トマス主義、西洋キリスト教の問題
◆2026年8月20日台湾聖殿 韓国語木曜礼拝<3>
文亨進二代王
監修:fanclub三原
文亨進師 台湾韓国語礼拝한국 목요예배 02026 08 20
まず聖書を見てみましょう。コリント人への第一の手紙12章。
行動とエネルギー
コリントの信徒への手紙第一12章。コリントの信徒への手紙第一12章。3節から6節を見ましょう。
3そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
4霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
5務は種々あるが、主は同じである。
6働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
韓国語の翻訳には「運行(働き)」がありませんね。6節には「運行(働き)」があります。これはギリシャ語の「エネルギー」から出てきます。どうして「働き」になるかといえば、ギリシャ語よりカトリックはラテン語に翻訳したではないですか。ローマを中心に全てしようとするので。ローマを中心にするので、ギリシャ語の「エネルゲイア( energeia )」をラテン語の「オペラティオ(operatio)」に翻訳したのです。
「エネルギア」と「オペラティオ(operatio)」の違いが大きいです。なぜなら、オペラティオという時、英語でオペレーション、行動、これはこの行動は始まりと終わりがあるではないですか。例えば、金勧士が朴勧士にキスをした。これはオペラティオではないですか。行動。
しかし、そのキスは、始まりと終わりがあったではないですか。永遠のキスをしてください。できません。そうですね。
オペラティオという時、行動する時に始まりと終わりがあるではないですか。しかし、「エネルギー」という時、必ず始まりと終わりがわけではありませんね。そうですね。
例えば、神様のエネルギーが出てきたら、そのエネルギーは永遠ではないですか。神様は永遠でいらっしゃるので。そうですか?そうではないですか?
だから、このラテン語でカトリックとキリスト教からキリスト教が聖書翻訳したではないですか。カトリックの聖書をマルティン・ルターが大衆に広めるために翻訳したではないですか。そうですね?
だから、その単語「オペラティオ」を翻訳しながら、西洋世界とキリスト教カトリックが入ったすべての国々で、本来、この「エネルギア」という単語が「行動」「運行」「運格」このようになってしまいました。
西洋キリスト教のトマス主義合理主義
その感覚と味が完全に違います。そうですね? 完全に違います。そして、今回韓国の食口たちがここに来た時、なぜ「西洋キリスト教」西洋という時、カトリックとカトリックから出てきたプロテスタント、これを「西洋キリスト教」と言います。西洋キリスト教。
東洋のキリスト教会は、アフリカ正教会、ギリシャ正教会、ソ連正教会、だからロシア正教会、そしてアンティオキア教会、アレクサンドリア正教会もあります。これらは少し違いはありますが東洋キリスト教と言います。
西洋キリスト教という時、ローマカトリック、次にカトリックの反対から出てきながらプロテスタント。それは西洋キリスト教。西洋キリスト教はローマを中心として聖書を書いたので、ローマ聖書が考える、Presupposition、あらかじめ当然だと考える哲学の基盤を信じるようになるのです。
だから、プロテスタントはカトリックから出てきたではないですか。だから、カトリックと何回か戦いましたが、カトリックが当然だと考える哲学的基盤も受け入れたということです。
例えば自然神学とトマス・アクィナス神学、これらはクリスチャン合理主義の神学。この人たちが考えていること、彼らが言っているのは、「ペリパティック・アクシオム(Peripatetic axiom )五感を通して私たちの知識に、五感を通さなければ知識として入ることはできないと考えます。
だから、この五感を使って、私たちはあらゆることを知ることになる。そうですね?
だから、五感を通して神様も知ることになるので、これも科学になり、こうなりますね。そうですね?
それは必ずしも悪いことではありませんが、それでも、五感を通して私たちは認識することになるので、勉強しなければなりません。超越的な経験はできません。五感を超越する経験はできません。五感を通して知識的に知るしかないのです。
ですから、勉強しなければなりません。勉強主義、勉学主義、スクールズ(Schools)学主義、その次は、キリスト教合理主義と言います。そうですね?
だから、このような部分を通して、もし私たちが五感を通して神様を知るようになったら、神様を知らなければならないなら、それなら神様について考えなければならないではないですか。
神様について考え、哲学的に考え、哲学的に解かなければならないではないですか。神様を。
哲学的に解いてこそ、私たちは神様を知るようになり、私たちは、簡単に言えば悟りを得て、悟った人としてキリストの王国を築くことができる。このような「悟り主義」になってしまいます。悟り主義。
神様を体験することよりも、神様について悟らなければいけない、勉強しなければいけない。なので、キリスト教では、いつもなんと言うか。毎日毎日「聖書を勉強しているか」そうですね。カトリックは、どんな神学大学院を出たか、これが一番重要です。神父たちは。そうですね?勉強と、どれほど多くの本を読んだか。そうですね?
神的単純性の問題
そうしながら、このような伝統において、神様は単純な神様。*
*参考:ディバイン・シンプリシティ(Divine Simplicity.:神的単純性 )
なぜ神様は単純なのか?なぜなら、神様の本質を分離したら、分立したら、例えば神様の本質はここにある。ある部分は恩恵、ある部分は愛、ある部分は神様の光、ある部分は神様のパワー、ある部分は神様の御心。
本質をそのように分別すると問題が生じます。なぜなら、神様の本質であるなら、その本質の中にあるすべてのものは100%神様ですね。100%。
ところが、その100%の神様を分立するようになりながら、恵みも100%神様、愛も100%神様、御心も100%神様、光も100%神様、これらはすべて100%神様であるなら、その言葉は神様が何万個も存在するということです。どういうことか分かりますね?
神様がたくさん生じるようになります。その神様の本質の中に。これは問題になります。
そうですね?なぜ?神様の本質の中に、神様のすべての本質の中に、全知全能がすべてあるではないですか。
それなら、その言葉は、神様の恩恵も全知全能です。だから、その言葉は、神様の御心も全知全能です。その言葉は、神様の光も全知全能です。そこで問題が生じるのです。
絶対予定論
神様の御心が、もし100%全知全能であるなら、神様はあらかじめすべてを計画されていた。これを何と言いますか?何と言うのでしょうか?予定主義。絶対予定主義。そうですね?こういう問題が出てきます。神様の御心が100%神様の全知全能であるなら、それなら神様の御心は100%絶対的な、全知ですね。全知はすべてご存知ではないですか。
その言葉は、過去現在未来、すべてをあらかじめ永遠に前もって決定されました。その言葉は、人間たちに実は自由意志がないということになります。こうなってしまうのです。
ですから、多くのキリスト教、カルヴァンキリスト教で、人間が考えているような自由意志はない。このように言っているではないですか。絶対的な自由意志。
すべては神様の所有圏の中にある。これは問題になりますね。問題になります。相当な大きな問題です。
もしこういう問題が生じるとしたら、私たちは自由意志もなく、だから私たちはみんなロボットだということになります。ロボット。私たちの行動や祈り、私たちが下す決断など、関係ありません。神様はすでに天国に行く者と地獄に行く者をすでに決めておられます。
それでは、神様がすでに天国に入る人々、地獄で永遠に火に燃やされ拷問を受けなければならない人々をあらかじめ決めておられたとしたら、これは愛の神様になることはできません。これは拷問の神様になってしまいます。そうですね?それでは、このような問題が生じるます。
自由意思の損失
ですから、トマス・アクィナス神学で出発するようになれば、エッセンス、本質とエネルゲイア・・・エネルゲイアそのものがありません、そいつらには。
ですから、神様の働きオペラティオ(operatio )とエッセンスは一つだと言います。一つ。その神様のオペラティオとは何でしょうか?愛、OK、光、御心、これらはすべて神様の運行(働き)ですね。働き。
これを神様の本質と同じだと言います。区別することはできないと。その問題は、今勉強してきた問題がすべて現れます。結論は、自由意志までもなくなってしまいます。
ですから、カトリックキリスト教のシステムの中で、哲学的に自由意志がなくなってしまうのです。
すべてのキリスト教がそれを信じているわけではありませんが、すべてのキリスト教に、この哲学的基盤があるかどうかさえ分からない。彼らは深く考えていないのです。
一般的なキリスト教信者は、こんな勉強は1つもしません。これは哲学だと考えているから。
東洋キリストによる教合理主義の限界
ああ、そうですね。しかし、もっと古い宗教とは何でしょう?
東洋の宗教。東洋のキリスト教は違います。違います。勉強主義はダメです。勉強シュチ、勉学主義もダメです。勉学主義もダメで、合理主義もダメです。なぜ?神は私たちの合理的な思考を超越しておられるからです。
私たちがどんなにうまく考えても、どんなに神をうまく描いても、その絵は完璧ではないでしょう。
何故? その絵はまるで アリが私たちを描くようなものだから。
アリが人間のあらゆる深い内面や、思考、痛み、苦しみ、ああ、悲しみまで、すべてを知ることはできないでしょう、アリが。
しかし、アリと私たちの方がずっと近いでしょう。私たちと神様の間には、千万倍、億倍、兆倍もの距離があります。その、その差、能力の差には。
そうですか、そうじゃないですか? アリよりも、アリよりも人間は自由ですから。
つまり東洋のキリスト教ははるかに謙虚で、「ああ、私たちは神の本質を知ることはできない」と。
神は私たちのあらゆる能力を超越している。私たちの五感でいくら知ろうとしても、知ることはできない。神は私たちのすべての五感を超越されている。
しかし、神は私たちに現れてくださることもある。エネルギーを通じて、エネルギーを通じて。
東洋キリスト教の人格的エネルギー
だから私たちが考える、あの東洋の、いわゆる「気」や「エネルギー」といった類のエネルギーではなくて、東洋の人々が「気」や「エネルギー」を考えたとき、それが何なのか分からないのです。そうですよね? それをうまく説明できません。
道徳経の最初の文は何でしたか?「道可道非常道、名可名非常名 (「道の道とすべきは、常の道に非ず」 )」これですよね。道徳経の最初の文。
そうですよね? その言葉、どういう意味ですか? 説明できる「道」でもなく、語れる「名」でもない。こう言っています。
その言葉は、道教や東洋思想そのものにおいて、「気」か、あるいは私たちが言う「万有原力」……これが何なのか分からないではないですか、東洋思想では。
ただ何か神秘的な宇宙のエネルギー、いわゆる「気」があると考えられていて、彼らが言うのは非人格的なエネルギーだ、このように言いますね。道教の人々は、非人格的 なものだと。そうでしょう。
しかし、東洋のキリスト教ではそれは違う、非人格的なものではなく、これは人格的なエネルギー、人格的なエネルギーだと。この差を理解しなければなりません。私たちが瞑想するとき、非人格的なエネルギーに触れているわけではないのです。
それは私たちの目標ではありません。そうですね?
私たちが父に感謝を捧げるとき、神様は私たちに神の光を見せてくださることもあります。恵みが降り注ぐことがあります。そうですね?
突然、愛が降り注ぐことがあります。 そうですか、そうじゃないですか?
創造されてない光を見ることは神に出会うこと
突然、知恵が降りてくることがあります。そうですよね?
それらは何でしょうか? あれは無人格的なエネルギーではなく、これは神様の、人格的な創造によらないエネルギーなのです。もう一度言いますが、これは神から来る人格的な創造されていないエネルギーなのです。
神様が私たちにそのような恵みをパン!と降ろしてくださる時、それは神様の何でしょうか?
神様が何か幻想を作り出して私たちに送っているわけではなく。そうですよね?
皆さん、聖書の歴史を見てみると、イエス様が洗礼を受けられた時、神様が「これは私の子だ」と言って、聖霊の鳩が飛び交ったではないですか。しかし聖霊は実際には鳩ではありません。そうですね?
しかし、聖霊が現れる時、輝く光が現れますよね。本当の鳩ではないのです、そうですね?
その場にあった鳩は、神が作り出した幻などではありませんでした。仮想のものではなかったということです。あれは聖霊が臨まれたということなのです、実際に。それではそれは何でしょうか?
これは聖霊の、いや、神様の、人格的な、創造されていないエネルギーの働きです、運行。
ですから、私たちがそのような役事に遭遇した時、それは神が私たちに送ってくださった幻でもなく、神が私たちに送ってくださった仮想のAIのようなイメージでもなく
深く、長く、精誠を尽くし、厳しい苦行を伴う献身的な祈りを捧げれば、ある日、神様は、実体の光を現してくださいます。
神様から永遠に、常に、絶えず放たれる光、すなわち創造されていません。その光も、創造主である神様から永遠に放たれる栄光であり、創造ではなく、始まりはありません。そうですね? 神様の光にも始まりはありません。 そうですね?
ああ、つまり私たちは、多くの訓練、多くの精誠、厳しい訓練を、数千万倍 数千億倍、「お父様、ありがとうございます」と悔い改める。
これを数千万回行うと、その時役事が降りてくる可能性があります。そうですよね?
その役事は幻想や仮想ではなく、それは私たちが神様の人格的な創造をされていない光、を見る驚くべき瞬間になります。
タボル山で弟子たちがイエス様の顔を、まるで神様の創造されてない光を、そのお顔を見たように、私たちも、お父様の、 創造されてない光を見ることができるのです。
それは幻や仮想ではなく、 常に神様から永遠に存在していた驚くべき光に触れる恵みとなり得るということです。
わあ、その言葉は一体どういう意味?私たちは神様に出会えるのです。
精誠を一生懸命尽くせば。
カトリックでは神の御業は創造物
天主教(カトリック)、キリストシステムではできない、それはできません。神様に出会えません。神様が私たちに何かを送ってくださるなら、それは創造された物です。創造された幻想か、あるいは仮想です。
何故? カトリック、キリスト教は、エネルゲイアとエッセンスを一つにしています。
エネルゲイアは神の本質と分離しません。違いを作りません。
そのため、神様が、神様のエッセンスが、神様の、例えば神の光、その光が神様のエッセンスですから、その光が現れる時、もし私たちがそのエッセンスに触れることができれば、私たちは神様になるということです。
つまり、カトリックは何と言っているか、私たちは神様にはなれないので、神様が現れる時、神様のエッセンスが現れるのではなく、幻想が現れるのです。神が創造された幻想が現れるのです。
それはどういうことでしょうか? 私たちは永遠に神様に触れることはできません。 永遠に神に会うことはできません。
私たちはただ、神様の幻に会うことしかできないのです。これが、分かりますか? 分かりますか? 面白いですよね?
ところで、問題は何でしょうか? もしそれが事実なら、神様は永遠に遠い存在です。生きている間は神様に会うことはできません。神様の役事も神様の本質ですから、実はその役事も神様が創造された幻なのです。神様に直接会うことはできません。
カトリックの至福直観
ですから、カトリックとキリスト教は、
「Beatific Vision(ベアティフィック・ヴィジョン)至福直観 」 を探してみてください。
「Beatific Vision:至福直観 」 とは、“神の光を見る日” つまりその日は……その日は私たちが死ぬ時、カトリック、キリスト教では、私たちが死んだ後、私たちは神様の光を見るようになるのです。
神様の喜び、そして神様の光に出会える時間は、一体いつなのでしょうか?
カトリックやプロテスタントによれば、死んでからであって、生きているうちには出会えません。
生きている間は、ベアティフィック・ヴィジョン、神様の光には出会えません。死ぬ時だけです。
何故?何故なら、生きている間は神に直接会うことはできないからです。神の役事にも直接出会うことはできません。神様が造られた幻だけが見ることが出来るのです。お分かりになりますか? 分かりますか? [はい]
ああ、至福の、至福のビジョン。至福のビジョン。至福のビジョン。そうですね?
精誠を通して神のエネルギーに会うことができる
つまり、古代東洋のキリスト教の方がはるかに原理的なのです。エッセンスとエネルギーを分立しているので、私たちの万有原力が神のエネルギーであるかのように、神の本質が維持され、神の本質は誰にも出会うことはできませんが、キリスト以外。つまりキリストこそが神の本質に会うことができるのです。
しかし、私たちは会えません。私たちが会えないのです。そうですね? 私たちが会えないけれど、私たちは……神様の、しかし私たちは神様のエネルギーには会うことができます。
それ、それも神様に会うことなのです。しかし、神の本質に会うことではありませんが、それでも神様の創造されてないエネルギーに触れることができるのです。
これは幻想ではありません。幻想でも仮想でもなく、私たちが生きている間に 精誠をたくさん尽くせば、祈祷をたくさんすれば、断食をたくさんすれば、苦行をたくさんすれば、神様が私たちに、そのような驚くべき神様に会えるような役事を与えてくださることができるということです。
ですから、精誠を尽くしている方々は完璧ではありませんが、神様の光を、光を、光をたくさん受けている人は、次第に神様にもっと似ていくのです。
神様になるわけではありませんが、神様にはなれませんね? しかし、神様に似ていくのです。何故なら、もっと、もっと多くの神様の光を見たからです。
だから、精誠を尽くす方々が尊いのです。東洋のキリスト教において、精誠を尽くす方々が尊いのです。
カトリック、キリスト教において、精誠を尽くす人たちが尊いわけではない。特別なことなどありません。
それなら、うちの若者たちもここに来て精誠を尽くしてるではないか。5分間「お父様、ありがとうございます。お父様、ありがとうございます」馬歩をして「ありがとうございます。」その精誠も、私たちはみな、好きですよね。
何故? 東洋のキリスト教でも、そういう精誠は良いものです。
カトリック・キリスト教の立場からすれば、そんな精誠は役に立たない空虚な内容なのです。聖書をもっとたくさん読まなければなりません。そんなことするより。ああ、これを理解しますか?
統一教会を見れば、統一教会も私たちも、あまりにもカトリックのトマス・アクィナス的神学や文化の方へ行き過ぎました。
「原理」さえ知っていれば、どうして「原理」を知っている人たちが王様に従えないのか。
「原理」を知っていることが問題なのです。原理を実践していない。
知っていることと実践することは違います。
カトリック・キリスト教では聖書を知らなければなりません。東洋の キリスト教では聖書を実践しなければなりません。
違います。
私たちも同じです。多くの詐欺師たちは、ただ「原理を知らなければ」「原理を知っている」と主張しただけでした。
お父様はなぜ二代王様を選ばれたのですか? お父様は何とおっしゃいましたか? “この子は、誰一人としてこの子に勝てない”と言われました。
“この子は原理を実践しているから”とそう言われたのです。 「道人である」と呼んでくださいました。
私が強調しているのは「勉強、勉強」ではないからです。二代王様が強調されたのは何ですか?「精誠」です。
お父様は漢字で、精誠、誠という漢字で、「み言を成し遂げなさい」とおっしゃいました。
私たちは完璧ではありませんが、また罪人ですから悔い改めなければなりませんが、み言を成し遂げなさい。これが私たちの目標ですよね。精誠、誠の字。
ですからここで、お香を捧げる時も、常にまず精誠の誠の字から書くではないですか。精誠の誠。
ああ、何故なら私たちの訓練の目的は「み言を成し遂げよ」ではないか。ただみ言を知れ、ではないではありませんか。
ただ「御言を知りなさい」ではないではないですか。違うでしょう。「み言を成し遂げなければならない」ではないですか。
ですからお父様は……ええ、何だ、中村協会長も、今回『七死復活』という本も書かれたそうですね。『七死復活』という本も書かれたそうですね。中村協会長、日本協会長。 [ええ]
その本には、その本には、そういうことがたくさん書かれています。 お父様が仰った、あの「亨進がどうやって『七死復活』ということを知ったのか」という、天がその内容を降ろしてくれた、というみ言葉がすべて載っています。皆さんがこれまで見たことのないような内容が載っています。
何故お父様が二代王を。もちろん私が純潔を保ったこともそうだが、しかし私は修行者である。修行者。私はただの哲学者ではないではないか。私は修行、修行者だ、修行者。
だからお父様はこれを喜んでおられます。
その言葉は、「修行さえすれば我々は完璧だ」という意味ではない、我々も罪人だから。絶えず悔い改めなければならない。感謝と悔い改め、感謝と悔い改め、感謝と悔い改め……。
だから、我々の伝統において、お父様は「あの子も、ああ、よく」。
あの中村協会長の書いた本に出ています。お父様の言葉によると、「亨進が、たくさん精誠を尽くしながら、その『七死復活』とか、そういうことに悟りを開いた、そういうその その精誠と完全に結びつけておられたのです、お父様は。「こいつはそんな精誠を1万2千回、2万回も捧げたから、天がこのような『七死復活』の啓示を与えたのだ」と。
お父様はこのように結びつけられるのです。
そうすると、その言葉、これは修行ですね、修行。
カトリックやプロテスタントの立場から、原理だけを知っている立場からすれば、1万2千拝なんて何の役に立ちますか。主がここにおられるのに。
原理の立場からすると、それだけの精誠と苦行は主を待つためのものですね。主を受け入れるためのものなのに、主がここにおられるのに、そんなに準備するなんて、これは何の役に立つのか?
何故、お父様は喜んでいらっしゃったのですか?これを。
頭で理解できるものではありません。お父様はなぜこれを喜ばれるのか、「私の後継者は神に触れている。天で、キリストについて学んでいる、精誠を通して」。
『七死復活』はどこから来たのか? はい、1万2千拝から来た。このようにおっしゃいます。ああ、2万1千拝。
違う、しかし、御父様のお言葉に「1万2千拝」と言われた。
とにかくその言葉は、「精誠を通して 亨進が、その部分を突き抜け、神様が直接啓示を下さり、この子は私の『七死復活』を見た」。
このようにおっしゃったのです。
ああ、その言葉はどういう意味ですか、その言葉は、精誠はものすごく重要なのです。
そうですね? そして精誠を通じて、実は精誠を通しながら、私たちの脊椎も完全に変わっていくのです。精誠を通して。
原理を知っても脊椎は変わりません。
何故? 脊椎は知的ではないからです。この脊椎は知的な、脊椎に知的な内容を入れることはできません。
脊椎の中には経験しか入れられず、経験、経験、経験だけを理解するのです。 知的な説明は、脊椎には理解できません。
ですから、私たちが訓練をする中で脊椎も変わり、脊椎が変われば、私たちの対人関係における反応も変わっていきます。
そうすれば、怒る頻度が減り、心身の感情コントロールも上手になります。
訓練すればするほど、一度の訓練では足りません。数千万倍、数千万時間、数億時間と訓練を重ねる中で、脊椎がゆっくりと変わっていきます。
これは脳に知識を詰め込むことではありません。これは経験、経験を通じて変えていくものです。
違います。
知識主義では関係が崩れる
あの西洋のキリスト教は、知識を通じて、知識主義だから、現代において多くの発展を遂げましたが、知識主義であるために、現代において、長くは続かないのです。何故なら、私たちは知識だけの存在ではないからです
ほとんどの人は、知識よりも感情の方が強いのです。私たちは知識だけを持つ存在じゃないでしょう。私たちには感情もあり、心情もあり、意思もあります。
ああ、このキリスト教的な知識主義の内容は、短期間で現代社会を作り上げますが、それは浅い。物はたくさん生まれますが、関係が崩れてしまいます。
何故? 愛は、真の愛、犠牲の愛は知的な世界じゃないでしょう。心情、情の世界じゃないですか。それ、合ってますよね? そう、つまり現代社会は知情意の知の
面を優位に立て、あらゆるものもそれに従って進みました。そこで、知を優位に立てたおかげで、私たちは現代社会で快適に暮らしていますが、現代社会では人々が最も多くうつ病を患い、最も多く精神疾患を抱え、最も多くの自殺があります。歴史、人類の歴史上で。
何故でしょうか?すべての関係が崩れていくからです。知識で、すべての関係を維持できなくなっています。
犠牲の愛の世界がなければ、関係は崩れてしまいます。
しかし、犠牲の愛の世界は知的な世界ではありませんね。犠牲の愛の世界は心情、情の世界ですね。
ああ、ああ、一、二、三、[ああ]
そうですね、問題ですね。
つまり、現代社会には物品や物質は増えましたが、心情的には貧しいのです。
関係がすべて崩れ去ります。家庭が崩れ、夫婦関係が崩れ、あらゆる家庭内の関係が崩れます。
自分だけが残るのです。自分だけ。個人主義になってしまっている。個人主義。
なぜ?自分がどれだけ知っているか。自分が知っていることが自分の価値になってしまう。
だから、自分がたくさん学んでいれば、自分は君より価値がある。君は学んでいない人なら、君には価値がない。こうなってしまう社会になってしまっている。
これではエリート主義社会になってしまいます。
現代社会はこうなってしまいました。関係が崩れ、 エリート主義社会。
ですから 世界中の人々が孤独です。人々は、どう関係を築けばいいのか分からない。
だから科学的で。考えてみなさい。人類の歴史を全人類の歴史を見ても 、 新しい人に会った時、 新しい人に会った時、例えば私たちのパク牧師に会ったとしたら、 この方がどこの家庭の出身か、父親が誰か、これが一番重要ですよね。パク氏族がどんなパク氏族なのか、ということですよね?
もともと、もともとは。
人類の歴史を通じて、自分がどの氏族で、どの家庭の出身で、父親が誰か、こうした部分が私のアイデンティティなのです。 そうですよね?
ただ「パク牧師」と言えば、うん、過去の話です。
しかし現代の実情はどうなのでしょう? 現代では「あなたはどの家庭の出身か」といったことは一切ありません。「あなた、お金はいくら持ってるの?」と聞くのです。これがあなたの価値です。
どんな職業で、どれくらい稼いでいるか。これを通じて、私たちは互いに自己紹介をします。
「あ、こんにちは。君は何の仕事してるの?」その言葉は一体何?「君、いくら稼いでるの?」という話です。
つまり、私たちがどんな氏族なのか、父親が誰なのか、これよりも、ええ、カナコ先生、あの裏千家、ソウルで何々、「茶道をされたでしょ、茶道、カナコさん、え、何してるんですか?」とこうすぐ聞くじゃないですか。カナコ先生の家庭がどうのとか、村松とか、そういうこと一つも聞かないじゃないですか。
人々はただ「あ、何してるんですか?」、これしか言いません。それは即ち「 君はどれくらいお金を稼いでいるの?」
これは全て、金主義になってしまった、金主義。
何故? 知識を通じて私たちはお金を稼げるから。知識が一番重要だから、学んだ人ほど多くのお金を稼げるから。
私がこの人がどれほど学んでいるかを知るためには、「君はどんな仕事をしているの?」と尋ねなければならない。
君の家庭がどうであれ、お父さんが誰であれ関係ない。
今や現代社会はこうなってしまいました。
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