お父様の愛は、犠牲の愛、血の滴
2024年5月29日テネシー清平水曜礼拝
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文亨進二代王
テネシー韓国語水曜礼拝_한국수요예배 0529_2024
儒教文化とキリスト教文化の衝突
韓国、日本、儒教文化で。中国も同じですね。
中国孔子文化から出てきた国々は、韓国、日本、中国は、赤ちゃんを通して、自分の階層を高くしようとする。
それは文化的に一般化してしまった。
捨てた赤ちゃんを使って自分の家全体に階層を上げようとする。
だからその古代時代の孔子政府学習を学ぶ。
政府の試験を受けて政府に入るように。
政府に入ると、全ての家庭の階層が上がるではないですか。
中国、韓国、日本の奴らは皆こうです。
なぜならば政府孔子のせいで。
だからこれは知らなかったでしょう?これは韓国の人々も分析しなかったでしょう?ただ そういうものだと考えていましたね。
なぜなのか分からなかった。
これは中国の孔子政府の孔子思想です。
これはイエス様の文化ではない。
これは孔子政府理論、孔子の内容だ。
子供たちを使って子供たち通じながら階層を上げる事。
だから、韓国、日本の家庭は一人の子供に、頭のいい子供に全部注ぎます。お金も与えて塾も行かせて。そうして、その後、その子はお金をたくさん稼いで、自分が稼いだお金を分けなければなりません。
そのように自分の階層を上げようとします。
あってますね。 そうですね。
だからキリスト教の子供たちは、私たちの教会だけではなく キリスト教の二世たちも自分はクリスチャンではないと言います。
自分のお父さんお母さんが育てる時に、私の父は母が育てたとき、私たちの家庭はクリスチャン家庭だと言って育てました。
ところが、クリスチャンは 自分が個人の自由意志で自分が主を受け入れなければなりません。そうしてこそ、クリスチャンになります。
家庭でクリスチャンになることはできません。何故なら家庭でクリスチャンをすることはできません。どうして?中にいる個人の人たちは、全て一人ずつ伝道を受けなければなりません。そして自分が自由意志でキリストを受け入れなければならないのです。
そうしてこそクリスチャンになります。だから家庭のクリスチャン、このように家庭を育てたクリスチャンを見なさい。全て教会を離れました、子供たちは。
統一教会も同じです。統一教会も、「私たちの家庭は統一教会だ。」このようになってしまいました。子供達は全て離れました、教会を。そうですか?そうではないですか?
むしろそのクリスチャンたち、統一教会の家庭たちは、子供たちを一人一人伝道する目的で育てた家庭を見なさい。子供たちは統一教会、あるいはクリスチャンに残る確率がはるかに高いです。そうですか?そうではないですか?
どうして?孔子の思想を見ないから。キリスト教の思想を見るから。キリスト教の思想。
だから孔子思想の最高の道徳は何ですか?徳。徳は何ですか?「仁」そうですね?「仁」の字。
これが孔子思想の、最高の目的です。「仁」。「仁」と「礼」そうですね?
だから「礼」の関係は、社会にある「礼」の関係は、「仁」と「礼」が最も優先、最優先なので、人々と会った時、自分の名前で呼ばないで位置を呼ぶではないですか。会長様、社長様、教授様、何々、このように呼ぶではないですか。お姉さん、お兄さん、このように呼びますね。そうですね?
名前は実際関係ありません。自分の層が重要なのです。どうして?仁と礼が最も上なので。
神様が無いではないですか。神様が私の名前をくださって、神様が私の名前をご存知であることは重要ではないではないですか。孔子は無神論者なので。そうですか?そうではないですか?
天を信じましたが、天は神様ではないではないですか。神様は人格神。私をご存知である。私を救われた。私を愛される。私の名前を呼んでくださる神様。これは人格神。違います。
天のようなものは私の名前を知りません。天のようなものは私を知りません。私を愛していません。天をニュートラル、中立的な内容です。孔子思想。そうですか?そうではないですか?
だから孔子思想の中心は「仁」と「礼」です。それは悪いことではありません。しかし、中心ではありません。中心は何ですか?クリスチャン思想において。愛!どうして?関係!そうですね?
クリスチャン、統一教会も同じです。統一教会、私たちの思想、神学で最も重要なものは何ですか?「仁」?「礼」?違います。統一教会の原理において何が最も重要ですか?真の愛。
私たちは孔子ではありません。私たちは儒教の文化ではありません。
儒教の文化を考えもなく父母にしたことに従ったので、子供たちは滅びました。なぜなら思想と文化が違いました。思想はキリスト教、文化は儒教。OK!失敗。
理解できますね?2つの思想の中心が違います。
理解できますか?2つの思想の中心が違います。
儒教的キリスト教で失敗した韓国日本の教会
日本の家庭はたくさん失敗しましたね。韓国の家庭もたくさん失敗しました。これのために。
文化を儒教にして、思想はキリスト教。これはずっとぶつかります。子供たちはこれを理解できません。
愛だというのに、私たちの家庭は統一教会です。お父様を愛さなければならない、お父様に対する愛に対する1対関係、霊的関係に一つも集中しませんでした。
むしろ「お父様に敬拝しなければなりません。お父様の御言を毎日、儀式のように読まなければなりません」。
このようになってしまいました。そのようなパリサイ人になってしまいました。どうして?愛を中心にできなくなりました。文化的に愛を中心としないで、どのようなことを中心?「仁」と「礼」が中心になってしまいました。だから子供たちは離れました。
実際、皆さんも一世たちも、皆さんの家庭が宗教が仏教であった。皆さんも「仁」と「礼」が嫌いなのでお父様に来たではないですか。ハハハ。「仁」と「礼」だけを守ることが嫌いで、お父様に来て解放されたのに、皆さんは「仁」と「礼」を中心として子供たちを育てた。そうですか?そうではないですか?
だから子供たちは親が好きで、関係は大丈夫だが、それでも同じ神様、同じ宗教ではないではないですか。それでは外の人と同じではないですか。外の人と仲良く過ごすのと同じではないですか。子供たちと最も深い、最も中心の、最も神様の目的と原理の御言ができないではないですか。
なぜなら一緒に過ごすことはできるが、一緒にご飯を食べることもできるが、本当の関係がないということだ。「仁」と「礼」だけ守ったので。
多くの親たちは、このような息苦しい現実に生きていますね。どうして?儒教文化でキリスト教をしようとしている。失敗。100%失敗。
儒教文化でキリスト教文化はできません。なぜなら、中心は「仁」と「礼」だ。儀式です。中心が愛ではありません。中心はお父様の霊的な愛と救いと自分が罪人であるという悔い改め。このようなことはありません、儒教に。ただ儀式にだけよく従いなさい、親が悪く言われないように。家庭が悪く言われないようにと。
ただ「礼」だけを上手に守りなさい、親がお母さんが悪く言われないように。このようになってしまいました。
皆さんはこのような分析を一度もしなかったでしょ?
だから愛を中心、韓国のキリスト教も同じ失敗をしました、実は。韓国のキリスト教も全く同じ文化的失敗をしました。自分たちも儒教の地方から出てきたので、儒教の文化から出てきたので、自分の信仰を子供たちに儒教式に見ました。
だから子供たちがどのようにしたか知っていますか?子供たちは教会を出ていくか、あるいは他の教会に行って福音を聞きます。
ある白人の牧師が、ティモシー・ケラーという、亡くなりましたが有名な方です。自分が韓国に行って講義を来たのですが、牧師の講義を。「変だ。私はニューヨークシティで牧会をしているが、韓国人がたくさんいる」と。だから「あなたたちはどうして来たのか」と聞いたら「私たちの家庭はキリスト教ですが、私は福音が何かわかりません」このようになってしまいました。
だからその白人の牧師に福音を学びに来るのです。お父さんお母さんが伝道をしなかったということです。お父さんお母さんが伝道師として、子供達に伝道師として、神様とイエス様と関係を結ぼうとしなかったということです。ただ私たちはキリスト教なので、礼拝に毎週行かなければならない。ミサに行かなければならない。たださせたのです、儀式のように。
統一教会はこれをたくさんしましたね。これを。
このような日、このような行事、子供たちは、頭がいっぱいなのに、無神論者なのに、継続して無理やりにさせたらどうなりますか?破裂してしまうではないですか。それはダメだと考えたのに、皆そのようにしたではないですか。95%失敗率。95%の失敗率。
子供達と仲良く過ごしても、子供たちと争わなくても、子供たちは皆無神論者たちです。あるいは無宗教人だと言いますね。自分が無神論だと発表しなくても、無宗教だと言いますね。無教。
その言葉は何ですか?その言葉はお父さんお母さんの前で無宗教だが、後ろでは無神論者だという意味です。
だから儒教の立場において、皆さんは東洋人なので、皆さんの最高に大きな罠は何か。儒教思想。儒教文化。儒教の文化として、キリスト教文化の愛を中心にできません。出来ない。2つともできない。
2つは水と油です。水と油は混ざることができません。「仁」と「礼」は重要です。しかし愛が先です。主を愛した後に「仁」と「礼」が自然に出てくるではないですか。無理やりにする必要はないではないですか。韓国式に日本式に無理やりに、儀式、儀式、このようにする必要はないではないですか。主を愛したら。
主を愛したら自分が自分の意思で自分を押し付けるではないですか。「仁」と「礼」順序が変わったということなのです。
だから子供達は、しかし神様は、どうして神様を信じるのか。(子供が親に)「お父様はどうしてイエス様なのか。イエス様はどうして主なのか。実際、イエス様なのか?」このような質問をした時、親が「そんなことを聞かないように。サタンが入った。あなたは40日修練会に出なさい。」これは大失敗、大失敗。
このようなことをしながら子供たちを伝道できない。伝道の機会が来たのに失敗しました。その真の愛を与えるチャンスを逃したということです。子供と自分の証を分かち合う重要な機会が来たのに逃したということです。私の子供は私の言うことを聞かなければならない。このようになってしまいました。
それでは本当に、子供たちの愛の関係に神経を使わないで、自分の暴君の命令に従うことに神経を使うではないですか。それでは親が霊的な暴君になってしまいました。自分もわからずに、韓国日本の親は霊的なスターリン、ヒットラーになってしまいました。霊的なスターリン、暴君、共産主義になってしまった。
あ~!これが問題だ。
子供が質問した時が伝道の時
子供たちがそのような質問をした時、そのように悩んだ時、その時は機会です、機会なのです。機会!
伝道師の立場で見なさい。伝道師の立場で見よ。伝道師の立場で見れば機会だ、機会。だからそのような子供たちに機会が生じたということです。
ああ、もはや伝道過程に入ることができる機会が生じたという事なのです。
子供たちは事実、それを願う。子供たちは自分の父母から伝道されたいのです。ハハハ。
だからある子供は父母に親切に聞いてみて、ある子供は「あ、私はこんな!憎い!」このように。だが事実は心が聞いているということなのです、実は。
ただ性格的に荒々しくて、特に目ざとい奴らは荒々しく聞きます。ハハハ。
だが、そこで混乱してはいけない。感情にはまってはいけない。
その時は、ああ、こいつの性格が、実はこいつが荒々しく、神様を信じないと言うが、何故お父さんお母さんにその言葉を言いましたか?
実は「私を説得してくれ。私は一人で解けないのだ。お父さんお母さん、解決してくれ。助けてくれ」このような言葉なのに。あ、あー。
儒教的にした、儒教。
これを分析しなければなりません、分析。これを分析して理解しなければなりません。
東洋の人たち。東洋の人たちの一番大きな障害は何か?儒教思想。
悪い内容でもない、実は。
だが、中心ではない。中心はキリストの愛です、中心。
それがあれば儒教が言うある部分は良いでしょう。家庭に対することも良い部分がもっと多いでしょう。
だが、儒教は市民たちと政府の関係が完全にサタン主義です。政治サタン主義、100%政治サタン主義。暴君、暴君主義だ、これは。
孔子は皇帝システムを支持する政府人員だったのだ、役人。ディープステートだったのだ、孔子は。
だから、孔子を中心としているが、再臨主は孔子ではないではないですか。再臨メシアは孔子から出ないでしょう。ハハハ。
メシアはキリスト教の根。キリスト教の根に愛の関係が先。先、先、先。その次に仁と礼儀。
理解できますか?
キリスト教は愛が先。犠牲的な愛が先。先、先、先。犠牲的愛が1等。先、先、先。だから子供たち、そのような部分で少し突っかかって、「私は知らない!」このようにする時、ああ、その時は伝道が、伝道されたいという話です。事実、自分がとても少し高慢でそのようなことを言わないでいるが、事実それを聞きたい。お父さん、お母さんから聞きたいのだ。
だから伝道師の立場で見る。伝道師の立場で見なければならないだろ。
「や、こいつ!サタンが入った!早く40日修練送るぞ、もう!」ハハハ。
40日修練、何をするのだ?もっと悪く作るのだろ。この馬鹿のような愚かな、アーイー本当に、だから、「馬鹿野郎(日本語で)」だ。本当に。ん?無責任な馬鹿野郎(日本語で)行動。あー、あー。
だからそれではいけないだろ。その時に子供と話をする。だから自分が予め準備しなければならない。伝道を予めする術を知らなければならない。
だから伝道訓練が本当に重要だ。子供たちを育てる時に、特に10代はただ伝道する、外の人を伝道するそれがとても重要です、これが。人たちに説得、説明、忍耐強く、当惑していないように、びっくり仰天せずに、常に落ち着いて、常に理解を示し、愛らしく、伝道、伝道、解いて、解いて、このように。
そのような場所をそのような文化と雰囲気を作ってあげるではないですか。そうであれば子供たちは神学的な話をお父さんとお母さんとするようになります。
ある子供はお父さん、お母さんに勝とうとするではないですか。神学的勉強をとても高い次元にしようと。特に無神論において、お父さん、お母さんに勝とうと。
だからお父さんお母さんも勉強しなければならない。最大勉強しなければならない。理解して、怒りなしに論争することができるように。忍耐心を持って。
だから、勉強しなければならないということだ、勉強。子供がそのような問題がある前に、子供を伝道する前に、勉強しなければならない。
何の勉強?キリスト教弁証論、apologetics訓練。
神様がいるのかいないのか。無神論の立場は何か?神様がいる、次にどんな神様が最も可能なのか?聖書は神様を最もどのように可能なのか?イエス様はどうして最も可能なメシアなのか、等々々。
このような部分がもはや専門家でなくても基本的なことは知っていなければならないでしょう。
伝道師訓練。これは全て伝道師訓練です。自分の子供たちを伝道しなければならないから。
子供たちただ皆さんのうんちの穴から出たから、ハハハ。もちろんうんちの穴から出なかったが。ハハハ。
しかし皆さんの体から出て、皆さんの信仰と主様を受け入れるという子では絶対違う。
合っていますか?合っていませんか?絶対に違う。
仁と礼、家庭連合は儒教文化だから主を裏切った
何故?違う個性真理体、違う存在だ。儒教、儒教文化で父母をとても酷くこのようにすれば、ユダヤ人のようにその子供を殺すことができるではないですか。儒教では合法だ、それは合法だ。
旧約聖書のように子供たちが父母にとても背倫すれば、子供たちを殺すことができる。あーはー。それではこれは旧約宗教レベルでしょう、旧約伝道。愛を中心ではない。
しかし旧約よりもっと悪いでしょう。神様も信じないから。ハハ。旧約よりはるかに悪いでしょう、事実。異邦人宗教だ、異邦人。
だがら韓国中国日本、この根本的な恐ろしい儒教の影響文化があるために、キリスト教が、そして統一教会が、初めは爆発的に発展するだろう。
何故?人たちは初めて愛を感じたということだ。主様に会って。
この文化に暮らしている人たち。1世たちは狂ってしまう。
「このような愛があり得るのだな」。
仁と礼儀を超越した主様の愛を感じてしまうではないですか。
だが、自分の子供たちに仁と礼儀でまたしてしまう。ハハハ。自分がそれを脱いで、驚く犠牲的な愛を受けたのに、子供たちにそれを与えないで、仁と礼儀を重要視した、馬鹿のように。
だから、韓国キリスト教が崩れた。韓国統一教として崩れただろ。
バビロン淫婦、韓鶴子バビロン淫婦がむしろサタンの内容をした時に、誰がここに来ましたか?
仁と礼儀を良く守る人たち?ここに来た人たちは互いにたくさん争うではないか。愚かなこともたくさんするではないか。
しかし何だ?完璧ではなくてもお父様を愛したではないですか。それが差異だ。
他の奴らはお父様を愛すると言ったのに、来なかったではないですか。
何故?お金を位置がもっと重要だったということだ。
仁と礼儀。「あー、それはオモニに礼儀ではない。それは背倫だ。あ!」
これ見なさい。最も中心は何ですか?主様に対する愛、または仁と礼儀。家庭詐欺連合はパリサイ人です、仁と礼儀だった。そうでしょう?
主様の愛が中心ではありませんでした。「中心は仁と礼儀。組織がこのように韓鶴子バビロン淫婦に従うから、組織に対する仁と礼儀をしなさい。」このようなことではないか。「アボニムの愛、アボニム、お父様の時代はもはや過ぎた。」このように言うのだ、こいつらは。
アボニム時代は永遠に無くなりません。すべての時代はお父様の時代だ。何故?すべての時代はキリストの時代でした。アボニムの時代が過ぎていかない。お父様、2代王、3代王、アボニムの王家があっても、すべてのお父様の王家の子孫たちがお父様の時代を高めます。子孫代々。
毎世代はキリストの世代。毎世代。2世時代、3世時代はない。これは詐欺だ、これは。
キリストの時代は過ぎることはありません。キリストの時代は永遠の中心。
主の犠牲の血、伝道の立場で子女を愛する
そしてキリストを愛さなければなりません。 愛の関係がなければなりません。
キリストが私の罪を赦して下さり、キリストは、私は地獄に行く立場であるのに、キリストはそれを防ぎ私を天国に導いてくださる、そのような犠牲の血を流されながら私を赦されたということなのです。
その恩恵を理解する愛が必要です。これは天国の根です。
これがあればキリストが作られた儀式に参加したくなるというのです。キリストに対して申し訳ないですから、訓読会をずっとしないと。(笑)
そうですね? 愛が中心になければいけない、愛が。儒教ではなく。
ですから家庭を、うちはキリスト教だ、うちは統一教だ、このようにとても家庭を中心にしたので子供たちは皆、出て行きました、無神論者になってしまいました。むしろ、私達は家庭であっても、各々の子供たちを伝道するのです、この二つを覚えておかねばなりません。
一つの家庭なのですが、各々の子供を伝道しなければなりません、各々。
各々の子供を別々にカウンセリングしなければなりません。
1対1に日がなければなりません。自分たちが、自分の心の中で悩む内容を解決することができるように。
他の子供達とは関係なく! 各々の子供たちを、それぞれ伝道対象者として見なければなりません。いっぺんには出来ないのです。1対1でしなければなりません。
伝道の立場で、家庭なのだけど伝道の立場で。
これは革命的でしょう?
家庭だけを重要視して家庭を重要視しなければ、家庭は滅びます。その家庭が。
その子供たちはお父さんお母さんの信仰について来ません。お母さんに良く見せるふりをして、心的に信仰的にキリストに自分の心を捧げていません。
原罪以外の罪は、親よりもたくさんある二世たち
ですから、子供たちを伝道する立場。自分が自分の罪を認める、2世たちはこれを知らなかったではないですか、自分には罪がないという、このような愚かな高慢な詐欺師になってしまった。自分には原罪が無いので自分には罪が無いと思っている狂ったやつ。どうしようもない者たち。狂った者たち。
原理に原罪だけがありますか? 他の罪は? 個人的罪、自犯罪、連帯罪等。ただ原罪だけでは無いですね、これは。しかし2世たちは、こいつらはとても馬鹿らしい愚かで。1世たちがまともに教育をしなかったのだ。自分には罪が無いと、自分に罪がないと考える、狂っています。自分に罪がとてつもなく多くあるのに! 原罪だけが無いのであって他の罪が自分の親よりどれほど多いか、千倍万倍あります! あはは。それなのに、自分たちには、罪がない。全く狂った者たち!
ですから自分の罪について話し、罪は、神様は正義の神様なので罪を審判しなければなりません! そうですね? 判事がニューヨークの都市で犯罪を犯しているではないか! 児童性暴力を赦して、判事がどうする?ただ解放してしまうではないか、この者たちが!
もう一度犯罪者たちを道端に行けと放つではないですか。これが正義ある国か?正義はない! 判事が、悪者が女性を性暴行したら、「こら、これは死刑だ」としてこそ、罪を与えなければ、罪を! 罪を与えてこそ、正義があると言えるではないか!そうか、そうでないか。
だから神様が何故罰を与えないといけないのか?神様は正義の判事だから、正義の神様だから。
罪をただ無視すれば、それは悪い不正腐敗の判事ではないですか。そうか、そうでないか。
犯罪を無視する判事が不正腐敗の判事ではないか、実際。そうか、そうでないか。
良い判事は、犯罪に対して罰を与えるではないか。他の市民たちが安全に暮らせるように、そうですね? それでこそ、神様は正義の神様だと、正義の判事ですね。という訳で罰を与えなければいけません。
二世たちはまず最初に自分に罪があることを認めさせなければなりません!
そして “罪があるのでお前は実際に罰を受けなければいけない!地獄に行かなければならない。”
神様と分離した暮らしは何だ、地獄! 嘘をつけない者に小さな嘘がとても大きいのです。そうか、そうでないか。
神様は嘘をつけないではないか。嘘をつけない神様には、小さな小さな嘘でもエベレスト山より大きいのだ! 神様は嘘をつけないのだから。
理解できますか、これを?
女性たち、人に小さな嘘はよくつきますね、何故、自分たちはいつも嘘をつくから。
しかし神様は嘘をつけない方なのです、真理ではないか、真理! そうですか、そうでないですか。真理の方なので世界で一番小さな嘘もエベレスト山の千倍、万倍、惑星よりも大きいのです、神様の立場では。そのように実際、大きな罪です。
この2世たちもみな罪人です。エベレスト山よりもっと大きな罪を持っているのです。
では、これが完璧な正義、完璧に嘘のつけない神様は、罰を与えない訳にいきません。神様とその犯罪者は分離されなければいけない。分離された暮らしがなんだ、地獄! 地獄。
私たちが自分の行動、自分の考えで、自分が罪を犯した内容を、罪を重ねた内容ゆえに地獄に行くのです。神様と分離した暮らし。だから神様は私たちに罰を与えてこそ、何ですか?正義の神様、不正腐敗しない神様、正義の神様。
ところでそれを主が蕩減してくださいます、その代価を払ってくださいます、血で! 血! その罰を償ってくださるではないですか、血で! 血で! 血で! 蕩減によって。そうか、そうでないか。
だから神様の罰を主が受けるではないか。私たちが解放されるように他人が私達の罪の代価を支払ったではないか。だから感謝しなければなりません。これは恩恵だ。
私たちが犯した罪に判事が無罪判決を下すのではなく、主が私たちの為に血の道を行かれたので、私たちがいくべき血の道を主が代身持ってくださったのです。
それなので判事が分かったと、おまえはもう行けと。
どういうことか分かりますね?
皆さんは運転しながら、速度違反をして走ると韓国でも警察が来て赤キップを切られますね、それが、とても大きな違反だったので罰金を1000万ウォン払わないといけない。ちょっと多いか、では100万ウォン、100万ウォン払わないといけない。
何故?市民にそのような危険負担を与えたから、100万ウォンに値する危険負担を与えたではないか、子供が遊んでいるのに誰かぶつかってきたら、そうですね?
ですから、社会に、市民に、100万ウォンくらいの危険負担を与えたので100万ウォンを払わなければいけないのです、そうですか、そうでないですか。
誰かがその100万ウォンを支払わなければどうなりますか。誰かが支払わなければなりません。そうですね?
だから、そのような状況で、速度違反キップが、少し良くない例ですが重い罪ではないので、とにかく主が100万ウォン払って私たちを解放してくれます。
それなので速度違反を再びしません、主に対してありがたいので。
自分にお金が一銭も無かったのに、事業が失敗して自殺しようと出て行ったのだが、主が100万ウォンを支払ってくださったという事です。わたしを助け、100万ウォンも払って下さり、私達は開放されます。
だからどうして、2度と罪を自分は犯したくない理由は何だ、愛のために。私が受けるべきではない愛を受けたので。その方に感謝の気持ちを表すために私の行動を変えなければならない。そうですね?
それだからこの若い子供達も自分が罪人だということを理解して、自分が、何故自分の罪を赦されなければならないのか、自分の罪が数千年、万年蕩減しても、自分では出来ません。
自分では出来ない、何故?自分は完全に実態の神様と一つではないから。
しかし神様の実態が蕩減した時、それからは全ての人の罪を抱える事が出来ます。何故?神様と完全に一体であられるから。
完璧な方が代価を払われるから。完璧でない人がどんなに代価を払おうとしても出来ません。
何故なら、完璧でないから。
ですから、メシアだけが私たちを蕩減できるのです。メシアだけ。
メシアだけが私たちの罪を赦す事が出来るのです。
メシアだけが私たちに生命と愛と血統を下さるのです。
私たちの血統は既にサタンではないですか。そうですね。サタン世界から来たから、サタンの血統。
それをどうやって自分が作りますか?
メシアから来るのではないですか、これは。
そうですね。
だから2世たちがこれを理解して、自分の罪の深刻さを理解して、自分が何故悔い改めなければならないのか、何故主との関係が必要か、何故主の中で成長しなければならないのか理解してこそ、自分も愛の、主の愛の心情が大きくなります。
そして愛の心情が大きくなればなるほど、主の愛の中心が何か。これはただの愛の感じではなく、これは犠牲の愛、アボジが犠牲になった愛、これが中心です。
キリストの愛の中心は、犠牲、その血
キリストの愛の中心は何か?犠牲。
だから主を知る人は段々と犠牲的になります。
何故?主の犠牲的な愛が自分の中心になるから。
自分が死ぬことも出来ます。
だから関係はゆっくりと作らなければなりません。これは一日で出来るのではなく、ゆっくり伝道しながら、初めは説明しても理解できなくても、初めに祈祷した時に、理解出来なくても、福音をずっと聞いてこそ、固まった心が段々柔らかくなります。
聖書の言葉で固まった心、石のように固まった心がどうなる?肉になるではないですか。主の愛を受ければ受けるほど。理解すれば理解するほど。
ああ、愛の中心とはこういう事なんだと段々悟る様になります。
感覚の愛ではない。犠牲的な父子関係の愛。この根はコミュニティの根です。
コミュニティの根は何ですか?犠牲。互いの為に犠牲になること。
互いに犠牲になることが出来ない者はコミュニティを作れない。コミュニティの人々が互いに少しずつ犠牲になってこそ、コミュニティが強くなります。
考えてみてください。自分だけ考える人はどうか。自分だけ考える人はコミュニティが出来ません。
どうして?コミュニティの反対です。犠牲は利他ではないですか。自分だけ考える人は利己ではないですか。どうして利己主義の者たちばかり集まってどうやってよく過ごせますか?いつも争うだろう。(笑)
主の愛を受ける人は利他的な人になってこそ、コミュニティが強くなり、利己的な奴らが入ってきても、利他的な人になるではないですか。
真の愛の中心は犠牲的な愛
ですからコミュニティを作る中心は何ですか?犠牲的な愛。犠牲的な愛。
愛でも明確に感覚の愛、ロマンスの愛ではなく、犠牲の愛、それは真の愛の中心。
現代の人が理解できるように、犠牲的な愛は真の愛の根。
ロマンスの愛、エロスの愛、兄弟の愛ではない、犠牲的な愛。父が息子娘の為に犠牲になる血!血!
流される血。だから宝血と言うではないか。
ただの感覚ではない。お父様が子女の為に流された感覚ではない。血!血!血!
自らの命を与えられた。子女たちが解放されるように。
宝血。血!
これを理解してこそ、お父様に対して、お父様に対する愛が、それから段々と、どのような愛か。
これは感覚の愛ではない。お金の愛ではない。プレゼントをくれる愛ではない。物質的な内容の愛ではない。
血だ!血。流す血だ。血。血を流す愛。子女の為に血を流す愛。
だから女性は主を知れば知るほどバカにはならない。
女性はいつも感情世界の愛、ロマンスの愛、感覚の愛に暮らしたいではないですか。
女性は毎月、生理があるが、血が流れることをそれほど怖がるではないですか。
本当に不思議だ。女性は毎月血が流れるのに、自分の決定なく血が流れるのに。
自分が拷問されて、体から血が流れるのをとても怖がるではないですか。
しかし、お父様は全てされました。興南監獄の血、血、血。どれだけ多くの血を流されましたか。どれだけ多くの宝血が地に流れましたか。死亡、死亡、死亡。
血!生命は何ですか?血!
だから、主の愛の象徴は何ですか?ハートじゃない。血だ。血。
女性たちはハートが好きだろう?血は好きじゃない。
キリストの中にいる息子娘たちは血がどれほど。キリストの血の愛がどれだけ驚くべきことか知らなければなりません。
ハートの愛ではない。血だ。血。
女性たちが絵文字する時、互いに「わあ可愛い、友だち大好き~ハート、ハート、ハート」とするじゃないか。
主が私を愛するという時、女性たちはハート、ハート、ハート絵文字をポンポンポンと付けるじゃないか。(笑)
主の愛はハートではない。
実際、女性は「主が私を愛された。罪人の私を愛された、血のしずく、血のしずく」このようにしなければならない。それが事実だ。
それが事実だ。ハートではない。血のしずくだ。血の滴
血のしずくの絵文字もあるではないか。血の滴の絵文字。
その絵文字は感じが違うだろう。主が私を愛された、ハート、ハート、ハート、絵文字と、私は罪人だったが、主が私を愛された、血の滴、血の滴、血の滴。
わあ!完全に違うだろう。それでシャツを作らなければならない。Good loves me,ハート、ハートx、Good loves me,血のしずく、血のしずく、血のしずく(笑)
そのように作らなければならない。格好良いシャツになるだろう。
わあ、女性は錯覚する。錯覚。ハートの愛だと思うがハートの愛ではない!
お父様の愛は血の滴、血の滴、血の滴。
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