2022年9月21日テネシー清平水曜礼拝
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文亨進二代王
한국수요예배 韓国語水曜礼拝 09 21 2022
4:33 翻訳minion
イエス様は外的失敗者、しかし内的には勝利者
今日は、マルコによる福音書11章
マルコによる福音書11章です。1節から訓読します。
11:1さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、 11:2「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。 11:3もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。 11:4そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。 11:5すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。 11:6弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。 11:7そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。 11:8すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。 11:9そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、
「ホサナ、
主の御名によってきたる者に、祝福あれ。
11:10今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。
いと高き所に、ホサナ」。
11:11こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
11:12翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹をおぼえられた。 11:13そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。 11:14そこで、イエスはその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
OK いやあ・・・。さあ、マルコによる福音書11章。ここでロバの赤ちゃん、 だからその部分において、ユダヤ人たちが、メシアについて考える時、ユダヤ人たちが考えることは何か?完全にダビデ王のようにイスラエルの国を救って、だからローマ時代なので、ローマ時代まですべて勝って、白い馬に乗って完全にイスラエルを解放して、次にローマ時代を滅亡させて、次に誇らしく戻ってくること、立場、することを期待しました。
ユダヤ民族達はダビデ王と英雄たちが、ダビデの後孫の英雄たち、そこにメシアが来られると、そのように信じて考えたのだが、いや、イエス様はメシアではないか。メシアとして来られたのに、12名しか従っておらず、それだけでなく、汚いロバの子、赤ちゃんロバに乗ってエルサレム、イスラエルに戻って来られたのです。
これはどれほど悲惨なイメージですか?どれほど悲惨なイメージか。自分達は全てのイスラエルの民達が待っている、そのようなメシアが、栄光のメシアが、とんでもない、ロバに乗って悲惨に12人の弟子しかいなくて、12名が周辺にある木まで切っておいたのです。どれほど悲惨ですか?12名がどのくらいですか? 1,2,3・・・、だからこのくらい小さなグループだ。ハハハ。数千名、数万名のイスラエルの民たちが待っているメシアなのに、だからイスラエルのラビたちの立場からは、イエス様は失敗したメシアです。本当のメシアではないと言います。
だからイエス様を信じたら、地獄に行くと、そのように言うではないですか。ラビたちは。今、現在も。現在のラビ達は、イエスさまは偽のメシア、偽のキリスト。そうしながら現代のラビたちは、 イエス様は現在地獄の肥溜めで煮えたぎっている、イエス様をこのように言います。現在のラビたちは。
そうしながら選ばれた民族たちは、主を受け入れなければならないのに、 自分達は何を見ましたか?外見。
10人よりももう少し、12名だけが従っていて「これは何だ?12名しか従っていない」
そうしながら誇らしく白馬に乗ったのではなく、子ろば、悲惨な赤ちゃん、小さな馬に乗って、赤ちゃんに乗って入場されたのだ。
どれほどその弟子たちは、恥ずかしかっただろうか。恥ずかしく、「イエス様は本当にメシアなのか?」どれほど疑っただろうか。自分たちが信じてついてきたものは、全ての天国を、地上天国を建設して、イスラエル民族を解放して、このような約束を信じてイエス様についてきたのに、12名だけ、12名。
私たちの教会の白いバン車、 白い車があるだろ。白い車。それが全ての規模だ。小さなバンに乗る人、その規模だ。
だから自分達の境遇にどれほど混乱したことか。イスラエル民族たちの中でも様々な派があって、サドカイ派もありパリサイ派もあり、様々な派があるのだが、主と言うその小さな豆のような派は、白い教会のバン車に乗って、それしかありません。従う者はその人たちしかいない。その小さなバンに乗ることができる12名。いやあ・・・。 それがどれほど驚くべきことか。
しかし、イエス様は全人類の歴史をひっくり返しました。だから外見を見れば、大失敗。外見を見れば。しかし歴史を完全にブア~ッと・・・。
陪審員制は真理と自由を追求するユダヤキリスト教文化圏から
どうしてキリスト教文化文明圏において自由が出てくるのか。私たちは先週それを勉強しただろ。仏教の文化文明圏においては出てきません、自由は。儒教、出てきません。イスラム教はもちろんです。暴君主義。イスラムは出てきません。無神論は絶対に出てこない。目的自体がないから。
しかしどうしてユダヤキリスト教にだけ自由が出てくるのか。ユダヤキリスト教。オースギニス と言う学者が定めた部分を覚えているだろう?真理を追求する民族は、真実の人についていく。そうですね?真実を重要視します。そうですか? 違いますか?真理を追求する人は真実を追求します。 自分たちも真実を追求して、自分の人生において、自分が違う人にも真実であることを見て従い、真実を追求する価値があることによってどうなる?お互いに信じることができます。なぜなら自分の隣人が真実を求めることを信じることができます。 そのような文化があれば。
そうしながら、そこに出てくる法が何か?その法は真実を求めます。だからパワーだけがあるのではなく、真実において、その人たちは犯罪を犯したのかしてないのか、だから、陪審員のシステムも出てきます。 だから様々な人、次に、自分が性犯罪を直接みた人も法廷に入ってきますね。次に判事は決定することができず、判事は賄賂で買うことができるから、判事は決定することができず、陪審員が決定しなければなりません。
だから韓国は違うだろう。韓国、日本は判事がするだろ。これは中央政府システム、これは政治サタン主義システム。
天一国システムは何か?判事は決定しません。できません。判事は買うことができます。判事は簡単に買えます。財閥たちが。韓国と日本も同じだ。簡単だ。お金があれば、財閥のような場合は、法廷で戦えば、判事に賄賂を渡せばよい。勝ちます。 もちろんワシントン DC、 左派が運営するところは全てそうだろう。ワシントン DC もそうだ。
だから、判事が決定してはいけない。そうしながら、陪審員は誰だ?陪審員は今、現在、米国の陪審員はあちらこちらから来ます。しかし、天一国の陪審員はどこからくる?その人達の隣人だ。実体的な隣人たち。その人を知っている人達。 そして判事には決定権はない。自分たちを直接知っている人達が実体的に犯罪を犯したのか犯していないのか、全ての証拠を見て陪審員が決定する。
どうして?この文化はキリスト教、このユダヤキリスト教は何を与えた?真実、真理。判事が決定するシステムは何だ?政治サタン主義。真理を与えない。これは賄賂、賄賂を追求することになるだろう。賄賂、不正腐敗、これを与える。判事になりたい理由は、お金のパワー、このようなこと。真理を追求するためではない。
韓国、日本も同じだ。「私は判事になりたい。」これは、お金を求める。お金と地位。 そいつらも分かっている。判事になったら、財閥達が来てお金をくれる。賄賂。しかし皆受ける。皆しているから大丈夫なのだ。自分たちの立場において。
そして自分の妻と子供達は、そのお陰で生活することができると正当化する。しかしその文化はなんだ?それは真理、真実を主管する文化ではない。 それはパワーを追求する文化だ。 これは政治サタン主義。
だからユダヤキリスト教の文化文明圏において、真理を追求して、真理は善と悪がある。 なぜなら神様がいらっしゃるから、神様がいらっしゃるから私たちは神様の反対になることは悪だと分かるではないか。
影は太陽があってこそ影が現れるではないか。 反対ではない。 影があってこそ太陽が現れるのではない。 太陽があってこそ影が現れる。 反対にはならない。どういうことか分かるね?太陽があってこそ影が現れるのだろう。太陽がなければ影自体がない。そうだろう?
しかし真理を追求する文化文明圏は、真実を追求し、真実を追求する文化文明圏は何だ?これは法律において、真実を追求する法律が出てくる。
だから、仏教儒教イスラム教、・・・イスラム教は神様がいるがイスラム教の神様はそのシステムを見れば、シャリア法システムとモハメッドが作ったシステムを見たら、これは完全に中央政府だ。これは神様ではない。
だからそれは全て繋がっているのだ。仏教は全ての事が、すべての世界が何ですか?幻想だと言うではないか。ヒンドゥー教と仏教は。幻想、ファンタジー。ファンサン( 환상)がなんだ?ファンタジー?幻想。
仏教と儒教は幻想。だから現実において真理を探すことができないということだ。現実において。だから現実を超越しなければならない。山に入って瞑想をしなければならず、こうたろう。現在において、ここにおいて真理を探すことができないから。幻想だから。
ではその国において出てくる法律は何だ?全てが幻想ならば。どんな法律が出てくる? 不正腐敗しか出てくることができない。そうですね?不正腐敗しか出てこない。どっちみち幻想だから。
その判事システムも、これも、その判事は見た目は自分が正義を守るふりをするだけであって、実態は違うではないか。
だから幻想において真理が出てくることはない。 だから、真理を追求する人は皆、寺に行かなければならないではないですか。社会を離れなければならないではないですか。それならば、真理を追求する人は皆、社会を離れたらどうなりますか?不正腐敗。そうですか?違いますか?
真理が重要だと考える人が皆、山に入っていたら、そしたら社会は、どのような法律が出てくると思いますか?パワーの法律。そうですね? パワーだけを追求します。スーパーエリートたちだけが守る法律だ。そうですね?
だから、繋がっているのです。
真理を追求する民族は真実を追求するようになり、真実を追求するから自分達は社会において真実な法律が出てきて、パワーを求める法律ではなく、真実を求める法律。人が犯罪を犯したら、真実は何か。判事がこのように言っても、ビルゲイツが、スーパーエリートがこのように言っても、真実は何か、一度証拠を見てみよう、こうなるではないですか。なぜなら、真実を求める民族だから。そうですね?そこに置いて真実な法律が出てきて、 そうしたら、その社会も違います。
真理と自由の追求は責任の追及でもある
そのような部分において何が出てきますか?自由が出て来ることができます。しかし、責任。自由と責任。
先週私たちが勉強しましたね。 自由がありますが、責任があります。自分に自由がありますが、他の人の人権を奪うことはできません。
だから、神野くんが土地を持っている。次に、まりこさんの土地がある。神野君は自分勝手に家を、自分とまりこさんの土地に半分ずつ建てることはできません。
パワーのシステムではそれをすることができます。まりこさんは何もすることができません。神野君がエリートだったら。何もできません。まりこさんの土地は飛んで行きます。そうですね?
しかし、真理を追求する(法律)では、そうではありません。神野君の土地に自分(の家を)しなければなりません。次に、まりこさんの土地の人権、権利を守らなければなりません。責任。
だから、自由がありますが、それでも責任があります。自分の責任だけでなく、隣人の人権を守る責任。 どういうことか分かりますね?
だから既に、利他的な文化です。すでに。真理を追求したから、真実を追求したから、真実な法律も求めるようになり、真実な自由も出てきて、次に責任もあって。どんな責任?自分に対する責任、家族に対する責任だけでなく、隣人の人権を保護する責任。すでに利他的な文化です。
次にそのような文化において、お互いが信じることができます。はるかに信じることができます。
だから、事業をする時、そのような文化にいる人たちは事業をはるかに上手にすることができます。なぜなら、お互いに信じることができるから。契約書を守ることができるとはるかに信じることができるから。なぜなら全体的文化が真実、心理、 自由と責任を全て重要視するから。
そのような法律が出てくるから、真実を追及する法律だから、事業をしながら詐欺をしたら、その人は大きな罰を受けます。なぜなら真実を追求する民族だから。そうですね?そうですか?違いますか?
それでは、そのような国において貿易、事業をすることははるかに良いです。そうですか?違いますか?詐欺を働く人は大きな罰を受けて、 詐欺をしない人は、そうですね?
では、 考えてみてください。何を作りますか?経済的勝利。全て繋がっています。真理を追求する民族、真実な法律が出てきて、真実な法律なので悪が罰を受けて善に自由があり。しかし、自分勝手にする自由ではなく、自由と責任。隣人の人権と、隣人の土地など、守らなければならない責任。そこから出てくる文化は、経済的な勝利。経済的な勝利。
どうして共産主義は常に滅亡するのか?経済的に。真理を求めません。共産主義は。何を求めますか?パワー。だからマルクスによれば、 パワーをどのようにしてでも掴みなさい。その過程は重要ではない。手段と方法。このような原則ではないか。それは真理ではない。それは何をしてパワーをつかむか、そういうことだ。
完全にルシーェル教、サタン教の原則。パワーのためにすべてのことをしろ。このような文化はパワーを追求して、真理を追求しません。それではどのような法律が出てきますか?そのような文化において。真実を追求する文化、あるいは法律、あるいはパワーのあるエリートを保護する法律。あはあ・・・、韓国、日本、日本は、日本、韓国は、これが酷いだろ。ものすごく酷い。
儒教、仏教、イスラム教からは自由が出てくることができない。自由はユダヤキリスト教からしか出てこない。
カトリックはカイザー中央集権システム
だから世界の歴史を見たら自由がなかった。人類歴史。ユダヤキリスト教にだけ出てくるようになる。しかし、天主教、カトリックは、ローマ、カイザー王システムをそのまま受けて、なぜなら、 コンスタンティノス王はカイザー王だったではないですか。コンスタンティノス王はカイザー王だったので、自分がキリスト教を、一反はキリスト教徒を殺すことができない、そのようにしてキリスト教徒達を保護しました。
しかし、自分が作った天主教、カトリックは何ですか?カイザー王システムです。カイザーをシステムとしてカトリックは出てきました。カトリックの教皇、次に枢機卿たち、大司教たち、このようなものは聖書にはない。イエス様には、大司教、枢機卿はありません。そのシステムはカイザー王から来たのです。ローマシステムです。
だからキリスト教の言葉だけは言うが、ローマシステムです。キリスト教の根っこが文化を作りません。パワーを中心としたシステムに行きました。だからカトリックは神様を失いました。マリアを女性神として作って。
だからメシアはカトリックの基盤から来ますか?あるいはキリスト教の基盤から来ますか?カトリックに反対するキリスト教。プロテスタント。どんな基盤から来ますか?カトリックの基盤?カイザー王の基盤?あるいはカイザー王に反対するプロテスタント、キリスト教の基盤。そうですね?メシアはその基盤から来ます。
なぜなら、天主教、カトリックはカイザー王のキリスト教。イエス様はそのシステムを作りませんでした。そうですね?イエス様は教皇、枢機卿システム、大司教を作りませんでした。そのシステムを。コンスタンティノス、カイザー王が作りましたね。
イエス様は小さなコミュニティを、イエス様は中央政府システムを作りませんでしたね。人々がイエス様に良心的に従っていける(システムをつくりました)。だから、メシアはプロテスタントの基板、カトリック、カイザー王、カイザー教皇システムを反対するプロテスタントキリスト教に出てきたではないですか。再臨主は。
だから、カイザー王システムではなく、プロテスタント、ユダヤキリスト教、その基盤からメシアが来るだけでなく、世界の歴史においてはじめて、自由と責任の国々が生まれるではないですか。初めて。メシアが使うことができるキリスト教を中心とした自由と責任の国が。例えば米国のような。
それでは、 そのシステムを通して韓国も、・・・もちろん韓国は少し中央政府システムに行ったが、日本もそのように行ったが、それでも過去と比べればはるかに自由が多い。過去の時代、新羅時代、高麗時代などなど。
だから、これは全て繋がっているのです。その民族とその国が何を追求するかによって、真理を追求するのか、あるいはしないのか。
その決定は、法律にまで影響を与えるようになり、次に経済まで、人々がどれほどその国によく暮らすことができるのか、事業を設置することができるのか、公平にすることができるのか、などなど。すべてその国の根本的原則から出てきます。
真理追究の法廷は判事でなく隣人が決定する
だから天一国のシステムにおいて、真理を追求するので、あるスーパーエリート、財閥、 財閥はもちろん継続して引きずり降ろそうとしますますが、ある人が犯罪を犯した 、判事が決定しません。その人の隣人たちが出てきて、その隣人たちが「これは正しい」「これは間違っている」と判断します。そして、隣人の一人でも「これは嘘だ」と言ったら、その人は無罪です。
だから、正確な政府が出てきてこそ、そして正確な証言が出てきてこそ、全ての隣人たちは「私は不正をすることができない、この人は隣人だけど証拠を見たら、この人はそれをした」このようになってしまう。
皆さんはこれを想像できないでしょう。 十分な証拠が出てきてこそ、その人は犯罪を犯したのか犯していないのか、次に横にいる人までが、「どんなに考えてもあなたがしたでしょ」そのような人は有罪判決が出ます。判事が決定しません。
韓国の人は、日本の人は、悪い奴らは暴君になりたいから判事システムを好みます。自分たちがパワーを望むから。正義と公平と真理を求めるのではなく、そいつらはパワーを願う。そのような悪い人達は判事システムを好みます。
だから陪審員システムは、天一国の陪審員システムは大変恐ろしいです。その人が犯罪を犯したというのなら証拠がなければなりません。自分の隣の人たちまで「あなたがした」と認定することができる証拠。
だからそのようなシステムにおいて、隣人たちに良くしなければならないですね。 そうですね?隣人たちに、誠実に対さなければならない。なぜならば、ある人が「私は犯罪を犯しました 」と言ったら、 隣人たちが陪審員になることができます。インセンティブがあります。
どんなインセンティブ?隣人を追い出して関係を切ること?ノー。隣人達と上手に暮らすこと。すべての意見は同じではないが、自由、宗教の自由、他の宗教であったとしても、統一教会員でなかったとしても、その隣人たちと上手に生活しなければならないと言うインセンティブがあるではないですか。天一国憲法には。
だから幼稚な人は、小さな心だったら(関係を)切るではないか。そのようにしたら噂が立ちます。その人は早く切る。その人は信じることができない。このようになってしまう。
そのようにお互いに信じることができない社会はどこから出てきますか?共産主義から出てきます。
なぜなら共産主義はパワーを中心としているから。パワーをつかむために隣人たちはお互いに報告しなければならない。政府に。
隣人がコロナの間、5人集まることができない。しかし、隣の家で6人が集まった。そうしたら中央政府のシステムにおいて、早く報告、申告しなければならない。 警察に「隣の家に6人集まっています。」 そしたら警察が来て捕まえて行きますが、そしたら申告した人に賞金などをあげるではないですか。
どうして中央政府、政治サタン主義、共産主義、社会主義システムはそのようにするのですか? それは隣人たちがお互いに信じることができない 文化を創る。お金を与える。賞金を与える。 隣人を保護するのではなく、隣人を告発する。 隣人に対して申告をする。
そのような文化で事業をうまく行うことができると思いますか? そのような文化で自分が事業をしたければ、 ただ村を主管する財閥の王の所に行ってしなければならないではないですか。そのヤクザの長に。このようになります。
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