自己心情鬼神を消してキリストの灯火を灯せ
2021年7月11日 三代王権天一聖殿・東京礼拝より
1.無意識世界の鬼神
二代王様:’21年6月16日水曜礼拝<第二部> 無意識世界の無限鬼神
だからお父様はこのように語られたでしょう。「世界を主管する前に、心と体を主管しなさい。」
その言葉は何ですか。あなたの無意識の中にいる鬼神たちを主管しなければいけません。
その無意識世界の鬼神たちを主管しなければ皆さんは継続して夫に失敗する事になります。継続して妻に失敗する事になります。継続して子供達に失敗する事になります。そして自分も知らずに子供たちにその同じ無意識の鬼神を植え付けることだろう。子供たちの人生を壊すように。
最近の二代王様の御言は自分の内なる鬼神についてでした。
極めて端的に言うと、自分の無意識世界、自分の心情にいる自分の鬼神を対象化主管し追い出し、その自己無意識世界、自己心情にキリストの灯火を灯しなさいという御言でした。
自分の無意識世界には無限鬼神がいて、その自己鬼神が夫婦間で連鎖し、それが親子で連鎖している。それだから、天宙主管の前に自己無意識世界の鬼神を対象化し斬れと言われました。
特に子女が信仰を無くして教会を離れたのも、このあなたの自己鬼神の連鎖であるから、自己鬼神と闘う勇気をもって、その成長したが信仰から離れた子女と向き合いなさい、そのような一連の御言でした。
その本質はその自己無意識心情世界の鬼神を消しキリストを灯すことなのです。
この一連の御言は、人々の具体例のみならず、二代王様の無意識心情世界、二代王様の自己鬼神のことも取り上げ、このことを説明しておられ、具体的で迫真に迫った凄まじい波動のある素晴らしい御言です。ですから何度も、上に掲げた御言を何度も何度も訓読し、瞑想の武道の訓練いただければと思います。
一連の鬼神に関する御言を如何にリンクを貼りますので、是非、何度も訓読してください。
2021年6月22日(火)キングスリポート ◆ 自身の潜在意識の悪魔と闘ってこその夫婦の絆
’21年6月23日水曜礼拝<第二部>聖殿よ、天宙主管の前に自己無意識世界の鬼神を斬れ
’21年6月29日(火)キングスリポート◆自己鬼神と闘う勇気、それは子女が信仰を失ったのはあなたゆえに
’21年6月30日水曜礼拝<第二部> 聖殿よ、自己無意識心情世界の鬼神を消しキリストを灯せ
ですから、ここでは2代王様の御言の解説はあまりせず、気づいたことを幾つか話して見ます。
2.心情とは無意識世界のこと
この一連の御言の革新的なことは「心情とは無意識世界のことである」と言われた事です。
「心情とは無意識世界のことである。そこに鬼神が隠れ住んでいる」これは非常に革命的な心理神学です。
別途扱いますが、今年3月に教えていただいた「イエス様、お父様、このようなキリストの生心は夜の神の生心から来た。それ以外の人、あなた達の生心は昼の神から来た」と言われた御言に匹敵する素晴らしい革命的な心理神学です。
多くの統一思想を中心とした教会の人々が、よく「私の心情」とか、「心情を中心として」とか、とにかく心情と言えば、自分の心情であっても、神様の心情から来ている正しい情だと、無意識レベルで勘違いしているケースが多かったのではないでしょうか。つまり心情という言葉を自己正当化の思想手段、原理として使っていたのではないかということです。
これは原理を学びながら、むしろ自分の中に住む鬼神と仲良くなり、神様からは遠くなっていた、ということになります。
ですから一連の二代王様の自己無意識世界、自己心情世界の鬼神に関する御言は、この問題に気付かせて頂き、そして如何にこの問題、自己心情鬼神を断ち斬り、如何にキリストの灯火をその自分の心情世界、無意識世界に迎えるかという、非常に革命的な心理神学です。
二代王様は無意識世界には、トラウマや痛み悲しみ苦痛などが生み出した鬼神が住んでいると言われます。心情とは無意識世界のことですから、心情に鬼神が住んでいるということです。
心情と人々が言う時、多くは自分の鬼神の事であったということです。
つまり私達の心情とは鬼神の意識や感情であるということです。
これが私達が普段使う心情の正体でした。
これを明確にされた事が、今回の二代王様の御言が革新的であったという事です。
神の心情とは、創造主としての真の愛の心情であり、我々の心情とは、鬼神に取り憑かれた心情、とらうま、痛み、そういう鬼神の心情であると言えるでしょう。
そのような明確な違いがあるのに、人々は自分の心情は神から来ているという甚だしい勘違いをしていたということです。
・神の心情: 真の愛の心情
・我々の心情:鬼神に取り憑かれた心情、とらうま、痛み、鬼神の心情
この自己無意識世界の自己鬼神、自分の心情にいる自己鬼神、これを一言で言うならば「自己心情鬼神」と表現できます。
つまり私達が神様やキリストの心情意外について、あなたの心情、私の心情という時、これは「自己心情鬼神」の事だったのです。
この自己心情鬼神が、様々な問題を起こすのです。過食症、性依存性倒錯、 怒り暴力 などなどを引き起こすということなのです。
2代王様ご自身も自殺願望にまで至った自己無意識世界の鬼神について告白されました。
真の御子女様、ましてやそのような内的な世界で闘ってこられた二代王様さえ、そうですから、ましてや我々ということなのです。
3.自己心情鬼神と正当化
よく「私の心情をあなたは理解できない。お父様は理解して下さる」とか言いますが、これが典型的なその自己正当化、自己憐憫の例でしょう。
「私の心情をあなたは理解できない」という意味は「自分の心情を大切にする」「私の心情を大切にして欲しい」ということですが、無意識世界は心情世界なのですから、実は「自分の自己鬼神を大切にする」「私の鬼神を大切にして欲しい」という意味であったということなのです。
「誰も私のことを理解出来ない、可哀想な私」という二代王様がお嫌いな自己憐憫の意味は、そのような「自分の心情世界の自己鬼神が可愛くて仕方がない、一緒に居たい」という自己心情鬼神の業だったのです。ですから二代王様は自己憐憫をお嫌いだったのです。
「私の心情をあなたは理解できない。お父様は理解して下さる」とお父様に祈り、お父様がその祈りに答えて下さるとするならば「それがあなたの自己心情鬼神だ。その自己心情鬼神と闘い正体を暴き対象化しなさい、戦い勝利するのは私でもなく神様でもなく、あなた自身だ」という答えでしょうし、恐らくまったく反応が無い、これが現実でしょう。
神様、イエス様、お父様は「私を理解して」という祈りはお嫌いだということです。しかしその自己心情鬼神と如何に闘っているか、如何に勝利すべきか、そのような祈りなら耳を傾けて下さるのではないでしょうか。
ですから、神様はお父様は、私達の皆様の共通の、このような自己心情鬼神からくる私達の祈りを聞き、二代王様を通して、私たちに「自分の無意識世界、自分の心情世界の鬼神と正面から立ち向かい対象化主管し消してしまい、この自己心情鬼神の無限連鎖を断ち切りなさい。そしてそこにキリストの灯火をを灯しなさい」と今回指導して下さったのです。
4.キリストの灯火を自己心情に灯す
なぜ私たちは自己心情鬼神を消したその無意識世界の位置にキリストのともし火を灯さないといけないのでしょうか。
それは、私達が、神様の無意識世界に繋がるためには、キリストが「道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)」
であるからです。
神様と繋がる心の門、心門とは何処にあるのでしょうか?
それは、自分の無意識世界という心情にキリストの燭台を置くことで、心の門が作られ、そこにキリストのともし火を灯すことで、その門が開くようになるということ、これが、今回の御言の革新性の神髄です。
今までの述べたことの逆説ですが、ではどうやって自分の無意識世界にある心情にキリストの燭台を置くことが出来るのでしょうか?
それが、まず自分の無意識世界にある心情にいる鬼神たちを探し、直視対象化して主管すれば、そこにキリストの燭台を置くことが出来るのです。
そして最初はそのキリストの灯火はとても小さいのですが、その鬼神たちを弱体化させ消してしまえばしまうほど、その自己心情のキリストの燭台の、キリストの灯火は明るく強く燃え上がり、この心門が大きく開き、神様の無意識世界にある心情と、それは夜の神様の心情世界、真の愛の世界と繋がることができるようになるということなのです。
そのように自己無意識世界、自己心情世界にキリストの燭台を置きキリストの灯火を灯すのは、聖霊の導きによってということなのです。
ですから御言訓読や祈祷が重要になるのです。
視点を夜の神、昼の神の観点でこれを見てみましょう。
キリスト、イエス様、お父様の霊人体の心、生心は天地創造以前の神、夜の神から来たのであり、それ以外の人々の生心は天地創造後の神、昼の神から来たと言われました。
ですからキリストを私達の生心に迎えなければ、神様の生心に繋がることが出来ないということなのです。
そのようにキリストを私達の生心に迎えるようにするのが聖霊の御業ということなのです。
このように自己無意識世界、自己心情世界、生心における聖霊の役割は当然ながらキリストと私達を繋ぐことです。神様と繋ぐことではありません。
ところが、勘違いか、無意識なのかよくわかりませんが、聖霊によって自分を直接神様と、夜の神と連結しようとする信徒もいます。
自己心情鬼神の対象化主管も、自分が、神様と、夜の神と繋がるためとするならば、それは今まで述べた無意識世界、心情世界のキリスト論で見ると大きな誤りであることが分かります。
聖霊はあくまでも人々とキリストを繋ぐために、それが目的で神様が送って下さった神様の恩恵だからです。
5.原罪、遺伝罪の記憶にまで至る無意識心情鬼神世界
そして、どうして私たちの無意識心情世界、生心にキリストを迎えなければならないのか、もう一つ重要な理由があります。
それは、この無意識世界がルシファー(ルーシェル)が嫉妬心にから神を憎みエバを誘惑し堕落させたほどの悍ましい支配欲、愛欲そのような深い深い、その無意識自己心情鬼神まで繋がっているということです。
無意識世界の鬼神という観点から見ると、原罪を清算をしても、先祖がこの無意識世界の自己心情鬼神と綿々と繋がってきたのですから、逃れようがありません。常に自己心情鬼神を対象化し主管していく戦いが続きます。
それだから、神様がその救い主として送って下さったキリストを自分の無意識心情世界に迎えてこそ、この深い無限心情鬼神を断ち斬ることができるということなのです。
御言を持って相手を裁くということがありますが、同じように、この無意識世界の鬼神の御言もって相手を裁き、非難する道具に使うという事があるかもしれません。それはルシファーに繋がる支配欲から来ており、その深い無限心情鬼神を断ち斬ることが出来ていないということなのです。
二代王様でさえ毎日数時間の瞑想を、5年もの間続けて、ご自分の自己心情鬼神を対象化主管されました。そしてそのような長年の日々の武道の鍛錬により武道の倫理でご自身の意識、無意識世界を治めるようになられました。
ですから私達の無意識世界心情世界、二代王様が言われる武士道倫理の訓練は日々怠らず鍛錬しなければならないということになります。
日々、この無意識世界の痛みと苦痛と恨み、憎悪、嫉妬、復讐心、そのような鬼神たちを観察して、心のフラッシュで照らして、息を吸って「私は生きている」吐いて「お父様(キリスト)、ありがとうございます 」 感謝、感謝・・・そのような訓練、私たちがこの鬼神たちを観察して勝つことができる力はキリストによって力を与えられているのです。
ですからこの自己心情鬼神と立ち向かうときも、その中心軸はキリストであり、その鬼神を消し去りその鬼神がいた場所にキリストの燭台を置き、キリストの灯火を灯せということなのです。
そして更には、以上のような、原罪レベルの無意識自己心情鬼神世界との戦いがあるのですが、遺伝罪、連帯罪、自犯罪にいたる無意識自己心情鬼神世界、これはこれに関する霊が、210代先祖解怨していようと、直系以外の傍系、被害者の霊が絡んで霊的な影響を与えていますから、テネシー清平の役事が始まったと言えるのです。
このような遺伝罪、連帯罪、自犯罪にいたる無意識自己心情鬼神との闘いにおいても、当然ながら鬼神を消し去り、その鬼神がいた場所にキリストの燭台を置き、キリストのともし火を灯せということなのです。
キリストの生心は神の生心、聖霊は対象だが男性
2021年3月23日キングスリポート お父様の生心は神の生心、聖霊は対象だが男性
このキングスリポートで語られた神学は極めて革新的な神学でした。ですので説教形式で語られた内容を整理して下記に論文として論述しました。
先ほどの無意識の鬼神の話も、この神学を理解すれば、より深く理解することが出来ます。
夜の神、昼の神によるキリスト論
お父様の価値と聖霊
1.三位一体
三位一体を理解するためには原理の御言だけでなく「夜の神」「昼の神」の神学で考えないといけない。
お父様は夜の神、創造以前の神(pre-creation God)から来られた。
他の人々は昼の神から来たと言われた。
「夜の神の観点から」キリストは人であり神であり三位一体であり、創造以前から父と共にいた存在であるということである。
これは三位一体は神であり「神は愛である」ことを表している。
この三位一体は「愛」を相互間応答(reciprocate)するシステムである。
この三位一体システムは愛を相互間で応答するために、これは神が人類を作る必要がなかったことを意味する。
従って、人類を作ったことは一方的な神の完全な恩恵である。それ故に「神は愛である」という結論が導き出せる。
これが現代神学の主たる結論である。
2.統一原理のキリスト論の問題点
統一原理のキリスト論は、メシアは神ではない人だと書いているので、とてもレベルの低い神学である。
原理講論該当記述:
イエスがもっておられる価値がいくら大きいといっても、既に列挙したように、創造理想を完成した男性がもっている価値以上のものをもつことはできない。[P255]
創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである。我々は、既に、イエスはどこまでも、創造目的を完成した一人の人間であることを論じた。[P256]
イエスは、地上においても、原罪がないという点を除けば、我々と少しも異なるところのない人間であられる [P258]
それに比べキリスト教では、イエスを神として扱っているので、非常にレベルの高いキリスト論である。
だから原理講論の内容だけを見ると、メシアを神ではなく女性から生まれた人とし見るようになり、神としては見なかった。
お父様が夜の神、昼の神の神学の内容を明らかにされた時、お父様は原理のキリスト論を昇格させられた。
つまり、「お父様は、ただの人間ではない。お父様は、夜の神、創造以前の神から来られたメシアである。つまり、キリストは創造以前から神と一緒におられた」というキリスト論である。
これが「キリストとしての父」の固有の特性である。勿論イエスも同じである。
原理は、その程度の低いキリスト論により韓氏オモニは「メシアはただの人間にすぎない。それで私もメシアになれる」、このように考え、罠にはまった。
キリスト教では絶対にそのようにはできないメシアは完全に唯一無二であるからだ。
お父様から氏族メシアになるように言われた内容は、救い主(神)としてのメシアではなく、氏族的に人々を救いの道に導けるようにすることである。(伝道)
救い主としてのメシアは唯一無二である。
しかし原理のレベルの低さゆえに、国家メシア、氏族メシアのメシアの意味を、お父様と同じ救い主のように錯覚して、自分を高め、お父様の価値を低くしてきた。
3.霊人体の心、生心
原理で人は四つの部分に分かれている。
原理で人は肉身(肉体、肉心)、霊人体(霊体、生心)で成り立っている。
霊人体は霊体、生心に分かれている。
しかし真のお父様とイエスの霊的な生心は「神様」である。完全な神である。
つまり、イエスであれば、神と同じ生心を持っている、イエスの生心は神である。
同様にお父様の生心は神と全く同一である。
真のお父様とイエスの生心は神と完全に一つである。
4.聖霊は女性ではない。
キリスト教では聖霊を見る二つの立場がある。
第一:ローマカトリックとプロテスタントの見方
「聖霊」(holy spirit)は、聖父(father)と聖子(son)の両方から始まったとする。聖父と聖子は別人だが、本質(substance)は同じである。
第二:ギリシャ正教会、東方正教会の見方
聖霊は聖父(father)からくるが、聖子(son)からはこない。
神は、イエスが主体、聖霊は対象として、イエスと一つになるために聖霊を送られた。
神が、イエスの生心が神と一つになるために、イエスの霊人体の対象の立場として聖霊を送られたということである。
これはギリシャ正教会の視点に近いといえる。
また、聖霊は女性でない。
イエスに対して対象の立場にあるということであって、聖霊がイエスの妻という意味ではない。
カインとアベルも、カインがアベルの対象の立場にいるが、カインはアベルの妻ではないことと同じである。
教会のフェミニストたちは、聖霊を女性に変えようとしたが、それは完全に異端である。キリスト教的世界観を破壊する内容である。
*以上の二代王様の御言を基に、既に論じた、原理原相論試論、 夜の神の存在原相論を参考に図式化してみました。ここでは簡単に口頭で論じますが、機会があれば、文章化したいと思います。
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