Thursday, March 21, 2024

キリスト再臨アドベント17 ◆ 回答: イエスは死ぬはずではなかった 文信俊三代王◆The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

日本語訳

The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series

キリスト再臨アドベント17

回答: イエスは死ぬはずではなかった

文信俊三代王

翻訳&提供:Michiyo H. 

17. (20240317) 

Response: Jesus was not supposed to die

回答: イエスは死ぬはずではなかった



アドベントへようこそ。

メシアの使命についての、今続いているシリーズを通して、イエスは死ぬために来られたのではなかったという私の主張に対し、多くの疑問が投げかけられました。


ですから、これらの反論に答えることだけにビデオを作成するのは有効だと考えました。

 


私の主張を簡単にまとめますと、「イエスは死ぬために来られたのではなかった」という説明には、聖書的にも神学的にも信じられないほど多くの証拠がずらりと勢ぞろいしていることがわかりました。

 


このことは、圧倒的な数の多さで優位性を示す「旧約聖書の預言」、一握りの「新約聖書の預言」、「ユダヤ神学の側面」、「イエスの自己認識」、キリストが十字架刑の計画を非難し、その結果として「エルサレムのために泣かれたこと」による「イエスの言動」によって示されました。

 

さらに、キリストの運命は十字架刑ではなかったという説明は、ゲッセマネの園における天の父に対する主の誠実さを擁護するだけでなく、十字架刑に対する弟子たちの悲しみ打ちひしがれ、憤慨した反応も説明します。


 


これまで私は、「イエスは死ぬために来られたのではなかった」という膨大な証拠を提示してきました。

したがって、聖書のページにはない、先入観にとらわれた神学的概念を繰り返すのではなく、その主張を反証する理由を示さなければなりません。

とは言うものの、以前のビデオで提起されたさまざまな反論を見てみましょう。

 

まず第一に、多くのコメンターが尋ねました。


「キリストが自分の使命はユダヤ教の指導者たちによって十字架につけられることであると明確に述べているように思える数多くの例はどうなのですか?」

たとえば、ヨハネの福音書12章27節にはこうあります。


(ヨハネ12:27) 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救いください。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです

キリストの言葉は、「死ぬはずではなかった」という考え方とは正反対ではないですか?

 

それに応えて、私はキリスト教界全体とともに、イザヤ書53:10が語るように、「彼を砕くことは主のみ旨であった」と断言します。十字架の道は、第二次的なものであるにせよ、神のみ旨はキリストの十字架の死を通して成し遂げられました。


 


しかしながら、前述した理由からも明らかなように、イエスの本来の使命は、「地上に天の王国」をもたらすことでした。とはいえ、もしイスラエルが自分たちの王を認めないなら、マラキ書4:6に記されている呪いを選択することになり、メシアはイザヤ書53章に預言されている苦難の道、即ち十字架刑を歩むことになります。

 

(マラキ書4:6) わたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである。

(イザヤ書53:5) しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。

 

言い換えれば、十字架刑は「神の定めた計画と予知」に従ったものでした。

(使徒行伝2:23) 神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人人の手で十字架につけて殺した。

 

もし、ユダヤの民がイエスと一つになれなければ、不幸なことにイエスを拒絶する結果となり、十字架という過酷な二次的な路程が、神の子に残された唯一の選択肢となりました。

 

例えを挙げたほうが分かりやすいと思います。

ある将軍が戦争計画を書き留めていたとしましょう。当然、戦略を練る際には、最初の優先計画が頓挫する可能性が常にあるため、単一の行動計画だけでなく、少なくとももう1つの副次的な計画を立てるはずです。

そこで、当初の計画がひどい裏切りによって失敗し、その結果、将軍が第二次計画に従うことになったとします。あまり好ましくない第二次計画は戦争を長引かせるでしょうが、その計画は最終的に勝利へと導くことになるでしょう。もし、後に歴史家が将軍の計画書を発見したなら、将軍の計画は実際に実行されたと正しく結論づけるでしょう。

 


同様に、キリストに対する神の第一の計画は、イスラエルの民が彼ら自身の自由意志に基づいてキリストを歓迎することでした。

しかし、神はキリストのための第二の計画、つまり、もし人々がメシアを拒むなら、十字架の道という計画も持っていました。

 

どちらの計画も聖書に書かれており、神のみ旨を反映しています。

ですから、キリストの十字架刑は、神の摂理の中では、確かにあまり好まれない道ではありましたが、「それはキリストに対する神の計画を反映していました」。

 

さらに、イエスが十字架につけられる運命について語ったのは、すべて、宣教(公生涯)の2年目の終わりから3年目にかけてのことです。

 

前にも述べたように、ヨハネの福音書に記されている4つの過越の祭りは、キリストの宣教(公生涯)における新しい年がいつ始まったかを教えています。

ヨハネ2:13; 5:1; 6:4; 13:1


 


キリストの宣教(公生涯)の三年目が始まるのは、下に列挙したこれらの箇所です。

マタイ14:13、マルコ6:31-32、ルカ9:10、ヨハネ6:1

 

福音書にイエスの十字架刑の運命についてのすべての言及が記録されている時間枠を認識するとき、

マタイ 12:40、16:21、17:22-23、19:23-24、20:18-19、20:28、

マルコ 8:31、9:31、10:23-25、10:33-34、10:45、

ルカ 9:22、9:44、17:20、17:25、18:32-33、24:25-26、

ヨハネ 2:18-22、12:27、18:36

 

イエスの十字架刑の運命に対する言及はすべて、二年目の終わりと三年目の初めに起こったことがわかります。

 


従って、マタイ16:21が述べているように、「この時から」です。

(マタイ16:21) この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。

 

2年目の終わりから3年目の初めにかけて、摂理は十字架の可能性が高くなっていきました。

 

  


それでは、二番目の異議へ行きましょう。

この人は、「世の初めに殺された子羊はどうなのか」と尋ねています。彼が言っている聖句は、ヨハネの黙示録13章8節のことだと思いますが、欽定訳ではこうなっています。

 

(ヨハネの黙示録13:8) 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、[この獣]を拝むであろう。

 

(注: 英文では、And all who dwell upon the earth shall worship [the Beast], whose names are not written in the Book of life of the Lamb slain from the foundation of the world.)

 

the Lamb slain from the foundation of the world

ほふられた小羊(のいのちの書に)、その名を世の初めから

 

こうして伝統的に、子羊は、時間が始まる前に十字架につけられたと教えられてきました。

しかし、ほとんどの現代語訳では、この特定の聖句に関してさまざまな問題が指摘されています。

 

まず第一に、大きな疑問があります。「世の初め」とは何を指しているのでしょうか?「いのちの書に、しるされていないその名」なのか?それとも、「ほふられた小羊」なのか?

 

多くの議論の末に、現代語訳の多くは、「世の初め」という語句を、「ほふられた小羊」ではなく、「いのちの書に、その名をしるされていない」に付けています。

 

ESV(英語標準版聖書)、RSV(改訂標準訳聖書)、Berean Standard Bible(べリン標準聖書)、NIV(脚注参照、新国際版聖書)、Berean Literal Bible(べリン・リテラル聖書)、New American Standard Bible(新アメリカ標準訳)、NASB 1995(新アメリカ標準訳1995年版)、NASB 1977(新アメリカ標準訳1977年版)、Legacy Standard Bible(レガシー標準聖書)、Amplified Bible(詳訳聖書)、Christian Standard Bible(クリスチャン・スタンダード・バイブル)、American Standard Version(アメリカ標準訳)、NRSV(新改訂標準訳) 等々

 

従って、この聖句の正しい表現は次のようになります。

地に住む者はみな、[獣を]拝むであろう。ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めから名が記されていない者はみな。

 

そのわずか4章後の黙示録17:8では、「いのちの書にしるされていない名」に「世の初め」という言葉がつけられていることでも、正しい翻訳がさらに確認できます。

 


(ヨハネの黙示録17:8) 地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。

 

従って、この聖句の正しい翻訳で解釈する時、黙示録13章8節と、キリストが死ぬはずではなかったという考えは矛盾しません。

 


それでは、別のコメントを見てみましょう。

この人はこう書いています。

「もしイエスが死ぬはずではなかったのなら、なぜ洗礼者ヨハネは、イエスは旧約聖書で預言されていた犠牲の子羊であり、『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』(ヨハネ福音書1:29)と言ったのでしょうか?」

ご質問に対するコメント、ありがとうございました。

 

「子羊は聖書を通して犠牲を表すだけではありません。」

旧約聖書でも新約聖書でも、子羊は「純潔」、「罪のないもの」、「絶対的な信頼」を表しています。

特に新約聖書では、キリストは羊を信者に例えています。私たちは羊飼いの呼びかけに耳を傾け、汚れのない者となることを意味しています。

 

しかし、キリストは「完全な罪のない人」として「完全な汚れのない子羊」を意味し、彼だけが世の罪を取り除くことができるのです。

 


さらに、「動物の犠牲の背後にある原理」がここでは非常に重要です。

旧約聖書では、「神は動物の犠牲を喜ばれない」、「もし心が信仰と神の命令への従順によって犠牲をささげなかったなら」とあります。

この考え方の例が、サムエル記上15章にあります。神がサウルに、アマレク人の家畜も殺すように命じた時です。

 

「しかし、サウルは背き」、家畜を惜しんで、滅ぼし尽くしませんでした。その結果、神はサウルから王権の祝福を取り消しました。

サウルが、「主に捧げるために家畜をとっておいた」と抗議する時、主の代弁者である預言者サムエルは次のように言います。

 

(サムエル記上15:22) 主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、

 

このように、「犠牲の根本原理を見ることができます」。捧げ物をするとき、心は「信仰から行動し」、「神の命令に従って」いなければなりません。

こうして、「過越の祭りの目的を見ることができます」。第10の災いでイスラエル人の息子を救ったのは、小羊の血そのものではありませんでした。

イスラエルの息子たちを救ったのは、むしろ「信仰」であり、その延長線上にある「宝物の子羊を犠牲に捧げるという神の命令への従順」でした。

 

同じように、1世紀のイスラエルとその息子たちを救ったのは「汚れのない子羊」、「イエス・キリストへの信仰であったはずです」が、1世紀のイスラエルがイエスを犠牲として捧げたのは、果たして彼らの信仰ゆえだと言えるでしょうか?


 


いいえ、そうではありません!

信仰と神への従順に動機づけられた供え物ではなく、「それは不信仰の行為としか言いようがありません」。

 

イエスが弟子に尋ねられた時、

(ヨハネ6:28-29) 「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。

イエスは次のように答えられました。

(ヨハネ6:28-29) 「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。

 

「もし、人々が神の御心に従い、イエス・キリストを信じたなら、イエスは殺されなかったでしょう」。

神が常にイスラエルを抱きしめたいと願っていたにもかかわらず、イスラエルは神の使者たちを殺し、キリストを拒んだことを嘆かれながら、イエスがイスラエルのために泣かれた時、これはおそらく最も痛烈に例示しています。

 

(マタイ23:37-38) ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。

 

聖書を通して、「神は常に、民が御言葉に従い、神の代身者をより望ましい道に迎え入れることを願っていらっしゃいます」。

これが王国の第一の道でした。神はイスラエルがイエス・キリストを信じることを願いました。これだけで、長いビデオ一本分の価値があります。旧約聖書には何度も繰り返し、そのような記述があります。

 

(ホセア書6:6) わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。

 

(ミカ書6:6-8) 「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもってそのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。人よ、彼がさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。

 

(箴言16:6) いつくしみとまことによって、とがはあがなわれる、主を恐れることによって、人は悪を免れる。

 

(レビ記16:10) しかし、罪を負って荒野に放たれるやぎのくじに当たったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これを罪を負って荒野に放たれるやぎとして、荒野に送らなければならない。

 

血の犠牲のシステムは、イエスの宣教(公生涯)においてさえ、神への信仰と従順よりも好ましくないと宣言されています。

(マタイ9:1-6、ルカ7:44-50

 


イエスが罪を赦されたのは、イエスに対する絶対的な信仰と絶対的な愛と絶対的な服従に出会ったときでした。イエスは、罪人の罪がもうすぐ赦されるとか、赦されることになるとか言われませんでした。むしろその瞬間、イエスは「あなたの罪は赦された」と言われたのです。

 

(ルカ7:50) 「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

 

「罪人を救ったのは、キリストを信じる信仰」であって、十字架につけられる前であり、数年後に起こるであろう将来のキリストの犠牲ではないことに注目してください。

 

この反論に対する結論として、私たちはイエスが私たちの犠牲であったことを明らかにします。

しかし、イスラエルがキリストへの信仰を持ち、従順であった可能性と比較した場合、十字架の道は好ましくない道であり、悲劇的な道でした。

 

このように、これらの異論を深く議論することで、メシアの使命は十字架刑ではなかったと結論づける強い根拠が得られたと思います。

主張を無造作に却下するのではなく、実際の議論に快く応じてくださった方々に感謝します。

 

前にも申し上げたように、私は、このような批判的な議論を前進させるのは、都市精神と知的尊敬に基づくものだと信じています。

 

もし、メシアの使命について、さらに疑問があるようでしたら、以下のコメント欄にご意見をお寄せください。

ご視聴ありがとうございました。祝福された一日になりますように。

 

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