LIVE 第63回真の父母の日
63rd True Parents Day 04/01/2022
【第63回真の父母の日訓読のみ言】御言翻訳提供:江利川大陸会長
イエス様を送られるとき、神様は先にヤコブ家庭を中心に、ヤコブの氏族を中心にヤコブの民族をつくったのち、イスラエルの国をつくられました。そうして、その国にイエス様を送られたのです。ですから、再び来られる主が世界に対して審判の権限をもって行使なさることができるよう、準備しなければなりません。霊的な国のようなキリスト教の中に主が来られて、どうして行使なさることができるでしょうか?
それでは、主はどこに来られなければならないか? 世界民主国家のキリスト教圏内にある国に来られますか? 国には来ることができません。国には来ることができないのです。アメリカのようなところに来られると思いますか? とんでもありません、来られないのです。そうであれば、先生はこのようなことはしません。主は個人に会いに来られます。エデンの園で何人が堕落しましたか? 2人で堕落したでしょう? ですから、主が男性として来られれば、誰を探しに来られるでしょうか? 新婦を探しに来られます。ここで新婦とは何ですか? 今日、全世界のキリスト教徒たちは、「自分たちがイエス様の新婦だ」と言います。もちろん、相対的な立場では新婦かもしれませんが、それは間接的な意味であって、直接的な意味ではそうではありません。
主が男性として来られるので、男性の主が訪ねていき、永遠の理念を成し遂げることができ、永遠な幸福の家庭基盤にすることができる与件を求めてこられます。また、天の家庭を編成するのに、全体を満たすことができる与件を求めてこられます。来られる主が男性として、そのような内容を備えてこられるので、地上でそのような全般的な内容と姿勢を備えた個人を訪ねてこられるのです。個人を訪ねてこられるのですが、主が男性である以上、女性を訪ねてこられます。新婦を訪ねてこられるのです。1人の新婦を標準として願ってきたイエス様の基準があるので、神様はそれをかかげて2000年間、キリスト教の基盤を築いてこられたのです。
ここで個人が取り戻されない限り、家庭を取り戻すことはできません。また、家庭が取り戻されない限り、氏族を取り戻すことはできず、氏族が取り戻されない限り、民族や国家を取り戻すことはできません。民族と国家を取り戻さなければ、世界復帰を考えることができないのです。ですから、主は先に個人を訪ねてこられます。分かりますか? 主はキリスト教を訪ねてこられるのではなく、キリスト教の中でも、特に天の側の近くに立ち、来られる主の前に100パーセントの純情を捧げることのできる個人を訪ねてこられるのです。
新郎となられる主は新婦を迎えなければなりません。それでは、新婦を立てて何をするのか? 家庭をつくらなければなりません。先生がこのような話をするからといって、人々は統一教会を異端扱いします。しかし、誰が異端で誰が正統か、誰が滅びて誰が栄えるのか、見ていれば分かります。
再び来られる主が新婦を迎えることによって、初めて復帰の家庭という言葉が出てきます。再び取り戻さなければならない復帰の家庭、それは人類が願う家庭です。6000年歴史の中で信じてきた大勢の宗教指導者たちが、大勢の怨讐の執権者たちや為政者たちの犠牲になりながらも、懇切に願ってきたのは、主が来られて彼らの恨と恨みを晴らしてくれることでした。ところが、主が来られて彼らの恨みを晴らすことは、主1人ではできません。1人でできたのなら、すでにやっていたでしょう。ですから、天の家庭が出てこなければなりません。天の家庭が編成され、地上に新しい足場を築かなければならないのです。そうして、心情のダイナマイトをもってサタン世界を爆破させることができなければなりません。
神様の創造目的は何か? アダムとエバを造って、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性で、女性は女性で老いて死ぬようにするためではないのです。彼らが成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して、神様を中心とする人類の真の地上天国を建設するようにするためでした。神様を中心とした愛の家庭をつくるようにするためだったのです。ここで男性のアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。それゆえ、彼らは2人ですが、彼らが横的に一つになれば、天と地が統一されるのです。神様の愛を中心として2人が統一されれば、天宙は自動的に統一されます。
イエス様が今まで苦労され、新婦を探しもとめてきたのも、そのような理由からです。エデンで2人が一つになって神様と統一されず、神様に背くことによって僕になったので、2人が完全に統一されてこそ、復帰の起源が始まります。それが何かというと「小羊の婚宴」です。聖書を見れば、「小羊の婚宴」の日があるのですが、その「小羊の婚宴」の日というものは、2人が神様の愛を中心として初めて一つになる、すなわち一つに結ばれる日であり、またその日は万世にわたって祝賀できる日なので、万民がその日を待ち望んできたのです。それで、摂理の目的もそこ、人類の歴史もそこ、宗教の目的もそこに行って終結するのです。
(『文鮮明先生御言選集』 21-42~45 1968.9.1)
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