7.1 Jeol Declaration of God’s Eternal Blessing
7.8 Jeol Declaration of the Realm of the Cosmic Sabbath for the Parents of Heaven and Earth
【七・一節/七・八節記念行事訓読資料(天暦13年7月7日 陽2022年8月4日)】
御言選集第218巻14~17ページ
今日、堕落した人間は、サタンの血統を受け継いでいます。これが問題です。サタンの血統を受け継いでいるため、これをきれいに天に取り戻すことがどれほど難しいでしょうか? 言い換えれば、愛する恋人を失ったある男性が、その恋人が他の男性を通して生んだ子供を、自分の息子のように愛さなければならない立場が天だったということです。そのように生まれた息子を、直系の息子として受け入れる心をもつことができるだろうか、ということです。悲惨なことです、悲惨なこと。
それを一度にすることはできないので、神様は個人的立場から始めて、家庭的立場、氏族、民族、国家、世界的立場まで、そのような試練過程を経ると同時に、耐えて克服しながらメシヤが来るときまで待ったというのです。メシヤはどのようにして来るのですか? 血統を清めてから来るのです。
皆さんが知っているように、アダムとエバを中心としてカインとアベルが始まったため、この血統を清めようとすれば、カインとアベルが一つの腹中に入っていき、一つの子女として長子と次子と同じ立場で生まれなければなりません。本来、アダム家庭で生まれた最初の息子は長孫であって、そこに長孫型、次孫型はあり得ないというのです。長子や次子というものはあり得ないのです。
これを救援摂理という立場から見るとき、次子の立場を天の側に立て ‐天の側に立ててそれでそのまま血統が是正されるのではありません‐ どこを訪ねていくかというと、もう一度子宮を訪ねて入っていかなければなりません。旧約時代のタマルの役事がそれです。
ですから、皆さんが聖書を見るとき、エサウとヤコブの問題を信じることができません。妻が夫のイサクを騙し、自分の息子を騙して、次子のヤコブが祝福を奪うようにする? これはどのようにとりつくろっても説明ができません。それは邪悪なことです。悪いことです。ところが、なぜそのような内容が聖書にあり、重要な要件として残っているのかということです。
マリヤを中心としてなされたことを見てもそうです。処女が子を宿す? 処女が子を宿す、そのようなことをしてメシヤを送らなければならない天の事情は何かというのです。
そのような基盤を築くためには、エサウとヤコブからタマルへと続き、ペレツとゼラを中心として復帰し、実体的に世界、国家的基準でマリヤを中心としてこのような歴史的伝統を受け継ぎ、新しいメシヤが出現することを発表しなければなりません。世界的な時、国家的な時を中心として、それを結んで宣布することによって、歴史的国家基準が設定されるのです。宣布しなければ設定されません。
その基盤の下でイエス様が来てどのようになったのですか? イエス様が来たとき、イスラエルの国とユダヤ教がカインとアベルのように一つになっていれば、どのようになっていただろうかというのです。イエス様はどこに帰るべきか? どこに行くべきか? 父の位置に行かなければなりません。父の位置に行くためには、この地上において、今までサタン世界から天の長子権を取り戻すために、次子たちが犠牲になってきた、あらゆる犠牲の代価を復活の実体としてすべて払わなければなりません。それは何の話か分かりますか?
アベルの歴史というものは、すべてがカイン・アベル(の摂理)であり、エサウとヤコブを経て、その後も続けて連結されてきました。それをイエス様がアベル的復活実体として、国家的基準ですべてのアベルの因縁を集め、国家を代表する一つの実体として長子権を再び国家基準に設定しなければなりません。それを設定しなければ、世界的長子権を取り戻すことができないのです。
こうして何をしようというのですか? 世界的長子権を取り戻して何をするのかということです。世界的長子権を取り戻したのちにこそ、世界的な父母権が設定されるというのです。長子権が世界的闘争路程で勝敗を決定しなければ、父母が本然的父母の血縁を立てることができません。
父母がこの地に来てしなければならないことは何かというと、王権を探し立てなければなりません。天を代表するメシヤがこの地に来て、イスラエルの国とユダヤ教を中心として、ローマの国の王権を消化させなければならないというのです。闘争して消化させるのではありません。投入して再創造役事です。投入してするのです。与えては忘れ、投入しては忘れ、このようにしながら、時間を忘れ、年を忘れ、自分の生活と生涯舞台をすべて忘れて投入する一念だけが、み旨の前に残り得る道であって、自分を主張し、自分を前に立てることは、再創造過程で神様にはあり得ないというのです。
ですから、いつのときも、民族に代わるとしても、国家に代わるとしても、神様はエデンの園の堕落していないアダムとエバの血族のように、国家基準と世界基準に向き合う心に違いがあってはいけないのです。それゆえ何を継続したのかというと、アダムとエバを創造したときのように、投入しては忘れ、投入しては忘れることを、個人復帰時代も、家庭復帰時代も、氏族復帰時代も継続してきたのです。完全氏族ではなく、条件的氏族、条件的民族、条件的国家、条件的世界復帰路程で、そのような態度を取ってきたのが神様の立場であることを知らなければなりません。
条件時代であっても、方便的に適当な人間的計略と共に、ある計画と共にすることはできません。いつでも無の場で自分を投入する愛の本質的一念は、個人蕩減時代、家庭、氏族、民族、国家、世界蕩減時代まで、歴史を通ってきた神様においては変わることがなかったということです。分かりますか? 本質においても、邪悪な悪に対しても、悪魔の勢力圏に対しても、本質的形態は変わらなかったということです。ですから、サタンまでもその前には「あなたはただただ創世以降の主人です」と公認します。そのような公認をするのです。
サタンはどれほど変わりましたか? 時間ごとに変わり、東西南北の四方の環境で変わったというのです。そして、中央本部を東にも引っ張っていき、西にも引っ張っていき、南にも引っ張っていき、北にも引っ張っていき、自分勝手にどこにでも引っ張りまわしながら、中心を混乱させてきました。しかし、それを意に介さず再創造したその本性の基準を中心として、再創造路程にも耐えてこられた天が、どれほど悲惨だったかという事実を知らなければなりません。
皆さん、愛する妻を奪われ、愛する夫を奪われた立場で、その奪われた夫と妻が生んだ息子、娘をつれて、自分の息子、娘以上に愛して自分の血族をつくるという、そのようなことが世の中にありますか? 祝福家庭は、なおさらこのことをよく知らなければなりません。祝福を受ければ、それがすべてなのではありません。これは条件だというのです。
神様の心情圏を受け継ぐこの時代が訪れてくることにより、私たちは、神様ご自身が歴史的伝統を立てるために努力してきたことをまず知らなければなりません。
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