劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<1>両性具有神
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<2>3-1~3-2(女性先惟論)
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<3>3-3~3-6(女性先惟論)
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<4>3-7~3-8(女性先惟論)
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<5>3-9(女性先惟論) アガペーの愛、エロスの愛
劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<6>3-10(女性先惟論) ことば、ロゴスの愛
に続く、劉正玉牧師の原理本体論の神学的問題に関する論考の続きです。
数回に分けて翻訳の合間に掲載します。
3-11. 夜の神様が絶対服従したい愛とは?
神様は、真の愛に服従したい神様です。
夜の神様が絶対服従したい真の愛とはどのような愛でしょうか?
愛とは関係様相のことです。愛の反対は無関心といいますが、関心がなければ愛は始まりません。
ですから、夜の神様が天宙創造前に、ことばロゴス創造以前の、夜の神様の太初に、夜の神様は何に最も最初に関心を持たれたか、その最も先に関心を持ったことが、絶対服従したい愛の起源ということになります。
夜の神様は何を最も先に関心をもたれ、ことばロゴスを考え創造されたのでしょうか?
ことば、ロゴスは理法、理性、原理なのですから、この最も先に関心を持たれたことを中核として考え創造されたのです。
その夜の神様の最初の関心、夜の神様がこの太初にもっとも先に関心をもった、この宇宙の中心軸は何なのか?
ですから、どのような対象を夜の神様が先に関心をもたれたのか、そしてどのような関係を望まれたのか、この究明によって、真の愛の中心核を知ることができます。
劉牧師の原理本体論は、夜の神の位相において最初の夜の神様の関心は、陽陰の二性性相の関係において、夜の神は男性であったので、女性を先惟したという神学です。
つまり夜の神様において、一番最初に関心があったのが女性であったので、「天宙の中心的法則・原理」の中心は女性との関係を中軸するという神学です。
このような対象として、父子の関係という縦的関係を先惟し、縦的愛である父子の関係(アガペーの愛)の愛を真の愛として服従したい神様なのか、
対象として、女性との関係という横的関係を先惟し、横的愛である男女の関係(エロスの愛)の愛を真の愛真の愛として服従したい神様なのか、
それぞれについて次に論じていきます。
3-11-1. 夜の神様が絶対服従したい真の愛は父子の関係の愛
イエス様にみる真の愛
原理講論は「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)
から性相と形状、その属性である陽陰の二性性相の神を解きました。
それでは、神様の真の愛は、何を見れば明らかに認めることができるのでしょうか?
ヨハネによる福音書 14:9-11
イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
わたし達は夜の神様から来られたイエス様の愛に、夜の神様の真の愛を見出すことが出来るということなのです。
イエス様の生涯はまさにこの真の愛に絶対服従する生涯路程でした。
イエス様が従われた真の愛とはどのような愛でしょうか?
愛の交差する中心を決める最初の因縁、父子関係
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「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された」
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経
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「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。この宇宙が父子の関係で創造された」と言われるお父様の御言から、夜の神様がもっとも先に関心をもった対象は「天宙の中心的法則・原理」の中心である父子の関係であることは説明しました。
夜の神様の太初における関心が父子の関係であったということは、この天宙創造の中心である父子の関係を、天地創造の原理の段階で創造されたのではなく、夜の神様の無意識のなかに既に存在していた真の愛の基準が「父子関係」であったということです。
つまり夜の神様自体内において夜の神様が最も大切にしたいご自身の心の中心的本質が「父子関係」であったということです。
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神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。(69-78)
天聖教57p
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愛と生命と理想が交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係なのですから、つまり愛と生命と理想の中心を決める前に存在し、その中心を決めるのですから夜の神様の位相にすでに存在したのが父子関係であるということです。
思わなければ関心をもつことができません。だから愛の反対は無関心ということになるのです。
父と子と聖霊の三位一体が夜の神の太初から存在するのは、父と子と聖霊が夜の神が関心を持つその時から存在したからということです。それは夜の神様の内部に既に存在していたということです。夜の神様が最も大切にしたい夜の神様の心の中心心情ということです。
ですから父子の関係が夜の神の太初からの縦的中心軸、縦的中心核であるということになるのです。
この夜の神様の「父子関係の縦的愛」が真の愛の起源であり、中心ということです。
このように
神様の縦的愛とは、この「父子関係の縦的愛」でした。何故なら愛と生命と理想が90°に直角に交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係なのですから、この父子関係の愛は縦的愛になるしかないのです。
つまり夜の神様から起因する、真の愛の縦的中心核は、「父子関係の縦的愛」なのです。
「天宙の中心的法則・原理」の中心である父子関係、そのような三位一体からイエス様と、真のお父様がこられました。だからイエス様と真のお父様は夜の神様から来られたいうことができます。
「神様の真の先惟は天宙の中心である」にて、天宙の中心は父子の関係であることを説明しました。
つまり真の愛とは父子の関係を中心核とするということです。
真の愛の完成実体は、四大心情圏三大王権として現れますが、その愛と生命と理想が寸分違わず90°、直角に交差するようにする最初の因縁となる真の愛の縦的中心核が父子関係なのです。
ですから真の愛の縦的中心核は、「父子関係の縦的愛」であり、真の愛の夜の神様の無意識の基準からの最初の因縁愛が「父子関係の縦的愛」なのです。
ですから、真の愛とは何か?という問いに、極端的に言うならば「父子関係の愛です。」「その父子関係の愛を核として四大心情圏からなる真の愛を実体的に完成することが神様の真の愛の創造理想です。」ということになります。
このように真の愛とは、実現は極めて難しいにしても、言葉で表せば非常にシンプルなのです。
「真の愛とは、父子関係の愛を核とした四大心情圏の愛です」、実にシンプルです。
愛と生命と理想が交差するその中心を決定する最初の因縁が父子関係であり、この「愛と生命の理想」の源泉である夜の神様は、縦的真の父母なのです。
絶対的男性である夜の神様ご自身が、このような縦的真の父母の愛を、横的に展開するために横的真の父母を創造する必要があったということなのです。
この横的真の父母を創造する必要性を感じられた時、夜の神様は絶対的男性であり、縦的真の父母であるご自身であることを自覚されました。
ですからご自身が、そのような縦的真の父母であることを、その真の愛の主体であることに覚醒されたが故に、横的真の父母を創造するためにロゴス創造、天地創造が始まったということができるのです。
横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました。
夜の神様の先有条件
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ですから、絶対価値観のための絶対条件とは何でしょうか。アダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うようにアダムを造られたのです。それが「先有条件」です。先にある条件ということです。女性が先に形態を備えて現れたのではないのです。姿形を構想された神様は、女性に合うように男性を造られたのです。女性がいなければ、男性のような姿形にはなりません。ですから、何を「先有条件」にしたのかといえば、見えない女性であり、それを手本にして男性を造られたのです。
第九回「安侍日」 2004年7月8日 麗水・清海ガーデン
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このお父様の御言はまさに「横的真の父母を創造するためには、女性が必要であるわけですから、この時初めて女性という存在を夜の神様は考えました」という意味の御言です。
横的真の父母を創造するためには、夜の神様の位相の縦的真のアダムのために、横的な存在、女性という存在を創造する必要性がありました。これが絶対条件なので昼の神の位相のアダムを造られる前に、その「先有条件」として、神様は女性を手本にして、その女性に合うように横的存在である昼の神の位置のアダムを造られたということです。
女性先惟という本来の神様の構想の位相は、横的真の父母を創造するためにロゴスを創造されたこの時に、「先有条件」として女性を先惟されたということなのです。
「先有条件」として、神様は女性を手本にして、アダムを造られましたが、このアダムとは横的真の父母におけるアダムであり、ロゴス創造、天地創造が始まったときからの横的アダム、昼の神様の位置のアダムということなのです。
当然ながら、このロゴス創造の太初に、絶対性の愛、ロマンスの愛も構想され、創造していかれました。
女性という存在はその概念も含め、ロゴス創造の時からであって、それ以前はまったく存在してないのです。
横的真の父母様の構想、実体的四大心情形成に必要な愛の要素はこの時、夜の神は構想されたのです。
その横的真の父母の愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心を決定し得る最初の因縁が、父子関係です。
この「父と息子の関係」という絶対男性的縦的真の父母の愛に、真のアダム、イエス様、真のお父様は既に存在しておられました。
だから、イエス様を、真のお父様を、夜の神様から来た真のアダムというのです。
一方女性は、天地創造の太初に「先有条件」として構想され創造された被造物であるがゆえに、そして創造以前の夜の神の位相では存在しない存在であるがゆえに、エバのことを昼の神といえます。
ですから、真のお父様は、夜の神様から来た真のお父様と、昼の神様から来た韓鶴子総裁との争いのことを、「夜の神と昼の神が戦っている」と表現されました。
そのように「女性先惟、先有条件」この御言の本当の意味は、「イエス様、真のお父様は、ロゴス創造、天宙創造の太初に昼の神様の位置のエバを先に考え、昼の神様の位置の横的アダムを創造された」ということなのです。
ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
エバも真のアダム、イエス様によって創造されたのです。
夜の神様が絶対服従する愛とは
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では天宙の中心とはなんでしょうか。天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。
何年もの苦悶の祈りの中で、ついに「宇宙の中心的出発点は父子の関係である」と答えが与えられました。それは鍵であり基台なのです。私たちはこの父子関係の原理を実行することによって、平和な一つの統一された世界を築くことができるのです。そのようにこの宇宙が父子の関係で創造されたので、あなた方はお互いに兄弟姉妹の関係になるのです。
真のお父様1979年4月15日ベルベディア
神様と人間が父子の関係だといいましたが、父子の関係がもつ特定の内容が何か? 父と息子が出会える最高の場所は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば、愛と生命と理想は一つの位地にあります。その位地に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定し得る最初の因縁が、父子関係です。
天聖教57p(69-78)
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真の愛の中心核が父子の関係である神様が、真の愛に絶対に服従するということは、この父子の関係の真の愛に絶対服従するということであり、横的真の父母の愛にも、絶対性の愛に服従するのではありません。
真の愛の核は父子の愛、父子関係の縦的愛なのです。
女性や対象的存在に対して先惟する或るいは先感する横的愛は夜の神様の創造物であって、真の愛の中心核にはなりえません。
ロゴスにおける横的真の父母の愛、絶対性の愛は、父子関係の愛を核とする真の愛を縦的に中心に立てて、横的真の父母の愛と授受作用することによって真の愛の創造物になることができるということです。
つまり父子関係が夜の神様の位相から存在する天宙創造以前からの絶対的主体であるということです。
完全なるプラスの神様に女性的対象は存在しない
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完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは、宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は、誰でしょうか。これが問題です。神様は、なぜ人を造られたのでしょうか。人は、神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。
(129-138, 1983.10.9)天聖教P86
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完全なプラスである神様には女性的存在、女性的対象は、夜の神様の位相には存在しません。夜の神様はそのような絶対的男性です。
絶対性の愛は、真の愛の中心軸である父子関係の縦的愛に絶対服従する横的愛の関係であり、そのように父子関係の縦的愛を横的に展開し実体化するために、神様は完全なるマイナス、横的真の父母の愛と、絶対性の愛を創造されたのです。
この時初めて、父子関係の縦的愛を実現させるためには、完全なるマイナスとして女性、エバが必要となり、ロゴスの段階からエバの創造から始まりました。
つまり夜の神様がご自身が男性であるという自覚は、ロゴス創造の時からであり、このロゴス創造の時に、横的真の父母の愛の創造のためには完全なるマイナスとして女性が必要であることに気が付かれたのです。
夜の神様は真の愛の種の所有者として創造以前に存在しておられました。
「父子関係」を内的目的として、「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種の所有者であり、真の愛の主体なので夜の神様は絶対的男性です。
そしてこの真の愛の種は「生命と血統」の種でもあるので、真のお父様は、夜の神様のことを縦的真の父母と呼ばれるのです。「生命と血統」という意味で母の言葉はありますが、この父母という言葉には一切のいわゆる母やそのような女性的要素は一切ないのです。
夜の神様は完全なるプラスであり縦的真の父母です。
それゆえに夜の神様ご自身が絶対的男性であり縦的真の父母であることに覚醒されたとき、完全なるマイナス相対的実体存在として横的真の父母が必要になり、この時初めて、実体的に生命をうみだす存在として女性という存在をロゴスにおいて考え創造されました。
エロスの愛、ロマンスの愛もこの時、横的に真の愛が展開し四大心情圏の真の愛が実体的に実ることを目的として創造された被造物なのです。
真の愛に絶対服従する愛は、男性的主体的真の愛
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愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。
現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。
ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!
流される血。だから宝血と言うではないか。
ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!
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イエス様の十字架の犠牲の愛は父子関係の血の犠牲の愛でした。
イエス様の十字架の愛は、この縦的父子の愛、アガペーの愛に絶対服従した子の父への真の愛でした。
イエス様が、血統を残すために体を持たれたように、絶対性愛を持っておられました。しかし、この十字架上のイエス様の愛は、そのようなエロスの愛は微塵も無い、絶対父子の愛を貫く絶対縦的アガペーの愛でした。十字架に磔になったイエス様の愛は天のお父様を思う絶対縦的父子の愛だったのです。
ここに妻となるはずだった女性のことを思う愛、摂理的目的愛はあっても、そのような横的な夫婦の愛は一切なかったのです。
イエス様は愛と生命と血統を成すために、必要なエバを探し求めておられました。
そのように重要な、神様が求め、復帰摂理が求めてきた女性のことさえも、この十字架の血の犠牲愛にはなかったという事なのです。
それどころか、その神なる父の人類に対する愛に完全服従し、磔になった体全身で、ご自身を鞭打ち磔にした恩讐、敵をも愛された絶対父子の愛のイエス様でした。
人々は真の愛に従順屈服する愛を、対象の愛、女性的愛と考えます。
しかし実際の真の愛に従順屈服する愛は極めて男性的主体的強い愛です。
イエス様がトゲが付いた鞭で何十回も鞭打たれ、皮膚が肉が飛び散り、イバラの王冠で血を流し、両手両足を太い釘で貫かれ、十字架に磔られ嘲笑されても、それでもこの父子関係の縦的真の愛に従順屈服し、そのようにむち打ち突き刺す者を愛されました。
このような真の愛に従順屈服する愛を、対象の愛、女性的愛であるとは言えません。
極めて男性的な父の愛なのです。それが父子関係の愛だということなのです。
対象を愛したいという心情の、その衝動の中核は、この極めて強い真の愛に従順屈服しようとする父の愛なのです。この父子関係の愛に従順屈服したいという衝動は、愛したいという心情の動機の中核なのです。
この父の真の愛に従順屈服する心情が中核になければ対象を愛したい与えたいという心情は、十字架の血の犠牲の恐怖の前に怖気づき吹き飛ばされてしまいます。
このような体中の皮膚がトゲの鞭で飛び散る十字架の中にあっても、従順屈服し、その愛を貫いた強い心情を動機とする父の強い愛のその対象は「父子関係の愛」なのです。
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宇宙の根本とは何でしょうか。この宇宙が生まれる前には何があったのでしょうか。神様ですか。神様だけいましたか。愛が見えますか。愛は実体がありませんが、愛はどこにありますか。愛はコンセプト(概念)です。神様においても、愛はコンセプトなのです。神様にとっても、愛はコンセプトだということを知らなければなりません
天聖教
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宇宙が生まれる前の愛は、感性でもなく感覚でもなく、神様のコンセプトだということです。
夜の神様の愛を人の感性や感覚で考えると、神様の愛の概念を間違えてしまいます。
イエス様の十字架にこの真の愛のコンセプトが表されました。
この愛のコンセプトは、神様の心情が指向する目的がコンセプトということです。だから神様の内的心情が外的に流れるコンセプトが愛ということになります。
神様において愛はコンセプト(概念)、「基準となる考え方、方向性」です。その真の愛のコンセプトの中心、夜の神様の心情が指向する内的目的が「父子の関係」ということなのです。
夜の神様が、この「父子関係」を心情の志向する内的目的として、「愛と生命と血統」を外的コンセプトとする愛の目的を持った時、このコンセプト(愛)のために与えたい(愛したい)という心情動機が爆発的に生じ、このコンセプト(愛)に絶対服従したいという爆発的心情の決意的動機が始まったという事を知ることができます。
こうして真の愛の種が創造以前に生まれ、その主体が夜の神様なのです。
「父子関係」を内的目的として、「愛と生命と血統」を生みだす真の愛の種の主体なので、夜の神様は絶対的男性であって縦的真の父母なのです。
イエス様の十字架は、この夜の神様の真の愛のコンセプトを血の犠牲の実体をもって示されました。父子関係を真の愛の中心の基準とする愛と生命と血統というコンセプトです。
愛は愛ではない。愛は感覚ではない
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ところで、愛は何ですか?愛は?最近、現代に異邦神、異邦神の女神がサタン主義の内容がすごく強くて、「愛は愛だ」、このように言うではないですか、あいつらは。特に同性愛の詐欺師たちは。
あいつらは、「 Love Is Love」というが、これは完全に、児童性暴行者達を合法化させるのだ。あいつらは、子供たちを愛していると言いますね。しかしあいつらは、子供たちを性暴行しようと。
どうして愛は愛ではないのか。
愛は愛ではない。聖書の言葉では、神様が愛です。神様が愛で、愛は、女性的な愛ではありません。神様の愛は何ですか?父親の愛です。父親。強い父親の愛。
子供を生かすために死ぬことができる。イエス様が流された血。お父様が流された血。父親の愛、父親の愛。
だから、コリント人への第一の手紙13章に出てくるこの部分において、愛、がたくさん出てきます。しかし愛という単語自体が、この単語をあいつらは変えたのです。愛を感覚に。
愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛。それが愛です。それがアガペーです。ヘブライ語でアガペー。アガペー、アガポンと行ってみなさい。アガポン。アガペー。
だからその愛は、ただの愛ではなく、感覚ではなく、父の血を流す武士の救援的なパワーの愛。それが愛です。
御父様の愛、トランプラリー始動 ◆2023年7月26日テネシー清平水曜礼拝
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「愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。
この御言のように、愛は愛ではありません。愛は感覚でもありません。
しかし、「愛は愛である、その愛の感覚が大切。その感覚こそが神の愛」とする、お父様が、二代王様が異端神、サタン主義文化として批判排斥される、そのような異邦神の女神がキリスト教会にさえも掌握し世間を支配し闊歩しています。
この十字架に表された愛が絶対的男性の父母の愛、縦的父子関係の愛、アガペーの愛なのであり、ここに女性を対象として思うエロスの愛は微塵もありません。感性でも感覚でもありません。
同様に夜の神様の、真の愛のコンセプトに、女性を対象とした愛は無いことが分かるのです。
夜の神様から来られたイエス様の愛が、このような絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛ですから、
イエス様の父である夜の神様の愛も同じように、
このような愛、つまり絶対絶望の死の極地にあっても父子関係の愛に従順屈服したい極めて強い男性的父の真の父母の愛の、夜の神様という結論が導き出せるのです。
「愛は感覚ではありません。父親の犠牲の血を流して、私を生かそうとする愛」。
人類を導かれた神様は血の涙を流していかれました。血の涙を流しながら真の愛に従順屈服しながら人類を導いてこられました。
その血の涙の、愛したいという対象は父子の関係でした。
イエス様が十字架で、この父子関係の真の愛に絶対服従されるときの夜の神様のご心情はどれほどの痛みと悲しみであったでしょうか。
しかし夜の神様を全人類を愛するがゆえに、この父子関係の真の愛に絶対服従していかれたのです。
このように真の愛に従順屈服したい愛は極めて強い父の男性性相の心情動機の中核なのです。
その外的愛として流れる愛が「愛と生命と血統」であるので、神様を縦的真の父母なのです。
絶対性の愛に、神様は父子関係の縦的愛として臨在される
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神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て、「良し」と言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。
(9-168, 1960.5.8)p100
生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。
神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経
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男女が絶対性の関係を結ぶ時においても、当然ながら、神の創造物であり神様の感覚に無い絶対性のエロスの愛にも、真の夫婦の愛にも、神様が絶対服従することはありません。
夫婦の絶対性の中における神様の喜びとは、このように、愛よりも生命よりも重要な血統が実現していく、その愛の目的が成し遂げられる喜びなのです。
神様がアダムの体の中に入り感じたい愛とは、そのような父子関係の縦的真の愛が、横的父母の愛として展開していく、その創造目的が成し遂げられる喜びなのです。
神様は、このイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服したいのです。
神様の愛の喜びは、このように人が考える快楽のような喜びは一切ありません。その真の愛のコンセプト、目的が成し遂げられる喜びなのです。
この根本的な喜びの違いを認識しないと、神様への認識、真の愛への認識を大きく勘違いし間違ってしまいます。
ですから夫婦が結ばれる絶対性の愛は、本質的にはイエス様が十字架で身を持って示された血の犠牲の愛、父子関係の縦的愛に従順屈服する横的父母の愛として、その血の十字架の犠牲愛の目的を成し遂げるためのロマンスの愛、エロスの愛であるということです。
そしてこのロマンスの愛、エロスの愛は、あくまでも絶対的男性である神様の縦的父母の愛である父子関係の愛が、横的に展開し実を結ぶために神様が創造した横的愛なのです。
絶対的男性、絶対縦的真の父母の愛である神様は、愛を実体化するためには、女性という存在が必要であり、そうであるなら絶対性も必要であるとして、横的真の父母を創造していかれたからです。
夜の神様にこれらの被造物は存在しないのです。
このように、アダムの体の中に神様が入り喜ぶという意味を、神がこのようなエロス的愛の刺激を受けるためと考える信徒もいますが、まったく違います。
エバは神の妻であるという意味合いをそのように考える信徒もいますが、まったく違うのです。
もしもこのようなエロスの愛が神の目的であるとするならば、イエス様が示された血の十字架の縦的父子の関係の愛に絶対服従したい愛ではなく、父親が娘と交わることを真の愛とするとても悍ましい愛の神になってしまいます。
アダムとエバが男女の関係を結び喜ぶ時、神様は人に与えた、そのようなエロスの愛を感じて喜ぶのではありません。神様にはそのような感性感覚はまったくありません。
夜の神様から始まった、天地創造の縦的真の愛である父子関係の真の愛の目的が達成されることを喜ばれるということであり、愛と生命と血統の天地創造理想の実現するための対象であるという意味でエバは神の妻であるということなのです。神様のエバの関係に性愛は一切ありません。
神様は、そのようなイエス様が示された血の十字架の、縦的父子関係の真の愛に絶対服従し臨在されるのです。
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