世界基督教統一神霊協会創立68周年
2022年5月30日・テネシー清平
Day of True All Things 05/30/2022
https://www.twitch.tv/videos/1313012802
【第60回真の万物の日訓読のみ言】
御言翻訳提供:江利川大陸会長
第9回万物の日のみ言(1971年5月24日)
み言選集第44巻272~276ページより抜粋
皆さんが知っているように、きょうは「第9回万物の日」です。回数で言えば、1963年5月1日に「万物の日」を設定したので、今年で満8年目になります。
私たち統一教会を中心として記念するこのような日は、世界のどの民族も、どの国も持つことのできなかった祝祭日であり、この祝祭日の中の一日が、まさに「万物の日」なのです。私たち統一教会には、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、「神の日」、このように四大名節があります。「万物の日」は四大名節の中の一日です。本来は、先に「神の日」があり、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」がなければならなかったのですが、逆さまに「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」があり、その次に「神の日」が行われるようになりました。皆さんは、「神の日」がどうして後から行われるようになったのかということを、原理を通しておおむね知っているでしょう。
復帰摂理歴史は神様と一つになった家庭を取り戻すための歴史
人間始祖のアダムとエバが長成期完成級で堕落することによって、人類の父母がいなくなりました。言い換えれば、神様が願われる真なる人類の父母が立てられるべきでしたが、そのようにできませんでした。神様が喜ばれる一つの家庭をもたなければならないのに、そのような一つの家庭をもつことができなかったのです。ですから、神様を中心とする四位基台が成立しなかったことを私たちはよく知っています。
その堕落した家庭で堕落した子孫が生まれました。堕落した家庭は、神様と内外の因縁を結ぶことのできない悪の圏内に落ちているため、神様と内外の因縁を結ぶことのできる家庭を再び取り戻すため、神様は今まで苦労してこられたのです。それが復帰摂理歴史です。
取り戻すには、国を取り戻す前に民族を取り戻さなければならず、民族を取り戻す前に氏族を取り戻さなければならず、氏族を取り戻す前に家庭を取り戻さなければなりません。そして、家庭を取り戻して立てる前に1人の男性と女性を取り戻さなければなりません。言い換えれば、悪の中心であるサタンを自然屈服させ、僕を働かせるように彼に命令し、指示することができ、サタン自身も否定できない立場で、その命令と指示どおりに動かざるを得ない、そのような基準を備えた1人の男性と女性が出てこなければならないのです。そうでなければ、神様の息子と娘の位置を決定することができません。このような息子と娘になり、神様から愛を受けて、はじめて神様の愛を代表できる男性になり、女性になるのです。そのような男性と女性になったとしても、その男性と女性の間に怨恨が残ってはいけません。
男性と女性を中心として見てみるとき、女性が男性を堕落させた結果になったため、男性の怨讐は女性であり、女性の怨讐は男性です。アダムは男性として主体の立場なので、相対的立場にいるエバが、いくら狡猾な行動で誘惑したとしても、それを主管しなければならない責任があったのです。それにもかかわらず、女性の言葉を聞くことによって堕落するようになりました。このような結果の立場から見れば、聞いてはならない立場に立つべき主体のアダムが、相対のエバの言葉を聞いてあげることによって、アダムがエバの怨讐の立場に立つようになったという事実を知らなければなりません。
神様の愛を受けるとしても、一対一の立場で受ければ、真なる夫婦の因縁が決定されません。1人の男性と女性がこの地上に現れて、互いに一つになることができず、二つになってはいけないのです。男性は男性のための男性ではなく、女性は女性のための女性ではなく、男性と女性が神様の愛を中心として内外の関係となり、誰も分離させることのできない一体となった心情的基盤を備えなければ、真なる家庭の基点を準備できないというのが原理的な観点です。
このような基準が備わるまでは、神様と人間との間隔が完全に解消されないのです。サタンと人間との間隔を広げなければならないという問題もありますが、それよりもまず人間同士の間隔を解消させなければなりません。その次に、堕落した人間として、復帰された一男一女の立場に立ち、それまで私たち人間が歴史の過程を通して犯した罪の内容によって広がった神様との間隔を解消しなければならないのです。そのようにしなければ、勝利的愛圏をつくることができないというのが原理的な観点です。
何を中心として「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」が設定されたのか
「父母の日」が設定され、「子女の日」が設定され、「万物の日」が設定されるとき、誰を中心として設定されるのかといえば、父母を中心として設定されるのではなく、子女を中心として設定されるのでもなく、万物を中心として設定されるのでもありません。父母の愛を中心として設定されることを皆さんは知らなければなりません。いくら父母になったとしても、神様と一体となり得る愛の内縁を決定しなければ、真なる父母の位置に行くことはできず、子女と万物も、真なる子女の位置に、真なる万物の位置に行けないことを皆さんは知らなければなりません。
神様は人間を造られる前に万物を造られました。万物を造られたのちにアダムとエバを造られたのです。アダムとエバが育ち、成長したのちに家庭ができて、はじめて神様の愛がその中に定着するようになっていました。つまり神様の愛はあとです。神様の愛は最後に定着するようになっているのです。もちろん個人的に、息子や娘を中心として愛の因縁が結ばれていますが、それはどこまでも縦的なものです。神様を中心として個人の男性が神様から愛を受けるのは、神様と自分との一対一の関係として、縦的な基盤にはなりますが、横的な基盤にはなり得ません。
それでは、横的な基盤はどこから始まるのですか? 縦的な立場で愛を受けていた男女が一つになるところから始まります。男女が一つになるのは、縦的な立場を終結する目的もありますが、横的な愛の理想を出発させるための起源となることを皆さんは知らなければなりません。言い換えれば、夫婦にならなければ、横的な世界としての因縁を結ぶことができません。
今までの復帰摂理について見てみるとき、神様の愛を受けてきた人たちがいて、神様が愛する一人息子を送り、愛することのできる基盤はできましたが、彼らがみ旨を成し遂げられなかったのは何のためかというと、個人的な愛を受けることができずにみ旨を成し遂げられなかったのではなく、家庭的な愛の基盤を準備できなかったからです。これが準備できないことによって、横的な世界の愛が出発できる動機が成立しなかったのであり、この地上にみ旨が成し遂げられなかったのです。このことを私たちは知っています。
この横的な愛の起源を再びみ旨の立場で望み、求めてきたのが、キリスト教が闘ってきた2000年間の道であり、キリスト教が最終目的として願っている希望の日である再臨の日なのです。
この再臨の日は、神様の息子が来ることだけですべて成就されるのではなく、そこには来られる息子を迎えることのできる新婦が設定されなければなりません。新郎と新婦が定まれば、互いに間隔を置いて暮らすのではなく、完全に一つになり、結束した基盤の上で子女の因縁が成立することによって、はじめてこの地上に神様を中心とする四方性が備わり、一つの民族なら民族をなすことのできる中心形態を備えることができるようになることを、私たちは知らなければなりません。
いくら立派な聖人がいて、神様のみ旨をよく知る人がいたとしても、夫婦の因縁を結ぶことができなければ、その人一人ではみ旨を成し遂げることができません。家庭的基盤を準備しなければならないのが創造理想であり、復帰摂理の理想であり、摂理時代を通して願ってきた歴史的な希望なのです。またそれは、歴史的な罪過を完全に清算し得る宗教の最後の目的であり、その目的を達成するために来られるイエス様自身が留まることのできる希望の基盤であることを、皆さんは知らなければなりません。
このような内的な基準が決定されなければ、「父母の日」が設定されません。今日の堕落した父母はどこから出発しましたか? 長成期完成級から無原理圏に転がり落ちた、その場から出発しました。ですから、これを再び復帰するため、僕の僕の位置から僕の位置を経て養子の位置まで上がっていかなければなりません。この養子圏内で息子との接ぎ木を通して完成圏に上がっていくようになるのです。
この完成圏とは何ですか? 堕落していない圏です。言い換えれば、本来のアダムが堕落せずに神様と自由に向き合うことのできる圏だというのです。それで、このような完成圏に越えていくためには、真なる息子を通して接ぎ木されなければならないのです。
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