Wednesday, April 10, 2024

文鮮明先生は性依存症なのか再臨主なのか◆ 6マリアを見る二代王妃の見解<4> 2024年4月3日

 文鮮明先生は性依存症なのか再臨主なのか

6マリアを見る二代王妃の見解4

2024年4月3日

翻訳監修編集:fanclub



문선명선생은 성중독자이신가 재림주님인가_◆ (6마리아를 보는 2대 왕비님의 견해) 04_03_2024


1:19:59 翻訳minion


6.メシアの使命の観点から見る6マリア


6番目のポイントを見ます。6番目のポイントはメシアの使命の観点から見た6マリアになります。


メシアの使命は何でしょうか?何だと考えられますか?私はメシアの使命は2つに、神様の王国を立てることです。王国というものは王がいますね。王がいるということは次を継ぐ王がいるということです。それで絶対性を通じた血統が必ず必要なことが王国を作ることです。


次に2番目のメシアの使命は、堕落した血統を復帰して真の血統を立てることです。それでそのような過程は、真の血統、すなわち絶対性を立てることです。堕落が性的な堕落だったため、エデンの園で天使長とエバの堕落だったため、復帰も性的反対の経路を通してしなければなりません。


ですから、堕落は血統を間違って受け継いだことなので、血統を反対の経路に行くことによって復帰しなければなりません。ヨハネによる福音書8章44節でこのように言います。


8:44あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。


悪魔から出てきた者であって、私たちの血統はサタン、悪魔と繋がっていると話します。ですから、私たちは善悪知る木の実がただの果実ではなく、果実を食べたと言って私の父親がサタンにはなりませんね。これは血統的なものであることをヨハネの福音書8章44節は見せています。


真のお父様のメシアのミッションは神様の血統に残すことです。ですから人間を感動させたり、人間の全てを説得したりそれは真のお父様のミッションではありません。真のお父様のミッションは神様のみ旨である三大祝福を完成させることです。


6-1.メシアの使命 神様の王国を立てること

絶対性を通して血統が必要


それで神様のメシアの使命1、神の王国を立てるために絶対性を通した神様の血統が必ず必要です。絶対性はフリーセックスと反対の概念ではありません。私たちはどうかすればフリーセックスの反対が絶対性ではないか?と考えますが、そうではないとお話しします。


絶対性は絶対者、神様が定められた性です。ですからこの世俗的な倫理的な基準ではありません。絶対性は失われた創造本然の性、すなわち神様の血統を言う概念です。ですから絶対性は神様の血統です。ですから、真のお父様は自身が絶対性の主人だとおっしゃいました。


そして、聖書のイエス様の血筋の女性たちがこの世的な倫理基準を、先ほどもお話したように全て捨てて、自分たちが、本人たちが、分かってもわからなくても聖霊の導きによって神様の命令に100%従順しながら、神様の天の血統を受け継いで行くことができたのです。


6-2. 堕落した血統の復帰の道

2番目、メシアの使命から見た6マリアの摂理は、堕落した血統をどのように復帰するのか?ただ自分がしたい方法ですることができるのか?

そうではありません。この堕落は血統を失ったので、反対の経路で蕩減復帰の路程で行かなければなりません。


このスライドは権ヨンピル教授の約束の地のチャンネルから持ってきました。1番目のスライドを見たら、創造本然の人間がサタンと血縁関係を結んで堕落しましたね。ですから、サタンの子女になりました。


しかしそのような堕落した人間が復帰された子女になるには、どのようにすれば良いでしょうか?メシア、天の血統を受け継がなければなりません。重生しなければなりません。


このように真のお父様は、そのようにすることによって6マリア摂理をされるようになったのですが、堕落した人間の血統はただなくなったのではありません。それなので、私たちは祝福式をして聖酒式をして、三日行事がそこであるのです。


神様の血統を通して接ぎ木されてこそなされるのですが、12部族の血統を残すことがメシアの種の種、全ての女性を復帰すること、6000年の女性たちの歴史を短縮する女性たちの関係、6つのポジションで、長女権(長女、子女)、真の妻、真の母、真の祖母、王妃、キリストの新婦。この6つの段階を蕩減する路程としてこの6マリアを立てられたということを、私達は申し上げます。


それで再び申し上げますが、絶対性というものは、ただフリーセックスの反対の概念ではなく、絶対性はまさに、神様の血統、神様の血統の絶対性の主人は真のお父様だ、これを再び申し上げます。


そしてそのように全ての女性たちが血統蕩減復帰のために、6マリアは全ての女性の蕩減復帰をするために、6マリアは再臨主を必ず経なければならない過程でした。


しかし、この道は再臨のメシアが歩まれたので、真のお父様はこの復帰の路程を終えられたので、他の人はこれ以上繰り返す必要はないのです。

そのように真のお父様は私たちに祝福という神様の血統を受け継ぐ、神様の血統を接ぎ木される祝福を私たちにくださったのです。


真のお父様の再臨主の勝利圏の故に三日行事の儀式を通して堕落した血統が復帰されて、人類が1人の男性1人の女性の絶対性の理想に行くことができるようになるのです。


3000年前にナルドの香油をイエス様の頭と足に塗った女性がいますね。そして自分の髪の毛で3000万ウォンもする、1斤で、・・・どのくらいですか?このくらいになりますか?このくらいになる高価なナルドの香油を、今の時価で約3000万ウォンくらいすると言うのですが、そのようなナルドの香油を塗って、イエス様の足に注いで、髪の毛で拭いたベタニアのマリア。


実際、この女性の行動はとても論争になる行動です。ラザロの蘇りで多くの人々がベタニアに集まりました。イエス様も行かれて、弟子たちも集まりました。しかしそこで女性が髪をといて、この知らない男性たちの前で髪をといて、小さなユダヤ社会でのことです。自分の髪の毛でイエス様の足を拭いたら、自分は完全に体を曲げて、そのようにしなければならないのに、それはとても当時のユダヤの女性としてはとても恥ずかしい行動になります。


しかし、イエス様は、この女性、結婚していない女性が結婚していない男性にしたユダヤ社会、伝統社会で行ったこの行動を見て、人々は指をさしました。それと同じことです。「そんなに高いものをどうしてそのようにするのか。」

今考えてみても、男性だけがいるところで、その女性は何をしているのか変な行動です。


しかし、マタイによる福音書26章13節でこのようにおっしゃいます。その女性を見てイエス様は、そっとしておきなさいと、褒めながら、何と言われたかというと、

26:13よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。


とおっしゃいます。


それで私たちが聖書的場面で見た6マリアの摂理。そして、メシアの使命から見た6マリア摂理を見るとき、この6マリアの使命を、もちろん失敗された方もいらっしゃいます。崔淳華( チェ・スンファ)氏も失敗を中間でなさいました。


しかし、失敗されないで最後まで道を守った女性たちは、本当にイエス様はマタイによる福音書26章13節にお話しされたこの御言、

成約時代の御言が伝播されるところには、この女性は6マリアたちが行った、この全ての話しなどは記憶されると信じて疑いません。

1:29:03 翻訳clean

7.朴正華氏の本を書いた不純な意図

では、7番です。講義のほぼ終わりになっていますが。

7番目は、6マリアの悲劇というこの著者、6マリアと言う単語がこの様に多く出る様になるようにした人が、朴正華(パク チョンファ)氏です。6マリアの悲劇の著者が実は不純な意図、本を書くのには不純な意図がありました。


では私たちはそれを誰の口から聞くべきでしょうか。朴正華(パクジョンファ)氏、その人本人の証しを、その人の口から聞くのが一番正確ではないかと思います。

朴正華(パクジョンファ)氏は教会の初代メンバーでした。北韓で伝道されて、お父様を南韓まで避難時代に共に付いてきました。

彼は生涯お父様を背信しては改心しては、を繰り返しました。


そこで”6マリアの悲劇”と言う本の要点を見てみましょうか。

この様になっています。

様々な人物が登場しますが、結局はこの様な要点ではないでしょうか。


「文鮮明はサタンであり、背教者だ。彼は多くの処女信徒たちとセックスをして、婦女子たちを蹂躙し家庭を破壊させた」。


これが骨子だと思います。


しかし皆さん、私がこれまでも話しましたが、これは本当でしょうか?

当時、本を書いた当事者の言葉を借りて聞いて見ようと思います。


朴正華(パクジョンファ)氏は先程もお話しましたが、改心と背教を繰り返したと申し上げました。

今私が持ってきた朴正華(パクジョンファ)氏の発言は、6マリアの悲劇の著者がその本だけでなく、私は背教者だと言う本も同時に書きました。

そして1995年11月18日、日本の東京協会本部で”私は背教者です”という証しをしました。

ではその部分を一度読んでみる事にします。

少し早く読みます。


私は私の人生がほぼ終わっている事を知っています。

それで私は全ての勇気をふり絞って’私は背教者です”という証しをします。

これはちょうど私の最後の遺言の様なものです。

私が6マリアの悲劇を書いた時、私は文鮮明先生が既に私を背信したと思いました。

文鮮明先生を考えただけでも、夜寝ては、いきなり起き上がって斧を持って先生の頭を打ち割りたいとまで思いました。


中略です。


皆さん私が再臨メシヤを殺したいというそんな可能性を考えるという事自体に驚かれると思います。

しかしその時は、私が原理を良く悟る事が出来ませんでした。

私の心は寂しく、貧困に苦しみました。

私は捨てられた様で、背信されたと感じました。」


それで私は真のお父様を殺して私も死のうと思ったそうです。

そして協会本部に行って、韓国協会本部に行って、爆弾を投げようと思ったと言います。

「私がこの様な状態にいた時、ウォンドク氏がたくさん助けてくれました。

私が絶望に落ちている時、彼は彼の妹を私に紹介してくれました。

これは祝福行事の前でした。

しかし私は慶州のあと2番目の失敗を犯してしまいました。」


ここで失敗というのは、性的な問題を言う様です。


「私は私の過ちを見ようとしませんでした。

その代わり、この全ての事は真のお父様が私を捨てたからだと思いました。

私はお父様が、私が神様のみ旨を背信するように、この様に強制的にさせたと思いました。」


これが朴正華(パクジョンファ)氏の言葉です。


「私の心は文鮮明先生の恨みで一杯でした。

そして私は6マリアの悲劇の本を書いたら、大金をやると言う誘惑を受けました。

それで当時、誰だか分かりませんが、真のお父様を謀略し陰害する本を書けば大金をやる、お前は今貧しいじゃないか、今大変じゃないか、金をやる、書けという話をして、この本を書いた」

というのです。


「私はこの世で一番悪い事をしながら、私の名前を歴史に残そうとしましたが、今は私がした全ての事を悔い改めて、真のお父様に帰る事を願っている」

とこの様に書きました。


「人々が、自分を思う時、私の大きな失敗だけでなく、私を暖かい愛で思って下さる事を願う」

とこの様に書きました。


「私の様な背教者も皆さんはとても暖かく迎えて下さるのを見ました。

日本の食口の中でも、本当に悪い事をした食口達がいたとしたら、神様の前に背教行為をしたとしても、私より悪い行動をした人はいないと思います。

神様は私が帰って来れる様に方法を作って下さった様に、日本の教会を背教者として離れたどんな方でも再び帰って来たいと思ったら必ず帰って来れるという事を証しする。」

と朴正華(パクジョンファ)氏が話しました。


そしてここについて話します。

私はここを見ながら、朴正華(パクジョンファ)氏が改心した時の美しい姿を見る事が出来ると思いますがこの様に言っています。


「一度私を見て下さい。私の顔を見て下さい。私は83歳です。しかし私の心は私の顔はまるで若い青年の様です。

私が私の心の中の憎しみと恨を全て捨てたら、私の心は神様の恩恵で一杯になりました。

私はどの時よりも幸せです。」

この様になっています。


中略して終わりですが、この部分は朴正華(パクジョンファ)氏が日本語で証ししたのを英語に翻訳して、そして私が最終的に韓国語に再び翻訳しました。

それで正確な表現は少し違うかもしれませんが、全体的な内容の脈絡は同じだと思います。


残念なことに朴正華(パクジョンファ)氏は6マリアの悲劇を書いた後、この様に「自分の顔を見て下さい、私は恩恵で一杯です」、と話したにも関わらず、「自分は、私は背教者です」と改心してから、また教会を出るというその様な背教をしました。

本当に悲しい事です。


しかし皆さんがが見られたように、この朴正華(パクジョンファ)氏が本を書いた意図、そして自身が改心した時、どれだけお父様に対する愛が溢れていたか、そしてどれだけ喜んで見られたか、その姿を見られながら、これは皆さんが朴正華(パクジョンファ)氏の話が事実かどうかは皆さんの判断にお任せすることにします。


一方では朴正華(パクジョンファ)氏がこうなったのは、朴普熙 (パク・ボヒ)氏との関係で、朴普熙 (パク・ボヒ)氏はその当時、陸軍の中佐の位置にいて、英語も堪能で日本語も堪能でした。

その様な朴普熙 (パク・ボヒ)氏を参加されて、真のお父様の側近の補佐官として用いて、朴正華(パクジョンファ)氏がその位置から押し出され、真のお父様から愛の減少感を感じ、その様な問題によって教会から遠くなり、この様に難しい位置まで行くようになったのではないか、という話をするのも聞きました。

長い時間ずっと話していますが。


ある方はこの様にまた言われると思います。


・「私は何だこうだとあなたが言っても、真のお父様の6アリアを常識的に道徳的に理解する事が出来ない、私は本当にこれを受け入れられない、理解できない、どう思うか」


まだこのように思われる方々もいるかもしれません。

本当に心の葛藤と、また試練が来ると、そう思うかもしれません。


私が、お父様に「アボジ、本当にご健康で嬉しいです」と言われる二代王様に「妻がぶたれたのに、夫として何故そう言えるのか」と思った時、私も何故、そういう気持ちになったのか理解できませんが、その時、本当に私が試されていたんだなと本当に思わされるのですが。

本当に寂しい思いになると、お父様のこの様な事が理解できず、これが試され、暗闇として近づいて来ることが充分に私も理解出来ます。


8.苦難の中で見せてくださった王様の品性


それで私が最後のポイントを皆さんに話そうと思います。


私はお父様が苦難の中で見せて下さったお父様の品性について話したいと思います。

ヴィクトール・フランクルという人がユダヤ教、ユダヤの精神科の医師でした。この方は1942年から1945年までユダヤ人強制収容所、ナチスの下で監禁されてそこで労役します。

そこでヴィクトール・フランクルが経た時代とその生の意味を探してという本を書きました。その当時、自分が強制収容所で経た背景が、

真のお父様の興南(フンナム)刑務所1948年から50年まで経験されたその状況と勿論違う国、違う言語、違う民族ですが、本当に似ています。

それでヴィクトール・フランクルの”生の意味を探して”を読まれてない人は一度必ず読まれる様願います。

そこで真のお父様が経られた、どのような多くの苦痛と人間の限界を超えられたチャレンジをたくさん見る事が出来るでしょう。


私が何故この事を話すかと言うと、人間はいい時はいいです。でも人間は苦難の中で自分の本性が現れます。


私たちはこれは当然だと思いますが、真のお父様を思う時、「真のお父様はメシアの使命を受けたら当然それ位しなきゃ」と思うかもしれませんが、そうではありません。

人間というのは肉身的に限界があるので、それが本能的に脅威を受けた時、自分の一番底、自分の一番醜い姿が現れる様になります。


ヴィクトール・フランクルも”生の意味を探して”でその様な話をたくさんしていますが。

真のお父様は一度だけ監獄に行かれたのではなく、6回の獄苦を経験されました。

6回の獄苦がここに書かれています。


全ての人権が剥奪された生き地獄の様な所で自分の様に収監されている人々が一人ずつ死んでいくこと、そしてそこで狂わずにそれを生きながら守らねばないこと、それは真のお父様が経験された興南(フンナム)監獄の路程でした。


苦難の中で  真のお父様は どのような姿を見せてくださったのでしょうか。


ヴィクトール・フランクルはこう言います。

刑務所で強制労働させられた人々は二つの部類があるそうです。

自分が後で解放されても、自分の生を貴重に思って生きていく人がいれば、

或いは強制収容所で受けたPTSD、心的外傷後症候群のせいで狂って自殺する人々も多数いるそうです。

自分が強制収容所から出てきたにも関わらずです。


一旦真のお父様はどんな姿を獄中生活の中で興南(フンナム)監獄で見せられましたか?


お父様はこの時、20代の青年でした。

それにも関わらず、お父様がどんな品性であられるか、私たちは知る事が出来ますが。


真のお父様が、最近二代王様もたくさん話される、苦難の中で真のお父様は3度の飛行機拷問で3度死なれる事を経験されながらも、拷問した者を呪われずに、イエス様が十字架に付けられた時、彼らを赦せと言われた様に、真のお父様も、その拷問した者を祈られたと、神様をむしろ慰労されたと言われました。

また、興南監獄の友、愛国烈士のキムインホ氏は、教会のシックではありません。

この方は”ソウルに来る道”という自身の自叙伝の様な本で、真のお父様を獄中の聖子だと自分の本で証ししています。


真のお父様は福音を伝える為に、死の死地を越えられました。死の境地を何度も越えられました。

この様に多くの死の境地を越える様になると、人々は大抵放棄します。


「神様、本当に神様の命を受けて平壌に行ったのに、何故私に興南(フンナム)監獄という苦難を与えるのですか」と神様に文句を言う事も出来るのに、お父様はそうされませんでした。

神様の恨の歴史を思いながら、お父様はその道を興南監獄の苦難を黙々と受け入れられ、興南監獄に一緒にいた人々さえも、真のお父様がどんな生活をどんな模範的な生活をされたかを証ししています。


その様な真のお父様が20代の青年として、死の死地を越えられながら神様のみ旨、福音を伝播されたお父様は、果たして自身の性欲の為に6マリアを入れたと思いますか?


私はその様に思いません。


一度私がこの様な祈祷をしたことがあります。

確か賛美の練習で教会に運転して行った時だったと思います。ペンシルバニアで。

十字架と言う賛美を準備していました。


神様、イエス様は十字架にかかりましたが、お父様はいつ十字架を負われましたか?万個の十字架を負われたと言われましたが、いつ負われましたか?」と尋ねました。

霊的に心で尋ねました。

その時、真のお父様が霊的に答えを下さいました。すぐに何と答えを下さったかと言うと、「私が興南(フンナム)監獄で受けた窒素肥料で肉が焼けていった、あの窒素肥料の一袋一袋がまさしく万個の十字架だった」、と御言を下さいました。


その時、本当に聖霊が共にあられてお父様の答えを聞いて教会に行く道の道端で車を止めてハンドルを掴んで、真のお父様の御言を聞いて、その時私の涙ではなかったようです。

その時、込み上げて泣いた記憶があります。

その様に私は祈祷でこの問題に対しても私なりに悩みながら、祈祷でこの問題に対して答えを受けました。


真のお父様はその様に私たちの為に命を捨てられて、これによってお父様が私たちをどれだけ愛されているか私たちに知らしめて下さった事を祈祷で答えを頂きました。


この様な様々私がお話した8つの事実と証言で見た時、

6マリアは、再臨主の血統復帰と王権樹立という摂理的な使命の観点で見なければならない」

という結論を皆さんに下します。


皆さん一度考えて見て下さい。

ある中毒のパターンがある人々は良い物、即ち中毒者が中毒になったもの、ですから麻薬をする人は麻薬中毒、お酒の好きな人は酒中毒、こういうものはどんな弁明や口実をつけてやり続けます。

そしてそれを止める様に誰かがすれば、暴れて大騒ぎします。


しかしお父様の人生を一度見て下さい。お父様の生きられた人生を、その90の性状をずっと皆さん見て下さい。

真のお父様は西大門刑務所、ダンベリー監獄、全てお父様は福音を伝える為に行かれた路程でした。

その様に絶対愛、絶対信仰、絶対服従を神様にされた生き方でした。


本当に真のお父様が性中毒者だったら、その様にされる事が出来なかったでしょう。


ただ6マリア摂理ではよだれを垂らし、6度の神様が命じられた監獄の獄苦は誰が何と言っても逃げて拒否されたでしょう。

そして恨んだことでしょう。


しかし真のお父様はそうされませんでした。

真のお父様は原理講論に成約時代の御言を教えられなかったら、真のお父様は監獄に行かれる必要がありません。

真のお父様がダンベリーに行かれたのも、もしお父様が監獄から逃げたいと思われたら、訴状が届いた時、アメリカから来たので、お父様がアメリカに帰って来られなければ、当時韓国にいらした真のお父様がこの道に行かれる必要はありませんでした。

それにも関わらず、真のお父様はアメリカに再び帰って来られて、十字架を負われます。

何故ならそうしなかったら、私がアメリカでアメリカの青年たちにアメリカの人たちにアメリカの国民たちに、成約時代の福音を伝播する事が出来ないから、お父様はそうされました。

そしてお父様は自分は潔白だという事をご存じだったからです。


お父様はその様に、神様が命じられたら北韓に、南韓に、アメリカに、どこにでも行かれました。

その様に御言を伝えられました。

それで私がこの様にお話しするのです。

「6マリアの路程は、神様の復帰路程の為の神様の血統復帰として見なければなりません」。


結論

最後の結論です。

皆さんはイエス様の十字架が、私が序論でお話したように、何だと思いますか?

ユダヤ人たちが今まで未だに言う、

ローマの兵士と約婚期間に浮気してマリアが妊娠して生んだ魂の子、イエスがただのローマ帝国の反逆者としてただの死刑で、誰でも受ける十字架で無駄死にしたのか、

その様にイエスは神様の息子を偽証した為に、今も、あらゆる動物、トラだとか人糞の様な物に今も地獄でグツグツ煮られて、イエスは罰を受けていると言っているユダヤ人のそのような観点でイエス様を見つめますか?


或いはこのイエス様の十字架を私の罪を赦すために死なれた神様の子羊、私の主、この様に見られますか?6マリアの問題は多くの葛藤と多くの信仰的な苦しみを私に与える事を私自身も知っています。

それで皆さんの前でこの様に話をしているのです。


でも私は皆さんにこの様なチャレンジを与えたいと思います。

もし私たちがイエス様の十字架路程を、ただ、ユダヤ人の観点で見るなら、私たちは絶対、イエス様を神様の息子として見て、神様、イエス様に霊的救いを受ける、そのような子女として行く事が出来ません。私たちはただ道を彷徨する様になります。


再臨主の6マリア摂理も皆さんがこの世で話す観点で見るのではなく、真のお父様が何と言われ真のお父様の路程で、そして本を書いたその人が何と言うのか、

また聖書では私たちに何とこの蕩減復帰摂理を教えているのか、この様な観点で真のお父様の6マリアの摂理を見る事が合っていると思います。

そしてそれが真の信仰者の姿勢だと思います。


ありがとうございました。

今日はここまでで私のプレゼンテーションは終わります。


<付録>よくある質問

1:49:50 翻訳cham

プレゼンテーションを終えながら、少し付録があります。

頻繁に出てくる質問をいくつか付けたのですが、今、事情上このように皆さんと直接向き合いながらすることができず、皆さんが今、録画したものを皆さんが見ていらっしゃるのですが、頻繁に出てくる質問の部分、質疑応答の部分を私が予め少し準備をしました。不足ですが4種の質問くらい、答弁をするようにいたします。

頻繁に出る質問です。


1番、「他の女性信徒達と性関係を結ぶ鄭明析のJMSでもこれは天の御旨だ、このように言うが、それが真のお父様の6マリアの摂理とどのように違うということか?真のお父様もただ天の摂理だと話をするのではないか?


このように質問が出ていました。この質問に対してですが、私がこのように話をさせていただきます。先程も私が1番で話したように鄭明析氏は性中毒のパターンがあります。そして性中毒の繁殖、罪の繁殖の痕跡があります。そして教勢が広がり出て行きながら、先程話したように、その人の性中毒の形状は深刻化しました。


真のお父様はそうではありません。人生で性中毒者のパターンはありません。そしてJMSから脱出して統一教に入られた方々の証詞を見れば、朴チョラン権士様や全先生様、このような方々の証詞を見れば、

「自身がどのようにJMSから、真のお父様をメシアと、はじめ自身がJMSがメシアだと思っていたが、どのようにして真のお父様をメシアと証すようになったのか?」、

私がこのように伺った時に、

この方達が、自身が、いつも自身達が疑っていたそうです。

鄭明析氏の原理講論はとても良いが、御言、神学はとても良いが、「何故、その人は現実がそうなのか?」

このようにいつも考えたそうです。


「ところで後で、原理講論、御言だというものが真のお父様が書かれたものであることを後でわかり、自分達がとても驚いた」と話をします。

そうしながら、真のお父様が元来原理講論の主人は真のお父様でいらっしゃり、そして真のお父様の天聖教を読みながら、真のお父様と、このように訓読会の時に会いながら、「あ、その方があのように愛が溢れる方が主様であられるな。」このようにしながら、自身達が「本当に感激せざるをえなかった。」

このように話をされます。


そのように私達が、真のお父様とこのようなJMSのような人達が、これは天の御旨だと話をすることは、そのように私は確実に違うと、そして証詞する人達、証し人のためにも確実に違うと言わせていただきます。


2番目の質問です。

何故、あえてマリアという表現を使ったか?


このような質問があるのですが、

それはマリアがイエス様の母として原罪を持つ堕落した女人でした。

そうですが、神様が選択した摂理的な女人として、原罪のないイエス様を産むことができたことは、マリアが復帰された立場にいたためです。

だからマリアが原罪のないイエス様を産むことができる勝利的な条件が立っていたためということですね。

だからこのマリアを6マリアという時は、この時は復帰されたエバの立場を言うことと認識しています。


3番です。

これもとても多く話されるのですが。

6マリア以外にも別の多くの女性達がいたと聞いた。私はそのように聞いたが、何故6人だけしか話をしないのか?

またこのように話をすることがあります。


皆さんお分かりですか?真のお父様は再臨主様として、真の新郎の席に来られました。だから事実、全ての全人類の女性は真のお父様の女性達です。ところで、真のお父様が、だから事実私達に6マリアだ、60マリアだ、600マリアだ。

このようにしても、私達にはそれが大きな意味がないと考えます。

真のお父様が神様の本体として、私達は神様、真のお父様の許諾を受けてこそ、結婚をすることができるのです。何故なら、真のお父様が神様の血統を受け継ぐ絶対性の主人でいらっしゃるためです。それが皆さんの祝福結婚であるのです。


しかし、真のお父様がもはや全ての女性達が真のお父様の女性達ですが、真のお父様が3日行事を通して、女性達を復帰されたエバ、男性達を神様の息子の位置に立てられて、原罪のない祝福の子女を産むことができる、そのような位置に立ててくださったのです。

だから真のお父様が「お前達は絶対性の理想的な祝福家庭を作りなさい。」と祝福してくださったのです。


4番目の問題です。

私の講義を聞かれて、希望があることがあり得ます。

あ、教会で6マリアに対して話をするね。そう、一度聞いて見よう。聞いたのだが、何でもないね。

このように考える方達がいらっしゃることもあり得ます。


私がどんなに、どんなに説明をしても、「私は、あなたがどんなにどんなに説明しても真のお父様6マリア、常識的に、道徳的に理解することができない。」「講義を聞いたが、理解することができない。」

このように話される方達もいるのではないかと思います。

そして私に「それ、どのように考えるか?」と問い詰めることもあり得ます。


私は、このように考えます。

先程も結論で話を差し上げたように、世の中の目で見れば、イエス様はローマ政治反逆法、淫乱女から産まれて、12人の弟子も皆捨てた失敗した宗教指導者です。そのように十字架で犬死に遭った、そのようなイエス様だと、ある人は話すでしょう。

ユダヤ教ではそのように話します。「今も地獄で大便の水で煮えている」と話します。


ところで私達がイエス様を独生子(ひとり子)として霊的な目が開かれて、イエス様が傷のない幼い羊として十字架で亡くなられたことを私達が見ようとすれば、事実、私達の霊的な目が開かれていなければ、

イエス様が本当に神様の息子で、そしてイエス様が本当に私の罪のために、生かすために十字架で亡くなられたな」、

これを見ることができません。

それは霊的な目が開かれていてこそ見ることができます。

おそらく多くの方達がそのような経験をされたことと思います。だから私が話させ


ていただくことは、はじめ、私達が霊的な部分が、目が開かれる前は、イエス様の十字架が私達の救援のためにイエス様が亡くなられたことは信じられないことのように、

6マリアの摂理が私に絶対性を相続してくださり、祝福家庭の理想をくださるためにされたのだ

ということが、信じられないこともあり得ます。

霊的目が開かれていなければ、信じられないこともあり得ます。


そのような時は、私は成熟した信仰人ならば、私達が不平とそして非難と、そして早すぎる判断を先にすることよりも、これを、為に、本当に真実に深く祈祷されて、そして、果たして合っている部分は何なのか、神様に求道する姿勢が聖霊様の助けを求めることが、本当の信仰人の姿勢ではないかと思います。


私の面折によりかかって考えず、主様が本当に答えをくださる時まで、主様が真理の門を、もしもそのように求める方には、求めれば必ず答えを得られることだと、その真理の門を開けてくださるのだと私は信じて疑わないです。


今日の講義、ここで終わりにいたします。

もっと多くの方達が回心して、真のお父様の権限圏に戻ってくることができるように祈祷します。ありがとうございます。

1:58:00

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