、神様にはありません。


夜の神様が最も先に考えた対象が父子の関係でした。

宇宙の中心、三位一体の中心である父子の関係は、神様の真の愛の種とその生命は、「父と息子」の血統を求める縦的愛です。


夜の神がこの三位一体において、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を先惟したことにより絶対精子思想が現れ、さらに、そこから「父と息子の関係」の対象として女性を考えたのです。


父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるから、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。


ロマンスの愛、エロスの愛と、アガペー犠牲の愛は明確に違います。

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愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。

現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。

ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!

流される血。だから宝血と言うではないか。

ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!

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犠牲の愛が真の愛の中心です。それは父が子女のために犠牲になる愛です。

その犠牲の愛が血として流されたのです。

そのように流れた愛の血は、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。

真の愛の中心は、感覚の愛、ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではありません。神様との父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるがゆえ流された犠牲的愛、アガペーの愛の血なのです。


夜の神様は100%男性格であるのに、その真の愛は父母の愛であるという意味は、このような縦的父子の愛から来て、このような横的な父母の愛を作り出した縦的父母の愛ということであって、一切の女性性相の要素がない完全男性性相の縦的な父子の愛なのです。


それだから夜の神様は、父と子の関係を対象として先惟したとき、その生命と血統を実体的に被造世界に創造するために男性の種を先惟した結果、女性が必要となり、そして絶対性、エロスの愛が必要になり、エロスの愛を創造されたのです。

アガペーの愛が神的愛であり、エロスの愛は人的愛とキリスト教哲学でいわれているのは、エロスの愛が神の被造物であるからです。


絶対性の愛は夜の神の被造物


性は被造物です。

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2021年6月22日(火)キングスリポート

サタンは性を武器として使用しますが、神は愛のために使用されます。神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。彼らの心情的な関係と彼らの生き方において親密さを証明できるようにされるのです。


文鮮明先生は性依存症なのか再臨主なのか◆ 2024年4月3日

絶対性は絶対者、神様が定められた性です。ですからこの世俗的な倫理的な基準ではありません。絶対性は失われた創造本然の性、すなわち神様の血統を言う概念です。ですから絶対性は神様の血統です。ですから、真のお父様は自身が絶対性の主人だとおっしゃいました。

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「神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。」

「絶対性は絶対者、神様が定められた性です。」

絶対性とは夫と妻の関係を、性の喜びをもって深く結束させるために、神様が使われる神様が定められた被造物です。


絶対性は、神様の血統のために神様が定め創造された性、横的愛であるということです。

定めるということは、創造する前段階で必要なことです。定めないで創造することは出来ません。絶対性を先有条件を設定した設定者こそが、創造主なる神様なのです。

神様が定めた絶対性、つまり絶対性は神様の被造物だということです。


そして神様が絶対性を創造したということは、神様にはもともと無かったということです。つまり、このように性を定める神様には、そのような性の喜びの感覚、感性は無いから、アダムとエバのために絶対性という先有条件を設定、定めて創造され、使用されたということです。

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天聖経

根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。

「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。

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男性と女性というペア・システムの共鳴とは何でしょうか?絶対性の共鳴です。共鳴するとは何でしょうか?絶対性の愛の喜び、真のエロスの愛によって共鳴するということです。


男性と女性というペア・システムの共鳴は「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と、神様が定めたものです。

ですからこの共鳴は神様が創造された被造物です。つまりペア・システムの共鳴という愛は真の愛を中核として造られた神様の創造物です。

このようにペア・システムの絶対性は神様の被造物ですし、絶対性の愛の喜びもこの被造物によって生じるのであって、これを定めた創造主には、この絶対性の愛は無いということです。


つまり、アダムとエバの愛の核におられる神様の喜びとして、これは多くの人が勘違いしているのですが、神様はアダムとエバの絶対性の愛の中で、喜ばれるという意味は、神様が先有条件として設定した絶対性の愛自体、エロスの愛の喜びを神様が感じて喜ばれるのではありません。


つまり絶対性という先有条件を設定した神様には横的愛、そのような絶対性的なエロス的な感性感覚は本質的に持っておられないということです。

絶対性の愛の喜びは神様がアダムとエバに与えて下さった贈り物、創造物です。


それではこの絶対性の共鳴の中における神様の喜びとは何でしょうか?

神様が設定し創造された、その絶対性の愛を横的な愛として、この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が、実体化していくことに対する喜びなのです。

血統が、生命より貴く、愛よりも重要だからです。



横的真の父母の愛、女性の愛も被造物


では「横的真の父母の愛」とはどのような愛でしょうか

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愛の観念が先か、それとも、男・女が生まれることによって愛の観念が生まれたのか、どちらか。真剣な質問だ。愛の観念が初めだ。


神は愛のためにこの世界を造ったのだから、愛を目的にしなければ、被造世界も造られません。


何故神は相対世界を造られたかというと、真の愛のためである。


真の愛とは一体どんなもの? 為に生きるというのはどんなこと? 神の願いに沿って生きるということはどんなこと? その基準は一体何か、はっきり答えなさい。真の愛の出発点は、神が相対者を造る。 

聖酒式の御言1971年8月24日

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神が相対者を創る真の愛の出発点とは、どの位相でしょうか?夜の神の原相でしょうか?原理本体、ロゴスの位置でしょうか?


すでに論じたように、父子の関係という縦的真の愛の観念が先であり、次に「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と神様が思われた結果、創造されたのがロゴスの形状なのです。


ここで夫婦の二性性相の愛、夫が妻を思い愛と妻が夫を思う愛が創造され、絶対性の愛が創造され、このロゴスで男性・女性という意味での父母の愛が創造されました。

このように夫と妻の愛、絶対性は昼の神の位相に存在する被造物であることは前項、「3-9.アガペーの愛、エロスの愛」にて論じました。


三位一体の中心は父子の関係であり、その愛の関係は縦的な愛、父子の愛であるがゆえに、女性は夜の神の原相”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であり、女性の愛も、”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であるということです。

従ってこの”父と子と聖霊の三位一体”の愛の関係は、愛と生命と血統を求めて横的な男女の愛も創造する必要があったのです。


女性先惟はロゴス創造の時


このような女性の愛という横的愛を創造する時、ここで女性を先惟する必要性が出てきます。神が男性格であるがゆえに女性を考えたということが出てきます。


しかし神様は、父子の関係の縦的真の愛であられるので、エロスの愛を創造することが出来ても、エロスの愛を感じることはありません。女性的な対象を感じるという感覚はお持ちではありません。

エロスの愛はすでに論じたように夜の神様の、アダムとエバへの贈り物なのです。


夫が妻を思う愛も、妻が夫を思う愛も、父子の愛を基準として造られた愛であり、従って絶対性も被造物ということです。


”父と子と聖霊の三位一体”とは、このような縦的父子の愛を言うのであり、一切の女性的性相も絶対性の愛も存在しないアガペーの愛であるがゆえに、女性を対象として創造する必要があり、その横的関係のために絶対性の愛を被造物として創造されました。


創世記2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」


創世記2:23においてアダムは女性に女という名をつけました。エバではなく女です。

これは、アダム、男性が第二創造主として女性を創造したということです。


ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 


そして、ヨハネ1:3において、被造物の中でイエス様によって造られなかったものは一つもなかった、即ち、女性もイエス様、男性によって造られた被造物だという聖句です。このように女性とは夜の神様の原相、”父と子と聖霊”によって創造された被造物なのです。

   *参照:3-5.アダムは第二創造主としてエバを創造した


横的真の父母の愛は縦的真の愛で創造されたロゴスの愛


ここで、愛と生命と血統のために父子の愛を核として、男女という意味で横的父母の愛が創造されました。

このように、父子の縦的愛を核として横的父母の愛が創造され、絶対性が創造されたのです。

それが神様とともに太初に存在したロゴスということです。


これが真のお父様が、神様は、前を見れば男性生殖器であり、後ろを見れば女性生殖器であると言われた神様、つまりロゴスに現れた神様ということになります。


このロゴスは当然、父子の関係の縦的愛を核として創造されました。絶対性の愛も、アダムとエバは実際に愛を交わすときにも、当然ながら、この父子の関係の縦的愛、アガペーの愛を核として一つとなることが、このロゴスの構想理想であることは言うまでもありません。


この父子の縦的愛には絶対性の愛は一切無いことは先に論じました。

夜の神様にこのようなエロス的愛の感性は無いことも論じました。

妻と夫、アダムとエバ、これらの愛、お互いを思う感性感覚は、アダムとエバに絶対性の愛の喜び、エロスの愛として、神様が与えてくださった被造物だからです。


神の愛の喜びにエロスの愛の喜びはない


ですからアダムとエバが絶対性を交わす時、神様がアダムの体を自分の身体にされた時、感じる喜びは、絶対性愛の喜びではないということが分かります。

この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が実体化していくことに対する喜びなのです。


エロスの愛は神の創造物であり、神様には本来的にエロス的感性がもともと有りませんから、アダムの体を自分の身体にされて、その絶対性の愛の中に在ってもエロス的愛は一切感じることはありません。

では絶対性における神の喜びとは何でしょうか?


アダムとエバの絶対性の交わりの時、神様が感じる喜びは、父と子と聖霊の縦的な父子の縦的アガペーの愛の感性が、生命と血統が創造され、ぞの創造理想、父子の真の愛が実現されることを感じる時生じる、父子の愛の喜びです。

それは、親が仲睦まじい子供夫婦を見る喜び、子供夫婦が子女を抱いている姿を見て喜ぶ喜びに似ています。


それだから、天地創造主が夜の神様の原相、三位一体としてアダムの体を借りて、つまり実体を持って成そうとされる、この縦的な天の父子の愛の目的は、このロゴスによって創造された被造世界に、実体的父子の関係として神様の血統王権、つまりアダムの三大王権を立てることであり、復帰摂理においてはキリストの三代王権をたて、その上で三大王権を立てるということなのです。


アダムとエバの絶対性の時、絶対性のエロスの愛でアダムとエバが喜ぶ時、神様が感じる喜びとは、神様がその絶対性に臨在され天地創造の中心目標が成される喜びということなのです。

この神の喜びに、官能的な、エロス的な感性的な愛は、神様にはまったくないのです。


ルーシェルとエバ、その命をかけて愛し合ったエロスの愛


ところが、エロスの愛で堕落したエバとルシファの子孫であるがゆえに、祝福を受けて、宗族王と王妃になっても、この官能的なエロスの愛で、この性的二性性相の愛と感性で、アダムとエバの愛の核に臨在される神様の喜びも同じものだと考えてしまいます。それが真の愛だと勘違いするのです。


なぜ勘違いするのでしょうか?エバは取って食べてはならないというルーシェルとの愛に、本気で死んでもいいと、ルーシェルに命を捧げ愛を捧げて真剣に愛し合いました。

命をも捧げる犠牲の愛であるがゆえに、これをアガペーの愛と真剣に勘違いし、過ちの愛であるとことさえも分からないで、この愛を求めるのです。


エバのその生命を越えて愛を求めあったその感性が面々と引き継がれてきたので、この過ちの愛こそが真の愛と信じ込み、この過ちの愛が真の愛にとって代ってきたということです。


過ちの愛といえども、そのような人類最初の、命を捧げた愛ですから祝福を受け神の血統になっても、どんなに御言を学んでも、愛は原理より強いがゆえに人々の愛の情念に現れてくるということなのです。

これはメシア、キリストでさえも取り除くことのできない過ちの愛の記憶、過ちの愛の感性なのです。

しかし、神にはそのようなエロスの愛、ましてやその愛に包まれるというような感覚はありません。その愛の感覚はルーシェルのエバの愛で包まれて強烈な愛の減少感を癒したと思ったエバに対する愛が起源であり本体なのです。

このルーシェルとエバの愛については、別の論、<異端の夜の神>で論じたいと思います。


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キリストのリバイバル、クリック感謝です。

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