Thursday, June 13, 2024

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:<5>-9(女性先惟論) アガペーの愛、エロスの愛

 

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:1️⃣ 両性具有神

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:2️⃣ 3-1~3-2(女性先惟論)

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:3️⃣ 3-3~3-6(女性先惟論)

劉正玉牧師の原理本体論の問題点:4️⃣ 3-7~3-8(女性先惟論)


に続く、劉正玉牧師の原理本体論の神学的問題に関する論考の続きです。

数回に分けて翻訳の合間に掲載します。


3-9.アガペーの愛、エロスの愛


前項、「父と子と聖霊の三位一体は天宙の中心、父子の関係を表す」では、宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であり、真の愛が犠牲の愛であるアガペーの愛であるのは父と子の関係の愛を中心とするからであることを述べました。

即ちアガペーの愛とは父と子の関係が中心であり、それが真の愛の原相ということです。


一方、エロスの愛は、自分に欠けたものを得たいと求める衝動、それはロマンスの愛であり、性的な愛として現れます。

従って、絶対性の愛は世俗的エロスの愛ではなく、絶対相対関係における真のエロスの愛です。このようなエロスの愛は、父子の関係を中心とする真の愛、夜の神の位置、三位一体の位置には一切存在しません。


もう一度、真の愛、アガペーの愛について確認します。


生命より貴く、愛よりも重要なものが血統です。(天聖経)


血統が生命より貴く、愛よりも重要であるという理由は、神様の真の愛の種とその生命は、父子の縦的アガペーの愛を中心として、この「父と息子」の縦的な血統を通して続いていくからなのです。

宇宙の中心、三位一体の中心は父子の関係であるから、父子の関係は、真の愛と生命の実りとして血統にあらわれてくるということです。


つまり、真の愛とは、父子の関係の愛、父子の縦的愛、父子のアガペーの愛であるということです。このような真の愛を中心軸として父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛の四大心情圏の愛が造られていくということです。


夜の神様はその四大心情圏の中心軸、この縦的な父子の愛に従順屈服したいのです。

私達はこの父子の縦的愛、父子のアガペーの愛の実体である王権を幕屋とする共同体です。


3-9-1.エロスの愛は夜の神の被造物


このアガペーの愛に対し、アダムとエバの絶対性、エロスの愛とはどのような愛でしょうか?それは生命を創り出すために、神様が創造された重要な要素です。

しかし、絶対性の愛は神様の父子の関係の縦的愛を、横的に展開するための横的愛であって神様の創造物であって、神様ご自身にはありません。そのような感覚も一切、神様にはありません。


夜の神様が最も先に考えた対象が父子の関係でした。

宇宙の中心、三位一体の中心である父子の関係は、神様の真の愛の種とその生命は、「父と息子」の血統を求める縦的愛です。


夜の神がこの三位一体において、この生命より貴く、愛よりも重要な血統を先惟したことにより絶対精子思想が現れ、さらに、そこから「父と息子の関係」の対象として女性を考えたのです。


父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるから、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。


ロマンスの愛、エロスの愛と、アガペー犠牲の愛は明確に違います。

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愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。

現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。

ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!

流される血。だから宝血と言うではないか。

ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!

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犠牲の愛が真の愛の中心です。それは父が子女のために犠牲になる愛です。

その犠牲の愛が血として流されたのです。

そのように流れた愛の血は、愛と生命のなかで、もっとも重要なのが血統であるからです。

真の愛の中心は、感覚の愛、ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではありません。神様との父子の関係という縦的愛が真の愛と天宙の中心であるがゆえ流された犠牲的愛、アガペーの愛の血なのです。


夜の神様は100%男性であるのに、その真の愛は父母の愛であるという意味は、このような縦的父子の愛から来て、このような横的な父母の愛を作り出した縦的父母の愛ということであって、一切の女性性相の要素がない完全男性性相の縦的な父子の愛なのです。


それだから夜の神様は、父と子の関係を対象として先惟したとき、その生命と血統を実体的に被造世界に創造するために男性の種を先惟した結果、女性が必要となり、そして絶対性、エロスの愛が必要になり、エロスの愛を創造されたのです。

アガペーの愛が神的愛であり、エロスの愛は人的愛とキリスト教哲学でいわれているのは、エロスの愛が神の被造物であるからです。


3-9-2.絶対性の愛は夜の神の被造物


性は被造物です。

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2021年6月22日(火)キングスリポート

サタンは性を武器として使用しますが、神は愛のために使用されます。神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。彼らの心情的な関係と彼らの生き方において親密さを証明できるようにされるのです。


文鮮明先生は性依存症なのか再臨主なのか◆ 2024年4月3日

絶対性は絶対者、神様が定められた性です。ですからこの世俗的な倫理的な基準ではありません。絶対性は失われた創造本然の性、すなわち神様の血統を言う概念です。ですから絶対性は神様の血統です。ですから、真のお父様は自身が絶対性の主人だとおっしゃいました。

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「神は性の喜びを夫と妻をより深く結束させるために使用されます。」

「絶対性は絶対者、神様が定められた性です。」

絶対性とは夫と妻の関係を、性の喜びをもって深く結束させるために、神様が使われる神様が定められた被造物です。


絶対性は、神様の血統のために神様が定め創造された性、横的愛であるということです。

定めるということは、創造する前段階で必要なことです。定めないで創造することは出来ません。絶対性を先有条件を設定した設定者こそが、創造主なる神様なのです。

神様が定めた絶対性、つまり絶対性は神様の被造物だということです。


そして神様が絶対性を創造したということは、神様にはもともと無かったということです。つまり、このように性を定める神様には、そのような性の喜びの感覚、感性は無いから、アダムとエバのために絶対性という先有条件を設定、定めて創造され、使用されたということです。

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天聖経

根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。

「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。

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男性と女性というペア・システムの共鳴とは何でしょうか?絶対性の共鳴です。共鳴するとは何でしょうか?絶対性の愛の喜び、真のエロスの愛によって共鳴するということです。


男性と女性というペア・システムの共鳴は「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と、神様が定めたものです。

ですからこの共鳴は神様が創造された被造物です。つまりペア・システムの共鳴という愛は真の愛を中核として造られた神様の創造物です。

このようにペア・システムの絶対性は神様の被造物ですし、絶対性の愛の喜びもこの被造物によって生じるのであって、これを定めた創造主には、この絶対性の愛は無いということです。


つまり、アダムとエバの愛の核におられる神様の喜びとして、これは多くの人が勘違いしているのですが、神様はアダムとエバの絶対性の愛の中で、喜ばれるという意味は、神様が先有条件として設定した絶対性の愛自体、エロスの愛の喜びを神様が感じて喜ばれるのではありません。


つまり絶対性という先有条件を設定した神様には横的愛、そのような絶対性的なエロス的な感性感覚は本質的に持っておられないということです。

絶対性の愛の喜びは神様がアダムとエバに与えて下さった贈り物、創造物です。


それではこの絶対性の共鳴の中における神様の喜びとは何でしょうか?

神様が設定し創造された、その絶対性の愛を横的な愛として、この縦的な父子の愛と生命と血統が創造されていくアガペーの愛が、実体化していくことに対する喜びなのです。

血統が、生命より貴く、愛よりも重要だからです。



3-9-3.真の愛が先か?陽陰二性性相の愛が先か?


夜の神様が、「父と息子の愛」の対象がある先有条件として女性を考えたとき、そこで初めて横的愛が必要となりました。ここで横的エロスの愛である絶対性の愛も、この時、ロゴスとして創造されました。

縦的父子の愛を核として、女性を対象として必要とする時に、同時に男女の二性性相のロゴスが創造されました。

つまりロゴス創造において父子の関係の愛の絶対精子思想の対象である先有条件として女性が必要となり、ここで二性性相の絶対性の愛が創造されたということです。


お父様は、創造主の愛と男性と女性の創造の位相関係に於いて、実際どのように言っておられるでしょうか?

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天聖経

根本問題において、この宇宙は、ペア・システムでできていますが、それは共鳴するためです。何を中心として共鳴が起きるのかといえば、愛というものを中心として起きるのです。それゆえに、神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでしょうか。どちらが先でしょうか。

「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と思われたでしょうか、「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」と思われたでしょうか。ですから、見えないものが貴いのです。

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神学の論争において、神様は男と女、どちらを先に考えたのか、先惟されたのか論議になっています。

しかしこの御言は、男性を先惟したのか、女性を先惟したのかは、どちらが先であるということが中心ではない、もしくは陽陰の二性性相が天地創造の出発ではないという御言です。


このみ言は、神様は愛を先に考えて男性と女性を立てたのであって、

男性と女性がこうだから愛がこうだと立てたのではない、

男性を先に立てた、女性を先に立てたのかが、天地創造の出発ではないという御言です。


しかし、多くの原理の創造原理を知る信徒たちは、このお父様の御言を理解できないでしょう。

なぜなら、「陽陰二性性相思考という問題点」の項で論じたように、その思考回路、思考のベクトル自体が陽陰二性性相であるからです。愛の感性も陽陰二性性相の愛です。


「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」というこの御言を、多くの信徒は、「愛がこうなっている」とは、「愛が陽陰二性性相になっているから」と無意識に考えるでしょう。そのよう男女の二性性相になっている愛が真の愛、アガペーの愛だと無意識的に考えるでしょう。


ですから、殆どの信徒は「愛がこうなっているから男性と女性がこうなるべきだ」というみ言の理解は、「神は『真の愛は男女の二性性相の愛になっているから男性と女性がこうなるべきだ』と思われた」と無意識的に理解してしまうことでしょう。

その思考は「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」と愛をそのような男女の二性性相で既に考えてしまっているということです。


ですから、このお父様の御言を陽陰二性性相思考で理解すると、

「男性と女性が二性性相になっているから真の愛は二性性相になっている。そのように真の愛は男女の二性性相の愛なのだから、神は男性と女性の二性性相を創造した。男性と女性がそのように二性性相になっているから真の愛は二性性相になっている」・・・

このように思考が無意識に循環、ループしてしまうのです。

愛を陽陰二性性相で考えるので、男女の二性性相の愛が頭の中で無限ループを描き無限循環してしまうのです。


殆どの信徒がこのような「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ」というお父様が否定しておられる思考をするのですが、この思考回路はこのような無限ループに陥ってしまうのです。だからお父様は否定されるのです。

しかし本人は自分自身がこのような無限ループに陥っていることに、まったく気がついていません。


天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。

そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された

真のお父様1979年4月15日ベルベディア


この御言を無限ループ陽陰二性性相脳の信徒は次のように考えるでしょう。


「父子の関係が天宙の中心なら、子を持つためには母が必要ではないか!だから母を考えないといけない、女性的対象、形状を考えないといけない。」

「だから父子の関係を対象として考えるということは、父子の関係に隠されている女性を先に考えることが先ということだ。それが真の愛、アガペーの愛だ。隠されているだけだ。それに気が付かないといけない。」

「だから父と子と聖霊の三位一体も、女性的対象が三位一体の周りを覆っているということだ。この対象との関係が真の愛の本体だ」etc・・・


このようにこの論考で、「真の愛とは父と子の関係を中心としたアガベーの愛」であることを、お父様、二代王様の御言を紹介し論じても、もはや感性と思考回路が二性性相エロス愛でプログラミングされてしまい理解できない信徒が多いことでしょう。

しかしこれを理解できないと女性神、両性具有神を拝することになります。

この真の愛のプログラミング言語は二性性相の愛ではなく「父子の関係の愛、キリスト」でなければなりません。


陽陰の二性性相の愛はエロスの愛が中心です。

真の愛を理解するためには、この陽陰の二性性相の無限ループの虜から脱し、「天宙の中心的法則・原理は、父子の関係です。それがすべての出発点です。そのようにこの宇宙が父子の関係で創造された」、このみ言を理解する必要があります。


神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたでしょうか、それとも、愛を中心として男性と女性を立てられたでょうか。(天聖教)」

この御言は、「神様が創造される時、男性と女性を先に考えて愛を立てられたのではない」ということです。このようにお父様は、陽陰の二性性相が宇宙の中心では無いと明確に言っておられるのです。


つまり「陽陰二性性相の愛は、男性と女性を先に考えているので、神様が創造される時の愛ではない」ということです。「陽陰二性性相の愛を中心にして男性と女性を立てたのではない」という御言なのです。


しかし「宇宙の中心が父子の関係であるということは、女性を先に考えたということだ」と女性先惟神学は言うでしょう。

しかし女性先惟神学が主張する神様は男性だから女性を先に考えたとするその発想自体が、結局、男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだと、男女という二性性相の関係から愛を断定したということです。


女性先惟論の愛しても、陽陰の二性性相で考える愛は、このようにお父様が否定している「男性と女性がこうなっているから愛がこうなるべきだ。男性と女性を先に考え(先惟し)て愛を立てた」というエロスの愛、性愛論理です。

絶対性の愛、エロスの愛は、神様の創造物であることは論じました。

その絶対性の愛、エロスの愛創造以前に陽陰の二性性相の愛は存在しないのです。


従って陽陰の二性性相で考える愛はもちろん、神様は女性を先惟することを夜の神様の天宙創造の根源とする女性先惟神学は、このお父様の御言からも、根本的に間違っています。


お父様の御言には、女性を先に考えたような御言はありますが、主体が対象となり対象が主体となる授受作用的の観点から、女性が主体の位置に立つこともあります。お父様のそのような御言は授受作用、あるいは父子の愛を中心として展開する過程で、女性が主体に立ったとき話された御言ということです。


そのような女性が主体の位置にたった時の御言を切り出して、その切り出した部分を夜の神様の根本にするのではなく、何が中心なのかを見ながらお父様の御言全体をみなければなりません。


しかしながら、このようなロゴスの位相で話しておられる真のお父様の御言を、劉正玉牧師は夜の神様の位相であると勘違いして女性先惟の神学を立ててしまいました。

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