Tuesday, August 13, 2024

文信俊三代王様による原理講義 Part 1:2024年6月30日

 

文信俊三代王様による原理講義 Part 1:2024年6月30日


Divine Principle Lecture 06/30/2024 (rumble.com)

翻訳&提供:Michiyo H.


20240630 原理講義_1 

Divine Principle Lecture_1  led by 3rd King



皆さん、創造原理の新しいシリーズに来て下さり、ありがとうございます。

今日は、原理講論のパート1を学びます。

原理講論の聖書の学びです。

私たちのすべての教えは聖書に根ざしていることに重点を置くつもりです。

人生の目的と価値についてのシリーズを始めるにあたり、皆さんがその価値と大きな意義を見いだせるよう願っています。


祈りから始めたいと思います。

親愛なる天のお父様、あなたが私たちに与えてくださったこの日、私たちは集い、原理講論の背後にある驚くべき真理について学ぶことのできる、この美しい日曜日をお与えくださいましたことに感謝申し上げます。創造原理を学びながら、本来の世界へのあなたの願いは、とてもシンプルだったこと、あなたはただ、愛の世界を創造されたかったこと、そこでは、あなたの子供達がお互いに平和と調和の中に住むのです。そして今日、私たちはこの創造原理とあなたの願い、あなたの本来の設計図(青写真)を深く考察し、学びたいと思います。そうすることで、聖書の物語全体をひとつの一貫した絵の中に組み立てることができます。今日、私たちは謙虚になって、あなたの御言葉を受け取るために心を合わせます。この講義を始めるにあたり、すべての賛美と栄光と誉れをあなたにお捧げ申し上げます。心から感謝申し上げ、この祈りを3代王権の御名によってお捧げ申し上げます。アーメン、アジュ。


始める前に、アレン・フェラ氏にお礼を申し上げたいです。彼が今見ているかどうかわからないですが。アレン・フェラ氏と彼のチームは、ここでご覧になるすべてのパワーポイントの最初から最後までの作成を手伝ってくれました。ですから私は、彼に温かい感謝の言葉を贈りたいです。


ということで、では始めたいと思います。

ああ、もうひとつだけ。このプレゼンテーションでは、いつでも質問することができます。

しかし、ライブストリームでも質問があると思いますので、それらは最後にお答えします。

全力で質問にお答えするつもりですが、言うまでもなく、私はすべてを知っているわけではないので、どうかお許し下さい。


(3:00) PPT_1


さっそく始めましょう。

今日、私たちが生きている世界は混乱と対立に満ちており、多くの人々が自分自身の人生の価値に疑問を抱いています。

これは、宗教の領域だけでなく、教育、経済、政治、健康、そして個人的な人間関係にまで及んでいます。


ある著名な伝道者が言っていたように、私たちは皆、人生における4つの主要な疑問に答える必要があります。

原因、どのようにしてここにいるのか?

私たちにはある種の最終目標があるのか?

また、道徳、人として、どう生きるべきか?

そして、運命、私たちの最終目的地はどこか?


しかしながら現実は、多くの人々が自分自身の命を深く尊重していません。

したがって、論理的な延長として、他人の人生も尊重していません。

このような目的意識と価値観の欠如は、自殺願望や自殺行為につながり、自分の人生がどのような方向に向かうべきなのかわからなくなります。


私たちの個人的な経験や人間としての経験に本当に欠けているのは、人生そのものの目的と価値を深く認識することです。


(4:14) PPT_2


そして人々は、哲学や宗教、科学を含む多くの信念体系を通して、その答えを探し求めてきました。


しかしながら、世界の現実を見れば、人間の苦しみや争いを解決できるような教えや生き方は、これまで存在しなかったことに気づくはずです。


そして、アメリカを見渡してみてもわかります。第一世界の国であるのに、非常に残念なことです。

国境だけを見ても、国境を越えて取引される子どもの性売買や麻薬は、とてつもなく悪質です。

そしてこれはアメリカだけでなく、世界中に広がっています。すべての戦争と疾病、そしてすべての理解しがたいほどの苦しみや痛みでさえも。


私たちの天の父が望むような世界ではありません。彼は完全な愛の神であり、完全な正義の神です。

彼の子供達が苦しむような世界を望んでいません。

それこそが、人生の本来の目的と価値を理解しなければならない理由なのです。


そして多くの人々は、神がこの世界を創造したときに意図したのはこのような世界だったのか、あるいは、そもそも神は存在するのか、と問います。


人間によって作られた製品、特に洗濯機やコンピューター、電子レンジのような複雑な製品について考えてみれば、製品マニュアルは、製品の目的を説明し、製品の可能性を最大限に引き出す方法を示しています。

そのような製品マニュアルが人間にもあればいいのにと思うかもしれません。


私たちの存在理由を明らかにしてくれるような、なぜ人生は苦しみや矛盾に満ちているのかを説明し、私たち自身や私たちの世界に見られる葛藤を解決する方法を示してくれるアニュアルが。

特に西側の民主主義世界では、私たちは聖書に答えを求めます。そうですね?


聖書はユダヤ教文化のハンドブックと呼ぶべきものです。

聖書に基づいて、人生の目的と価値を深く把握するために、神の本来の創造目的の背後にある基本原則、悪と苦しみの原因、創造本然の理想への復帰の道に対する、文鮮明師(レバレンド・サン・ミョン・ムーン)の理解を、皆さんと分かち合いたいと思います。


そして今日、私たちは主に、神の本来の創造目的に焦点を当てるつもりです。


(6:44) PPT_3


そしておそらく、私たちが自らに問うことのできる最も重要な質問は、なぜ私は存在するのか、なぜ神は私を創造されたのかということです。


私たち一人一人の能力、個性、長所、短所は確かに唯一無二です。

しかし、神が宇宙を創造された根本的な目的があるはずであり、特に神が私たちを神の子女として創造された目的があるはずです。 

それについて考えてみましょう。


堕落が人類を堕落させる前に、聖書のどれだけの部分がありますか?

驚くべきことに、それは聖書の最初の書である創世記の最初の2章だけなのです。


聖書の残りの部分は、人間が本来の出発点に戻ろうとする物語です。

創世記からヨハネの黙示録まで。

聖書の最後の書であるヨハネの黙示録では、エデンの園が復帰され、命の木が再び確立されました。


このことについて考えたことがありますか?

もしアダムとエバが実際に神の戒めに従い、堕落が起こらなかったら、物事はどう変わっていただろうかと考えたことがありますか?

言い換えれば、堕落する前の神の本来の計画は何だったのかということです。

これは、正しく理解するためにとても重要なことです。

どの親も、子供が失敗して苦しむことを意図的に計画して子供を産むことはありません。


私たちの完全な天の父である神がアダムとエバに罪を犯さないように指示したとき、その意図は何だったのでしょうか?

つまり、神の意図は彼らが罪を犯さないことだったに違いありません。

そのための道筋があるはずです。

神は彼らのために御心を表されたのです 


彼らは創造された目的を果たすためには、何をしなければならないでしょうか?

そして、神は絶対的で不変の存在であられ、その神性においても御旨においても絶対的で不変の存在であられることを、私たちは理解しています。

最初に神が彼らに与えた目的と願いが何であれ、それは今とまったく同じ目的に違いありません。


では、最初の目的は何だったのでしょうか?

でも、どうやって私たちの目的を知ることができるのでしょうか?


(9:00) PPT_4


人間は自分自身を設計したり創造したりしたわけではありません。

実際、私たちは、私たちや宇宙がどのように機能しているのか、ごく一部しか理解していません。


優秀な生物学者でも、生物学の全分野を知っているわけではありません。

そして、生物学の全分野でさえ、科学全体から見ればほんの一部にすぎません。

そして、科学システム全体でさえ、哲学や数学、歴史やその他もろもろの世界全体のほんの一部でしかありません。

ですから、私たちや宇宙がどのように機能しているのか、そのほんの一部しか知らないのです。


もし、人類が、私たちが住んでいる宇宙に、インテリジェント・デザイン(何らかの知性ある者の意図や意志によって、宇宙や生命が誕生した)によって存在するようになったのであれば、私たちは自分の存在目的を決定することはできないということを意味します。

目的は創造主によって決定されるのです。


ハンマーや窓や椅子を思い浮かべてください。

それぞれが特定の目的を果たすために、ある特定の方法で設計されています。

それは人間も、私たちの住む宇宙も同じです。


私たちは自分で目的を決めたわけではありません。

私たちの目的は、私たちが神と呼ぶ創造主によって決定されます。

神にはさまざまな呼び名がありますが、すべての偉大な文化や宗教は、人間には創造主が存在するはずだと認識してきました。


では、今日の私たち人間の現実を見てみましょう。

私たちは誰もが皆、何千年もの間、平和と調和と愛を望んで来ました。


(10:47) PPT_5


自分自身と他者との間の葛藤と同様に、私たちは自分自身の中に矛盾を経験します。


パウロは有名な、ローマ人への手紙7章21節から24節で、こう述べています。


21 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

22 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、

23 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の律法に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の律法の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

24 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか


私たちが愛と善意から行動することを望む一方で、私たちはしばしば利己心と悪意から行動します。

この悪意から行動する時には、喜びと満足を感ずるよりも、罪悪感と恥ずかしさと空虚感を感じます。


人間の本性の中にある善と悪の闘いは、宗教、文学、芸術、音楽、経済などを通して表現されてきました。

今日、私たちが学ぶ原理は、聖書に根ざしており、私たちの本来の性質と目的、私たちの中にある矛盾の起源、そして、神の本来の創造の設計図(青写真)に沿った、私たちの本来の性質と生き方を取り戻すことができるプロセスを説明しています。


私たち人間は、人生の多くの基本的な側面について無知であるという結論に達しました。

私たちは、自分たちが何者なのか、なぜここにいるのかという深い深い疑問に答えたいという願望を持っています。


人間には心と体の両方があるので、真理は心と体の両方の欲求を満たすものでなければなりません。

私たちは、これらが無知の2大領域に対応していることがわかります。


(12:52) PPT_6


内的な無知とは、心の無知であり、私たちが本来の心の枠組みに戻ろうと、宗教や哲学を通じて探求します。

外的な無知は、科学やさまざまな技術によって探求されます。肉体的な要求と欲望を満たし、肉体的な幸福を実現し、人間の肉体的な状態を改善するために、人類は科学を通して、物理的な宇宙が働く法則や原理を通して、外界を理解しようと探し求めてきました。


人間は宗教を通して、人間の心の本質、人生の目的、そして人間関係、創造主の本質、生き方といった内的世界を理解しようと探し求めてきました。


そして私たちは、この2つを統一する必要があります。


体だけが幸せで、心が惨めだとしたら、その人は本当に幸せだと言えるでしょうか?

心と体の両方がひとつになってこそ、その人は本当に幸せなのです。

人間は本来、心と体の両方を持っているのですから、本当の意味での永続的な幸福は、内的・外的両方の問題に対する人間の無知が解決されたときにしか達成できないのです。


もし、神が真に愛と善の神であるならば、彼は子女たちに内的真理と外的真理の両方を経験させたいと願うでしょう。


(14:25) PPT_7


現実には、人間は人間が生きていく上で基本的な内的真理を知らずにきました。

これらは私たちの目に見えない精神や心情に関わるものであり、私たちが持っている物質的なものや、私たちが生きている物理的な状況にまさるものです。


しかしながら、これらの核心的な問題を解決することなしに、人間は真の幸福や満足感を得ることはできません。

これには、冒頭で取り上げた人生の目的、運命と道徳が意味する起源、人生の目的、死後の人生、神の存在、そして善と悪のようなものが含まれます。


これらは人生の基本的な疑問です。そうですね?

そして、宗教家だけでなく、世俗的な人々も、このような主要な問いに答える枠組みや世界観を理解する必要があります。

究極の高次元の存在を持たない無神論者のような人であっても、人生の目的、死後の人生は虚無のようだと答えます。

彼らは明らかに死んだと考える神の存在、そして、彼らは善と悪を形成しようとしますが、結局は失敗に終わります。


ですから、どのような世界観も、これらの主要な問いに答えなければなりません。

何がベストな答えになるのか、それが問題です。


(15:45) PPT_8


私たちは外的な無知も問わなければなりません。

善良な神であれば、貧困や病気や飢餓の環境の中に、ご自身の子女たちを創造されることはないでしょう。

神は、私たちのために創造された物質的世界において、私たちが健康で豊かで創造的であることを望んでおられるでしょう。

しかし人間は、宇宙の起源や性質、病気の原因や治療、環境の持続可能な利用など、外的な真理についても無知でした。


(16:20) PPT_9


歴史的に、宗教は世界中のさまざまな文化圏で誕生し、人間の内的な知識への欲求を満たし、すべての人間の内面にある矛盾を解決しようとしてきました。

同時に、物質的世界に関する科学的知識は何世紀にもわたって増加し、医学や工学、テクノロジーといった分野の向上を通じて、人間の外的存在を改善するのに役立ってきました。


真理は、目に見えない心の疑問を満足させるだけでなく、物質的な肉体の欲望をも満足させるものでなければなりません。

真理を完全に理解することは、私たちの存在全体について人間を啓発するはずです。


聖書を愛し、感謝するようになった私たちにとって、聖書は神と永遠の命、そして人間の人生一般について、多くの深遠な真理を教えてくれます。

聖書は私たちを正しく導いてくれます。


事実、イエスご自身が2000年前に、その時点では完全な真理を明かすことはできず、より多くの真理は後に明かされると語っておられます。

なぜなら、選ばれた人々がイエスを十字架につけようとしていたからです。


(17:36) PPT_10


その聖句をスクリーン上で見ることができますが、神の願いは、神の子女が彼の存在をただ信じるだけでなく、彼がどのようなお方であり、私たちがどのように彼と関わるべきかを深く理解することです。

有名なヤコブの言葉によれば、悪魔でさえも神の存在を信じるが、神と関係を持つことはないと言います。

ですから、神の存在をただ単に信じるだけでなく、神を信頼しなければならないのです。 


そして、ヨハネによる福音書16章では、イエスは二度とも、完全な真理は後に明らかになると語られています。

そして、彼が御父について、より明確に語ることができるようになったとき、真理の新たな表現は、私たちの人生ついての理解と創造主との関係を深めるでしょう。

聖書には信じられないような真理や神の物語がたくさん書かれていますが、イエスご自身は、神はもっと多くのことを明らかにされると言われたことがわかります。


(18:38) PPT_11


ですから、神はどのようにして御言葉を明らかにされるのでしょうか。

神は選ばれた代表者たちを通して、預言と黙示録を私たちに分かち合って語られます。


このシリーズで学ぶ原理は、原理講論の基本的な教えを体系的に示したものです。

そして、その創造者である文鮮明師(レバレンド・サン・ミョン・ムーン)が、数え切れないほどの祈りと断食、そして信じがたいほどの苦しみを通して、9年の歳月をかけて彼に啓示された原理です。


レバレンド・ムーンによって説かれた「原理講論」は、人生の目的、悪と苦しみの起源、そして本来の青写真(設計図)に戻る方法について、明確な道筋を示しています。


(19:23) PPT_12



それでは、本題に入りましょう。

創造原理は、本書の最初の主要部分です。

神が、なぜ人間と、私たちの住む宇宙を創造したのかを概説しています。


どのようにして、その本来の基準に戻らなければならないかを理解するために、私たちが本来の基準を明確に理解することが絶対不可欠です。

原初の理想と目的を理解することによって、その本来の基準に戻る、神と人間にとっての究極の目標が明確に理解できます。神が創造されたとき、神は完璧な計画を持っておられました。


既に完璧であった、その完璧な計画を、なぜ私たちは変えなければならないのでしょうか。

ですから、私たちがすべきことは、元の設計図に戻ることだけです。


(20:06) PPT_13


私たちの目には見えない神の神性を理解することは、どのようにして可能でしょうか?

芸術家の目に見えない性稟は、目に見える芸術作品に反映され、因果関係にあります。


宇宙の原因の性質は、被造物に反映されるはずです。

この原則は、ローマ人への手紙の中で表現されています。


(20:31) PPT_14


聖書は、神の存在と神性の証拠を見るために必要なことは、神が創造されたものを見ることだと教えています。


(20:58) PPT_15


まず、例として、フィンセント・ファン・ゴッホのこの絵を見て見ましょう。

この絵は作者の気持ちと想像力を反映しています。

彼は被造物をどのように見ているのでしょうか。

その多くの要素、星と月、風の動き、それらすべてが彼の筆の動きと一体化しています。

音楽、執筆、芸術作品など、あらゆる種類の芸術は、作者の内的な性稟を反映しています。

歴史家のように、私たちは、彼が事実に非常に注意深いとか、他の芸術家とは何か違うと言うでしょう。

フィンセント・ファン・ゴッホの個性を彼の様々な絵画の中に、私たちは本当に見ることができます。


(21:43) PPT_16

そしてこの写真には、神ご自身の美しい手仕事のイメージを見ることができます。

私たちは、被造物の栄光の夜明けと荘厳な山々や丘陵地帯といった表現を使います。


聖書を読むと、このようなすべてのものの壮麗さと美しさは、創造主の栄光と威厳に由来していることがわかります。 

詩篇91篇は、創造の手仕事に対する感覚を表現しています。

天は神の栄光を宣言し、天は神の御手のわざを告げる。


被造物を綿密に見れば、そこには神の神性が目に見える形で現れているのがわかります。


(22:24) PPT_17


それで、私たちは被造物の中に何を見つけるでしょうか?

もし、私たちが同じ芸術家の複数の絵画や彫刻作品を研究するなら、その芸術家にも共通する要素があるのを発見することが期待できるでしょう。

被造物を注意深く観察すれば、被造物のあらゆるレベルに存在する基本的なパターンを見つけることができます。


これらの共通の性質のペアは、私たちが「二性性相」と呼ぶものです。

第一の(根本的な)「二性性相」は「性相」と「形状」です。それは、その存在のタイプを定義し、絶対不可欠なものです。


例えば、人間には心という性相があり、体という形状があります。

それは動物の心と体、さらには植物の心と体も同じです。


私たちは面白い科学体験をしました。

2ヶ月かその位の間、片方のおにぎりには怒鳴りつけたり、罵ったり、お前はバカだ、ブスだと言ったり、そんなことをしたら、そのおにぎりのほうが他のおにぎりより早く腐ったんです。科学実験をしたんです。

ですから、植物があるレベルで何らかの心を持っていることがわかります。

分子や原子や素粒子といった目に見えないものでさえも、内的な性質「性相」と外的な形「形状」の両方があることがわかります。


(24:03) PPT_18


第二のタイプの二性性相とは、男性あるいは「陽性」と、女性あるいは「陰性」です。


これらの二性性相「陽性と陰性」は、最も本質的な二性性相「性相と形状」の属性です。

言い換えれば、どのような種類の存在も、まず、第一の根本的二性性相によって識別されます。

人間を例に挙げると、人間は人間の心と人間の体の両方を持つと、基本的に定義されます。

二番目に、この人は男か女かのどちらかです。現在の文化が私たちに何を伝えているかにかかわらず。

そして同様に、動物には雄と雌があり、植物には雄しべと雌しべがあります。


そして、目に見えないほど小さな物理的存在の世界でさえも、エネルギーも物質も、プラスとマイナスの両方の要素で構成されています。


(25:05) PPT_19


そして、この神の本性相は、聖書の御言葉と文師の教えの一部です。

神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得る。

そして、

神は知性、感情、意志を持つ人格的な神であると同時に、愛の主体でもあります。私たちはこのことをはっきりと知っています。私たちは、愛の神が天の心情の中心であり、天の心情の中心が揺れ動くことがないことを知っています。


(25:36) PPT_20


神の本形状について話すと、

地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、

そして、

神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。


そして、これは、神が私たちと同じように、肉体を持っているということではありません。

ヨハネによる福音書4章24節によれば、「神は霊である」。

これは神は遍在するということです。

ですから、私たちと同じように肉体を持っているわけではありません。そういうことを言っているのではなく、


(26:35) PPT_21


アダムとエバは、神の二性性相の最も直接的かつ完全な現われとして創造されました。

アダムとエバは神に似せて創造されました。


有名な、創世記1:27にあるように、

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。


彼らは、神の重要な根本的神性である、性相と形状があり、

そして同じように、属性として、創世記2:18にあるように、第二の神性である、陽性と陰性を具現化されました。

主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。」


つまり、男と女の両方がひとつになれば、それは非常に良いことだと神は言われるのです。

しかし、ここで明確にする必要があるのは、神が二人存在すると言っているのではないということです。

これは、初めて二性性相について耳にするときに、多くの人が犯す誤りです。


これは、断じて、天の父と天の母が存在すると言っているのではありません。

それについては何度でも説明したいですが、ここではこれくらいにしておきます。

聖書は大変明確であり、唯一の神が存在すると書かれています。

ユダヤ人が何千年も何千年も祈ってきた毎日の祈りである、Shema(シーマ/シェマ)には、申命記6章4節が引用されています。

イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。


イエスは、最も偉大な命令は何かと問われたとき、この聖句を引用されました。

むしろ、この神学は、神はお一人ですが、神には男性的な性質と女性的な性質の両方があります。

それについては、後でもっと詳しく説明することにしましょう。


(28:25) PPT_22


神と人間との根本的な関係とは何でしょうか?

それは裁判官なのか、医者なのか、教師なのか、王なのか、救世主なのか、その他なのでしょうか。

私たちは、その人や物が何であると信じるかに基づいて、誰かや何かと関係を持つことになります。

 

神は私たちにさまざまな方法で御自身を現されるかもしれませんが、神との最も重要な、あるいは本質的な関係は何であるかを理解することが重要です。


(28:54) PPT_23


神の本質とは何でしょうか。それは愛にほかなりません。 


ヨハネの第一の手紙4:7-8 に述べられているように。

愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は神を知らない。神は愛である。


(29:17) PPT_24


しかし、どんなに偉大な神であっても、自分ひとりで愛を体験することはできません。神は常に愛を受け取ったり、応えてくれる対象が必要なのです。

そして、神の心は、愛を与えたり受け取ったりすることによって、喜びを経験することを切望しているのです。

神にとって最大の喜びを味わうためには、神の愛の対象が、神と同じような愛の質を持たなければなりません。


創造物とか、山や木や動物を通して、人間は人間のレベルにおいて、ある程度の愛を感じることができますが、私たちの愛の本質を完全に反映するためには、別の人間が必要なのです。


それは神も同じで、神は愛するためにご自身のような存在、つまり、子女を創造する必要がありました。

人間は、創造主であり父である神と同じ性質を受け継いでいるのです。


私たちには欲望があります。愛し、愛されたいという欲望があり、創造し、分かち合いたいという衝動があります。

私たちは、他の人たちの中に、特に、私たち自身が創造した自分の子どもたちの中に、私たち自身が反映されているのを見て、喜びを味わうことができます。そうですね?

そしてそれは、神が、ご自身が創造されたご自身の子女である私たちに、望んでおられたことでした。


(30:43) PPT_25


レバレンド・ムーンは、説明されます。

神は愛ゆえに人間を創造されました。なぜ私たちは創造されたのでしょうか?私たちは愛ゆえに創造されました。私たちが他の被造物と異なるのは、私たちは神の息子と娘として創造されたからです。言い換えれば、私たちは、神の直接的な愛を受けることのできる神の対象的パートナーとして創造されたのです。これが人間の特権なのです。


これは、神の似姿で造られた息子と娘のために、愛によって創造された実体世界全体において、人間が享受する特権です。

残りの被造物は、神の子女たちを通して間接的に神の愛を受けるように設計されている一方で、人間は神の愛を直接受け、目に見える実体的世界と目に見えない霊界の両方を含む被造物全体を支配するために特別に創造されました。


後程お話ししますが、本来、神は 、彼の息子たちと娘たちに、天使さえも、霊界全体を支配する権威を与えました。

ですから、私たちは実体的な世界だけでなく、目に見えない霊の世界も支配することになっています。


(31:53) PPT_26


前のスライドで見たように、神の中には男性と女性の両方の要素が存在します。これらの二性性相は、主体と対象の関係の中に存在しています。主体が中心であり、第一のイニシエータであり、対象が主体に応答する立場にあります。


被造物との関係において、神は性相的男性格主体であり、被造物は形状的女性格対象です。

神が男性と女性の両方として存在するにもかかわらず、私たちの天の父と呼ばれるのは、このためです。

マタイによる福音書6:9マタイによる福音書6:26で、神が天の父と呼ばれるのは、神が完全な主体の位置だからです。

そして、原理講論には、性相的男性格主体であるパートナーとしての神の立場を認識して、私たちは彼を私たちの父と呼ぶと述べられています。


(32:54) PPT_27


しかし、関係の本質と、それが神の創造の本来の御計画にどのように適合しているかを詳しく見てみましょう。

万物は心を中心とした関係の中に存在し、神を愛するように創造されています。


すべての関係は、私たちが主体と呼ぶものによって始められ、主体に反応する、あるいは主体を中心に回転する存在は対象と呼ばれます。

どのような関係が構築されるかに応じて、特定の存在が主体的な立場になることもあれば、対象的な立場になることもあります。


例えば、心が対象である体に対して主体的である一方で、心は究極の主体であられる神に対して対象的な立場になるように考案されています。

このことについては、後ほど、グラフなどを使ってさらに深く掘り下げてみることにしましょう。


(33:52) PPT_28


主体と対象の関係を見ることのできる、もうひとつの方法は、動的モデルの視点から見ることです。

主体は関係の中心に位置し、対象は主体の位置と方向を中心に回転します。


喩えて言うなら、体は心を中心に回転しており、心の方向性と価値観に従って行動しているのです。

自然界ではしばしば、この動的関係が大宇宙だけでなく小宇宙でも展開されているのを目にします。


(34:23) PPT_29


神はすべての存在を主体と対象の関係で存在するように創造されました。

主体と対象がひとつになるとき、新しい存在になります。

それは、個々であるよりもより偉大です。

主体と対象がひとつになるとき、その結合から何かが創造されます。


例えば、月は地球の周りを回っています。両者が一体となることで、地球と月という個々の部分よりも偉大なものが形成されます。

そして、地球は太陽の周りを回り、太陽系の形成に貢献します。


神は、究極の主体であり、宇宙のすべての存在が彼の周りを回るように創造された中心です。


(35:10) PPT_30


小宇宙レベルの小さな原子でさえ、神の原理と神性がはっきりと示されています。そこには中心があり、その中心はプラスの電荷を持ち、主体の位置にあります。


対象の位置にあるマイナスの電荷を持つ電子は、プラスの電荷を持つ原子核の周りを回ります。

それらが完全に調和した関係を築いたとき、独自の性質を持つ原子が生まれます。

それは、原子核と電子だけのときよりも、より偉大なものです。


新しく創造された原子の存在には、プラスとマイナスの両方の要素が不可欠ですが、秩序ある主体・対象の関係がなければ、原子は存在することはできません。宇宙は常に混沌としているでしょう。


(36:08) PPT_31


他の例を挙げるならば、美しいアイススケートダンスを披露するためには、スケーターは音楽と体とが完璧に調和していなければなりません。ジャンプとスピンは、完璧な調和の中で行わなければなりません。男性スケーターがリードし、女性スケーターは彼女自身の独自のジャンプとスピンを披露するのをサポートします。多くの場合、彼女の男性パートナーの力を利用して、彼女がぐるぐると宙に舞うこともよくあります。


主体と対象の関係の究極の目的は、美を創造し、他者に喜びをもたらすことです。

主体と対象が天の目的と真の愛を中心として一つになるとき、それは神の住まいとなると結論づけられるでしょう。


(36:56) PPT_32


しかし、喜びはどのようにして生み出されるのでしょうか。

喜びを生み出すのは、愛と美のギブ・アンド・テイク(授受作用)なのです。


創世記の第1章では、神がどのように宇宙の創造を計画され、それを実行に移され、人間が創造されるかまでの物語が書かれています。


第1章の最後の節では、

(1:31) 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。


そして、人類が誕生する前の5日間は、ただ、「良しとされた」でした。

しかし、神がご自身の子女たちを創造されたとき、初めて「はなはだ良かった」とおっしゃいました。


神が「はなはだ良かった」と言われたのは初めてです。

その時までは創造されるたびに良かったけれど、神が「はなはだ良かった」とおっしゃったのは、ご自身の子女たちを創造した時だけです。


神は彼の仕事にすべての愛を注ぎ込んだ後、ご自身の愛と美のすべての美しい原動力と表現で造られた美しい被造物を見て、神ご自身が喜びを経験されたのです。


(38:03) PPT_33


そして、愛と美と喜びをもたらすギブ・アンド・テイク(授受作用)の関係を通じて喜びを経験したいという、すべての人間の願望について論じてきました。

人間として、私たちは確かに、岩や海や動植物から、自然界のあらゆるものを愛することによって、喜びを体験することができます。


しかし、最大の愛と喜びはどのように表現されるのでしょうか。

事実は、私たち自身の性質に最もよく似たもう一人の人である、我が子を愛するという経験を通じてのみ、人生の最も奥深い喜びを体験できるのです。

この関係において、親は主体的な立場にあり、愛の率先者です。

子どもは親の愛に応える対象的な立場です。

親の愛によって子どもは成長し、成熟し、やがて大人となり、彼ら自身が親となります。

そして、親が自分の子どもが無条件の愛に満ちた親に成長するのを見るとき、親の喜びは完全に満たされます。


(39:11) PPT_34


箴言23:24に、「正しい人の父は大いによろこび、知恵ある子を生む者は子のために楽しむ。」とあります。

他の聖句はこちらで読むことができます。


同じように、私たちが従順であり、神の愛に満ちた神性を反映するようになるとき、神は喜びを経験されるのです。


(39:39) PPT_35


私たちは、この原理がはっきりと働いているのを、これらの写真で見ることができます。

親が子どもに愛と励ましを与え、赤ちゃんが親の愛に自分なりの喜びと幸せをもって応えています。

親の無条件の愛を受ける経験を通して、子どもたちは他者を愛する能力を高めていくのです。


さて、聖書の物語に戻りましょう。


(39:58) PPT_36


これがすべてが始まった時点であり、堕落が起こる前の章に特に焦点を当てることにします。

なぜなら、それは、神の御計画が顕現していた時だからです。そうですね?

堕落の前というのは、堕落は神の願いではなかったのです。


創世記には、宇宙とそこにあるすべてのものの創造に始まる、天地創造の物語が書かれています。

五日間のそれぞれの後、神はそれをご覧になって、「良しとされた」。

神は心情とエネルギーと神性のすべてを注ぎ込んで、美しくダイナミックな自然界を創造されました。


しかしながら、自然界には、神の神性に完全に似たものはありませんでした。

前にも述べたように、私たちが人生の最も深い喜びを経験するのは、自分自身の本性に最も近い他の人との間である時だけであり、神も同じ原理なのです。


ですから、神は、ご自身の子女たちを創造されたとき、それは、「はなはだ良かった」とおっしゃったのです。

彼は、創造において神ご自身の神性をご覧になり、経験されましたが、ご自身のかたちに似せてご自身の子女として創造されたアダムとエバに、その神性を最も完全に見たのです。

このように、善とは、神ご自身の神性を反映し、神の創造の目的を果たす、神の子女たちが行うことであると定義されます。


言い換えれば、男性と女性は、三大祝福を満たすということです。

創世記1:27~28で、神はご自身の子女たちが行動すべき計画を示しておられます。

そして、私たちはその聖句を既に読みましたが、


(1:28) 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。


そして神は言われた。

(1:31) 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。


ですから、この三大祝福は、神が創造されようと願われた、堕落の前に神が思い描かれた楽園の青写真となります。


(42:12) PPT_37


第一祝福は、成熟した完全な人格を創造し、成長し、個人として神に似た、理想的な、あるいは真の人になるための、個人としての私たちの使命と能力を表現しています。

生めよ」とは、実を結ぶということであり、実を結ぶことができるのは、私たちが基本的な本能を超える時にのみできるのです。


その結果、より成熟した人格となり、より完全な、あるいは心身一体の人となります。

聖書的には、この理想が聖句に表れています。

イエスがマタイによる福音書5章48節で、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」と、おっしゃっています。

完全」という言葉は、完成するという意味です。


ですから、天の父が完成されたように、あなたも完成しなければなりません。 

イエスは、私たちが天の父のようになるように創造されることを教え、愛において天の父のように完全である、あるいは完成するように、私たちを励ましておられます。


ヨハネの福音書14章10節で、イエスはこう言われました。

わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。


天の父の子女として、私たちは心身ともに神と一体となるように考案されているのです。


私たちの潜在能力を最大限に発揮しようとするこの先天的傾向は、私たちの行動すべてにおいて、自己啓発と向上を求める根本的な願望に見ることができます。 心身統一とは、私たちの言動、特に道徳的誠実さの間に調和をもたらすことを意味します。


心は神の本性相を反映し、体は神の本形状を反映します。

そして、私たちがこの図で呼んでいる「四位基台」は、次のようなものです。

これが第一祝福であり、その完成は、心が神の御旨と完全に一致するときです。

そして体は、この天の調整に従って行動しなければなりません。


(44:31) PPT_38


心と体の両方が神の御旨と完全に一致するとき、新しい何かが生まれます。

そのときこそ、真の人間が創造されるときなのです。


そして、心は、神にとっての真の対象とならなければなりません。原理講論の専門用語で言うところの、神の心情と御旨に応えるのです。

そして心は、対象的な立場にある体との関係において、主体的な立場を維持しなければなりません。


この動的モデルでは、心がどのように中心的な位置にあり、体は比喩的に心の命令を中心に回転していることがわかります。

両者が完全な一体となったとき、両者はもはや2つの異なるものとしてではなく、調和した1つの個体となります。

ここには、私たちがもともと使った2つの図があります。


(45:18) PPT_37(再度)


しかし、根本的な主体的立場と対象的立場が確立されていません。

すべてがただ平等のように見えます。

そのものの本質的な価値という意味では等しいですが、役割は異なっています。


(45:47) PPT_38(再度)


ですから、第一祝福だけでなく、第二祝福でも、特に第二の祝福では、男性と女性は平等であり、その価値は本質的に平等です。

しかし、彼らの付帯的な機能と関係性の形成の仕方については、異なっています。

男性と女性は違いますし、それぞれ役割があります。


第一祝福に戻ると、原理講論は、比喩的に言えば、体は心を中心に回転し、心と完全に一体化すると述べています。

創造目的を実現した人々は、神を中心とした球体の関係の中でいつもいつも人生を送る、三次元の存在として存在します。

人が個人の完成の状態にあるとき、その人は自分の心の実体的対象パートナーとして生きます。

なぜなら、彼の心の中心は神であるので、彼もまた神の実体的対象パートナーとして生きるのです。


そしてこの第一祝福というのは、キリスト教神学における「完全な聖化」、あるいは東洋における「テオーシス(神成/神化)」と、本当によく似ています。

ですから、これは膨大な先例があります。この図はそれを表しているだけです。


キリスト教神学では、神の御心のもとで心と体がひとつになれば、神の目的が成されるという、非常に重要な先行事例があります。

そうすれば、真の人、あるいは神の神性を真に反映することのできる人が形成されるのです。

ですから、これはキリスト教神学において信じられないほど先例があります。


(47:40) PPT_39


イエスが、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われたのも、彼自身のことだけを言っているのではありません。

彼は私たち全員のことを言っているのです。

なぜかというと、私たちは神の似姿として創造されたからです。

そして、それゆえに、私たちは神のようになるべきなのです。それが私たちの潜在的な能力であり、真の目的なのです 

ヨハネ14:9で、「わたしを見た者は、父を見たのである」とおっしゃっているように。

神はイエスの内に完全に宿ることができたのですから、イエスを見つめ、その行動を見ることによって、私たちは天の父を見ていたのです。


しかし、それはイエスが私たちと同じ存在論的レベルにあるということを意味するものではありません。

彼は第二のアダムであり、中心点であり、神の子です。

そして、私たちは神の子となることを意図されていますが、それは小文字のs(son=息子)で、神の唯一の息子(独り子)、真の神の息子、第二のアダム、第三のアダム、あるいは第一のアダム、彼らは、私たちが接ぎ木される木全体の第一の創始者です。(大文字のSで Son=息子)


ですから、私たちは、小文字のsの son=息子になることができます。

そうです。それがとても重要です。

そのような神との一体感の中で、私たちは神の心情を即座に感じます。

私たちの本来の心は、天の父である神に苦痛をもたらすような考えを抱いたり、行動を起こしたりすることは決して望んでいません。


神の御言葉に対する理解に基づいて、私たちの行動は、神から生まれた宇宙の本来の道徳律を反映する良心によって常に導かれるはずです。

そのような可能性を実現するには、偽りや非原理的なことに抵抗することが必要であり、神の愛の基準に従って、自己自制と心身鍛錬が求められます。


(49:32) PPT_40


また、イエスは彼らに、第一の戒めを果たすために最も神を愛し、真理と善と真の愛を尊ぶよう勧められました。

マタイによる福音書22章37節で、イエスは私たちに、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」と教えておられます。

これは、神を愛し、神に真に仕えることを基本として生活することによって、神に似た人格を完成させなさいという第一祝福の本質的な意味です。


個人として、これが私たちの人生の最初の目標であり、目的です。

すべての人間は、このことを知ることができるはずです。


そして、第二祝福に進む前に、そろそろ時間がなくなってきました。

第二祝福は次回に始めましょう。

何か質問があれば聞きたいんですが。コメントとか、洞察とか何でもいいです。

(質疑応答は省略します。)

最後に、グレック氏が祈祷し、終わりました。

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