三代王権を導く神を信じる
2025年9月10日 テネシー清平韓国語水曜礼拝
あなたは何を見ているのか<2>
權寧畢(クォン・ヨンピル)牧師
監修fanclub三原
「あなたは何を見ているのか」韓国語水曜礼拝権寧畢(クォン・ヨンピル)韓国水曜礼拝
翻訳minion
モーセ荒野路程は奇跡の日々。不平不満は心からでる
偉大な指導者モーセが荒野で倒れるようにしたのはファラオではありませんでした。モーセに従ったイスラエル民族でした。
モーセはそれほどカナンの地を踏むことを望みましたが、そのカナンの地を目前にして荒野で倒れました。そしてイスラエルの一世たちも皆死んで荒野の鷲の餌食になったと聖書は語っています。
皆さん、実は不平不満は荒野から出てくるものではありません。私たちの心から始まるのです。
私たちは何を見るのか?これによって不平と感謝に分かれます。私たちが荒野の現実に縛られているなら、不平と恐れ、怨みの中に囚われます。
一方で荒野で神を見るなら、大きな恵みと感謝を感じるようになります。
現実をどのように認識するかによって、私の心と私の判断が追いかけてきます。
これが救いの始まりです。現実に執着する時、不平と恐れが私たちを飲み込んでしまいます。荒野の乾き、明日への不安。
私たちは現実に埋もれてこのように言います。
「なぜ私にこんなことが起こるのか?神よ、なぜ私をこんなに辛くされるのですか?」
しかし神は今日、私たちにこう語られます。「目を上げて、あなた自身を見よ。あなたがたの苦難を超えて役事される私を見よ。救いは、あなたの視線が変わる瞬間に始まる。」
私たちが感謝を知らないのは、神に感謝することがないからではありません。私の視線と私の心が、神の愛と権能を見ることのできない場所に私が留まっているからです。
神はイスラエル民族に、尽きることのない愛と権能を見せてくださり、また見せてくださり、毎日見せてくださいました。
考えてみてください。私たちはモーセが紅海を割いたことを大きな奇跡と言います。
しかしイスラエル民族100万人、幼子に至るまでを導き、荒野で40年間、彷徨った時、毎日マナとうずらを降らせて、彼らが餓死しないようにされたこと。これはもっと大きな奇跡です。毎日毎日が奇跡でした。
三代王権の奇跡
同様に、三代王権がただ一人、手ぶらで荒野に出て12年が経った現在、真の御父様の四位基台完成、生命の書祝福、そしてアメリカを生かして、そして今や中国解放と北朝鮮解放、定州の地、回復のために勝利前進を連続して続けていらっしゃること。
これもまた人間の口では説明が不可能な奇跡です。
真の御父様が成し遂げられる三代王権は、地上において全ての摂理を完成・完結・完了されることでしょう。
家庭連合や郭グループは、自分たちが莫大な組織と金を持っていると、三代王権を見下していました。
しかし今、彼らは自分たちが滅びるのを見ています。
家庭連合は完全に滅びました。それこそまさに日が沈む墓となりました。
そして郭グループも見ていてください。いくら自分たちが金を多く持ち組織が多いと言っても、神様がハンドルを少し回せば、一夜にして崩れ去ります。
そうではないでしょうか?
なぜなら、彼らは巨額なお金と大きな組織さえ持っていれば、真の御父様がいなくても自分たちだけで世界を変えられると大きなことを言いました。そして真の御父様を裏切って飛び出したからです。
皆さん、摂理は人間が導くものではありません。神様とメシヤが導きます。
郭グループは未だにこれを悟ることができません。私たちもよく悟ることができていません。「私が上手にやればうまくいく」。そんなことはありません。
恐れず不平を言わず、二代王様三代王権に従う
ですから、私たち聖殿の食口は恐れないで、また不平を言うこともやめましょう。
現実を見て判断しないでください。
神様はすべてご存知です。神様は計画をお持ちですから、神様の計画に委ね、私は従うだけでよいのです。
皆さん、私の目が不便な現実に固定されていると、神様の計画と役事を見ることができません。
私たちが神様の計画を見ることができなければ、私たちは感謝を感じることができず、希望を失ってしまいます。
イスラエル民族が、神が御自身の民を解放するためにモーセという指導者を召されたという事実を忘れた時、彼らの目にはモーセから感謝すべきことが見えなくなりました。
神の導きへの感謝よりも、現実の困難への不満が私の心を満たしてしまいます。
私たちは苦難と苦痛のなかで神の御心を問うよりも、安易に不平で反応する傾向があります。神も恨み、モーセも恨むことになるのです。
私も妻から毎日小言を言われます。現実にこだわりすぎて不満ばかり言っていると、たくさん叱られました。
イスラエルの民の心は結局、不満と失望で満たされ、放棄したり、あるいは反抗心を育てるようになるのです。
私たちはこれに注意しなければなりません。私の関心が現実に固執する時、私自身は感情の囚人となり、霊的な死に至ります。
火の蛇は自分の罪悪、直視せよ
神は現実の状況だけに埋没し、不平不満に囚われた人々に火の蛇を送られました。
私は火の蛇が単に荒野にいる毒蛇だとは思いません。神の恵みを忘れた者たちが迎えるしかない熱い刑罰が火の蛇として表現されたのだと考えます。
人々は火の蛇に噛まれて死んでいきました。
皆さん、火というのは聖書において神の審判と進路の象徴です。そして聖書において蛇は罪と悪を象徴する動物です。
火の蛇とは、神の御旨を忘れ現実の苦痛に埋没した私の感情を意味するのではないかと、このように考えます。
ご覧ください。神が私たちを救われる方法は、無条件に苦痛から解放してくださるものではありません。神がイスラエルの民を再び救われる時、火の蛇をただなくすだけではありませんでした。
逆説的に、神は救いの象徴としてモーセにその火の蛇を作り、竿に掲げるよう命じられました。神が二つの苦しみと恐怖から私たちを救われる時、苦痛自体を消し去ってはくださらないのです。
安易な道へ導きませんでした、「私たちは自らの罪を正しく見よ。あなたの火の蛇を正しく見よ」。
その罪を脱ぐために責任を負うことで、救いの道を開いてくださるのです。
私たちが何もしないでただ「父よ、父よ」と祈るだけで、祈るからと言って救ってくださるのではないということです。
モーセが作った青銅の蛇は、何か魔法のようなものではありません。青銅の蛇自体から何か神秘的な能力が出てきて人々を救ったのではないということです。
イスラエルの民を殺した火の蛇とは、砂漠を徘徊する毒蛇ではないと考えます。
神の導きを忘れ、現実だけに固執する罪悪な行動を意味すると、私はこう考えます。
その罪を教え、火の蛇と表現したのです。火の蛇はイスラエル民族の不従順と不平の結果として作られた懲罰の象徴です。火の蛇に噛まれて死ぬということは、罪悪によって私が死ぬということを意味するのです。
しかし神は、蛇を竿に掲げ、その蛇を見上げれば生きられると告げられました。
私たちが簡単に考えれば、蛇に噛まれて死ぬので、その蛇を無くしたら私たちが助かると思うでしょう。
しかし神の方法は違います。
私たちは罪がなくなれば助かると考えますが、神の救いの方法はそのような方法を使われません。
神は私たちに、その罪から逃げずに真正面から見なさい。あなたがたが。私の罪悪であるあの火の蛇、私を殺す火の蛇、その火の蛇を正面から見なさいと悟りを与えてくださるのです。
さおに掲げられた青銅の蛇を見よという言葉は、
「罪から逃げずに、私の不平と不信の正体を直視せよ。そしてあなたを導かれる神の御心を知れ。」このような御言です。
「罪から逃げないで、無視せず、自分の中にある不平と不信の正体を正しく見なさい。」そうすれば罪の向こうにある神の計画と導きに自分を合わせよという意味です。
その瞬間、私たちは悔い改める者を生かされる神の恩恵に遇うようになります。私たちが現実の問題と苦痛に固執しないで神を見ればどうなるでしょうか?
苦しみの中でも神の御心を問うようになります。目の前に迫った問題を超えて、神の計画を私たちは見るようになります。
不平不満と恐れを地に埋めてしまい、神と真の父母様、三代王権を信じ、信頼するようになります。そうすれば、不平が私を蝕んでいたそのような不平は消え去り、祈りと待望に変わります。
この時、赦しと救いと生命が私に臨みます。目を上げて青銅の蛇を見た者だけが助かりました。救いとは罪を否定したり逃げることではありません。
自分の罪の正体を直視し認め、新たな姿勢を持つ勇気が必要です。勇気が必要です。そうすれば悔い改めが起こり、新たな心で神の恵みに向かって進むことができます。
以上です。感謝します。
祈り
お祈りします。
愛の父なる神様、今日このようにモーセの路程を通して私たちに大きな悟りを与えてくださったことを感謝します。
神様がモーセを通して導かれたイスラエルの民は、神様を見上げないで荒野の現実に執着したため、彼らは約束の地に入ることができず、荒野で皆倒れてしまいました。私たちの現実も同様です。
私たちの聖殿は劣悪な環境に置かれています。多くのことが不足で、人もおらず、時には私たちは追い出されています。
しかし私たちの確信は、ここに真の御父様が共におられ、真の御父様が二代王様を通してこの地で役事をなされていることを、私たちは否定できないことをよく分かっています。
このようなことを私たちは分かっていますので、今こそ私たちが目を上げて、神のみ旨と計画に私たちの目を合わせることがでるようにお願い申し上げます。
天一国を実現していくそのような摂理は、人間の金や権力や組織によって成されるものではないことを、私たちは聖書の御言を通して、また原理の御言を通して知っています。
たとえ少数であっても、神様に侍り従うそのような少数に、神様の役事があることを知っています。
神様が私の能力ゆえに私をお選びになったのではないことを、私たちはよく分かっています。
私が多くを知っているから、私に能力があるから、私に希望があるから、私の未来を見て神様が私を選ばれたのではなく、
神様が、あなたのみ旨を成すためにあなたの基台が必要であるので、その基盤が必要であるので、私をその場に呼んで立ててくださり、
その基盤を通して天が役事をされるという事実を、私たちが悟り知ることができ、
私たちがますます謙遜になり、少ない中でも、私に与えられた5%の責任をなす時、
天はとてつもない天の能力を注いでくださり、
あなたの摂理を勝利へと導かれるということを私たちが悟り知ることができるようにしてください。
困難であればあるほど現実よりも希望を持ち、神様にその計画をお尋ねする私たちの心となることを切に願い望む時、感謝申し上げるとともに、
祝福中心家庭、権寧畢・森田裕子家庭の名においてご報告申し上げます。アジュ。
ありがとうございます。
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