Friday, November 1, 2024

LIVE:第65回_真の子女の日 第37回_天宙統一国開天日 天基15年天暦10月1日 2024年11月1日

 LIVE:第65回_真の子女の日

第37回_天宙統一国開天日

天基15年天暦10月1日 2024年11月1日

65th True Children’s Day 37th Day of Opening of Heaven for The Unified World of Heaven and Earth


訓読


1)父母は子女をどう教育すべきか

 

父母は、息子、娘にどのような教育をしなければならないでしょうか。知識教育をするのではありません。愛の教育をしなければなりません。父母が一つになる姿を見せて教育しなければならないのです。

天が好むお父さんとお母さんであり、またお母さんが好むお父さんであり、お父さんが好むお母さんであり、二人とも愛し合うと同時に私が好む父母であり、父母が好む私だという事を教えなければなりません。

ですから、初めにアダムとエバも、神様の愛を中心として、神様に愛の教育を受けなければなりません。それでは、その起源はどこでしょうか。人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは、神様から愛の教育を受けなければなりません。そのアダムとエバの価値基準の設定は、どこから成されるのでしょうか。神様の愛の教育からです。

それでは、愛の教育を受けるのはいつまでなのでしょうか。お父さんが知っているすべての価値基準を推し量れる時まで、言い換えれば、成熟する時までは父母の愛を受けて育たなければなりません。

しかし、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありません。愛を受けたという話はなく、気分悪く堕落したという話から始まります。壊れてしまったというのです。

それでは、愛の神様を中心として愛の教育を受けなければならなかったアダムとエバには、愛の教育基準があったのでしょうか。もしなかったならば、神様の理想というものはあり得ません。その愛の教育基準とは何なのかということが問題です。私たちは天国に行きたいと思っています。しかし、天国に行ってからは、そのような教育は受けることができません。地上で教育を受けて生活したのちに天国に行かなければなりません。地上でその教育をしなければ大変なことになるのです。教育を受けなければ大変なことになるというのです。その教育とは何なのでしょうか。(51-171,1971.11.21)


天国は、心情の世界です。教理の天国ではなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。神様が、この地上で民と信徒を探そうとされるのは何のためでしょうか。息子、娘をつくるためです。どのような息子、娘をつくるためでしょうか。「私の心がこうなのだ」と言いながら、その心情を吐露できる息子、娘をつくるためです。(9-293,1960.6.12)


 それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢をもつべきでしょうか。親子の関係ですから、父母が行く所にはいつもついていかなければならないのです。父母が行くようになればどこまでも、いつでもついていかなければなりません。父母が山に登れば山についていき、谷に下りれば谷についていき、洞窟の中に入れば洞窟の中に行かなければなりません。いつも父母と共にいなければならないのです。もし神様が息子と離れなければならないとしても、離れることができるでしょうか。神様は絶対的なお方ですから、絶対的に会いたいと思われるのです。絶対的なお方ですから、好きになるのも絶対的に好きになるのです。「ああ神様、来るなら来て、来なければ来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで」と、これではいけません。絶対的でなければなりません。(51-173,1971.11.21)


もし神様と内外とも一つになった立場にいれば、学ばなくてもみな博学になるというのです。研究して知るよりも、もっと博学になるというのです。天地がどのようになっているのか、霊界がどのようになっているのか、人生がどのようになっているのか(分かるのです)。生ま出たすべての昆虫の赤ちゃんですら食べ物を探すというのに、万物の霊長が、学ぶことによって食べ物を探したり、死ぬことや生きることを知るのではありません。接したとたんにさっと分かるようになっています。

そのように素晴らしい人にならなければならないにもかかわらず、そのような人になれなかったのは堕落のためです。

堕落したとしても、主体と対象の関係で本性は作用しています。作用するこのすき間には、今まで積もってきた汚いもので覆われているので、これを取ってしまえば、だんだん作用が強くなるでしょう。完全に取ってしまったという日には、ぱっとつながるのです。今まで人々は、そのようにできる道を追求してきました。(56-131,1972.5.14)


2)父母は子女に何を教えるのだろうか

 

真理の内容とは何でしょうか。真理の内容がいくら良いといっても、自分の父母に代わることはできず、真理の内容がいくら良いといっても、自分の夫に代わることもできず、また自分の妻や息子、娘たちに代わることはできません。

真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは、父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はありません。それでは、真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何でしょうか。人々は、神様が真理と善と愛の本体であり、生命の本体だといいますが、それは、どのようなことですか。みな同じことです。真理が成立するには、愛と生命がなければできないのです。人間が真の真理を論じることができる人になるには、自分の生命の中に、真理に対する意欲と欲望がなければなりません。ここでの欲望とは、自分の人格基準とは相対的な立場です。

ですから、一番の核心は何でしょうか。生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどのようなお方なのでしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。ですから、核心は父母なのです。(21-183,1968.11.20)


また、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか。神様の愛と真の父母の愛を子女に相続してあげることが最も偉大で、この世にない相続です。神様を正しく紹介しなければなりません。神様の愛がどのようなものかをよく紹介しなければなりません。それを子女が分からないので、神様の代わりに神様のように愛し、自分の父母を求める以上に神様を求める子女となるように教育する、そのような父母にならなければなりません。(93-336,1977.6.17)


 私たち統一教会員は、何をしようというのでしょうか。「最高の愛のために死のう。神様と人類と世界のために死のう」と言うのです。「このような作用も愛のために始まり、このような方向も愛のために始まり、このような目的も愛のために始まり、男性も女性も愛のために始まり、父母も愛のために始まり、息子、娘も愛のために始まり、宇宙のすべてのものも愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育はありません。このように生きていった人は、間違いなく神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。(93-191,1977.5.29)


 祝福家庭の人たちを見ると、自分の子供である二世たちに「勉強しなさい」と言います。自分の息子、娘に「勉強しなさい」と言ったからといって、その息子、娘が親孝行になり忠臣になるのではありません。

とんでもないことです。「統一教会でお父さんとお母さんは苦労したけれど、私はそのような道は行かない!」。このようなことがあり得ます。それを消化させ得る愛の道理を教えなければなりません。ですから父母が息子、娘を連れて、御飯を抜いてでも自分の町を愛し、国のために祈祷し涙を流せば、このようなことが分別のつかない時は悪いことだと思いますが、分別がつくようになる時には、「うちのお父さんとお母さんが最高だ」と言うようになるのです。

父母が我が子のためだけに涙を流したのではなかったということが分かるようになります。自分の子女を捨ててでも国を愛し、神様のみ旨のために生きて人類を救おうとしたという事実を、分別がつけばつくほど知るようになるのです。

自分勝手に生きてはいけません。皆さんが子女を心配したからといって、その子女たちが良くなるのではありません。

愛の糧を食べさせて育てなければなりません。正しい愛を求めていける方向感覚を教えてあげなければなりません。分別がつけばつくほど、年を取れば取るほど、そこで黄金を見つけるとき、一塊の金しかない山だと思っていたのに、掘れば掘るほどその山自体が金の塊になり得ることを知るようになります。(139-77,1986.1.26)


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