日本語訳
The Advent by Shinjoon Moon_ Principle Series
キリスト再臨アドベント11
イエスの秘密の使命 - 衝撃的!
文信俊三代王
翻訳&提供:Michiyo H.
Jesus’ SECRET Mission — SHOCKING!
イエスの秘密の使命 - 衝撃的!
旧約聖書と新約聖書の両方の預言を通して聖書を読めば、メシアの使命は、これ以上ないほど明確であることを見てきました。しかし、神の子はご自身の使命が何だと考えていたのでしょうか?今日は、多数の聖句を示しながら、イエスの隠された使命についてご紹介します。お楽しみください!
このビデオはシリーズの一部です。
そのため、このシリーズの前のビデオを見なければ、このビデオが基礎としている聖句とその背景を完全に理解することはできないでしょう。とはいえ、このビデオを楽しんでいただければ幸いです。
これまで見てきたように、旧約聖書と新約聖書の預言の大部分は、荒廃したダビデの家を救い、再生させ、神の正義の王国の恩寵溢れる豊かな実りをすべての国々に広める、メシア的解放者を指し示しています。
しかし、メシアはご自身の使命を何だと考えていたのでしょうか?
弟子たちから祈り方を尋ねられたイエスは、キリストに従うすべての人々のために、模範となる祈りを示しました。
マタイによる福音書6章10節に記されています。
6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい。
6:10 御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
キリストは、未来のすべての信者にこの模範を示すことで、神の王国を天と同じように地上にもたらすという、私たちすべてに同じ熱烈な願いを持つように指示しているのです。
この模範的な祈りの中には、イエスが十字架につけられ、葬られ、復活されることについては何も書かれていません。
それどころか、イエスは、彼の民が1000年以上に亘って抱いてきたのと同じ、現実的な神の王国への期待を表明されたのです。
このように、この代表的な宣言は、イエスの第一の願いが、苦難のしもべの孤独な道を歩むことではなく、神の王国を地上に建設することであったことを明らかにしています。
次に、ダビデの詩篇における第二の主としてのイエスの自己同定は、預言者たちによって予言された勝利の解放者としてのイエスの使命を直接的に証明しています。
キリストはパリサイ人に尋ねました。
(マタイ22:42-45) 「キリストをどう思うか。誰の子なのか」。彼らが「ダビデの子です」と答えると、キリストは彼らに言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。(…) ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。
自らをダビデの上に立つ主であると間接的に示すことで、肉体的にはダビデの子孫であるにもかかわらず、イエスは、詩篇110篇における第二の主であると主張しながら、自らの神聖な身分を指し示しています。
ダビデの詩篇における、キリストが第二の主であることの意味を理解するとき、イエスの願いは極めて明白になります。
(詩篇110:1-6)
主はわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せと」と。
主はあなたの力ある杖をシオンから出される。あなたはもろもろの敵の中で治めよ!
あなたの民は、あなたがその軍勢を聖なる山々に導く日に心から喜んでおのれを捧げるであろう。
主はあなたの右におられて、その怒りの日に王たちを打ち破られる。
主はもろもろの国の中で裁きを行い、しかばねをもって満たし、広い地を治める首領たちを打ち破られる。
このように、ダビデの詩篇とイエスの主張の間にあるメシア的な結びつきは、キリストが詩篇の預言を成就させたいという願望を示しています。
旧約聖書の預言とイエスの発言は、イエスの使命が最初はユダヤ人に向けられたことを証明しています。
マタイ10:5-6) 「異邦人の道に行くな。またサマリア人の町に入るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。
そして引用すると、
(マタイ15:24) 「私はイスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣わされていない」。
このことをさらに示すものとして、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書)の初期のセクションにある、学者がメシアの秘密と呼ぶものがあります。
イエスは、イスラエルの指導者たちを除いて、より広い共同体に対してメシアであることを秘密にしていました。
引用すると、
(マタイ8:4) (マルコ1:44) (ルカ5:14) 「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。
キリストがユダヤ人社会の祭司階級を特別視したのは、イエスが彼らに、エルサレムの王を信じるよう説得しようとしていたことを示しています。
しかし悲劇的なことに、イエスが自分がメシアであることを証明するためにどこに行っても、イエスは軽蔑と反感を買いました。
そこでイエスは正しく彼らを叱責されました。
(ヨハネ8:37-46)
「私は私の父のもとで見たことを語っているが、あなたがたは、自分の父から聞いたことを行っている」。
彼らはイエスに答えて言った、「私たちの父はアブラハムである」。
イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。ところが今、神から聞いた真理をあなたがたに語ってきたこの私を、殺そうとしている。そんなことをアブラハムはしなかった。あなたがたはあなたがたの父のわざを行っているのである」。
彼らは抗議した、「私たちは、不品行の結果生まれたものではない」。
イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。私は神から出た者、また神から来ている者であるからだ。(…) あなたがたは自分の父、すなわち悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている。(…) 私が真理を語っているので、あなたがたは私を信じようとしない。あなたがたのうち、だれが私に罪があると責めうるのか。私が真理を語っているのに、なぜあなたがたは、私を信じないのか」。
イエスはイスラエルの指導者たちを叱責されました。
「私の言葉が、あなたがたのうちに根をおろしていないからである。」
なぜなら、彼らはイエスを殺そうとしたからです。
イエスの本来の使命が、ユダヤの宗教指導者たちの手によって十字架につけられることであるなら、なぜイエスは自分の教えを守らない彼らを叱責するのでしょうか。
イエスがパリサイ派の人々の不信仰を何度も叱責しているという事実そのものが、彼らが救い主を信じるはずであったことを示しています。
さらにイエスは、彼らがアブラハムからの肉体的な子孫であることを認めながらも、彼を十字架につけようとする彼らの今の行動は、アブラハムがしたであろうこととは正反対であると述べています。
このように、イエスは本質的に、彼らの殺人計画は神の望まれる意志と完全に矛盾すると述べています。
イエスは、自分たちが霊的に父アブラハムの子孫であるというパリサイ人の主張を否定されました。
むしろ、彼らは彼らの父である悪魔から出てきた者であって、「悪魔の欲望どおりを行おうと思っている」。
これは、十字架の道が、神の計画を何千年もの間遅らせてきた、神の本来の意図とは正反対であることを証明する、準備された証拠ではないでしょうか。
悪魔は、神の救済計画に意図せずに加担するほど愚かではありません。
イエスは、十字架は神の第一の意志ではないと述べています。
律法学者やパリサイ人に対するイエスの断固たる𠮟責は、王の王を十字架につけようとするサタンの欲望に従うのではなく、彼らがメシアを高めなければならなかったことを直接的に示唆しています。
以前の物語と同様に、イスラエルは、預言者達や王達よりも遥かに高貴なお方を認めないという失敗を繰り返します。
(マタイ 12:41-42)
イエスは、ニネベの人々と南の女王が、イスラエルのその世代に対する裁きをもって立ち上がる、と宣告されます。
イエスの叱責の明らかな意味は、神の化身を殺害する陰謀を企てるのではなく、イスラエルは神の子に忠実であるべきだったということです。
そうでなければ、なぜイエスはイスラエルの頑迷さを公然と非難するのでしょうか。
天の父の完全な心を体現するイエスは、イスラエルが彼と一つになるべきだと表現しています。
それだけでなく、キリストが悔い改めのない諸都市を非難したことは、イスラエルが自分たちの王を歓迎すべきだったことをさらに示しています。
ルカ福音書4:17-21に目を向けると、
イエスが安息日のために、ある一節を選ぶためイザヤ書を手渡された時、イエスはイザヤ書61:1-2を読まれます。
61:1主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、
61:2主の恵みの年と
われわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、
朗読の後、彼はその会堂にいた全員の前でこう告げました。
(ルカ4:21) 「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」
これは2つの異なる理由から重要です。
第一に、イザヤ書61章の残りの部分は、聖霊に満たされた一人の人を中心とする主の恵みの年に、主がユダヤの民を解放し、集め、その結果、豊かな祝福と永遠の平和がもたらされると告げています。
この考え方は、イザヤ書61章を取り巻く節(60,61,62章)*によってさらに裏付けられます。
*参考聖句:ここでは具体的には取り上げられていない聖句です。(編者追加)
イザヤ60:19昼は、もはや太陽があなたの光とならず、
夜も月が輝いてあなたを照さず、
主はとこしえにあなたの光となり、
あなたの神はあなたの栄えとなられる。
イザヤ62:2もろもろの国はあなたの義を見、
もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。
そして、あなたは主の口が定められる
新しい名をもってとなえられる。
どちらも同じメシアの姿に続いて、この聖句が、耳にした中で成就したと宣言しています。
イエスは事実上、イスラエルを救うべき聖霊に満たされた人が現存している、彼自身がその人だと言っているのです。
さらに、伝統的な神学で言われているように、イエスが生贄の子羊であるとされていたのなら、なぜイエスはイザヤ書53章*を意図的に読み飛ばし、その代わりに数章しか離れていない、ユダヤ人に宣言された解放の一節に行かれたのでしょうか?
*参考聖句:ここでは具体的には取り上げられていない聖句です。(編者追加)
イザヤ53:3彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
主は彼を悩まされた。
彼が自分を、とがの供え物となすとき、
その子孫を見ることができ、
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
53:12それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。
これは、何世紀にもわたって信じられてきた誤解を正し、イザヤ書53章の苦難のしもべとしての本来の使命を宣言する絶好の機会だったでしょう。
それどころか、イエスが、自分は主の恵みの年をもたらす聖霊に満たされた人であると述べている時、
イエスは旧約聖書の預言の大部分と一致していることがわかります。
さらに、イザヤ書61章がどのように成就されることができたでしょうか?
もしそれがキリストの再臨において実現されるのであれば、
ルカ4章がキリストの本来の使命を力強く表現する役割を果たすのは、旧約聖書と新約聖書両方の預言の大部分と同じ視点から見てこそなのです。
主の恵みの年はユダヤの民の上にありました。
しかし、神の願いが成就するかどうかは、準備された民がメシアを受け入れるかどうかにかかっていました。
約束された主の恵みの年はどうなったのでしょうか?
次回のエピソードで、イエスの第一の使命についてのさらなる証拠を加えて説明します。
イエスの第一の使命から悲劇的な第二の使命へと徐々に変更していったことを、正確に指摘することができるでしょう。
それでは。ご視聴ありがとうございました。良い一日になります様に。
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