Saturday, June 29, 2024

イエス復活論の秘密◆2024年6月26日テネシー清平水曜礼拝 <1> 文亨進二代王

 

イエス復活論の秘密

2024年6月26日テネシー清平水曜礼拝

<1>

文亨進二代王

監修fanclub三原

テネシー韓国語礼拝20240626 성전교회 수요예배


3:57翻訳 minion 

ビクタームーンのyoutube


王妃が、銃弾頭の王冠が古くなって切れて子供たちが直しているのだが、今は金訓師様の銃弾頭の王冠を使っています。他のものは長くなりますね。どのくらいになりましたか?3-5年になりましたか?すでに。おそらく4年にはなったでしょう。ワイヤーが切れて。完全にもう一度しなければならないそうです。


ビクター・ムーンが綺麗に作っているので、ビクター・ムーンが今直しています。ビクター・ムーンはどこにいる?そこにいるね。最近、銃器のビデオが何万名かが見たそうだ。


YouTubeでBボーイ、あるショーツ、1つは1万名以上だそうだ。そうですね?一度見てみてみよう。ハートビデオ。1万名以上見た。人々はこれが好きみたいですね。一度見てみましょう。ハハハ。



これは良いアイディアですね。人々はこれがずいぶん好きですね。

これは釣りです。人々が好きなものを見て、次に似たものをずっと作らなければなりません。そのようなアイデアで。

それはできるだろう。ビクター・ムーンはARー15をグリップする時もCグリップにするではないですか。それもできるだろう。



他のビデオを見てみよう。他のBボーイのビデオ。Bボーイと銃器文化を市民たちに紹介するのだが、これは8600名が見たね。このようなことを通して、最近はYouTubeとInstagramで競争しようと、YouTubeのショーツが有名です。短く、1分以内にあるいは数秒の間にビデオをします。


だからこのような色の違う、Bボーイと銃器所有を含むこのような。市民たちはずいぶん好きみたいですね。このような内容を通して伝道の釣りをするのです。ハハハ。

これはずいぶんいやらしい。


とにかく、これは人々が好きですね、そうですね。お前のビデオの中で最も多いだろ。そうだろ。


Bボーイをする子供たちはたくさんいるが、銃器所有のBボーイは多くはないだろう。だから銃器所有をエンターテインメント式に紹介すること。とにかく人々はこれが好きですね。こういうものは全て文化、文化的に釣りをするのです、サタン世界を。


三代王権文化を通してクリスチャン釣り

今回、キングブレッドヘッドのトランプのビデオがあるではないですか。今回出てきたものが。それはクリスチャンラップインスタグラムチャンネルがそれを選んで自分のメインページにあげました、昨日。

これはクリスチャン音楽と愛国者音楽チャンネルなのですが、私たちをずっと見ています。私たちをずっと見て見て、しかし、私たちはムーニーなので、その人たちはこれをメインページにあげてはいけないと継続してしました。継続して私たちをストーリーにしてあげたりはていました。



絶対に自分たちのメインページにはあげませんでした。

しかし今回、Too Big To Rigの歌がとても良くて、どうすることもできません。その人たちは、私たちを継続してあげなければ確実に自分たちが、私たちはムーニーなのであげないということが出てくるではないですか。


だから今回、自分たちのメインページにあげたではないですか。ここに。キングブレッドヘッド「Too Big To Rig」としながら、初めてしました。初めて。自分たちのクリスチャン音楽ページの前面に初めてあげました。アボジカムサハムニダ。ハレルヤ。


とにかく、これも文化です、文化。これも、文化を通して釣りをするのです。

クリスチャンたちも、・・・私たちのチャンネルに行きなさい。

Boldly Patriotic Ep: 001 - Kimchi. Coffee. Cult Leader?


アッパのチャンネルに行ったら、ネイビーシールズ特殊部隊の参戦勇士と新しいポッドキャストを始めたのですが、コーヒーショップの社長がいるではないですか。その人と今回インタビューしたのですが、この人も自分のポストに様々な内容、キングブレッドヘッドの説教の内容を使っています。自分のポストに。


そして他の人、キャリーフロムというテキサスの方。その方もキングブレッドヘッドの音楽を自分のポストに使っています。自分の銃器のポストに。

だからこのようなことは文化です、文化。


だからこのようなことは文化です。文化的に絶対にこの人たちは私たちの説教の内容はあげません。絶対にあげません。

説教はあげませんが、音楽の内容を持って、・・・このビデオにもその人たちは私たちの音楽を使いました。


だから少しずつ少しずつ愛国者たち、銃器所有者たちが、そしてクリスチャンチャンネルも私たちを認めるしかない状況になっています。だからこれは全てお父様の役事。役事。


赤ちゃん水泳教室


こんなに赤ちゃんが多いね。赤ちゃんたちの水泳クラス、水泳を早く学ばなければならない。お前たちのファミリー車に、アッパが見せたではないか。5種類の運動をするもの。覚えているか?探してみなさい。ファミリー車に送りました。若いお母さんたちに送ってみなさい。


お前たちは浴槽で、水泳のクラスがない時は浴槽で5種類の赤ちゃんたちの水泳技術を教えることができる。浴槽の中で。

どういうことか分るね?この子たちは早く水泳を覚えなければならない。子供は30cmの水で溺れて死ぬ。


水泳の訓練、浴槽ですることができる水泳の訓練。5種類の運動がある。

赤ちゃんをひっくり返して顔にスプレーして、そのようなことに慣れて、このような内容が5種類あるのですが、プールがなくても、(画面をご覧になって)

OK,このようなこと。見てみなさい。このような5種類の運動があります。そうです、OK。


このようにしながら赤ちゃんたちは水に慣れるのだ。お母さんたち分かったか?信萬、さおりとともはに送りなさい。仁淑。アム。お前たちも早く赤ちゃんたちを水泳させなければならない。


赤ちゃんたちは、ここは水が多いので赤ちゃんたちは水に簡単に落ちることがある。だから早く早く学ばなければならない。このようなことは子供たちにとても重要な訓練だ。水泳ができること。


日本では皆学ぶだろ?水泳を。皆学ぶ?

米国では学びますね。韓国では学ばない。そうですね?韓国では学びません。韓国ではどうしてそれを教えない?それはものすごく重要な教育なのに。

話すにならない内容ですね、実際。


とにかく子供たちもアクティビティをたくさんしているので、水泳の運動を5種類。浴槽ですることができるもの。浴槽は皆あるではないか。浴槽ですることができる5種類の運動。


赤ちゃんとボンディング、赤ちゃんと授受作用にもなり、さらに良い訓練だ。訓練になって赤ちゃんたちが水に慣れることができる訓練。分かったか?そのような訓練をしなさい。分かったか?お母さんたち。


赤ちゃんたちに最も良い生命保護の技術だ。「したらダメ、したらダメ」このようにしてはいけない。最も良い生命保険は訓練。訓練と技術をたくさん学ぶこと。


女性たちは重量挙げ、木で作ったウエイトトレーニングはどこにあるのか?家にある?ここに持ってこなくては。子供たちが訓練できるように。


OK。今日は何ですか?今日はマタイの福音書22章ですね。


とにかく文化的に戦って、文化的に釣りをして、そのような内容を通して愛国者の友達、銃器所有の友達、お父様が準備された方たちが一歩近くに来ることができるのです。そしてそれは実体になっているではないですか。


皆さん達は今や内容を、武道であれBボーイであれ、音楽の内容であれ、少しずつ人々がシェアをしてポストにあげてクリスチャンのチャンネルにもあげているではないですか。だからこのような内容を通して多くのクリスチャンたちが、アベル圏のクリスチャンたちが連結されるようになります。


キリスト教の根っこ、イエスの復活


だから本当にキリスト教の基盤のキリスト教の根っこ、キリスト教の最も大きな宗教の根っこが何かといえば、復活です。復活。自分たちが言うことは、復活が違うならキリスト教自体が違う。そのように言います。

キリスト教の復活、復活の役事、キリスト教徒が信じることは実体の復活。肉体の復活。イエス様の肉体の復活。こうですね。


だから肉体の復活が、肉体の復活がそんなに簡単ならキリスト教は完全に防いで、肉体の復活が少し複雑なら、キリスト教の神学とキリスト教の教会は、特に牧会、キリスト教の牧会が崩れるようになります。


だから復活の役事はそれほど狂ったように強調します。キリスト教の無神論、有神論の戦いでも、様々な論争と様々な科学を通して、無神論者を有神論者として導くことはできますが、有神論者からキリスト教徒として導くことは、それは次の段階です。


その段階において復活の証拠、復活の論争が出てきます。その復活の論争はいろいろあります。イエス様は女性に出てくる。女性たちは古代時代信じることができない存在だ。法的に女性の証しは半分は男性。法的に。古代時代。女性の証言は男性が半分しています。ヘブライ時代、アラブ時代。


だからイエス様は女性に現れる、それは実際恥ずかしいことなのに、それがもし敷かれたら、初期のキリスト教徒たちは良かったのに、現実を話した。自分たちの恵沢でなくてもイエス様は女性たちに現れる。それも一つの論争です。


他の論争は復活の役事を通して多くの人がもしこれが嘘だったら、もし部屋から死体を移したら、嘘であったら、誰が嘘だと知って死ぬのか。誰が嘘だと分かって殉教するのか。


自分がそれを信じてこそ殉教するのであって、自分が信じないことのために誰が殉教するのか。こういうことです。キリスト教徒たちは。


とにかくこのような様々な論争があります。

しかし実際、人々は、ウィリアム・レイン・クレイグキリスト教弁証論の専門家たちはこのような論争をしました。だからこの論争の目的は何ですか?有神論者たちを、キリスト教を信じるようになる目的。


しかしもし、復活の役事と実体的な役事が起こったら、数千名も伝道できて、数千名の殉教者になり、このような内容を通して嘘のためにこのように多くが死ななかっただろう。このように論争をします。


「だから私たちは歴史的に確率が高い。イエス様が実態的に復活したことは。だからキリスト教を信じなさい」。

このように言います。

キリスト教を信じて、「主の復活の役事がもし実体なら、これは人類歴史において初めてです。死んだ人が死ぬ前に再び復活するだろうと予言して、死んだ後に3日後に実体的に復活したこと。これは歴史上初めて起ったことで、全ての自然の法則を反対にするので、これは明らかに神様がなされたことだ」。

このように言います。そうですか?そうではないですか?


だからキリスト教の全体の神学、信仰、復活の役事に連結されています。復活の役事に。


しかし、復活の役事、自分たちが話している内容を私たちも統一教会の立場で復活を否定していませんね。イスラム教の場合は復活を否定します。私たちは否定しません。私たちはイエス様の復活を信じます。これは霊的復活だと信じています。


霊的存在を触る


ルカの福音書ですか?とにかく、トマスが来た時イエス様を触って、マタイの福音書でも女性たちがイエス様の足をつかむではないですか。


だから、そのような部分において、イエス様を実体的に触っているではないですか。もちろんルカの福音書でトマスが指を入れようとした時、入れたとは言いません。確認しなさいと、その場面が出てくるではないですか。しかしマタイの福音書では実体的にイエス様の足を掴むではないですか。女性たちが。


しかし私たちの立場で霊的復活であっても、霊的存在を触ることができるではないですか。旧約聖書を見たら多くの多くの場合に天使たちを人たちが触ります。そうですね?


ソドムでもロト、ロトがいた時、悪い天使たちが来て、男性が美しいので男性とセックスしたかったではないですか。創世記6章で天使たちが降りてきて女性たちとセックスするではないですか。


だから私たちは分かります。聖書の立場で天使の世界、・・・天使は神様ではないではないです。神様よりも低いではないですか。それでも霊的存在を触ることができるということです。


聖書ではセックスをすることができるではないですか。霊的存在と。次に種を受けることができるではないですか。それは創世記6章に最も大きく出てきます。それは巨人たちだと。巨人たちは、天使たちと女性たちが混ざって巨人たちが出てきたと出てくるではないですか。


変貌山の栄光のイエス


とにかくそのようなことがあり、次に福音を見たら、マタイ、マルコ、ルカの福音書、ヨハネの福音書、そうですね?この4つの福音書を見たら、イエス様が現れた時常に全て違います。全て違う。ヨハネの福音書でマグダラのマリア、娼婦にだけ現れて。マグダラのマリア。


ルカの福音書では5名の女性たち以上、4名ともっと多くの女性たち。4名以上の女性たちに現れて。マタイの福音書では2名の女性たちに現れて。全て違います。全て違う。


それだけでなく、イエス様も現れた時、人々は復活された時光が出て、まさに驚く復活の、復活体と言うではないですか、復活体。特にコリント人への第一の手紙55章で復活体だと書いてあるではないですか。あるいは栄光の体。


クリスチャンたちが信じることは、一般のクリスチャンたちも死んでも自分の体は栄光の体としてイエス様が復活されたように自分たちも復活すると信じているではないですか。未来において、終末において。

そうですか?そうではないですか?だからこれは復活体、あるいは栄光の体だと言います。


しかし栄光の体は完全に違いますね。私たちは本来、Transfiguration は何ですか?変貌山(韓国語漢字:変化聖山)、変貌山(ルカ9:28-36)は、イエス様の顔は太陽の光のようになるではないですか。狂ったように光が出る。そうですね。


(参考:ルカ29-31)

 9:29祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。 9:30すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、 9:31栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。


だから本来、キリスト教徒たちは復活の役事を話すとき、栄光の体が上がってきて復活の役事が・・・。このようなニュアンスを取り入れるではないですか。


復活のイエスは光っていない


しかし、マルコの福音書、マタイの福音書、ルカの福音書を見たら、イエス様は光っていません。


マルコの福音書ですか?イエス様は庭園の掃除をしています。女性が現れたのですが、その庭園の整理をしているおじさんは誰?イエス様です。


(参考:ヨハネ20:15)

20:15イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。


他のエピソードについてヨハネの福音書ですか?エルサレムに歩いているのですがイエス様と一緒に歩いているのですが、分かりません。イエス様は光っていません。普通の人のように見えます。


(参考:ルカ)

24:13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 24:14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 24:15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 24:16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。


だからその人も「え!?」というのです。もし復活体が光っていたら数千kmの距離でも見えるでしょう。

しかしすぐ隣を歩いています。すぐ隣で庭園を整理しています。しかし「え!?」こうなのです。これは不思議でしょ?


ヨハネの福音書だけ金曜に香料


そして4つの福音書見たら、ヨハネの福音書でマグダラのマリアに現れて、次にヨハネの福音書でもイエス様は香料、これは重要です。

ヨハネの福音書でだけ、イエス様が十字架から降ろしたのは金曜日ですね。イエス様は金曜日に亡くなったではないですか。そうですか?そうではないですか?


金曜日の午後に亡くなりました。3時頃。金曜日の午後、何時?何時に死にましたか?何曜日?金曜日。午前?午後?午後。OK。これは全て分かりますね。金曜日の午後に死にました。十字架にかけられて。


次にヨハネの福音書でだけ、ヨハネの福音書でだけ、ニコデモとアリマタヤのヨセフが来てお願いします。死体をくださいと。


(参考:ヨハネ19:38-42)

19:38そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。19:39また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。19:40彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。19:41イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。19:42その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。


次にどのようにしますか?アリマタヤのヨセフとニコデモは、どのようにしますか?没薬と沈香で包みます。そうですか?そうではないですか?


どうしてユダヤの伝統で、香料で包みますか?体を。亜麻布で包んで次に入れます。そうですね?どうしてそのようにしますか?死体になったらどうなりますか?腐った匂い。そうです。腐った匂い。


次に、どうして腐った匂いを遮ろうとしますか?どんな行事のためにそれをしますか?どうして香料をつけますか?

行事のために。どんな行事?クリスチャンの立場で聖和式のためですね。聖和式。だから自分たちは葬儀と言いますね?そうですね?


だから自分たちの葬儀のために、市民たちが挨拶をしに来た時、最後の挨拶に来た時、死体が狂ったように匂いが出ないように、そのために香料を入れるのです。そうですか?そうではないですか?OK


だから葬儀の儀式のために香料をするのです。OK。

これは問題です、問題。ヨハネの福音書でだけイエス様が十字架から降りるやいなや香料を入れます。

マルコの福音書、ルカの福音書、マタイの福音書にはありません。

マルコの福音書、マタイの福音書、ルカの福音書ではどのようになっていますか?イエス様に香料をつけません。


日曜日、だから金曜日のいつ死にましたか?金曜日の午後3時頃。

次に、安息日、金曜日の夜5時6時に日が沈む時、始まるではないですか。次に翌日まで。土曜日の全体まで。それが安息日です。


だから安息日にユダヤ人は仕事ができません。だからイエス様を葬ることができません。アリマタヤのヨセフはユダヤ人ですか?違いますか?ニコデモはユダヤ人ですか?違いますか?OK。

体を埋めることができません。土曜日なので。そうです、安息日なので。


だから早く急いで、いつ埋めましたか?金曜日。早く急いで香料、包んで早く早く金曜日に早く葬儀のために埋めるのです。そうですね?


ルカ、マタイ、マルコでは日曜に香料


しかし、ルカの福音書、マタイの福音書、マルコの福音書を見たらどうなっていますか?それはありません。イエス様はすでに葬られています。

次に日曜日に復活して女性にあったのですが、女性たちは何を持って行っていましたか?香料。


あ、しかし待ってください。

ヨハネの福音書で香料をしたのですが?金曜日にしたではないですか、香料を。そうですか?そうではないですか?すでにしました。

ユダヤの伝統で2回することはできません。香料を。


なぜなら香料は匂いを防ぐためにするのです。人を埋めた後に香料を入れる場合はありません。

どうして?埋めた後に人は訪問しないではないですか。葬儀ではないではないですか。埋めた後では、葬儀はすでに終わっているではないですか。

そうですか?そうではないですか?


これは変です。おかしなことです。

葬儀が終わってすでに埋めたのに、埋められた人に香料を持って来たのです。ルカの福音書、マタイの福音書、マルコの福音書。

ヨハネの福音書は反対です。ヨハネの福音書は違います。

ヨハネの福音書では香料を葬儀の前に、埋める前に全てしました。

アッア・・・。どうして2回しようとするのですか?この人たちは。


さらにルカの福音書で女性たち4名と他の女性たち、だから4名以上ですね。5名か10名か分かりません。聖書で分かりません。4名以上。

女性たちが皆来て心配します。香料を持って。日曜日に。日曜日復活する日、二日目に、来て心配します。

「ああ、石をどのようにして動かしますか?」そのように言います。自分たちは心配します。この重い石をどのようにして動かすのか。そのように言います。


だから香料の問題のために、キリスト教徒たちが言う復活の役事は確実だ。これは崩れます。問題が生じます。崩れるのではなく問題が生じるのです。

女性たちに現れたことが問題です。


さらに金曜日に、ヨハネの福音書は金曜日に何をしましたか?香料、亜麻布を全てして、次に、金曜日ではないですか。翌日に、翌日は安息日なので、翌日にローマの軍人たちにお願いします。イエス様のお墓を保護してくださいと。


金曜の夜、イエスの墓を守るものが誰もいなかった事実


だからヨハネの福音書でイエス様のお墓を保護する日はどの日ですか?土曜日の夜。金曜日の夜にイエス様のお墓を保護する人はいません。ローマの軍人もいません。


あ!

これがどうして重要ですか?

キリスト教徒たちが言うことは、「第三者ローマ帝国キリスト教徒ではない人たちがイエス様の死体を3日間保護していた」このように言います。キリスト教徒たちはこのように言います。

それなので、「私たち(クリスチャンたち)は、人々が遺体を盗んでいったということはできない。どうして?第三者、クリスチャンではないローマの軍人たちがイエス様の体をずっと3日間保護したではないか」。

クリスチャンたちはこのように言います。


これは聖書的にパンクです、パンク。間違っています。

聖書を見たらイエス様は金曜日の夜に第三者ローマ帝国の軍人たちはいません。ローマ帝国の軍人たちは土曜日に来ます。土曜日の夜に。


その言葉は、一晩の間、第三者がいません。

キリスト教徒たちは牧会しながら、特に牧会する時、このようにクレームをするではないですか。こうだったと、このように言うではないですか。「第三者のキリスト教徒ではない人も保護していたのに、私たちがどうして嘘をつくのか」。

こういうのです。

「人がどうしてその死体が消えるのか。第三者ローマ帝国、私たちを殺して嫌いな人がそれを保護していたのに」。このように言うではないですか。そうですね。


聖書を見たら、4つの福音書を見たら、違いがたくさん出てくるようになって、次にこのような問題が現れます。大きな穴が現れます。何ですか?金曜日の夜にローマ帝国の保護はありません。警護がありません。ああ不思議ですね?


統一教の立場で、お父様もおっしゃいました。統一教の立場でイエス様の死体がどのようになったか?人が盗んで行ったか?お父様はそれは重要ではないとおっしゃいました。だから私たちの立場は、金曜日に明らかに人が盗んで行ったという立場ではありません、私たちは。


しかしその言葉は、どうしてそれが重要かといえば、キリスト教徒たちが言うことは、「第三者キリスト教徒ではない人たちが体が消えないようにした。だからイエス様は実体的に神様の役事で復活された」。

このように言うではないですか。これが私たちの歴史的な証拠だと言うではないですか。「第三者が保護したので。第三者が警護したので」と。


「私たち(クリスチャンたち)が、どうして第三者が、軍人たちが保護しているのに、どうして行って盗むのか」。このようですね。自分たちの論争は。

その論争も崩れます。聖書の4つの福音、4つの違いの部分を見たら、大きな穴が現れます。アッア・・・。


コリント人第一の手紙


次にコリント人第一の手紙15章に出てくる、使徒パウロの15章32節に出てくる内容を見たらどのように言っていますか?その前にマタイの福音書27章62節から出てくる内容を見たら、それも同じです。


(参考:マタイ27:62-66)

27:62あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、 27:63長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。 27:64ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。 27:65ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。 27:66そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。


そこからそのような内容が出てきます。金曜日が空いていることが。空いているのではなく警護がないことが。


コリント第一15章32節の復活は原理の復活論


次にコリント人への第一の手紙15章32節から出てくる内容は、使徒パウロが言うことは、死んだ死体について話しています。イエス様が亡くなった死体、さらに私たちが死ぬ時、私たちが死んだ死体がどうなるか。そのような内容を話すではないですか。コリント人への第一の手紙15章で。


(参考:コリントⅠ15:32)

 15:32もし、わたしが人間の考えによってエペソで獣と戦ったとすれば、それはなんの役に立つのか。もし死人がよみがえらないのなら、「わたしたちは飲み食いしようではないか。あすもわからぬいのちなのだ」。


だから、使徒パウロは、・・・考えてみてください。使徒パウロは、コリント人への第1の手紙は、ルカの福音書、マタイの福音書、マルコの福音書、ヨハネの福音書より前です。前に書かれました。理解できますか?


マタイの福音書、ルカの福音書。マルコの福音書、ヨハネの福音書は後で出てきます。約50年代、70年代、90年代。ヨハネの福音書はある学者は110年代頃、それほど遅く出てきます、福音書は。OK。コリント人への第1の手紙はAD55年。だから20年の中ですね。

マルコの福音書は50年70年代(に書かれた)。理解できますか?


だからコリント人への第1の手紙はマルコの福音書のより前に書きました、使徒パウロは。理解できますか?そうですか?そうではないですか?


だから使徒パウロは、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネより、もっと早く書いたということです。

コリント人への第1の手紙15章32節からもっとたくさん見たら何が出てきますか?地面の下にある死体が復活する時、違う種が出てくる。


だから使徒パウロはそのような例話も書きます。

種をまくとき、土地に種をまくとき、出てくるものと入っていくものは違う。そのような例話も書きます。種を蒔いたのですが、緑色の葉っぱが出てくるではないですか。そうですね?


このことのように私たちが死んでも、イエス様が死んでも、地に死んでも、出てくるものは違っている。

このように言っています。使徒パウロが。55年代、50年代。理解できますか?これが。


このような神学がはるかに原理の神学に近いですね。入って行った種が同じなら復活の死体が同じなら同じ種が出てこなければならないではないですか。

入って行ったイエス様の種、同じイエス様の種が出てこなければならないではないですか。復活しながら。


そうではない。使徒パウロは、使徒パウロが言うことは入って行ったものと出てくるものは違う。

だからキリスト教徒たちはこれを栄光の体、これはミステリーですね。栄光の体、復活の体。


しかし、この言葉は何ですか?違いがあるということです。死んだ死体が復活する時、違うではないですか。復活したとき違います。

その言葉は、100%人間がただ現れるのではない。ある違う体が現れたということです。どういうことか理解できますか?これを。


だからこれは原理とはるかに近いですね。そして一般の体でもないではないではないですか。自然に現れた人間の体ではないではないですか。これは栄光の体、永生する体、これははるかに霊的な体のように見えるではないですか。この例話の中で。

理解できますか?


これは50年代から書いたのです、使徒パウロが。マルコによる福音書がいつですか?60年代70年代。全ての福音書の前です。使徒パウロが説明する復活の書き方ははるかに霊的復活と同じです。

わあ・・・。わわわわわわわわわわ!


少し後で。20年30年50年後に、違う違う実態的に復活した。このようなストーリーがはるかに強くなります。そしてそのストーリーは福音に強く出てきます。


しかしニュアンス的に何が、イエス様が死んだのですが復活されて何が出てきたか。何が現れたのか?

ただ土に入って行った死体か、あるいは何か超越的死体だったのか?と、パウロの内容を見たら、超越的な体が出てきます。

だからこれは原理の立場に、はるかに力を与えます。


特に私たちは歴史的に福音を比較して、福音書と使徒パウロを比較して、これはだから原理が学者的に。

信俊もこれを準備して、アッパとプログラムを作っています。


このような内容を通してクリスチャンたちに聖書的に見せるのです。

クリスチャンたちが、これから私たちと論争をしなければならないなら、このようなことが相当に問題になります。


なぜならクリスチャン、学者たちとクリスチャンの牧会は違います。牧会ははるかに簡単です。メッセージとストーリーがはるかに簡単です。大衆に対して話をするので。

学者たちが話すことははるかに詳細で色々と追求して、そうではないですか。


だから学者たちは戦いを、私たちとしたくありません、常に。80年代から。なぜなら原理の立場で私たちは歴史的に、historical critical method、と言いますね。歴史的な批判論で見たら、原理の結論はもっと強いです。キリスト教徒達が言う結論より。


福音は全て比較して福音がいつ頃出てきたのか分かって、さらにそれを使徒パウロの内容と比較したら、私たちの内容がさらに強くなります。ン~、アッア・・・。


だからキリスト教徒たちは「統一教徒と会うなというではないですか。会うこともしないように」と。

そうですか?そうではないですか?


なぜなら私たちはこの弁証論、統一教弁証論が継続して発展すればするほど私たちの立場が強くなります。キリスト教の立場が崩れます。


しかし私たちはキリスト教が崩れることを望みませんね。そうですね。

キリスト教はいろいろと良いことがたくさんあります。

しかし、「イエス様は実体的に復活した、これを信じないと地獄に行く」と。


私たちは復活をもう少し詳細に見ます。もう少し、そのように簡単には見ません。


さらに使徒パウロも、聖書も、聖書も近くで見ると、聖書もそのように簡単にはみません。不思議ですね、これは。そうですか?そうではないですか?


とにかく、このようなことを私たちは、だから、比較学と歴史批判論は重要なのです。

なぜならこれは学者たちが発見したことを見てどのような論争がより確率が高いか。このような部分が現れます。


復活祭は重要


しかしいやどうして、どうして、どうして突然、復活論に入りましたか?私たちは。

今日は復活祭でもないではないですか。・・・だから私たちは復活祭を否定しません。復活祭を否定的に見てはいけません。復活祭を私たちは信じます。


しかし復活の役事を、ただ一般のキリスト教のように死んだ体が起き上がるという、このようなことだけでなく超越的内容、だから霊的な内容がたくさん入っているということですね。

しかし私たちは復活祭を否定してはいけません。復活論は重要です。復活論は最も重要です。


しかし、その部分においてキリスト教は完全に間違ったのではありませんが、キリスト教の立場を、歴史批判論で見たら、キリスト教の立場は弱くなります。統一教会の立場は確率的にさらに強くなります。


特に最も重要な使徒パウロの、最も早く書かれた、書かれた本の文字を見たら、使徒パウロははるかに原理的に話をしています。

あ、あ・・・。


福音ははるかに20年30年40年60年後に来たので、その60年後に「実体的に復活した!」というストーリーがはるかに強くなりました。しかし使徒パウロとは、だから少し差があります。


なぜなら牧会と神学が違います。

牧会は簡単なメッセージ、大衆が理解できる最大に簡単なメッセージをするのです。牧会は販売です、販売。最も簡単に、最も早く説明することができるメッセージ。牧会はそれをしなければなりません。どうして?伝道しなければならないから。新しい人々の救いの役事をしなければならないから。


だからキリスト教文化において、牧会の文化を中心として出て行くので、伝道の文化で出て行くので、早いです。「イエス様はあなたのために死んで3日後に復活された。」このメッセージが早いではないですか。早いです。


しかし、キリスト教の聖書を見たら、そのように簡単ではありません。原理の立場で私たちはこのような内容を発展させればさせるほど、原理の立場が強くなります。


キリスト弁証論、神学者との戦い


しかしこれは学者の戦いです。学者たちが言うことであって、若者たちは聖書を宗教を改宗した時、知的な改宗が大きいです。確率を見たら。


年を取った方が改宗する時、社会学的部分がさらに大きいです。神学より人々が好むか、コミュニティが好むか、女性たち子供たちプログラムが好むか、このような部分があるではないですか。社会学的部分のために、年を取った方たちが改宗する部分がより多く、次に若者たちは知的内容で改宗します。


皆さんも、一世の方たちも若い時、若かった時、知的に原理を学びながらインパクトモーメント瞬間を受けながら改宗したではないですか。そうですか?そうではないですか?


しかし皆さんは若い時はそうです。今回クリスチャンたちを私たちは伝道したではないですか。何家庭かのクリスチャンたちを。ペンシルベニアでも。そのような方たちは皆年を取った方たちではないですか。


その方たちももちろん原理を学びましたが、それよりもコミュニティ、それよりも私たちの内容、その社会学的部分が大きかったのです。


しかし、若者たちは多くの知的な部分に集中します。

それなので、このような内容は、信俊も少しずつ有名なキリスト教徒たちを、キリスト教弁証論の人たちを、公式的にYouTube、インターネットを通して戦い始めたら、論争が始まったら、このような部分を通してキリスト教の立場で牧会する時、短く表現する信仰。それは神学的に論争をすることはできませんね。することはできません。


だからキリスト教徒も神学的に私たちと戦う時、自分たちの部分が考えよりも、若者たちも自分たちの考えよりも丈夫ではないと感じるようになります。どういうことかわかりますね?


だからとにかく、このような部分を私たちは継続して開発します。

信俊はおそらく1000個のペーパーの内容をして、アッパオンマも手伝いながら、アッパも勝利しなければならず、そのような内容をしながら、私たちはパッケージがあります。パッケージが。


だから、この人たちはどのようなトピックに行っても、私たちは論争があります。統一教論争。どんなトピック?キリスト教の中にある全てのトピック、全て負かすことができる、今やそのような始まりです、始まり。


だから常に、宗教は常に、時間がかかります。弁証論を作ることは。

キリスト教は2000年かかりました。

聖アウグスティヌスの弁証論が出て来るまで500年600年(かかりました)。

宗教が分からないので、どうして論理がないのかという愚かなことを言うだろ、若いバカな奴らは。


宗教が分かれば、誰も弁証論がない。一世の時代二世の時代。誰もありません。本来迫害を受けて殺しています。弁証論自体がありません。弁証論はキリスト教の立場で約500年、アウグスティヌスは多くの異邦人、哲学者たちと論争しながら、哲学者たちと論争することは、ほとんど500年600年かかります。


現代の時代科学まで含めるまで、これは2000年かかりました。

しかし私たちはこれを全て使うことができます。私たちはキリスト教にある弁証論を全て使用することができ、弱い部分を補充することができます。


だから私たちはキリスト教2000年弁証論伝統の上に立つことができます。だからそれも大きな助けです。キリスト教が2000年の間、弁証論をたくさん作ったこと、これもキリスト教に対して感謝なことです。


しかし弱い部分を、私たちはこれから原理の立場でその部分を補充します。

それは驚きですね。


イエスの超越的な復活体


使徒パウロが初めて書いたのですが、福音書より、どんな福音書より使徒パウロが早く書いたのですが、使徒パウロが説明する復活体はただの肉体ではありません。それは超越的な体です。

その言葉は、イエス様の復活体も超越的な体ですが、それでも福音を見たら、イエス様の超越的体が出てきても、人々は分からなかったではないですか。


イエス様が庭園を整えているのですが、女性たちは「あれはイエスさまではないですか」こうではないですか。日曜日に。復活体に。


(参考:ヨハネ20:15)

20:15イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。


一緒にイエスの道に行っているのに、エマオを歩いているのに「その人は誰だ?」「あ!イエス様!」こうです。


(参考:ルカ)

24:13この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、 24:14このいっさいの出来事について互に語り合っていた。 24:15語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。 24:16しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。


この復活体は超越的な復活体ですが、しかし人間のように見えたということです。ああ、不思議ですね?これは。そうですか?そうではないですか?


超越的な復活体でしたが、しかし人間のように見えたではないですか。人々はわかることができなかったではないですか。OK See。


キリスト教復活論争は、掘って掘って入って行ったら、そして福音を全て比較して、福音の日にちを比べて使徒パウロが書いた内容と比較したら、このストーリーは40年から50年60年を経て、少し短く少し簡単になって、少しずつ「死にながら3日後に復活されたイエス」こうではないですか。


牧会で簡単に説明するではないですか。神学的に解いて解いて解いて説明しないではないですか。牧会して大衆に話をする時、短く話をするではないですか。感情が上がるように。そうですね?


だからこの牧会のストーリーが強くなり、イエス様の亡くなった体と、現れた体が霊的ではなく肉体の復活という、このようなことの神学が強くなりました。牧会を中心としていくので。


しかし神学的に見たら、さらに復活の内容を福音書を全て比較して、さらに使徒パウロが40年前に書いたのですが、使徒パウロの内容を見たら、使徒パウロの内容は全て聖書に入っているではないですか。全て神様の言葉ではないですか。


なので使徒パウロと比べたら、原理の立場がはるかに強くなります。

理解できますか、これを?


だからとにかく、私たちはどうして復活、復活(の話になったのですか?)


そうだ。だからキリスト教の根っこは復活です。

多くの神学家たちとキリスト教弁証論の教授たちが出てきて、「復活がもし間違っていたら私の全ての信仰、キリスト教の中にある全ての信仰が違ってくる」。

このように言います。それほど復活は重要なストーリーです。キリスト教において。


だからどんな復活、霊的復活ではなく、肉体の復活。どうして?肉体の復活を通して神様が全ての自然を反対して、全ての自然の法則を全て覆しながら役事を見せてくださったではないですか。これがキリスト教の中心の柱です。


しかし掘って入っていったら、全ての福音書を比較したら差がたくさんあります。問題もたくさんあります。穴がたくさんあります。

次に使徒パウロが40年前に書いた内容、聖書に入った内容、使徒パウロが書いた内容、聖書の神様の御言の中に入っている使徒パウロの内容を見たら、違いが少しありますね。差異が。


だからとにかく、とにかく原理の立場が強くなります。このような部分に掘って入って行ったら。

キリスト教の牧会の部分においてこれを「聞くな!イエス様は死にながら3日後に復活されたことを信じなさい。永生を受けなさい」。

こうではないですか。


ただ短く感情的に説明します。人々が考えることができないように。

だから「統一教徒に会わないように。信徒たちよ。」「皆さん達は統一教徒に会ったら混乱する。イエス様の名によって・・・」。

こうではないですか。そうですか?そうではないですか?これは全て感情です。


しかし、神学的に分析、歴史批判論で全ての福音を比較、そして使徒パウロの内容と比較したらどのようになりますか?違いが、牧会者たちが言う短いメッセージと聖書に出てくる復活の内容は、はるかに違います。はるかに複雑です。


それでは、はるかに複雑なら、誰の確率を上げますか?これは統一教会の確率にあげますね。理解できますか?


考えてみなさい。全てのキリスト教の教授たちは皆、「復活がもし間違っていたら私のキリスト教の信仰自体が崩れる。」このように言うではないですか。


それでは、統一教会で私たちが見せているものは何ですか?復活論。キリスト教の信仰の根っこ。復活論。それは考えるほど簡単ではない。はるかに複雑だ。聖書を見ても。聖書だけを見てもはるかに複雑。


それでは、この人たちが言う柱、自分の信仰の柱の部分がすでに揺らぎますね。

どういうことか理解できますか?


そのようなことを通して早く悔い改めて再臨主、真のお父様を受け入れなくてはなりません。


だから歴史的に見たら、学者的に比較したら、全ての福音は日にちと使徒行伝、使徒パウロが書いた文字などを比較したら複雑です。復活は。復活は簡単ではありません。

アッア・・・。

人を釣る釣り伝道


とにかくだから、お父様はこのような内容を私たちは、釣竿をたくさん作っているではないですか。多くの釣竿を。


このような内容を通して知的な若者たち、音楽の若者たち、ダンスの若者たち、このような全ての人々を釣っているではないですか、今。


これは、お父様が釣りをされる時、釣竿を10本15本後ろにザーッと設置されて。そうですか?そうではないですか?釣竿1本では釣りをされません。

お父様はシュー、シュー、シュー、シュー、シュー、シュー、シュー、シュー、シュー、10本、15本。

お父様は見ているではないですか。これが(1本の釣り竿が引いたら)わあっと。皆さんはご覧になったではないですか。お父様が釣りをどのようにされるか。


だから様々な釣竿を設置されました。その伝道場所もそうです。伝道場所も海です、海。海に向かって釣竿を打つのです。次の竿もシュー、シュー、シューこのように。そして見るのです。どれが(引くか)。


お父様は釣りをされながら(じっと釣竿を見て)あるものが引いたら、・・・波はこんなふう(釣り竿の先の部分が大きく揺れる)です。魚の場合は(小刻みに引く)。この違いを見ながら、・・・経験がない時は波で(釣竿の先端部分が)動くので魚だと思って引き上げるのです。


しかしお父様は、釣りを長く(されているので、魚がかかった場合は釣竿の先端部分が小刻みに動く)ではないですか。初めて(釣り竿の先端部分が動いた時)こうしては(竿を引き上げては)いけません。急いではいけません。


魚が初めてなので匂いを嗅いでいるのに、(竿を引き上げたら)釣り針が飛んで行きます。とても急いだので。急いではいけません。待たなければなりません。


釣りはそのようなものです。海に向かって、たくさんの釣り糸を投げなければなりません。そして見るのです。どこに食いつくか。そしてこちら側を食べたらそちらのラインに投げます。こちら側に継続して食いついたらこちら側に、あちら側の竿を上げてこちら側に投げます。そうですか?そうではないですか?


だから聖書でそれを説明しています。人を釣る漁師になりなさい。人を釣る漁師になりなさい。


だから海に向かって伝道するのが釣りです。だから、キリスト教徒を釣りをするためにキリスト教について知らなければならないではないですか。


この問題は家庭詐欺連合のやつらが、偽物のやつらがそれを、どうしてキリスト教徒を伝道できないのですか?聖書を知りません。キリスト教神学自体の神学も知りません。原理だけ知っています。原理だけを知っていても、お父様を背信ではないですか、こいつらは。


だから原理を知っていることが問題ではありません。原理が分かってお父様を愛して背信したらダメですね。


しかし問題は、原理だけ知っていてキリスト教の立場は知りません。キリスト教に対して全く知らないで、キリスト教の歴史を知らないで、キリスト教の重要な人物たちも知らないで、重要な神学家たちも知らないで、キリスト教の歴史批判論も知らないで。


だからキリスト教を伝道できません。このようなことが分かってこそ、少しずつキリスト教徒たちを、特に知的に聖書をもっと理解したい、知的にキリスト教の解くことができない内容を理解したい人々は少しずつ理解することができます。

「ああ、これは統一教会に答えがあるのだな。」このように。

面白いですね。