Monday, August 5, 2024

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<6>3-10(女性先惟論) ことば、ロゴスの愛

 

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:(1)両性具有神

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:(2)3-1~3-2(女性先惟論)

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:(3)3-3~3-6(女性先惟論)

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:(4)3-7~3-8(女性先惟論)

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:(5)3-9(女性先惟論) アガペーの愛、エロスの愛

に続く、劉正玉牧師の原理本体論の神学的問題に関する論考の続きです。

数回に分けて翻訳の合間に掲載します。


3-10.ことば、ロゴスの愛

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祝福家庭と理想天国

第一章 創造理想と男女の愛 第一節 創造理想と人間の堕落 1998年10月2日


4、アダムとエバの成長期間

 アダムとエバは完成できる可能性をもった罪のない人として創造されたのです。そして彼らは神様の法則に従うことによって完成すべく、成長していました。彼らが男性と女性として完全になるように成長する間は、彼らの関係は兄と妹でなければなりませんでした。彼らは兄と妹として真正の伝統を立てておかなければならなかったのです。

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アダムとエバは完成できる可能性をもった罪のない人として創造されたのです。そして彼らは神様の法則に従うことによって完成すべく、成長していました。


神様の原理法則とは何でしょうか?太初に神様とともにあったことば、ロゴスのことです。


従ってアダムとエバはロゴスに従って成長し完成することになっていました。

愛を中心としてロゴスをもって男性と女性を立てられたということです。

このようにこれらの御言は、夜の神様がロゴス原理本体を創造される過程のことを言っておられます。

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天聖経

根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。

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男性と女性というペア・システムとは、この神様の法則、ロゴスのシステムということです。

ペア・システムの共鳴とは、陽陰二性性相の愛の実体化、アダムとエバが絶対性の愛の喜びによって共鳴するということです。

そしてペア・システムの絶対性は、真の愛を中核として造られた神様の創造物であることは既に説明した通りです。


3-10-1.ロゴスの形状


そのペア・システムであるロゴスの姿を、お父様の御言から次に見ます。

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その凸凹は誰の凸凹ですか?神様は男性格ですか、女性格ですか?(「男性格です」)神様が男性格であれば生殖器がありますか、ありませんか?(笑)前には男性生殖器、後ろには女性生殖器がついていると考えなければならないというのです。振り向いてもこれも生殖器であり、振り返ってもこれも生殖器なので、男性と女性に分けて出てきたため凹凸が必要というのである!わかったの、わからないの!(「わかりました!)

(「文鮮明先生御言選集」306巻より)

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真のお父様が、神様は、前を見れば男性生殖器であり、後ろを見れば女性生殖器であると言われた神様の姿、つまり太初に神様とともにあったことば、ロゴスの形状がこのような姿であるということです。


「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と神様が思われた結果、創造されたロゴスの形状なのです。

それだからロゴスを生殖原理の本体ということもできるのです。そしてその実体的原理本体が真のお父様であるということです。


3-10-2.真の愛、縦的神の愛と真の父母の愛


ですから真の母とは夜の神様の父子の縦的愛が、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を考えた時に先惟された絶対精子を求めて創造されたロゴスを起源とする被造物ということなのです。


父と子と聖霊の三位一体で見るならば、時間と空間創造以前に夜の神様とともに三位一体としておられた真のお父様(イエス様)は真の母を創造した縦的天の父母であり、真のお父様はロゴスにおいて、横的天の父母を創造したということなのです。

ですから横的天の父母は、縦的父母である夜の神様の被造物だということです。


これがお父様(イエス様)が、夜の神から来て、女性(真の母)は昼の神から来たと言われる理由がここにあります。

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皆さんは真の愛の定義を知らなければなりません。真の愛とは神の愛と真の父母が一つとなったものです。これが永遠に変わらないものです。なぜならば神が中心であり、真の父母が実体としているからです。

創立三十周年記念日に際して 1984年5月1日

その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。


韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会

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この2つの御言をまとめると

「真の愛の定義は、縦的神の愛と、横的真の父母の愛が一つになったものです。神の縦的愛と真の父母の愛を一つにすることができる愛の基準を、血統を通して生命体を中心として再び実らせる(実現する)愛が真の愛」ということです。

真の愛は、血統を通した生命体を中心として実現するということです。

真の愛の基準が、血統を通した生命体を中心としてその実態に現れてこそ、真の愛の実態が実現したといえるということです。


物事を実現するためには、基準がなければなりません。

夜の神が天地創造をしようとされたその縦的神の愛の基準は何か、その真の愛の基準は何を中心として設定されたのでしょうか?


その真の愛の実現の基準は、血統を通した生命体を中心として設定されたということです。

縦的な神の愛とは、天地創造以前の夜の神の愛です。その夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定されたということです。


ではどうして、夜の神の愛の基準は「血統を通した生命体を中心」として設定したのでしょうか?


天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。

そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された

真のお父様1979年4月15日ベルベディア


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です

神様の血統の中には、真の愛の種が入っていて、真の生命の体が生きています。天聖経


夜の神の愛の基準は、上記の御言のように、父子の関係がその基準であるということです。

この天宙創造の中心である父子の関係を、天地創造の原理の段階で創造されたのではなく、夜の神様の無意識のなかに既に存在していた真の愛の基準が父子の関係であったということです。

この夜の神様の「父子の縦的愛」が真の愛の起源であり、中心なのです。

ですから、縦的な神の愛とは、夜の神様の「父子の縦的愛」のことを言うのです。


ところで愛とは観念ではなく実際に目に見えなくとも実体として存在しなければなりません。


その真の愛とはいったい何かというと、縦的神の愛と、横的な真の父母の愛を統一することのできる伝統的な因縁を引き継いで、血統を通した生命体を中心として、再び愛の基準を実らせることであり、それが真なる人間の生き方なのです。

韓国は人類の祖国 1989年6月18日ソウル本部教会


そのような真の愛とは、縦的な神の愛と横的な真の父母の愛が一つとなって実ったものが、真の愛です。

夜の神様の「父子の縦的愛」が「横的真の父母の愛」が一つになったものが、真の愛であるということです。


この夜の神の「父子の縦的愛」が夜の神の無意識の中に既に存在していたがゆえに、夜の神は、父子の関係を先惟し、これが真の愛の基準となり父子の関係の三位一体が、真の愛の起源となりました。


そして、この真の愛の起源は、愛と生命と血統が実ること、実現するために天宙創造の原理、ロゴスがつくられ、天宙創造が始まったのです。

このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえに、この父子の関係を天の父母ということもできるのです。

この父子の愛が、夜の神の愛の中心ですから、夜の神の愛を縦的父母の愛ということも可能なのです。

それだからお父様は神様を縦的真の父母と言われるのです。


神様は縦的な真の父母であり、アダムとエバは横的な真の父母になっていたことでしょう。そのような二つの父母の血肉を受けて生まれた人間の心は縦的な自分になり、体は横的な自分となって、一心、一体、一念、一和の人生を営むことができたでしょう。

2007年6月13日、韓国の天正宮博物館


夜の神が一なる男性でありながら、その愛は縦的な真の父母の愛であるという理由は、このように父子の関係の愛が、愛と生命と血統の起源であるがゆえだからなのです。


3-10-3.横的真の父母の愛、女性の愛も被造物


では「横的真の父母の愛」とはどのような愛でしょうか

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愛の観念が先か、それとも、男・女が生まれることによって愛の観念が生まれたのか、どちらか。真剣な質問だ。愛の観念が初めだ。


神は愛のためにこの世界を造ったのだから、愛を目的にしなければ、被造世界も造られません。


何故神は相対世界を造られたかというと、真の愛のためである。


真の愛とは一体どんなもの? 為に生きるというのはどんなこと? 神の願いに沿って生きるということはどんなこと? その基準は一体何か、はっきり答えなさい。真の愛の出発点は、神が相対者を造る。 

聖酒式の御言1971年8月24日

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神が相対者を創る真の愛の出発点とは、どの位相でしょうか?夜の神の原相でしょうか?原理本体、ロゴスの位置でしょうか?


すでに論じたように、父子の関係のという縦的真の愛の観念が先であり、次に「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と神様が思われた結果、創造されたのがロゴスの形状なのです。


ここで夫婦の二性性相の愛、夫が妻を思い愛と妻が夫を思う愛が創造され、絶対性の愛が創造され、このロゴスで男性・女性という意味での父母の愛が創造されました。

このように夫と妻の愛、絶対性は昼の神の位相に存在する被造物であることは前項、「3-9.アガペーの愛、エロスの愛」にて論じました。


三位一体の中心は父子の関係であり、その愛の関係は縦的な愛、父子の愛であるがゆえに、女性は夜の神の原相”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であり、女性の愛も、”父と子と聖霊の三位一体”の外で創造された被造物であるということです。

従ってこの”父と子と聖霊の三位一体”の愛の関係は、愛と生命と血統を求めて横的な男女の愛も創造する必要があったのです。


3-10-4.女性先惟はロゴス創造の時。


このような女性の愛という横的愛を創造する時、ここで女性を先惟する必要性が出てきます。神が男性であるがゆえに女性を考えたということが出てきます。


しかし神様は、父子の関係の縦的真の愛であられるので、エロスの愛を創造することが出来ても、エロスの愛を感じることはありません。女性的な対象を感じるという感覚はお持ちではありません。

エロスの愛はすでに論じたように夜の神様の、アダムとエバへの贈り物なのです。


夫が妻を思う愛も、妻が夫を思う愛も、父子の愛を基準として造られた愛であり、従って絶対性も被造物ということです。


”父と子と聖霊の三位一体”とは、このような縦的父子の愛を言うのであり、一切の女性的性相も絶対性の愛も存在しないアガペーの愛であるがゆえに、女性を対象として創造する必要があり、その横的関係のために絶対性の愛を被造物として創造されました。


創世記2:23そのとき、人は言った。「これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう」


創世記2:23においてアダムは女性に女という名をつけました。エバではなく女です。

これは、アダム、男性が第二創造主として女性を創造したということです。


ヨハネ1:3すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 


そして、ヨハネ1:3において、被造物の中でイエス様によって造られなかったものは一つもなかった、即ち、女性もイエス様、男性によって造られた被造物だという聖句です。このように女性とは夜の神様の原相、”父と子と聖霊”によって創造された被造物なのです。

   *参照:3-5.アダムは第二創造主としてエバを創造した


3-10-5.横的真の父母の愛は縦的真の愛で創造されたロゴスの愛


ここで、愛と生命と血統のために父子の愛を核として、男女という意味で横的父母の愛が創造されました。

このように、父子の縦的愛を核として横的父母の愛が創造され、絶対性が創造されたのです。

それが神様とともに太初に存在したロゴスということです。


これが真のお父様が、神様は、前を見れば男性生殖器であり、後ろを見れば女性生殖器であると言われた神様、つまりロゴスに現れた神様ということになります。


このロゴスは当然、父子の関係の縦的愛を核として創造されました。絶対性の愛も、アダムとエバは実際に愛を交わすときにも、当然ながら、この父子の関係の縦的愛、アガペーの愛を核として一つとなることが、このロゴスの構想理想であることは言うまでもありません。


この父子の縦的愛には絶対性の愛は一切無いことは先に論じました。

夜の神様にこのようなエロス的愛の感性は無いことも論じました。

妻と夫、アダムとエバ、これらの愛、お互いを思う感性感覚は、アダムとエバに絶対性の愛の喜び、エロスの愛として、神様が与えてくださった被造物だからです。


3-10-6.神の愛の喜びにエロスの愛の喜びはない


ですからアダムとエバが絶対性を交わす時、神様がアダムの体を自分の身体にされた時、感じる喜びは、絶対性愛の喜びではないということが分かります。

この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が実体化していくことに対する喜びなのです。


エロスの愛は神の創造物であり、神様には本来的にエロス的感性がもともと有りませんから、アダムの体を自分の身体にされて、その絶対性の愛の中に在ってもエロス的愛は一切感じることはありません。

では絶対性における神の喜びとは何でしょうか?


アダムとエバの絶対性の交わりの時、神様が感じる喜びは、父と子と聖霊の縦的な父子の縦的アガペーの愛の感性が、生命と血統が創造され、ぞの創造理想、父子の真の愛が実現されることを感じる時生じる、父子の愛の喜びです。

それは、親が仲睦まじい子供夫婦を見る喜び、子供夫婦が子女を抱いている姿を見て喜ぶ喜びに似ています。


それだから、天地創造主が夜の神様の原相、三位一体としてアダムの体を借りて、つまり実体を持って成そうとされる、この縦的な天の父子の愛の目的は、このロゴスによって創造された被造世界に、実体的父子の関係として神様の血統王権、つまりアダムの三大王権を立てることであり、復帰摂理においてはキリストの三代王権をたて、その上で三大王権を立てるということなのです。


アダムとエバの絶対性の時、絶対性のエロスの愛でアダムとエバが喜ぶ時、神様が感じる喜びとは、神様がその絶対性に臨在され天地創造の中心目標が成される喜びということなのです。

この神の喜びに、官能的な、エロス的な感性的な愛は、神様にはまったくないのです。


3-10-7.ルーシェルとエバ、その命をかけて愛し合ったエロスの愛


ところが、エロスの愛で堕落したエバとルシファの子孫であるがゆえに、祝福を受けて、宗族王と王妃になっても、この官能的なエロスの愛で、この性的二性性相の愛と感性で、アダムとエバの愛の核に臨在される神様の喜びも同じものだと考えてしまいます。それが真の愛だと勘違いするのです。


なぜ勘違いするのでしょうか?エバは取って食べてはならないというルーシェルとの愛に、本気で死んでもいいと、ルーシェルに命を捧げ愛を捧げて真剣に愛し合いました。

命をも捧げる犠牲の愛であるがゆえに、これをアガペーの愛と真剣に勘違いし、過ちの愛であるとことさえも分からないで、この愛を求めるのです。


エバのその生命を越えて愛を求めあったその感性が面々と引き継がれてきたので、この過ちの愛こそが真の愛と信じ込み、この過ちの愛が真の愛にとって代ってきたということです。


過ちの愛といえども、そのような人類最初の、命を捧げた愛ですから祝福を受け神の血統になっても、どんなに御言を学んでも、愛は原理より強いがゆえに人々の愛の情念に現れてくるということなのです。

これはメシア、キリストでさえも取り除くことのできない過ちの愛の記憶、過ちの愛の感性なのです。

しかし、神にはそのようなエロスの愛、ましてやその愛に包まれるというような感覚はありません。その愛の感覚はルーシェルのエバの愛で包まれて強烈な愛の減少感を癒したと思ったエバに対する愛が起源であり本体なのです。

このルーシェルとエバの愛については、別の項で論じたいと思います。

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