Wednesday, July 8, 2020

見捨てられたわれらの父 :旧約、新約聖書の神の放棄<日本語訳全文>Our Father Forsaken :The Abandonment of the God of the Old and New Testaments



kijoksoriのブログ
Give me some truth!のオーナkijoksoriさんがour FATHER FORSAKENを全文翻訳してくださいました。
kijoksoriさんさんの許可を得て、一挙全文転載掲載します。
kijoksoriさん、これだけの分量の英語文章を翻訳するその労苦は並大抵では無かったことは察するに余りありものがあります。心より感謝申し上げます。 



Our Father Forsaken:
The Abandonment of the God of the Old and New Testaments
見捨てられたわれらの父
:旧約、新約聖書の神の放棄
初版発行: 2019年11月4日
翻訳:kijoksori 翻訳完了日:2020年6月18日

概要

現代の宗教を大胆かつ力強く糾弾する「私たちの見捨てられた父」は、真理を求めるすべてのユダヤ人とキリスト教徒の注意を要求する、綿密に研究された作品です。

西暦120年、カリスマ的な説教者であるシノペのマルシオンがローマに現れ、イエスの「隠れた」教えを明らかにしました。マルシオンによれば、本当のイエスは、最高の神から人類を旧約聖書の悪なる神の支配から解放するために送られた純粋な霊であり、何千もの天の存在の中でより小さな神でした。

モーセの神とイエスの神の間の相違は、旧約聖書と新約聖書の合理的な比較によって明らかである、とマルシオンは主張しました。旧約聖書の神は、「目には目を、歯には歯」と要求しましたが、イエスは「悪人に抵抗しないでください。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、もう一方の頬を彼に向けなさい。」

マルシオンは不名誉なことに、ローマから追い出されたが、彼の活動は決して死なず、フリーメーソンの宗教に結晶化したのです。19世紀には、マルシオニズムはドイツの理性主義者に受け入れられ、現代のキリスト教へと前進しました。

そのような合理主義者は、トーラー(モーセ五書)はモーセによってではなく多くの情報源によって構成されており、本物として受け入れられなかったと主張しました。彼らは、新約聖書も同様に信頼できないと主張しました。それは目撃者ではなく編集者によって構成され、福音書は神話作成のプロセスにさらされていました。

合理主義者の神学は、米国のすべての主要なカトリックおよびプロテスタントの神学校で教えられました。

聖書は「矛盾する」ものであり、原始時代の産物であるため、宗教の学生は、キリスト教の教義は「社会的福音」に焦点を当てるべきであると教えられました。-(「社会的福音」とは、)すべての超自然的な要素と現代の感性を攻撃するとみなされるすべての箇所を取り除いた福音書。

その結果、人生のあいまいさと不安定さ、神の威厳の前の畏敬の念、そして不可解な神聖さの前での判断を欠く宗教が生まれることになったのです。

イントロダクション

軍隊への召集

この本が表現していることは、現代キリスト教における旧約聖書と新約聖書の神の放棄の歴史的批判的分析だけでなく、補正第2条の神学的擁護をも叙述しています。そのため、世界中の自由を愛する人々の注目に値します。

現代の教会では、自己防衛に関する旧約聖書の禁止命令はもはや議論のテーマではありません。レクス・タリオニス(同害復讐法)対するトーラー(モーセ五書)の主張は、残虐行為だと非難されています。この律法は、「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。」(申命記19章21節)と述べている。しかし、この禁止命令は、懲罰的な残虐行為を表すものではありません。それはむしろ、すべての人に対する平等の原則の最初の正式な宣言であり、より低い階級からのより重い刑罰を課すというモーセ以前の慣行の終わりを意味するものなのです。

同様に、第6の戒め「あなたは殺してはならない」の誤解は、リベラルで進歩的な聖職者たちに銃器の禁止と防衛費の終了を呼びかけるよう促しました。このような誤解により、ロシアのクエーカー教徒はシラミを殺すことを拒否し、むしろ「他の場所に置く」ことを余儀なくされました。しかし、この戒めの「殺す」の言葉は「ラットサック」(ratsakh)であって、ヘブライ語で、前もって計画された「殺人」(murder, manslaughter)を意味するものです。死刑の執行などの合法的な殺害や、戦争中の敵の戦闘員の殺害には決して使用されません。

ラットサックは意図的な殺人にのみ適用されるという主張は、神ご自身が旧約聖書全体を通して人々の殺害を命じているという事実によって支えられています。確かに、約1000の聖書の各節で、神は暴力的な罰の直接処刑者として描かれています。

さらに、モーセの神は、死刑によってバランスをとらなければならない道徳的犯罪を、リストに上げて禁止しています。 リストには、殺人、父親または母親への身体的暴行、被害者を奴隷、姦通、近親相姦、同性愛、獣姦に売るための誘拐が含まれます。

そのような罰の要求は、古代ヘブライ人が死刑行為に常に関与していたという印象を与えます。しかし、実際には、この本が示すように、これは事実ではありませんでした。実際、古代イスラエルでは誰もが死刑を受けることは困難でした。

まず第一に、状況証拠ではそれを扱えません。人が死によって罰せられる法律に背いていることを観察した2人の非の打ち所の無い証人が必要でした。次に、これらの2人の証人は、たとえ彼がすでに知っていたとしても、禁止された行為を犯すことによって、告発され、彼が受けるであろう死刑を警告しなければなりませんでした。最後に、その人間は警告を直接無視して犯罪を犯したに違いありません。加害者によるためらいは、死刑を彼の犯罪に適用できないことを意味したのです。

それでも、同性愛者の権利と同性結婚の時代である今日において、その考えは、同性愛を実践することに対する死刑は、残虐で野蛮であると信じている人の非常に大多数の人間を攻撃します。 しかし、そのような推論は、ムーン牧師が主張するように、同性愛に対する禁止がユダヤ教の本質に由来するという事実、およびトーラーにある、この禁止命令を考慮に入れていません。

見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。(申命記30章15~20節)

現代のユダヤ人とキリスト教徒によるモーセの神の放棄と非難の主な理由は、旧約聖書が神の名によって扇動された虐殺の記述を含んでいるという事実があるからです。ヨシュア記の第六章によれば、古代ヘブライ人は神によってカナンの地に侵入し、彼らが出会ったすべての人、男性、女性、子供を殺すように命じられました。ヨシュア記によると、彼らはこの命令に従い、砂漠は血で赤く染まりました。この聖書の一節に反応して、リチャード・ドーキンスは旧約聖書の神を「すべてのフィクションで最も不快なキャラクター」とレッテルを貼りました。

ドーキンスは、旧約聖書がフィクションの作品として書かれていないこと、その多くは、数千人の考古学者の骨の折れる予備作業によって検証されていることを鋭く知ってたにもかからず、この意見を述べたのです。それでも、現代の牧師と司祭たちは、全体的に、ドーキンスに同意し、ほとんどの場合、暴力を容認する聖書の箇所に対処することを拒否します。謝罪をすることを受け入れる人々は、そのような一節を誇張として捨て去り、ジェノサイド(大量虐殺)の行為を神の本当の目的の誤解として扱ったり、ヨシュア書やトーラーを原始的な考え方、原始的な神の存在に対する理解の反映とし、価値の無いものとして追いやったのです。

しかし、この本が主張するように、ジェノサイドの行為が必要だったのです。これらの砂漠地帯の過酷さにより、カナン人の部族は水と耕地を探し続けました。戦争は絶え間なく、非常に暴力的でした。スキタイ人は凶暴で、あごひげを生やした巨人であり、馬車の上で暮らし、(騎馬民族であり)、生きるために戦い、戦うために生き、敵の血を飲み、頭皮をナプキンとして使いました。

スキタイ人の女性は、処女である限り、乗馬し、矢を放ち、馬に乗ったまま槍を投げました。彼らは3人の敵を殺すまで処女を捨てなかった。彼女らの力が、すべて右肩と右腕に向けられるように、この女性たちの右乳房は切り落とされ、(その傷は)焼灼されていました。ヒッタイト人も同様に暴力的でした。彼らは軍事カーストとして、チグリス川とユーフラテス川の源流を支配しました。彼らはアルメニアの近くの山から鉄を採掘し、鉄の武器を鍛造し、敵に対して激しい攻撃をしかけました。彼らが捕らえた男性は炭鉱で働くことを余儀なくされ、魅力的な女性はめかけとして売られました。老人と病人は処刑されました。

さらに、カナン人は、子供たちを彼らの野蛮な神々に捧げました。聖書は、子供を生贄として捧げることがカナン人と周辺国の宗教の通常の特徴であったことを明らかにしています。 「・・・彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。」(申命記12章31節)神が命じられたように、すべてのカナン人の部族を根絶することができなかったため、これらの慣行は後の世紀にイスラエルの文化と宗教に浸透したのです。

大量虐殺とともに「聖戦」という概念が生まれました。神の敵が敗れ去る場面に、神が参加できるように、契約の箱は司祭によって戦いに持ち込まれました。紛争が始まる前に、司祭は次のように、ヘブライ軍に演説する義務がありました。

『イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。 20:4あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである。』(申命記20章2節~4節)。

補正第2条の支持者は、この多くを心に留めるべきです。モーゼの神は、自衛のための武器の使用を容認し、死刑を要求し、正当な戦争を認めたのです。

しかし、新約聖書はどうなのか?

現代の多くの司祭や牧師は、自衛の目的でさえ、銃の所有権はキリスト教徒ではないと主張しています。彼らは、イエスは平和主義者であり、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。(マタイ5章9節)と言い、また、「剣をとる者はみな、剣で滅びる。」(マタイ26章52節)と言いながら、すべての暴力行為を非難しました。彼らはマルキオンのように、イエスは人間に、神の新しい理解、モーセの律法の適用免除を含む理解をもたらしたと主張します。彼らは必然的に、この主張を、山上の垂訓からの一説を参照しながら、証明します。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。(マタイ5章38~39節)。

しかし、この本が説明するように、イエスのそのような表現は、歴史的に反聖書的であり、不正確です。イエスはむちを使って、両替商を神殿から追い出し、その時代の宗教指導者たちを辛辣な言葉で非難し、信者たちに宣言しました。

「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10章34節)。

さらに、現代の気の弱い人としてのイエスの描写は、ルカの福音書からのこの一節によって完全に損なわれています。

そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。(ルカ22章35~38節)

同様に、イエスが彼の信者に、モーセの律法の適用免除を与えたと主張する人は、彫刻ナイフで福音を編集する義務があり、山上の垂訓から、これらのみ言を含めて、主の教えの大部分を切り捨てなければなりません。

わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。(マタイ5章17~20節)

現代の銃規制の支持者は、銃を持つことと正当な戦争を支持する、そのような2000年の教えも無視しています。この伝統は、アメリカ独立戦争中のキリスト教聖職者の極めて重要な役割を説明しています。 1776年、ジョン・ピーター・ミューレンバーグ牧師は説教の終わりに聖職者の服をバージニア州ウッドストックの集会で投げ捨て、軍服を明らかにし、「祈る時と戦う時があり、その時が来た」と宣言しました。ミューレンバーグは、チャールストン、ブランディワイン、ストーニーポイント、ヨークタウンでの戦いに参加したほか、冬にはバレーフォージで戦いました。ボストンの西教会の牧師であるジョナサン・メイヒューは、暴君に対する反対は「輝かしい」キリスト教の義務であると説教することで、イギリスの占領者に対する武器を取ることに道徳的制裁を与えました。長老教会の牧師であるジェームズ・コールドウェルは、1780年にアメリカの反乱軍がスプリングフィールドの戦いで勝利するのを助けました。彼は、仲間の反政府勢力がマスケット銃と長いライフルの銃身に火薬を包んだ紙、弾丸の火薬を送る材料を使い果たしたことに気づくと、コールドウェルは近くの教会に走り、その仕事のために賛美歌の山を持って戻ってきました。近くの教会に行き、仕事のために賛美歌の山を持って帰りました。戦後、1792年の民兵法により、銃の所有権と民兵は自主的な選択肢ではなく、法的な義務になりました。

補正第2条は、旧約聖書と新約聖書、そして2000年にわたるキリスト教の伝統にしっかりと根付いたままです。

自衛のために、または家族、友人、愛する人だけでなく、仲間の人間の生命を守るために武器を所持することは、道徳的かつ宗教的な義務です。

それは単なる市民権や政治的特権の問題ではありません。

この主張の証拠は、この本のページ内にあります。
                                    ラリー・プラット

ローレンス・D・プラットは、アメリカを拠点とする銃器ロビー活動グループであり、バージニア州下院議員の元メンバーであるアメリカの銃所有者の名誉理事です。

※正確で無い部分もあるかも知れません。読んでくださる場合は、大意を知るという目的で読んでください。
キングスレポートの内容も参照されたら良いと思います。

パート1 異端

第1章 最初の異端者

マルキオンは旧約聖書を文字通りの意味で説明し、すべての寓話的な解釈を拒否しました。彼はそれを世界の創造者とユダヤ人の神の啓示であると認めましたが、それを、まさにそのような理由から、旧約聖書と福音を最もはっきりと対照させたのです。

彼は旧約聖書と福音書の間の矛盾を、膨大な作品(アンチテーゼ)で実証しました。「農夫の神の本」で、彼は、性格が断固とした正義感があって、それゆえ、怒り、争い、無慈悲である存在を見ました。自然と人間を支配する法が、彼には、この神の特性と彼によって明らかにされた種類の法とが一致するように見えたので、この神が世界の創造者であり、主である(kosmokratos)ことは彼にとって、確かなものだと思われたのです。世界を支配する法は柔軟性に欠けるが、一方で、矛盾に満ちており、残酷な場面が何度も繰り返されていて、旧約聖書の法則は同じ特徴を示しているので、マルキオンにとって、創造の神は、正義から悪意、頑固さから矛盾までの属性を、その全体を段階的な変化として自分自身の中で統一した存在だったのです。
                                            アドルフ・フォン・ハルナック、ドグマの歴史、第1巻


聖パウロの死後50年後、マルキオンというカリスマ的な説教者がローマに現れ、イエスの教えの「隠された」意味を公式に表明しました。彼の解釈は、キリスト教初期の時代にローマ帝国全体に広がった謎の宗教と、ネオプラトニストの教えに大きく依存していました。それは、魂が物質の限界を超越するために必要とされる知識、グニーシスという概念を中心としたものでした。

マルキオンによると、彼が「デミウルゴス」と呼んだ旧約聖書の厳格で怒りの神は、新約聖書の神ではありませんでした。彼が主張したところでは、イエスは、使徒行伝17章23節に書かれている、未知の最高の存在を目撃しました。このより高い神は、純粋な光の存在であり、永遠の者であり、無限の慈悲と善の泉でした。

彼の主張を確立するために、マルキオンは旧約聖書と新約聖書の間の矛盾を指摘しました。ヨシュアは、ヘブライ人との戦いを長引かれるために太陽を軌道に乗せ、キリストは、聖パウロを通して、「太陽があなたの怒りに沈むのをやめましょう」と言いました。エリシャはクマに子供たちを攻撃するように命じ、イエスは「小さな子供たちを私のもとに来させてください」と言われました。デミウルゴスは「目には目を、歯は歯」と要求し、イエスは「悪人に抵抗するな。誰かが右の頬にあなたを打った場合は、彼に左の頬を差し出しなさい。」のように。

マルキオンは、以下のようなことをはっきりと主張したのです。2つの聖書の間には突破することができない裂け目があること。そして、イエスの神は純粋な光と完全な愛の神であるので、家庭と健康の防衛のための暴力を承認する旧約聖書全体は、キリスト教の規範から廃棄されなければならないことを。

マルキオニズムに関して、聖ジャスティン殉教者は、彼の『最初の謝罪』で書いています。「そして、私たちが前に述べたように、悪魔は、ポントゥスのマルキオンを前面に出しました。彼は、神が天と地上のすべての物の創造者であること、そして、預言者たちのよって予言されたキリストが神の子であることを否定する内容を人々に教えていて、また、(本来の息子以外に存在する)別の息子のように、万物の創造主以外にもう一つ、別の神がいることを説教していたのです。そして、たくさんの人々は、この男を信じたのです。あたかも彼だけが真実を知っているように信じ、彼らがいうことを証明するものが無いが、私たちを笑い飛ばし、狼によって、羊として、不合理に連れ去られて、そして、無神論と悪魔の餌食になるのです。

マルキオンの神学は、ギリシャ・ローマの世界に広がっていたミトラ、イシス、そしてオシリス/ディオニュソスのカルトを含む、ネオ・プラトニズムと様々な謎の宗教のブレンドであるグノスティシズムに根ざしていました。これらの神秘的な宗教の多くは、4つの正統な福音書におけるイエスの描写に際立った相似点を持っていました。オシリス/ディオニュソスのカルトは、卑しい牛小屋で処女から生まれた神の息子に関し、結婚式で水をワインに変え、犠牲の死を被り、地獄に降り、終末の日に人類の裁判官として戻ることを誓い、彼の弟子たちに、パンとワインからなる儀式的な食事で彼の死と復活を祝うように指示しました。そのような平行線は、多くの異教徒がキリストと神秘的な神とを混同する原因となりました。

グノーシス主義の核心は、神の火花(魂)がすべての人間の物質(身体)に、騙されて閉じ込められたままであるという主張でした。この火花は、すべての光の源である最高の神の知恵(知識)と、魂が真の天の家に戻るために必要なパスワードによって、解放される可能性があります。グノーシス主義のさまざまな表明は、次の信念を共有しています:(1)すべての肉の欲望を含むすべての物質は悪であり、非物質的な霊界は良いものです。 (2)最高の神の本質から、宇宙のさまざまなレベルに住む、より低い神格の存在であるイオンが発せられました。(3)(物質的な)宇宙の創造者は最高の神ではなく、デミウルゴスとして知られるより劣った霊です。 (4)真のグノーシス派とは、自分自身の神性を理解している個人です。(5)救いを達成するためには、宇宙の7つの惑星に住むイオンが魂を最高の天に昇らせるためのパスワードと、イオンたちが彼らの様々な領域で振るっていた巨大な力を弱める魔除けの所有が必要です。


マルキオン正典

マタイ、マルコ、ヨハネの福音書も、イエスとヘブライ語の伝統との結びつきを示したので、マルキオンには受け入れられませんでした。彼に受け入れられる唯一の原始的なキリスト教の文書は、ルカの福音書と聖パウロの書簡でした。

マルキオンの教えは、原始的なキリスト教共同体の指導者たちによって非難されました。テルトゥリアンを含む偉大な教会の父たちは彼を「サタンの息子」とレッテルを貼りました。しかし、キリスト教の最初の異端者の運動は地中海の世界全体に広がりました。バレンティノスを含むより多くのグノーシス主義のキリスト教徒は、イエスがユダヤ人の神の邪悪な統治から人類を救いに来たと主張しているように思われました。

キリスト仮現説 
※イエスの人としての誕生・行動や死はみな、人間の目にそのように見えただけであったという見解

マルキオンが、グノーシス主義の独自の学校を設立するために出発した直後に、ヴァレンティヌスはローマに現れました。彼が主張したキリストは、マリアから生まれたのではなく、肉体のみを身につけたというものです。純粋な光で構成されたキリストの真の存在は、彼を見た人を盲目にするので、この仮の姿は必要でした。イエスは食事も排便もしませんでした。霊は苦しむことができないので、彼は十字架で死ななかった。聖なる金曜日に、彼は単に神聖な演技に従事しただけでした。

バレンティヌスによると、人類は3つのカテゴリーに分かれました。
(1)彼らの神聖な性質を知っていた選ばれた者。(2)再燃できる光の火花を彼らの中に持っていた霊能者。そして、(3)食べ、飲み、結婚し、永遠に死んだ人類の大多数。


真実の福音

ヴァレンティヌスは、セントポールの内輪のメンバーであったテウダスからイエスについての真実を受け取ったと主張しました。テウダスが大使徒から受け取った「秘密の知恵」は、バレンティヌスが紙に書いた「真実の福音」の核心を構成しました。この作品は、イエスの生涯を説明するものではなく、むしろグノーシス主義者の集会を称えるものです。その中で、ヴァレンティヌスは、人類は物質世界と彼の仲間のイオンを創造したエラー、彼はデルミウルゴスとして定義しているが、に奴隷化されたままであると主張している。何世紀にもわたって、無限の光の父なる神を人間が知らなかったことが、地球に浸透する霧に融合しました。ヴァレンティノスは、キリストの働きを次のように説明しました。

彼(イエス)が現れ、彼らに父、無限の者のことを知らせました。彼は、彼の意志を果たす間、彼らを心にあるもので励ましたのです。多くの人が光を受け、彼の方を向いた。しかし、物質的な人間は彼にとって異質であり、彼の出現を認識せず、彼を認めなかったのです。というのは、彼は肉体のようなものを纏ってやって来ましたが、それは腐ることがなく、抑制できないため、彼の道を妨げるものは何もなかったのです。さらに、新しいことを言いながら、父の心にあるものについて語る一方で、彼は間違いのない言葉を宣言しました。光が彼の口から語り、彼の声が命を吹き込みました。

彼は彼らに思考と理解、慈悲と救い、そして父の無限と美しさから得られる強さの霊を与えました。彼は、罰とむち打ちを止めさせました。というのは、慈悲を必要とする多くの人が誤って、鎖で彼から迷い出したからです。そして、彼はそれらを激しく破壊し、知識でもって彼らを嘲笑したのです。彼は、道に迷った人々のためになり、無知な人々に対する知識となり、探求する人々のための発見となり、震える人々のための支援となり、汚された人々のための純粋なものとなりました。

真理の福音は、予定論の教義を支持しています。救いのメッセージは、真の霊的な家庭を思い出す人だけが理解することができます。これらの幸運な少数は、その名前が最高の神によって発せられた選ばれた人なのです。名前が話されていない人は、完全な無知なままで生きて死ぬ運命にあるのです。

この作品に関して、リヨンの聖イレナエウスは次のように書いています。

しかし、ヴァレンティヌスの信奉者は、すべての恐怖を取り除き、自分たち自身の作品を進め、実在する福音より多くのものを持っていることを自慢します。確かに、彼らの大胆さは彼らの最近の作品、「真実の福音」というタイトルをつけるまで成功しましたが、使徒の福音とは全く一致しておらず、彼らの福音は冒涜の域を出るものではありません。 彼らが生み出したものが、「真理の福音」であり、使徒たちが私たちに伝えたものとは異なるならば、それを注視する人は、使徒たちから伝えられている聖書そのものと、「真実の福音」がどのように示されているかを学ぶことができます。 

福音の供給過剰

2世紀を通して、ヨハネの秘密の教え、12人の福音書、トマスの福音書、エジプト人による福音書など、他のグノーシス派の福音書が数多く登場しました。これらの作品は広く出回っていたので、クリスチャンにとって、正統派の聖書の正典を確立することが避けられなくなったのです。

この任務を達成するためにイレナエウスは、信者はローマ教会に目を向けるべきだと主張しました。 「・・・最も偉大で普遍的に知られている教会。 誉れ高い使徒、ペテロとパウロによって創設され、確立された・・・」この助言に耳を傾けることにより、2つの目的が達成されました。(1)中央の権威、ローマ教会が設立され、そして、(2)4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカとヨハネは、これらは最も古く、最も信頼できる福音書として認可されたのです。
マルキオン主義の変容
しかし、新約聖書の正典の設立でさえ、マルキオンの運動に終止符を打つことができませんでした。それは、8世紀にシリアに現れたパウリシア人の形をとって現れ、それは9世紀にブルガリアに現れたボゴミル人の教えの核心を形成しました。また、11世紀にフランスのラングドック地方に生まれたカタリ派の思想を活気づけました。

マルキオン主義は、最終的にロンドンの「グースとグリディロンエール・ハウス」で1716年に設立されたフリーメーソンの秘密結社で、明確な形を取ることになったのです。フリーメーソンは、自分自身を最高の神の使者として見ました。すべての人間に植え付けられているモナドの火花の知識は、フリーメイソンのメンバーが一連の段階的なステップ、または、アルカノム・アルカノラム(同友会の中の上位組織)に彼らが入ることができる価値までの「レベル」であり、「光と呼ぶ真実」を受け取る「学位」を介してのみ、受け取ることが出来ると信じているのです。

フリーメイソン百科事典の中で、アルバート・G・マッキーは次のように書いています。「フリーメーソンの宗教は派閥的なものではありません。それは、人を親切にもてなす心情の中のあらゆる教義の人間を認め、その人の特定の信仰を誰も拒否せず、誰も承認しません。それはユダヤ教ではありません。・・・それはキリスト教ではありません。それは宗派の信条や教義に干渉しませんが、根本的な真実を教えます。それの祭壇では、全ての宗教の人間が、それの信条に、あらゆる信仰が出資する信奉者にひざまずくことがあります。T

フリーメーソンの動きは、南アフリカ、インド、アイルランド、ドイツ、オランダ、ロシア、スペイン、フランスに急速に広がり、そこでは、フランス革命の火付け役となりました。米国では、フリーメーソンのリストには、ジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、ジョン・ジェイ、イーサン・アレン、パトリック・ヘンリー、ポール・リビア、ジョン・ブラウン、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ハンコック、ジョン・マーシャル、トーマス・ペイン、ウィリアム・ランドルフ、ロジャー・シャーマンが含まれています。

旧約聖書の終わり

18世紀半ばには、世界中の主要な「キリスト教」神学者が古代異端を公然と支持し始めました。 ドイツでは、著名なルーテル神学者でフリーメーソンのヨハン・サロモ・ゼンラー(1725-91)が次のように書いています。「原則として、キリスト教徒は旧約聖書の本を通して神について知ることはできません。キリストとその弟子の完全な教義を通してだけです。」 

100年後、別のフリーメーソンであるドイツの神学者アドルフ・フォン・ハルナック(1851-1930)は、マルキオンに捧げられた本の中で、次のように書いています。 
2世紀に旧約聖書を拒否することは、教会が正しく回避した誤りでした。16世紀にそれ(旧約聖書)を維持することは、宗教改革でさえ逃れられなかった運命でした。しかし、19世紀に、それ(旧約聖書)をプロテスタントの信条の心臓部にある、権威を認められた文書として保存することは、宗教的および教会的な麻痺の結果です。」

疎外の象徴

マルキオンのグノーシス主義は、フリーメーソンの神学的基礎を形成し、アーサー・ショーペンハウアー、カリ・ユング、トーマス・マン、ハーマン・ヘッセ、ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキーのような、影響力のある作家や哲学者の思想に影響を与えました。 また、それは、現代キリスト教の主流の中核を成し、旧約聖書の神を原始的で野蛮な人々の産物として退け、イエスを神学的啓発と宗教的無関心の先駆者として支持したのです。

20世紀の新約聖書の主要な学者であるルドルフ・ブルトマンは、旧約聖書の神の戒めが人間に法の下で生きることの結果を認識させるのに役立ち、一方、福音は彼らをこの従属から解放すると主張しました。 ブルトマンにとっては、旧約聖書は、神と人類の疎外された関係の単なる象徴を表しているに過ぎないのです。

ナグ・ハマディ文書の発見

20世紀のグノーシス主義の台頭は、エジプトの上部の町ナグ・ハマディの洞窟内にあるヴァレンティノスの「真実の福音」を含む古代グノーシスのテキストの登録蔵書の発見によって促進されました。 これらのテキストの編集者であり、長老派の牧師であったジェームズ・ロビンソンは、グノーシス派の精神性に対する彼の魅力を次のように書いて宣言しました。 「この[Gnostic]蔵書の焦点は、原始的なキリスト教、東洋の宗教、そしてすべての時代の聖人と、1960年代からの反体制文化運動のような、今日のより世俗的な同等物と多くの共通点を持っています。 ロビンソンの見解では、正統派にほかならないグノースティシズムは、原始的なキリスト教の「有効な軌道」であった。ロビンソンの見解では、正統派に劣らないグノーシス主義は、原始キリスト教の「正統な根拠のある道筋」でした。

第2章 新しいグノーシス主義

グノーシス主義は私たちに高い権威でもって、そのような真実をもたらすことができます。というのは、それは、人間の最高の部分、精神でもって語るからです。 この精神の中で、「それは思いのままに吹く」と言われています。これが、何世紀にもわたる迫害にもかかわらず、グノーシス主義の世界観を根絶することができなかった理由です。グノーシスの世界観は常にタイムリーであり、真のグノーシスである「心の知識」に常に最善の反応を示してきました。しかし、今日、その適時性は高まっています。なぜなら、第二千年紀の終わりには、グノーシス主義によって扱われた大きな質問と回答を逃れた多くのイデオロギーの根本的な悪化が見られたからです。人間の苦境の問題に対するグノーシス主義の答えの明快さ、率直さ、および信憑性は、感銘を受け、(時間内に)納得させるのに失敗することはありません。

ステファン・ホエラー「グノーシス的な世界観」2018


グノーシス的な福音の再循環は、進歩的なキリスト教学者に、「新しい世代」のために「新しい形態」のキリスト教が発見されたと主張するよう促しました。聖公会のジョン・スポンジ司教は、クリスチャンがついに“時代の終わりに ...最も伝統的なキリスト教の教義が.... 時代遅れになった”と宣言し、教会にその「神の神論的定義」を放棄するように求めました。

グノーシス主義キリスト教の復活に合わせて、ティモシー・フレークとピーター・ガンディは「イエスの謎」を書きました:「オリジナルのイエス」は異教徒の神でしたか?本の中で、ヴァレンティノスのような二人の著者は、イエスが肉体と血が流れる人間であることを否定しました。 フレークは、新しく発見されたグノーシス派のテキストが彼らの作品に与えた影響について説明し、次のように述べています。 「それが成し遂げたのは、キリスト教に対する私たちの理解を完全に変えることです。そのメッセージは歴史的出来事の信仰に結び付けられていないので、あなたはそれが起こったと信じるかそうでないかのどちらかです。そして、あなたがそれを信じるなら、あなたは救われます。 そうでないなら、地獄に落ちます。私たちが発見したのは、本来のキリスト教のメッセージが、それよりもはるかに深いということです。 それは、本来のクリスチャンにとって、自分自身がキリストになることについてでした」。 「イエスの謎」は非常に高く評価され、イギリスでベストセラーの地位を獲得し、「Book of the Year」賞を獲得しました。

物質に汚されていない精神的なキリストのグノーシス主義の概念に染まったカナダ合同教会(カナダ最大の宗派)の司会者ビル・フィップスは、天国と地獄の現実と同様に、処女生誕説、キリストの身体的復活を否定しました。 「人々は、私たちの教会には幅広い信念があることを理解しなければなりません」とフィップスは説明しました。宗派の一般評議会は、この立場を支持して、次のように発表しました。「めったにないことだが、もしも私たちが「帰属の輪」、から誰かを排除するために、教義の基準を用いるなら、「メインラインのグノーシス主義」でピーター・ジョーンズが指摘した「帰属の輪」としての教会は、すべての宗教と信仰の表現が歓迎される、すべてを含む異教の一元主義の輪に変化したのです。 つまり、歴史的な正統派を除いたすべてということです。

さらに、聖書の神を超越する最高の光の神のグノーシス主義的見解は、レズビアンとゲイの懸念のための長老派グループによって公然と推進されています。毎月発行の「More Light」では、さまざまな「神霊の王国である神聖な源へのつながり」の例について、霊的な証詞を呼びかけています。(以下、一部省力)

彼らが信じた「神の死」神学で、喜んでいた新しいグノーシス主義は、ユダヤ・キリスト教神学の終わりを祝ったのです。1974年、神学者のデビッド・ミラーが宣言しました。神の死の発表は、文明の使いみちの無いひたむきさと1次元の規範の死亡でした。その宗教だけでなく、その政治、その歴史、社会秩序、その倫理、およびその心理. . . . . . . . . . . . . . .ミラーは「神の死によって一神教の圧政帝国主義から解放されたとき、人間は現実の歴史の奥に隠された新しい次元を発見する機会を持つ」と預言しました。聖書の神の葬儀で、ミラーは、神秘的な宗教とグノースティシズムの神々を含む、古代ギリシャとローマの神々と女神たちの精神性の再生を発表しました。


復活するマルシオニズム

最近、宗派の公式出版物であるUnited Methodist Insightは、ブライアン・スナイダーによる題名の記事を掲載しました。 「イエスの人々のための銃はない。」スナイダーは、武器を使って自分を守るクリスチャンを非難し、そのような自己防衛はイエスの教えに反すると主張しました。彼は教派の教えを支持して、次のように書きました。
神の愛を信じるクリスチャンの手の中には、銃はありません。少なくとも、自衛のために使われる銃はありません。あなたが自衛のために銃を所有している場合、それはあなたがあなた自身とあなたの家族を救うために殺すことになるほど死ぬことを恐れていることを意味します。それは、あなたが他の頬を回すこと、剣で生きる人々、そして敵を愛することについてのイエスの教えを無視することを意味します。それは、イエスのミニストリの最後から2番目の行為、ローマ人の手による彼の死、大悪に直面した彼の非暴力的な抵抗を無視することを意味します。悪に対する暴力を使うことは、トーチを使って誕生日ケーキを照らすようなものです。うまくいくかもしれませんが、関係者全員にとって非常に危険です。代わりに、はるかに優れたツールが利用可能です。ヨハネは「神は愛です」と書いたとき、神の本質は愛であると主張しました。それは愛が深遠に強力であることを示唆しています。愛は、銃や爆弾、悪ではなく、宇宙で最も強力な力です。したがって、おそらく悪を打ち負おうとするなら、それを使ってみてください。

この立場に従って、統一メソジスト教会は、全米ライフル協会が2016年の総会で情報テーブルのスポンサーをすることを禁止しました。確かに、統一メソジスト教会の最高存在は、古代イスラエル人にそれを住んでいたすべての部族の約束の土地を取り除くように求めたモーセ、ヨシュア、ダビデの神とは大きく異なります。


男女兼用の神

2017年、ユナイテッド・チャーチ・オブ・キリスト(UCC)は、次のような包括的言語規約を発行することにより、グノーシス主義の高等神への信仰を支持しました。

私たちは、神のために男性、女性、性別に依存しない言語と画像を含めるように努め、神が1つの性別に排他的に関連付けられていることを誤って示唆しないように、選択された言語と画像が広がるように注意を払います。(例:「神の知恵の中の神(God in his wisdom)」ではなく「神の知恵の神(God in God's wisdom)」。「神、私たちを父として見守る。 」ではなく、「神、私たちを父として見守り、私たちを母として育てる神」)

私たちは、人々の代名詞やイメージに男性のみの用語を避けるのに役立つ言語を含めるよう努めます。 (例:「人(men)」ではなく「人(people)」、「人類(mankind)」ではなく「人類(humankind)」、「先祖(forefathers)」ではなく「先祖(forebears)」、「大人(man)になるとき」ではなく「大人(adult)になるとき」)

私たちは、人のさまざまな体調や能力に関して軽蔑的な言葉やイメージを含めないようにします。 (例:「すべてが立つ」ではなく「立つかもしれない」;「ハンセン病」ではなく「ハンセン病の人」。)

UCCが崇拝するユニセクシャルな神とトーラーの神の間には、わずかな類似性が残っています。「主はいくさびと、その名は主。」(出エジプト記15:3)、ヘブライ語の預言者の力強い神は言うまでもありません:「主は勇士のように出て行き、いくさ人のように熱心を起し、ときの声をあげて呼ばわり、その敵にむかって大能をあらわされる。」(イザヤ42:13)。

旧約聖書の神は、UCCの神とは異なり、男性的です。旧約聖書が神の行動を説明するために使用するすべての言葉の形は男性的です。モーセは神の顔に向かって「人と人に話しかける」ように話します(出エジプト33:1)。そして、50以上の旧約聖書のテキストは、王として神を紹介しています。例えば、詩篇93には次のような言葉があります。

主は王となり、威光の衣をまとわれます。主は衣をまとい、力をもって帯とされます。


唯一の真理の源

ローマカトリック教会の独断的な完全さは、精神的排他性の主張にありました。それは、それだけが絶対的、普遍的、そして一義的な真実を所有しているという断固たる主張です。その教会の教義から逸脱した、いかなる宗教団体も誤りでした。この教えの最初の表現は、聖キプリアンの「カトリック信仰の統一について」(AD240)からの次の文章から来ました。

キリストの配偶者は不当になることはできません。彼女は処女で貞潔です。彼女は1つの家を知っており、貞操帯を備えた1つの花嫁の部屋の尊厳を守っています。彼女は私たちを神のために守っています。彼女は王国に彼女が命を与えた息子を任命します。教会から引き離された者は誰でも姦婦にくびきをつけられ、教会に対する約束から引き離されます。キリストの教会を去る者も、キリストの報いに到着することはありません。彼は見知らぬ人です。彼は神聖です。彼は敵です。母親のための教会を持っていない人は、父親のために神を持つことはできません。ノアの箱船の外にいる人が逃げることができるなら、教会の外にいる者も逃げることができます。エクスクレシアム・ヌッラ・サルス(「教会の外には救いはない」)は、聖アンブローズ、聖ジェローム、聖オーガスティン、聖トーマス・アクィナスなどの偉大な正統な教父によって支持され、第四ラテラン評議会によって支持されました。1431年のフィレンツェ評議会は次のように宣言しました。

最も神聖なローマ教会は、異教徒だけでなく、ユダヤ人、異端者、分裂主義者もカトリック教会内に住んでいない人々が永遠の命の参加者になることはできないと信じ、公言し、宣言します。人生の終わりの前に、同じものが群れに追加されていない限り、「悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。」(マタ25:41)。そして、教会体の団結は非常に強く、その中に残っている人だけが救いのための教会の秘跡であり、断食、施し、その他の信心深さとキリスト教の奉仕の機能が永遠の報酬を生み出します。たとえ彼がキリストの名のために血を流したとしても、彼がカトリック教会の懐と団結にとどまっていない限り、彼が実践したことは何であれ、誰も救われることはない。

1856年3月17日に発行された彼の回勅のシングラリキデムで、ピウス4世は次のように主張しました。「使徒ローマ教会である、真の聖なるカトリック教会は1つだけです。主の言葉によってペテロに設立された大司教の権限はただ一つです(聖キプロス、手紙43)。その外では真の信仰も永遠の救いも見つけることができません。母親のために教会を持っていない人は、父親のために神を持つことはできません。」5年は、バチカン公会議、ピオ12世のグレゴリオ大学への同行(1953年10月17日)の招集の前です。聖書の通訳者であり保護者であり、彼女の内に住む聖なる伝統の預言者である教会だけが救いへの入り口です。彼女だけが、聖霊の保護と指導の下で、彼女だけが真実の源です。


偽りと真のエキュメニズム

カトリックは、1つの真実と使徒の信仰を表したので、教皇ピウス6世は、彼の回勅モタリウムアニモス(1928)で偽と真のエキュメニズム(世界教会主義)の区別を描きました。その回勅で次のように述べています。

教会を統一することに心を向けるこれらの汎クリスチャンは、実際、すべてのクリスチャンの中で慈善を促進するのに、最も高貴な考えを追求しているように見えます。それにもかかわらず、この慈善は信仰を傷つける傾向がありますか?愛の使徒ヨハネ自身が、福音書でイエスの神聖なる心の秘密を明らかにしているようであり、彼の追随者たちの記憶に、新しい命令「お互いを愛しなさい」を全く印象づけることを決して止めなかったことや、完全に骨抜きにされ、腐敗したイエスの教えのバージョンを公言する人々との交流を禁じて:「誰かがあなたに来て、この教義をもたらさないなら、彼を家に連れて行ったり、彼に幸運を祈ってはいけない。そのため、慈善は完全で誠実な信仰に基づいているため、キリストの弟子たちは主に一つの信仰の絆によって結ばれなければなりません。キリスト教の連盟を思い付くことができるのはだれですか。その連盟のメンバーは、他の人々の意見に反しているにもかかわらず、信仰の対象に関係する問題でさえ、自分の意見と私的な判断を保持しますか?そして、私たちは、どのようにして、反対意見に従う人と、忠実な人たちの同じ信仰の連邦に属することができるのでしょうか?

いかにして、様々な意見が、わたしたちが知らない教会の統一に影響を与える道を明確にすることができるか、それは、統一は、一つの教職、信仰の法則、キリスト教徒の一つの信仰からしか生じることができないのです。しかし、このことから、宗教や無関心を無視し、モダニズムを呼び出すのは簡単なステップであることを知っています。これらの誤りに不幸に感染している人々は、独断的な真理が絶対的ではなく、相対的であることを保持し、すなわち、それは不変の啓示に含まれていないので、時間と場所の様々な必要性と心の様々な傾向に同意し、しかし、人間の生活に収容することができるのです。


カトリック・グノーシス主義

この立場は、第二バチカン公会議とグノーシス派の福音の発見の後に崩壊しました。宗教的無関心の精神が教会に入り、その大事な主張を侵食し始めました。教皇パウロ6世が1965年10月28日に発行した勅令であるNostra Aetateで明らかになりました。「ヒンドゥー教では」この勅令は、「人間は、神の謎を熟考し、神話の尽きることのない豊富さと哲学的探究を通じてそれを表現しています」と述べました。彼らは、禁欲的な慣行、深い瞑想、または愛と信頼のある神への逃避のいずれかを通して、私たちの人間の状態の苦悩からの解放を求めています。」1969年8月22日、彼はマハトマガンジーが「神の存在を常に意識している」と述べてヒンドゥー教を称賛し続けました。ブラフマ、ヴィシュヌ、シヴァは聖三位一体に取って代わるようになりました。

パウロ6世はNostra Aetateで主張します。「仏教は、敬虔で自信に満ちた精神の中で、人間が自分の努力によって、またはより高い助け、最高の照明を通じて、完全な解放の死の状態を得ることができる方法を教えています。 1973年9月30日、彼はダライ・ラマに挨拶しました:「今日はあなたを歓迎できて幸せです。あなたはアジア、古代の宗教と人間の伝統の発祥地から来て、正しく深い崇拝に保持されています。しかし、アジアはユダヤ教もキリスト教のゆりかごもなく、ポンティフが現在「深い崇拝の中で」保持している信仰は、旧約聖書と新約聖書とカトリックの伝統の「明らかにされた真実」を否定したのです。

そのような宗教的無関心の声明は、カトリック教徒に信仰の伝播協会の目的と、非カトリック教徒が彼らの固有の宗教とカトリックの宣教師の目的から改宗する必要性を疑問視させました。他の宗教に関するパウロ6世の声明が米国のカトリックの宣教師を急激に減少させたのは驚くことではありませんでした。その数は1968年の9,655から1996年の4,164に減少しました。


人間の崇拝

教皇パウロ六世はグノーシス主義に沿って、人間の神性と、ヒューマニズムの新しい形の台頭について語りました。バチカン公会議の最後の総会に向けて、彼は次のように述べました。「我々の評議会の関心は人間のニーズの発見によって吸収されました。しかし、私たちは、現代のヒューマニストと名乗る人々、そして最高の現実の超越的な価値を放棄した人々に、少なくとも1つの品質について評議会に信用を与え、私たち自身の新しいタイプのヒューマニズムを認識するよう呼びかけます:私たちも、実際、私たちは他の誰よりも、人類に敬意を表しています。私たちは人間を崇拝します。1971年に、彼はアポロ計画の成功を記念してこの記者発表文を発行しました。「人間は地球の王であり、天国の王子です。人への敬意、思考への敬意、科学への、技術への、労働への、科学的で組織的な人間の活動の統合への敬意を送ります。」


アッシジでの集まり

教皇ヨハネ・パウロ二世はパウロ六世のグノーシス主義を広め続けました。1986年10月27日、イタリア、アッシジの聖フランシスコ大聖堂で祈りと礼拝の祝いの場で、彼と団結することを願って、世界中からさまざまな宗教の指導者を招きました。集会には、ラビ、イスラムのムフティスとムラー、仏教の僧侶、ジャイナ教徒、プロテスタントの主流派の牧師、アフリカ系アメリカ人とネイティブアメリカンのアニミスト、ヒンズー教徒、および聖フランシスコの遺骨を納めた祭壇の前に繰り出したゾロアスター教徒が出席して、平和と宗教の一致のための祈りを捧げました。ダライ・ラマは祈りを捧げる前に、神聖な幕屋に仏像を置き、線香を灯し、教皇は敬意を表して頭を下げました。

2004年1月24日、ヨハネ・パウロ2世はアッシジの聖フランシスコ大聖堂で別の汎キリスト教の集会を主催しました。このイベントに備えて、伝統的なカトリックのすべての十字架と装飾具はドレープで覆われていました。聖堂の低いレベルの修道院の中で、イスラム教徒はメッカに直面した部屋を与えられました。ゾロアスター教徒は、木のチップを燃やすことができるように窓のある部屋を割り当てられ、ユダヤ人はイエス・キリストの名の下に祝福されなかった部屋を提供されました。集まりのハイライトは、ブードゥー教の司祭が聖なる父を含むすべての出席者にガラガラを振るためにバシリカの中央聖域内の教壇に登った後、静けさのブードゥー教の呪文の下にそれらを置いたときに来たのです。


新しいカトリック主義

死の集まりに反応して、ロバート・スンゲニスは、カトリック・アポロジェティックス・インターナショナルの記事で、「もしも、教皇が世界の宗教がカトリック教徒との相互の関心事として、肉体的および精神的な祝福を祈ることができると信じるならば、彼はまた、神が忠実なカトリック教徒の祈りを聞くのと同じように、神が異教徒の祈りを聞くところまで、それは、異教徒が単なる偶発的な関係ではなく、(神と)確立された関係を持っていることを信じなければならないようです。さらに、異教徒の偽りの神々と罪深いライフスタイルの崇拝によって、神は少なくとも、(そのことによって)邪魔されてはいないこと、またカトリック教徒が、異教徒に、偽りの崇拝とライフスタイルを思いとどまらせてはいないことを示唆しています。

マルシオンの宗教的無関心を新しいカトリック正統派に変え、教皇フランシスは、史上初めて、イスラム教徒の祈りを暗唱し、バチカンの境界内で、イマーム(イスラム教の導師)がイスラム教徒の祈りを朗読し、コーランから読むことを許可しました。

祈りの礼拝は、パレスチナのマフムード・アッバス大統領とイスラエルのシモン・ペレス大統領によるホーリー・シー(聖座)訪問と共に、2014年6月6日に行われました。ビーミング教皇は報道陣に語った:「会議が分裂するものを克服するために団結する新しい旅の始まりを表わすことを願っています。フランシスは、残念ながら、アラビア語で提供されたイマームの祈りが「フィールド内にあるすべてに対する勝利」を求めていることに気づいていませんでした。無関心の別の表出では、教皇フランシスは、イスラム教徒の祈りのビーズを特徴付けた2016年1月16日に祈りのビデオを公開しましたが、ロザリオ、仏像はなく、聖母マリアはおろかカトリック聖人の像もありませんでした。そしてメノーラはあるが、十字架はなかったのです。

創世記の主なる神は、彼自身のイメージと類似性で人間を作りました。この教えはひっくり返ってしまいました。多くの現代キリスト教徒の神は、彼らの宗派の進歩的な指導者のイメージと類似性で作られています。この変容を宣言し、神の神聖さと義をあえて支持する者は誰でも「ゆがんだ」「非良心的だ」と描かれています。

ルカ22:35-38には以下のように書かれています。

22:35そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。 22:36そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。 22:37あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。 22:38弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。

そのような言葉に気を付け、旧約聖書の明らかにされた真実を支持することは、多くのキリスト教の聖職者には受け入れられません。福音の真理を拒絶する理由は、彼らが一流のプロテスタントとカトリックの神学校を統括するマルシオニストによって、誤った信念に教化されたという事実の中に存在します。

第3章 神学校での滞在

歴史的に重要な方法は、古代のテキストの意味を科学的に研究するために不可欠な方法です。聖書は、「人間の言葉による神の言葉」であるため、そのすべてのさまざまな部分とその背後にあるすべての情報源で人間の著者によって構成されています。このため、その適切な理解はこの方法の使用を認めるだけでなく、実際にそれを必要とします。

「教会における聖書の解釈」 ポンティフィカル聖書委員会、1984年3月18日

確かに、多くのクリスチャンの信仰は、もし、信念を打ち砕かれなかったり、主要であり主流のプロテスタントまたはカトリックの神学校に学生として入学したりすれば、試練を受けることでしょう。旧約聖書のクラスに参加すると、彼らは聖書がさまざまな対立する情報源から来ていることや、一神教の概念を含む基本的な教義を支持できないと確信させるような、現代の聖書批判にさらされます。彼らは、古代ヘブライ人が、人間の犠牲と虐殺に従事した、特に暴力的で血に飢えた遊牧民の部族で構成されていたことを教えられます。

新約聖書のクラスでは、生徒たちに、福音と書簡が、ISISとミスラスのカルトを含む謎の宗教に根ざしていることを知らせます。処女誕生の説明は宗教的融合の結果であると。イエスの壮大な奇跡には歴史的根拠がないこと。そしてイエスの復活は、イエスの体が空腹のジャッカルによって引きずられたという事実から生じた敬虔な神話であったこととされているのです。

卒業証書を受け取るまでに、神学校は聖書を原始的な神話と民俗学の寄せ集めであり、政治的または宗教的な立場を支えるために使用できると説明します。このため、彼らは菓子屋の聖職者になりがちで、聖句のある箇所を重要なものとして選択し、別の箇所を野蛮な過去に追いやる。この精選と選択のプロセスから、アブラハムの野蛮な神と詩篇の思いやりのある神という二神性が現れました。したがって、世界中の教会で、古代の異端のマルシオンの歴史の復活がやって来ます。


聖書批判の形式

主流の神学校では、さまざまな形式の現代の聖書批判と分析が採用されています。テキスト批評は、最も独創的で権威あるテキストを確立しようとします。これは、何世紀にもわたって、さまざまな筆記者が元のテキストに追加および変更を加えたという推定に基づいています。したがって、評論家は原稿の転写の歴史を発掘して再構築しようとします。聖書批判は、聖書の文節を文学的なパターンで分類し、各文節を口頭伝達の期間までたどろうとします。リダクション批評は、聖書の物語の著者をソース素材の編集者または編集者とみなし、彼らが様々な物語のプレゼンテーションで説明したい神学的目的または意味に焦点を当てています。

エデンの園については、アメリカの主要な神学校の生徒たちに、パラダイスの伝説がエジプト、インド、チベット、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、メキシコの民間伝承に登場することが教えられています。これらのエデンのほとんどすべてに、禁断の果実がなっている木と、原始人の不死を取り除いた蛇が含まれていました。彼らはまた、ヘビの素敵な邪悪なエージェントとしての役割を果たした女性を特徴付けていました。地上の楽園の痕跡が見つからなかったという事実は、旧約聖書の教授たちに、空想の単なる飛行として、説明全体を却下するよう促します。


燃える剣

失敗の物語の終わりに、聖書は、神がエデンの園からアダムとエバを追い出した後、生命の樹を守るために園の東側にケルビム(男性の好戦的な天使)を配置したと言います(創世記3 :24)。ケルビムは、すべての侵入者を追い払うために前後に点滅するので、襲撃用兵器として機能する燃えるような剣を振り回しました。

主なる神はアダムと彼の妻のために皮の衣を作り、彼らに着せました。そして、主なる神は言われました。善と悪を知って私たちの一人のようになりました。彼は手を伸ばし、命の木からも取って食べて永遠に生きることは許されてはなりません。それで、主なる神は彼をエデンの園から追放して、彼が連れ出された地で働かせたのです。神は男を追い出した後、エデンの園ケルビムの東側に置かれ、前後に点滅する燃える剣を置いて、生命の木への道を守らせました。 (創世記3:21-24)。

≪参考:日本聖書協会訳≫
3:21主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。3:22主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。 3:23そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。 3:24神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

物語の重要性は、それが紀元前6世紀のヘブライ語の伝承の物語の編集、または古代近東の宗教の生命の木に関する他の物語とこの記述の類似性であった可能性にあるのではありません。その重要性はむしろ、ケルビムの問題にあります。ケルビムは、エデンの住人ではなく、戦闘的な天使の守護者です。そのような果物を食べることは人間を神性へと高めるので、彼らは生命の木の果物へのアクセスを保護します。これらの生き物が剣を振るうという事実は、最初の武器はアダムやサタンではなく、神ご自身によって造られたという古代ヘブライ人の信念を示しています。この物語の起源、歴史、そしてそれが書かれた時期についての議論が続いています。しかし、創世記3章の著者または編集者が、神から派遣された超自然的な存在が武器を持っていることを確認していることを誰も疑うことはできません。


相反する資料

創世記の第6章では、神は性的交錯やネフィリムとの女性を含む「邪悪」のために、ノアと彼の家族を除いて、人類全体を破壊します。ネフィリムは、百科事典Judaicaによれば、「イスラエル以前のカナンに住んでいたと言われる巨人の種族であり、

6:1人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 6:2神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 6:3そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。 6:4そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。6:5主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 6:6主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、 6:7「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

神は、四十日四十夜雨を降らせて、この破壊をもたらしました。そのため、箱舟にいるものを除いて、地表のすべての生き物は、深い所で死ぬと糾弾しました。

現代の学者は、ノアの物語は神の異なる概念を持つ2つのソースから来ていると主張しています。 「J」は、神を「犠牲の甘い香り」だけでなだめることができる厳しい男性的存在として提示します。この最も古い聖書の情報源は、エホバの適切な名前で神を指すため、「J」と呼ばれます。 Jの神は、「源は神を「エロヒム」または「主」と呼ぶため、「E /」と呼ばれる神とは根本的に異なります。両方の源は、イスラエルが2つの王国に分かれた紀元前922から722にさかのぼります。「E」の神は、犠牲を要求せず、むしろ人類との愛情のある関係を築こうとする彼/彼女の存在です。ノアの記述が2つの異なる情報源から来ていることを証明するために、ラビ・デニス・ブラッチャーは、創世記6:1-7と創世記6:11-13:を対比させます。

6:11時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。 6:12神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。 6:13そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。

「E」の資料による説明では、神が人類の人間に対する非人間性のために世界を破壊し、新たな始まりのためにそれを再創造したいと考えています。洪水の説明のこの見解に基づいて、関連する解釈を維持する唯一の手段は、Jの要求の神とEの愛する神の、2つの神のグノーシス主義の概念です。ブラッチャーは次のように書いています。

Jストーリーでは、神は人間や他の生き物に対して、神の地位を保護したいと考えています。この物語の中で、「神の存在」は人間の女性と眠り、神の怒りを引き起こします。神の怒りの表現の1つは、人間の人生の長さを120年に制限し、人間と永遠に生きる神の存在を明確に区別することです。神がすべての純粋な七対の動物を箱舟に運ぶようにノアに要求したことがこの物語にあるので、神が箱舟から出たときに、ノアの動物の犠牲を要求したのです。その物語の神は、犠牲の甘い香りになだめられます。なぜなら、犠牲は人間の従順と従順の表現だからです。すべては、これは神の創造に関して明らかに優れた地位を要求する神であることを知らせていました。すべての生き物が根本的に対象となる最高の王。

Eストーリーの神は非常に異なって描かれています。この神が見る罪は人間の暴力です。人間の福祉を懸念して、この神はその暴力に反対して行動しますが、人間の人生の長さを制限することは決してありません(この神は、神と人間の間にそのような過激な分割を必要としません)。この神は、箱舟に乗るのに男性と女性の2種のみを必要とします。なぜなら、彼は犠牲を要求しないからです。動物は種を永続させるためだけに必要です。Eの神の物語は、ノアの箱舟からの脱出時に犠牲を要求する代わりに、人間を祝福し、その後法律を与えます。これらの法律の中で最も重要なのは、人間の命を守る法律です。

重要なことに、Eの神は、人類に対する神の契約上のコミットメントを表現することを長々と続けて、肉が洪水によって二度と破壊されないことを確実にします。このコミットメントが契約であるという事実-契約(ブリット)という言葉がこの文脈(9:8-17)に7回現れるということは重要です。聖約(covenat)は、2人の当事者が相互の合意によって互いにコミットする契約です。この神が人類との契約に入ることができるという事実は、彼が人類を価値あるパートナーと見なすことを意味します。必ずしも同等ではなく、また命令されるべき、急進的で従順な臣民でもあります。これらは非常に異なる2つの神であり、1つは嫉妬深い上司であり、もう1つは思いやりがあり、関係を築くことができる存在です。

このような大洪水の分析を体験させられた学生が、神の二つの根本的に異なる見方を示し、したがって、2つの完全に異なる神の存在を示すと信じるようになるのは、さほど不思議ではない。


付け加えられた混乱

当然のことながら、学生の混乱は、洪水の物語が古代の伝説に根ざしているという現代学者の主張によって複雑化しています。「ピラミッドビルダーの航海」で、ロバート・ショッホは次のように書いています:「ノアは、すべての古代神話の中で最も広く普及している、少なくとも500の洪水神話の世界的なコレクションの中の1つの物語であり、したがって、最も古いものの中の一つと考えることができます。


アブラハムの2人の神

創世記の原資料のこの問題は、ユダヤ人の族長であるアブラムの話に達するとさらに激しくなります。この物語のルーツは、ヘブライ人がハピルとして知られていた時代、つまり、神の崇拝と共通の聖域の世話で団結したベドウィンのさまよう部族にありました。ある部族の存在が脅かされたとき、他の部族は、神ご自身が軍事行動に参加するという聖戦に参戦しました。創世記14:14-21は、アブラムの甥であるロトがサマリア北部のエラムの王シェドルラオメルに捕らえられた事件を記録しています。
アブラムは、彼の親族が捕虜になったと聞いたとき、彼の家で生まれた380人の訓練を受けた人たちを導き、ダンまで追跡しました。そして、彼と彼の召使たちを夜に彼らに向けて部隊を分け、彼らを特定の経路で送り、ダマスカスの北のホバに追いかけた。それから彼はすべての品物を持ち帰り、彼の親族であるロットと彼の品物、女性と人々を持ち帰りました。ソドムの王は、チェドルラオメルと彼と一緒にいた王の敗北から戻った後、シャベの谷(つまり、王の谷)で彼に会いに行きました。そして、セーラムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ち出した。彼は最も高い神の司祭でした。彼は彼を祝福して言った、「天地の作り手である最高の神によって、アブラムが祝福されますように。そして、あなたの敵をあなたの手に渡してくださった、最も高い神でありますように!」と褒め称え、そして、アブラムは彼にすべてのものの10分の1を与えました。
彼の勝利の後で、アブラムは、ヘブライ7章でパウロがキリストの「型」と見なした、セーラムの王であり「最高の神の司祭」である司祭王メルキゼデクに歓迎され、祝福されます。アブラムは、メルキゼデクに捕らえられた富の十パーセントの十分の一税を捧げるよう注意しています。これは古代ヘブライ人の慣習に沿ったものであり、神は戦いで戦利品を彼の民と一緒に存在し、神の民の敵の心に恐怖を引き起こしたので、戦利品は彼らの神と分かち合わなければならないと信じていました。
この話は、D(Deuteronomist:申命記の研究者)と呼ばれるさらに別のソースから来ているという主張を除いて、分かりやすいと思えます。学者によると、Dの著作は、トランスヨルダンの原始人の名前を含む、準歴史的出来事によって特徴付けられています。そして、亡命後の時代に書いていたDは、JとP(司祭の情報源)とは異なる神の見方を持っていました。Dの神は、Jの神の野蛮性の一部とPの神の優しさの良い尺度を持っているデミウルジです。しかし、JとPの擬人化された神とは異なり、この神は、天にとどまり、彼の名前を地上に住まわせることだけを許す抽象的な人物です。 これは、聖書の最初の章に関する現代の聖書釈義の発見です。 


ドキュメンタリー仮説

ドキュメンタリー仮説の図

 J:ヤフイストの資料(紀元前7世紀以降)
E:エロヒストの資料(紀元前9世紀後半)
Dtr1:初期(紀元前7世紀)申命記の研究者
Dtr2:後期(紀元前6世紀)申命記の研究者
P:プリエストリーの資料(紀元前6世紀から5世紀、レビ記の大部分を含む)
D:申命記の研究者の資料(申命記の大部分を含む)
R:リダクター(編集者)
DH :申命記の歴史家(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王紀)

創世記内のすべての節の原典を特定するための骨の折れる努力は、いつも決まって、この課題に着手する学者の展望を裏切るものです。彼ら自身の宗教的見解と先入観により、彼らは物語の一部を悟りを開いた司祭(D)に、そして別の部分を悟りを開いていないヤフイスト(J)に割り当て、「創世記」は2つの神の奇妙なサガ風の武勇伝になります。そのうちの1つは敬遠されて、そのままにされます。


歴史的な批評

このような理由によって、ポール・ジョンソンが指摘するように、マルシオンが「基本的に現代の聖書学者と同じような歴史的、批判的な方法」を使っていると発見することは驚くべきことではありません。これにより、彼(マルシオン)が、(旧約聖書に現れる神は)恐ろしく、邪悪な創造を行い、血まみれの、ダビデのような、ならず者の後援者である「神」を描くことが出来たので、彼は、イエスの神と対立して、旧約聖書を拒絶することができました。マルシオンのテキスト分析は、ヘブライ語の聖典と新約聖書内のすべてのユダヤ化要素を廃止して以来、一致した聖書の正典をまとめることを可能にしました。


真実を見つける

対立する情報源からまとめられた旧約聖書を読んで、霊的な理解を得るにはどうすればよいでしょうか?疑問や不信を助長することのみを目的として、聖句が節ごとに、章ごとに、そして本ごとに引き裂かれているアメリカの主要な神学校で、キリスト教の信仰をどのように維持できますか?そのような努力は、聖書の物語が編集者(Rとして知られている)と彼が伝えようとしたメッセージまたは真実によって最終的な形で編集されたという事実を除けば、絶望的であるように思われます。.創世記3:22-24の真実は、神が彼の霊的であり、そして地球上にある領土を守るために、武器を鍛造したということです。ノアの物語の真実は、神が人間の罪深さのために世界を破壊したということです。創世記14:14-21の真実は、氏族の命を救うために、アブラムが民兵を集め、それによって神の祝福を受けたということです。これらの真実は、それらに課せられた現代の解釈(聖書解釈)に関係なく残っているのです。


小さな慰め

しかし、抽象的な真理は歴史的真理ではなく、聖書学者は、同じ旧約聖書の章からの節は、神の異なる概念を持つ異なる源から来ていると主張します。これらの情報源の一部は、創世記1:26で証明されているように、多神教的でした。「神は、「私たちは自分の姿で、私たちの似姿で人間を作ろう…」

したがって、神学校での最初の週に、聖書の最初の本を勉強しながら、新しい神学校の人々は、旧約聖書は神の起源のテキストからはほど遠いと結論するように教えられます。むしろ、ベドウィンの古代の信念が寄せ集められて単一のものを形成するが、一貫した物語からは程遠いものである。そのページ内で、神学校は真の悟りのようなものではなく、巨人、剣を振るう天使、そして近親相姦、盗み、淫行に従事する信じられないほどの老人の物語に過ぎないと信じるようになります。

創世記の物語の歴史性に対する彼らの信念を維持するために、最も勤勉な新しい神学生は必然的に考古学者の発見に目を向けます。このようにして、彼らは小さな慰めに出くわします。


考古学的証拠

適切な事例は、ソドムとゴモラの物語です。創世記によれば、都市は死海の東岸に位置する大都市の一部であり、それぞれが独自の王とメソポタミア東部の大君主の支配下にある5人の王で構成されていました。 。死海地域とメソポタミアを結ぶ既知のルートがなかったため、メソポタミア人がそれを征服できた可能性は非常に低いと思われました。

しかし、メソポタミアと死海地域の間の古代のルートの証拠は、1920年代に発見されました。 40年後の1960年代に、死海を監視する東岸の大きな墓地が発見され、最終的に約50万体が発見されました。 1973年から1979年の間に、さらに4つの大きな「都市」が見つかり、150万人以上の遺体が埋葬されました。最初の都市での墓財の陶器の年代測定は、それが約1、000年間存在したことを明らかにしましたが、別のヌメイラは100年未満の短い期間存在しました。このソドムは、タルムード州がわずか52年間存在したものでしたか?

それから主はソドムとゴモラの縁石に雨が降り、天から主から火が放たれ、それらの都市、すべての谷、すべての都市の住民、そして地上で育ったものを打ち倒しました。創世記19:24-25
ソドムとゴモラに降り注いだ「火と硫黄」はどうですか?ビチューメン/アスファルト、自然発生する、非常に可燃性の物質は、一般的に死海地域で発見されています。考古学者は、発見された2つの都市、バブ・エド・ドラとヌエイラの全地域が4〜20インチの灰、強力で広範囲にわたる火災の残留物で覆われていることを発見しました。

5つの都市と並行して、2つの大きな地球プレートが互いに大きな圧力をかけ、その地域で地震を引き起こす断層線があります。この圧力により、マグマやビチューメンなどの地下物質が空気中に押し出される可能性があります。地球は可燃性の炭化水素を大気中に放出し、それは落雷によって着火し、地球に落ち、これらの2つの都市を窒息する「火と硫黄」で覆い、住民全員を殺しましたか?考古学はこの可能性を仮定しています。ソドムとゴモラの物語。現代のソドム人は、歴史的事実に定着しているようです。

これは、創世記のすべての物語を実証するために考古学的証拠を提供できると言うことではありません。それどころではなく、実際には全く反対である。ソクラテス、プラトン、アリストテレスの存在や、トロイの木馬戦争、メッセン戦争、レバンティン戦争のすべての問題を含む経験的証拠によって、古代史のあらゆる側面をサポートすることは非常に困難です。


編集批評

確かに、「アカバ」または「イサクの拘束(イサク献祭)」の物語の重要性は、聖書編集者の目を通してのみ真に識別できます。創世記22:2で、神はアブラハムに次のように命じています。

神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい。」アブラハムが何であろうと、神の命令を遂行するために絶対に献身していることを確認した後、神は彼が創世記の記録にあるように、犠牲を遂行することを止められました。「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。(22:12)。

創世記の物語の編集者は、神の計画と目的が人間にとって理解できないことを明らかにしています。聖書学者のトーマス・ロマーはこう書いています。アケダの物語は、私たちが持っている神の個人的なイメージの問題を提起します。啓発された人類の理想に対応する神、公正な神、したがって、啓発された人類の概念に適合する神が欲しいのです。しかし、そのような「政治的に正しい」神は、聖書の著者自身の言葉を使うために、単なる人間の願望を正当化するだけである偶像になるという危険を冒すことになります。

編集者からのもう一つの教訓は、共同体の部族の福祉が、非常に重要である敵対的な世界における神の言葉への無条件に服従することの重要性です。そのような服従は、すべての個人的な懸念に優先しなければなりません。ほとんどの聖書学者は、神が要求する唯一の人間の犠牲が、この特定の文脈に適用されることに同意します:ヘブライ人の最初の族長に対するテスト。この教訓は、神ご自身がアブラハムのために、犠牲にすべき動物を準備するという付録によって支えられています。この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。『アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。』

歴史的な設定の中で、この物語は注目に値します。古代インド・ヨーロッパの人々の間では、子供たちの犠牲は当たり前であり、アブラハムが受け取った命令は、彼を前例のない、または異常なものとしてショックは受けなかったでしょう。シリア人とフェニキア人は重要な機会に自分の子供たちをバアルに犠牲にし、彼らを太陽神と見なしました。祭司は祭りの衣装を着た式典に来て、神のひざの上で燃えている子供たちの叫び声は、鳴り響くトランペットの音とフルートの音でかき消されました。アケダの物語は、そのような記述とは非常に対照的であり、彼らの神は慈悲深く、彼の民に「提供する」という古代ヘブライ人の見解を支持しています。このメッセージは、ペンタテク(聖書の最初の5冊)全体に響き渡り、すべての事柄について神の言葉を守らなければならないというヘブライ人の信念の基礎となっています。


骨抜きにされた出エジプト記

しかし、編集批判は創世記の歴史的真実を確立することはできず、旧約聖書内の矛盾する情報源の問題は出エジプト記に残っています。ユダヤ・キリスト教信仰の擁護者にとってさらに悪いことに、学者たちが物語を「神話化」しようとする試みは、十分な考古学的証拠によって相殺することはできません。

聖書の学者は、神の神聖なるの御名が初めて、出エジプト記の3章と6章で2回、それぞれの場合に、モーセに明らかにされることを指摘しています。学者が主張するこれら2つの啓示は、それぞれE(エロヒスト)とP(司祭の資料)に属します。学者たちはこれらの情報源をすぐに指摘し、モーセが登ったときに何が起こったのか、荒野の山について意見を異にし、山の名前にさえ同意することさえできません。J(ジャウィスト)とPについては、シナイと呼ばれます。 Eの場合、これはHorebと呼ばれます。これらの違いの多くは、「標準的なテキストのみを知っている人には、ほとんど考えられないように見えるかもしれない方法で」生じていると学者は主張しています。例えば、燃える茂みは、J文書のみに知られています。 Pには7つの疫病があり、Jには6つの疫病が書かれていて、Eにはありません。 Jでは、イスラエル人は夜に急いで逃げます。 Pでは、日中は大胆に歩き出します。 Eにはマナの概念はありません。十戒、石板、黄金の子牛は、JとPには全く出てこない。紅海を渡る場面は、Eには書かれていない。会見の幕屋はEだけに出てくる。Eには契約の箱はない。 Jにはヨシュアがいない。そして、ミリアムはEにだけしか出てこない。

聖書の学者によると、出エジプト記にはモーゼの3つの異なる見解も示されています。Jでは、モーセは奇跡を行う者でも、軍事指導者でも、宗教の創設者でもありませんでしたが、神が、神の方法を人に知らせるために用いた、霊感を受けた羊飼いでした。Eでは、強力な奇跡を行う、高尚で力強い人物でした。Dでは、モーセはすべての預言者の原型です。なぜなら、神は彼を通して語られるからです。この記述では、モーセが奇跡によって歴史を変えているという言及はなく、彼が戦略的命令を与える軍の指導者として描かれることはめったにありません。そのような発見は、数名の学者たちにモーセが決して存在しなかったと結論付けさせたのです。


神話としてのモーセ

この結論は、モーセに関する考古学的証拠の欠如、エジプトのヘブライ人の束縛、出エジプト記によって強化されています。学者は、パピルスの(籠の)中の赤ん坊のモーゼの物語は、紀元前2360年のアッカド王朝の創設者であるサルゴン王の誕生伝説にそのルーツがあると主張しています。くさび形テストには次の文章が含まれます。

「私はサラゴン、アッカドの王、強力な王です。母はエニトゥの王妃でした。私は父を知りませんでした。母は私を妊娠し、ひそかに産んだ。彼女はアシで作られた小さな箱に私を入れ、その蓋をピッチで密封しました。彼女は私を川に入れた。川は私を運び去り、水を引き出していたアッキに連れて行ってくれました。水を引き出していたアッキは私を養子にし、私を息子として育てました。」出エジプト記2:1-10は次のように関係しています。

2:1さて、レビの家のひとりの人が行ってレビの娘をめとった。 2:2女はみごもって、男の子を産んだが、その麗しいのを見て、三月のあいだ隠していた。 2:3しかし、もう隠しきれなくなったので、パピルスで編んだかごを取り、それにアスファルトと樹脂とを塗って、子をその中に入れ、これをナイル川の岸の葦の中においた。 2:4その姉は、彼がどうされるかを知ろうと、遠く離れて立っていた。 2:5ときにパロの娘が身を洗おうと、川に降りてきた。侍女たちは川べを歩いていたが、彼女は、葦の中にかごのあるのを見て、つかえめをやり、それを取ってこさせ、 2:6あけて見ると子供がいた。見よ、幼な子は泣いていた。彼女はかわいそうに思って言った、「これはヘブルびとの子供です」。 2:7そのとき幼な子の姉はパロの娘に言った、「わたしが行ってヘブルの女のうちから、あなたのために、この子に乳を飲ませるうばを呼んでまいりましょうか」。 2:8パロの娘が「行ってきてください」と言うと、少女は行ってその子の母を呼んできた。 2:9パロの娘は彼女に言った、「この子を連れて行って、わたしに代り、乳を飲ませてください。わたしはその報酬をさしあげます」。女はその子を引き取って、これに乳を与えた。 2:10その子が成長したので、彼女はこれをパロの娘のところに連れて行った。そして彼はその子となった。彼女はその名をモーセと名づけて言った、「水の中からわたしが引き出したからです」。

同様に、金の子牛の事件後の石版の破壊の話は、「石版を破壊する」とは契約の無効化を意味するアッカドの法律用語を連想させます。ウガリット神話では、神モットは女神アナスよって粉砕され、モーセが黄金の子牛の残骸を燃やし、粉砕し、散布したのと同じ方法で散布したことによって破壊されました。

32:19モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。 32:20また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。(出エジプト記32章19~20節)

確かに、ヘブライ人の束縛と彼らの救出についての聖書以外の言及は、紀元前3世紀のエジプトの歴史家であるマネトのものであり、出エジプトは、貧困であり、奴隷であったユダヤ人の間で勃発した疫病から、エジプト人が自分たちを守ることを望んで起こったことだと、そして、モーセはエジプトの司祭であり、ユダヤ人のハンセン病者の中を宣教師として行き、エジプトの聖職者の清潔さに基づいたルールを彼らに与えたと話しています。


証拠の欠如

さらに悪化します。

聖書学者は、預言者がモーセと出エジプト記について言及していないので、聖書の記述はユダヤ人がバビロン捕囚(紀元前540年頃)後にエルサレムに戻ったエズラの時代からのものでなければならないと主張しています。この遅い日付は、ダビデやソロモンを含むイスラエルの偉大な王たちが、ヘブライ人の救出と荒野をさまよう時代を知らなかったことを意味します。

出エジプト記の物語の証拠の欠如について,スティーブン・ガブリエル・ローゼンバーグはエルサレムポストに次のように書いています。

出エジプト記の主題はすべて考古学者にとって恥ずかしいものです。出エジプト記は、私たちと私たちのユダヤ人の情報源にとって非常に基本的なものであるため、聖書の外にそれを支持する証拠がないことは恥ずべきことです。ですから、私たちはそれについて話すことを好まず、それについて尋ねられることを嫌います。律法の記述は、私たちの人々の創造の基礎であり、私たちの存在の基礎であり、この自由の祭りの最初の夜に唱える私たちの重要な過越祭とハガダ全体の基礎です。そのため、考古学者は、エジプトの記録にはそれを支持するものは何もないということを、同胞や自分たちに伝えなければならないことに気が進まないのです。イスラエル人の奴隷制に関する証拠は何もなく、ファラオを彼らを行かせるよう説得した疫病にも何の証拠もなく、紅海の奇跡的な横断にも何の証拠もありません、証拠は何も無いのです。何もありません。

第4章 疑いの種

私たちの中のどの部分が、この大学教授のようであり、そして、帝国的な反ユダヤ主義に敗北を認め、また、「私たちと私たちの祖先が罪を犯した」という真実のために、私たちは、偽りのふりをして生きてきて、そして、世界で最悪の恥だったと告白する余裕がありますか?私たちは、誰もが過去からの信任状を示さなければならない歴史的な時代に生きていることを忘れないでください。聖書は全能の神によって私たちに与えられた高潔さの特許であり、そして、私たちが聖書を否認し、ウェルハウゼン、スタッド、デュム、そして「選ばれた人々の後光」を減少させるために働いている、他の美しい魂の優しい慈悲に任せれば、世界は私たちを否認するでしょう。精神的な成り上がり者たちのための余地はありません。しかし、この知的迫害は知的武器によってのみ戦うことができるし、私たちは聖書を回復し、自分自身のために、私たちの神学を考えることの努力しない限り、私たちは、両方の世界から、二度か回復されることなく、消え去ってしまうでしょう。

ソロモン・シェヒター「より高い批判反ユダヤ主義に対する高度な批判主義」 1903年3月26日


聖書批判の約2世紀の結果は、ほぼ完全に否定的なものでした。多くの学者によると、聖書の本は、彼らが主張するものではなく、これらの本の内容は、実際の出来事や実際の人々を反映していません。「聖書の物語は、その参照先のより遠い過去ではなく、その文章の歴史的文脈を反映しています」と、コペンハーゲン大学の神学教授トーマス・L・トンプソンは書いています。信者のための結論は衝撃的です。Pentateuch(ペンタテウチ:モーセ五書)はモーセの手によっては書かれなかった。今まで実在すると仮定していたダビデとソロモンは、エルサレム周辺の小さな地域の少数の部族指導者でした。預言者が発したであろう神託は、それらが話された後、何世紀にもわたって脚色され、拡大され、編集されたのです。その結果、ヘブライ語の聖書は、ペルシャ時代以降に生じたユダヤ教のためのプロパガンダの作品であり、神の啓示の源であるとする、その主張が取り除かれた作品となってしまったのです。


聖書釈義の空虚さ

聖書の批評家は、彼らの主張において妥協しません。彼らは神の啓示の概念を退けて、彼らの理論を拒否する証拠を考慮することを拒みます。1975年、ジョン・ファン・セターズは、キリスト教の総大司教のその後の研究すべてに大きな影響を与え、アメリカを代表する多くの神学校で標準的なテキストと残っている本「歴史と伝統のアブラハム」を出版しました。ヴァン・セターズは、アブラハムが中青銅器時代(紀元前2千年紀初期)に古代カナンに住んでいたという強固な意見には、根拠がないと主張しています。証拠として、彼はその時代からのカナン人の文書のテントへの言及が極めてまれであること、次の千年紀の文書にはテント居住者に関する豊富な言及が含まれていることを指摘しています。彼は、なぜ単純にテントへの言及が極めてまれであることに基づいて、創世記の物語のために後の日付を選んだのか、その理由を説明していません。彼は、W.F.オルブライトや他の人によって提供される、代替案の説明は、無視することにしているだけです。最近の考古学的調査結果は、アブラハムと彼の部族のテント居住者の聖書の物語を裏付けているという事実にもかかわらず、ヴァン・セターの本は、ヘブライ人の家長の決定的な源として支持され続けています。

同様に、デビッド・ロールと他のエジプト学者によるモーセの物語を支持する証拠が発掘されています。しかし、それらは、ヴォルクマン・フリッツやロバート・クートのような、崇められている聖書批評家の教えに挑戦する内容なので、そのような発見は無視されたままなのです。コペンハーゲン大学のニールス・ピーター・レムチェのような学者たちは、1993年にテルダンで「ダビデの家」に言及して、壊れたアラム語の碑文が発見されたが、「聖書のダビデは歴史上の人物ではない」と主張し続けています。

そこから現代の聖書の奨学金と、テキスト批判とフォーム批判の解体的な仕事が来るからでしょうか?


ドイツの合理主義者

ユリアス・ウェルハウゼンと現代の聖書批評のその他の父たちは、人間の理性をすべての知識、さらには精神的な知識の神学的な源泉および試練と見なしたドイツの合理主義者でした。彼らは、神の啓示の概念を否定しました。聖書は、彼らの見解では、いくつかの、頻繁に対立する資料(J、E、P、D)から編集された単なる人間が書いた本でしかなかったのです。

1875年、ウェルハウゼンは、聖書の真実の物語であると称した『古代イスラエルの歴史に対するプロレゴメナ(序文)』を出版しました。彼は、トーラはモーセによって書かれたのではなく、むしろ4つの文書の編集物を代表していると主張しました。それぞれの書物は、内容と全般的な様子の両方で、独特の特徴がありました。それらは巧みに編集者によって織り交ぜられていましたが、それぞれの文書の特別な特徴は、聖書の最初の5冊の本を通して、それぞれのソースを隔離することを可能にしました。最も早い文書は、J文書でした(Jは、神の名の最初の文字で、このソース全体で使用されていたため、不可欠なものとなりました)。その直後に、神をエロヒム、または「主」と称したエロヒスト文書、Eが続きました。ウェルハウゼンによると、これらの2つの文書は、おそらく紀元前9世紀または8世紀の初期の君主制時代に構成されていました。申命記の文書であるDは、レビ記、民数記、および申命記に物語的な枠組みを与えました。ウェルハウゼンは、D文書が生まれた時代を、紀元前7世紀のヨシア王の時代だと定めました。普遍的な歴史と広範な法的規範である司祭法典(P)は、主にカルトの問題に関係しており、各儀式を行う機会に、正しい儀式を処方することに関する司祭の関心によって支配されていました。ウェルハウゼンは、この律法のソースを追放後の時代(バビロン捕囚後の時代)に追いやり、紀元前5世紀にエズラの律法と結び付けました。


言葉の変更

ウェルハウゼンの方法は非常に簡単でした。彼の理論に合った旧約聖書のすべての節は、ウェルハウゼンによって本物であると考えられていました。ウェルハウゼンは、彼の理論に収まらない一節に遭遇したとき、彼はヘブライ語の単語を変更または追放し、彼が「推測的な修正」と呼ぶものを挿入しました。


暗号偽造

彼の分析に従った律法の節は本物とみなされ、適合しなかった数千の節は「偽造」として却下されました。彼は、バビロン捕囚後の時代に聖書が編集された後、偽造物が聖書に挿入されたと主張しました。このいたずらな人物はハサミでもって、さまざまな文書を切り分けて貼り付けました。文の半分をあちこちに移動し、4つの古代文書を切り刻んで縫い、独特の好みに合わせて作品を作り上げたのです。


ユダヤ人の問題

彼が、理性の目の前で聖書を剥き出しにしたいことに加えて、ウェルハウゼンは反ユダヤ主義者であり、その著作にはユダヤ教に対する悪意のある発言が散らばっていました。 彼の手紙のいくつかで、彼はユダヤ教の生存そのものが「嘆かわしい」と認めたと告白していました。彼はまた、ヘブライ民族の宗教的経験が世界全体にとって機能的な価値や重要性を持っている理由については説明がないと述べていました。「モアブの神であるケモシュではなく、なぜイスラエルのエホバが義の守護者であり、宇宙の創造者となったのか、私たちにはわかりません。」

ウェルハウゼンはまた、聖書分析のインスピレーションはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテによる1773年のエッセイから来たと告白していました。その作品の中で、ゲーテは次のように書いています。

私が野生で不毛な木の輪の中に立っていた野生の不妊株とみなすユダヤ人の人々は、永遠の庭師が高貴な若枝、イエス・キリストを移植したので、それに接木されることによって、株の性質が高く評価され、そこから、元々の性質の低さが取り出され、残った木全体が肥沃になったのである。最初の新芽から接ぎ木までのこの人々の歴史と教えは確かに特殊であり、おそらく将来の偉大な行為を見越して与えられたかもしれない少量の普遍的な教えは困難であり、おそらく探求する必要さえない。接ぎ木から、すべての問題は変わりました。教えと歴史は普遍的になりました。そして、それから高貴にされたそれぞれの木には、その状況に応じた独自の特別な歴史と独自の特別な教えがありましたが、それでも私の意見は以下のとおりです。ここ[キリスト教の場合]では、そこ(ユダヤ教の場合)に普遍的であるように疑われ、解釈されるべき特殊性はほとんどありません。


ウェルハウゼンの弟子たち

ウェルハウゼンは、ドイツの主要大学の聖書部門内の著名な地位を占めるようになった何百人もの弟子を集めました。「ウェルハウゼンで最も熱心な崇拝者の一人であるフリードリヒ・デリッチュは、旧約聖書には宗教的または道徳的価値を欠いていると述べた「バベルつ聖書」と呼ばれる演説を行いました。その講演に続いて、カイザー・ヴィルヘルムはデリッツチが「選ばれた人々の後光を放散する」のを手伝ったことを祝福しました。アドルフ・ハルナック、もう一人のウェルハウゼンの弟子は、プロテスタントは聖書から旧約聖書を排除しなければならないと主張しました。

ウェルハウゼンの思想は、自国だけでなく、イギリスとアメリカでも旧約聖書の奨学金を支配するようになりました。イスラエルとヘブライ語文学の最も重要な歴史、たとえば聖書に関する国際批判的解説や、ウィルヘルムノバックやカールマルティが編集したものや紹介文を含む多数の解説は、ウェルハウゼンの主張にほぼ完全に基づいていました。


普遍的な受け入れ

ウェルハウゼンと彼の思想学校は、19世紀後半の知的精神を反映していたため、広く受け入れられました。時代は、人間の歴史のすべてがより低い段階からより高い段階への進行を表すと教えていたゲオルグ・ウィルヘルム・フリードリッヒ・ヘーゲル(1770-1831)の考えに酔いしれました。ヘーゲルの哲学は、数千年の間に種が変化するというチャールズダーウィンの発見と、人間が類人猿の祖先から進化したトーマスヘンリーハクスリーの主張によって支えられました。当然、同じ知識人は、ユダヤ教が偶像崇拝から発展し、初期のトーラーであった多くの中間段階を経て、イエスの究極の純粋な一神教に達したと信じていました。
「宗教と哲学の批評」で、ウォルター・カウフマンは、ウェルハウゼンと彼の思想学派の聖書分析における明白な欠陥を次のように指摘しています。

ゲーテのファウストを分析する高等評論家を想像してください。これは、60年に1人と言われる人間によって書かれました。パート1のヒロインがGretchen(グレッチェン)と呼ばれるシーンは、1人の著者に委ねられます。メフィストフェレスの役割の相反する概念は、さらなる分裂を要求するために取られ、天国のプロローグは後の編集者に帰せられますが、舞台上の前奏曲はさらに別の著者に言及されます。私たちの評論家は、第2部が異なる年齢に属し、大きく異なるアイデアを持つ非常に多くの作家に割り当てられなければならないことは間違いありません。たとえば、第4幕の終わりは、教会を軽視する反カトリックの著者を指し、第5幕の終わりは男性によって書かれましたが、正統派のカトリックではないかもしれませんが、カトリックに深く共感していた人物と言えるでしょう。ゲーテのファウストやモーセの五書のどこで、スタイルや思考、計画の矛盾を見つけることができますか?

なぜでしょうか。

その答えは、もし神学校がウェルハウゼンのより高い批判を放棄すれば、彼らは資金のかなりの量を失うという事実にあるのです。


  第5章 銀貨30枚

財団の力は、研究対象を決定する力ではありません。その力は、専門的および知的パラメータを定義すること、誰がどのような状況でどの科目を研究するためのサポートを受けるかを決定することにあります。そして、財団の力は、それが支持し、支援する特定のタイプの活動を提案することにあります。「政治理論家および経済学者のハロルド」でラスキが述べたように、「財団は、コントロールしません。なぜなら、単にその言葉の直接的かつ単純な意味において、そうする必要がないからです。彼らは、それが常に知的コンパスのその角度に引き寄せようとすることを発見するために、大学全体の世界に対する彼らの心の即時の方向性を示すだけでよいのです。」

ロバート・アルノーヴ、慈善活動、文化帝国主義、1980年


アメリカ合衆国内では、ウェルハウゼンとその弟子たちの聖書批判主義は、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア、第一次世界大戦中に公認された国際主義者のロックフェラーの財政的支援を受け、ロックフェラーは、世界政府の下で人類を団結させる、一つの世界の宗教の概念に夢中になりました。。若いロックフェラーは、仲間の金融大物であるアンドリュー・カーネギーの影響下に落ちていました。

カーネギーは、彼の鉄鋼会社をJPモルガンに4億8,000万ドル(当時の事業でこれまでに支払った最高価格)で売却した後、ハーグに、「恒久的な仲裁裁判所」を収容する平和宮殿を建設するための資金(今日のお金で4,000万ドル)を調達しました。この裁判所の任務は、国家間の紛争を解決し、「戦争の完全な追放」をもたらすことです。平和宮殿の建設は、世界的な管轄権を持つ機関の下で、国家主権と国内法を解散する最初の試みを象徴しています。建物が完成したとき、カーネギーは「世界で最も神聖な建物」と呼びました。


カーネギー財団

カーネギーは今、「平和のリーグ(同盟)」または「国際連盟」を創るための十字軍に乗り出しました。これは、主要な帝国の権力の組み合わせで構成され、国際警察力を備えています。彼は、1907年5月25日のアウトルック誌のページに掲載された「国際連盟」という短い記事で提案を公表しました。

カーネギーは、このような組織の設立には、慈善団体からの莫大な現金の支出によってのみ達成できること、そして、アメリカの教育および政治機関の管理が必要であることを認識しました。これらの機関は、継続的な存続のためにこれらの恩恵に依存するようになり、それによって財団の受託者がその運営を管理するようになります。この目的を達成するために、国際平和のためのカーネギー基金(CEIP)は、1910年にワシントンD.C.に本部を設置しました。


教育の管理

グローバルな政府の台頭を知るにはソーシャルエンジニアリングが必要でしたが、1905年に設立されたカーネギー教育進歩財団(CFAT)は、アメリカの教育システムを管理しました。財団の当初の目的は、「大学、短大、専門学校の教師に退職年金を提供することでした。人種、性別、信条、肌の色に関係なく。財団はまた、規定の学力基準と入学要件を順守した機関に一般的な寄付を提供しました。 1909年までに、CFATは短大および大学の全国的な非公式の認定機関になりました。それは、カリキュラムを作成し、教員を監督し、行政の行動を監督する権限を持つようになったのです。

カーネギーは公認の社会主義者、不可知論者、グローバル主義者、ロードス・ソサエティの一員だったので、アメリカ中の大学は彼のイデオロギーと信念を反映し始めました。「財団:彼らの力と影響力」の中で、リース委員会の特別顧問であるルネ・ワームサーは次のように書いています。

学界に急速に浸透し始めた急進主義の成長は、草の根運動ではありませんでした。(アーロン)サージェント氏は、社会主義は大衆から生まれるのではなく、彼らに徒党を組ませ、内部から産まれさせ、そのように操作する知識人によって、扇動されるというルートヴィヒ・フォン・ミーゼス教授の声明を引用しました。それは人々の活動ではありません。それは、これらの人々が到達したいと望んでいる一点に対する、人々の感情と同情の資本化なのです。


ダモクレスの剣

CFATからの資金は、ダモクレスの剣のような国の高等教育機関にかかっています。財団管理委員会の指示に従った人々は、大きな恩恵を受けました。従わなかった人は、恩恵を受けられませんでした。新しい科目は、人類学、比較宗教、社会科学などの必須の大学コースになりました。これらはすべて、文化的慣行と理想の相対性を強調するのに役立ちました。このような主題を紹介する必要性は、世界的な紛争の到来によってもたらされました。学生は、ヨーロッパの土壌での戦争に参加することが予想される前に、父と先祖の孤立主義者の立場を放棄するように条件付けられなければなりませんでした。

アメリカの宗教大学に対するカーネギー財団の影響は、1914年6月14日にニューヨーク教育委員会の会長であるトーマス・V・チャーチルが演説したスピーチで次のように公然と非難されました。

カーネギー氏の努力は、アメリカの大学から個性を押しつぶし、公共サービスへの貢献を減らしています。カーネギー財団は、宗教学校のマークを意図的にかつ顕著に作成しました。特に、自分たちの分野で、限られた設備で素晴らしい精神を備えた素晴らしいサマリア人の仕事を行っていた小さな機関です。次々と多くの宗教的な大学が、大きな富によって誘惑されて、他のどこにもない大学で、見つけられるべき独立を放棄し、あるいは、彼らの創立者の信仰を放棄したのです。この世代とこの共和国では、誰でもが、宗教の放棄を買うことを許すほどの莫大な富の、途方もない力を用いるだろうと考えると恥ずかしく思います。


巨万の財の海の恩恵に浴す

同時に、米国教育省の大学管理部長であるアーネスト・ビクター・ホリスも、CFATの「邪悪な」影響に対する彼の反対を表明しました。彼は、寄付によって使用された方法は、間接的なものの1つであると言いました。「一般的で議論の余地のない目的を通して間接的に」と。ホリスは、「たとえば、大学の教授に年金を与えるとか、大学の一般的な基金にお金を与えることと、入学要件、財政慣行、および彼の機関の学力基準を改革することとは、ほとんど関係がない」と詳述した。」しかし、彼は、一方がもう一方と結びついていると主張しました。従うか、そうでなければ、助成金がないかの、どちらかなのです!従うということは、巨万の財の流れの恩恵に浴すことを意味しました、とホリスは結論付け、大学と大学の管理者とその学部は、従う傾向にあったのです。


ロックフェラー財団

ロックフェラー財団は1913年にジョンD.ロックフェラーによって設立され、息子のジュニアから「世界中の人類の幸福を促進するために」最初の1億ドルの寄付がありました。この時までに、ジュニアはカーネギーと親密な関係を築き、カーネギーは彼をおじのような愛情を込めて抱いていました。彼は毎年夏にスキボで数週間を過ごし、カーネギーと、彼らの財団が共通のグローバルな目標に向けて、資金を投じるべきであることに同意しました。カーネギーが最後に公式の場に姿を現したのは、ニューヨークのフィフス・アベニュー・バプテスト教会のジュニアの聖書のクラスの集会でした。カーネギーの出現は、ジュニアを説得して彼の宗教的な原理主義へと変わるのに大いに役に立ちました。つまり、カーネギーが聖書のクラスについて講演した後、たとえ誰かが、キリスト教の教義を否定したとしても、ジュニアは、イエスの「道徳精神」を示した人は誰でも、天国に入るに値するという信念をグループに発表しました。

ジュニアの国際主義は、弁護士で最も近いアドバイザーとなったレイモンド・B・フォスディックとの友情によってさらに強化されました。フォスディックはウィルソン大統領によって国際連盟の次官に任命されました。彼のこびへつらうような伝記、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア:肖像画(1956)で、フォスディックは書いています。「ますます多く、ロックフェラー氏は国際的な言葉で考え始めました。彼が最初に提案されたとき、彼は国際連盟を支持していなかったことは事実です。彼が父親から教会の所属を取ったように、彼の政治的忠誠心も同様に継承され、彼はウィルソン大統領に反対して共和党に従っていました。しかし、彼の意見は常に寛容さによって特徴付けられて、柔軟性の高さは彼の性格の一部ではありませんでした。」


フォスディックとラウシェンブッシュ

レイモンドの兄のハリー・エマーソン・フォスディック牧師の影響で、ジュニアは、プロテスタント教会を彼らの活動をコントロールする企業のような構造に統合しようとする、インターチャーチ運動(ICM)に資金を提供し、先頭に立った。ICMの思想傾向は、ユニオン神学校の教授であるチャールズ・ブリッグスによるウェルハウゼンの「より高い批判」に教化されたフォスディック牧師の説教から生まれました。フォスディックは、世界中の宗教が一つになることについて、何の不安も表明しないようにするために、キリスト教は「神話化」されるべきであり、聖母誕生、イエスの奇跡、復活を含むすべての神学的な付着物は取り除かれるべきであると信じていました。

マンハッタン南部の若い牧師として、フォスディックは、ウォルター・ラウシェンブッシュの「社会的福音」に出会いました。彼はキリスト教がその本質的には、革命的であることを教えました。イエスは十字架で贖罪の行為を行わなかった。そして、天国は「天国に入ることではなく、地球上の生命を天国の調和に変えることです」という内容です。これは、人類全体を団結させることができるメッセージだフォスディックは信じていました。このメッセージは、1917年にバプテスト社会同盟で行われたスピーチの中で発せられ、統一された新しい教会が慣行、儀式、信条は、神の王国または彼の教会に入るのに、不可欠ではないと宣言するメッセージはジュニアの共感を生んだのです。 


「原理主義者が勝ちますか?」

ハリー・エマーソン・フォスディックが、 ニューヨークの最初の長老派教会で「原理主義者が勝つのか?」という説教を行った後、フォスディックとジュニアは結びつきました。 説教の中で、フォスディック牧師は、イエスの人生の超自然的な側面が不寛容であることを擁護した聖書の解釈を非難しました。会衆がフォスディックの説教を聴いて、精神指導者としての彼を追放しようしたとき、ジュニアはフォスディックの支援に駆けつけて、説教のコピーを全国の牧師や神学校に配布しました。さらに、彼はフォスディックをロックフェラー財団が400万ドルの費用で建設したマンハッタン北部のリバーサイド教会の上級牧師に選ばれるよう手配しました。

フォスディックの兄弟たちと一緒に、ジュニアは、より高度な批判主義と旧約聖書と新約聖書の正体を暴露するという指示に従った神学校に資金を供給する方針を開始しました。復活の説明もイエスの神性も信じていなかった新しい系統の牧師たちが、アメリカ国民に解き放たれました。宗教的無関心のために深く信じられていた信念が放棄されるように、疑念と疑念の種は海から輝く海に広がって行ったのです。

旧約聖書と新約聖書の正体を暴露したことを、宗教的に正当化した後、キリスト教の聖職者は、もはやヘブライ人の神を礼拝の対象として支持することができませんでした。そして、新しい神が、すべての愛情、すべての思いやり、すべてに寛容な姿、すべてのライフスタイルと、宗教的表現のすべての手段を承認した神、マルシオンの異端とフリーメーソンの伝統から生まれた神が、現代人に提示されました。したがって、クリスチャンとユダヤ人は石板に刻まれたものを無視するようになったのです。


パート2 法

第6章 出エジプト記に関する証拠

規律の根本的な変化は、外部から来る傾向があります。学生は徐々に謎を解き明かすように、徐々に学問分野に紹介されるのが慣例であり、その主題を全体として見ることができる頃には、従来の先入観や思考パターンが徹底的に浸透している。彼らが、その基本的な約束事に疑問を持つ可能性は極めて低いです。この能力不足は、古代の歴史に関する分野で特に顕著です。                                    
                                                      マーティン・バーナル、ブラック・アテナ、1987年

尊敬される考古学者が信じているように、エジプトのイスラエル人奴隷化のトーラー(モーセ五書)の説明とカナンへの数十万人のヘブライ人の突然の脱出は、歴史的な証拠の1つではない「偽善的なフィクション」であるということ、それがもしも真実であるなら、聖書全体の根拠は、深刻なレベルで損なわれます。モーセが神から十戒を受けたという記述も信用されません。それがフィクションなら、なぜ十戒は神の真に権威ある指示であると信じることができるでしょうか?聖書は、たとえばハリー・ポッターの本ほどの権威のない文学作品になります。マルシオン人(グローシス派)は、旧約聖書の多くに歴史的根拠がないため、人は、旧約聖書が語る神、ヤハウェに対するいかなる忠誠を負うことはないと主張することができます。そして、新約聖書は旧約聖書の出来事を繰り返し言及しているため、その信頼性も同様に疑問視されます。

それでは、出エジプト記に記載されているように、イスラエルの出エジプト記は本当に起こったのでしょうか?ほとんどの学者は、出エジプト記は紀元前13世紀に最大の建設王ラムセス2世の治世中に起こったと想定しています。これは出エジプト記 1:11 のテキストによるものです。そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てました。

考古学者は、新王国の間にラムセス市に住んでいるセム族に関する考古学的証拠はないことには同意しています。しかし、トーマス・トンプソンやデビッド・ロールを含む多くの考古学者は、ラムセス2世の統治の数百年前にセム人がその場所に住んでいたという証拠がヘブライ人奴隷化の証拠を示していると信じています。

ラムセスの南部地域のすぐ南にあるアヴァリスの町のテル・エル・ダバで、考古学者は「カナンからのアジア人がほぼ完全に住んでいたはるかに古い都市」を見つけました。古代世界で最大のものの一つであるその都市は、第12王朝での生活を始め、第13王朝全体で急速に拡大しました」と、フリーゾーンのような特別な地位を享受したその町では、エジプトの習慣にはなかった羊飼いがそこに住んでいる証拠が見つかったのです。


ルクソールの記念碑

ラムセス2世の死の数年後に、彼の息子メレンプタによって造られた、ルクソールのメレンプタステラと呼ばれる記念碑は、ラムセス2世の新王国時代にイスラエル人の出エジプトが起こったと主張する学者の信念を傷つけました。記念碑は、このファラオに敗れたイスラエル国民に言及しています。 「イスラエルは荒廃させられ、彼の種はもうありません。」ラムセスの軍隊がカナンに既に住んでいたイスラエル国民を打ち破った場合、ラムセスは、一体どうして、イスラエル国民を奴隷にする前に、イスラエルを奴隷にしたファラオだったのでしょうか?
もう1つの証拠は、紀元前1360年頃のドイツ、ベルリンの州立博物館にあるベルリン台座です。このエジプトの文書には、イスラエルと呼ばれる拘束された敵国への言及が含まれています。これは、出エジプトが行われたとされる新王国の晩期という想定に対して、かなりの疑問を投げかけるものです。


赤い髪の男

また、アヴァリスには、ラムセス2世の何世紀も前の中世王国時代の第12王朝末期に存在していた、エジプト人ではないシリア風の家があります。家の上部には、12本の柱と12本の墓で建てられた宮殿がありました。ピラミッドは通常、ファラオ自身のためだけに確保されていたため、1つはピラミッドの墓であり、役人にとっては名誉なことでした。

ピラミッドの墓の内部で、考古学者が赤い髪と黄色の肌を持つ男性の「人生より大きい」像を発見しましたが、これは、彼がセム族(シリア・パレスチナの「アジア人」)であり、おそらく多色のコートのように、縞模様のマントを示す塗料の遺跡であることを示しています。創世記には、家長であるヤコブが、彼のお気に入りの息子に縞模様の長衣を与えたことがs記されています。彫像を発見したオーストリアの考古学者の派遣団は、この男は、エジプト人ではない「アジア人」であるが、「エジプト中王国のイメージには、アジアの人々は征服された敵として見ていることが、最も一般的であった」ため、彼は、通常ではない「権力の地位を保持していた」とコメントしています。これは、創世記がファラオ自身に次ぐエジプトで最高レベルの権威に昇格したと述べているヨセフだったでしょうか。ノースウェスタン大学セントポールのエジプト学者であるチャールズ・アリング教授と聖書研究協会の考古学者ブライアント・ウッドは、聖書がヨセフであると考えるような、器量を持つセム族に言及する必要があると考えています。


ファラオの悩みの皺(しわ)

当時のファラオはアメネムハットで、その像は心配の皺が描かれています。この描写は、エジプトが指導者時代に困難な時代に直面したことを示しています。アメネムハットの治世は、地域の指導者の影響力の終わりと、ファラオの手による権力と富の中央集権化が見られました。そのような権力の集中化は、ファラオの政府が大量の穀物を集め、7年間の干ばつが続いた創世記41章にある7年間の豊富さによって確実に促されたでしょう。

41:25ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。 41:26七頭の良い雌牛は七年です。七つの良い穂も七年で、夢は一つです。 41:27あとに続いて、上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年で、東風に焼けた実の入らない七つの穂は七年のききんです。 41:28わたしがパロに申し上げたように、神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。 41:29エジプト全国に七年の大豊作があり、 41:30その後七年のききんが起り、その豊作はみなエジプトの国で忘れられて、そのききんは国を滅ぼすでしょう。 41:31後に来るそのききんが、非常に激しいから、その豊作は国のうちで記憶されなくなるでしょう。 41:32パロが二度重ねて夢を見られたのは、この事が神によって定められ、神がすみやかにこれをされるからです。 41:33それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。 41:34パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、 41:35続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。 41:36こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。

41:46ヨセフがエジプトの王パロの前に立った時は三十歳であった。ヨセフはパロの前を出て、エジプト全国をあまねく巡った。 41:47さて七年の豊作のうちに地は豊かに物を産した。 41:48そこでヨセフはエジプトの国にできたその七年間の食糧をことごとく集め、その食糧を町々に納めさせた。すなわち町の周囲にある畑の食糧をその町の中に納めさせた。 41:49ヨセフは穀物を海の砂のように、非常に多くたくわえ、量りきれなくなったので、ついに量ることをやめた。

41:53エジプトの国にあった七年の豊作が終り、 41:54ヨセフの言ったように七年のききんが始まった。そのききんはすべての国にあったが、エジプト全国には食物があった。 41:55やがてエジプト全国が飢えた時、民はパロに食物を叫び求めた。そこでパロはすべてのエジプトびとに言った、「ヨセフのもとに行き、彼の言うようにせよ」。 41:56ききんが地の全面にあったので、ヨセフはすべての穀倉を開いて、エジプトびとに売った。ききんはますますエジプトの国に激しくなった。 41:57ききんが全地に激しくなったので、諸国の人々がエジプトのヨセフのもとに穀物を買うためにきた。

辺境地域の住民は、中央政府の店からの命を救うための穀物と引き換えに、所有物、召使い、土地、さらには厳しい時代には、自分自身を売らなければならなかったでしょう。


ピラミッドの墓

不思議なことに、アヴァリスのピラミッドの墓は骨を含めて完全に空です。墓は強盗でさえも興味を持っていません。考古学者のロールは、ヨシュア24:32に記述されているように、イスラエル人が数世紀後にエジプトを去ったときに、ヨセフの遺体が墓から取り出され、カナンのシケム(西岸のナブルス)に連れて行かれたという合理的な説明になると考えています。また、出エジプト記1:7で説明されているように、アヴァリスや他の近隣の町を含むエジプトのデルタ地帯で、これらのセム族の滞在者の「大幅な増加」の証拠があります。


イスラエル人の奴隷化

英国ブリストルのトリニティ大学の旧約聖書のジョン・ビムソン教授は、アメネムハットの治世中のこの長い繁栄期の後に、30代で人々が亡くなっているという非常に稀な時代が続いたと説明しています。 彼はまた、ヘブライ人少年の殺害の証拠を見ています。 アヴァリスからの発掘調査は、「新生児の死亡率が非常に高い」ことを示しています。生後3か月の新生児のうち、50%が10歳までに死亡しました。その時の埋葬プロットは、女性の成人が60%、男性の成人が40%であることを示しています。成人男性の不自然な減少は、聖書に記載されているような男児の殺人によるものでしょうか?

当時のブルックリン・パピルスと呼ばれる有名な文書には、裕福なエジプト人家族の住居にある国内奴隷のリストが含まれています。リストされている奴隷の70%は、メナヘム、イッサチャル、アッシャーなどのイスラエル人の名前や、出エジプト記の物語の冒頭で話されたヘブライ人の赤ちゃんを殺すことを拒否したヘブライ語の助産師の名前と同じ「シフラ」を含むユダヤ人です。証拠は、何世紀も後の新王国の第19王朝ではなく、第13エジプト(中王国)に、ヘブライ人が大量に存在したと言うことを明確に示しています。


疫病の証拠

オランダのライデン美術館には、「エジプトの賢者の忠告」として知られるイプウェルという名前のエジプトの書記によって書かれたパピルスがあります。 このドキュメントでは、「水が血に変わる」などの一連の災害について説明しています。 以下に続きます。
豊富な大麦はなくなりました。 食料が不足しています。 貴族の飢えと苦しみ。 避難所を持っていた人々は、嵐の暗闇の中にいます。 見よ、疫病が大地を一掃し、血はどこにでもあり、死者が大量に溢れかえっています。 泣き叫ぶ声が、嘆き悲しみと混じり合い、土地全体に広がっています。

学者は、貧しく、欠乏していた人々の描写と、突然金持ちになり、金持ちから奪い取った服を着ている人々との描写を一致させることができないので、「イプワー・パピルス」を軽視しています。「奴隷は見つけたものを奪い取る。金、ラピスラズリ、銀、トルコ石が女性の奴隷の首に飾られている。」しかし、この素晴らしい説明は、出エジプト記12:35-36の聖書のアカウントと正確に一致します。
12:35そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。 12:36主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。

エジプト学者のガリット・ダヤンは、土地全体に広がっている「疫病」を説明する別のパピルス巻物を発見しました。 血はどこにでもあります。川は血です。 ひょうは畑のすべての群れを撃ちました...土地には光がなく、土地全体に厚い暗闇があります。 。 主は、エジプトの地にいるすべての長子を、彼の王座に座したファラオの長子から、牢獄の捕虜の長子まで、撃たれました。」


アヴァリスの考古学は、数世紀後、12世紀末から13世紀末にかけて、エジプト人の高度にエジプト化された、本来のセム族の住民、ヤコブのイスラエル人の子孫、がアバリスを放棄し、考古学的記録から姿を消したことを示しています。 しかし、彼らは荒廃の場面を残しました。 オーストリアの考古学者たちは、アヴァリスのいたるところに、遺体を含む地面に浅い穴や、適切な墓の品物なしで、単に投げ込まれていたことを発見しました。 猛烈な疫病が、都市を襲い、人々は犠牲者の緊急の埋葬をせざるを得なかったことに違いありません。 デビッド・ロールによると、これは、長子の死である、10災禍の証拠である可能性が高い。 その後、都市のセム地区は空になりました。 人々は自分の持ち物を拾い上げて立ち去り、家々は徐々に崩れ、荒廃していったのです。


出エジプトの証拠

ラムセスまたはその息子の治世中に大惨事の証拠は残っていませんが、アヴァリスとカフンの地面には、新王国の数世紀前に遺体の山、緊急埋葬の証拠、そこに住んでいた人々のセム族の突然の消失で作られた穴があります。 突然の出発を示す品々が家や街で見つかりました。

紀元前3世紀のエジプト人の司祭マネトーは、第13中世王朝の最後の王の一人であるドゥディモーゼと呼ばれる王の治世の歴史を書き、彼の治世で「神はエジプト人を殺した」と述べています。ドゥディモーゼの治世後まもなく、エジプトは北部から「不明瞭な人種」の人々である外国人に侵略され、「打撃を与えることなく」土地を征服されてしまいました。なぜでしょうか。エジプト人はすでに衰弱していて、自分自身を守ることができなかったからです。これは、これらの外国の侵略者がエジプト人を奴隷にしたヒクソス時代と呼ばれます。これは、旧、中、または新王国時代を通じて、知られているエジプト社会の唯一の崩壊でした。


カナンの征服

列王紀上6:1によれば、紀元前970年にソロモンが治世の4年目の、紀元前1450年だったソロモンが神殿を建てる480年前に出エジプトが行われました。主な学者は、エジプトの新王国に匹敵する青銅器時代後期のエリコには破壊の証拠がないことを指摘しています。しかし、紀元前1550年頃(中王国)に都市を破壊した大規模な火事の前に、壁が落ちていた証拠があります。考古学者はまた、すべての家で穀物でいっぱいの瓶を発見しました。これは包囲が非常に短いことを示唆しており、イスラエル人が7日間都市を行進し、都市の壁が崩壊したという聖書の記述に一致します。

ヨシュア2:1-7は、イスラエルのスパイを隠し、彼らの脱出を助けた遊女ラハブの行動を説明しています。

2:1ヌンの子ヨシュアは、シッテムから、ひそかにふたりの斥候をつかわして彼らに言った、「行って、その地、特にエリコを探りなさい」。彼らは行って、名をラハブという遊女の家にはいり、そこに泊まったが、 2:2エリコの王に、「イスラエルの人々のうちの数名の者が今夜この地を探るために、はいってきました」と言う者があったので、 2:3エリコの王は人をやってラハブに言った、「あなたの所にきて、あなたの家にはいった人々をここへ出しなさい。彼らはこの国のすべてを探るためにきたのです」。 2:4しかし、女はすでにそのふたりの人を入れて彼らを隠していた。そして彼女は言った、「確かにその人々はわたしの所にきました。しかし、わたしはその人々がどこからきたのか知りませんでしたが、 2:5たそがれ時、門の閉じるころに、その人々は出て行きました。どこへ行ったのかわたしは知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう」。 2:6その実、彼女はすでに彼らを連れて屋根にのぼり、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に彼らを隠していたのである。 2:7そこでその人々は彼らのあとを追ってヨルダンの道を進み、渡し場へ向かった。あとを追う者が出て行くとすぐ門は閉ざされた。

城壁にあると言われている彼女の家は、選ばれた人々の侵入に対する彼女の助けのために免れました。考古学者は、城壁の一部が破壊されていないことを発見しました。城壁にはジョシュア記2章に記載されている家が建てられています。
聖書はまた、ヨシュアがハビンの王を殺したことを語っています。中世青銅器時代にハゾールの宮殿の遺跡から発掘された石版は、この君主に言及しています。


考古学的評価

聖書の記述の6つの段階のすべての重要な証拠があります。(1)エジプトへのイスラエル人の到着、(2)数十万人へのヘブライ部族の増殖。(3)ヘブライ人の奴隷化、(4)エジプトを襲った疫病、(5)出エジプト/突然の出発、(6)カナンの都市/国家の征服。 これら出来事は、ほとんどの考古学者が期待したように、新王国ではなく中王国で行われました。 新しい研究とパラダイムシフトにより、目に見えないもの、エジプトにおけるイスラエル人の存在の現実、奴隷化、一連の壊滅的な出来事の後の突然の出発、エリコと他の都市国家の征服が明らかに 示されています。全てモーセ五書に記されているように。
これは、古代エジプト、ギリシャ、ローマの神々とは異なり、彼らの神が神話の時間と場所ではなく線形の歴史の中で自分自身を明らかにしたというユダヤ人の中心的な主張を強化します。そして、その多くが考古学的データによって裏付けられている、これらの啓示は、懐疑論者、無神論者、宗教の嫌悪者、そして現代のグノーシス主義者と向き合い続けています。

 第7章 石板

「切り花の文化」という言葉はウィル・ヘルバーグに起因しています。この比喩は、切り花が魅力的であり、すぐに滅びる運命にあることを思い出させます。切り花が根から離れているからです。根がなければ、素敵な切り花は滅びるでしょう。ですから、そのルーツから切り取られた文化は、文化的価値がどれほど魅力的であるかに関係なく滅びる運命にあります。これは、私たちが「繁栄」する原因となった以前の精神的なルーツから私たちの生活や制度を根こそぎにした世俗的な文化を持つアメリカが今日どこにあるかを説明します。世俗的なグループと無教団体の両方によってアメリカの十戒を放棄し、十戒のうち7つ以下を所有していると主張するイスラム教徒の移民によって同様に支援され、アメリカは文化的精神的な根見の時代に直面しています。

ピーター・リルバック、「花を切り取ることができますか?アメリカ共和国の見捨てられたルーツ。」2017年1月16日

出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に列挙されているように、モーセの613の律法は、神とヘブライ人の間の契約を表しています。申命記28:3-14に述べられているように、従う人は豊かな報いを受けるでしょう。

あなたは町の内でも祝福され、畑でも祝福されるであろう。またあなたの身から生れるもの、地に産する物、家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう。またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう。あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう。敵が起ってあなたを攻める時は、主はあなたにそれを撃ち敗らせられるであろう。彼らは一つの道から攻めて来るが、あなたの前で七つの道から逃げ去るであろう。 主は命じて祝福をあなたの倉と、あなたの手のすべてのわざにくだし、あなたの神、主が賜わる地であなたを祝福されるであろう。 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。 そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。 主があなたに与えると先祖に誓われた地で、主は良い物、すなわちあなたの身から生れる者、家畜の産むもの、地に産する物を豊かにされるであろう。 主はその宝の蔵である天をあなたのために開いて、雨を季節にしたがってあなたの地に降らせ、あなたの手のすべてのわざを祝福されるであろう。あなたは多くの国民に貸すようになり、借りることはないであろう。 主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。 きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。

逆に、申命記28:15-29によれば、従わない人は、完全なる神の激怒の表れをに受け取ることになります。

しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。 あなたは町のうちでものろわれ、畑でものろわれ、 あなたのかごも、こねばちものろわれ、 あなたの身から生れるもの、地に産する物、牛の子、羊の子ものろわれるであろう。 あなたは、はいるにものろわれ、出るにものろわれるであろう。
主はあなたが手をくだすすべての働きにのろいと、混乱と、懲しめとを送られ、あなたはついに滅び、すみやかにうせ果てるであろう。これはあなたが悪をおこなってわたしを捨てたからである。 主は疫病をあなたの身につかせ、あなたが行って取る地から、ついにあなたを断ち滅ぼされるであろう。 主はまた肺病と熱病と炎症と間けつ熱と、かんばつと、立ち枯れと、腐り穂とをもってあなたを撃たれるであろう。これらのものはあなたを追い、ついにあなたを滅ぼすであろう。 あなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となるであろう。 主はあなたの地の雨を、ちりと、ほこりに変らせ、それが天からあなたの上にくだって、ついにあなたを滅ぼすであろう。
主はあなたを敵の前で敗れさせられるであろう。あなたは一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去るであろう。そしてあなたは地のもろもろの国に恐るべき見せしめとなるであろう。 またあなたの死体は空のもろもろの鳥と、地の獣とのえじきとなり、しかもそれを追い払う者はないであろう。 主はエジプトの腫物と潰瘍と壊血病とひぜんとをもってあなたを撃たれ、あなたはいやされることはないであろう。 また主はあなたを撃って気を狂わせ、目を見えなくし、心を混乱させられるであろう。 あなたは盲人が暗やみに手探りするように、真昼にも手探りするであろう。あなたは行く道で栄えることがなく、ただ常にしえたげられ、かすめられるだけで、あなたを救う者はないであろう。

法律は古代ヘブライ人の生活のあらゆる側面を支配していました。彼らが耕した方法、彼らの性生活、彼らが食べたものと食べなかった食べ物、そして彼らの個人的な衛生。彼らは禁じられていたもの、条例の違反者に対する罰、およびtone罪の手段を禁止しました。彼らは、事故による死亡、負傷、財産の損害に対する補償を確立し、奴隷と奴隷の所有者の権利と責任を定めました。たとえば、出エジプト記21:33-34には、次のように記載されています。「21:33もし人が穴をあけたままに置き、あるいは穴を掘ってこれにおおいをしないために、牛または、ろばがこれに落ち込むことがあれば、 21:34穴の持ち主はこれを償い、金をその持ち主に支払わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。」
 

残酷なことと人道的なこと

法律は、同性愛と女装を非難することに率直です。レビ記18:22は次のように述べています。「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。これは憎むべきことである。」そして、申命記22:5は次のように付け加えています。「女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。」 聖式のコミュニティ内では、包括性はもちろんのこと、寛容する余地は一切ありませんでした。

きれいな動物と汚れた動物の区別など、法律の多くは驚くほど重要です。たとえば、レビ記11章と申命記14章では、ブタ、ウサギ、ハイラックスの摂食が禁止されています。これらの動物は異なる種ですが、すべて野兎病や、人が病気の動物の皮を剥いてきれいにするときに感染する危険な病気にかかりやすいのです。さらに、豚は旋毛虫の宿主であり、まれに豚肉を食べたり、調理が不十分な豚肉を食べると死に至る可能性があります。

法律の中には厳しく不合理であるように思われるものもあります。出エジプト記22:18には、「魔法使の女は、これを生かしておいてはならない。」と書かれています。そのようなくだりは、呪文やマインドコントロールを含む黒魔術が1950年代から1960年代に「MKウルトラ計画」と呼ばれるCIA作戦の対象になったという事実を除いて、遠い過去の砂漠に追いやられるべきだと多くの人は信じています。この秘密の企ては、ケベックで何千人もの無実の子供たちの死をもたらしました。


レックス・タリオニス、報復の法

レックス・タリオニスに対するトーラー(モーセ五書)の主張は誤解されており、野蛮だと非難されています。この法律は次のように述べています。「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。」(申19:21)。有名な聖書考古学者であるウィリアム・オルブライトは、この命令は、報復的な残虐さを表していないと主張しています。むしろ、彼は、すべての人にとって平等な正義の原則の最初の正式な宣言であり、より低い階級から、より重い刑罰を厳格にするという「モーセ以前の法」の慣行の終わりであると彼は主張しているのです。オルブライトにしてみれば、「復讐の神」というヘブライ語の概念が、現代の意味での「仕返し」という意味ではないのと同じように、復讐(avenge)という意味は無いということです。ヘブライ語では、復讐(avenge)とは「(主義主張のために)戦う、擁護する、または潔白を証明すること」を意味します。

法律の基本的な人道主義は、労働者の健康と未亡人、孤児、貧しい人々の世話にまで及びました。動物は、たとえ敵に属していても、親切に扱われることになっていました。 「脱穀をする牛にくつこを掛けてはならない。」(申命記25:4)「もし、あなたが敵の牛または、ろばの迷っているのに会う時は、必ずこれを彼の所に連れて行って、帰さなければならない。もしあなたを憎む者のろばが、その荷物の下に倒れ伏しているのを見る時は、これを見捨てて置かないように気をつけ、必ずその人に手を貸して、これを起さなければならない。」(出エジプト記23:4-5)。


一時的なものと永続的なもの

考古学的発見によると、法律は、神とヘブライ人の間の同盟条約を表しており、古代中東の王と土地を支配した家臣の間で作られた条約に従っていました。そのような条約は、「偉大な王」の名前、肩書き、儀式の列挙から始まりました。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」(出エジプト記20:2)。家臣は他の王との関係に入ることを禁じられていた。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(出エジプト記20:3)。威厳のある「あなたはしなければならない」と「あなたはしてはならない」は、家臣との条約を通じて繰り返し発生します。家臣とのある条約は、「ヒッタイトの土地の領土を切望してはならない」と規定しています。同様に、モーセの律法は「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。」と規定しています(出エジプト記20:17)。カトリックの有力な学者であるローランド・ド・ヴォーは、多くのヒッタイト条約の家臣との間で、王、家臣、および彼らの臣民がいる前で条約の文書が定期的に読み上げられるという命令を発見しました。同様に、申命記31:10-13は次のように述べています。「そしてモーセは彼らに命じて言った、「七年の終りごとに、すなわち、ゆるしの年の定めの時になり、かりいおの祭に、 イスラエルのすべての人があなたの神、主の前に出るため、主の選ばれる場所に来るとき、あなたはイスラエルのすべての人の前でこの律法を読んで聞かせなければならない。 すなわち男、女、子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め、彼らにこれを聞かせ、かつ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神、主を恐れてこの律法の言葉を、ことごとく守り行うであろう。また彼らの子供たちでこれを知らない者も聞いて、あなたがたの神、主を恐れることを学ぶであろう。あなたがたがヨルダンを渡って行って取る地にながらえる日のあいだ常にそうしなければならない」 これらの法則は、王と家臣の間ではなく、ヘブライ人の神とその民の間にあるという事実を認識しながら、そのような類似点を認めなければなりません。


神の指によって刻まれた

「神の指」によって石板に書かれた法律ほど、古代ユダヤ人にとって神聖なものはありませんでした。古くからのラビの教えは、戒めが天から来て、世界の創造の前に書かれたと主張しました。エレアザール・ベン・シャマは次のように述べています。「それがトーラーのためではなかったら、天と地は存在し続けることはないでしょう。」何千年もの間、スピノザのようなこの教えを拒否したユダヤ人は異端者として非難され、宗教共同体から追放されました。

法の中心は出エジプト記20:1-17にある十戒です。

神はこのすべての言葉を語って言われた。
「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。
安息日を覚えて、これを聖とせよ。 六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。 七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。
あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。
あなたは殺してはならない。
あなたは姦淫してはならない。
あなたは盗んではならない。
あなたは隣人について、偽証してはならない。
あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」。


契約の箱

石板は、アカシアの木でできた長方形の箱(長さ2½キュビット、幅1½キュビット、高さ1½キュビット)である契約の箱の中に保管されていました。箱のふたは、金色のケルビムが2つ付いた純金製でした。このふたは「神の玉座」を表しています。それが置かれたところはどこにでも、神は完全にそこにいました。イスラエルの民の前に立つために、それが引き上げられたとき、神も引き上げられました。それが下げられたとき、神は王座の彼の席を再び座りました。箱舟には、戦闘に持ち込めるように、取っ手が取り付けられていました(民数記10:35)「主よ、立ちあがってください。あなたの敵は打ち散らされ、」レビ族が、契約の箱を運ぶ責任を担っていましたが、レビ人でさえも、死ぬことなくそれに触れることも「見る」こともできませんでした(民数記4:20)。

古代のヘブライ人は箱舟を戦いに巻き込んだので、彼らは排泄物を埋めるために穴を掘ることができるように、木製のパドル(櫂)を戦争の武器と一緒に運ばなければなりませんでした。「あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。」(申命記23:14)。

ダビデは、エルサレムをイスラエルの宗教的中心地にしようとしたとき、彼は彼の兵士の一人であるウザと、ウザの兄弟であるアヒオが率いる牛車で、契約の箱を街に持ち込むように手配しました。一頭の牛がつまずいたとき、ウザは契約の箱に手を置いて安定させたが、彼の善意は彼を助けることはありませんでした「彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。」(サムエル記下6:6-7)。律法を含む契約の箱ほど神聖なものはなかった。それはついにソロモン神殿の中の厚いベールの後ろに置かれました。それが保管されていた暗室は、贖いの日に大祭司によって、年に一度しか入ることができなかった金の壁を持つ部屋(debhir)である「至聖所」を表していました。神の民にとって律法の超越的な重要性を捨てることは、トーラー(モーセ五書)の本質を放棄することなのです。


最大の戒め

ユダヤ人の賢者が最も優れた戒めと見なしている最初の戒律(ミツバ;mitzvah)は、ヘブライ人を「奴隷の地から」連れてきたモーセの神が、崇拝に値する唯一の神であると述べています。バアル、ベテル、ダゴン、アスタルテ、アナス、アシェラ、そして、全てを受け入れた現代のマルシオン主義を含む他の神は、彼の上に置かれることはありません。これは契約の基礎であり、イスラエルの一神教の基礎です。それはイスラエルを一つの神に完全に結びつけ、他の神にいかなる重要性や権威も許さないのです。

この戒めは、新しい神権共同体の基礎を築きました。それは、より多くの民法ではなく、古代ヘブライ人が天から与えられたと信じていた法律です。彼らの神は見えない王であり、従うべきすべての教訓と、果たされるべきあらゆる罰を命じました。神の民はイスラエルと呼ばれ、神の擁護者を意味しました。異端者または冒涜者は、たとえ犯罪者がたまたま近親者であったとしても、死によって処罰されることになっていました。最初の戒めは、神の絶対的な聖さを確認するのに役立ちます。聖書学者のゲルハルト・フォン・ラッドによると、この神聖さは、ヘブライ人によって、安息の力ではなく、「緊急」で「あらゆる場合に計り知れない」力として経験されました。


偶像崇拝の犯罪

偶像崇拝の犯罪は非常に恐ろしかったので、モーセは山から降りて、金色の子牛を崇拝するヘブライ人を見て神から受け取った石板を粉砕しました。

モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。 また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。

モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。 アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。 彼らはわたしに言いました、『わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセは、どうなったのかわからないからです』。 そこでわたしは『だれでも、金を持っている者は、それを取りはずしなさい』と彼らに言いました。彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです」。

モーセは民がほしいままにふるまったのを見た。アロンは彼らがほしいままにふるまうに任せ、敵の中に物笑いとなったからである。 モーセは宿営の門に立って言った、「すべて主につく者はわたしのもとにきなさい」。レビの子たちはみな彼のもとに集まった。 そこでモーセは彼らに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、『あなたがたは、おのおの腰につるぎを帯び、宿営の中を門から門へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ』」。 レビの子たちはモーセの言葉どおりにしたので、その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。 そこで、モーセは言った、「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らって、きょう、主に身をささげた。それで主は、きょう、あなたがたに祝福を与えられるであろう」。

あくる日、モーセは民に言った、「あなたがたは大いなる罪を犯した。それで今、わたしは主のもとに上って行く。あなたがたの罪を償うことが、できるかも知れない」。 モーセは主のもとに帰って、そして言った、「ああ、この民は大いなる罪を犯し、自分のために金の神を造りました。今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば――。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。 主はモーセに言われた、「すべてわたしに罪を犯した者は、これをわたしのふみから消し去るであろう。 しかし、今あなたは行って、わたしがあなたに告げたところに民を導きなさい。見よ、わたしの使はあなたに先立って行くであろう。ただし刑罰の日に、わたしは彼らの罪を罰するであろう」。

そして主は民を撃たれた。彼らが子牛を造ったからである。それはアロンが造ったのである。(出エジプト記32:19-35)

彼らの罪の結果、3000人のヘブライ人が死刑に処され、残った人々の多くは疫病に襲われ、子牛を崇拝したすべての人々の名前は神の命の書から消されました。残念ながら、この教訓は、彼らの父なる神を忘れてしまった現代のマルシオン人よって失われてしまいました。

第8章 死刑

おそらく、あなたは、「出エジプト記20:13」の「あなたは殺してはならない」という第六の戒めの誤解(そして誤訳)に、注釈を付けたくなるだろう。〔 「殺人(murder)をしてはならない。」と「殺して(kill)はならない」 〕 ratsakh という動詞は、「殺す(kill)」ではなく「殺人(murder)」を意味するので、本来のヘブライ語、lo tirtsah は非常に明確です。戒めが殺害を禁止するならば、それはユダヤ教を死刑に反対する立場に位置づけ、戦時中でさえ平和主義者にするだろう。これらは、防御可能または立派な見解かもしれませんが、明らかに聖書的ではありません。
ベレル・ラング(旧約聖書教授)

RATSAKH!
このヘブライ語の動詞の誤解のため、世界中の人々は銃器の禁止と防衛費の終了を求めています。このような誤解により、ロシアのクエーカー教徒はシラミを殺すことを拒否し、むしろ「他の場所に置く」ことになりました。

Ratsakhは、計画的な殺人または過失致死を表すヘブライ語です。死刑や戦争中の敵の戦闘員の殺害などの合法的な殺害には決して使用されません。このため、ユダヤ人学者によると、キング・ジェームズ訳の「あなたは殺してはならない」は広すぎて誤解を招きます。エイドリアン・エベンスはこう書いている:

「殺人(murder)」と「殺すこと(killing)」を表すヘブライ語(ratsakh、mut)とギリシャ語(phoneuo、apokteino)には、それぞれ2種類あります。1つは「殺す」ことを意味し、もう1つは「殺人する」ことを意味します。後者は十戒によって禁止されているものであり、前者ではありません。実際、ratsakhは、英語の単語「殺人(murder)」よりも広い定義を持っています。 Ratsakhは、不注意または怠慢による死亡も対象にしていますが、戦時中の殺人について説明する際には使用されません。だからこそ、現代のほとんどの翻訳では、第六の戒めを「殺してはならない(kill)」というよりも、「殺してはならない(murder)」と定めています。ただし、どの翻訳を研究するかによって、非常に大きな問題が発生する可能性があります。絶えず人気のあるキング・ジェームズ・バージョンは、この聖句を「殺してはならない(kill)」としています。そのため、この聖句を完全に誤解する扉が開かれたままなのです。もしも、「殺すな」の意図された意味が、killならば、もちろん、killではないが、それはイスラエル国によって行われた神が承認したすべての流血の惨事が、神の戒めに違反したことになるのです(申命記20)。
 

死刑執行人としての神

ratsakhは、意図的な殺人にのみ適用されるという主張は、神ご自身が旧約聖書全体を通して人々の殺害を命じているという事実によって支えられています。スイスのイエズス会の神学者レイモンド・シュワーガーは次のように書いています。

「神が誰かに殺すように明示的に命じている箇所は数多くあります。ヤハウェ自身が暴力的な罰の監督執行者として登場する約1000の聖句と、主が犯罪者を処分者の剣に渡す多くの文章を除いて、ヤハウェは、他の百以上の箇所で明示的に人々を殺す命令を与えます。これらの箇所では、神自身が殺害を行うことはありません。彼は幾分、よそよそしく距離を置いていますが、人間の命を破壊する命令を下したのは彼(神)です。」

神が直接殺し(kill)を命じる主な聖句は次のとおりです。

あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追いはらわれる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らとなんの契約をもしてはならない。彼らに何のあわれみをも示してはならない。(申命記7:1-2)

ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。(申命記20:16)

今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」。(サムエル記上15:3)

あなたのみどりごを取って 岩になげうつ者はさいわいである。(詩篇137:9)


死刑に値する犯罪

十戒に繋がっていく出エジプト記には、殺人、父親または母親への身体的暴行、および被害者を奴隷に売り込む目的で誘拐した場合に死刑を義務付けています。

人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。しかし、人がたくむことをしないのに、神が彼の手に人をわたされることのある時は、わたしはあなたのために一つの所を定めよう。彼はその所へのがれることができる。しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。自分の父または母を撃つ者は、必ず殺されなければならない。人をかどわかした者は、これを売っていても、なお彼の手にあっても、必ず殺されなければならない。 (出エジプト記21:12-16).

レビ記(20:9-16)では、両親への呪い、姦通、近親相姦、同性愛、獣姦など、他の多くの行為に対して死刑が規定されていました。

だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼が父または母をのろったので、その血は彼に帰するであろう。
人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。
その父の妻と寝る者は、その父をはずかしめる者である。彼らはふたりとも必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。
子の妻と寝る者は、ふたり共に必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをしたので、その血は彼らに帰するであろう。
女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。
女をその母と一緒にめとるならば、これは悪事であって、彼も、女たちも火に焼かれなければならない。このような悪事をあなたがたのうちになくするためである。 
男がもし、獣と寝るならば彼は必ず殺されなければならない。あなたがたはまた、その獣を殺さなければならない。
女がもし、獣に近づいて、これと寝るならば、あなたは、その女と獣とを殺さなければならない。彼らは必ず殺さるべきである。その血は彼らに帰するであろう。


「血の復讐者」

民数記では、殺人被害者の家族に「血の復讐者」になる権利が認められています。

もし人が鉄の器で、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。故殺人は必ず殺されなければならない。またもし人を殺せるほどの石を取って、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。故殺人は必ず殺されなければならない。 あるいは人を殺せるほどの木の器を取って、人を打って死なせたならば、その人は故殺人である。故殺人は必ず殺されなければならない。血の復讐をする者は、自分でその故殺人を殺すことができる。すなわち彼に出会うとき、彼を殺すことができる。またもし恨みのために人を突き、あるいは故意に人に物を投げつけて死なせ、 あるいは恨みによって手で人を打って死なせたならば、その打った者は必ず殺されなければならない。彼は故殺人だからである。血の復讐をする者は、その故殺人に出会うとき殺すことができる。 (民数記 35:16-21).

しかし、このような復讐は、民数記では、被告人殺人犯が公判で有罪判決を受けた後にのみ行うことができます。(民数記35:12)

民数記はまた、死刑判決は、単一の証人の証言によって課されることは決してないので、証拠を裏付ける必要があることを明確に記しています。「人を殺した者、すなわち故殺人はすべて証人の証言にしたがって殺されなければならない。しかし、だれもただひとりの証言によって殺されることはない。」(民数記35:30)


規定された手続き

モーセの律法の厳しさに反発した現代のクリスチャンは、古代イスラエルで死刑を受けることがどれほど困難であったかについて、知識不足のままです。まず第一に、状況証拠では、それをうまく扱えないのです。その人間が、死によって罰せられる法律に違反しているのを観察した、2人の非の打ちどころのない証人が必要でした。次に、これらの2人の証人は、たとえ彼がすでに知っていたとしても、禁止された行為を犯すことによって、受けることになる死刑について、被告人に警告しなければなりませんでした。最後に、その人物は、その警告に直接反抗して、犯罪を犯したに違いありません。加害者によるいかなる躊躇も、彼の犯罪に死刑を適用できないことを意味しているのです。


同性愛と科学

それでも、なお、同性愛者やレズビアンに死刑判決を要求する法律は、確かに野蛮さと人間の聖別に対する理解が原始的であることを感じさせます。多くの科学者は現在、アメリカの精神科医が1973年まで主張していたように、同性愛者であることは邪悪でも病気でもないと主張しています。元ソーク研究所の研究者サイモン・ルベイによる研究は、性的指向は遺伝的である可能性があり、同性愛者と伝統的な男性の脳の視床下部の違い、および同性愛者の「甲状腺刺激ホルモン受容体」の存在を指摘しています。それは、彼らを痩せさせたり、グレーブス病にかかりやすくさせます。

他の科学者は、これらの被験者の多くがエイズで死亡したにもかかわらず、「異性愛者」死体の比較グループがすべて異性愛者であったという仮定を含む、主要な方法論的誤りを犯したLeVayの研究を批判している。1980年代後半から1990年代初頭にかけては、特に同性愛者の間ではるかに広く普及していました。足元では、彼の同性愛者の被験者のすべてがエイズで死亡していた。彼らの小さな脳クラスターは、同性愛からではなく、エイズ関連の脳損傷によって引き起こされた可能性があります。


相反する研究

別の研究では、前交連(AC)として知られる脳の領域は、異性愛者と比較して同性愛者の方が大きかったことが報告されました。これは、性的指向が脳の性分化状態を反映しているという仮説を支持するものとして解釈された発見です。他の研究者は、120人の死体でそのような発見を再現しようとしましたが、「年齢、HIV状態、性別、または性的指向による前交連(AC)の大きさの変化は見つかりませんでした」。

さらに別の研究では、初期の経験だけでなく、心理的および環境的影響を指摘しています。精神科医のバインとパーソンズは、「一般精神医学のアーカイブ」で次のように述べています「将来の性的指向の段階は、おそらく初期の成長、おそらく人生の最初の4年間の経験によって設定されるかもしれないと、示唆するのが妥当と思われる。」著者は次のように結論付けています。「現在の心理社会的説明の不十分さは、代案が無い状態で、生物学に目を向けることを正当化するものではありません。特に、現在、生物学的代替案にそれ以上の説明価値がないと思われる場合には。実際、現在の傾向は、現存の心理社会的モデルの説明力を過小評価することかもしれません。」


同性愛は精神病ですか?

これらの研究や他の研究から見られるように、同性愛の生物学的/遺伝的原因の科学的証拠は、解明には程遠い状態です。。先に述べたように、1973年に米国精神医学会は精神障害のリストから同性愛を削除しました。その決定は、新しい研究の結果として行われたものではありません。その決定の最も広範な調査の著者であるロナルド・バイエルは、実際に何が起こったのかを次のように説明しました:「権威のあらゆる事例に異議を唱えた激しい平等主義は、精神科の専門家に同性愛の病理学的地位について、同性愛者自身と交渉させました。結果は、理性によって指示された科学的真理の近似に基づく結論ではなく、時代のイデオロギー的な気性によって要求される行動であった。

シグムンド・フロイド(1916)は、「性行動のアーカイブ」で、同性愛を過度に愛情深い母親や父親の引退または不在によって引き起こされる精神障害として説明しました。ステッケル(1930)は、それが強くて支配的な母親と、弱い父親によって引き起こされたと指摘した。1936年、ルイス・ターマンとキャサリン・マイルズの「性と性格研究」では、「同性愛者の母親は特に実証的で、愛情深く、感情的であり、父親は一般的に同情的でなく、独裁的であるか、頻繁に家を空けることが多かった」と結論づけてフロイトを支持しました。

同性愛は精神病を代表するという説を支持して、研究者たちは、児童の性的虐待と同性愛の発達との間に強いつながりがあることを発見しました。「性と夫婦療法」誌の研究では、幼少期に性的虐待を受けた35人の成人男性の性的接触に関する過去の性的経験、性的思考、空想を調べました。この研究は、男性の間で、同性愛の児童虐待の歴史が成人の同性愛志向と子どもへの性的誘引の両方に関連しており、次の発見を支持していることが分かりました。「既存の文献によると、性同一性の混乱と性別の好みは、しばしば小児期の性的虐待の影響を受けるということに言及しています。この研究では、虐待を受けた男性の46パーセントが、虐待を受けていない男性の12パーセントとは対照的に、性的指向を両性愛または同性愛のいずれかと定義し、ほぼ400%の差がありました。したがって、これらの発見は、性的虐待を受けた子供の性的指向に関する以前の研究の正当性を、強く立証するものです。研究者は、「これらの発見を考えると、子どもとして性的虐待を受けると、成人男性が若い男性を空想する傾向に影響を与える可能性があるようだ。」と研究を結論付けました。


奇妙な質問

同性の魅力は不変の状態ですか?全米性調査によると、男性の9.1%が生活の中で別の男性と性的経験をしたと報告しているが、半数近く(46%)がこれらの男性の彼らは18歳の前にそうしたと言いました、そして、彼らは、彼らの大人の生活の中で同性愛行為をしていないと言いました。同性の魅力と行動を経験する多くの十代の若者たちは、大人としてこれらの行動を止めています。同性愛のアイデンティティは、多くの人が信じるほど固定されていないかもしれません。
律法では許容される余地はない

それでも、数人の聖書学者は、この節が偶像崇拝に関連する同性愛行為のみを非難すると主張することによって、レビ記によって投げかけられた問題を避けて行こうとしました。「キリスト教と危機」において、ジェームズ・ネルソンは書いています。「これらの節では、行為は本質的な常軌の逸脱のためではなく、偶像崇拝(特に性的言及ではカナン人の偶像崇拝)との関連のために非難されます。 しかし、レビ記の文章が、同性愛行為の非難を偶像崇拝的な文脈に制限していることを示唆する証拠はないのです。レビ記は、一般的に同性愛行為について話します:

しかし、申命記23:17とレビ記20:13の文章の比較は、申命記が神聖な(場所での)ソドミー(不自然な性行動)に関係しているのに対し、レビ記は市民のソドミーに関係していることを示しています。女性[qedeshah]と男性[desh]カルト的な買春の専門用語は、レビ記が非難している事柄の中には存在しません。代わりに、文章には、同性愛行為の明確で一般的な記述が含まれています。「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。」

レビ記20:13が神聖なソドミーにのみ適用されるという議論は、論理的な行き詰まっていきます。もしも、同性愛が偶像崇拝の文脈で実践された場合にのみ非難されるならば、その直後の一節にリストされている他の禁止された行動についても同じことが言えます。マイケル・ウクレヤが書いているように、「そのような区別を守るためには、姦淫は道徳的に間違っていなかった。(参照:レビ記18:20)、子供の犠牲は道徳的な意味を持たなかった。(参照:レビ記18:21)、そして獣姦で本質的に悪なものは何もない、と結論付けなければなりませんでした(参照:レビ記18:23)。


「忌まわしい行為」としての同性愛

「キリスト教の包括性」の問題をさらに悪化させることに、同性愛はトーラー(律法)によって「忌まわしい行為」として非難されています。この用語の意味に関して、「同性愛の構築」の著者である、デイビッド・グリーンベルグは、次のように書いています。「ヘブライ語の聖書にtoevah(「忌まわしい行為」)という言葉が登場するとき、それ(同性愛)は、偶像礼拝、カルト売春、魔術、占い、より一般的に使用される場合があります。それは常に大きな嫌悪を伝えます。」

古代世界は異性愛と同性愛の区分を全くしなかったため、聖書的な非難は、歴史的および宗教的に非常に重要です。ブラウン大学の哲学教授であるマーサ・ヌスバウムは次のように書いています。

古代の性的経験のカテゴリーは私たちのものとはかなり異なっていました・・・。性的道徳の中心的な違いは、能動的役割と受動的役割の区別でした。対象の性別。 それ自体は道徳的に問題ではありません。男の子と女性は、しばしば(男性)欲求の対象として交換可能なものとして扱われます。社会的に重要なことは、挿入されることではなく、挿入することなのです。セックスは、基本的にお互いのかかわり合いとしてではなく、誰かに何かをすることとして理解されています。」

肛門性交は、ウルク、アスール、バビロン、スーザの古代都市で、造形的な芸術で自由に描かれました。ジムリ・リン(マリの王)とハンムラビ(バビロンの王)は男性の恋人を持っていました。古代アッシリア語のテキストである、「インカンテーションのアルマナック」には、同性愛関係に関する神の祝福のための祈りが含まれています。古代近東の多言語百科事典であるReallexicon der Assyriologieの編集者は、「したがって、同性愛自体は、性的なみだらさ、不道徳、社会的無秩序、または人間の法則や神の律法に違反していると非難されていません。誰もが売春婦を訪れるのと同じように、暴力や強迫なしに、できることなら、受動的な役割を引き受ける限り、専門家と一緒に行われれば、誰でも自由にそれを練習できるのです。」


ユダヤ教の本質

同性愛に対する禁止は、ユダヤ教の本質と、神が律法の中で次の禁止命令を発するという事実に由来しています。

見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。しかし、もしあなたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。あなたがたはヨルダンを渡り、はいって行って取る地でながく命を保つことができないであろう。わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。(申命記30:15-20)

ユダヤ教は、死よりも生を一貫して主張します。ヘブライの司祭は死者と接触することを禁じられました。なぜならば、そのようなものに身をさらすことは、彼らを儀式的に汚れさせるからです(民数記19:11)。死に対する生命への関心は、肉(死)と乳(生命)を、生理(死)と性交(生命)を、および肉食獣(死)を菜食動物(生命)から分離することに関する法律の正当性を形成します。これは、同性愛と子供の犠牲を、律法が(同じレベルの禁止行為として)並置していることを説明しています。一つは、子供の命を奪います。そして、もう1つは、そもそも彼らの生命が始まることを妨げているのです。

2020年において、同性愛者の実践は人間社会に対する脅威を表しており、彼らを死に至らしめなければならないという聖書の禁止命令は、旧約聖書の信仰の問題を表しています。 それは遠い過去に追いやることができず、もはや人類を拘束するものではないとみなすことができない教えです。 さらに、それは道徳的な戒めです。 神学的な提案ではありません。この差止命令を野蛮で非人道的であると非難することは、モーセの神を現代の法廷に引きずり込むことであり、そこではおそらく死ではないにせよ、彼は有罪となり、永遠の沈黙を宣告されることでしょう。

第9章 大量虐殺

七度目に、祭司たちがラッパを吹いた時、ヨシュアは民に言った、「呼ばわりなさい。主はこの町をあなたがたに賜わった。この町と、その中のすべてのものは、主への奉納物として滅ぼされなければならない。ただし遊女ラハブと、その家に共におる者はみな生かしておかなければならない。われわれが送った使者たちをかくまったからである。また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼさるべきものとし、それを悩ますことのないためである。ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない」。そこで民は呼ばわり、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。民はラッパの音を聞くと同時に、みな大声をあげて呼ばわったので、石がきはくずれ落ちた。そこで民はみな、すぐに上って町にはいり、町を攻め取った。 そして町にあるものは、男も、女も、若い者も、老いた者も、また牛、羊、ろばをも、ことごとくつるぎにかけて滅ぼした。
                                      ヨシュア記 6章16~21節

皆殺しにしろ。女性と子供を殺せ。老人と弱者を殺せ。未亡人と孤児を殺せ。すべての牛、子羊、ヤギ、アヒル、ロバなどの家畜を殺せ。丘を血で赤く染めろ。これは、旧約聖書の神によって、古代ヘブライ人がカナンの地に降りようとしていたときに伝えられた命令でした。

そして、聖書の記述によれば、ヘブライ人は命令に従いました。彼らは、ヒッタイト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人など、ほとんどすべての人と出会ったものすべてを虐殺しました。遊女のラハブと彼女の家族のメンバーを含む、土地の元の住民の数人は免れました。この慈悲の行為は後に嘆きの源となりました。詩編106の著者は次のように書いています。

彼らは主が命じられたもろもろの民を滅ぼさず、かえってもろもろの国民とまじって そのわざにならい、自分たちのわなとなった偶像に仕えた。彼らはそのむすこ、娘たちを悪霊にささげ、罪のない血、すなわちカナンの偶像にささげたそのむすこ、娘たちの血を流した。こうして国は血で汚された。このように彼らはそのわざによっておのれを汚し、そのおこないによって姦淫をなした。


「すべてのフィクションの中で最も不快なキャラクター」

旧約聖書の大量虐殺の記述に応えて、英国の生物学者リチャード・ドーキンスは「神の妄想」に次のように書いています。「旧約聖書の神は、ほぼ間違いなく、すべてのフィクションの中で最も不快なキャラクターである。嫉妬深く、それを誇っており、取るに足らない、不当な、容赦のない、仕切り屋で、血に飢えた民族的な洗浄係で、女嫌い、同性愛嫌悪、人種差別主義、乳児虐殺、大量虐殺、殺人、疫病、誇大妄想狂、サドマゾティック、気まぐれな悪意のあるいじめ。
同様に、チャールズ・テンプルトンは「神との別れ」の中で、「旧約聖書の神は、ほとんどの実践しているクリスチャンによって信じられている神とは全く異なります。彼は人間の失敗、弱さ、人間の慣習を持つ、あまりにも人間的な神ですが、規模は壮大です。彼の正義はしばしば、現代の基準では、言語道断であり、彼の偏見は根深く、柔軟性がありません。彼は偏見を持ち、不平たらたらで、執念深く、自分の特権を守ることにきゅうきゅうとしていいます。


原始的な部族の神

テンプルトンは、モーセとヨシュアの神と折り合いをつけようとした彼の試みは、彼にビリー・グラハムとの彼のミニストリー(聖なる使命)を放棄させて、無神論者のスタンスを引き受けることを強いたと言います。彼は次のように書いています。「旧約聖書を注意深く読むことによって、そこに描かれている神についての私の疑問が確認されただったのです。信じたいと思っていたのですが、私はそれを不可能だと感じました。神は、彼らの[ヘブライ人の]指導者が、信仰の中心的核について団結させることにより、不安定で非常に個人主義的な人々を、結束力のある集団へと形成することができるようにすることを目的として作られた原始部族の神がいるということを明らかにしました。

保守的で福音主義的な神学校では、聖書の教授は、旧約聖書の大量虐殺について尋ねられると、そのような一節は古代ヘブライ語の「誇張されたレトリック」の使用の一例に過ぎないと主張せざるを得なくなっています。南東部バプテスト神学校の旧約聖書教授ヒース・トーマスは、この聖句は、元のカナン人が「全滅」したのではなく、「財産などを奪われた」だけであることを意味していると主張しています。


勢いを失う原理主義者

この議論は、ムーディ・バイブル・インスティテュートの旧約聖書教授で、現在はイリノイ州ウィートン・カレッジのジョン・H・ウォルトン教授と息子のJ・ハーヴェイ・ウォルトン(スコットランドのセントアンドリュース大学の大学院生)による著書「イスラエル征服の失われた世界」で繰り返されています。ウォルトンズは、旧約聖書の戦争の物語は、古代の読者が理解していたであろう象徴と誇張法を採用していると主張しています。これらの物語は、文字通りに理解されるべきではありませんと彼らは主張して、次のように書いています。

その出来事を聖戦、ジハード、大量虐殺、または征服として翻訳する場合、出来事を適切に翻訳していません。これらの言葉やアイデアは、それらの言葉が含む意味、または目的の観点から見て、本来の聞き手に対する、征服を説明するために使用された論理とイメージが意味するものと、(現代の)私たちにとって、それらの言葉が意味するところが同じではないからです。 「大量虐殺」のような言葉を聞くとき、私たちはそれらを「決してしてはならないこと」と解釈します。しかし、文章では征服の出来事を、決しておこるべきではないこととは描写していないのです。

これに対し、著書評論家であるランダル・ラウザーズはこう述べています。

申し訳ありませんが、ここでの推論は驚くほど悪いです。そもそも、ウォルトンとウォルトンは、大量虐殺の概念の道徳的評価(すなわち、決してされるべきではないことである)を大量虐殺そのものの概念と混同しています。さらに、大量虐殺者が自身の行動に与える道徳的評価は、それらの行動が大量虐殺を構成するかどうかの評価には適格ではないことは明らかです。間違いなく、ナチスは、古代イスラエル人が国民の純潔さを確保する手段として彼らの行動を正当化するのと同じように、ドイツ国民の純潔さを確保する手段として彼らの行動を正当化するでしょう。どちらの場合も、我々は、問題の行動が大量虐殺であるかどうかを評価する上で、これらの擁護的な弁明対して、いかなる功績を与えるものではありません。


言語的および文字通りの誤解

さらに奇妙なことに、ウォルトンは、ヘブライ語の重要な用語「herem」の通常の翻訳を、住民を「完全に破壊する」命令としていることに異議を唱えています。彼らは、その用語は「個々の人々を殺すのではなく、コミュニティのアイデンティティを慣習から取り除くこと」を意味すると主張しています。ラウザーは次のように書いています。

イスラエル人はカナン人を殺しているだけではありません。むしろ、彼らはカナン人のアイデンティティを破壊しようとしています。確かに、人を殺すことはアイデンティティを破壊することを要求されるかもしれませんが、目標は、人ではなくアイデンティティを排除することであるという事実は残っています。そして、それは、その行為が大量虐殺ではないことを、ウォルトンとウォルトンが信じていることを意味します。残念ながら、ウォルトンとウォルトンには完全に逆の問題があります。出来事を大量虐殺と見なすのは、人を殺すことではありません。むしろ、民族的、文化的、または宗教的アイデンティティを破壊する試みなのです。

旧約聖書の大量虐殺を説明する別の試みにおいて、聖マリア山の神学校のカトリックの聖書釈義のトミー・レーンは、古代イスラエル人が神を「誤解し、誤った判断をした」と主張しています。つまり、聖書の人々は、イエスによって明らかにされた神、本当の神は、戦争と流血の世界から遠く離れていました。


旧約聖書とイスラム教

イスラム教の擁護者は、コーランと旧約聖書の間にジハード(聖戦)と暴力の問題について強い類似性が存在することを指摘しました。旧約聖書の神は、ヘブライ人にカナンの住民を「完全に破壊する」よう命じていますが(申命記7:2)、アッラーは信者に、どこにいてもも、不信心者を見つけたら、殺すように(コーラン9:5)、そして、彼らに厳しく対処するために不信者と偽善者と戦争をおこせ」(コーラン9:73)と訓戒しています。 同様に、民数記の中で、モーセの神は、彼の民に「この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。」と命じます(民数記31:17)」。また、アッラーは次のように言います。「あなたがたが戦いで不信者に出会ったとき、彼らの首を打ってください。あなたが彼らを徹底的に征服したら、彼らをしっかりと縛って拘束しなさい。」 (コーラン47:4)。 

しかし、2つの宗教には違いがあります。 モーセの神は、ヘブライ人に、特定の場所の特定の部族(南部のレバント地域のヒッタイト人、ギルガシテ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人)に対する行動を指示するよう命じます。それに対して、アッラーは部族や場所に関係なく不信心者を殺すように、彼の信者に指示しています。 ロバート・スペンサーはこう書いています。

コーランは、特定の不信心者のみと戦うことや、特定の期間だけ、または特定の地域などを定めることを文章のどこにも明記せずに、信者に不信心者と戦うように訓戒しています。 文章を額面通りに取って、不信心者との戦争を行う命令は、期間等に何の制限もなく、普遍的です。対照的に、旧約聖書は、特定の人々だけに対して戦争をするようにイスラエル人に指示した神の命令を記録しています。確かに、これは現代の感性とは相容れないものですが、同じことにはなりません。これが、ユダヤ人とキリスト教徒が、民間の非戦闘員を殺すことを正当化するために、これらの聖書を引用するテロ集団を世界中に形成していない理由の1つです。


殺人の必要性

エジプトとアッシリアの偉大な古代王国の背後および周辺には、雑多な遊牧民の集団が存在していました。これらの部族の人々は、自分自身を地理と歴史の中心と見なしていて、自分たちの重要性を、取るに足らない小さな扱いに格下げする、歴史家や作家の最高の無知に愕然としていたことでしょう。

これらの砂漠地帯の過酷さにより、カナン人の部族は水と耕地を探し続けました。戦争は絶え間なく、非常に暴力的でした。スキタイ人は凶暴で、あごひげを生やした巨人であり、馬車の上で暮らし、(騎馬民族であり)、生きるために戦い、戦うために生き、敵の血を飲み、頭皮をナプキンとして使いました。

ヒポクラテスは、次のように言っています。スキタイ人の女性は、処女である限り、乗馬し、矢を放ち、馬に乗ったまま槍を投げました。彼らは3人の敵を殺すまで処女を捨てなかった。彼女らの力が、すべて右肩と右腕に向けられるように、この女性たちの右乳房は切り落とされ、(その傷は)焼灼されていました。

ヒッタイト人も同様に暴力的でした。彼らは軍事カーストとして、チグリス川とユーフラテス川の源流を支配しました。彼らはアルメニアの近くの山から鉄を採掘し、鉄の武器を鍛造し、敵に対して激しい攻撃をしかけました。彼らが捕らえた男性は炭鉱で働くことを余儀なくされ、魅力的な女性はめかけとして売られました。老人と病人は処刑されました。


カナン人の宗教

カナン人は非常に多くの神々を崇拝しており、そのほとんどが、王と女王として支配するエルとアシェラによる、複雑な階層に配置された自然の力を表しています。それから、戦争と闘争の処女の女神であるアナトがいます。アタルは、死んだバアルの代わりになろうとして失敗した明けの明星の神です。バアルハダッドは嵐の神です。バアルハモンは、すべてのエネルギーを新たにし、西地中海のフェニキア人の植民地で崇拝された豊饒の神です。バアルハダッドの父であるダゴンは、作物と穀物の豊饒の神です。エシュムンは癒しの神、または癒しの女神バアラト・アスクレピオスの神です。イシャールはアナトに殺された火の女神です。コタール・ワ・ハシスは、熟練した職人の神です。モロクは火の神です。レシェフは疫病と癒しの神です。ヤムは海と川の神です。モットまたはマワットは死の神です。ロタンは、ヤムのねじれた七頭の蛇の同盟です。


バアル・サイクル

「バアルサイクル」という、カナン人の神である雷神であるバアルハダドに関する物語のウガリット・サイクルでは、(バアルハダドが)海の神ヤムに挑戦されますが、彼を打ち破ります。その際、ヤムは、職人の神であるコタール・ワ・カシスによって彼(ヤム)のために作られた2つの魔法の武器(「ドライバー」、「チェイサー」と呼ばれる武器)を使っていました。その後、女王の神であるアティラットと、戦争の女神であるアナトの助けを借りて、バアルは頭の神エルを説得して、宮殿を手に入れるようにします。エルは承認し、宮殿はコタール・ワ・カシスによって建てられました。宮殿が建設された後、バアルは宮殿の窓から雷鳴を上げ、死の神モットに挑戦します。モットは窓から入り、バアルを飲み込み、彼を「黄泉の国」に送ります。誰も雨を降らせないため、バアルの不在によって、ひどい干ばつがあります。他の神、特にエルとアナトは、バアルが「黄泉の国」に連れて行かれたことに取り乱しています。アナトは「黄泉の国」に行き、モットをナイフで攻撃し、彼を粉々に砕き、彼を遠くに散らします。モットが敗れると、バアルは戻って来て、雨で地球を再生することができます。


子供達の生贄

これは、「永続的な干ばつの期間の背後にある神々、農業的側面のカナン文明に対する生死の懸念に関するドラマ」を描いた物語です。カナン人の神に供物をすることによって、人々は彼らの怒りを和らげ、好意を獲得したいと望みました。そのような信仰は、特定の「詳細」がなければ無害です。エレミヤ書によれば、カナン人の神は子供たちの生贄を要求しました。「また彼らはバアルのために高き所を築き、火をもって自分の子どもたちを焼き、燔祭としてバアルにささげた。これはわたしの命じたことではなく、定めたことでもなく、また思いもしなかったことである。」(19:5)

聖書の他の箇所は、子供の犠牲がカナン人と周辺諸国の宗教の通常の特徴であることを明らかにしています。「あなたの神、主に対しては、そのようにしてはならない。彼らは主の憎まれるもろもろの忌むべき事を、その神々にむかって行い、むすこ、娘をさえ火に焼いて、神々にささげたからである。」(申命記12:31)

すべてのカナン人の部族を根絶することができなかったため、これらの慣行は後の世紀にイスラエルの文化と宗教に浸透しました。モレクやバアルなどのカナン人の神の崇拝の中心は、背教者の王によってユダとイスラエルに設立されました。列王紀下に記述されているように、子供の生贄はエルサレムのすぐ外側のヒンノムの谷で実践されましたが、ユダ王ヨシヤのような宗教改革者はこれらの場所を取り壊し、列王紀23:10に記録されているように、使えないようにしました。「王はまた、だれもそのむすこ娘を火に焼いて、モレクにささげ物とすることのないように、ベンヒンノムの谷にあるトペテを汚した。」 


カナンからカルタゴへ

カナン人の文明は、大部分がイスラエルの土地から追い出されましたが、どこか他のところへ移住して、北アフリカの地中海沿岸に植民地を作り、何世紀にもわたって繁栄しました。 これらの中で最も注目すべきは、現代のチュニジアのカルタゴの植民地でした。
その都市国家は非常に強力になり、かつてローマ共和国に対抗しました。カルタゴ人はカナン人の言語を話し、カナン人の宗教を実践しました。1920年代以降の考古学的発掘によって確認されたように、彼ら(カナン人)はまた、子どもの生贄に対する残酷な好みを彼ら(カルタゴ人)にもたらしたようでした。

紀元前4世紀に書かれたギリシャの歴史家クレイタルコスは、カルタゴの慣習について次のように述べています。
彼らの真ん中には、クロノスの銅像(ガルセージの神々の長、バアルハモンの地域名)があり、その手は青銅の火鉢の上に広がり、その炎は子供を包み込みます。炎が体に落ちると、手足が縮まり、収縮した体が火鉢に静かに滑り込むまで、口を開けて笑っているように見えます。したがって、彼らは笑いながら死ぬので、その笑いは「冷笑的な笑い」として知られています。

ディオドロス・シクルスという名前の別のギリシャの歴史家は、カルタゴの没落から100年経たないうちに、次のように同国人の説明を主張しました。「彼らの都市には、クロノスが手を伸ばして手のひらを伸ばして地面に向かって傾斜しているブロンズの像があり、その上に置かれた子供たちはそれぞれ転がり落ち、火で満たされた、口が大きく開いている穴に落ちました。」

同じ頃、有名なギリシャの歴史家プルタルコスが書いていました。

...彼ら自身が十分な知識と理解を持って自分の子供を提供し、子供がいない人は貧しい人々から小さな子供を買って、まるでたくさんの子羊や若い鳥のように喉を切った。その間、母親は、涙やうめき声なしで待機していました。しかし、彼女が一言うめき声をあげたり、涙を流したりした場合、彼女はお金を没収されなければならなかったが、それにもかかわらず彼女の子供は犠牲にされた。そして、像の前の全体の空間は、泣き叫ぶ声が人々の耳に届かないように、フルートとドラムの大きな音で満たされていたのです。


通常、下層階級の300人ものカルタゴの子供たちが1日で犠牲になります。危機の時には、神は自分の子供を提供することに失敗することにより、神が腹を立てていると考えた上流階級は、何百人もの息子と娘も同様に虐殺したのです。


生贄の場所

1921年、フランスの考古学者による古代カルタゴの発掘調査では、何百もの墓標が存在する墓地が明らかになってきました。その下には、人間の乳児や動物の火葬された遺骨を含む粘土骨壷がありました。(時には7つの骨壷が1つの墓標の下で、別の骨壷の上に見つかりました)。土壌はオリーブの木炭で豊かで、火災が長期間ここで燃え続けていたことを示しています。考古学者は、この場所を「トフェット」と呼びました。それは、エレミヤ7:31に書かれているエルサレムの近くの子供の生贄の場所を表すヘブライ語です。時間が経ち、さらに多くのトフェット墓地が発見されました。最大のトフェットには、動物と同様に、骨壷に約20,000人の乳児の遺骨が含まれていました。

オックスフォード大学の古典学部のジョセフィン・クイン博士は2014年に結論付けました。「カルタゴの子どもの生贄に関する物語は真実であることが、ますます明らかになっています。子どもの生贄に関する考古学的、文学的、文書的証拠は圧倒的です。」


儀式的な買春と小児性愛

古代の近東では、自然のリズムは、神聖な存在の周期的な存在または不在の結果として見られました。性的象徴を含む宗教儀式は、神の祝福を確保するために設計されました。男根像は祭りの一部でした。死者の本に描かれているように、神オシリスが死者からよみがえっていたとき、女神イシスは彼の前にひざまずき、彼女の口を彼の神聖なファルスの周りに見せます。他の神や女神は、性的属性に恵まれた人間の形を表しています。

エジプト、シュメール、および他の古代近東社会では、創造は、存在するすべての親としての超自然的な原生のカップルとの交配と誕生のプロセスとして想像されました。交尾は時には崇拝行為と見なされていたため、儀式性交と神聖な売春の習慣は、多産カルトの大きな特徴でした。

神聖または神殿の買春には、男性と女性の娼婦が関与し、一時的または恒久的に奉仕し、寺院に代わって異性愛者、同性愛者、獣姦の性行為を行いました。神殿に供物を与えた娼婦と依頼人は、神々の代理人として行動しました。

10歳か11歳の少年や少女がイシュタルの神殿に送られ、そこで見知らぬ人の性的欲求に応えるように訓練されたのは、特別な名誉であると考えられていました。ドイツのヴェルツブルクにあるオリエンタリストのジュリス・マクシミリアン大学のゲルノット・ウィルヘルムは、魅力的な法律文書を発見しました。それは約3,300年前のことであり、ある男性が自分の娘をハリム人に仕えるために、または「売春婦」として、イシュタル神殿に連れて行った方法を語っています。それは約3,300年前の話ですが、ハリム人に仕えるために、または「売春婦」として、自分の娘をイシュタル神殿に連れて行った男の話です。 」エジプトの巻物は、思春期前の女の話題に取り組んでいます。その文章によると、少女は最初の月経まで神殿で売春婦として働いていました。その後、「彼女たちは、その義務から追放されます。」


超越した神

聖書のアブラハムとモーセの記述に見られる人間と神の間の道徳的言説は、古代の近東の多神教にはほとんど欠けていました。これら(近東の多神教)は、男性の神々と女神のパンテオン(万神殿)の中は、十分なドラマ、嫉妬、争いで満たされていました。人間の関与なしに多くのメロドラマでいっぱいだったのです。しかし、王は、神と女神の間の結婚を再現する象徴的な儀式であるヒエロス・ガモスのような特定の宗教的儀式で役割を果たすようになりました。

創世記は、創造の根本的に異なる物語を提供します。神の言葉を通して表現された神の意図は、宇宙を存在させる力を持っています(創世記1:1)。ユダヤ教が最初にしたことは、神を非性的に化すことでした。いかなる性的行動を通じてではなく、彼の意志によって「最初に神は天と地を創造された。」のです。

これは他のすべての宗教との完全なる、本質的な断絶であり、それだけで人類の歴史を変えました。事実上、すべての文明の神々は性的関係に従事しています。近東では、バビロニアの神イシュタルは、バビロニアの英雄ギルガメシュを誘惑しました。エジプトの宗教では、オシリス神は彼の妹、女神イシスと性的関係を持っており、彼女は神ホルスを妊娠したのです。


性的に倒錯した異教徒の神々

カナンでは、主なる神エルは、アシェラとセックスをしました。ヒンズー教の信仰では、クリシュナは性的に活発で、多くの妻を持ち、ラダを追い求めていました。クリシュナの息子である神サンバは、死すべき女性と男性を誘惑しました。ギリシャの信仰では、ゼウスはヘラと結婚し、女性を追いかけ、美しい若い男性ガニメデを誘拐し、他の時には自慰行為をしました。ポセイドンはアンフィトライトと結婚し、デメーターを追いかけ、タンタラスをレイプしました。ローマでは、神々は性的に男性と女性の両方を追求しました。

神々の性行為を考えると、宗教自体があらゆる形態の性行為に満ちていたことは驚くべきことではありません。古代の近東などでは、処女は夫との関係を結ぶ前に司祭によって処女を奪われ、神聖または儀式の買春はほとんど普遍的でした。

精神科医で性的歴史家のノーマン・サスマンは、「男性と女性の娼婦は、一時的または恒久的に奉仕し、異性愛者、同性愛の口腔性交、獣姦、および他の形態の性行為を行い、寺院に代わって彼らの好意を分配男性と女性の娼婦は、一時的に恒久的に奉仕し、異性愛者、同性愛性、獣姦、その他の性行為を行い、神殿を代表して彼らの好みに合わせて施しを行っていた。」とその状況を描写しています。

古代エジプト、メソポタミア、カナンでは、毎年恒例の儀式の性交が王と女祭司の間で行われました。女性の娼婦は、古代メソポタミア、フェニキア、キプロス、コリント、カルタゴ、シチリア、エジプト、リビア、西アフリカ、古代と現代のインドの聖域や寺院で男性の崇拝者と性交しました。


ユダヤ教の挑戦

古代イスラエル自体では、神殿娼婦を再導入する試みが繰り返され、その結果、カルト的なセックスに対するユダヤ人の戦争が繰り返されました。聖書は、ユダヤ王アサが「神殿男娼を国から追い出し、先祖たちの造ったもろもろの偶像を除いた。」(列王紀上15:12)と記録しています。彼の後継者、ヨシャファットは「彼は父アサの世になお残っていた神殿男娼たちを国のうちから追い払った。彼の父アサの治世の後でさえそこに残った男性の神社の娼婦の残りの土地を取り除く。」。(列王紀22:46) その後、ヨシュア王は、彼の宗教改革において、「また主の宮にあった神殿男娼の家をこわした。そこは女たちがアシラ像のために掛け幕を織る所であった。」(列王紀下23:7)。

ユダヤ教は、もはや宗教的、社会的生活を支配しなくなるように、性行為に制限を設けました。彼らの神、ヤーヴェは性的属性を持たず、象徴的にさえ性的儀式に参加することは期待されることはありませんでした。セックスは、ヘブライ語で「分離」を意味していますが、セックスは、世界から、「分離」されて、家庭に、夫婦のベッドに置かれることにより、神聖化されるようにしました。ユダヤ教の性行為の制限は、社会の進歩を可能にする不可欠な要素の一つだったのです。

大量虐殺の道徳性

ソドムとゴモラの破壊、そして後にイスラエル人のカナン人部族の根絶は、道徳的行為だったのでしょうか。神の意図は、カナン人の文化とそれに加担する人を根絶することであったことは明らかです。これらの都市で、何人の罪のない子供たちが失われましたか。少なくとも数万人はいたはずです。もう一つの問題は、子供の生贄と、神殿娼婦としての思春期前の少年、少女と思春期の若者への国家公認の強姦がもはや実践されないので、その後の何世紀にもわたって、何人の子供が救われたかということです。数千万でしょうか。

ユダヤ・キリスト教の啓示から生じた現代の世界が、子供の生贄と儀式的な買春を拒絶することは、当然のことと考えることができますか。成し遂げるのに、何世紀もかかってしまいましたが、この拒絶は、カナンに入った時に、イスラエル人に命じられた大量虐殺の行為から始まったのです。

第10章 聖戦

実際、戦争は何が問題なのでしょうか。とにかく、最終的に生き残った人々が平和の中でおとなしくさせるように、死ぬ予定の人々が死ぬのでしょうか。 臆病者はこれに文句を言いますが、宗教的な人々を悩まないのです。いいえ、戦争における真の悪は、ダメージを与えたいという欲望、復讐の残酷さ、精神の不安と執念深さ、反逆の野蛮さ、支配への渇望などです。実際、神や合法的な支配者の命令によって、暴力的な抵抗に直面する中で、これらの事柄を罰するために、まさに戦争を行うようにとの命令を、本当に善なる人々が受けるということはよくあることです。人間的な出来事の過程で、適切な秩序は、時にはこの種のことを命じるか、そのような命令に従うように善を強制します。そうでなければ、兵士たちがバプテスマを受けるためにヨハネのところに来て、彼に尋ねました。「私たちはどうすべきでしょうか。」ヨハネは彼らに言ったことでしょう。「あなたの武器を捨てて、除隊して、誰かを打ったり、傷つけたり、障害者にしないでください。しかし、彼は知っていました。兵役でこれらのことを行う際に、彼らは、殺人者や私的な間違いの復讐者としてではなく、法律の執行者と公共の安全の擁護者として行動したことを。            
聖オーガスティン、デ・チビタス・デイ


イスラム教徒のようなユダヤ人とキリスト教徒は、何世紀もの間、「聖戦」という考え方を支持しました。旧約聖書で、神は武力紛争の制裁を、夢(士師記7:13-14)や、占いの手段としてのウリムとトンミムの使用(サムエル記上一28:6)や、預言者の宣言(列王記上一22:5-8)を含むクレマンシーを通して伝えました。軍の指導者たちは、神の「住まい」である契約の箱の前に立って、戦いの計画が神の望みに従っているかどうかを「尋ね」ます。何も答えがないときは、神が否定的であることを意味しています。(サムエル記上14:36-37、28:6)一方で、肯定的な答えには詳細な指示を含めることができました(サムエル記下5:23-24)。

一度、「聖戦」が宣言されると、神は、彼が選んだ軍事作戦の指導者にカリスマ性を下した。その指導者の周りに集まった男性は、自分自身を神聖化すること、つまり、敵が敗北するまで性行為を控えることを余儀なくされました。戦争の後、彼らは神の「神聖なる恐怖」への感謝として、略奪品の一部を神に割り当てる義務がありました。


戦いにおける神の存在

神が敵の敗北(の場)に参加できるように、契約の箱は祭司によって戦いに持ち込まれました。紛争が始まる前に、祭司は次のようにヘブライ軍に演説する義務がありました。「イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである」(申命記20:2-4)。(※原書では、「あなたがたに勝利を与えられるからである。」)

しかし、神はイスラエル人に勝利を与えることを強要されませんでした。イスラエル人がエベネゼルでペリシテ人によって、敗れて逃げ去った後、それは、神が認可されなかった戦いであったが、彼らはシロから契約の箱を持ってきて、大喜びでその到着を歓迎しました。二度目の戦いで、イスラエル人は再び敗北し、ペリシテ人は契約の箱を奪い去ったのです(1サムエル4:3-5、10-11)。その奪い去られた知らせは、戦場から逃げてきたベニヤミン人によって、すぐにシロに届けられました。最も年を取った祭司であるエリは、それを聞いて死にました。そして、彼の義理の娘は、契約の箱が奪われたという知らせを受け取った時に息子を産み、彼をイカボッドと名付けました。それは、「神の栄光は去った(サムエル記上4:12-22)」という意味です。


コンスタンティンと十字架

「聖戦」の概念は、キリスト教の時代を通しても、しつこく生き残ったのです。ラクタンティウスによれば、西暦312年、コンスタンティヌスは、ミルヴィアン橋の戦いで帝国のライバルを完敗させたときに「神の油そそがれた者」になりました。彼の勝利は、キリストの介入によるものでした。運命の戦いの前に、コンスタンティンは、空にこの格言(イン・ホック・シグノ・ビンシズ:「このしるしで、あなたは征服します。」)を掲げた十字架の幻を見た、と伝えられています。彼は兵士の盾に十字架を刻み、帝国を再統一した輝かしい勝利に向かって、彼の敵に行進したのです。教会の代表者は誰も、イエス・キリストの十字架が軍の流血の旗になったということに対して、警告や怒りを表明しませんでした。


まさに殺戮

聖アウグスティヌスはコリー戦争の概念を支持して、以下のように記しています。

神の命令に基づいて行われる戦争の正しさを、誰も疑問に思ってはならない。なぜなら、人間の貪欲から引き受ける戦争でさえ、清廉な神またはいかなる神の神聖なものに対しても、真の害を引き起こすことはないからである。神は戦争を命じて、追い払うか、押しつぶすか、死すべき者のプライドを征服します。戦争に苦しんでいると、彼の聖人の忍耐に影響を及ぼし、彼らを謙虚にし、彼らが、彼の父親の矯正を受け入れるのを助けます。それが上から与えられない限り、誰も彼らに対して力を持ちません。すべての力は、神の命令または許可から得られます。このように、正当な人は、たとえその人自身が非宗教的である、支配者の指揮下で仕えたとしても、市民の平和の秩序のために正当に戦うかもしれません。

彼がするように命じられているのは、明らかに神の教訓に反していないか、神の教訓に反していることが明らかでないか、のどちらかです。命令を与える悪は王を有罪にするかもしれないが、服従の秩序は兵士を無罪に保つだろう。したがって、神に仕える人は、誰でも必ず実現するので、決して不適切なものを指揮することができない神から戦うように命じられたとき、どんなに無垢な人であっても、人は戦争に従事するかもしれません。

この教えは、聖トーマス・アクィナスによって書かれた「神学大全」(1269-1272)の中で、支持されました。その著書には、戦争の次の3つの要因を挙げていました。

第一に、その命令によって戦争が行われる主権者の権威。戦争を宣言するのは個人の仕事ではありません。なぜなら、彼は上司の法廷から戦いの救済を求めることができるからです…

第二に、正当な原因が必要です。つまり、攻撃された人は、何らかの過失のためにそれに値するので、攻撃されるべきです...

第三に、交戦中の人々は、善なることを進めたり、悪を回避をするように、正義に基づく心構えが必要です。


デウス・ロ・ボルト - 神はそれを望む

637年、ビザンチン皇帝ヘラクレイトスは、イスラム教徒が最初に聖地を征服したとき、彼のテーマに聖戦の概念を説きました。ヘラクレイトスは、ギリシャの教会の富を自由に使い果たしたセルギウス総主教の支援を受けました。7年間の組織的な活動の後、ヘラクレイトスはイスラム教徒の大群を征服し、コンスタンティノープルに勝利を収めました。

「聖戦」の考えは、教皇アーバン2世がセルジュークトルコ人の手に落ちた聖地を奪還する必要性を宣言した1095年に完全な形で表現されました。トルコ人は紀元1070年にファティーマ朝からエルサレムを奪い、敬虔な巡礼者たちによって、キリスト教徒の迫害と神聖なる神殿の冒涜に関する、恐ろしい報告がローマにもたらされ始めました。アーバン2世は、彼がクレルモン評議会でキリスト教の貴族に述べた説教で、このような残虐行為について以下のように話しました。

神の子よ、あなたは自分自身の間で平和を保ち、教会の権利を守ることをこれまで以上にしっかりと約束しましたが、あなたがするべき重要な仕事が残っています。神聖なる矯正によって、新たに活気付けられたので、あなたは、自分の正義の強さを、神と同じように、あなたに関係する他の事柄にも適用しなければなりません。東に住んでいるあなたの兄弟たちは、あなたの助けを緊急に必要としているので、あなたは彼らに何度も約束されている援助を、彼らに与えるよう急ぐ必要があります。あなたがたのほとんどが聞いたように、トルコ人とアラブ人は彼らを攻撃し、地中海の海岸と「聖ジョージ」の腕と呼ばれるヘレスポントまでの、ルーマニア(ギリシャ帝国)の領土を征服しました。彼らはクリスチャンのより多くの土地を占領して、7回の戦いで、それらを打ち負かしました。彼らは多くを殺し、捕らえ、教会を破壊し、帝国を荒廃させました。このようにしばらくの間、彼らが罰を免れることを、あなたが認めるならば、神の信者は彼らによって、もっと広域が攻撃されます。この理由で、私、またはむしろ主は、キリストの使者としてあなたに懇願します、これをあらゆる場所に公表し、あらゆる階級、歩兵、騎士、貧しい人々や裕福な人々を説得し、それらのキリスト教徒に、迅速に援助を運び、友人の土地からその下劣な種族を破壊するように。私は、これを出席者に言います、それは、不在者にも向けられています。さらに、キリストはそれを命じるのです。

アーバンの嘆願は非常に強力であったため、クレルモントに出席した数千人の騎士が「デウス・ロ・ボルト」(神がそれを望む)と、大声を上げて反応したのです。騎士と貴族は彼らのチュニック(外衣)に赤い十字架を縫って、すぐに大規模な遠征の計画を立てました。


聖化された兵士

遠征は250年続くことになり、大部分、教皇の目的を達成しました。封建領主は共通の原因で互いに団結しました。エルサレムは1099年6月7日に十字軍に落ち、キリスト教王国は中東に建国されました。さらに、中世の貴族や騎士たちは、キリストの兵士に変身することにより、武器の持ち方を宗教的な経験と見なし始めました。騎士団への入会を取り巻く儀式は、聖なる儀式の様相を引き継ぎ、候補者は神の導きを祈ることと、(国王が剣を肩でたたいて)騎士に叙する前の一晩中を好むことを期待されていました。祭司は男性と武器に同様に祝福を与え、説教は騎士の美徳の性質について伝えられ、武道の訓練は、正確で非常に理想化された規範に正則化された騎士の行為の高い基準に重点を置くようになりました。十字軍は騎士道の時代を生み出したのです。


戦士の教皇

流血は公正で、神聖であり得るので、キリストの牧師たちは、何度も彼らの戦争馬に乗って戦いに向かいました。最初の戦士の教皇の一人は偉大な改革者レオ9世(1048-1054)でした。 1052年、ドイツ皇帝ヘンリー2世が、ベネヴェント公国を教皇庁に献納しました。しかし、パンドゥルフという名のベネベントの公爵は、この贈り物を認めることを拒否しました。その結果、教皇レオは、パンドゥルフと彼のノルマン軍を公国から追い出すために、皇帝にドイツ軍を提供するように頼みました。教皇はヘンリーから、わずか700人の部隊を受け取りました。この不足により、レオは何百人もの訓練を受けていないイタリア人を寄せ集めて、軍隊に参加させました。その軍事行動は悲惨な失敗でした。教皇レオの部隊はすぐにノルマン人によって完敗させられ、ノルマン人は教皇をひざまずかせて、彼の部下を殺すことを懇願させるためだけに彼を捕らえたのです。

最も有名な戦士教皇は、ユリウス2世、ラファエロとミケランジェロの後援者でした。彼が教皇の王位に上がったとき、ユリアスは、教皇領がその土地の独裁者の手に残ったままであることに気がつきました。フランス、ドイツ、スペインから軍隊を召喚し、教皇は恐ろしい軍隊の先頭に乗りました。ペルージャを取り戻した後、教皇の軍隊はボローニャへの攻撃を開始し、攻撃教皇ユリアスは、彼の軍隊に抵抗した人に対して、(彼の著書である)「教皇の破門の雄牛」と、彼の対戦相手のいずれかを殺した人に「全免償」(すでに赦された罪に伴う有限の罰の軽減)の申し出とで、防備を固めました。これは戦争の新しいブランドであり、彼の敵はすぐに白旗を掲げました。1510年に教皇に降伏したヴェネツィアでも同じ戦術が有効でした。

教皇ユリウス2世は教皇庁の残りの3年間をフランスとの戦いに費やしました。フランスは教皇の旗の下で押収したイタリアの領土を放棄することを拒否しました。


大戦争

聖戦の概念は20世紀まで続きました。「偉大なる聖戦」で、歴史家フィリップ・ジェンキンスは、次のように書いています。「第一次世界大戦は、完全に宗教的な出来事でした。多くの人が聖なる戦争、精神的な対立と見なし、圧倒的にキリスト教諸国が互いに戦ったという意味で。宗教は、戦争を理解し、人々がなぜ戦争に行ったのか、戦争を通して何を達成したいと思ったのか、そしてなぜ戦争を続けたのかを理解するために不可欠です。中世や宗教改革の時代ではなく、航空機や機関銃の時代に、世界のクリスチャンの大多数は、実際に1,000万人以上の命を奪った聖戦に従事していました。」

第一次世界大戦の開始時に、ドイツの説教者たちは、「主イエスの変容」(マタイ17:1~9)と新しい五旬節の観点から、国民的な風潮を見るべきかどうかを議論しました。テューリンゲン州のアダム・リッツハウプト大臣は、「平和な時代が、いつ、私たちに、戦争で感じている天の高揚を与えたのですか?」すべての主要な戦闘員は、聖戦の言語を展開させたのです。特に国家設立の長い伝統を持つ君主制の国々で。ロシア人、ドイツ人、イギリス人、オーストリア・ハンガリー人、オスマン・トルコ人、それだけではなく、国家的に、非宗教的な共和国であるフランスとイタリアもです。


「私たちが戦っているのは神の戦争です」

アメリカが1917年に紛争に入ったとき、ワシントンのエピファニー教会のエピスコパル学長ランドルフ・マッキムは、「この戦争に私たちを召喚したのは神です。私たちが戦っているのは神の戦争です。この紛争は確かに十字軍です。歴史上最も偉大な、最も神聖な。それは最も深遠で真の意味で聖なる戦争です。はい、この不浄で冒涜的な力(ドイツ)との致命的な争いに取り組むように私たちを呼ぶのは、義の王キリストです。

戦争中、天使たちは苦しめられたイギリス軍を救うために介入したと思われます。聖母マリアはアウグストヴォでロシア人に現れ、ドイツ人は大天使ミカエルに従うと主張しました。これらの物語は戦争の最初の日に広まり、軍隊が最前線の生活の無常な現実に完全に集中することを予想した後もずっと、闘争全体を通していつまでも続いていたのです。

1918年にドイツが最後の大攻勢を開始したとき、それはミカエル作戦と呼ばれていました。連合国にとって、宗教的で終末論的な希望は、1917年と1918年に頂点に達し、中東での偉大な象徴的な勝利を収めました。最も記憶を呼び起こしたものは、トルコ人からエルサレムを奪取し、ハルマゲドンの場所であるメギドでのイギリスの決定的な勝利でした。


ガウディウム・エ・スペス(喜びと希望)

教皇の教えに従い、1965年12月7日に教皇パウロ6世によって公布されたバチカン2世のガウディウム・エ・スペスは、「正当な戦争」の教義を説得力に乏しい内容で肯定しました。教皇憲法では、武力紛争は次の条件下で可能であると主張しました。(1)国家がその権利が侵害されていると道徳的に確信しており、特定の差し迫った危険に直面しているとき。 (2)戦争の原因があらゆる戦争の一部である悪に比例する場合。(3)あらゆる平和的方法が効果的でなかったとき。(4)紛争により人間の状態を改善するという十分に根拠のある希望がある場合。文書は次のように結論付けました。

したがって、すべての戦争が国際的な同意によって、完全に非合法化することができる期間にすべての筋肉を緊張させて、機能させることは、私たちの明確な義務です。この目標は、間違いなく、すべての人がそのように認められ、すべての人に代わって保護する権限、安全、正義の尊重、権利の尊重を与えられた普遍的な公的機関の設立を必要とします。しかし、この権威を望む前に、最も高い既存の国際センターは、共通の安全保障を得るためのより良い手段の追求に、精力的に専念しなければなりません。平和は、国家間の相互信頼から生まれ、利用可能な武器の脅威を通じて、国々に強いてはならないので、誰もが軍拡競争にもう終止符を打ち、軍縮の真の始まりを作るために働かなければならないのです。それは、一方だけが動くのではなく、合意に従って、本物の実行可能なセーフガードによってバックアップされながら、(当事者が)等しいペースで進められなければなりません。
近年、カトリック組織は、正当な戦争教義の放棄と、あらゆる状況下での平和主義と戦争の完全な拒絶を明確に肯定する新しい教皇文書の発行を求める声明を発表しました。 平和に関するバチカン会議は次の声明を発表しました。

明らかに、イエスの証人である神の言葉は、暴力、不正義または戦争を正当化するために決して使用されるべきではありません。 私たちは、神の民が戦争、迫害、抑圧、搾取、差別に参加し、福音のこの中心的なメッセージを何度も裏切ったことを告白します。

「正当な戦争」はないと信じています。多くの場合、「正当な戦争理論」は戦争を防止または制限するのではなく、支持するために使用されています。「正当な戦争」が可能であることを示唆することは、紛争の非暴力的変革のためのツールと能力を開発するという、道徳的な最重要課題を阻害するものなのです。

私たちは、カトリック教会が福音の非暴力に基づく公正な平和へのアプローチを発展させ検討することを提案します。 私たちは、「正当な戦争理論」をもはや使用したり教えたりしないことを愛する教会に呼びかけます。


フランシスはカトリックの伝統を非難する

委員会の提案に沿って、教皇フランシスは2019年2月5日に、公正かつ聖なる戦争の概念に対する以下の非難を発表しました。

...私たちは、宗教は戦争、憎悪的な態度、敵意、過激主義を決して扇動してはならず、暴力や流血を扇動してはならないことを断固として宣言します。これらの悲劇的な現実は、宗教の教えからの逸脱の結果です。彼らは、宗教の政治的操作と、歴史の中で、男性と女性の心の中で宗教的な感情の力を利用して、彼らを宗教の真実とは何の関係も無くさせるために、行動させる宗教グループによる解釈から生まれているのです。これは、政治的、経済的、世俗的、近視眼的な目標を達成するために行われます。したがって、私たちは関係者全員に、憎悪、暴力、過激主義、盲目的な狂信を扇動する宗教の使用をやめ、殺人、亡命、テロリズム、抑圧の行為を正当化するために神の名前を使用することを控えるよう求めます。私たちは、自分たちの生活や環境の中で、人間を殺したり、互いに戦ったり、拷問や屈辱を与えたりする男性と女性を、神は創造しなかったという私たちの共通の信念に基づいてこれを求めます。神、全能者は誰からも守られる必要はなく、彼の名前が人々を恐怖に陥れることを望んではいないのです。

そして、「キリストの牧師」が旧約聖書の神の戒め、教皇の前任者たちの行ったこと、そして彼らが神聖であり、公正であると信じていた数百万人の兵士の命の犠牲、まさに、非キリスト教的であり、最高の存在の意志に反するとみなされるべきこと、そのようなことは通り過ぎました。


プロテスタントの知的内容の乏しい考え

主要なプロテスタントの宗派はまた、公正な戦争の教義を非難しました。 2015年、ユナイテッド・チャーチ・オブ・クライスト教会の第15回総会は、自衛と「公正な平和」教義の公式表明を含めて、戦争を明確に非難しました。「それは不可欠です」と、宗教会議の指導者は、「公正な戦争という思考を超えて、正当な平和の神学に転換することは不可欠だ」と言いました。彼らは続けて、非暴力的な紛争は「多様性の健全な反映」です。戦争を排除しなければならないことを要求して、指導者は、以下のことを進めるために国連を強化する彼らの支持を確認しました。

・国家間の紛争におけるより多くの権限。
・国境紛争を取り締まり、国連によって要請されたときに介入可能な、少なくとも5000人の恒久的な部隊を含む平和維持部隊。
・調停、紛争介入、紛争解決の訓練を受けた平和構築チーム。
・国際平和アカデミーの支援。
・共通のコミュニティに軍事情報を提供するグローバルな衛星監視システム。
・軍事施設と国際武器取引を制限する国際協定。・
・大量破壊兵器の開発、試験、使用、所持に関する国際的な禁止。そして
・宇宙におけるすべての武器および宇宙基地の防衛システムおよび戦略的防衛イニシアチブのすべての国家開発に対する国際的な禁止。

宗派は、ヘブライ人の神が「いくさびと」(出エジプト記15:3)であり、彼の民を戦いに導き、彼らを敵から救い出したという事実に、全く言及していませんでした。「わが岩なる主はほむべきかな。主は、いくさすることをわが手に教え、戦うことをわが指に教えられます。」と言ったダビデについて何の言及もありません。 「私の岩を主に賞賛してください。私の岩は、私の手を訓練のために、私の指を戦いのために訓練します。」モーセ、ヨシュア、サウルの軍事的勝利を認めていません。トーラー(モーセ五書)や、神が自分の指で石板に刻んだ律法への言及はありません。 UCCのすべての意図することには、この神は存在していなかったのです。

第11章 自然法

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。

                                       創世記1章27節

トーラーは同性愛の行為についての見解を明確に述べています。 同性愛の行為、つまり2人の男性が性的関係を持つことは禁止されています。 この行為は「トアイバの憎悪」と二度呼ばれ、ユダヤ人の裁判所制度での死刑に値するほど重大な罪です。 同性愛が今日の西部社会で一般的であるという事実がそれほど極端でない場合、この律法の罪についてはほとんど論争がありません。それは禁じられており、律法のどこにも容認されることはありません。

ラビ ナハム・アムセル博士「正統派ユダヤ教における同性愛」

アダムとエバの創世記の物語は、女性が男性の仲間と性的パートナーとして仕えるように作られたと強調しています。2つの解剖学的構造は、生殖のために結合するように神によって設計されました。

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

古代ユダヤ教内において、生殖の状況に適合しないあらゆる性的関係は、禁止されていました。そして、そのような関係は婚姻した夫婦に限定されています。1世紀のユダヤ人歴史家ジョセフスは次のように書いています。「法律は、夫と妻の自然な結合を除いて、性的つながりを認めません。」

ユダヤ社会の基礎を表す家族単位の完全性を保護するためには、女性の子孫が夫の子孫であることを保証することが不可欠でした。したがって、結婚の尊厳に違反する者に対する厳しい刑罰(男性が他の男性の妻と姦淫を犯した場合、-隣人の妻と関係を持った場合-姦夫と姦婦の両方が死刑に処せられます(レビ記20:10)。家同様に、族の誠実さのために、子供は両親を呪うことを禁じられています。(「だれでも父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。」レビ20:9」)


プラトンと聖パウロ

性を律するモーセの法は、自然法の哲学的概念、つまり性行為は自然によって示された目的によって導かれなければならないという信念が反映されていました。プラトンは、法律で書いたときにこの概念を支持しました。 「この(性的)喜びは、生殖の営みのために結ばれたときに、自然に男性と女性に与えられたとみなされることを忘れてはなりません。男性と男性、または女性と女性の犯罪は、自然に対する怒りであり、欲望や快楽に対する資本の降伏である…」この同じ教えは、クリュシッポスからマルクス・トゥッリウス・キケロへと、ストア派の哲学者によって進められました。

新約聖書では、聖パウロはローマ人への手紙の中で同性愛を不自然だと非難しました。

ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。(ローマ人への手紙:1章24~27節)

さらに明確な一節で、聖パウロは言っています。「それとも、不正行為者が神の王国を受け継ぐことがないことを知らないのですか?だまされてはいけません。性的に不道徳な者、偶像崇拝者も姦淫者も、同性愛者も、泥棒も貪欲な者も、酔っ払いも、誹謗中傷する者も、詐欺師も、神の王国を受け継ぐことはありません」(1コリント9-10)。初期のキリスト教徒にとって、天の王国から遠ざかることは、死よりも極めて悪い罰だったのです。


「これ以上に狂気で、傷つけるものは何もない」

キリスト教が紀元380年にローマ帝国の公式宗教になった後、同性愛者は秘跡(サクラメント)から除外されただけでなく、死刑に処せられました。聖ヨハネス・クリュソストモスは、ローマ人への手紙での彼の説教(390年頃)では、彼は、同性愛者は殺人者よりも悪質であると主張しました。

すべての情熱は恥ずべきものです。なぜなら、魂は、病気による身体に及ぼすものよりも、さらに偏見と罪によって悪化しているからです。しかし、すべての情熱の中で最悪なのは、男性の間(同性間)の肉欲です。彼は続けて次のように付け加えました。「真の喜びは自然による唯一のものであるため、自然に対する罪はより困難であり、報われにくい。しかし、神が人を捨てると、すべてが逆さまになります!したがって、彼ら(同性愛者)の情熱はサタン的なものであるだけでなく、彼らの人生が悪魔的なものです。だから、私はあなた方に言います。これら(同性愛者)は殺人者よりもさらに悪く、そのような恥ずべき状態で生きるよりも死ぬ方が良い。殺人者は魂を体から分離するだけですが、これら(同性愛者)は体の中の魂を破壊します。これほど、狂気的で悪影響を与えるものは何もありません。

同様に、聖アウグスティヌスの告白(400年頃)には、こう書かれています。

したがって、自然に反する犯罪はどこにでもあり、いつでも嫌悪感を持って処罰されるべきです。すべての国民が犯罪を起こしたソドム人の人たちのように、彼ら(同性愛者)は、人をお互いに虐待させない神の律法によって、同じ罪の有罪とされるべきなのです。神と私たちの間にあるはずのその交わりさえも、冒涜されるのです。彼が創始者であるのと同じ本質が、欲望の倒錯によって汚されるときに。 


「いつこの倒錯が起こるのか?」

同性愛者のための問題は、宗教改革によって改善されませんでした。マーティン・ルーサーは、ソドミーの非難の中で、自然法の概念を支持し、次のことを書いています。

自然に対して、全く反するものを望み、神によって自然に植え込まれた、女性に対する男性の自然な情熱と切望からは、外れているという理由で、ソドムの人々の忌まわしい行為は、異常なものです。この倒錯はどこから来るのでしょうか?それは、疑う余地なくサタンからのものです。彼は、かつて人々が神への恐怖から背を向けた後、自然を非常に強力に抑圧し、本姓の欲望を消し去り、自然に反する欲望をかき立てたのです。

同性愛に関するルターの宣言は、カルバン、ツウィングリ、ノウ、ウィリアムファレル、マーティンブーチャーなど、他の改革者によって支持されました。


英国の法

英国国教会の創設者であるヘンリー8世の下で、同性愛に対する最初の英国法が1533年に議会の書物に掲載されました。この法律に従って、「人類や獣と男色(や
獣姦)の恐ろしい、忌まわしい悪徳」を犯した者は死刑に処せられました。法律の文言は、それが旧約聖書の教えに基づいていたことを示しています。神学的表現「buggery(男色の意)」は「ブルガリアの異端」から派生したものです。この法律は1563年にエリザベス1世によって復活し、1861年に死刑が終身刑に置き換わるまで英国全土で変更されることはありませんでした。


アメリカの厳しい法律

アメリカでは、17世紀から18世紀にかけて同性愛者の慣行者が逮捕されて、絞首台に送られました。 1641年に「法と自由の体」を採用したベイコロニーは、法律をモーセの法に完全に準拠させるために、死刑にすべき犯罪としてソドミー(不自然な性行動)を定めました。 1641年法のセクション8には、レビ記20:13の単語ごとの翻訳が表現されています。「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。」同じ言い回しを使ったこの法律は、1822年までコネチカット州の書籍に残っていました。

各機関の政治を規制するための健全な法律の制定の必要性についての真剣な検討 を主張した1672年のコネチカットの法則の序文の冒頭の行よりも、古代ヘブライ人とピューリタンの同一性は明白な部分はどこにありませんでした。「私たちをエホバ、偉大なる律法の授与者への従順へと帰結させてくれました。主は、イスラエルの人々に、道徳だけでなく、ふさわしい司法の神聖なるプラットフォームを喜んで設置してくれたのです。」

1697年、マサチューセッツ州議会は「盗聴の罰のための法律」を可決しました。

自然の光に反する人類または獣との忌まわしく憎むべき男色の罪を避けるために、議会で召集された総督、評議会、および下院議員によって制定されて、宣言されたものであり、同じ権限によって制定されたものです。 重罪の場合のように犯罪者に対して、同じ犯罪が重罪と裁定され、その中のそのような秩序と形式が使用されます。そして、すべての男性は、女性と寝るように、人類に対して嘘をついているということで、公正に有罪判決を受けます。そして、すべての男性または女性は、獣や獣の生き物との肉体的な交尾を持ち、犯罪者と 前述のいずれの場合でも、犯罪者は死の痛みに苦しみ、獣は殺されて焼かれます。

革命後、この法律は「ソドミーに対する行為」(1785)として再制定され、英国の法律用語は削除されましたが、レビ記からの文章は保持されました。 この法は1822年まで有効でした。コリン・タリーは、男性と男性との不自然な関係が社会構造を脅かしたり、家父長制の富の所有権に影響を与えないため、17世紀の植民地でのソドミー法はめったに施行されないと主張します。


ジェファーソンは虚勢を規定

啓蒙主義の精神で満たされたトーマス・ジェファーソンは、バージニア州の刑法の改革に取り組みました。 「法案に比例した犯罪と罰」の概要の中で、ジェファーソンは、毒殺犯は毒殺され、不具者(不具にさせた者?)は、障害を負わされ、男色は去勢されるべきだと述べました。 1779年6月18日に委員会と共に発表して、広く伝達された報告書の中で彼の見解は以下のように述べられていました。「強姦、一夫多妻制、またはソドミーで男または女を犯した者は誰であろうと有罪とされて、男であれば、去勢をされて、女性であれば、少なくとも鼻の軟骨を直径1/2インチの穴で切られなければならない。レイプ、一夫多妻、またはソドミーの罪を問わず、男性または女性の場合、男性が去勢の場合、女性の場合は鼻の軟骨を少なくとも直径0.5インチの穴を開けることにより処罰されます。この提案は、1792年12月10日に規制されたバージニア州議会にとって寛大すぎるため、「聖職者の利益なしに」ソドミーの罪を犯した者は、死刑にすべきであることが証明しました。しかし、これらの法律はあまり施行されませんでした。ジョージ・ワシントンのスタッフには同性愛者が含まれていました。同性愛者も新共和国の指導者に数えられました。


軽減の動き

19世紀までに、同性愛を統治する法律が変わり、死刑はもはや義務付けられなくなりました。 1800年、ヴァージンは1792年のソドミー法を廃止し、「男色は今後1年以上10年以下の期間刑務所に監禁されるべきである」と定めました。しかし、同性愛者の活動に従事した奴隷は、死刑執行の責任を負い続けたのです。1805年、マサチューセッツ州の「ソドミーと獣姦防止法」は、これらの犯罪の刑罰を「10年を超えない」禁固刑に調整しました。メリーランド州とニューハンプシャー州はそれぞれ1809年と1812年に1〜10年の刑を科したが、ジョージア州の1816年の刑法は終身刑を求めていました。1826年のデラウェア州法典は、ソドミーに対する罰を3年間の「孤独な監禁」に設定し、「むき出しのむくみに60のまつげを置くことで」公衆を鞭打ちました。同性愛者の死刑はノースカロライナ州で1869年まで効力を持ち続け、刑罰は5年から60年の禁固刑に変更されました。 1873年、サウスカロライナは死刑を撤廃した最後の州となり、罰を州の刑務所で5年間の収監に変更しました。


停戦と反撃

ソドミーの非合法化は、18世紀後半にイタリアとフランスで始まり、1810年のナポレオン刑法の施行により大陸ヨーロッパの大部分で始まり、1世紀以上経って1957年のイギリスで始まりました。1962年、イリノイ州が、犯罪のリストから合意されたソドミーを削除する最初の州になりました。その後の数十年で、ほとんどの州がソドミー法を廃止しました。法律を廃止しなかった人々は、そのような行為の罰則を減らす法律を制定しました。テキサス州の同性ソドミー法、したがって国全体の法律を覆した、ローレンス対テキサス州の2003年の最高裁判決の時までに、ほとんどの州の法律は施行されなくなったか、非常に選択的に施行されました。

21世紀のほとんどのアメリカ人と多くのクリスチャンは、これを寛容と個人の選択に対する勝利だと考えています。政府は、同意する成人の間の私的な行動を規制すべきではないというコンセンサスが明らかになりました。個人が自分の信仰の見方や価値観に基づいて、性的アイデンティティや道徳について自由に決定できるようにし、政府を「寝室」にかかわらせないようにしました。


自由意志 対 .決定論

それが単純だったら良いのですが。同性愛者のライフスタイルに熱中している人が、変更できるかどうかを確認したい場合はどうなりますか?全国の数十の州で、伝統的な異性愛のアイデンティティを確認しようとする同性の魅力を持つ人々を助けるためにあらゆる種類のカウンセリングを非合法化するための協調した取り組みが進行中です。政府の寛容は現在、一方向にのみ、つまりゲイのアイデンティティは生まれつきであると信じる人々に賛成して、聖書的または単により伝統的な価値観を持つ人々に反対であるようです。

2018年、24の州で法案が発表され、同性愛の性的魅力を変更できるかどうかを確認したい未成年者や成人のための法に反対する治療法が作られました。同性愛指向が誕生から生まれた、すなわち「遺伝的」であり、したがって変更できないと主張している非常に疑わしい研究に基づいており、前に第8章で説明したとおり、国家は寝室、または少なくともカウンセリングルームに戻っています。今回は、たとえ自分達の異性愛の選択の余地を探求したい、あるいは既にうまく異性愛の位置づけに戻ったと主張するゲイや、両性愛を仲間に反対しても、自分達の考えを全住民の残りに押し付けるための法律を使いたいというゲイの立場からのものです。


消費者詐欺?

2018年、カリフォルニア州選出のエヴァン・ロウ議員は、広告、提供、または個人(18歳未満の成人に対しては既に禁止されているため)との性的指向の変更努力を禁止する法案を提出し、そのような行為を消費者詐欺の一形態として扱いました。法案は「個人の性的志向を変えようとするあらゆる慣行」と「行動やジェンダー(聖別)表現を変える努力、または同性に対する性的またはロマンチックな魅力や感情を排除または軽減する努力」を禁止したのです。

このような問題についての、言論の自由と宗教的自由の禁止は(一部の見解は宗教的に根拠があるため)、大人であっても、今のところ拒否されました。しかし、自由市場は、市民がどんな種類の療法を求めるかによってを決定されるべきであるという考えに反対する声高な陳情があることは明らかです。変更したい同性の魅力がある未成年者を支援できるカウンセリングが禁止されている州では、若者とその両親が自分自身で適切なガイダンスを探すことについて信頼されないことは明らかです。あかつて国家の力は同性愛を罰したのです。今ではそれを促進するために動員されています。


自然法に対する政府の攻撃

2016年5月13日、米国保健社会福祉省は、性別に基づく差別に対するタイトルIXの禁止が今後、生物学的男性や女性ではなく、むしろ「性的同一性」に基づく差別の禁止には適用されないと解釈することを主張する新しいトランスジェンダーの権限を発表したとき、自然法を撤回する措置を講じました。

信仰、道徳的信念、またはその専門家の判断に基づいて、男性の性と女性の性は尊重されるべき生物学的現実であり、修正すべき欠陥ではないため、性転換の手順の実行を拒否することを主張した医療専門家および医療機関は、連邦法違反のため罰せられます。

その同じ日、司法省と教育省は「親愛なる同僚」宛ての書簡を全国の学校に送り、「個人の内的性別意識」と定義されたジェンダー同一性に関する方針を明らかにしました。付随するプレスリリースでは、これらの連邦政府機関が「タイトルIXを強制する目的で学生の性別として、学生の性別アイデンティティを扱う」ため、学生に「性別による活動に参加し、性別によるアイデンティティに応じた性別施設へのアクセス」を許可するように学校に指示しました。」


トイレに行く

もともと1972年に可決された教育改正のタイトルIXは、女性と女児が教育において平等な機会を持つことを保証することを意図していましたが、オバマ政権の新しい解釈は、もし、男子たちが自分の性的アイデンティティを女子であると主張するなら、女子のトイレ、女子のロッカールーム、女子寮の部屋、女子のホテルの部屋及びシャワールームへの無制限のアクセスを許可することを学校に要求しました。選択した性別の親密な施設への完全なアクセスを妨げるいかなるものも、公民権と平等の「トランスフォビア」(トランスジェンダー等を嫌悪する意味)な拒否とみなされます。さらに、医療保険制度改革(オバマケア)のセクション1557は、トランスジェンダーの性別適合治療を提供する、すべてのヘルスケアプランを義務付けるように再解釈されました。

2017年2月にトランプ政権によって、オバマ氏の全国的なトランスジェンダーの指令が保留された一方で、2つの性別があり、社会が子どもたちの慎み(性的な恥らい)を守るべきであるという伝統的および聖書的信念を保持している人々に対する政府の疎外が、アメリカ合衆国の多くの地域で本格化しています。2018年8月、オレゴン州の裁判官は、「高校生には、生物学的性別が異なるトランスジェンダーの学生と学校のトイレ、ロッカー、シャワーを共有しないという基本的なプライバシー権はない」と裁定したのです。

米国地方裁判所のマルコ・ヘルナンデス判事によると、異性の学生の裸を見ることを不本意に受けている学生は、権利を侵害されていません。アメリカ人は寝室でのプライバシーの権利がありますが、ペニスがむき出しになっている学生の隣で、服を脱いだり、シャワーを浴びたくない女子には、プライバシーの権利が無いのです。そのようなことが、高校のトイレ、ロッカールーム、またはシャワーで行われる場合、このような「マイクロアグレッション(悪意のない小さな差別的な言動や行動のこと)」は何の問題でもないようです。


私のプリンセスボーイ

性的同一政策は、トランスジェンダーであると認められた人々が望むように生きることを許可することだけでなく、他の人に過激なイデオロギーに付き合うことを強制するものです。この教化のプロセスは、早くも幼稚園から始まります。 2015年後半に、ミネソタ州の公立チャータースクールである、ノバ・クラシック・アカデミーの管理者は、新入生は「ジェンダー・ノンコンフォーミング(性に関する旧来の固定観念に合致しない人)」であり、幼稚園児の性同一性をすべてのK-5生徒に「プリンセスボーイ」という本、「伝統的な女の子の服を着て楽しんで、本当の自分を表現する男の子」についての本を読むことを要求することで、学校が幼稚園児の性同一性を支援することを保護者に通知しました。。学校は「ジェンダー・インクルージョン」政策を採用し、生徒が自由に自分の性別を選択できるようにしました。学生は「ニックネーム」と代名詞で対応することを要求することができて、彼は異性のトイレとロッカールーム、および一晩の旅行で寝る設備を使用する権利を与えられます。

この新しい学校の方針に異議を唱える選択肢がなかったため、かなりの数の親が子供を学校から退学させ(翌年には94人の学生が在籍)、影響を受けやすい若者に課せられたトランスジェンダーのイデオロギー的教化に反対しました。2つの性別があるという聖書/自然法の観点を持つ親の選択肢は、子供を私立学校、宗教学校またはホームスクールに登録することです。


すべての人のための月経

イギリスのある学区では、「すべての性別」に月経がある可能性があることを子供に教えます。ブライトン&ホーブ市議会は、トランスジェンダーの権利擁護者に考慮して、このガイダンスを承認しました。

トランスジェンダー主義は学術研究にも影響を与えている。ブラウン大学の研究は、10代と若者に見られる「急速に発症する性別違和症(ROGD、自分の心理的アイデンティティは生物学的性別とは正反対であるという新たに発見された感覚)は、自分のことをLGBTであるとみなしている友達を持つこと、アイデンティティ政治のピアカルチャー、およびインターネット使用の増加に関連する社会的感染症である可能性があります。」という知見を確立しました。この主張は、アイビーリーグ大学のニュースリリースから、自分の教授の研究を公表したことを謝罪する声明を伴って取り下げられました。


急速に発症する性別違和症

米国小児科大学は、性別違和症を経験している思春期前の子供たちの大多数が通常、思春期後期までに生物学的性別の性同一性に戻ることを発見しました。 彼らは、子供たちの性別違和症の新しい治療基準を以下のような理由で批判しました。それが先天性であると想定し、治療には強力な薬物を使用した思春期の抑制と、それに続くクロスセックスホルモンの使用が含まれ、それらは、生涯不妊をもたらす組み合わせの恐れがあるためです。 さらに、移行手術を受けた人は、自殺で死亡する確率が平均より19倍高かったのです。

リストカット、食欲不振、過食症などの他の社会的感染症と同様に、急速に発症する性別違和症は、不安やうつ病などの既存の心理的問題に関連していることがよくあります。 しかし、これらの他のボディイメージ神経症とは異なり、これは即座にサポートを得て、それを失います。学生の健康プランまたはオバマケアの健康保険が請求書を支払う、二重乳房切除術を指す「上部手術」を含む、患者が表明したアイデンティティに対する「アファーマティブケア」を行うのです。 このような性転換治療は重大なリスクを伴います。 二次性徴抑制剤は成長を阻害し、骨密度を低下させます。 これらのホルモンを服用している人は、癌や深部静脈血栓症を含む多くの危険な副作用について、生涯にわたるモニタリングが必要です。 このような生涯にわたる影響を考えると、子供の性転換治療の使用は、制御されていない大規模な実験になるのです。

多くの健康クリニックは、任意の心理的評価を必要とせずに若い女性にテストステロンホルモンを供給します。.ほとんどのセラピストと精神科医、特にコロンビア特別区と「患者の性同一性を変える努力」を禁止する法律を持つ14の州では、親の懸念に気づかない十代の自己診断を即時に肯定します。すべての医療専門家が患者の要求に屈するわけではありませんが、ほとんどの場合、排外主義や法的罰則を恐れています。


ポストクリスチャンマン(ポストキリスト教徒)

2018年12月、イギリスの教会は「典礼的に人の性転換を認める」ための特別式典の開催方法に関する教会指導者向けのガイダンスを発表しました。 そのような儀式は、会衆が「彼らのアイデンティティで彼らを確認する」ことができ、洗礼式の奉仕を最も適切な場として更新する奉仕を含めることができるように、個人が証言を共有できる「祝賀的性格」を持つべきです。

イギリスの教会だけではありません。アメリカの聖公会教会、ユダヤ教改革連合、ユナイテッド・チャーチ・オブ・クライスト、ユニテリアン・ユニバーサリスト協会、アメリカ福音ルーテル教会、長老派教会(米国)、および統一メソジスト教会はすべて、トランスジェンダーの包括政策を受け入れています。

「ファースト・シングス」でキャサリン・カーステンが論じたように、新しいポストクリスチャンの世界観は、神だけでなく、秩序ある宇宙の目的で私たちが創造されているという考えも拒絶します。 「ポストクリスチャンマン」は自分の体を、自分のアイデンティティを表現し、自分の意志を発揮するためのキャンバスとして見ています。タトゥーやピアスで体を覆うという多くの関心事がその一例です。この新しい自己が自然に反するほど、「本物である」と主張できるのです。

第1章で説明したように、グノーシス主義の衝撃は、物理的現実を悪として拒否します。より高い隠された知識を求め、物理的な限界を認識したくない魔法の現実を作り出します。今日のトランスジェンダー十字軍は、この否定の最新の章と見ることができます。それはそうでなければならないので、それは本質的に権威主義です。自然と常識の両方がそれに反対しています。現実に注意を向ける批評家は、評判を落されなければならないか、沈黙しなければならないか、頑固者と非難されなければならないのです。そうでなければ、グノーシスファンタジーの世界はすぐに崩壊してしまいます。

第12章 カトリック主義の終焉

圧倒的多数が独身の誓いを立てた村(バチカン市国)の場合、性的な事柄に対する異常な先入観があります。同性愛は、バチカン内で蔓延していなくても、常に明白であり、そして、キャリアアップの頻繁な要因です。若い魅力的な司祭は、常にマドンニと呼ばれ、その魅力を駆使して昇進を加速させます。一部の司教は彼らを支援するために、マドンニだけの密室で遅くまで働く必要性に気づいたのです。悪魔のミサは定期的にフードをかぶった半裸の参加者によって行われました。そして、ポルノ・ビデオは慎重に選ばれた観衆に放映されたのです。
デビッド・ヤロップ、「権力と栄光」

最も忠実なカトリック教徒とその忠実な司祭でさえ、教会に腐ったものが存在することを認めなければなりません。バーナード・ロウ枢機卿は、誘惑、痴漢、レイプの経歴で、100人のカトリックの少年を(性的)虐待したジョン・ジオガン神父を保護しただけでなく、マフィアが彼のプロの殺し屋の1人に安全な家を提供しているように、彼(ジョン神父)を教区から教区に移しました。ロー枢機卿は、羊のために命を落とす良き羊飼いとして振る舞うのではなく、彼の子羊を食い物にする狼の捕食者の足跡を覆い隠しました。
パトリック・J・ブキャナン、2002年3月20日


性革命の真っ只中の1972年、米国カトリック神学協会は委員会を設立し、「現在の混乱にいくつかの有用で明快なガイドラインを提供する」ことを目指して、人間の性に関する研究を実施しました。委員会の生命は、性的道徳に関するすべての伝統的な教えを鋭く否認しました。委員会は、セクシュアリティ(性的特質)の適切な意味は、動物的な衝動を満足させることではなく、人々が孤立から抜け出し、「互いに交わり合う」ための手段であると結論付けました。性的議会は、婚前でも婚外でも、こうして神聖なものとしての地位に引き上げられました。性的道徳に関して、委員会は、セックスが「統合」(すなわち、パートナーとの交わり)に貢献する場合、セックスは道徳的であると決定しました。委員会の意見における「破壊的な性的特性」は、「個人的な欲求不満と対人疎外をもたらしました。」とされています。

カトリック教徒が性的革命に参加するための扉が開かれました。夫婦は宣教師の地位に就く義務はありませんでした。オナニーは大罪ではなく、同性愛行為は不自然ではありませんでした。アメリカ合衆国における18歳から30歳のカトリック教徒に関する1981年のコロンバス騎士団の研究は、90%が「フマネ・ヴィテ」(教皇パウロ6世によって書かれた1968年7月25日付の回顧録)の表明に同意せず、88%が離婚および結婚前のセックスに関するカトリック規範に同意しなかったことを示しました。 1973年から1983年にかけて、カトリック教徒間の離婚率は、7人に1人から、4人に1人に増加しました。 1985年のギャラップの世論調査では、一般的なカトリック教徒の人口は、プロテスタントよりも婚前セックスに対して寛容になったことが示されました。プロテスタントの46%に比べて、(カトリックの)33%だけが不賛成でした。同じ世論調査によると、米国のカトリック教徒の77%は、性的な決定を行う際に、教会の宣言よりも自分の良心に頼っていたと述べています。


失われたアイデンティティ

教会の道徳的な教えはカトリック教徒に明確なアイデンティティを与えました、それによってカトリック教徒は他の人たちに彼ら自身を識別しました。しかし、1970年までに、儀式と規則、ミステリー、およびマナーが独自にブレンドされたカトリックの下部構造は、アメリカの現場から姿を消しました。1971年10月4日のニューズウィークの編集者は、次のように結論付けました。「第2バチカン公会議とその後の混乱のため、カトリック教徒の間には、米国のプロテスタントと同じくらい多くの神学とライフスタイルの多様性があります。実際、カトリック教徒は彼の言うとおりの人物であり、教会に対する彼の態度は、基本的に彼の収入、教育、そして彼がアメリカのまだ沸騰しているるつぼに浮かんでいるところによって形作られるようです。」

バチカンで45年間働いていたモンシニョール・ルイジ・マリネッリは、骨と肝臓の癌で亡くなる直前の1999年に以下のことを証言していました。ゲイ・ロビー(権利グループ)が教皇パウロ6世のもとで、ローマ教皇庁内の支配的な勢力として浮上し始めて、野心的な有望な聖職者に対して、昇進のためのニンジンとしてセックスを使用し始めました。マリネッリは、彼の回顧録であるバチカンのビアコルベント(バチカンでの風と共に去りぬ)で、実践する同性愛者の高位聖職者であることは、「有望な候補者がより早く昇進するのを助け、ライバルが昇進のために自分自身を提示したいという欲求を失う原因となります。」と書いています。神の奉仕に心と魂を捧げる者よりも、下半身を捧げる者の方が、より良いチャンスがあります。教皇庁内の多くの人にとって、美しい少年は賢い少年よりも多くの善意と好意を引き付けています。」

ゲイだとされているカトリック聖職者のリストには、バチカン国務長官となったタルシシオベルトーネ枢機卿、司教マウロパルメジアーニ、チボリ大司教、ジョゼフ・ウェソロウスキー大司教、ドミニカ共和国への使徒ヌンシオ、モンシニョール・フランチェスコ・カマルド、バチカン市国でのローマのヴァイカリアーテらの公式の名前が含まれていました。ベルトーネの指示の下で、バチカンは、ローマでゲイのサウナや司祭がセックスの代金を払うマッサージパーラーを収容するために役立つ物件を購入しました。これらの場所で最も悪名高いのは、イタリア最大のゲイ浴場であるヨーロッパ・マルチ・クラブでした。マルチクラブに頻繁に通うテイルズ・オブ・バチカンの高官がローマのタブロイド紙の見出しに捉えられて、マルチクラブためのウェブサイトでは、毛むくじゃらの若い男性が脱いで、事務服に着替える特別な「くまの夜」が奨励されていました。


同性愛者の教皇

ゲイの聖職者のリストの中で最も顕著な名前は、パウロ6世として教会に君臨したジョヴァンニ・モンティーニでした。教皇の性的な傾向に関する証言は、フランコ・ベルグランディを含むいくつかの信頼できる情報源からのものでした。ソブリン・ポンティフ(カプリエリ・ディ・スパダ・イ・カッパ)の名誉警備員の一員であるベルグランディは、インスブルック大学(オーストリア)で近代史の教授を務め、バチカン紙ロセルヴァトーレ・ロマーノの特派員を務めました。ベルグランディは著書『ニキータ・ロンカリ:コントロヴィタ・ディ・ウン・パパ』の中で、「彼がミラノ大司教だったとき、彼はある夜、民間の服を着て、それほど賞賛に値しない会社で警察に捕まりました。実は、長年にわたり、彼は赤毛の俳優と特別な友情を持っていると言われてきました。この男は、将来の教皇との関係で何も秘密を作りませんでした。関係は続き、この数年間で近づいて行きました。

ベルグランディが述べているパウロ6世の赤毛の俳優で生涯の恋人は、伝えられるところによると、ローマの休日(1953)にオードリーヘップバーンとグレゴリーペックとともに出演したり、ナポリ湾(1960)でクラーク・ゲーブルとソフィア・ローレンとともに現れたパオロ・カルリーニでした。パウロ6世が教皇の玉座を占領している限り、カルリーニはバチカン市国内で望みどおりに出入りすることができました。彼はしばしば真夜中にエレベーターを教皇の寝室に連れて行くのを見られました。

ベルグランディによると、パウロ6世の下では、バチカン市国のオフィスに、化粧をしている、ぴったりとした制服を着た若い男性が突然スタッフに配置しました。これらの新入社員は、突然解雇されたり、別のポストに移されたりした由緒ある古い従業員に取って代えられたのです。ベルグランディは次のように書いています。「憲兵隊ポンティフィシア(バチカン警察)は、これらの機雷と一緒に慎重に操縦し、片方の目を(時には両方の目を)閉じたままにしなければなりませんでした。そして、その報告書を急いで、勤勉な編集者を1つか2つ落胆させることに。私自身もそのような経験をしました。」

1975年12月29日にポールヴィスが同性愛およびその他の「変態」を非難したことを除けば、法王と映画俳優との関係は一般に公開されなかった可能性があります。法王は彼の「性的倫理に関する特定の質問に関する宣言」で同性愛を「神を拒絶した悲しい結果」を表す「深刻な堕落」であると非難しました。この声明は、ヨーロッパのゲイコミュニティの数人のメンバーを「腹立たしい偽善」として攻撃しました。元フランスの外交官であったロジャー・ペイレフィットは、イタリアのニュースジャーナルである「テンポ」に、カーリーニとの長年の関係を暴露した記事を掲載しました。この記事は激怒を引き起こし、サンピエトロ大聖堂のバルコニーにパウロ6世を登場させて、「恐ろしく中傷的な告発」であると公然と非難しました。しかし、ペイレフィットは不動のままであり、イタリア全土で放送された多数のテレビニュース番組で彼の告発を繰り返されたのです。


奇妙な枢機卿

ジョセフ・バーナーディン枢機卿は、アメリカの教会の歴史の中で最も影響力のある宗教家の一人でした。彼は全米カトリック司教会議および全米カトリック会議の創設者でした。彼の伝記作家、ユージーン・ケネディによれば、バーナーディンは「350人を超える国々の高位聖職者の中でアメリカ人の高位聖職者でした。しかし、彼の影響力は彼の年功序列をはるかに超えていました。彼は国内および世界的な問題についても書いたり話したりすることで、過去の巨大司教を凌ぐようになりました。」1993年11月13日、枢機卿はシンシナティの大司教区の神学校の生徒であるスティーブンクックに対する多数の強制的性行為、およびミネソタ州ウィノナで神学校の生徒との「性的な悪魔の儀式」に従事したとして非難されました。バーナーディンに対する1000万ドルの訴訟は和解し、法廷外には封じられました。しかし、クックは彼の告発を撤回したことはなく、彼はそれらが不正確であると言うこともありませんでした。バーナディンの最後の要求に従って、ウィンディ・シティ・ゲイコーラスは1996年にシカゴのホーリーネーム大聖堂で彼の葬儀ミサに出演しました。

ワシントンDCの大司教、セオドア・マッカリック枢機卿は、ニュージャージー州の彼の海岸の家で彼の有名な「外泊」の間に2人の司祭と1人の元司祭に対して(性的な関係を求めて)口説こうとして起訴されました。ジョン・ライト枢機卿はピッツバーグの大司教区を率いていましたが、ボストンの司祭として、その時代から男の子たちに対する偏見を持っていることが知られていました。 神父 レイモンドペイジは、不自然な性行為のためにマサチューセッツ・フォー・ライトの別荘に男の子を連れて行きます。慈善の精神で、枢機卿は少年たちに彼らの協力のために20ドルを与えました。バチカン二世では、ライトは、特にエキュメニズムと信教の自由の分野において、改革の強力な擁護者でした。

20世紀で最も影響力のあるカトリック聖職者の1人である、同性愛者のアメリカ人枢機卿の練習中の注目すべきは、フランシススペルマン枢機卿でした。 彼の死後、メディアのメンバーは、スペルマンがニューヨークのゲイコミュニティで「ネリー」として有名であることを発見しました。 スペルマンの恋人の1人は、番組「ワンタッチ・オブ・ヴィーナス」に出演したブロードウェイダンサーでした。週に数晩、枢機卿は、乱暴でタンブルなセックスの手合わせのために、リムジンを送ってダンサーをピックアップしていました。ダンサーがスペルマンにそのような荒廃した生活を送って、どうやって逃げることができるかと尋ねたとき、枢機卿は「誰がそれを信じるのだろうか?」と答えました。


神学校の性的逸脱

パウロ6世の治世の終わりまでに、神権のために勉強しているカトリック神学校の若い男性の40%から60%が同性愛者を実践していました。同性愛者の環境はミシガン州プリマスのセントジョン州立神学校で非常に顕著であったため、この学校は精神的な養成のための場所というよりは、サテリコン(1969年の伊仏の合作映画)のセットに似たものになりました。 神学生の間の同性愛行為はオープンな環境で行われました。夜になると、積極的な同性愛者たちは、寮を部屋から部屋へと巡って、新しいパートナーを探しました。1985年までに、神学校は同性愛の温室として悪名高くなり、バチカンによって閉鎖されました。

「ピンクの宮殿」として知られるようになったボルチモアのセントメアリーズ神学校では、学生たちは定期的に革やラベンダーシルクの服を着て、「ブロック」で戯れる夜を過ごしました。グリニッジビレッジに対するボルチモアの答えです。スクールバンが交通手段を提供しました。神学校の校長は、「高位聖職者に性的指向について尋ねることはしません。それらの理由で彼の聖職叙階を否定することは、その人の公民権の侵害であろう。」と発言しました。


「誇りを持って、オープンに」

イリノイ州マンデラインのセントメリーズ・オブ・レイク湖(通称「マンデライン」)では、新入生が学部の上級生や司祭とのセックスを強要されることがよくありました。同性愛者の行為は貞操の美徳に違反するものではないと、指導者たちは志願者に神権を納得させるように説得した。クローゼットのゼミナーのパーティーは、食事、飲酒、ダンスで祝われるガライベントになりました。そのようなバッカリアンの設定で彼らの正統な信念を維持することができた人はほとんどいませんでした。 1人の学生がマンデラインの学長であるジョンカナリー神父にこの苦情を送りました。

私がマンデラインに到着したとき、「ゲイ」の生徒が何人かいると思いました。それも扱えると思いました。私はストレートな男で、同性愛嫌悪のモンスターではありません。それでも、フォーメーションスタッフによってサポートされている同性愛の「アンダーカルチャー」の準備は何もありません..

私が女性を連れてきて、曲を表示するのではなく、ダンスミュージックを演奏し、どのクラスメートが誰とカップリングしているかについてジョークを言ったとしたら、すぐに驚かされるでしょう。  [マンデライン]には「同性愛者のカップル」がいることはよく知られています。つまり、友人ではなく「カップル」です。
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マンデラインでのもう1つの問題は、まっすぐな学生がこれについて不平を言うと、彼は「保守的」だと追放されてしまうことです。貞潔になろうとしている私たちが何人かいます。しかし、この同性愛者の文化の中で生活しなければならないことは難しいことが多すぎます。 CAM [キャンパス]司祭が彼らの愛の生活について「外に出て、誇り高く、そしてオープン」であることの祝福を持っているように見えるイベントに参加することは、本当に困惑します。そして、私は一人ではありません。
上記の苦情を書いたマイケル・シェーンのような学生は道徳的に厳格であると分類され、心理学者に職業カウンセリングのために送られました。カウンセリングセッションでは、性的表現のあらゆるマナーに寛容であることが奨励されました。彼らがこのカウンセリングを心に留めることに失敗した場合、彼らは霊的に叙階にふさわしくないとして神学校から追い出されました。


「私たちの性」

生徒たちを「オープンで肯定的な聖職者」にするために、私たちのセクシュアリティはテキサス州サンアントニオにあるオブレート神学校の標準テキストになりました。この2人の「良きカトリック作家」であるロバート・クルックスとカウラ・バウルのこの作品は、聖職者のために勉強している人は、性は生殖のためだけのものであるという信念を含め、彼らの多くの「偏見」を放棄しなければならないことを教えたと著者らは述べています。

多くの人々は、疑いをもって、オナニー、性的幻想、肛門性交などの活動や他の慣行を見ることを学びました。同じことが同性のメンバー間の性行為にも当てはまり、それは確かに生殖の性交のモデルには適合しません。これらの性交以外の性的行動はすべて、不道徳、罪深い、倒錯、または違法であると定義されてきました。このテキストでは、それらを選択する人のための実行可能な性的選択肢として提示します。

彼らは、聖トマス・アクィナスが表明した性的道徳に関する教会の伝統的な教えを学生たちが放棄しなければならないと主張しました。「私たちの性」によると、アクィナスは、「...人間の性器は生殖のために設計され、他の用途、つまり、同性愛行為、口腔性交、アナルセックス、または動物とのセックスは、神の意志に反し、したがって異端であったことを主張しました。アクィナスの教えは非常に影響力があったので、それ以来、同性愛者たちは西洋世界のどこにも避難所や寛容を見つけることはありませんでした。」

一度、聖職者に叙任されて、これらの「同性愛の温床」を卒業した祭司の多くがゲイの司教の管轄下に来ました。彼らは同性愛者のカップリングをオープンにし、受け入れるように訓練されていました。彼らは、神学校が性的逸脱に対して、個人的な判断をしない立場を採用すると主張する教師にさらされていました。彼らは、同性愛者であることをカミングアウトして、彼らの性的指向を認めることを聖職者の形成チームによって奨励されていました。聖なる命令のために男性を準備するこれらの方法がすべてうまくいっていると思っていた人々は、新しい高位聖職者の10%が小児性愛者であることを軽率にも知らなかったままでした。


ジョン・ジェイ刑事司法大学の研究

2004年2月27日、ジョン・ジェイ刑事司法大学は、米国カトリック司教会議の委託を受けた調査で、1950年から2002年の間に4,392人の米国司祭が性的虐待で起訴され、10,667人以上の被害者によって申し立てられたことを明らかにしました。この研究には、次の知見が含まれていました。

•被害者の81%は男性でした。

•女性は男性より若い傾向がありました。研究者によって分析されたデータは、8歳未満の女の子に向けられた性的違法行為の数と割合が同じ年齢の男の子に向けられたものよりも高いことを示しました。

•22.6%は10歳以下でした。 51%は11歳から14歳の間でした。そして。 27%は15歳から17歳まででした。

•この期間中に、かなりの数の子供(2,000人近く)が司祭によって犠牲になりました。

•6,696(72%)のケースでは、主張の調査が行われた。これらのうち、4,570(80%)が実証されました。 1,028(18%)は根拠のないものでした。 83(1.5%)は偽であることが判明しました。 56件のケースで、司祭は申し立てを否定しました。

・これらの申し立ての10%以上は、教区が虐待の申し立てが実際に行われたかどうかを判断できなかったため、根拠のないものとして特徴付けられました。

•事件の20%では、申し立てを受けた時点で司祭は死亡しているか、活動しておらず、通常は調査は行われていません。

• 申し立ての38.4%では、虐待は1年以内に発生したと言われており、21.8%で虐待の申し立ては1年以上続いたが、2年未満、2年から4年の間に28%、10.2%であった。5年および9年、及び、1%以下で、10年以上です。

4,392人の祭司に関して、次の結果が示されました。

・56%が、彼らに対する申し立てを報告書が1つありました。 27%は2つまたは3つの申し立てがあり、14%は4〜9件の申し立てがあり、3%(149人の司祭)は10件以上の申し立てがありました。これらの149人の司祭は、ほぼ3,000の犠牲者、つまり申し立ての27%について責任があります。

・この申し立ては、1,872人の司祭について立証され、824人の司祭について立証されませんでした。研究者たちは、この告発は1,671人の司祭にとって信頼できるものであり、345人の司祭にとっては信頼できないものであると考えていました。完全に免除された298人の司祭と執事は調査に含まれませんでした。

•虐待の申し立てが最初に発生した時点で、50%が35歳以下でした。

•70%近くが1970年以前に叙任されていました。

•7%未満が自分自身を子供として身体的、性的、または感情的な虐待の犠牲者にしたと報告されています。 19%はアルコールまたは薬物乱用の問題がありましたが、9%は虐待の発生時に薬物やアルコールを使用していたと報告されました。


リコ法の下で起訴

21世紀の最初の10年の終わりまでに、米国の司教は、約6,000人の司祭(国のカトリック聖職者の5.6%)による児童の性的虐待の苦情を受けました。525人が獄中にいて、3,000以上の民事訴訟と刑事訴訟が係争中でした。このスキャンダルの費用は30億ドルを超え、8人の教区が破産保護を求めることを余儀なくされました。アメリカのローマカトリック司祭の10%は小児性愛で訴えられていたので、法的活動家は連邦および州の弁護士に、もう一度、ローマカトリック教会を犯罪組織および腐敗組織として扱うために、RICO法のガイドラインの下で、そのような聖職者を起訴するよう求めました。


グローバルな問題

小児性愛のこの問題は、もちろん、アメリカに限定されませんでした。アイルランド、カナダ、英国、ラテンアメリカ、ベルギー、フランス、ドイツ、オーストラリアにまで及び、費用は100億ドルに増えて、世界中の教区や小教区に財政的な大混乱を引き起こしました。この取り付け問題は、問題があり、非を認めない司祭の教区間での継続的なローテーションと、ローマ教皇庁の間の沈黙の陰謀によって対処されていました。ヨハネ・パウロ2世はこの慣行を容認しただけでなく、虐待者が実際には犠牲者であると主張し続けました。ラッツィンガー枢機卿は次のように言いました。「それは私たちの高度に性的な特色を付与された社会の反映と関係があります。祭司も一般的な状況の影響を受けます。虐待事件の割合は他の職業よりも高くはないが、特に攻撃されやすく、または影響を受けやすい可能性があります。」

ヨハネ・パウロ2世が、児童性的虐待の有罪判決を受けた司祭に対する教理省の解雇の要求を拒否したことは、ナチス・ホロコースト時代の教皇ピウス12世の沈黙にたとえられています。教皇の最大の恥の一つは、2002年にボストン大司教区から不名誉に辞任した枢機卿法に聖域を与えることでした。もう1つの容認できない行為は、教皇の頑固で独善的な弁護であり、12歳という若い思春期の神学校生と彼自身の非合法の子供たちを連続的に虐待したメキシコ人司祭、マーシャルマシェルデゴラドでした。


国連の非難

2014年1月16日、ローマカトリック教会は、グローバル組織である国連によって非難された最初で唯一の宗教機関となり、虐待を受けた司祭を警察に引き渡すのではなく、教区から教区に移送する任務をバチカンに課しました。バチカンの元性犯罪検察官であるモンシニョール・チャールズ・シクルナは、国連人権委員会に、聖座が危機に直面するのが「遅かった」こと、および「特定のことが異なる方法で行われる必要がある」ことを認めました。

しかし、モンシニョール・シクルナもバチカン委員会の他のメンバーも、国連の人権調査官であるサラオビエドが提起した質問への回答を提供できませんでした。オビエド女史は、聖職者の性的虐待に対するゼロ・トレランス方式を踏まえて、バチカンが宗教機関として、どのようにしてこうした種類の事件を隠蔽し、覆い隠すことができるのかと尋ねました。」また、バチカン委員会は、別の国連調査官であるマリアリタの質問、「これらの出来事が隠されたまま隠されたままでいると、子供たちはどの程度影響を受けるのでしょうか?」にも答えることができませんでした。


心不全

ドミニカ共和国の教皇官であるジョセフウェソロウスキ大司教は、2014年6月27日にウォーターフロントで男の子を拾い上げ、性行為を行うためにお金を支払い、ポルノ写真を撮ったとして告発されました。告発がドミニカ当局によって提出された直後に、ウェソロウスキはバチカンに連れて行き、保護拘置されました。彼の引き渡しの要求は、ポーランドの高位聖職者が外交上の免責を有していたという理由で否定されました。彼は小児性愛者と呼ばれる最高位のカトリック聖職者でした。

事件をめぐる騒動により、教皇フランシスはウェソロフスキーの公判日を設定しました。ウェソロフスキーは、バチカン内部の刑事裁判所で裁判にかけられるのはこれが初めてです。裁判は行われませんでした。2017年8月27日、大司教は午前5時に彼のバチカンの住居で死んでいるのが見つかりました。彼の死は「心不全」が原因でした。


難攻不落の要塞

主に小児性愛のスキャンダルのために、2005年までに聖座は1200万ドルを超える赤字を表示するように頼みました。しかし、ローマ教皇庁は、これらの増える一方の不足額について、冷静に無関心のままでした。彼らは、教会の現実の豊かさが、バチカン銀行を収容する使徒の宮殿内で、安全で危険がないことを知っていました。教区は訴えられ、破産する可能性があります。教区の学校、大学、および病院は、数百万ドルの居住地に縛られている場合があります。しかし、一般にバチカン銀行と呼ばれる宗教研究所(IOR)内の口座は、教区の司祭によって性的に暴行された祭壇の少年の手の届かないところに残っています。主権国家として、聖座はいかなる外国の裁判所によるいかなる裁定も受けることができません。それは500億ドルを超える証券を保有する機関です。一部の先進国が保管する金を超える金が保管されていて、多くの国の総面積に等しい不動産を保有。そして、世界で最も偉大な芸術の宝物を含む豪華な宮殿。たとえ、カトリック信者の寄付が大幅に減らされたとしても、そのような富は残り、成長します。

≪パート2終了 パート3へ続く≫
パート3 科学と懐疑論

第13章 ダーウィンの福音

生物の指令組織が自然の過程、自然の選択の結果として、創造主やその他の外部のエージェントに頼る必要なく説明できることを示すことがダーウィンの最大の成果でした。
フランシスコ・J、アヤラ、ダーウィンの最大の発見、2007年

歴史的に、ナチスと共産主義者の両方が、ダーウィニズムのグノーシス主義神話への支持を示したのは、偶然ではありません。スミスはこう書いています。「この世界の境界を存在論的に超越する終末の代わりに、現代のグノーシス主義は歴史の中での終わり、したがって、この目に見える宇宙の存在論的レベルで実現される終末を想像する。」バチカンの内部関係者マラキ・マーティンによると、最終的に思い付き程度のフリーメーソンを作成したイタリアのヒューマニストは、グノーシスの概念を再構築し、それを完全にこの世のレベルに移しました。ナチズムと共産主義の両方がフリーメーソンの組織的派生によって生まれました。

フィリップ・D・コリンズ「ダーウィニズムとグノーシズムの台頭」2005

旧約聖書の神の放棄は、現代科学の主張によって加速されてきました。

創世記の冒頭の章の創造の説明は、地球が宇宙の中心ではなく、また、宇宙で静止しているのではなく、太陽の周りを公転する惑星であるということ、地球はドームのような固体の大空で覆われた平らな平面ではなく、恒久的に軸上を回転している空間内の球であるということ、人間に似た最初の生き物が出現する2億6千万年前に恐竜が地球の表面を歩き回ったこと、そして最後に、その人間は神のかたちや似姿で造られたのではなく、原始スライムの海の生き物から進化したという発見により、非難され、信用されませんでした。

原理主義者にとって、この最後の発見は、人間を、神の存在ではなく、テナガザルに関わっているため、最も壊滅的なものでした。

ダーウィニズム。

ダーウィニズムは科学の世界で一世を風靡して、創世記の文字通りの解釈を支持する人々に悲惨な結果をもたらしました。進化論を否定しようとした説教者や教師は、1925年の有名な「猿裁判」でクラレンス・ダロウによって沈黙させられました。

学問の世界で採用された進化論は、人類の圧倒的多数が、広大な計画において、アリまたは両生類ほど重要でなく、あるいは意義がない、そして、その本当の「グノーシス」または「知識」は人類の本当の起源の認識の中に備わっていると教える、グノーシス主義の信条をサポートするのに役立ちました。

2004年の聖職者手紙プロジェクトは、「宗教と科学は両立できる」ことを示し、進化を支持するように設計されました。現在、16,000人のキリスト教聖職者の署名があると主張しています。彼らのウェブサイトによると、同様の発言が737人のラビ、592人のユニタリアン、56人の仏教徒によって署名されています。これらの署名者は、一般人ではありません。これらは牧師、宗教教授、神学者です。彼らは、教会の信徒席の人々のリーダーとオピニオンメーカーです。


ダーウィン的信条

彼らのウェブサイトによると、聖職者の手紙プロジェクトはアメリカの福音ルーテル教会の南西部ワシントン合同教会、聖公会教会の南東フロリダ教区、カスケード長老教会(101長老派教会)、ユナイテッドメソジスト教会によって正式に承認されています。世界的には2008年、長老派教会(米国)は2016年に行われました。以下は、ダーウィニアン信仰に関する彼らの声明です。

多くの異なる伝統から署名した私たちクリスチャン聖職者は、聖書の時代を超越した真実と現代科学の発見が、無理なく共存できると信じています。進化論は根本的な科学的真実であり、厳密な精査に耐え、人間の知識と業績の多くが根付いていると信じています。この真理を拒否する、または「他の理論の1つ」として扱うことは、科学的な無知を故意に受け入れ、そのような無知を子供たちに伝えることです。神の良い賜物の中には批判的な思考ができる人間の心があり、この賜物を十分に活用できないことは私たちの創造主の意志を拒絶することであると私たちは信じています。人類のための神の救いの愛に満ちた計画が、神から与えられた思考能力の完全なる目的を排除することであると主張することは、神や不遜の行為を制限しようとすることです。私たちは教育委員会のメンバーに、人間の知識の核心部の用として進化論を教えることを確認することにより、科学カリキュラムの完全性を維持することを求めます。私たちは、科学が科学のままであり、宗教が宗教のままであることを要求します。2つの、非常に異なっているが、補完的な真実の形態です。

クリスチャン・フェローシップ/米国、福音団体の拡大組織である、インターバーシティ・プレスによって出版された、「科学と信仰の言語」という書籍の中で、フランシス・コリンズとカール・ギバーソンからも「有神論の」ダーウィン的な視点が支持されています。したがって、ここで提案している神が導かれた進化のモデルは、プロセスを導いている自然法則の起源以外には、神の創造的プロセスの説明のために外部からの侵入を必要としません。

彼らの見解では、神は物質の起源であり、それを導く自然法則です。物質の特性は、神によるさらなる直接的な干渉はなくても、すべての生物をもたらすのに十分でした。これにより、現代の進化論は、物質自体が長期間にわたってすべての生物に進化したと主張しているため、科学とのあらゆる対立の問題を排除します。


受動的な神

ユダヤ人とキリスト教徒のかなりの割合(62%)が、植物や動物の種の起源について唯物論的進化論を証明された事実として受け入れています。創世記1-3は現在、魅力的な神話とみなされています。神学者のウェイン・グルーデムは、神学的進化論の "神 "は、かつて物質とそれを導く自然法則の創造に積極的であったかもしれないが、誘導されていない自然のプロセスから生じた様々な生命体と人類の形成には何の関与もしていなかった、と説明しています。"神学者のウェイン・グルーデムは次のように説明しています。「神論的進化論によれば、神は植物や動物、人間を創造するために、時間内に直接、慎重に、あるいは目に見えて行動したわけではありません。実際、神学的進化論では、ビッグバンで宇宙が創造された後、神は積極的に何かを作られたのではなく、すべての生命体の起源の直接的な原因となった進行中の自然のプロセスを単に維持(または観察)したと主張しています"

しかし、ダーウィンの進化論は本当に、現代の教会が、「神論的進化論 」の無関心で受動的な神を、思い描くような聖書の信仰を修正して、受け入れなければならない 「証明された事実 」なのでしょうか?


性急なお見合い結婚

ウィットワース大学の地球物理学者で科学の教授でもあるスティーブン・マイヤー氏は次のように書いています。

神教的進化論者は、神が地球上の生命の多様性を創造するために進化のプロセスを使用していたと言っています。この声明は、神学論的進化論の中心的な主張を表しています。すなわち、創造主としての神が植物、動物、そして実際にはすべての生物をもたらすために、ランダムな変動と自然淘汰のプロセスを採用したということです。しかし、懐疑的な人は、キリスト教の神学と進化論の、この結婚は、むしろ急いで手配されたのではないかと疑問に思うかもしれません。新郎新婦は披露宴の列で微笑んでいますが、ふとした時に互いに横目で見つめ合うと、彼らの笑顔は消えてしまう。懐疑的な人はさらに、新郎(ネオ・ダーウィン理論)の善意がしばらくの間疑われていたことを観察するかもしれませんが、それは新婦の過剰なまでに教会に通う家族からではありません。唯物論的な親族の表情は、深く重要ではありますが、ほとんど無視されてきた物語をほのめかしています。

マイヤーが述べているように、キリスト教神学と新ダーウィン進化論との間に提案された「結婚」は、彼の理論の主要な柱を損なう現在の科学的研究をよく知っている世俗的な科学者の間で、ダーウィンに対する幻滅感が高まっているという、ほとんど無視されてきた物語によって脅かされたままなのです。

ダーウィンは、いくつかの最初の生命の形状を伴う「生命の木」を想定していました。そこから他のすべての種が進化し、存在するすべての種がその元の未知の種にさかのぼることができる分岐構造を作ります。彼は、いくつかの原始的なスープ、 「暖かい小さな池 」は、稲妻が加えられたときに、自然発生的な生成の行為を達成することができると仮定しました。


ダーウィン理論の基礎

彼の進化論は具体的にどのようなことを述べているのでしょうか?Encyclopedia Britannicaブリタニカ百科事典のフランシスコ・アヤラは、この要約を提供しています。

 生物学における進化論では、地球上の植物、動物、および他の生き物の様々なタイプは、他の既存のタイプにそれらの起源を持っており、区別可能な違いは、歴代の変更によるものであることを主張しています。進化論は、現代生物学の理論の基本的な要となるものの一つです。生命の事実上の無限のバリエーションは、進化のプロセスの成果です。すべての生物は、共通の祖先からの系図は関連しています。

人間をはじめとする哺乳類は、1億5000万年以上前に生きていたシュレウスのような生物の子孫であり、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類は、6億年前に生きていた水生ミミズを祖先として共有しており、すべての動植物は、30億年以上前に発生したバクテリアのような微生物に由来しています。

生物の進化とは、修正を伴って下降していく過程です。生物の系統は世代を経て変化する;共通の祖先から子孫を残す系統が時間の経過とともに発散するため、多様性が生じる......自然淘汰が起こるのは、より鋭い視力やより速い足など、より有用な形質を持つ個体の方が、より好ましくない形質を持つ個体よりも生存率が高く、より多くの子孫を残すためです。


化石記録の失敗

ダーウィン自身も『種の起源について』の中で、化石の記録から彼が必要とする「ミッシングリンク」が見つからず、将来の発見がより複雑な種のゆっくりとした漸進的な進行を示さなかった場合、彼の理論は間違っていると認めています。1859年以来、化石の記録は1000倍に拡大され、ほぼ完全なものになったと考えられるようになりました。必要とされる科学的精度のための十分なデータがあるので、少なくとも結論を出すために正確に分析することができます。

ダーウィン進化が本当ならば、単純な論理では、種の間の遷移形態の数は、結果として生じる種の数をはるかに上回るはずです。したがって、化石の記録は膨大な数の遷移化石の証拠を示しているはずです。

論理的には、過渡的な形態は同じように化石化する可能性が高いということになります。ダーウィンは「すべての生きている種と絶滅した種の間にある中間的・移行的なつながりの数は、考えられないほど大きいに違いない」と述べていました。

しかし、実際には、ある種から別の種への緩やかな変化は化石の記録には現れていません。種はすでに完全に形成されているように見えるのです。『進化のアイコン』の著者であるジョナサン・ウェルズが説明しているように 「カンブリア紀と先カンブリア紀の化石についての知識が大幅に向上したことで、ダーウィンの問題は緩和されたというよりもむしろ悪化してしまった。」

多くの古生物学者は、『主要な動物群はカンブリア紀初期に突然現れた』と確信しています。化石の証拠は非常に強力で、この出来事は劇的なもので、「カンブリア爆発」または「生物学のビッグバン」として知られるようになりました。

スティーブン・J・グールドは、古生物学者、進化生物学者、科学の歴史家だけでなく、唯物論的進化の強い信者でした。しかし、彼は書物の中で、化石の記録に基づいてダーウィンの漸進論を論破しました。

化石記録の中の過渡的な形態の極端な希少性は、古生物学の「企業秘密」として存続しています。私たちの教科書を飾る進化論の木は、その枝の裂け目と節の部分だけのデータを持っています。残りの部分は、理にかなっているが、推論であり、化石の証拠ではありません。我々は、生命の歴史の唯一の真の学生として、自分自身を空想しているが、自然淘汰による進化の我々の好ましい説明を保護するために、我々は、我々のデータが非常に悪いので、我々が研究することを公言しているプロセスそのものを見ることがないようにしていると見ています。


カンブリア爆発

化石の記録によると、最初に現れた時のほとんどの種は完全に形成されています。(生物学的)体制は完全です。それ以降は、ほとんど変化しません。化石の記録はまた、種の大部分が同じ時期に出現していることを示しています。カンブリア爆発と呼ばれる約2000万年から2500万年という比較的狭い歴史的時間の窓の中に、ほとんどすべての動物系統、またはグループ、そしてほとんどの生物種が出現します。その後、化石は絶滅するか、今日も生きているかのどちらかになるまで、時間の経過とともにほとんど変化しません。ステファン・マイヤー、『ダーウィンの疑念』の著者は、説明しています。

彼の統合の範囲にもかかわらず、ダーウィンを悩ませた一連の事実がありました。ダーウィンは、自分の理論では十分に説明できないことを認めています。少なくとも現在も、それは解明されていません。ダーウィンは、地質学的に地史とかけ離れた期間、最初はシルル紀と一般に呼ばれていたが、後でカンブリア爆発として知られているようになった期間に突然、動物が出現したと思われる化石記録のパターンに困惑していました。、

この地質学的期間の間に、古生物学者が今日、カンブリア爆発と呼ぶ出来事では、多くの新しくて解剖学的に洗練された生物が、下層の中のより単純な先祖の形態の証拠がないまま、地質柱状図の沈降性層の中に、突然現れました。

カンブリア紀の爆発の数百万年は、時間の始まりから今日に至るまでのタイムラインの約2%に相当します。つまり、化石の記録が言っていることは、本当に長い間何も起こっていなかったのに、突然生命が爆発的に現れたということです。それ以来、物事は非常に一定で安定しています。これは、『進化のアイコン』のジョナサン・ウェルズが主張しているように、ダーウィンのゆっくりとした緩やかなプロセスを完全に否定するものです。

化石の記録は、カンブリア紀の動物の先カンブリア紀の祖先がいないことを説明するのに十分に断片化されているのでしょうか?ほとんどの古生物学者はそうは考えていません。先カンブリア紀後期とカンブリア紀からの十分な堆積岩が発見されているので、もし祖先がいて、それが化石化していたならば、現在までに発見されているだろうと古生物学者も納得せざるを得ないのです。


見つからない生命の樹

化石の記録には、ダーウィンのいわゆる「生命の樹」に近いものは何も示されていません。ある種は、祖先のいないところから突然現れます。大きくなったり小さくなったり、といったある種の適応や変化が起こるかもしれませんが、その後、その種は絶滅するか、あるいはまだ存在しているのです」とマイヤーは説明しています。これらの見解を反映して、2009年1月の『ニューサイエンティスト』誌のカバーストーリーとレビュー記事では、「生命の樹プロジェクトは今日、否定的な証拠の猛攻によってボロボロになり、バラバラになっている 」と指摘しています。記事が説明しているように、「多くの生物学者は現在、(生命の)樹の概念は時代遅れであり、破棄する必要があると主張しています」。

ほとんどの進化論者は、ダーウィンの古典的な発言は、正しくないと反論されているか、少なくとも化石の記録や実験に基づく年代によって根拠がないことを認めるだろう。オーストラリアの分子生物学者マイケル・デンロンは、次のように要約しています。

ダーウィンの時代以来、化石記録の中のミッシングリンクを探すことは、これまでにない規模で続けられてきた。過去100年間の古生物学的活動の拡大はあまりにも広大で、古生物学的研究の99.9%は、1860年以降に行われたものと考えられます。今日知られている10万種ほどの化石のうち、ダーウィンが知っていたのはごく一部にすぎないのです。

地球上のあらゆる場所で地質学的活動が驚異的に増加し、これまで知られていなかった多くの奇妙な形態が発見されたにもかかわらず、無限のつながり(リンク)がいまだに発見されておらず、化石の記録はダーウィンが『(種の)起源』を書いていた頃と同じくらい不連続なものとなっています。中間体は相変わらず捉えどころがなく、その不在は、1世紀経った今でも化石の記録の中で最も印象的な特徴の一つとなっているのです。


粗悪な数学の問題

1966年4月、ノーベル賞受賞者を含む著名な数学者のグループが、ウィスター研究所のシンポジウムに集まりました。

ネオダーウィンの進化論への数学的挑戦。 このシンポジウムは、ノーベル賞受賞者のピーター・メダワー卿が議長を務め、最も権威のある分野の数学者だけが参加しました。このシンポジウムは、ノーベル賞受賞者であるピーター・メダワー卿が議長を務め、その分野で最も著名な権威者だけが招待された。数学的な発表の一例として、「科学理論としてのネオダーウィン進化論の不備」では、マレー・エデンは、1組の秩序ある遺伝子でさえ、細菌である大腸菌のDNAの突然変異によって、遺伝子が作られる、50億年の歳月で創り出されることは不可能であることを示しました。彼の推定は、その50億年の間に地球をほぼ1インチの深さまで覆う5兆トンの細菌に基づいていました。大腸菌の遺伝子には、1兆(10の12乗)ビット以上のデータが含まれています。エデンはまた 偶然にタンパク質が形成されることが 数学的に不可能であることを示しました

その後の会議では、進化論者と数学者の間でますます議論を起こしました。しかし、数学者たちは、突然の変化や複数のステップを一度に考慮しても(ダーウィニズムではなく)、単純なバクテリアを作るのに必要なすべての細胞の発達を説明するのに、十分な変化を与えることはできないことを立証したのです。ダーウィニズムは1966年に公式に数学的に否定されました。


DNA の修復

もっと最近の例では、2015年のノーベル化学賞は、細胞分裂中に誤ってコピーされた場合にDNAが自己修復できることを発見した3人の男性に授与されました。彼らは、DNAの自己修復能力には3つの異なる能力があることを発見しました。結論は、1,000個の誤ったコピーまたは突然変異が起こったなら、少なくとも999個がうまく修理されるというものでした。。

これらの発見により、突然変異を変化の原因とすることは、数学的には不可能であることが明らかになりました。生き残る可能性のある重要なランダムな突然変異は、それが集団に固定される前に、非常に早く壊滅されてしまうのです。


新しい種のためのコード

1953年にDNAが発見されて以来、より優れた機器や研究者の手によって、これまで想像もしなかったような現実が明らかになってきました。人間の体の中には、端から端まで伸ばして太陽まで300回往復できるほどのDNAがあります。DNAのピンヘッドは、地球から月までの距離の500倍に積み上げられた文庫本の情報量を持っています。

生きている細胞の中にある情報はすべてがランダムではありません。コード化されているのです。科学者たちは、そのコード化のさまざまな部分を徐々に理解してきています。コード化された情報は、ただ一つのことを表し得るのです。つまり、ある知的な起源に由来しているということです。ランダムなプロセスが、有用なコード化された情報を生み出すことができるという証拠はないのです。さらに、コードが正確な結果を特定するためには、デザインはコードの前に、知的な頭脳の中に存在していなければならなかったのです。


還元不可能な複雑さ

進化論に対する新たな課題が出てきました。ダーウィンの時代には、科学者たちは非常に初歩的な顕微鏡を使って研究を行っていましたが、小さな細胞の内部の働きを明らかにすることはできませんでした。現代の顕微鏡のおかげで、生物学者は今、細胞の複雑さを都市全体の複雑さと比較することができるようになりました。

生化学者のマイケル・ベーエは、著書『ダーウィンのブラックボックス』の中で、「還元できない複雑さの概念」を提唱しています。もしシステムが 「不可逆的に複雑 」であるならば、これは単純に、単一の部分を取り去ると、それが動作しないので、その単一の部分を取り去ることはできないことを意味しています。ベーエは、問題の核心を説明しようとするために、マウストラップの例を使用しています。これは5つの部品しかないのですが、そのうちの1つでも取り除いてしまうと動作しません。それは、一度に一つずつゆっくりと徐々に組み立てることによっては、偶然に組み立てることはできません。全体の組み立てが完了するまでは何も機能しないのです。

ベーエは20年以上にわたって細菌の生化学を研究し、特に細菌の推進システムであるべん毛を研究しました。彼は、40種類以上のタンパク質が関与しており、システムは整然と順を追って組み立てられ、最終的には船の船外機のように機能することを発見しました。組み立ての過程では、最後までべん毛が機能することはありません。これは、機能段階の漸進的で偶発的な進行というダーウィンの考えに反しています。ベーエは記しています。「製造機械は、自分自身と同様に、他の分子機械を構築します。細胞は機械を使って泳ぎ、機械を使って自分自身をコピーし、機械を使って食物を摂取します。つまり、高度に洗練された分子機械が、あらゆる細胞のプロセスを制御しているのです。このように生命の細部は細かく調整されており、生命の機械は非常に複雑なのです。

「還元不可能な複雑さの概念」はパラダイムチェンジャーです。それは今ではどこを見ても識別できるようになりました。それを認識するたびに、小さな標識が点滅していることに気づくかもしれません。「ダーウィニズムはここにはない。」ということを。


青写真(設計図)ではなくレンガ

DNAに対する科学的な考え方を変える「エピジェネティクス」という全く新しい科学の分野が今、開かれようとしています。エピジェネティクスは、DNAが生命のプロセスの一部に過ぎないことを発見しています。DNAは、家を建てるために使われるレンガに例えられているに過ぎません。それは設計図ではありません。設計図は、DNAの中以外のどこかにあるに違いありません。同じレンガを使って大邸宅や小屋を建てることができます。デザインや設計図はDNA自体にはありません。したがって、DNAのランダムな突然変異は、もはや進化の主要な源として考えることすらできません。それはレンガを変えているだけで、家を変えているわけではないのです。ジョナサン・ウェルズは書いています。

「そして、細胞内のタンパク質の三次元配列は、その合成に先立って、DNAとは独立して指定された空間情報を必要とします。したがって、DNAには胚発生のためのプログラムは含まれておらず、DNAの変異は解剖学的進化のための原料を提供することはできない。」


無視された証拠

このような知見は、現代のキリスト教徒には無視されたままです。ダーウィニズムは、近代思想の不可欠な側面を見せていて、テイヤール・ド・シャルダンのような思想家によって、ダーウィニズムはキリスト教の神学に統合されました。グノーシス主義の精神に基づき、ド・シャルダンは、旧約聖書の原始主義から、イエスによって擬人化された愛の神との統合へと人類が進化していくことを見ました。この運動は、デ・シャルダンが書いているように、「新しい宗教(これを改良されたキリスト教と呼ぶことにしましょう)の個人的な神は、もはや通り過ぎられる時代の、偉大な『新石器時代の』地主でなく、我々が今、到達した文化的で宗教的な段階で求められる世界の魂なのです・・・」以下のようなものではありませんでした。デ・シャルダンによると、進化の終わりは、人間が、他の人間と結合して、単一の個人的な神を持つ、単純な有機体のようなものを作ることになるだろう。」その目標が達成されたとき、彼は続けます。「頑固で、不愛想で、反抗的なもの...そのようなものすべては間違っていて、非難されるべきである...

肉体的にも道徳的にも邪悪なものはすべて消えてしまう.物質は精神に吸収される . . .」政治的には、この統合は全体主義をもたらすだろう。彼は次のように書いています:「(キリスト教的な!)合成、天上の神と(マルクス主義的な!)先の神との統合、これこそが、将来、私たちが精神的にも真理的にも崇拝することができる唯一の神である。

また、テイハルトは『人間の未来』の中で、「現代の全体主義体制は、その初期の欠陥が何であれ、異端でも生物学的退行でもない」と主張しています。それらは「宇宙」運動の本質的な傾向に沿ったものです。『科学とキリスト』の中で、彼は次のように書いています。「ファシズムは、おそらく明日の世界の、かなり成功裏に成された設計図を表しています。」" このような発言は、ドゥ・シャルダンが教会から破門される結果となったのではなく、むしろ教皇ベネディクト16世をはじめとする現代キリスト教の代表的なスポークスマンによって崇拝される結果となりました。

第14章 ダーウィンの子孫達

20世紀の最初の60年の間、何十万人ものアメリカ人や数え切れないほどの人々が、生殖によって一族を継続することを許されていませんでした。先祖、国籍、人種、宗教などの理由で選別された彼らは、強制的に不妊手術を受け、不当に精神病院に入れられ、大量に死亡し、結婚を禁じられ、時には州の官僚によって未婚のままであることさえあった。アメリカでは、全民族を一掃するための、この戦いは、銃を持った軍隊によってでもなく、周辺の憎しみに満ちた宗派によってでもなかった。むしろ、この悪質な白人による戦争は、優生学と呼ばれる人種差別的で、似非科学的な運動と結託した、立派な教授、エリート大学、裕福な実業家、政府の役人たちによって実行された。その目的は、優れた北欧の人種を作ることだった。
                          エドウィン・ブラック『弱者との戦い』2012年

創世記の第一章で述べられている、人間は神のイメージと似せて創られたという聖書の前提を、根底から覆す進化論以上に、旧約聖書の放棄を促したものはありませんでした。

もし聖書が、このような誤った内容で始まるならば、モーセ五書全体が信憑性を欠くことになります。アダムとエバの物語は、良く言えば、道徳的な寓話であり、悪く言えば、古代メソポタミアの砂漠の部族から生まれた単なる作り話になってしまいます。

さらに、旧約聖書の神が本当に人類の創造者でもなく、父親でもないとすれば、人間の霊的な性質、すなわち、彼の言葉によって物質を超越することができるという事実は、創世記に描かれた人類史の悲しい光景を生み出したデミウルジの働きとはかけ離れた霊的な領域が存在することを証明しているのです。


優生学の誕生

1798年にイギリスの経済学者トーマス・マルサスは、「人口の原理に関するエッセイ」を発表しました。この中で彼は、有限または算術的に増加する食糧供給は、指数関数的に拡大する人類の人口を制限し、壊滅的な飢饉や戦争につながると理論化しました。彼は人口制御を提唱し、さらに、多くの場合、慈善援助は世代の貧困を継続し、その結果、人間の進歩の自然なスキームの中でほとんど意味をなさなかったと主張した。

1850年代には、不可知論者であるイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが『社会統計学』を出版し、人間社会は思いやりのある強力な神の意志ではなく、科学の無慈悲な法則によって決定されると宣言しました。彼は、「適者生存」という新しい言葉を広めました。人類は、先天的な性質に従って進化しているので、「適者」は自然に繁栄して社会を進歩させ、「不適者」はより貧しくなる。下層階級の苦しみは、自然の法則の必要な結果であった。スペンサーは次のように書いている: "自然の全体的な努力は、そのようなものを取り除き、より良いもののための余地を作ることです。もし彼らが生きるために十分に完全でなければ、彼らは死ぬのであり、彼らは死ぬのが最善である。


社会的ダーウィニズム

1859年、チャールズ・ダーウィンは『種の起源について』を発表しました。彼の自然淘汰理論は、限られた資源と敵対的な捕食者のいる環境下でのすべての生物の生存競争を説明しています。彼は、彼の理論が「マルサスの教義を動物と植物の王国全体に多様な力で適用したものである」ことを明らかにしました。「人為的な食料の増加はなく、結婚を慎重に抑制することもない。」

ダーウィンは「自然界」について理論化していましたが、有力な思想家たちがマルサス、スペンサー、ダーウィンの考えが「社会的ダーウィニズム」と呼ばれる新しい概念に抽出されるまでには、それほど時間はかかりませんでした。社会的な計画家たちは、厳しい世界で生き残るための闘争の中で、多くの個人は価値がなく、進歩の自然な一部として存在理由を失って消滅していく運命にあるという考えを支持しました。

このような見解は、創世記1:26-27(「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、…すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。)で表現されている聖書の見解を否定しています。すべての人間は神の姿で創造され、それによって固有の絶対的な価値および、相対的な価値を持っているという教えを否定していました。しかし、彼らはユダヤ・キリスト教の教えに敵意を持っていた2人の崇拝者を惹きつけていました。彼らこそが、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスでした。


進化論はマルクス主義の中に溶け込む

ダーウィンの理論が発表されたことで、マルクスやエンゲルスのような唯物論者は、自分たちが地球上のすべての生命の起源について、包括的な説明をしていると自信を持って主張することができるようになりました。単一細胞から最も複雑な自己意識を持つ存在まで、すべての種を生み出したものは、神ではなく、ランダムな変動と自然淘汰だったのです。自然の不変の力が、歴史と生命の原動力となったのです。

『種の起源』の初版は1250部しか印刷されず、1日ですべて売れてしまいました。そのうちの一冊を手に入れたのが、当時マンチェスターに住んでいたフリードリヒ・エンゲルスでした。3週間後、彼はカール・マルクスに手紙を書いています。「ところで、私が今読んでいるダーウィンは、絶対的に素晴らしい。目的論の一つの側面には、まだ破壊されていなかったものがあったが、それが今、破壊されている。自然界で歴史的進化を実証するために、これほど壮大な試みが行われたことはなかったし、確かにこれほど良い効果があったことはなかった。」

一年後のマルクスは、ダーウィンの著作は、「形而上学」や「目的論」で議論されているように、純粋に物質的な力に帰することができるので、物質世界におけるデザインや目的を考える必要性を、事実上終息させたと書いていました。「ダーウィンの著作は最も重要であり、それに適したものである。私の目的は、それが歴史的階級闘争のための自然科学の基礎を提供するという点にあります。. . . すべての欠点にもかかわらず、ここで初めて、自然科学における「目的論」が致命的な打撃を与えられるだけでなく、その合理的な意味が経験的に説明されたのです。」


弁証法的唯物論の基礎

ダーウィン自身の政治的見解は、過激とは程遠いものであったが、彼の洞察は、社会の暴力的な進化に関するマルクスの弁証法的理解の基礎としての、唯物論的な「科学」を確立するための戦いにおいて、武器として使用されました。1873年にカール・マルクスが『資本論』第一巻の第二版を出版したとき、彼はダーウィンに「チャールズ・ダーウィン氏、彼の心からの崇拝者であるカール・マルクス」と刻まれたコピーを送りました。1883年、マルクスの葬儀でエンゲルスは「ダーウィンが有機的自然の発展の法則を発見したように、マルクスも人間の歴史の発展の法則を発見した。」と述べています。

マルクスは、大衆による革命のための科学的で、唯物論的な正当化する根拠を探していたが、その答えを進化の概念に見出しました。適者生存の考え方は、歴史の原動力としての階級闘争を正当化するという彼の目的のために利用することができました。より高度な生命体の発展が自然主義的な力によって推進されていたとしても、マルクスは、人間の領域における進化は、唯物論的な力と暴力的な革命によって推進され、不可解にも常に上向きであったと主張しました。

『ユートピア的で科学的な社会主義』の中でエンゲルスは、「形而上学的な自然観念に最も大きな打撃を与え、非物質的な原因を含むことができた観念を、弁証法的で唯物論的な力が進化の進歩の源であるとみなす観念に置き換えた」というダーウィンの勝利を称賛しています。彼は次のように書いています。

自然は弁証法的に働き、形而上学的に働くのではない......彼女は永久に繰り返される円の永遠の一体性の中で動くのではなく、本当の歴史的進化を通るのです。この点では、ダーウィンは他のすべての人よりも先に名前を挙げなければならない。彼は、すべての有機物、植物、動物、人間自身が何百万年もかけて進行中の進化の過程の産物であることを、彼が証明することによって、自然の形而上学的概念に最も重い打撃を与えたのである。


優生学の台頭

『社会的ダーウィニズム」のビジョンに熱狂したもう一つの影響力のある運動は、優生学推進論である。「優生学」という言葉は、実は1883年にチャールズ・ダーウィンのいとこであるフランシス・ガルトンによって考案されました。彼は、イギリスのエリートを大量に増殖させ、他の「知能の低い」民族を減少させることで、人類をより良くしようと考えたのです。1912年、第1回国際優生学会議がロンドンで開催され、チャールズ・ダーウィンの息子であるレナード・ダーウィン少佐が主宰しました。

優生学を提唱するグループはイギリスで始まり、ヨーロッパ各地に広がっていきましたが、1900年代初頭のアメリカで最も受け入れられるようになりました。アメリカの社会学者、経済学者、医師、科学者、活動家の献身的なグループが、アメリカの優生学運動を制度化し、組織化するための知的モメンタムを提供しました。チャールズ・ダベンポートのようなアメリカの信者たちは、人間の退化を増加させる研究と制御を支持するために、富裕層に声をかけ、説得しました。

彼らは1903年にアメリカン・ブリーダー・ソサェティを、またニューヨーク州ロングアイランドのコールド・スプリングス・ハーバー研究所を設立し、何百万もの家族の遺伝史を追跡しました。1927年、米国最高裁判所は、障害者の強制的な不妊手術は米国憲法に違反しないとの判決を下しました。オリバー・ウェンダル・ホームズ判事は言いました。「...3世代の愚か者で十分だ。」と。


人間動物園

アメリカにおける科学的人種差別の卑劣な歴史を知っている人はほとんどいません。「人間動物園」と呼ばれる新しいビデオ・ドキュメンタリーは、20世紀初頭のこの現実を描いています。

1906年9月、ニューヨーク市のブロンクス動物園には25万人近くの人々が集まりました。多くの人は、動物園のモンキーハウスの新しい展示を見に来ました。しかし、彼らが見に来たのは猿ではありませんでした。人間だったのです。彼の名前はオタ・ベンガ。アフリカ・コンゴから来たピグミー族であるオタ・ベンガは、サルと一緒に檻の中に展示されていました。

ベンガは一人ではありませんでした。彼は文字通り、20世紀初頭にアメリカ全土で公開された何千もの先住民の一人でした。たいてい、人間と類人猿の間の "ミッシングリンク "として、しつこく推奨されて、また、人間の進化の "下 "の段階の例として、これらの先住民は嫌がらせを受け、卑しめられて、あざけられました。彼らの公開の展示は、科学界の最もエリートなメンバーの熱狂的な支持を得て行われ、アメリカの主要な新聞によって、批判されることもなく宣伝されました。


優生学的不妊手術

ラフリンの大きな影響力がある『米国における優生学的不妊手術(1922年)』が出版される2年前の1920年までには、全米で3,200人が不本意に不妊手術を受けたと報告されていた。その数は1929年には3倍に増え、1938年には3万人以上がこの運命を辿ったと主張されています。半数以上の州がラフリンの法律を採用し、カリフォルニア、バージニア、ミシガンが不妊手術キャンペーンの先頭に立ちました。

エドウィン・ブラックによって記録されたように、アメリカ連邦政府、州政府、裕福な公的機関が第二次世界大戦後まで、この人種差別に貢献していました。

考え方の基本は、27の州で制定された結婚制限と同様に、強制的な不妊手術や隔離法によって、国の政策として正式に記されました。1909年、カリフォルニア州は、そのような法律を採択した3番目の州となりました。最終的に、優生学の実践者たちは 強制的に約6万人のアメリカ人を不妊手術し、数千人の結婚を禁止し、数千人を隔離施設で強制的に隔離して、私たちが学んでいる、数えきれない数の方法で虐げました。第二次世界大戦前には、強制的な不妊手術のほぼ半分はカリフォルニア州で行われ、戦後も、州はそのようなすべての手術の3分の1を占めていました。

黒人は、カーネギー研究所、ロックフェラー財団、ハリマン鉄道の財閥が科学的人種差別に加担していたことを告発してします。1904年、カーネギー研究所はロングアイランドのコールドスプリングハーバーに研究所を設立し、研究者が、慎重に家族、血統、民族全体の除去をしようとしたので、一般のアメリカ人の何百万枚ものインデックスカードを備蓄しました。


「不適合者」と 「適合者」

おそらく最も悪名高い優生学者は、プランド・ペアレントフッドの創設者であるマーガレット・サンガーです。それは、「不適合者」と 「適合者」の出生率の間のアンバランスは、「文明に対する現在の最大の脅威 」であったという彼女自身の言葉から分かります。サンガーは排除する必要があるグループをリストアップしていきました。

心が弱い者、てんかん患者、馬鹿者、無気力者、非常識者、結核患者、嫌悪感を抱く者、伝染病を持つ者、貧乏人、物乞い、生活保護を受ける可能性のある者、犯罪者、売春婦、またはあらゆる形態の売春を目的とする者、文盲者、英語や他の言語を読むことができない16歳以上の者、すべての者が入場を拒否され、これらの措置を実施するための手続きが義務づけられています。私はそれは良い法律だと思います。残念ながら、それは単に否定的なだけで、選択的な立法ではありません...

このようなタイプの人々を国外に追い出す必要があるならば、なぜ彼らの繁殖を止めることが重要ではないのでしょうか?

出生のコントロールとは、無差別に行われる避妊ではありません。それは、私たちの社会のより良い要素を解放し、栽培し、不完全な株、アメリカの文明で最もすばらしい咲きほこる花を脅かす雑草のようなこれらの人々を徐々に抑制し、排除し、最終的には絶滅させることを意味します。

個人的には、心の弱い者、精神異常者、梅毒患者の不妊手術を信じていますが、不適合者が増え続ける中で、これらの措置が表面的な抑止力以上のものであることを発見することはできませんでした。

適合者、やや適合している者、完全に適合していない者の間のこの区別は、3つの水も漏らさない完璧なカテゴリに人類のすべてを配置したマルシオンとヴァレンティヌスの著作に強い類似性を生み出したのです。第1は、真の知識(グノーシス)とその中に神性の強い閃きを持っていた選ばれた者または、強化された者。第2は、救いを得ることができる心霊の強いもの、そして第3は、食べ、飲み、結婚し、そして永遠に死ぬ人類の大多数。


GERM PLASM(生殖質)

「心の弱い」とは、当時のダーウィニアンの生物学者が、進化のスケールでは「下の方にいる」と考えていた人種(黒人のような)を含む、非常に広い範囲の哀れな人たちの範疇でした。「心の弱い」の人は、他の誰から見ても完全に普通に見えます。だからこそ、優生思想家によれば、彼らはとても危険な存在だったのです。心が弱くても普通に見えるので、心が弱くない人が結婚して、欠陥のある生殖質を次の世代に広めてしまう可能性があるのです。

サンガーや他の優生思想家たちは、心の弱い者は強制的な不妊手術によって生殖を阻止されなければならないと主張しました。ブラックは、「.........バージニア州の法律では、不適合と判断された人たちのために強制的に不妊手術が行われた単一の山岳部族」について書いています。. .” 彼は次のように続けます。

外科医のナイフの下に置かれた10代の少年少女たちは、その影響を本当に理解していないことがよくあります。時には、彼らは盲腸手術を受けていると言われたり、他の特定できない手術を受けていると言われたりしました。一般的に、彼らは手術後に釈放された。被害者の多くは、数十年後になるまで、子供を産めなかった理由を知ることはありませんでしたが、バージニア州の調査記者や政府の改革者によって、ついに真実が明らかにされました....

ブラックは、11歳で不妊手術を受けた女性を引き続き、解説しています。

メアリー・ドナルドは、11歳の時にリンチバーグで不妊手術を受けた後の苦悩の日々を思い出して、同じように苦悩していました。数年後、彼女は夫との間で「解放」され、18年間の良好な結婚生活を送りました。しかし、「彼は子供が好きだった。」と彼女は思い出しました。「私はベッドに横たわり、息子を授かることができなかったので泣いていた。」と彼女はひどく訛っているが、はっきりとした、間延びして、ゆっくりとした口調で説明した。「男性は自分の名前を受け継ぐために息子が欲しいのよ。彼はそれが問題ではないと言ったけど、年を追うごとに彼は変わっていった。私たちは離婚して、彼は誰かと結婚したのよ。」この言葉で、マリアは自制心を失って泣きました。


ヒトラーの霊感

「大量不妊手術と不良者の強制収容」というアメリカの優生学キャンペーンは、アメリカで開始された数十年後にドイツのアドルフ・ヒトラーの目に留まりました。第二次世界大戦前、ナチスは、アメリカの優生学支持者の公然とした承認を得て、優生学を実践していました。バージニア州西部州立病院の管理者ジョセフ・デジャネットが1934年に述べたように、「ヒトラーは私たちのゲームで、私たちを負かしている」と。

ヒトラーは誇らしげに、アメリカの優生法にどれだけ厳重に従っているかを同志に語った。彼は仲間のナチスに、「遺伝の法則を知った今、不健康で重度の障害を持つ人間が、この世に生まれてくることを防ぐことは、かなりの範囲で可能である。私は、アメリカのいくつかの州の法律を興味深く研究した。その子孫が、あらゆる確率で、人種にとって、何の価値もないか、あるいは有害であると思われる人々の生殖を防ぐことに関する法律を。」


進化論の狂信者

政府の財源と巨大な機関が、ダーウィンの大義に資金を提供してきたのです。その結果は予測可能です。「科学は定まっている」という議論は、科学的な重要性に関する多くの議論を終わらせるための手段として行使されてきました 。それはまた、確立された正統派からのいかなる反対意見にも圧力をかけることによって、強制という心理的なハンマーをもたらします。これは科学的方法に対して誠実ではないことに注意すべきです。

最終的には、ダーウィニズムは確固とした、さらには挑戦の余地のない教義となったのです。学校は、唯物論的でない考えを認めることを拒否したのです。以下は、全米生物学教師協会のウェブサイトに掲載されている進化論に関するポリシー・ステートメントです。

進化論的な生物学は、他の科学と同じ科学的方法論に基づいており、自然界の現象を解説して、説明するために自然界の出来事や過程にのみ確認を求めています。科学の教師は、生命の多様性に関する説明、もしくは「創造の科学」、「科学的創造主義」、「インテリジェントデザイン理論」、または類似の名称であるかどうかにかかわらず、自然主義的ではない、または超自然的な概念を引き合いに出して、進化のメカニズムを説明しようとする呼びかけを拒否しなければなりません。このような考えは科学の範囲外であり、科学のカリキュラムの一部として提示すべきではありません。これらの考え方は、証拠の収集と解釈に関する共通の科学的な基準に忠実なものではありません。

言い換えれば、学生は証拠の質に基づいて反対意見を評価するのではなく、自分たちの先入観に反する意見や証拠を無視しなければならないのです。

自然法則が「適者生存」であり、歴史の最終目標がより高度な人種になろうとしているならば、その過程を助けるのは進化したエリートの権利であり、責任でさえあります。19世紀のマルサス思想に似た、人口過剰についての現在進行中の広範な懸念を考えると、グローバル・コミュニティの組織は、世界の人口を大幅に削減することを提唱しています。

グローバル・コミュニティは、厳格なグローバル政策を提案していますが、良心的に実施しなければ、非常に厄介なことになるでしょう。実際には、100億人から120億人の人口は、あまりにも不快なほどに多く、世界の資源に大きな負担をかけることになるでしょう。どのような世界 人口は妥当なのか?どのような目標を目指すべきでしょうか?人口は無期限に持続可能であり、自分たちや他の生命体のために十分な余裕を持てるような小ささでなければなりません。また、健全な文明を形成するのに十分な大きさでなければなりません。我々は、世界人口5億人を提案しています。

このようなエリート主義者たちが、5億人が自分たちの好む世界人口であると公然と主張し、現在の世界人口が77億人に近づいていることを考えると、16人中15人が何らかの方法で排除されなければならないことを考えると、社会的ダーウィニズムと優生学の信念が21世紀の第2の10年にも健在であることを示す明確な証拠となるでしょう。


優生学的なグノーシス主義者

マルシオンとヴァレンティヌスの信奉者たちは、子孫繁栄はこの涙の谷を造った邪悪なデミウルジのためにしかならないと信じていたので、これらの信念はグノーシス主義の復活によって新たな弾みを得ました。彼らは、性行為をやめるように彼らの信者を奨励し、人口増加ゼロの政策を提唱しています。

この姿勢は、ロイ・スクラントンが2018年7月26日付のニューヨーク・タイムズ紙に掲載された署名入り記事の中で、次のように反映されていました。

「娘が生まれたとき、私は2度泣いた。1つ目は、27時間の陣痛の後、私たちが作った小さな野性的な存在が、世界に向かって泣き出したときの喜び、2つ目は、地球で生まれたばかりの人間を抱きしめながら、病院の駐車場の車の列、道路の向かいのストリップモール、ボックスストア(商品が箱のまま、陳列されているディスカウントストア)やドライブスルー、排水溝やアスファルト、かつては樫の木立だった廃材の畑を娘と一緒に窓の外に眺めながらの悲しみだ。絶滅と大惨事の世界、自然との調和が長い間排除されていた世界。パートナーと私のわがままで、娘を地獄郷の惑星での人生に運命づけてしまった私には、未来から娘を守る方法が見えませんでした。」

マルシオンがグノーシス的世界観をもっと説得力のある方法で語ることは難しいことだったのでしょう。

第15章 生命の尊厳

「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。
                                       エレミヤ書1章5節

しかし、たとえその中の一人が、偶然にも彼の自然放出の種を早産で着床させ、女性が妊娠したとしても、そのような人々があえて行う、もっと恐ろしいことに耳を傾けてください。彼らは自分たちの計画に適した段階で胎児を取り出し、この堕胎した乳児を乳棒を使って、桶の中で切り刻んでしまうのです。そして、病気にならないように、蜂蜜、胡椒、その他の香料や香辛料を混ぜて、この豚や犬の群れの中の飲み騒ぐ人々が集まってきて、それぞれが自分の指でその子の一部を食べる。そして今、このカニバリズム(人肉嗜食)の後、彼らは神に祈り、「わたしたちは、欲望の支配者によって嘲笑されたのではなく、兄弟の失態を集めたのだ!」と言います。これが彼らの「完璧な過越祭 」という考えです。
  エピファニウス、"グノーシス主義者"のパナリオン 26.5,4-6, 375年

初期のキリスト教徒は、子宮内の生命の生来の尊厳に対するユダヤ教の信念を継承しました。このようにして、彼らは中絶と不妊治療を拒否することによって、周囲の異教文化から自分自身を分離しました。古代ローマ人もギリシャ人も中絶に寛容で、胎児が形成されて生き始めるのは、男性であれば受胎後少なくとも40日、女性であれば約80日後であるという主張を受け入れていました。アリストテレスは次のように書いています。「夫婦に子供が過剰にいる場合は、感覚と生命が始まる前に中絶させてください。これらの場合に合法的に行うことができるかどうかは、生命と感覚の問題に依存します。」

古代の世界では、望ましくない子供は頻繁に「遺棄」と呼ばれる行為で捨てられていました。自分の隠していた子供を捨てるという選択は、ローマ帝国では世帯主の法的権利であり、通常は生後8日以内に行われていた。ギリシャの哲学者プルタルクは、それまでは子供は実際の人間よりも植物に近い存在であると教えていました。ローマ帝国の複数の地域では、中絶と乳児の殺害は、非常に一般的であったため、結果として人口が減少しました。

A.R.コロンは、遺棄が無数の理由で金持ちと貧乏人の両方によって実践されていたと説明しています。「乳児は、容姿が異常であること、隠し子や孫であること、不倫の子であること、家庭の貧困、親の衝突、多すぎる子供の一人であることなど、多くの理由で、罰則や社会的汚名を受けることなく、見捨てられることが可能でした。時には友人に与えられることもありましたが、それ以上に多くの場合、自然の中に捨てられ、低血糖症や低体温症で死に至りました。時には、公共の場を漁った犬によって、乳児が食い荒らされることもありました。 . . .」

初期のキリスト教徒は、そのメンバーが嬰児殺しを行うことを禁止し、異教徒の親に見捨てられ、死ぬ運命にあった赤ん坊を引き取ることで、貧しい人々を救済し、嬰児殺しに反対していました。新生児の政治的保護は、AD 103年にトラヤヌスによって可決された法令で始まり、第四世紀の初期に、コンスタンティヌスがキリスト教への改宗したので、彼の時代までと続きました。嬰児殺しは、皇帝ヴァレンティニアンによる宣言のおかげで、AD374年に違法とされました。

キリスト教の最も古い権威ある文書の一つと考えられているディダケは、生き方と死に方について述べています。生き方は、キリスト教徒が「中絶によって子供を殺害してはならないし、また嬰児殺しを行ってはならない」と求めています。 キリスト教徒は、生まれた子も生まれていない子も含めて、いかなる子も殺害することを禁じられていました。2世紀のキリスト教の護教論者であるテルトゥリアンは、キリスト教の発展に大きな影響を与えた人物の一人で、中絶に断固として反対していました。彼は次のように書いています。「子宮の中で妊娠した種を、血が人の中に残っている限り、違法な、殺意のない殺人によって破壊することは許されない。」テルトゥリアンはエレミヤ書を引用して、神が子宮の中ですでに聖別された命を守らなければならないと主張しました。

エレミヤに語られた 神の言葉を読んでみなさい。「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知っていた。」神が胎内で私たちを形成したならば、神が最初にされたように、「主なる神は・・・人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。」人が完全な人でなければ、神は子宮の中の人間を知ることができなかったのです。「あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別した。」その段階では死体だったのか?間違いなく、そんなことはありません。なぜなら、「神は生ける者の神であり、死者の神ではない 」からです。

アテナゴラス、ヒッポリトゥス、バジル大王、アンブローズ、ジェローム、ヨハネ・クリソストムは、他の多くの教会の父たちの中でも、断固として中絶に反対していました。


「命の息を吹きいれる」問題

アウグスティヌスは、子宮内での生命の進行についてのアリストテレスの信念を受け入れました。人間は植物状態であるか植物のような存在で始まって、動物の魂へ進歩して、ようやく人間の魂を得るのです。それにもかかわらず、アウグスティヌスは中絶という処置を非難しました。「女性は中絶のために薬を服用してはならないし、妊娠しているか、すでに生まれている子供を殺してはならない。もし誰かがこれをするならば、彼女はキリストの法廷の前に、彼女が殺した人たちの前で自分のケースを弁明しなければならないことを知っておくべきである。」

アリストテレスの誤った生物学的理論は、中絶はあらゆる段階で深く罪深いものであるという初代教会の心情を変えることはありませんでした。妊娠初期の段階での中絶は、永遠の魂を受け取るために神によって準備されていた存在を攻撃するものとみなされました(例:詩篇139:13-1)。

13世紀の神学者トマス・アクィナスは、妊娠初期の数週間には、理性的な人間の魂は存在しないという古代ギリシャの哲学者の理論を含む、アリストテレスの思想を彼の著作の中で多く引用しました。それにもかかわらず、アクィナスは中絶をあらゆる段階で重大な犯罪であると考え、神からの新しい命の贈り物を拒否することは「自然に反する」罪であると述べました。教会の中には、「“ensoulment”(命の息を吹きいれること)」の後に行われた中絶に対してより懲罰的なものもありましたが、すべての段階での中絶は重大な道徳的な悪とみなされ続けました。

魂がいつ肉体に入るかについての議論は、その後何世紀にもわたって続きましたが、プロテスタント改革派は、すべての中絶に対して強い姿勢を維持していました。マルティン・ルターは、彼の創世記の解説書の中で,次のように述べています。「それゆえ、人間の本姓の邪悪さがいかに巨大か!繁殖は神の仕事であるにもかかわらず、妊娠を妨げ、未熟な胎児を殺したり、追い出したりする少女がどれほど多いことか。実際、結婚して立派に暮らしている配偶者の中には、様々な目的を持っている人もいますが、子供を作ることはほとんどありません。私たちに、成熟せよ、そして殖えよと宣言されている神様は、人間が子孫を滅ぼすことを大きな悪と見なしておられます。」

ルターに倣って、ジョン・カルヴァンは出エジプト記21:22の解説の中で次のように述べています。

「胎児は、母親の胎内に閉じ込められているとはいえ、すでに人間であり、まだ享受し始めていない生命を奪うことは、ほとんど残忍な犯罪である。人の家は最も安全な避難場所であるから、野外で人を殺すよりも自分の家で人を殺す方が恐ろしいと思うならば、胎児が現れる前に、子宮の中で破壊することは、確かにもっと残虐なものとみなされるべきである。」


                                                                                          
中絶は米国の歴史の中で定期的に行われており、1973年の最高裁判決まではいくつかの州で合法でしたが、伝統的には恥ずべきものであり、誇示するものではないと考えられていました。1973年のロー対ウェイドの最高裁判決は、中絶を憲法上の権利として確立し、すべての州で利用できるようにすることを義務付けました。ローは法曹界で大きな批判を受け、この判決は、司法活動主義の極端な形態と広く見られています。

エール・ロー・ジャーナルの1973年号では、アメリカの法学者ジョン・ハート・イーリーは、ローは「合憲的な法律ではなく、そうであろうとする義務をほとんど感じさせない」判決であると批判しています。イーリーはさらに付け加えます。

「ローについて恐ろしいのは、この極度に保護された権利は、憲法の言語、論争中の特定の難題に関する米国の憲法起草者の思考、それらが含まれている条項から派生した一般的な価値、または国家の政府の体系から推論できないということです。」ハーバード大学法学部のローレンス・トライブ教授も同様の考えを持っていました。「ローについて最も不思議なことの一つは、その言葉の煙幕の後ろに、根拠とする明文化された判断がどこにも見当たらないということです。」


教会の弱体化

歴史的に、ローマ・カトリック教会は、ほぼすべての状況下で中絶に反対し、中絶に反対する最も強力な反中絶の姿勢の一つを維持してきました。中絶は破門に値する罪と考えられており、多くの伝統的なカトリックのコミュニティでは、妊娠中絶賛成の姿勢は拒否されています。しかし、一般の教会信者や教会関係者の多くは、中絶に対してより寛容な態度を受け入れています。米国では、かつては司教だけに許されていた中絶の赦免を与える権限が、多くの司祭に与えられています。2014年のピュー・リサーチ・センターの調査データによると、米国のカトリック信者の半数近くが、中絶はすべての場合、またはほぼすべての場合に合法であるべきだと考えています。


プロテスタントと中絶

ロー対ウェイド法の判決以来、多くのプロテスタント教会は中絶に反対する姿勢を弱めてきました。1973年の判決の後、ユナイテッド・メソジスト教会(UMC)は安全な医療処置の下で中絶する女性の選択を支持し始めました。その後40年間、UMCは中絶に対する立場を議論し、再考し続けました。2018年、教会は 「中絶を正当化する可能性のある人生の悲劇的な葛藤を認識する 」というミッションステートメントの修正を提案しました。「中絶」という言葉を使うのではなく、教会は「リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康とその権利)」という言葉に置き換えています。さらに、この声明では、先天性の生命の尊厳や、最近の驚くべき中絶の増加については、もはや論じていません。

同様に、ユナイテッド・チャーチ・オブ・クライスト(UCC)は、女性が中絶を受ける権利を支持していることを表現するために「リプロダクティブ・ジャスティス」という表現を採用しています。2016年、UCCの活動家たちは、テキサス州の中絶診療所の80パーセント近くを閉鎖することになっていたであろう中絶の制限を否定する米国最高裁の判決に拍手を送りました。裁判所は、妊娠20週以降の中絶を禁止する2013年のテキサス州法を違憲とし、中絶診療所は病院式の外科手術センターと同じ基準を満たすことを要求し、医師は中絶を行う施設から30マイル以内の病院の入院許可を得ることを義務づけました。

UCCのジョン・ドーハウアー牧師は、テキサス州の法律を取り消した最高裁の判決を称賛し、次のように書いています。「女性のリプロダクティブ・ヘルスを長年擁護してきた者として、また、長年にわたり女性のリプロダクティブ・ヘルスを深く豊かに支持してきた教派の総牧師と会長として、この判決を祝福します。私はこの判決を、自分の体とリプロダクティブな健康をコントロールし続ける女性の憲法上の権利を守るための現在進行中の戦いにおける重要な勝利と認識しています。」

ローv.ウェイドの3年前、アメリカの長老教会は、望まない妊娠のために、中絶が有用な援助であると説明する研究を発表しました。「個人の選択」のようなフレーズと妊娠中絶に関する責任が重い決議が、教会のレポートに記載され始めました。1980年代の初めに、長老派は、中絶はスチュワードシップ(管理責任)であると主張する方針を承認しました。今日、多くの長老派はリプロダクティブ・チョイスのための宗教的連合を熱心に支持しています。


ユダヤ教と中絶

ユダヤ人は様々なテーマについて意見が分かれていますが、中絶に関しては基本的には一致しています。公衆宗教研究所(PRRI)が発表した2012年の調査によると、アメリカのユダヤ人の93%が何らかの形で中絶を合法化することを支持しています。さらに、PRRIが調査したグループの中で、あらゆるケースで、過半数が中絶を支持しているのはユダヤ人だけです。

それにもかかわらず、2つの大規模な正統派ユダヤ教の宗教団体であるアメリカのラビ評議会(RCA)とアメリカ・アグダット・イスラエルは、2019年1月にニューヨーク州で施行された後期中絶を合法化する法律を非難する声明を発表しました。「ユダヤの法律は、母親への危険が及ぶ場合を除き、中絶に反対しています。ほとんどの機関は、堕胎を殺人行為と考えており、他にも潜在的な生命の殺害に近い行為であるとする意見もあります。RCAは、妊娠開始から24週以前であっても“要求に応じた中絶”は禁止されていると主張しています。母体の生命が危険にさらされていない場合に、健康な胎児の中絶を認めることには賛成できない。」

一部の正統派女性はこの保守的な姿勢に抗議しますが、ユダヤ教の伝統は、人間の胎児には身分と尊厳があり、妊娠の大部分は中絶が禁止されていることを教えています。


生命はいつから始まるのか?

1970年代初頭、中絶を支持する人たちのほとんどは、胚や胎児は細胞の塊に過ぎないと信じていました。しかし、現在では、医師は、子宮内での人間の生命の発生に関する広範な情報を持っています。1ヶ月目までに、赤ちゃんの心臓は1分間に約113回の拍動をしています。8週目には、腎臓、肝臓、脳、肺がすべて機能し始めています。指と足の指が分かれ、外性器が形成されます。赤ちゃんは早くても12週目には親指をしゃぶることができるようになります。

1981年、米国上院司法小委員会は、人間の生命の誕生に関する特別委員会での証言を医療関係者に依頼しました。公聴会の中で、ペンシルバニア大学小児科・産科教授のアルフレッド・M・ボンジョバンニ博士は次のように述べています。

私は、人間の生命は受胎時に始まることを最初の医学教育から学んできました... 私は、人間の生命は受胎から成人に至るまでの一連の流れの中に存在しており、この間のいかなる中断も、人間の生命の終了に相当すると思います。私は、子宮の中で成長しているこれらの初期段階は、思春期の劇的な影響を受ける前の子供ということになりますが、それは人間ではないと言うための準備も、不完全な人間である説明する何の準備もできていません。...これは、すべての段階で人間の生命の営みなのです...

2017年3月、アメリカ小児科学会は次のような声明を発表しました。

人間の生物学的研究の優位性は、人間の生命が受胎-受精で始まることを確認しています。受精時には、人間は全体的には遺伝的に区別された、個性化された接合体の生きている人間の有機体、ホモ サピエンスのメンバーとして出現し、成長し、発展するための適切な環境のみを必要としています。成体の段階と接合体の段階での個体の違いは、形態の一つの違いであって、自然の違いではありません。この生命は、個々の人間の生命がいつ始まるのかという科学的な証拠に焦点を当てています。

21世紀になって、アメリカの医師や医療専門家の大多数が、人間の生命は受胎から始まるという結論に達しています。アイルランドのコーク大学のウィリアム・レビル教授は説明しています。

人間の生命は、父親の精子が母親の卵子と融合し、新しい細胞、すなわち最初の胚の段階である接合体を形成するときに、受胎から始まります...接合体は、自動的に成長・発達し、私たちが胎児、赤ちゃん、子供、成人、老人と呼ぶ段階を徐々に順次通過し、最終的には死に至る生物学的連続体の始まりです。発達を導くための完全な遺伝的指示は、接合体の中に存在しています。連続体に沿ったすべての段階は生物学的に人間であり、連続体に沿った各点は、その点に適した完全な人間の特性を持っています...

遺伝学者でハーバード大学とラトガース大学の教授であるアシュレイ・モンタギューは、反堕胎運動の支持者ではありません。それでも彼は主張しています。「基本的な事実は単純です。生命は誕生からではなく、受胎から始まるのです。』 しかし、この科学的な結論は、ますますリベラルになっていく選択権賛成派の立法を防ぐためには、ほとんど役に立っていないようです。


嬰児殺しの合法化

2019年1月22日に成立したニューヨーク州法「リプロダクティブ・ヘルス法(RHA)」は、ロー対ウェイドよりもさらに「中絶の限界」に挑んでいます。RHAは、以下のことを可能にしています。

「母体の生命と健康のための後期中絶」の「健康」という言葉は、現在では主観的な言葉であり、様々な解釈が可能です。

人工中絶を行う者は、医師免許を持っていることの要件が削除されました。現在では、看護師や医師の助手などが中絶を行うことができます。

偶発的に生きたままの出産した嬰児のための安全装置の除去。中絶の間に生きていた乳児は、今、子宮の外で殺害することができます。

犯罪者が母親に対する薬物や身体的暴力によって流産を引き起こすようにしようとしたときに適用されていた、違法で自発的な中絶のための罰則を削除します。

新法は次のように述べています。「ニューヨーク憲法と合衆国憲法は、安全で合法的な中絶にアクセスする女性の基本的な権利を保護する...」「基本的権利」という言葉は、法の哲学において特別な意味を持ちます。中絶を「基本的権利」と名付けることは、個人の良心の権利や信教の自由を無効にする可能性があります。この新しい修正条項は、プロライフ(中絶反対派)と宗教的なグループを抑圧するツールとして使用され、医師や医療専門家に個人的な信念にもかかわらず、中絶を実行することを強制することができます。

RHA法案が可決された直後に、ヴァージニア、ベルモント、ロードアイランドの中絶支持者は、同等の法案を推進し始めました。この記事を書いている時点で、中絶に妊娠制限を設けていない州は8つあります。アラスカ州、コロラド州、ニューハンプシャー州、ニュージャージー州、ニューメキシコ州、オレゴン州、バーモント州、ワシントンD.C.のあるニューヨーク州の8州です。

第三期の胎児の命を終わらせることは、中絶ロビーの目的が、危険な妊娠の状況での母体の健康の保護ではなく、むしろ、その存在が母体の健康にリスクをもたらさない、望まない子供を破壊する権利であることを示しています。妊娠後期の妊娠を終了させる唯一の動機は、女性(または中絶するように圧力をかけている人)が子供が生きているのではなく、死んでいることを望んでいるということです。アドボン・ヘルスケアの元最高医療責任者であるオマル・ハマダ医師は、これまでに2,500人以上の赤ちゃんを取り上げてきました。彼はリプロダクティブ・ヘルス法が成立したある日、ソーシャルメディアで、以下のことをシェアしました。「絶対に疑いの余地がないように、はっきりさせておきたいことがあります。第三期中絶を必要とする胎児や母体の状態は一つもありません。一つもありません。出産はあります。中絶はありません。生後間もない乳児を殺す医学的理由は絶対にありません。“どんな理由であれ”」

中絶をすることは、保護者と提供者としての母親の基本的な母性の原則を覆します。子供の幸福のために自分を犠牲にするのではなく、女性は様々な理由で子供の命を犠牲にします。教育、仕事、または扶養家族の世話をする能力の欠如を挙げています。女性はまた、経済的な困難、人間関係の問題、および単純に準備ができていないことを挙げています。


(堕胎された)赤ん坊の肉体の一部が入ったバケツ

広くは知られていませんが、中絶クリニックから送られてきた死んだ赤ちゃんの遺体を処理することを要求された結果、病理医はトラウマになっています。ユーチューブの証言の中で、「ドクター B」と名乗る若い女性病理医は、「病院で働いていた時に、バケツを示され、そのバケツに入った赤ちゃんの遺体の検査を強いられた」と、その恐怖を詳しく話しています。アンディ・ミロナキス」と名乗るある病理医は、ソーシャルメディアにこう書き込みました。

...私たちは、中絶手術によって、かなりの数の断片化された胎児を受け取ります。それらはホルマリンと一緒に容器に入ってくるのです。それらがすべて切り刻まれているという事実は、処理を始めようとするのに、心がかき乱されます. . . ある事件では、本当にひどいショックを受けました。男の子の胎児で、少なくとも3ポンド(約1360g)以上で、24週目くらいでした。それは、腐敗した状態で座っていました。 他のスタッフは、それを恐れていたからです。 冗談ではありません。それからスタッフのチーフは、私がFNG(新入り)だから、それを処理するように言ったので、私は作業に向かいました。整った二本の腕を引っ張り出してきて、胴体は頭なし。頭部はコンテナの底にあったが、それを引っ張り出したとき、胎児はこのような全くの恐怖の表情をしていたので、私はひっくり返り、私の診療アシスタントはそれを見て走り、文字通り仕事を辞めて、障害者になったのです。(ここでは真面目に話しています)。胎児は、ねじ込まれていたことを認識し、1つの苦悶の叫び声を出すために、少なくとも一瞬だけ生まれていたような、首のない叫んでいる赤ちゃんのようなものだったのです...ふざけた話ではありません...。


胎児組織から利益を得る

胎児組織を販売することは、中絶産業に利益をもたらすことが証明されています。国立衛生研究所(National Institutes of Health)部門を通じて、米国保健福祉省(HHS)は、中絶から得た胎児の臓器や組織を使用するプロジェクトに毎年1億ドルの税金を費やしています。2017年には、米国保健福祉省が所有・運営する政府施設で行われている胎児実験に2000万ドルの連邦資金が使われました。Advanced Bioscience Resources, Inc. (ABR)は、保健福祉省への胎児組織の主要な供給者の1つとして機能してきました。ABRは全国の中絶クリニックと密接に協力しており、米国で最も歴史のある中絶された胎児体部分の卸売業者の1つです。1989年に設立されたABRは、中絶されたばかりの赤ちゃんの体の部品をめぐる取引で数千万ドルを稼ぎ出しているのです。ABRは、中絶診療所で4、5、6ヶ月で終了した健康な胎児から小さな肝臓、肺、脳を収穫して購入することで利益を得て、納税者が出資した研究機関に莫大な利幅をつけた価格で体の部品を再販売しています。臓器、組織、細胞をネズミに縫い付けて、いわゆる「ヒト化マウス」を作ります。これらキメラ的な手術の支持者たちは、研究者がヒトの免疫系や血液疾患の新しい治療法や薬を見つけることができたと主張しています。彼らは、中絶されたばかりの赤ちゃんの心臓、肺、肝臓、脳を実験用のネズミに移植することで、血液学と免疫学の分野に大きな利益がもたらされたと主張しています。

デイビット・デイデンによって設立されたCenter for Medical Progress(CMP)は、2013年から2015年にかけて、CMPが胎児の人身売買に関する大規模なジャーナリズム調査を行っている間、ABRの指導者と何度かの機会に広く交流しました。2013年、ABRの調達責任者のペリー・ラルトンは、ABRがアメリカ国立衛生研究所の政府研究者に、堕胎された胎児の部品を広範囲に供給していることを確認しました。CMPが撮影した秘密のビデオの中で、ラルトン氏は、ABRが臓器採取を予定している21週目と22週目の胎児が、中絶前にジゴキシンのような堕胎薬で根絶されていないことを確認するために注意を払っていることを説明しました。彼女は、中絶クリニックで、臓器摘出の対象となった複数の胎児が丸ごと引き渡されるのを見てきたと述べました。


マルシオン・コネクション

後期中絶された赤ちゃんの残酷な実験は、人の命を著しく軽視していることを示しています。現在、科学界は、生命は受胎から始まるということに同意していますが、胎児と出生児の両方の殺害は続いています。先に示したように、ユダヤ・キリスト教社会の多くも、このような古代からの慣習を支持しています。人の命の神聖さに対する伝統的な宗教的見解は、このような神聖でない処置とどのようにして和解することができるのでしょうか?

人の命を殺すことを正当化するためには、ある命が他の命よりも価値があるという判断がなされなければなりません。現代の教会にマルシオンが浸透していることは、その説明を与えてくれるかもしれません。マルシオンによると、全人類は3つのカテゴリーのうちの1つに当てはまると言います。「真の知識(グノーシス)と強い神性の閃きを持ったエレクト(選ばれた者)やイルミネイテッド(輝く者)、救いを得ることができるサイキック、そして、永遠に食べ、飲み、結婚し、死んでいく大多数の失われた人類...... 」

   ≪パート3終了 パート4へ続く≫
パート4 イエスと新約聖書

第16章 イエスの探求

キリスト教は基本的に歴史的な宗教です。つまり、普遍的な原理ではなく、具体的な出来事、実際の歴史的事件に基づいています。その中でも最も重要なのは、馬小屋で生まれ、33歳で英雄というよりは、犯罪者として死に、生家から90マイル以上の旅をしたことがなく、何も所有せず、大学にも通わず、軍隊も組織せず、本を作る代わりに砂の中で自分で書いたという、あまり知られていないユダヤ人の大工の人生なのです。それにもかかわらず、彼の誕生日は世界中で守られ、彼の死の日はすべての地平線に絞首台を設置しています。では、彼は何者なのか?
 ハストン・スミス、人間の宗教
                 
彼は、昔、湖畔で、彼を知らない人々のところに来たように、名前のない無名の者として、私たちのところに来られました。彼は私たちに同じ言葉を話しかけ、「わたしに従いなさい」と言って、私たちの時代のために、彼が果たすべき仕事に私たちを配置します。彼は命じます。そして、賢い者であろうと単純な者であろうと、彼に従う者には、彼の交わりの中で経験することになる苦難、葛藤、苦しみの中に、彼はご自身を明らかにされます。                      
 アルバート・シュヴァイツァー 歴史上のイエスの探求

彼は 「平和の主」と呼ばれていますが、それでも彼は言いました。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイによる福音書10:34)

彼は非暴力の預言者として称賛されてきましたが、それでも彼は、神殿から両替商たちを鞭で追い出し、こう言いました。「ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」(ヨハネによる福音書2:16)。

彼は人に反対の頬を向け、悪人に抵抗しないように教えた教師として絶賛されてきましたが、彼は律法学者やパリサイ派の人々を「まむしの子孫」であるとして、立ち向かい、罵りました。「どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイによる福音書23:33)。

彼は「神の子」として崇拝され、人類に最高の存在に対する新たな理解をもたらしました。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。」(マタイによる福音書5:17-20)

イエスとは誰だったのか?

この問題は、2000年もの間、人類が直面してきた問題であり、納得のいく答えを出している人はほとんどいませんでした。実際、イエス様の弟子たちは、イエス様の正体を確信していなかったようです。イエスは弟子たちに「人の子は誰だと言われているのか」と尋ねられたとき、イエスは弟子たちに尋ねました。「人々は人の子をだれと言っているか」。 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります。」(マタイによる福音書16:14)。


歴史的イエスの探求

理性と啓蒙の時代の真っ只中で、何人かの学者が、宗教的な崇拝のイエスとは対照的な、歴史上のイエスの正体を、きっぱりと確立しようとしました。批判的分析の方法を導入した最初の主要な試みは、ハンブルクの東洋言語学の教授であったヘルマン・サミュエル・ライマルスによる『イエスとその弟子たちの目的』と呼ばれる作品でした。ライマルスは、イエスが実際には誰であったか、と弟子たちが宣言したものとの間に重大な違いがあると仮定していました。彼が信じていたイエスは、ユダヤ教の改革者であり、ますます狂信的になり、政治的になっていきました。しかし、彼は「ダビデの王国」の再建に失敗したのです。十字架の上での、彼の使命を完遂できなかった叫びは、神が彼を支えるために行動してくださるという、彼の期待の終わりを告げるものでした。弟子たちは,イエスが死人の中から「よみがえられた」と,そして世の終わりをもたらすであろうと宣言して,以前とは違ったメシアのモデルに後退しました。弟子たちも失望しました。しかし、絶望の中で泣き叫ぶ代わりに、彼らは原始キリスト教会を設立しました。

歴史的イエスの探求における第二のランドマークは、もう一人のドイツ人教授であるデイビッド・フリードリッヒ・シュトラウスの『イエスの生涯』でした。この作品の中で、彼は福音書の超自然的な側面を明確に否定し、キリストに関する歴史的な情報の教会の取り扱いを神話として説明しました。彼は、パリサイ派の敵対心によるイエスの死と同様に、洗礼ヨハネによるバプテスマ、彼の教えと弟子の育成などの出来事を含む、イエスの人生の一番大切な部分の枠組みを受け入れました。シュトラウスは、そのような初期の弟子たちが、二重のプロセスによって、歴史上のイエスをそうではないものに変えたと信じていました。第一に、彼らはイエスの生涯の出来事を、預言の成就と、イエスをメシアとして確立するという旧約聖書の信仰と期待の成就として解釈しました。第二に、彼らは共同体の信仰を媒介にして、彼についての神話や伝説を作りました。「歴史上のイエスは、このようにして、教会の敬虔な、しかし誤った献身によって、神聖なるメシアに変えられた。」


アルバートシュヴァイツァーの結論

20世紀の変わり目、医師、神学者、哲学者、音楽学者として知られるアルバート・シュバイツァーが、歴史上のイエスを探し求めていました。証拠を分析した後、シュバイツァーは次のように書きました。

「イエスの生涯を批判的に研究した結果、これほど否定的なことはありません。ナザレのイエスは、メシヤとして公に名乗り出て、神の国の倫理を説き、神の国を地上に建設し、その仕事を最後に奉献するために死んだのですが、その存在はなかったのです。」

シュヴァイツァーの結論は、新約聖書以外には、イエスについての言及がほとんどないことに基づいています。イエスが住んでいたローマの世界では、イエスは、あまり重要な人物ではないように現れたのです。イエスについての数少ない言及は、そっけなく、また、偏っています。


ローマ人の参考文献

歴史家タチタスは、2世紀の中頃、ローマが大火に見舞われた後、多くの人々がネロ皇帝が個人的な好みに合わせて、街を再建するために仕掛けたと考えていたのですが、次のように書いています。

しかし、あらゆる人間的努力や皇帝の贅沢な贈り物、神々への賛美はあっても、大火災は命令の結果であるという不吉な確信を拭い去ることはできなかった。その結果、ネロはこの報告を排除するために、罪を押しつけて、その忌まわしい行為のために嫌われていた、キリスト教徒と呼ばれる民衆に最高に痛みが強烈な拷問を加えたのである。

その名の由来となったキリストス(キリスト)は、ティベリウスの治世の間に、我々の行政長官の一人であるポンテオ・ピラタスの手によって極刑を受けた。そして、最もいたずらな迷信は、このようにして一時的にチェックされたが、悪の最初の源であるユダヤだけでなく、ローマでさえも再び起こり、世界のあらゆる場所からの醜悪で恥ずべき、すべてのものがその中心となり、人気がある地になった。そのため、まず有罪を主張する者を全員逮捕し、その情報をもとに、膨大な数の人々が有罪判決を受けた。彼らの死にはあらゆる種類のあざけりが加えられた。獣の皮で覆われた彼らは、犬に引き裂かれて死んだか、十字架に釘付けにされたか、炎に包まれて焼かれ、昼間の光が消えた後、夜の照明として機能するように運命づけられた。ネロはその見世物のために自分の庭を提供し、サーカスでショーを披露していたが、彼は戦車乗りの格好をして民衆に混じったり、車に乗って高所に立ったりしていた。それゆえ、極端で模範的な刑に値する犯罪者であっても、同情の気持ちが生まれた。それは公共の利益のためではなく、一人の人間の残酷さに満ち溢れていたために、滅ぼされようとしていたように思われたからです。

イエスに対する別のローマ人の言及は、ポントゥス・ビテュニア(現在のトルコ)の若い知事、112年頃にプリニウスが皇帝トラヤヌスへ送った手紙の中にあります。手紙の中で、プリニウスは、彼の州での狂気の宗派の出現を報告し、そのメンバーは、「神のようにクリストゥスへの賛美歌を暗唱」して、「聖餐(または誓い)によって、悪いことをしないように自分自身を義務づけている。」プリニウスは皇帝に、この宗派の何人かのメンバーに質問をしたことがあり、彼らが3回以上「キリストス」を崇拝していることを認めた場合、彼は彼らを死刑に処したと伝えました。キリスト教徒の問題は彼にとって初めてのことだったので、プリニウスは皇帝に、適切な措置をとったかどうかを尋ねました。トラヤヌスは次のように答えました。

あなたは、クリスチャンとして告発された人々の原因を調べるために、あなたがすべき方法をとっています。このケースでは、確かに一定の一般的な判断の形はありません。このような人々を探し求めるべきではないが,もし告発されて有罪となったならば,罰せられるべきである。しかし,自分がキリスト教徒であることを否定し,以前はそうであったにもかかわらず,神々に祈ってそうでないことを明らかにした者は,悔い改めに基づいて赦されるであろう。作者のいない誹謗中傷については、いかなる非難の場にも置かれるべきではないが、それは私の統治下では好ましくない例である。

3番目の最後のローマ人の言及は、スエトニウスの伝記から来ています。彼は「クラウディウスの生涯」(25:4)の中で、次のように書いています。「ユダヤ人はクレストゥスの扇動で絶えず騒動を起こしていたので、彼はローマから彼らを追放した。」


ユダヤ人の参考文献

歴史上のイエスについての他の外部の情報源はユダヤ人だけです。タルムード(ユダヤ教の宗教法とそれに関するコメントと解釈のコレクション)には、この一節が含まれています。

過越祭の前夜、イエスは(十字架に)吊るされた。処刑が行われる40日前から、先駆者が出て行って叫んだ、「彼は魔術を行い、イスラエルを背教に誘ったので、石打ちの刑に処されようとしている。彼のために何か言うことができる者は誰でも、彼のために前に出てきて、彼のために弁護してください。」しかし、彼に有利なことは何もなかったので、彼は過越祭の前夜に吊るされたのだ! ウラは反論した。「あなたがたは,嘘をついても,そのように弁護されると思いますか。ウラは言った。「嘘をついた者は,自分を弁護できる者ではなかったのか。あなたがたは,かれを赦すことも,隠すことも出来ないのか。しかし,イエシュの場合は違っていました。私たちのラビたちは教えた。イシューにはマタイ、ナカイ、ネゼル、ブニ、トダの五人の弟子がいた。

 彼は,聖書に「あなたがたは、その人を惜しんではならない,その人をかばってはならない」と記されているように,メシヤ(誘惑者)ではなかったのか。しかし,イエスの場合は違っていました。彼は政府と関係していたからです。私たちのラビたちは教えました。イエスには、マタイ、ナカイ、ネゼル、ブニ、トダの五人の弟子がいた。

イエスについてのもう一つの言及は、ヨセフスの『ユダヤ教古代史』の中で、「キリストと呼ばれたイエスの兄弟で、ヤコブと呼ばれた者、その他の者」の処刑に触れていました。


証拠の欠如

イエスと同じ時代の人による言及が、このように少ないことから、新約聖書の学者グンター・ボルンカムは次のような結論を出すことになりました。これらの異教徒およびユダヤ人の情報源は、他の点ではよく知られている事実、つまり、初期の段階では、キリスト教の猛烈な敵対者でさえ、イエスの歴史的な存在を疑うことはまったくなかったという事実を確認する限りにおいてのみ重要です。しかし、彼への非クリスチャン的な言及は、実質的に何も貢献していません。イエスの登場をすべて知っている限り、現代の歴史学は、それらのことから、決して画期的な出来事ではないと考えていたことがわかります。


つきまとう疑問

歴史家は、ユリウス・シーザーの医療問題、クレオパトラのドレスの大きさ、マルク・ア ントニーの口の形、マルクス・トゥリウス・キケロの性生活など、過去の人物について多くのことを知っています。それなのに、イエスについて、イエスの出現について、イエスの最初の30年間について、ローマ法廷での裁判と公開処刑について、これほどまでにほとんど知られていないのは、なぜでしょうか。エルサレムで騒動を起こし、十字架に磔にされ、死からよみがえったユダヤ人のラビについて、キリスト教以外の情報源から歴史的な検証がなされていないのはなぜでしょうか?きっと古代のユダヤ人はサンヘドリンの議事の記録を残していたでしょう?パレスチナを治めていたローマの支配者も 記録を残していたはずなのです。

それらに何が起こったのでしょうか?


失われた証拠資料

ローマに存在していたかもしれないような記録は、おそらく帝国の公文書を含む建物を全滅させたAD 64の大火災によって損なわれました。公文書の中には、ガリラヤとペレアの共同統治者であるヘロデ・アンティパスと、パレスチナの総督として仕えていたポント・ピラトの記録があったと思われます。ユダヤ人の記録は戦争の惨禍によって破壊されました。

西暦66年、ユダヤ人はローマの支配に対抗して本格的な反乱を起こしました。この反乱の性質が自殺的であったということが、エルサレムとマサダの最後の要塞を奪還するのに4年かかったという事実によって推測されています。その過程で、全体の田園地帯が荒廃してしまったのです。パレスチナの住民の多くが死にました。ローマ人は、数千人を剣にかけ、数千人以上を奴隷に売り飛ばし、残りのユダヤ人を流刑に送りました。ヘロデ大王が紀元前20年に始めて、わずか8年前に仕上げが加えられた寺院を含む、エルサレムの街は、破壊されました。

ユダヤ教が反乱の原因であると信じていたローマ人は、国内のすべてのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂を組織的に破壊して、ひっくり返っていない石がないほどでした。宗教的建造物は押しつぶされ、聖なる書物や解説書、サンヘドリンの巻物、書記者の記録などは没収され、燃やされました。記録が書かれていたものの品質が良い場合には、文章を削り、水に浸して汚れを落とし、羊皮紙を再利用できるようにしていました。


歪めて伝えられた証言

タキトゥス、若き日のプリニウス、スエトニウス、バビロニアのタルムード、ヨセフスの著作の中のわずかな言及を除けば、イエスの生涯についての他の唯一の情報は、新約聖書から来ています。その27冊の本のうち、23冊は、イエスの地上での働きが終わった後のことを扱っています。最初の4冊の福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書)は、信仰の観点からイエスの生涯を紹介しています。新約聖書の学者によると、福音書はイエスの死後、何十年も経ってから書かれたもので、福音書の著者たちはイエスを見たことがありませんでした。彼らがイエスについて得た情報は、原始教会に伝えられたイエスの信奉者たちの言葉による証言から得たものでした。

そして、四人の著者たちの証言は、イエスの誕生、イエスの死、イエスの復活に関する事項について意見が異なるように見えるため、多くの学者にとって問題となっています。さらに、彼らは、イエスの出現とその復活についてなど、多くの情報を省いています。
個人的な資質であり、それは彼のミニストリーの前の人生についてはほとんど何も明らかにしていません、つまり、彼の人生のほぼ全貌を明らかにしていないのです。


共観福音書の問題

神学の言葉では、マタイ、マルコ、ルカの福音書は、イエスの生涯と時代について共通の見解を持っているため、「共観福音書」と呼ばれています。これらの福音書は、彼らの証言は矛盾しているように見えますが、ほとんど同じ方法で同じ話をしています。例えば、マルコはキリストの降誕について言及していません。マタイとルカは、イエスの母マリアがヨセフと呼ばれる男と婚約していたこと、そして彼女が出産した時には処女だったことが一致しています。しかし、両福音書の著者は、イエスがダビデ王の子孫であることを示す系図を提供していますが、これは、イエスが男系、すなわちヨセフの系譜を通してダビデ王の子孫であったことを示しています。この矛盾は、系図が異なるという事実によって、さらに強調されています。学者たちはまた、イエスの受難と復活についての説明において、3つの福音書の間の矛盾を指摘しています。これらの矛盾は、歴史的なイエスの探求に乗り出した人々に、共訳福音書の資料の多くは口承の伝統、つまり神話作りの過程を含む伝統から来ていると結論づける原因となっています。新約聖書の歴史家であるヒュー・アンダーソンは次のように書いています。

最初の3つの福音書(それらの緊密な文学的相互関係のために一般的に共観福音書と呼ばれています)は、西暦65年頃から95年頃までの期間に制作されました。つまり、イエスが亡くなったのが西暦30年頃から、最初の共観福音書がマルコによって書かれたのが西暦65年頃まで、30年以上の時間が経過したことになります。マルコと彼に続く共観福音書の著者たちが福音書を編纂するために描いた資料は、イエスの言動の伝統であり、それはまず、イエスが十字架につけられた後の世代の間に、様々なキリスト教共同体の間で口伝えで広がっていたものです。もし、私たちがイエスの歴史を再構築する問題を少しでも知るためには、この中間期の口承の時代の印象をある程度形成しておかなければならないのです。口伝の中で、キリスト教共同体は、日常生活の様々な状況に対応する中に、また、説教野中に、伝道の中に、礼拝式と賛美の中にイエスの言動の伝統を生かしていました。この流動的なプロセスの中で、イエスに関する伝統が着実に再形成され、適応され、色を増していったことには驚くべきことではありません。特に、それらの伝統を伝える責任者たちは、彼らの主イエス・キリストの名によって新たな改宗者を獲得し、新たな勝利がなされたことを毎日目撃していたからです。


ニシコクマルガラスの巣

ヨハネの福音書は、歴史学者にとっては、複雑な問題を抱えた、「ニシコクマルガラスの巣」である。ボーンカムによれば、ヨハネの福音書は、他の3つの福音書とは性格があまりにも異なっており、「発展した神学的考察」の産物であるため、「二次資料」として扱われなければならないという。確かに、ヨハネの福音書については、ほとんどすべてが異なっています。いくつかの例を挙げてみましょう。

共観福音書では、イエスの働きは一年しか続かなかったとされており、エルサレムへの訪問については一度しか言及されていません。ヨハネの福音書では、イエスの働きは約3年間続き、その間、イエスはダビデの町を何度か訪れています。

共観福音書では、イエスの生涯の主要な場面を同じように選び、同じように描写し、同じ年代順に並べています。しかし、ヨハネは自分で物語を選び、さまざまな状況下で、異なる順序で配置しています。神殿の清めはその一例です。共観福音書では、この出来事はイエスの生涯の終わりに起こりますが、ヨハネはそれを初めとしています。

共観福音書では、イエスはご自身のことを直接話すことはほとんどなく、メシヤであることを主張することもなく、ご自身の地位と正体については非常に寡黙なままです。彼は、自分が神の御子であると判断した人々に、この啓示を秘密にしておくよう要請します。しかし、ヨハネは、イエスに新しい合理的な人格を与え、メシアであることへの疑念を取り除き、「私は世の光である」、「私はいのちのパンである」、「私は良い羊飼いである」、「私は真のぶどうの木である」、「私は道であり、真理であり、いのちである」などの一連の比喩によって、イエスの神性を絶えず主張しています。この福音書の中で、イエス様は合計120回の「私は~だ。(I am)」発言と、234回の「私は(I)」発言、例えば、「私は栄光を称える」「私は話す」「私は知っている」などの発言をされています。

さらに、ヨハネは神秘主義、象徴主義、新プラトン語を用いていますが、それは共観福音書には全く欠けています。このことは、福音書の冒頭で明らかになっています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネによる福音書1:1-5)。


レンガの壁

歴史的なイエスの探求の結果から、ルドルフ・ブルトマン教授(マールブルク大学新約聖書教授)は次のような結論づけました。「確かに、私たちはイエスの生涯と人格については、ほとんど何も知ることができないと思います。」歴史上のイエスについてはほとんど知られていなかったので、ブルトマンとその弟子たちは、イエスについての初期の教会のケリュグマや宣言に完全に注意を向けました。このような焦点は、福音書が伝統のみで構成されており、それゆえに、定義上、不純なものであることを認識することを伴っていました。

クリスチャンは、ケリュグマが存在したという事実に満足しなければならない、つまり、初期のクリスチャンは、イエスを信仰と献身に値する人物として見ていたという事実に満足しなければならない、とブルトマンは主張しました。彼らがイエスについて伝えた伝統は、現代人がイエスを信仰する唯一の理由を提供していると、ブルトマンは主張した。ブルトマンにとって、歴史上の人物を求めて伝統の背後に目を向けようとすることは、誰にとっても不必要なことであり、冒涜でさえある。この諦めと無益さを認めたことで、歴史的イエスの探求は突然、無残な終わりを迎えたのである。


探求の結果

この探求のおかげで、イエスは歴史的な信頼性を欠いた曖昧な人物となってしまいました。福音書は、すべての聖職者と司祭が自分たちのイデオロギーの検証を明らかにするために見ることができるような、リフレクティング・プール(反射池)になりました。解放神学の支持者にとって、イエスはローマの支配を打倒しようとする過激な人物となりました。ニューエイジの信者にとっては、寛容さと普遍的な博愛のメッセージを広める温厚で温和な人物となりました。左翼の学者にとっては、彼は人権と社会正義のための激しい擁護者となりました。

ユナイテッド・チャーチ・オブ・クライストを含む主要な教派の中では、イエスは宇宙的で超越的な人物へと変貌を遂げ、あらゆるライフスタイルや宗教的信念の表現を受け入れ、十戒を含む旧約聖書の厳しい律法から全人類を解放する宗教を確立しました。このイエスは、偽りの神々(アラーを含む)の崇拝、同性愛を実践している人たちの結婚、臨月期の中絶の実践、銃規制の確立を容認しました。これらの展開は、各教派が福音書の教えを拒否しただけでなく、原始キリスト教のケリュグマ(ブルトマンがすべてのキリスト教徒が受け入れ、肯定しなければならないと主張したイエスに関する宣言そのもの)も拒否したために起こりました。こうして、マルシオンのイエスは生き返ったのです。

ベドウィン族の少年が死海の西海岸で、群れからはぐれたヤギの一匹に石を投げ、何かが砕ける音を聞くまでは、イエスを信じる伝統的な信者の主張は絶望的に思えました。

第17章 イエス:その証拠

エッセネ派の人が写本を保存していたとしたら、多くの点でエッセネ派に似ていた初期キリスト教徒は、その文書を放置していたのでしょうか。そして、その写本をヨルダンの荒野にある未知の洞窟の粘土の瓶に閉じ込めて、別のベドウィンの少年がラッキーストーンを投げるのを待っていたでしょうか?これらの推測は、キリスト教だけでなく、ユダヤ教とローマ教の重要な章、例えば、ヨセフスとタチタスの両方の章、そして、偽造されたものではなく、ポンテオ・ピラトの本物の報告書など、多くの「行方不明」となっている文書を含んでいる可能性があります。可能性が高いと思われるのは、今後も発見は続き、重要で驚くべきものも含まれているということです。
   ロバート・コフラン 『イエス、この人は誰だったのか?』ライフ 1964年

私がここにいるのは イエスについてよく言われる、誰かが愚かなことを言わないようにするためです。「私はイエスを偉大な道徳の教師として 受け入れる準備はできていますが、彼が神であるとの主張は受け入れません。」これは私たちが言ってはいけないことの一つです。単なる人間で、イエスが言ったようなことを言った人は、偉大な道徳の教師にはなりません。その人は、自分のことを卵のように言う人と同じレベルの狂人になるか、地獄の悪魔になるかのどちらかになるでしょう。自分で選択しなければならないのです。この男が神の子であって、今もそうであるか、それとも狂人か、もっと悪いかのいずれかです。あなたは彼を馬鹿にして閉じ込めることもできるし、この男に唾を吐いて悪魔として殺すこともできるし、そうでなければ、この男の足元にひれ伏して、この男を主と呼び、神と呼ぶこともできます。しかし,主が偉大な道徳の教師であるということについて,見下したような戯言を言ってはいけません。彼はそれを私たちに未解決のままにしていません。彼はそのつもりはありませんでした。
      C. S. ルイス, 単なるキリスト教


1947年のその日、ベドウィン族の少年が粉砕したものは、隠された洞窟の中にある粘土の壺でした。その壺の横には、古代の黒い巻物が置かれていました。洞窟を探検すると、さらに6つの壺を発見しました。そのすべてにパピルスと銅で作られた古代の写本が入っていました。少年はその巻物をベツレヘムの骨董屋に持って行き、その骨董屋は28ドルで買い取りました。

羊飼いの発見は、最終的にアメリカ東洋研究学校の ジョン・C・トレバー博士の注目を集めました。調査隊が組織されて、より多くの古代の写本のためにクムランの洞窟を細かく調べました。最終的には、11の洞窟で981の異なる写本のコレクションが発見されました。

これらの写本は、放射性炭素年代測定と古地理学的年代測定によって、紀元前200年から西暦68年の間に書かれたものであることが示されました。これらの発見は、シチリア島の国立核物理学研究所によるX線と粒子誘発X線放射試験によって確認されました。


死海文書

この巻物は、イエスの時代に存在していたユダヤ教の主要な宗派の一つであるエッセネ派の神聖な文献が描写されていました。エッセネ派は、死海に近いクムランの洞窟の中で、この世の悪からの逃避を求めていた禁欲的な共同体でした。ここでは、暗闇の中で、彼らは差し迫った神の審判と世界の終わりの到来を待っていました。彼らは自分たちを 「真のイスラエル」、「闇の子供たち」との戦いに従事していた「光の子供たち」と考えていました。

エッセネ派は、初期キリスト教徒と顕著な類似性を持っていました。両者とも終末論的な共同体であり、世界の切迫した変革を期待していました。両者ともダニエル書に基づいて、「人の子」が来て、審判の日をもたらすと信じていました。両者とも悔い改めの手段として動物の生け贄ではなく、洗礼の儀式を用いました。両者はメシアの宴会として、パンとぶどう酒の聖なる食事を共有しました。どちらのグループも、すべての財物を共有し、世俗的な所有物をすべて放棄しました。どちらのグループも厳格に規律され、モーセの律法に厳格に服従した生活をしていました。


ヨハネによる福音書の新しい光

死海写本で最も驚かされたことは、ヨハネの福音書の中にあり、後期ヘレニズム的なものとして否定されていた言葉やイメージが含まれていたことです。エッセネ派と同様に、ヨハネは「真理の霊」、「世の光」、「暗闇の中を歩く者」、「光の子ら」などの言葉を執拗に使っています。巻物と第四福音書の間の類似性は、ヨハネのプロローグと「規律の手引書」と呼ばれるエッセネ派の写本の冒頭を比較することで明らかになります。

この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 (ヨハネ1:2-3)

すべてのことは、彼の知識によって実現した。
神は彼の計画によって万物を定められた。
そして、彼なしでは何もできない。(手引書11:11)

この並列性は、ヨハネによる福音書8章とエッセネ派の共同体の規則との間のこの並置を含め、他の多くの箇所によって補強されています。

「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。 (ヨハネ8:12)

義の子たちはみな光の王子に支配されて光の道を歩むが、偽りの子たちはみな闇の天使に支配されて闇の道を歩む。(『共同体の規則』3)

これらの発見から、ラインホルド・ニーバーは次のように結論づけました。「新約聖書の批判的な研究の多くは、すでに行われていたし、ある意味では終わっていると思われていた。写本の発見は、国民の大きな関心を呼び起こしただけでなく、歴史研究の新しい領域が決して閉ざされることがないことを証明した」と述べています。


目撃者の証言

このような類似点が発見されたことをきっかけに、イギリスの著名な学者たちはヨハネの福音書の歴史性を再評価し始めました。アイリーン・ギルディングは、『第四福音書とユダヤ教礼拝』(The Fourth Gospel and Jewish Worship)の中で、福音書の構成が、ユダヤ教の祝祭日の周期と、三年周期でトーラーを読み終える習慣に基づいていることを示しました。ギルディングは、ヨハネがローマ人によって破壊される前のエルサレムの地理的特徴について詳細かつ正確に言及していることから、ヨハネは福音書に記録された記述の目撃者である可能性が高いと結論づけました。例えば、ヨハネは、エルサレムで発掘された遺跡であるシロアムのプール(ヨハネ9:7)と、ピラトがイエスの裁くために座っていた「ガバタ」または舗装道、現在はダビデの町の真っ只中にある「シオンの聖母の姉妹」修道院の地下聖堂内に存在するローマの舗装道に言及しています。さらに、オックスフォードの学者C.F.バーニーとA.T.オルムステッドは、ヨハネの福音書がアラム語で書かれたのは、西暦40年よりも、そんなに後のことではないと強硬に主張しています。

ヨハネは福音書の中で次のように述べています。「エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。」(ヨハネによる福音書5:2)イギリスの歴史家ジョン・A・T・ロビンソンによると、この遺跡は、都市の破壊で跡形もなくなり、ある考古学者のチームによって1960年代に発見されました。しかし、第四の福音書記者は、彼が書いている時点では、「だった」ではなく、「である」と強調しています。ロビンソンにとって、このことは、第四福音書が目撃者の証言を表している可能性を証明しています。


「ライランドの断片」

第四福音書が書かれたのは、2世紀後半よりもずっと前のことではないかとブルトマンたちが推測している説は、福音書の中で最も早い時期に現存する断片の一つで、(正典かどうかは別として)イギリスのマンチェスター大学のキャンパスにあるジョン・ライランズ図書館に展示されているパピルスの切れ端によって裏付けられています。この断片の表には、ヨハネによる福音書18:31-34のギリシャ語のテキストが書かれています。

そこでピラトは彼らに言った、「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」。ユダヤ人らは彼に言った、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。 これは、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである。さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。 イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。

その断片の裏には、ヨハネによる福音書18:37-38が書かれています。

そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。こう言って、彼はまたユダヤ人の所に出て行き、彼らに言った、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない

この古代の写本や「小さな本」のスクラップは、ヨハネが福音書を書いたとされるトルコのエフェソスから何百マイルも離れたエジプトで発見されました。このような小さな本は、初期のキリスト教徒が「良い知らせ」をギリシャ・ローマ世界に広めるために携行したものです。パピルスと筆跡を分析すると、それが書かれたのは西暦100年頃、イエスの死から70年後であることがわかります。


マグダレンの写本

ヘルマン・サミュエル・ライマルスからルドルフ・ブルトマンまでの聖書学者の主張を打ち砕くように、最近、イギリスの宣教師チャールズ・バスフィールド・ヒューレット牧師が1901年にある人物から購入した3枚のパピルスの断片を再評価したことがありました。繋ぎ合わせてみると、ギリシャ語で書かれた断片には、マタイによる福音書の第 26章から次の行が含まれていました。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。 

1994年、ドイツのパーダーボルンにあるエピステーモ基礎研究所の所長であるカーステン・ペーター・ティエード氏は、走査型レーザー顕微鏡を使って、これらの断片をより詳細に調べました。このような顕微鏡では、パピルスの20マイクロメートル(1メートルの100万分の1)の層を識別して、インクの高さと深さを測定し、正確な年代測定を行い、筆記者が使用した筆記具の角度を決定することができます。ティエードは、マグダレンの断片はマタイの福音書の原本か、すぐに書き写されたものであり、マタイと他の弟子たちがまだ生きている間に書かれたと結論づけ、学界を驚愕させました。 マタイの速記の技術は、広範囲にわたる会話の中でも、彼が一語一句たがわず記録することができたと思われることからも明らかである、とティエードは主張しています。マグダレンのパピルスの発見は、文学的な理論や歴史的な仮説ではなく、物理的な証拠に基づいて厳密に年代が決定されていることから、今もなお特徴的なものです。

こうして、世界を代表する多くの学者たちによる四つの福音書の形式、本文による、言語学的、文学的分析の理論は無に帰したのです。マルコが最初に福音書を編集したわけではないかもしれません。何世紀にもわたって伝統主義者たちが主張してきたように、その区別はマタイに属しています。そして、そのような イエスがネオプラトン主義者のように話しているように見えるヨハネの福音書は、新約聖書の中で最もヘブライ語的であり、マタイの福音書と同様に、目撃者によって書かれたように見えます。

しかし、四つの福音書は信頼できるのでしょうか?

なぜなら、四人の福音書は、復活についての説明においても、多くの点で互いに矛盾しているからです。

第18章 イエス:復活

イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
                                           使徒行伝2:22‐24

初期のクリスチャンは、イスカリオテのユダの後任として選ばれたマッテヤを含む12人の弟子、エルサレムへの運命的な旅にイエスに同行したガリラヤ人、イエスが原因不明の病気を治したマグダラのマリアやイエスの母マリアを含む女性たち、そして初期の教会の指導者となるヤコブを含むイエス様の兄弟で構成されていました(使徒行伝1:14)。彼らは神殿とその周囲の中庭で多くの時間を過ごしました。ほとんどの場合、彼らはソロモンのポルティコとして知られている東側の壁に集まっていました。彼らはやって来ては、一緒に祈り、イエス様の話を交換し、聞く人に「良い知らせ」を広めました。


使徒宣言

使徒信条を具体化させた「良い知らせ」は、信者の最初の共同体(エクレシア)の次のような宣言を表しています。

イエスは待望のメシアであり、ユダヤ人の地上の王国を復活させる者でした。イエスはダビデの子孫であり、預言者イザヤが予言した「苦難のしもべ」のふりをして、同胞のユダヤ人のもとに来られました。イエスは敬虔なユダヤ人としてガリラヤで育てられました。割礼を受け、バル・ミツワーを通過して、神殿で礼拝し、ラビとなりました。バプテスマのヨハネのように,イエスはバプテスマの水を通して悔い改めと霊的再生の必要性を奨励しました。律法のすべての文字を守る必要性を肯定し、アブラハム、モーセ、ダビデ、預言者の宗教をヘレニズム化しようとする人々を叱責しました。

彼は、来るべき王国を中心とした例え話とメッセージを教えました。彼は社会の片隅にいる人々、すなわち貧しい人々、未亡人、病人、追放された人々に親近感を示しました。彼は律法の精神に心を留めなかった支配者たちを、痛烈な言葉で非難しました。彼は奇跡を行い、悪霊を追い出しました。パリサイ人として、イエスは、天使と霊、死者の復活、最後の審判を信じていました。彼は大きな支持者を集め、エルサレムに旅をして、暴力的な行為で、神殿から両替商を追い出しました。

彼は逮捕され、常習犯罪者として宣告され、カルバリー(ゴルゴダ)で十字架につけられました。死後三日後,イエスは死からよみがえられ,信者たちの前に現れました。イエスは天に昇られ、今も神の右手に座られています。イエスは、悪人を裁き、新しいイスラエルを創建するために、栄光のうちに再び来られます。この再臨はすぐに起こります。それは明日、今日、あるいは数時間後に起こるかもしれません。だから初期キリスト教徒は神殿で日々を過ごしていたのです。そこでは主が現れることが運命づけられていたのです。
しかし、彼は来なかったのです。


活動を始める

そして、数週間、数ヶ月が過ぎた後、弟子たちは、同胞のユダヤ人だけでなく、ギリシャ・ローマ世界のすべての住民に福音を宣べ伝える必要があると考えました。この宣教には、ヤコブの下にあるエルサレムの教会評議会の指示と調整が必要でした。初期キリスト教徒が、ユダヤ教の境界内でイエスの血統の下にカリフ(後継者)の地位を確立しようと決意していたので、イエスの弟であるヤコブは適切な指導者でした。エスシャトン(「時代の終わり」)が目前に迫っていたので、イエスの言動を羊皮紙に記録している時間がありませんでした。残された時間の中で、できる限り遠くまで、そして適切に御言葉を宣べ伝えることだけが必要だったのです。


次々と現れる福音書

やがて、この言動はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネだけでなく、多くの人々によって記録され、『トマスの福音書』、『フィリポの福音書』、『真理の福音書』、『ヤコブの秘密の福音書』、『エジプト人への福音書』などが作られました。これらの作品には、少年イエスとその母親についての記述が含まれています。トマスの福音書では、安息日に小川のほとりで遊んでいた幼いイエスが、粘土で十二羽の雀を作り、手を叩いて粘土の雀に命を吹き込み、飛翔させました。律法学者の息子が、安息日にこのようなトリックを行ったことでイエスを非難すると、イエスは彼をイチジクの木のように、枯らしてしまいます。少年の両親は、イエス様に息子を生き返らせてほしいと懇願します。イエスはしぶしぶ応じられましたが、「彼や両親を警告するために、一部の小さな部分だけが枯れたままになっていた」のです。

『ヤコブの秘密の福音書』の中で、サロメは、出産に立ち会った助産師からイエスの奇跡的な誕生を聞いた後、マリアが「処女である」と言われていることを、自分で確かめようとします。マリアが眠っているとき、サロメは洞窟の中に忍び込み、「マリアの状態を確かめるために指を差し出した」のですが、彼女の罪深い好奇心のために彼女の指が焦げてしまいました。


混沌からの秩序    
            
2世紀までに、ギリシャ・ローマ世界では非常に多くの福音書が出回っていたため、誰が「良い知らせ」を正しく伝えているのかを見極めることが困難になりました。この問題はエイレナイオスによって解決されました。エイレナイオスは、すべてのキリスト教徒は、主教の後継者に本当の教えを伝えてきたペテロとパウロによって設立された、ローマ教会に真の教義を求めなければならないと言いました。彼はこう書いています。

真理を知りたいと願うすべての教会の人が、全世界で知られるようになった使徒たちの伝統に思いをめぐらせることは可能です。私たちの時代に至るまでの、使徒とその後継者によって司教に任命された人々を列挙してみると、彼らは異端者たちが絶賛するようなことを知らないし教えてもいませんでした。

しかし、このような量のような、すべての教会の後継者を列挙するにはあまりにも長いので、私たちは、自己満足や虚栄心によって、あるいは盲目と邪悪な意見によって、どのような方法であれ、より適切な人々を集めるすべての人々を、以下の指摘によって混乱させてしまうでしょう。つまり、皆に良く知られた最も偉大で、最も古い教会の司教である、ペテロとパウロという2人の最も輝かしい使徒によって、ローマに設立されて組織された教会の継承であるという指摘によって。そのような教会には、使徒によって人々に公表された後、私たちに受け継がれる伝統と信仰があります。なぜなら、この教会とは、その優れた起源のために、すべての教会が一致しなければならない、すなわち、全世界のすべての信仰者が一致しなければならないからである。そして、この教会の中でこそ、あらゆる場所の信仰者たちが使徒的伝統を維持してきたのです。

教会の公式な正典となった4つの福音書には、初期教会の中心的な宣言、すなわちナザレのイエスが死からよみがえったという事実についての矛盾や矛盾が含まれているという事実を除けば、すべての問題は解決されます。


隅から隅にまで至る矛盾

このような矛盾の原因は何なのでしょうか?

この疑問は、ますます世俗的になりつつある世界では無視できません。また、四人の福音書記者が、記録した出来事の目撃者であるという主張は、問題を悪化させるだけです。矛盾について、ポール・エルマンは次のように書いています。

「福音書は、実際に何が起こったのかを知りたい歴史家にとって、非常に問題の多いものです。これは特に、イエスの復活に関する福音書の記述に当てはまります。福音書は食い違いに満ちており、その中には一致させることができないものもあります。実際、福音書は、その復活の物語のほぼすべての詳細について、符号していません。」

 同様に、ポール・トビンは次のように述べています。「矛盾は、空っぽの墓の発見を取り巻く出来事に関する、4つの福音書の説明のほぼすべての詳細な部分に存在しています。. . . 他のすべての詳細は、私たちが、それらの話の一つでも、歴史的に真実であると信じる理由がないほど、あからさまに、お互いに矛盾しています。.福音書の中のイエスの(復活後の)出現の報告に関する非常に多様な性質は、それらの歴史性に反しています。福音書や他の新約聖書の情報源では、復活したイエスの出現を取り巻く出来事について、調和のとれた証人を私たちに提示することさえできません。すべての主要な詳細で互いに矛盾している証言に、重みを与えることができないことは言うまでもありません。


事実を正確に理解していない

マタイは、復活祭の朝、マグダラのマリアと「もう一人のマリア」(28:1)の二人の女性が墓に行ったと書いています(28:1)。マルコは、三人の女性(マグダラのマリア、マリア、ヤコブの母、サロメ)が墓を訪れたと主張しています(16:1)。ルカは、神秘的なヨアンナを含む女性のグループについて言及しています(24:1, 10)が、ヨハネは一人の女性(マグダラのマリア)だけが現れたと書いています(20:1)。

マタイは激しい地震が起こったことを記録していますが(28:2)、他の福音書記者たちはこの驚くべき項目について沈黙しています。マタイとマルコは、女たちが墓で一人の天使を見たと主張しています(マタイ28:2-3)。ルカは「輝いた衣を着た」二人の男性について書いています。(24:4)。ヨハネは、「白衣を着たふたりの御使」が、イエスの体があった場所に、「ひとりは頭の方に、ひとりは足にすわっていた」と語っています。(20:12).

マタイは、マグダラのマリアが到着したとき、墓は閉じられていたと言い、天使が天から降りてきて、石をわきへころがし、その上に座ったと言います(28:2)。他の福音書記者たちは、マグダラのマリア(ルカの場合は他の女性)が到着したとき、墓はすでに開かれていたと証言しています。

マタイ、ルカ、ヨハネによると、弟子たちはすぐにマグダラのマリア(ルカの場合は騒々しい女たち)から、開かれた墓のことを知らされたそうです(マタイ28:8、ルカ24:9-11、ヨハネ20:2)。マルコは次のように書いています。「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(16:8)。

ヨハネの福音書では、マグダラのマリアは、イエスの遺体がなくなったため、墓の前で泣いています。振り向くと、目の前に誰かが立っているのが見えましたが、それがイエス様だとは気づきませんでした。この箇所は次のように続けられています。

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。

マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。

イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。

マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。(20:15-17)

しかし、マタイは、マグダラのマリアと他のマリアは、空っぽの墓で泣いていたのとは程遠く、むしろ 「喜びで満たされていた」と主張しています。さらに、マタイでは(マルコと同様に)、イエスは女性たちにイエスに触れることを許しています。マタイは次のように書いています。

そこで女たちは恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。そのとき、イエスは彼らに言われた、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。(マタイによる福音書28: 8‐10)


敬虔な発明?

四つの福音書をざっくりとした比較から、アール・ドハーティのような学者が結論を出しています。「マタイ、ルカ、ヨハネの福音書のうち、どの二つの福音書にも、ましてや三つの福音書にも、共通して復活の姿を見せた例は一つもありません。女性には共通の要素がありますが...ここでも詳細は異なっており、整合性がありません。その(復活したイエスの)出現が、イエスの信奉者に対してであるという点にも一定の共通点があります。しかし、それを超えると、復活したイエスの外観の詳細はすべて大きく異なり、多くの点で、完全に相容れないものです...マルコの福音書には復活の記述が全くないという事実を考慮すると、圧倒的に説得力のある推論は、福音書の中のそのような記述はすべて後の伝道者の発明であると結論づけるのに、十分な論理的思考を必要としません。」

しかし、確かにそのイースターの朝に何かが起こって、ガリラヤの預言者が直線的な歴史の中のある時と場所で死者の中からよみがえったという言葉を広めるために、男女のグループが家や家族から離れていくことになったのではないでしょうか。

一体、何が?


幻覚仮説

一部の人々は、復活の話は使徒的幻覚から生じたと結論付けています。 ルドルフ・ブルトマンは、次のように論じています。「歴史家は、弟子たちが地上での生活の中でイエスと一緒に楽しんだ個人的な親交から、その復活に対する信仰をある程度説明でき、復活の様子を一連の主観的なビジョンに還元することができるでしょう。」 同様に、ヨハネスワイスは、「(復活の)出現は外見的な現象ではなく、信仰が疑念を超えて勝利を収めた内面の闘争の目標にすぎなかった。・・・彼らにはそう見えたが、出現は彼らの信仰の基礎ではなく、その産物であり結果であった。」と主張します。

しかし、この仮説には非常に問題があります。定義によれば、幻覚とは個人的な出来事であり、外部からの参照や対象がない純粋に主観的な体験である。心理学者のゲイリー・コリンズは次のように書いています。「幻覚は個別に発生するものです。その性質上、一度に特定の幻覚を見ることができるのは一人だけです。それらは明らかに集団の人々によって見ることができるものではありません。また、一人の人間が他の誰かに幻覚を見せることも不可能なのです。幻覚は、この主観的で個人的な意味でしか存在しないので、他の人がそれを目撃することができないことは明らかです。」しかし、福音書記者たちは、復活されたイエスは、様々な時と場所で多くの異なる人々に現れたと主張しています。マグダラのマリアにも、ペテロにも、エマオに行く途中の二人の弟子にも、使徒たちにも、使徒たちのグループにも、復活されたイエス様に触れなければ信じないトマスという懐疑的な人たちにも、イエスは現れました。さらに、使徒パウロは、復活したイエスは、自分だけでなく、一度に五百人の人々にも現れたと主張しています。

弟子たちが、死んで埋葬されたイエスを彼らの前に生きてよく見えるようにした催眠術後の暗示や、集団精神病の奇妙な形の餌食になったとしても、その仮説では、報告されている、非常に現実的な、(イエスの死体が存在しない)空になった墓を考慮に入れることができませんでした。


蘇生仮説

もう一つの仮説は、イエスは十字架で死ななかったというものです。この考え方は、『死んだ男』の中でD.H.ローレンスによって打ち出されました。この物語では、イエスはあまりにも早く十字架から下ろされ、墓の中で蘇生して、彼が肉身で彼らの前に現れたとき、彼の弟子たちを驚かせました。蘇生したイエスはその後、エジプトに向かい、異教の神オシリスとして彼を間違えたイシスの巫女と結婚して、夫婦の至福を享受しました。同様の理論は、マイケル・バイジェント、リチャード・リー、ヘンリー・リンカーンによって、事実とされている聖なる血、聖杯に定められています。同様の理論は、マイケル・バイジェント、リチャード・リー、およびヘンリー・リンカーンによって、事実に基づくとされている『聖なる血、聖杯』に明記されています。

この説明によると、イエスはエルサレム郊外の洞窟で、愛人のマグダラのマリアによって蘇生されました。彼は、南フランスで家族を養うために、元売春婦と一緒に出発する前、「さよなら」と言うために彼の弟子たちの前に現れました。同じ考えで違った解釈をした『過ぎ越しの陰謀』(The Passover Plot)では、著者のヒュー・ショーンフィールドは、十字架上のイエスに供えられたスポンジ(ヨハネ19:29‐30)は、酢ではなく、死の様相を誘発するために何らかの薬物に浸されていたと主張しています。

残念なことに、兵士がイエスの脇腹に槍を突き刺したため、実際にイエスを殺し、ガリラヤから来た預言者がメシアであることをユダヤ人に確信させるために行われた過越祭の陰謀が失敗に終わったのです。ショーン・フィールドは、墓でマグダラのマリアが見た男は、死んだイエスを復活させようとして送り込まれた人物であると述べて、彼の「ノンフィクション」の作品を締めくくっています。したがって、復活は単に身元を間違えた不幸なケースだったというのです。

イエスの蘇生の概念は、原理主義者の狂信者によってではなく、むしろチュービンゲンの講釈師であり、復活はもっともらしい神話であると信じていたデイヴィッド・シュトラウスによって、150年以上も前に論破されました。彼の『イエスの新しい人生』(1865年)で、シュトラウスは書いています。

「墓場から盗み出した半死半生の存在が、弱って病気になり、治療を求めて這いずり回っていたのでは、弟子たちに『彼は死と墓を克服した者であり、生命の王子である』という、彼らの将来の聖なる職務の根底に根付く印象を与えることは不可能です。このような蘇生では、いかなる可能性によっても、彼らの悲しみを熱狂に変え、彼らの尊敬を崇拝に昇華させることはできませんでした。」


復活の真実

イースターの朝に何が起こったのでしょうか?

復活の証拠は内部にあります。四福音書よりも前に書かれたパウロの書簡の中にあり、最も初期のクリスチャンの書物の中に留まっています。コリントの信徒への最初の手紙の中で、パウロは復活が福音の不可欠な部分であることを述べています。

兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。
(コリント人への第一の手紙 15:1-9)

この箇所は、パウロがこの言葉をパピルスに書き込んだ西暦55年には、復活されたイエス様が、自分やシモン・ペテロ、他の弟子たちだけでなく、まだ生きていた500人以上の人々にも見られていたことを曖昧さを残さないように明確に述べている点で注目に値します。

パウロは続けて次のように書いています。

さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。 すると、わたしたちは神にそむく偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
(コリント人への第一の手紙 15:12-19)

したがって、復活は初代教会の中心的な宣言でした。この出来事を信じなければ、信仰は無意味なのです。

この証言の重要性について、オハイオ州オックスフォードの歴史学の准教授であるエドウィン・M・ヤマウチ氏は次のように書いています。「歴史的証拠として(パウロ)のリストに特別な権威を与えているのは、500人の兄弟たちのほとんどがまだ生きていることに言及していることです。聖パウロは実質的にこう言っています。『私を信じられないなら、彼らに聞けばいい』と言っています。その出来事から30年以内に書かれ、本物と認められた手紙のそのような声明は、およそ2000年前に実際に何かが起こり、人がそれを享受したいと望めたことが事実であるという強力な証拠なのです。


決定的証拠

復活が現実であったという、もう一つの証拠は、最初のキリスト教徒の運命にあります。ヘレニズムのユダヤ人であったステファノは、最初のキリスト教の殉教者となり、その中にはイエスの家族のメンバーも含まれていました。一世代のうちに、何百人もの男女が、ほとんどが敬虔なユダヤ人で、ナザレのイエスが死からよみがえったという信仰を宣言したことで、最も屈辱的で苦痛な死を受けることになりました。ある者は石で打たれ、ある者は公共の場で野生動物に引き裂かれ、またある者は異様な方法で、十字架につけられることになるりました。さらに、イアン・ウィルソンが指摘するように、彼らは断固として、死の場に向かいました。喜んで逝く者も。彼らの率直さと自己犠牲の見返りに、物質的な利益や世間からの称賛を期待することもなく。

復活の決定的な証拠は,彼らの血にあります。


イースターの終わり

しかし、現代のグノーシス主義を支持するキリスト教会にとって、復活はもはや中心的なものではありません。マルシオンと彼の仲間のグノーシス主義者にとって、イエスは最高の光の領域から世界に来て、純粋な精神のままでした。このイエスは、旧約聖書の神が宇宙を形成した物質に浸ることはなかったのです。したがって、受肉も受難も復活もありませんでした。

この教えに沿って、プロテスタントの主要な教派は、讃美歌からキリストの血についての言及をすべて排除し、聖域からすべての十字架を排除しました。彼らが崇拝するグノーシスのイエスは、ダビデの王国を復活させる待望のメシアでも、世の罪を贖う苦難のしもべでもありませんでした。イエスは、過去も今も、純粋な霊であり、人々に自分の中に残る火花(ニューモ)を思い出させ、最高の天ですべての光の源と再会することを保証してくれます。

この神学の中では、十字架と空っぽの墓はおろか、懺悔と聖餐も必要ありません。

第19章 イエス:王国

ここでは、この謎めいたヤコブの正体に大きな関心が集まっています。このヤコブは、教義や伝統的なユダヤ教のやり方を守ることについて、ペテロにさえも反抗する権限を持っていたようです。驚くべきことは、このヤコブがイエスの兄弟であったということです。このことは、紀元62年にサドカイ派の大祭司に不当な処刑を受けたヤコブのことを、純粋な悲しみをもって描写したヨセフスによって証明されており、彼は彼のことを「キリストと呼ばれるイエスの兄弟」と明確に呼んでいます。これがヨセフスの手違いではないことは、パウロがエルサレムに行った旅の中で述べていることでしっかりと裏付けられています。「主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。」(ガラテヤ人への手紙 1:19)また、ヘゲシッピウスとエウセビウスの著作でも裏付けられています。実際、マルコの福音書(もちろん、イエスの「処女」の誕生についての記述はありませんが)でも、ナザレの人々がイエスについて次のように述べている一節で、同じ情報が確認されています。「この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。(マルコによる福音書6:3)                                   イアン・ウィルソン、『イエス:証拠』

ガラテヤ人への手紙の中で、パウロはペテロがアンティオキアで無洗礼な異邦人と飲食をしていたことを描写していますが、それは「ヤコブのもとからある人々が来る」まで飲食した後、彼に「不浄な」者から遠ざかるようにと命じたからです(2:11-12)。しかし、パウロはこの神秘的なヤコブを特定していませんが、このヤコブは、初代教皇として崇められているペテロにそのような権威を振りかざしていましたが、ローマ・カトリック教会の創始者は、抗議の声を上げることなく、彼の要求を受け入れました。さらに、ヤコブからの言葉は、パウロの宣教仲間であったバルナバが弟子を捨て、異邦人の間での働きを放棄するのに十分なものでした。

使徒行伝では、ヤコブは紹介もなく、語り手の発言もなく、ただ不意に現れるだけです。これは、使徒行伝の作者が、すべてのクリスチャンがヤコブの正体と、彼が君主として初代教会を支配していたことを知っていることを想定していたことを暗示しています。


イエスの兄弟

ヤコブとは誰だったのでしょうか。

彼は、十二使徒の一人となったゼベデの子ヤコブではなく、イエスの弟でした。マルコによる福音書には、ナザレの人々がイエス様がシナゴーグで話した後、イエス様の正体に疑問を持ち、尋ねたことが書かれています。「この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。

2002年に、「ヤコブ、ヨセフの息子、イエスの兄弟」という碑文が付された中東の古代の納骨堂(棺桶)が発見された時、ヤコブの正体が広く注目されました。この発見は国際的な大見出しとなって、神学界にセンセーションを巻き起こしました。本物であれば(その問題は決定されてないままである)、人工遺物は、イエスの存在の文字通り石に刻まれた、最初の考古学的証拠を表すだろうし、それはイエスには兄弟がいたことと、マリアが 「永遠の処女」ではなかったことを物語る証拠を提供することでしょう。

ヤコブは誰だったのでしょうか?

その答えは、新約聖書やキリスト教初期の文書の中に残っています。


復活の姿

コリント人への第一の手紙の中で、パウロはイエスがヤコブに復活の姿を見せたことを報告しています(コリント人への第一の手紙15:8)。この出現は四つの福音書のどれにも記録されていませんが、聖ジェロームが引用した失われた「ヘブル人への福音書」には、次のような謎めいた抜粋が含まれています。

しかし,主は大祭司のしもべに覆いを与えられたとき,ヤコブのところに行って彼に現れた。ヤコブは、主の杯を飲んだその時から、眠っている者から主がよみがえるのを見るまで、パンを食べないと誓っていたからである。. . . 「食卓とパンを持って来なさい 」と主は言われた。主はパンを取って祝福し,それを割って義人ヤコブに渡し,彼に言った。「私の兄弟よ、あなたのパンを食べなさい。人の子は眠っている者からよみがえったのです。」


ヤコブの権威

使徒行伝の中で、ヤコブは二人の使徒の証しを聞いた後、預言者アモスの一節を引用して、洗礼を受けていない異邦人に福音を伝えることについての結論を述べています。

そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。 (15:19-21)

使徒行伝には、パウロがキリスト者のために集めたお金をエルサレムに届けに来たとき、パウロはヤコブに報告しなければならなかったことが記録されています。ヤコブは、パウロがユダヤ人であることを証明し、律法に反する教えをしているという噂を否定するために、神殿で儀式的に身を清めるよう主張しました。ヤコブはさらに、パウロもヤコブと同じようにナザレ人の誓いを立てるべきだと言いました。


ヤコブとイエス

ナザレ人の誓いを立てた者は,誓いの期間中,自分の人生のある面を犠牲にしなければなりませんでした。彼らはワインや発酵した飲み物を完全に禁じる必要がありました。また、ぶどうや、レーズンを含むぶどうから作られた製品を食べることも禁じられていました。髪を切ったり、髭を剃ったりすることはできませんでした。ナザレ人は、たとえそれが親しい人のものであったとしても、死体に近づくことは許されませんでした。死体によって汚されないようにするためです。ナザレ人は神の礼拝と御心に完全に奉献しなければなりませんでした。

ヤコブは、彼のいとこの洗礼ヨハネのように、ナザレ人の誓いをしていたという事実は、イエスもまた誓いを立て、彼の信奉者の中で禁欲的な生活をしていた可能性に光を当てています。 綿の服を含めて、すべての地上の楽しみを避け、祈りと断食の厳格な規則を維持し、髪を切ったり、ひげを剃ることを拒否しています。新約聖書の学者ジェフリー・バッツは次のように書いています。「彼(ヤコブ)は誰よりも『主の心』を知っていました。もし彼が知っていたとしたら、今日のクリスチャンは、イエスとその教えについての彼らの最も深い思い込みや信念を再評価しなければならないでしょう。同様に、1世紀のキリスト教の第一人者であるバリー・ウィルソン教授は、次のように付け加えています。「ヤコブのように、イエスのように。20代のイエスが実際に何を教えていたのかを示す最良の指標は、彼の兄弟であるヤコブである可能性が高いのです。ヤコブはその人物(イエス)と、彼が何のために戦っているのかを知っていました。彼は、イエスが自分たちと同じように、律法を教え、実践していることを知っていました。ヤコブの言動は、歴史上のイエスの信仰と実践に関する今日の私たちが持っている最高の手がかりです。」


義人ヤコブ

ヤコブの禁欲生活について、初期のキリスト教の謝罪者ヘゲシッポス(AD 110-180)は次のように書いています。

彼は母の胎内から聖なる者であり、ぶどう酒も強い酒も飲まず、肉も食べなかった。剃刀も頭につけず、油を塗ったり、風呂に入ったりもしなかった。彼一人だけが聖なる場所に入ることを許された。というのは、彼が着ていたのは毛織物ではなく、麻の衣だったからである。また、彼は一人で神殿に入る習慣があり、ひざまずいて民のために許しを請う姿がよく見られたので、神を礼拝するときにひざまずいて民のために許しを請い続けた結果、彼のひざはラクダのように硬くなった。その非常に大きな正義のために、彼は「正義の人」と呼ばれ、オブリアスと呼ばれました。これはギリシア語で「民の盾」「正義」を意味し、預言者たちが彼について宣言していることに従っています。さて,人々の間に存在し,回想録でわたしが述べた七つの宗派の一部が,彼に「イエスの門とは何か」と尋ねたので,彼は自分が救い主であると答えました。これらの言葉からイエスをキリストだと信じた人もいました。しかし,上記の宗派は,復活も復活も信じていませんでしたし,すべての人が自分の行いに応じて与えられるようになることも信じていませんでした。しかし,信じていた多くの者は、ヤコブの言葉に基づいてそうしました。

いわゆるクレメンタイン・ホミリオン(クレメンス1世による著書)と呼ばれるキリスト教の最初の世紀のものには、使徒ペテロがヤコブに宛てた手紙が含まれており、イエスの兄弟を「主であり、司教の中の司教であり、エルサレム、ヘブル人の聖なる教会、そして神の摂理によって見事に建てられた、あらゆる場所の教会統治する者、長老と助祭、そして残りの兄弟たちと共に、いつも平和でありますように」と書いてあります。原始キリスト教の唯一の支配者としてのヤコブの高貴な地位は、この一節を含むトマスの福音書によってさらに支持されています。

弟子たちはイエスに言った。「私たちはあなたが私たちから離れていくことを知っています。誰が私たちの指導者になるのですか?」イエスは弟子たちに言った。「あなたがたがどこにいようと、義人ヤコブのところに行きなさい。天と地が生まれるために。」


ヨセフスとヤコブ

重要なことは、ヤコブは、イエスと洗礼ヨハネを除けば、ヨセフス(AD37-100)が彼の代表的な著作である「ユダヤ古代史」の中で言及した唯一の新約聖書の人物です。ヨセフスによると、ヤコブは一世紀のエルサレムにおいて、彼自身のコミュニティだけでなく、「正統派」ユダヤ人の間でも非常に重要な人物でした。ヨセフスは、「市民の中では最も公平なマ人物」であり、庶民から絶大な賞賛を集めていたと書いています。このような民衆の支持は、大祭司アナニアスの地位を脅かすものであり、大祭司アナニアスは、彼がモーセの律法に違反していて、石打ちの刑に処されるべきだと、ヤコブをユダヤ人の法廷に引きずり込もうと画策しました。ヨセフスによると、エルサレムの宗教的に観察力のあるユダヤ人たちは、最も敬虔な市民の一人に対して、明らかな不正と無効な処刑命令が下されたことに激怒したということです。この古代の歴史家によると、ユダヤ人たちはアグリッパ王に嘆願し、王はすぐにアナニアスを神殿の大祭司から解任しました。

この記述は物語っています。アナニアスはわずか数ヶ月の間だけ、その地位にいましたが、非常に影響力のある家族の出身で、過去60年間神権を支配していました。これは,ヤコブが強力な支持者を持つ重要な人物であり,尊敬されていたことを示しています。ジョン・ドミニク・クロサンを含む学者の中には、イエスが昇天する前にもヤコブはエルサレムにいた可能性があり、イエスの兄弟が来るべき王国のメッセージを宣言していた時には、尊敬されていたパリサイ派の指導者だったのではないかと推測している人もいます。


ヤコブの殉教

ヘゲシッポスによると、アナヌス(アナニウス)は聖職者としての引退の夜を静かに過ごさなかったのです。ヤコブに対する彼の怒りは、殺人的な怒りへと激しさを増しました。安息日の始まりにヤコブが神殿の欄干に現れて、人の子が「神の右手に座る」と宣言したとき、アナヌスとその子分たちはヤコブを地面に投げ落としました。激しい落下の後,ヤコブがまだ生きていたのを見て,彼らはヤコブを石打ちにして,フラークラブで刺し殺しました。ヘゲシッポスによると、ヤコブは瀕死の状態で、彼を殺そうとしている者に神の赦しを求めてこう言いました。「私たちの父なる神である主よ、どうか彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです。」この戦争で、彼の最後の言葉は、彼の兄弟の言葉と同じでした。


キリスト教のカリフ

初期の教会におけるヤコブの君主的な権威は、イエスの死後、イエスの信奉者たちがダビデの血統に沿ってカリフ制を確立しようとしたという、20世紀初頭の神学者アドルフ・ハルナックの主張を支持しています。ヤコブはイスラエルの十二部族を代表する十二人の弟子たちに助けられました。ヤコブが生きている限り、エルサレムはキリスト教運動の中心地であり続け、彼が主宰した評議会は、終末の日までの短い期間に、ユダヤ人の人々の生活の糧となり、導きとなりました。

使徒行伝(5:12-16)によると、エルサレムのユダヤ人の間でのヤコブの働きは、有り余る実を結びました。多くの人々がイエスが待望のメシアであるという福音を受け入れ、初期キリスト教運動の反対派の間に混乱を引き起こしました。新約聖書は、パウロの宣教努力に大きく傾斜していますが、エルサレムの使徒たちの努力やヤコブの統治にはあまり光を当てていません。それにもかかわらず、彼らの成功が、最終的にはステパノと主の弟の殉教をもたらした。


ヤコブがユダヤ人であること

新約聖書の終わり近くに隠されていますが、ヤコブの手紙は真正性の水準があり、ヤコブ自身が書いたと思われると学者たちは認めています。イギリスの学者ジョン・A・T・ロビンソンは次のように書いています。「この手紙には、教会や教会の秩序や、パウロの手紙に見られるような、異邦人が教会の一員になるための条件についての議論が発展した形跡がありません...。この手紙は、おそらく47年頃に書かれたと思われます。そうなると、キリスト教の書物の中で、現存する最初の完成したものになるでしょう。

ヤコブが旧約聖書とモーセの律法に献身的に取り組んだことは,彼の手紙の次の一節を見れば明らかです。

わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。(ヤコブの手紙 2:14-24)

パウロの手紙とは異なり、ヤコブの手紙は、山の上の説教をはじめとするイエスの教えを反映しています。上に引用した箇所は、マタイによる福音書7:15-20の中でイエスが言われていることと驚くほどよく似ています。

にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。


イエスのように、ヤコブのように

この手紙は、律法の指示に従うことに基づいています。ヤコブはこう書いています。

「もしあなたがたが、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」という聖書の言葉に従って、このきわめて尊い律法を守るならば、それは良いことである。しかし、もし分け隔てをするならば、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者として宣告される。なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。(2:8-11)

これは、山上の垂訓からの教えと一致しています。
.
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。(マタイによる福音書5:17-20)

ヤコブはこう書いています。

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27)

とあります。この教えは、イエス様の次の言葉を反映しています。

自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイによる福音書6:1-4)


兄弟の類似性

兄弟の教えの間の類似点は持続します。ヤコブは言います。

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」この教えは、イエスが言われた山上の垂訓から導き出されたようです。「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
(マタイ5:11‐12)

ヤコブは忍耐について次のように書いています。

よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。(4:13‐15)

彼は続けます。

見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。 (5:7-8)

 この教えと山上の垂訓の次の一節との間の類似性は今でも顕著です。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイによる福音書6:25-34)

ヤコブとパウロ

その書簡からも明らかなように、ヤコブは、キリストの贖罪と復活の業への信仰だけで、人は救われるという信念を堅持するパウロとは、イエスの教えに対する理解が根本的に異なっています。多くの学者は、信仰と律法に関する二人の見解の間の明らかな矛盾を見落とすことによって、二人の使徒を一致させようとしてきました。他の学者は、そのような努力の無益さに気づき、神学的な結束のために、主の兄弟からの手紙を無視することを選んでいます。信仰による義認の教義には、一般的に道徳をなおざりにすることにつながる危険性が内在しています。パウロ自身も生きている間にそのような事態に直面していましたし、キリスト教共同体は、人は信仰だけで救われ、善行は「汚れた衣」に過ぎないと説く一方で、道徳を強制し、奨励しようとすることに常に苦労してきました。このような理由から、ヤコブの手紙は、極端なパウロ主義に対する牽制とバランスをとるという重要な役割を果たしてきました。

主にヤコブとパウロの間にある神学的な裂け目のために、新約聖書の学者の中には、ヤコブとエルサレム教会の信仰は、規範的なキリスト教とは全く対照的であるという結論に達した者もいました。『イエスの兄弟と失われたキリスト教の教え』(The Brother of Jesus and the Lost Teaching of Christianity)の中で、ジェフリー・バッツは次のように書いていま。「すべてのことは、いわゆる『エルサレム教会』の指導者たちは、後の時代のキリスト教徒にとって理解できるような意味で、キリスト教徒ではなかった」という結論を示しています。キース・エイカーズは、彼の作品『失われたイエスの宗教』の中で、似たような結論を出しています。

「イエスのユダヤ人らしさを理解しようとする本は、今では膨大な数になりました。しかし、ユダヤ的なキリスト教の問題に立ち向かおうとする人はほとんどいません。この消極的な姿勢の理由は、見つけるのは難しいことではありません。ユダヤ的なキリスト教の見解は、ほとんどのキリスト教徒の見解ではありません。神学はもちろん、本質的にはユダヤ教の一神教の一形態であることを受け入れることができないのです。」


最初のいとこ

初代教会の統治者であるヤコブの後継者として、エルサレムの公会議は、ヤコブとイエスの最初のいとこであり、父クレオパスを持つシメオンを選びました。ヘゲシッポスは次のように書いています。「正義のヤコブが主と同じように殉教した後、主の叔父の子孫であるクレオパスの子シメオンが再び司教となり、彼の選出は主の近親者として皆によって進められた。」

第一次ユダヤ・ローマ戦争(AD 66-70)の時、エウセビウス(AD 265-339)によると、シメオンの指導の下、ヤコブの従者たちはヨルダンのペラに移った。彼らはヘブライの安息日、割礼の儀式、ユダヤ人の聖なる日を守り続けました。彼らは礼拝堂で、ほとんどユダヤ人のみに向かって説教しました。ヤコブ、シメオン、エルサレムの教会のおかげで、ヘブライ語での礼拝の形式、儀式、法衣は、キリスト教の礼拝に取り入れられました。生け贄となる聖なる小羊は、罪を償う「神の小羊」であるアグヌス・デイとなり、キリスト教の祭壇で人類のために身代わりとなって、その死が捧げられました。そして、ギリシャ・ローマ世界全体でキリスト教の集会を管理するための長老(司祭)の任命は、ユダヤ教の散らばった礼拝堂を管理する方法をモデルにしていました。


家系(ライン)の終焉

エウセビウスによると、トラヤヌス帝の治世(AD93-110)の間に、シメオンとイエスのすべての血縁者は丸め込まれ、死刑に処されました。殉教者の中には、イエスのもう一人の兄弟であるユダの孫も含まれていました。教会がイエスの血統に沿って確立しようとしていた一時的な王国は終焉を迎えました。トラヤヌスはその日の最後まで、ダビデの王国が再びパレスチナの砂漠から立ち上がることを恐れていました。ヘゲシッポスは次のように書いています。

「その期間まで、教会は純粋で腐敗していない処女のように残っていました。救いの説教の健全な規則を勝手に書き換えようとする人がいたとしても、彼らはまだ隠れていて、暗い場所に潜んでいたからです。 しかし、使徒たちの聖なる一団がさまざまな方法で命を落とし、自分の耳で神のような知恵を聞くことを賜った世代の人たちが亡くなったとき、その時、神なき誤りの集団が、偽りの教師たちの背信行為によって、立ち上がりました。偽りの教師たちは、使徒たちが誰一人としてもはや生き残っていないことを知って、むき出しの高揚した頭脳で、『偽りの知識』を説くことによって、真理の説教に反対しようとしました。」


アクイナスと律法

中世を通して、ヤコブの手紙はキリスト教徒に崇拝され続け、キリスト教の教義をモーセの律法から切り離そうとする試みは一切行われませんでした。このことは、トマス・アクィナスの『神学大全』の次の一節から明らかです。

人が神に結びつくほど、その状態は良くなる。それゆえ、ユダヤ人が神の崇拝に結びつくほど、他の民族よりも優れていた。そのため、申命記4:8には、「また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。」と書かれています。このように、この観点からは、聖職者の状態は、平信徒の状態よりも、修道者の状態は、世界に住んでいる民間人の状態よりも優れています...

異邦人は、単なる自然律法の下でよりも律法の遵守の下で、より完全に、より確実に救いを得たのです。そしてこの理由で、彼らは彼ら(クリスチャン会衆)に受け入れられました。 したがって、平信徒は聖職者の階級に、そして世俗人は宗教家の階級に認められています。彼らは律法なしで救われることができるけれども。


「藁(価値のない)の手紙」

この状況はプロテスタントの宗教改革によって変わりました。マルティン・ルターは、人は信仰だけで義とされるという教えを支持する中で、善い行いの効力を否定するための主要な障害となっているのがヤコブの手紙であることに気づき、彼が所持していたすべての聖書からそれを引き抜いたのです。ルターは次のように書いています。「一言で言えば、聖ヨハネの福音書とその最初の手紙、聖パウロの書簡、特にローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、そして聖ペテロの最初の手紙は、たとえ他の書物や教義を見たり聞いたりすることがなかったとしても、あなたにキリストを示し、あなたが知ることが必要であり、救いとなるすべてのことを教える書物です。聖ヤコブの手紙は、他のものに比べれば、本当に価値のないの手紙(藁の手紙)であり、福音の本質を何も持っていないからである。」

ルターのヤコブの手紙に対する反応は、彼の悪意に満ちた反ユダヤ主義によって組み立てられました。ユダヤ人に対する彼の痛烈な批判(「ユダヤ人とその嘘について」)の中で、彼は次のように書いています。

私たちクリスチャンは、この拒絶され、非難された人々、ユダヤ人をどうすればよいのでしょうか。彼らは私たちの中に住んでいるので、私たちは彼らが嘘をついていること、罵っていること、冒涜していることを知っているので、彼らの行動を許すことはできません......私はあなた方に心からの忠告をします。

まず、彼らの礼拝堂や学校に火を放ち、燃えないものはすべて埋めて土で覆い、二度と彼らの石や燃えかすを見ることのないようにしなさい。これは、私たちの主とキリスト教の名誉のために行われるべきことであり、神は私たちがキリスト教徒であることを見て、そのような公然とした嘘、罵り、御子とキリスト教徒への冒涜を容認したり、故意に許容したりしないようにするために

第二に、私は彼らの家も荒らされ、破壊されるように助言します。なぜなら、彼らは彼らの礼拝堂と同じ目的を追求しているからです。その代わりに、彼らはジプシーのように、屋根の下や納屋の中に宿っているかもしれない...。

第三に、私は、そのような偶像崇拝、嘘、呪い、冒涜が教えられているすべての祈りの本やタルムードの著作を、彼らから取り上げるように助言します。

ルターのユダヤ人への憎悪は、旧約聖書のデウス・アブソンディトゥス(「隠された神」)とイエスのデウス・レヴェラトゥス(「啓示された神」)を区別することにつながったのです。このようにして、彼はマルシオンとのつながりを築き、第三帝国の勃興だけでなく、現代のキリスト教徒がグノーシス主義を広く受け入れるようになったのです。

賽は投げられたのです。

第20章 イエス:剣の必要性


非暴力は手段であると同時に、目的でもあると考えることができます。我々が待ち焦がれた、暴力や戦争のない、飢えや貧困のない、不正や抑圧のない、神の愛と癒しに満ちた未来の世界を表すという意味で、非暴力は目的です。イエスはそれを「神の王国」と呼び、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはそれを「最愛の共同体」と呼び、ウォルター・ウィンクはそれを「支配のない秩序」と呼びました。非暴力はまた、2つの方法で手段として考えることができます。紛争に取り組むための技術として、そして自分の人生を生きるための倫理や哲学として。
   長老派教会(アメリカ)『平和と不穏な状況の報告書、2012年』

2012年の長老派教会(アメリカ)の総会では、「非暴力」という抽象的な概念がイエスの聖職者としての職務の中心的なテーマである、と主張した「平和と規律中間報告書」が発表されましたが、非暴力は、新約聖書の中でイエスや他の誰にも使われていない20世紀の言葉です。報告書は、イエスが 「ローマと神殿の両方の権威者を脅かす、預言的で非暴力的な生活を送っていた」と主張しています。それはキリストを「悪と戦ったり、逃げたりするのではなく、非暴力的な手段で悪に抵抗し、時には苦しむことを選ぶことで、攻撃の裏をかいたり、逆転させるアプローチ」という戦略の主唱者に還元しています。それは、イエスのたとえ話や、罪を滅ぼすための神の怒りと決意を示す他の新約聖書の聖句にある暴力的なイメージを重要視していません。この報告書は、イエスが神殿の両替商を攻撃したことを言い訳して、「彼は人に対して、暴力には及ばない行為を止めた」と誤って述べています。

報告書によると、神がイスラエルに戦争をするように命じた旧約聖書の例は、原始的な精神の産物であるという。グノーシス主義の方法では、聖書を「カナンでの最初の戦争から、苦難のしもべのようなより深い信仰の模範へと導く進歩的な啓示」と見なしています。報告書によれば、初期キリスト教徒は暴力や自己防衛の問題になると、剣を鋤に打ち込んでいたといい、「初期の教会の書物のどこにも殺人や戦争を肯定するものはない」と付け加えています。

チベット仏教の僧侶としての、初期キリスト教徒のこの描写は、現代の学者の仕事を無視しています。ピーター・ライトハートは、彼の本、『コンスタンティヌスを擁護して』の中で、戦争に対する初期のキリスト教の態度の複雑さを深く探求します。コンスタンティヌスのずっと以前の、使徒行伝10章に描かれている百卒長のコルネリオに戻ると、ローマ軍に仕え、教会で受け入れられたキリスト教徒がいました。ライトハートは、次のように結論づけています。「教会は、キリスト教徒の戦争への参加に、絶対的な反対をすることは決してなかった。 存在した反対とは、ローマ軍が、キリスト教徒が拒否した宗教的典礼の共有を要求したという事実に基づいて、ある程度状況に応じたものでした。 そして、以前(コンスタンティヌス後)兵役は偶像崇拝に参加することなく追求することができ、多くのキリスト教徒は兵役がキリスト教の弟子の合法的な生活であると考えていました。』


イエス:花の子

長老派教会(アメリカ)の立場は、他の教派の平和主義者の声明にも反映されています。ネブラスカ州オマハのユナイテッド・メソジストの牧師ジェーン・フローレンスは、ある説教の中で次のように説いています。

イエスが「剣と棒を持った大勢の群衆」に声をかけられて、彼らがイエスに手をかけたとき、彼の信者の一人が剣を抜いて、イエスをつかんでいる人の耳を切り落とした。それは血まみれの大騒乱、善人対悪人の戦いになっていたかもしれません。イエス様は暴力で介入しようとする信者を止めて、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」と言われました。まるで、彼らの暴力的なやり方に身をゆだねることで彼らの仲間にはならないと言うかのように。まるで、報復は解決策ではないと言うかのように。まるで、剣は神の方法ではないと言うかのように。イエスは、自分の切迫した死に直面しても非暴力を教え、暴力は適切な対応ではないと教え、イエスは平和主義者として生き、死んだのです。

メソジスト牧師の、この声明以上のグノーシス主義の勝利は,どこにもありません。イエスのこの描写からは,待望のメシアが消えています。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」(マタイ10:34)と語った、待ち焦がれたメシアである、イエスのこの描写は消え去りました。紐で作った鞭で、両替商を神殿から追い出した義の教師は消え去ったのです。(ヨハネ2:16)、「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。(マタイ7:21-23)と断言した厳格な神の御子は、もういないのです。武装した弟子たちに囲まれ,その時代の正しい指導者たちに対して、「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。」(マタイ23:33)と、暴力的で激しい言葉で罵倒した、長く待ち望まれたダビデの子も,失ってしまったのです。フローレンス牧師と彼女の群れに残されたのは、「デイ・バイ・デイ 」の曲に合わせて手品を披露している、ゴッドスペルに描かれた道化師のような人物なのです。


鉄のつえ

イエスは、公務員は必要に応じて、武力をもって公益を守り、防衛する権限が与えられていることを認識していました。ローマの兵士に直接「では、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねられたとき、イエスは彼らに武器を捨てろとは言わず、代わりに「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。(脅しや偽りの告発によって、誰からも金を恐喝してはならない)」(ルカ3:14)と警告されています。後にルカの福音書では、イエスは百人隊長の信仰を無条件に称賛し、彼の職業については何の批判もしていません。(ルカ7:6)イエスはまた、弟子たちに剣を購入するように促したとき、殺傷兵器の所持を支持しておられます。「そこで言われた、しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。」

ローマ人への手紙13:4でパウロは、律法を守るために力を行使することを支持し、次のように書いています。「彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。」ペテロも同様です。「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。」(ペテロ第一の手紙2:13-14)
ヨハネの黙示録では、イエスが十字架上で果たした犠牲の供え物の役割が、「鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。」と、審判主の役割に変えられています。(黙示録2:27)治めるという言葉は、ギリシャ語のポイマイノという、(群衆を)導くとか、守るというギリシャ語から翻訳された言葉です。再臨の時には、イエスの役割は、鉄のつえを持って、暴力的な力で自分の子供たちを守ることになります。これは、新約聖書が、力や暴力の使用を本質的に悪として非難していないことを示すもう一つの証拠です。


キリスト教的平和主義

C.S.ルイスは『私はなぜ平和主義者ではないのか』の中で次のように書いて、尋ねています。

「主の聴衆は、彼を(平和主義者だと)理解していました。それは、ある殺人鬼が、第三者を殺そうとした場合、私を殴り飛ばそうとした場合、私は身を引いて傍観し、彼に被害者を取らせなければならないという意味です。」このように誰が考えるでしょうか。

彼は続けて、国家による武力行使は、しばしば他の侵略国を阻止する唯一の方法であると書いています。戦争を「より大きな悪」として見ることは、「物質主義的な倫理観、死と痛み、そして最大の悪であるという信念」を暗に含んでいる、とルイスは主張しました。

犯罪者は死刑にしなくても、常に満足のいく解決が可能であるということには議論の余地があります。国家全体が、戦争以外に、(他者の)欲しいものを奪うという行動を防ぐことはできないことは確かです。特定の社会が特定の他の社会によって吸収されることは、大きな悪であることはほぼ確実です。戦争は常により大きな悪であるという教義は、物質主義的な倫理観や、死と痛みが最大の悪であるという信念を暗示しているように思えます。しかし、私はそうではないと思います。高次元の宗教を低次元の宗教によって弾圧すること、あるいは高次元の世俗的文化を低次元の文化によって弾圧することは、はるかに大きな悪だと思います。

ルイスにとっては、「より低次元の宗教による、より高次元宗教の弾圧、あるいはより低い文化によるより高い文化の弾圧」は、はるかに大きな悪なのです。彼が執筆した当時のイギリスは、ナチス・ドイツがイギリスを政治的に支配するだけでなく、そのキリスト教的アイデンティティを「非アーリア人」の人種を排除するという考えに置き換えるために、無限の手段を用いようとする残忍な試みを、非常に高い犠牲を払って生き延びたところだったのです。


政府に対する防衛

考えるべき自己防衛のもう一つの側面は、自分たちの政府に対する防衛です。20世紀は、人々が神への信仰を世俗的なイデオロギーに置き換えたときに、何が起こりうるかの十分な証拠を提供しました。1930年代に権力を握ったドイツ国家社会主義労働者党が採用した人種的同一性イデオロギーは、1300万人から2100万人の人間の死をもたらしました。共産主義イデオロギーは、推定1億5000万人の民間人の死をもたらしました。過去100年の間に、政府が主導した大量殺戮、デモサイドによって死亡した人の数は、同時期に行われたすべての対外戦争や内戦で戦闘で死亡した人の数の6倍にも上るのです。


ヨハネの福音書の新しい光

死海写本で最も驚かされたのは、ヨハネの福音書の中に、それまでヘレニズム後期のものとして否定されていた言葉やイメージが含まれていたことです。エッセネ派と同様に、ヨハネは「真理の霊」、「世の光」、「暗闇の中を歩く」、「光の子」などの言葉を持続的に使っています。巻物と第四福音書の間の類似性は、ヨハネのプロローグと「闇の手引書」と呼ばれるエッセネ派の写本の冒頭を比較することで明らかになります。

この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 
(ヨハネによる福音書1:2-3)

すべてのことは、主の知識によって成就した。
主は、ご自分の設計によってすべてのものを確立される。
そして、彼なしでは何もできない(手引書11:11)。

政府が不要な人々を排除したいという願望を語るとき、その市民が武装していても何の役にも立ちません。大量殺人、すなわちジェノサイドの発生の直前には、銃の没収と銃の登録という冷ややかなパターンがあります。 いくつかの例を紹介しましょう。

トルコ政府は、1915年に始まったアルメニア人大虐殺の前に銃規制を強化しました。

ドイツは1938年にユダヤ人への銃器販売を禁止しました。1939年から1945年にかけて、非武装、武装解除されたユダヤ人やその他の民族の合計1,300万人が強制収容所に送られ、絶滅させられました。

ソ連は1929年に銃規制を制定し、常に重武装だったソ連の人口から武器を没収しました。1929年から1953年まで、自衛手段を持たなくなった約2000万人の反体制派は、集められて、まとめて虐殺されました。

中国の銃規制は1938年に中華民国によって開始されました。1948年から1952年にかけて、自衛の手段を持たない2000万人の反体制派政治家が共産党政府によって虐殺されました。さらに5,300万人が 政府の政策によって引き起こされた、大規模な飢餓によって命を落としました。

カンボジアは1956年に銃規制法を制定しました。1975年から1977年にかけて、教育や「ブルジョア」西洋の価値観や文化との接触によって「汚染された」と考えられていた100万人以上の人々が排除されました。

グアテマラは、10万人のマヤ・インディアンの殺害に先立ち、1964年に銃規制法を施行しました。

ウガンダは1970年に銃規制プログラムを開始しましたが、それは、何千人ものキリスト教徒を死に至らしめることになる、8年に及ぶ恐怖の支配の直前のことでした。

このような恐怖はイデオロギーや政治運動に深く根ざしていました。第13章で議論したように、ナチズムと共産主義は、危険視された者を制御し、排除するための適切な代理人として国家を見なしていました。不幸なことに、主流メディアはしばしば政府が仕掛けた大量殺人に加担していたのです。すでに国家のイデオロギーや大義名分に賛同していたジャーナリストたちは、自分たちの行動を肯定的に描く方法を多数見つけたのです。

私たちのマスメディアでは目立って注目されていない2018年の報告書が警告しています。

キリスト教徒は今、歴史上のどの時期よりもひどい迫害に直面しています。
『迫害と忘却』は、それらに対する暴力が続く場合、多くの国でクリスチャンは生き残れないだろうと警告しています。報告書は、信者が「強制的な飢餓、中絶、火の上に十字架に吊るされ、他の人が蒸気ローラーの下で押しつぶされている信仰者の報告」に直面している北朝鮮を含む、世界中の「言いようのない残虐行為」を強調しています。

報告書は付け加えています。

キリスト教徒は他のどの信仰グループよりも迫害されているだけでなく、ますます多くの人々が迫害の非常に最悪の形態を経験しています。報告書は、イスラム過激派の手による中東での迫害と同様に、イスラム教徒のISISに関連したボコ・ハラムが200万人近くの人々を追い払ったナイジェリアでの虐待についても概説しています。

迫害が蔓延していること、そして欧米が緊密な貿易関係や戦略的関係にある政権が(その迫害に)関与していることを示す証拠は、我々の政府がその影響力を利用して少数民族、特にキリスト教徒のために立ち上がるべきであることを意味しています。もはや、戦略的便宜と経済的優位性のための祭壇に、キリスト教徒を犠牲にしてはならない。


「我々はイエス以外の王を認めない」

政治的な文脈では、キリスト教の信仰が現実の、あるいは潜在的な暴君に与える影響は、アメリカの独立戦争の間にはっきりと明らかになりました。イギリス人に任命されたある知事が述べています。「アメリカ人に自分の主人は誰かと尋ねたら、誰もいないと答えるでしょう。彼は誰もいない、イエス・キリスト以外の知事はいないと答えるだろう」。同じように、イギリスのピトケアン少佐が民兵の連隊に向かって、「悪党どもよ、退散せよ、イングランドを統治するジョージ王の名の下に武器を捨てよ」と 叫んだとき、ジョナス・クラーク牧師は、「我々は神以外の主権者は認めないし、イエス以外の王も認めない!」とジョナと答えたのです。

アメリカのキリスト教徒は、自分たちは柔和で、怒るのが遅くあるべきだと教えている聖句をよく知っていました。しかし、聖書の教えに違反する政府の行動に直面したり、「神から与えられた」自由を妨害しようとしたりすると、多くのアメリカのクリスチャンは、武器を取ることが自分たちのキリスト教徒としての責任であると考えました。ジョン・ピーター・ミュレンバーグ牧師は,バージニア州ウッドストックの集会での説教の最後に、聖職者の服を脱ぎ捨てて軍服姿を披露し,「祈るべき時と戦うべき時があり,その(戦う)時が今来たのだ」と宣言しました。ミュレンバーグはチャールストン、ブランディワイン、ストーニー ポイント、ヨークタウンでの戦闘に参加したほか、冬のバレーフォージでも戦闘に参加しました。

1775年のレキシントン・グリーンとコンコードで民兵が勝利した後、イギリスは植民地の銃器を押収して破壊することで報復しました。バージニア州では、ウィリアムズバーグの公共の弾倉から火薬の 20 バレルを押収し、銃の発射機構を取り除いて撃てないようにしました。1777 年までには、植民地開拓者の人々は敗北する可能性が高いと思われました。植民地次官のウィリアム・ノックスは、これ以上の反乱を防ぐために、「全国民の銃器を取り上げるべきだ」と命令し、武器製造業者をアメリカに入れないようにしたのです。


「人々を武装解除することは、彼らを奴隷にすることである」

武装解除はしばしば、人口を服従させるための極めて重要なステップとみなされてきました。米国憲法案についての議論の中で、この問題は権利章典に銃器を所有する権利を含める重要な理由として提起されました。ジョージ・メイソンは、ペンシルバニア州知事ウィリアム・ケイヒ卿が英国議会に与えた助言を参考にして、次のように述べています。「人民の武装を解除することは、人を奴隷にする最も効果的な方法である」と述べています。同様に、ノア・ウェブスターは1787年にこう書いています。「常備軍が統治する前に、ヨーロッパのほとんどすべての国でそうであるように、人民は武装を解除しなければならない。アメリカの最高権力者は、剣で不当な法律を執行することはできない。なぜなら、国民全員が武装しており、通常の軍隊よりも優れた軍隊を構成しているからである。」

1789年8月17日、マサチューセッツ州のエルブリッジ・ゲリー下院議員は議会のホールでこう言いました。「民兵の使用目的とは何か?政府が人々の権利と自由を侵略するつもりであるときはいつでも、彼らの廃墟に軍隊を上げるために民兵を破壊しようとします。それは、自由の邪魔になる常備軍の設立を防ぐためである...。政府が国民の権利と自由を侵害しようとするときは、いつも民兵を破壊しようとします。ゲリーの声明に沿って、1792年の民兵法は、銃の所有と民兵のメンバーシップを任意の選択肢ではなく、法的義務にしました。

補正第二条は、アメリカ人がレクリエーションや狩猟、射撃競技に従事する権利を維持することを意図したものではありません。将来の専制政治に抵抗する能力を維持することを目的としたものです。しかし、忠実なキリスト教徒にとっては、自衛のための武器を身につける権利は、憲法の権利章典に宣言されているような補正ではなく、すべての人類の基本的である、神に与えられた権利です。


フランク・ブラヒマンの教訓

2018年12月27日、ニューヨークのブルックリンで96歳の男性が亡くなりました。通りでこの老人を通り過ぎた近所の人の中で、フランク・ブライヒマンがナチスがユダヤ人を追跡して捕まえ、皆殺しにしている時代に、ポーランドのユダヤ人パルチザン軍の指導者の一人であることを知っていた人はほとんどいなかったでしょう。当時の信心深いユダヤ人の多くは、自分たちの命を守るために武器を取るのは冒涜的だと考えていましたが、フランク・ブライヒマンは、そうではありませんでした。彼は20代前半に、ナチスの占領者とその協力者に対する襲撃を組織しました。彼は、彼と他の同志が農場で2,000人のナチス兵士を捕獲した時のことを最も誇りに思っていました。エコノミストで発表された死亡記事に以下のように記載されています。

しかし、隠れることは彼の本性ではありませんでした。ドイツ軍がカミオンカのユダヤ人を一網打尽にし始めたとき、彼はユダヤ人と一緒に強制送還されることを拒否しました。彼はすでにユダヤ人の渡航制限を笑っていたし、ダビデの白い星の腕章を家に置いたまま、自転車に乗って町を出て行きました。一方、彼の怒りは高まりました。ハシディムが溝を掘るときにライフルで殴られているのを見たり、モイシェおじさんが家に新鮮な肉を持っていたためにその場で撃たれたという話を聞くと、彼は戦いたくなりました。近所の人たちのほとんどは、それは神の意志だと言っていましたが、彼はそうは思いませんでした。

それで彼は逃げ出しました しかし、彼は何と戦うことができたのでしょうか?その秋、80人の仲間が森の中の悲惨な野営地で惨殺されました。彼らを埋葬してカーディシュ(聖なるもの)と言って、消え去るだけでは不十分だったのです。 ユダヤ人は自分の身を守り 死者の仇を討たなければなりませんでした。外歯が折れた農作業用のフォークを肩に掛けているだけでも、ライフルを持っているように見せかけることによって、彼は強くなったと感じました。適切な銃器があれば、彼らは抵抗軍を作ることでしょう。

第21章 パウロの問題

私たちの文化の歴史の中で、キリスト教の最も敵意に満ちた迫害者から、より強力な支持者、その最も効果的な通訳者、そして古代世界を横断する勝利の行進の指導者となった1世紀のユダヤ人、パウロほど影響力のある個人は、ほとんどいません。しかし、その歴史の中で、(パウロほど)私たちの多くが折り合いをつけるのに苦労している人はおそらく誰もいません。彼のことで当惑して、ある意味では、手に負えないと感じたのは、私たちが初めてではありません。それは常にそうだったのです。父祖の伝統を「非常に熱心に」守っていたと主張していたにもかかわらず、同時代の人々からは疑いの目で見られていました。キリスト教徒であっても、彼はそのような献身を持って自分自身を捧げた宗教的なコミュニティの中で、完全には受け入れられていなかったのです。
       ジョン・ノックス 『国民の中のキリストの声』1965年

マルシオンが彼の聖典を編集したとき、ルカの福音書、パウロのローマ人への手紙、エぺソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ラオディケ人への手紙(現在は失われています)、ガラテヤ人への手紙、コリント人への第一の手紙、テサロニケ人への第一の手紙、テサロニケ人への第二の手紙、ピレモンへの手紙、ピリピ人への手紙が含まれていました。パウロがいなければ、初代教会はグノーシスの異端に悩まされることはなかったでしょう。彼らの論文「聖パウロの著作」の中で、ジョン・T・フィッツジェラルドとウェイン・A・ミークスは次のように主張しています。

ヴァレンティン派や他のグノーシス主義者たちがパウロを強調していた一方で、マルシオンのように、パウロとパウロだけにこれほど深刻で排他的な主張をした者は、「異端」であれ「正統」であれ、古代教会にはいませんでした。パウロの死から20年か30年後に生まれたマルシオンは、次のように述べています。彼は、恵みによる救いだけがキリスト教の福音の最も純粋な本質であると確信するようになりました。しかし、その論理的な結論は、イエス・キリストに現された恵みの神が、旧約聖書の神とは異なるものであることを意味すると信じていました。天地創造と律法は正義の神の産物であるが、人類の希望は、キリスト以前には知られておらず、この世とは全く関係のない純粋な愛の神にあるのです。


パウロのグノーシス主義

マルシオンのパウロへの愛は、使徒がしばしばグノーシスのように語っていたという事実に根ざしていました。コリント人に彼は書いています。「しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。』(コリント人への第一の手紙2:6-8)

さらに、パウロは、隠された神についての知識を明らかにしようとしていることをほのめかしています。使徒行伝17:23では、パウロは異邦人の聴衆に向かってこう言いました。「実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。」


律法の呪い

何よりも、パウロは律法についての発言によって、マルシオンやグノーシス主義者たちに自分をアピールしました。コリント人への第一の手紙15:56には、「死のとげは罪である。罪の力は律法である。」と書いています。ガラテヤ人への手紙3:10-13では、律法は「呪い」であると書いています。

いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。律法は信仰に基いているものではない。かえって、「律法を行う者は律法によって生きる」のである。キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。

このような発言をすることによって、パウロは自分自身とキリスト論をユダヤ教から切り離しました。真のユダヤ人にとって、律法はイスラエルへの神の贈り物であり、神の民との契約の土台でした。詩篇19篇はこう宣言しています。

主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
主を恐れる道は清らかで、
とこしえに絶えることがなく、
主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。
これらを守れば、大いなる報いがある。


イエス・キリスト

パウロの著作は新約聖書の三分の一以上を占め、現代プロテスタントの中核をなしています。しかし、彼の手紙の中では、歴史上のイエスについてはほとんど語られておらず、主の指示と訓戒についてはほとんど言及されていません。パウロは十二使徒の何人かと交流していたので、イエスから彼らに伝えられた内密の情報にも精通していたはずなので、これは奇妙なことです。イエスについてのパウロの奇妙な沈黙について、トム・ハーパーは次のように書いています。「新約聖書の全内容の4分の1以上を占める最も初期の書物は、使徒パウロの手紙です。これらの手紙で絶対的に印象的なことは、ナザレの歴史的なイエスの話題については、すべてにおいて事実上の沈黙しているということです。」

復活したイエスの経験は、パウロにとって唯一の重要な問題でした。彼はイエスの死を、この世の問題ではなく、「何世紀も前に」立案された神の計画の一部であり、それによって、世界を支配する権力者たちが「栄光の主」を無知のうちに十字架につけた(コリント人への第一の手紙2:8)と考えていました。同様に,彼はイエスを、出所が疑わしい「人の子」ではなく,宇宙的な「神の子」と呼んでいました。


疑惑の人物

さらに、パウロと初代教会の主の兄弟であり、統治者であったヤコブとの関係は、非常に争いが多く、厄介なものでした。パウロについての記述の中で、デビッド・ウェナムは次のように書いています。「今日、私たちはパウロを重要で影響力のある人物と考えているかもしれません。しかし、すべての証拠は、彼が最初は多くのキリスト教徒から疑いの目で見られていたことを示しています。彼はエルサレムにはほとんど滞在しておらず、初期の教会の指導者としての役割も果たしていませんでした。」

キリスト者になったパウロは、ダマスコの礼拝堂で説教しました。ユダヤ人たちは、パウロが以前にキリスト教徒を迫害していたことを知り、彼を疑うようになり、彼を殺そうと画策しました。パウロは友人たちの助けを借りて逃亡し、エルサレムに向かい、 エルサレム評議会とヤコブの指導と支援を求めました。しかし、パウロの意図についての疑惑はしっかりと残り、エルサレムのヘレニズム的ユダヤ人たちもまた、彼が最初の偉大な宣教の旅に出る前に、パウロを死刑にしようとしました。


使徒の教令

パウロはシリア、キリキア、ガラテヤ、アジアを旅して、小アジアに広がっていたユダヤ人や様々な神秘宗教の提唱者たちが待ち望んでいた「油を注がれた者」であるイエスがキリストであることを広めました。

エフェソスに到着したパウロと彼の忠実な仲間であるバルナバは、活動報告のためにエルサレムに召集されました。エルサレムでの会議の中心は割礼の問題でした。キリスト教のユダヤ人にとって、割礼は健康のための儀式であるだけでなく、神との契約の神聖な象徴でもありました。それは、彼らが神に選ばれた人々として、神に仕えるために選ばれた特定の人種であることを意味していました。パウロはギリシャ世界にキリスト教のメッセージを宣べ伝えた際、改宗者たちがイエスがキリストであるという「良い知らせ」を受け取る準備はできていても、自分たちのペニスの包皮を鋭利なナイフで切り落とされることには消極的であることに気がつきました。割礼はキリスト教が普遍的に受け入れられるための障害となっていたため、この問題は緊急の関心事でした。

ヤコブは「使徒の教令」として知られるようになった彼の判決を下しました。それによると、異教の信者は、偶像によって汚染された食物、性的不道徳、絞め殺された動物の肉、血を避けなければならないとされています。(使徒行伝15;20)この裁定は「神に立ち返る」人々にのみ適用され、教会の正会員になろうとする改宗者には適用されませんでした。


アンティオキアでの事件

パウロは今度は2回目の宣教の旅に出ました。そこで、エルサレム教会の代表者たちは、パウロ、ペテロ、バルナバが割礼をしていない異端者たちと食事をしているのを発見しました。この発見はスキャンダラスなものでした。ペテロとバルナバは自分たちの行為を悔い改め、パウロのもとを去りました。パウロは激怒し、ガラテヤ人への手紙の中で次のように書いています。

そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――(中略)ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。(ガラテヤ人への手紙2:6-14)。

この対立について、新約聖書の学者ジェフリー・ブッツは次のように書いています。「アンティオキアの事件は、使徒時代が、今日のほとんどのキリスト教徒が思い込んでいるような、イエスの初期の信奉者たちが皆一つの大きな幸せな家族のように暮らしていたという甘美で明るい時代ではなかったことをはっきりと示しています。それどころか、様々な集団や派閥が覇権を争うようになった苦しい時代でもありました。」


横柄になるパウロ

アンティオキアでの出来事の後、パウロは自分自身を、ヤコブや使徒たちよりも優れているとは言えないまでも、同等であり、独立した権威者であると考えるようになりました。パウロは、コリントの信徒への第二の手紙の次の一節で、この立場を明確にしています。「わたしは、あの大使徒たちにいささかも劣ってはいないと思う。」(コリント人への第二の手紙11:5)。彼は今、モーセの律法の割礼に対して反抗的な態度をとるようになりました。彼はガラテヤ人への手紙で次のように書いています。「見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。(中略)キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」(5:2-6).

アンティオキアから、パウロは次の宣教に出発しました。彼は小アジアの教会を再訪した後、マケドニアに出航し、そこで初めてヨーロッパの地に足を踏み入れました。マケドニアからテサロニケとギリシャに行きました。この間、彼はロリアム人に宛てた手紙を書き、その中で、信仰による義認の教義を支持しました。彼は次のように書いています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。(中略)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。(中略)わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。(ローマ人への手紙3:20-28)。


最後の対立

コリントに到着して間もなく、パウロは教会評議会との会議のためにエルサレムに召集されました。パウロが現れるやいなや、ヤコブはパウロにこう言いました。「あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。どうしたらよいか。」(使徒行伝21:21)ヤコブはパウロにナザリテの誓いを立て、清めの儀式を受け、神殿で供え物をするように命じました。教会の長老たちに囲まれていたパウロは、従うしかありませんでした。

パウロが神殿に現れたことで、ユダヤ人たちはパウロを四方八方から取り押さえ、「イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。」(使徒行伝21:28)と言ったのです。使徒行伝の著者によると、街全体が興奮して、パウロを連れて行って石打ちの刑に処しました。もしローマの兵士がパウロを拘束して、暴徒から救ってくれなかったら、パウロは殺されていたでしょう。パウロが投獄されている間、ユダヤ人たちはパウロの律法の放棄に激怒し、パウロを殺す計画を立てました。(使徒行伝 23:12)


囚人パウロ

ローマ市民であるパウロは、ローマのカエサリアの監督官であるフェリックスの前で自分の訴えを聞かせることに成功しました。ペストゥスは、パウロの告発者を解任しましたが、パウロを2年間軟禁しました。ユダヤ人キリスト教徒は一人もパウロを弁護しませんでした。どうやら、ヤコブ、教会評議会、原始共同体のメンバーは、トラブルメーカーとの関係を断っていたようです。

ユダヤの王ヘロデ・アグリッパはパウロに再度の審問を与えましたが、使徒はエルサレムでの敵対的な環境を恐れ、ローマ市民としての権利を行使し、ローマの皇帝の前での裁判を要求しました。その後10年間滞在したローマでは、パウロは寛大な扱いを受け、自分が選んだ家に住むことを許されていました。パウロはローマのユダヤ人指導者たちを招いて彼を訪問しましたが、彼の律法観を聞いた彼らは彼から目を背けました。また、割礼を実践し、モーセの律法を支持するキリスト教徒からも敬遠されました。パウロは投獄されている間、遠い国の教会への長い手紙を書くことで慰めを得ていました。エペソ人への手紙の中で,彼は自分の律法観を支持し,次のように書いています。

だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。


パウロの曖昧さ

人生の最後まで、パウロの律法に対する見方は曖昧なままでした。パウロは、律法は確かに聖なるものであり、その命令は「聖なる、義となる、善い」(ローマ 7:12)と宣言していますが、パウロは律法を、人間の魂の中に王座を築いた悪の力の一つであると語っています。パウロは「律法を確立する」(ローマ3:31)と主張していますが、パウロは「律法がないところには違反なるものはない」(ローマ4:15)と付け加え、戒めを守っても誰も義とされることはないと付け加えています。パウロは、律法は罪を表すものではないと主張していますが、彼は続けて言います。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。」(ローマ人への手紙7:7-8)。


ペッカ・フォーティター 、大胆に罪を犯す

この曖昧さによって、マルシオンは、「律法」は「呪い」であり、悪の根源であるから、悪意のある神的存在によって発せられたものに違いないと結論づけたのです。人間の真の霊的性質と折り合いをつけるためには、律法から解放されなければならないというマルシオンの信念は、マルティン・ルターが罪はもはや重要ではないと宣言するきっかけとなりました。プロテスタント改革者は次のように書いています。「愉快な仲間との付き合いを求め、酒を飲み、遊び、下品な話をし、自分自身を楽しませよう。人は時に、悪魔を憎み、軽蔑することから罪を犯さなければならない。悪魔にある良心的なことを、何もなかったことに変える機会を与えないために。」同様に、ルターはフィリップ・メランションに宛てた手紙の中で、大胆な罪を犯すことを勧めています。

あなたが慈悲の説教者であるならば、想像上の慈悲ではなく、真の慈悲を説いてください。もし、あわれみが真実であるならば、あなたは想像上の罪ではなく、真実の罪を負わなければなりません。神は架空の罪人でしかない者を救われません。罪人となり、罪を強く負いながらも、キリストへの信頼を強くし、罪と死とこの世に打ち勝つキリストを喜ぶようにしましょう。私たちはここにいる間に罪を犯します。というのは、この生活は正義が存在する場ではないからです。しかし、私たちは新しい天と新しい地を待ち望んでいるとペテロは言っています。(ペテロの第二の手紙3:13)。そこは、正義が君臨する場所です。 神の栄光を通して、私たちは世の罪を取り除いてくださる小羊を認識しただけで十分です。たとえ私たちが毎日何千回も殺したり、姦淫したりしたとしても、どんな罪も私たちを神から引き離すことはできません。そのような高貴な小羊が、私たちの罪のためにささやかな犠牲を払って、小さな代償を払っただけだと思いますか?


心の割礼

パウロの書簡の中の曖昧さは、パウロ自身によって解決され、クリスチャンは心の割礼を受けなければならないので、律法から免除されることはないと主張しました。ローマ人への手紙の中で彼は次のように書いています。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。」パウロはコロサイ人への手紙の中で、クリスチャンはバプテスマの秘跡を受けるときに、心の割礼を受けることができると主張しています。パウロは自分の立場を次のように説明しています。

キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。」 
(コロサイ人への手紙2:9-14)。


罪の赦し

新約聖書におけるバプテスマは、信者が天の御国に入るために罪の赦しを受けるための唯一の手段でした。懺悔の概念はまだ知られていませんでした。そのため、すべての信者はバプテスマを受けることが不可欠でした。イエスご自身が言われました。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコによる福音書16:16)

バプテスマの重要性は、ペンテコステの日に使徒ペテロによって強調され、彼は彼の仲間のユダヤ人に次のようなメッセージを伝えました。「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」(使徒行伝2:38) ペテロとパウロが信じていたように、バプテスマによってのみ、信者はイエスの死と復活を受けることができるのです。


厳格な信仰

この儀式に服従した後、クリスチャンは律法のすべての文字に従わなければなりませんでした。パウロはコリントの信徒への最初の手紙の中で次のように書いています。

「正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」(コリント人への第一の手紙6:9-11)

パウロとペテロによると、バプテスマによって、信者の体は聖霊の神殿となりました。このため、パウロは、洗礼を受けたクリスチャンが売春婦とセックスをすることを考えて苦しみました。彼はこう書いています。

からだは不品行のためではなく、主のためであり、主はからだのためである。そして、神は主をよみがえらせたが、その力で、わたしたちをもよみがえらせて下さるであろう。あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。(コリント人への第一の手紙6:13-20)


神学的くさび

パウロが心の割礼を主張したことは、彼の著作を旧約聖書と新約聖書に結びつける要となり、また、罪の赦しのためのバプテスマは一つしかないという主張は、キリスト教を正統派ユダヤ教よりもさらに厳しく厳格な信仰にしました。

バプテスマの後に犯した死すべき罪は赦されなかったので、初代教会のバプテスマの儀式は、キリストの使徒としての「代理任命」によって罪を赦す聖なる力を持っていた司教によってのみ行われていました。最初の三世紀を通して、ヨハネによる福音書20:22-23にあるイエスの弟子たちへの言葉(「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう。」)は、バプテスマに関連して解釈されました。聖キプリアヌスはこのことを文章で証言しています。

私たち全員が罪の赦しを受けるのはバプテスマです。主は、聖霊を持つ者によってのみ、罪を赦すことができることを、福音書で証明されています。復活の後に弟子たちを送り出された時、主は次のように言われました。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。この箇所は、聖霊を持っている者だけがバプテスマを受けることができることを証明しています。


キリストのからだ

バプテスマの後に大罪を犯した人々は教会から追い出され、サタンに引き渡されました。この罪の追放は、パウロがコリントの信徒への最初の手紙の中で教えている通りに行われました。「しかし、わたしが実際に書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、不品行な者、貪欲な者、偶像礼拝をする者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪をする者があれば、そんな人と交際をしてはいけない、食事を共にしてもいけない、ということであった。外の人たちをさばくのは、わたしのすることであろうか。あなたがたのさばくべき者は、内の人たちではないか。外の人たちは、神がさばくのである。その悪人を、あなたがたの中から除いてしまいなさい。」(コリント人への第一の手紙5:11-15)

「キリストのからだ」としてのキリスト教共同体は、「聖にして、悪も汚れもなく」(ヘブル人への手紙7:26)保たれなければなりませんでした。

初代キリスト教の数世紀の間、死すべき罪を犯したと告発された者、または疑われた者は、罪を縛ったり緩めたりするラビの力を持った司教の前に連れてこられました。(マタイによる福音書16:19; ヨハネによる福音書20:23)。そのような罪を犯した者は、その罪に拘束され、教会から破門されました。無実と判断された人は、その罪から解放され、再び交わりの中に入ることができました。しかし、(罪に)拘束された人たちには、あわれみの業や後悔の涙では戻ることはできませんでした。

第22章 キリスト教を再び勇敢に

私たちは別の民族になりつつあり、今世紀末までには、ポストキリスト教的なアメリカが私たちの運命となっているようです。すでに何が変わったのかを考えてみましょう。19世紀には、冒涜は犯罪でした。狂乱の20年代には、酒とギャンブルの「悪徳」は非合法化、禁止されました。今では、それらは州の主要な財源となっています。離婚はめったにありませんでした。現在では、すべての結婚の半分が解消されています。60年代の性革命の後、結婚していない子供の出産は急増し、全ての子供の40%、ヒスパニック系の子供の半数と黒人の子供の70%が父親のいない家庭で生まれています。かつては禁固刑になっていたポルノが、今日ではケーブルテレビを支配しています。マリファナは、かつては社会的に大問題となっていましたが、今ではホットな新製品となっています。そして、カマラ・ハリス上院議員は売春の合法化を望んでいます。多くのアメリカ人が生きていた頃、同性愛と中絶はまだスキャンダラスな犯罪でした。今では大切にされている憲法上の権利なのです。
  パトリック・ブキャナン「ピート市長とキリスト教の崩壊」2019年4月16日

もし、新約聖書が聖パウロの手紙の後に終わったとしたら、人類のために屠殺された犠牲的な「子羊」としてご自身を捧げられた苦難のキリストとしてのイエスのイメージが残ることになるでしょう。これは、神の無条件の愛、犠牲、赦しの模範となるイエスです。

ヨハネの黙示録におけるイエスのイメージは全く異なります。イエスは、「わたしの口のつるぎをもって彼らと戦う。」(黙示録2:16)ために、審判主として、また王として帰ってこられます。しかし、審判主と戦士として来られるのは、キリストご自身だけではありません。クリスチャンは、キリストへの信仰を堅持しながら、すべての試練を乗り越えれば、国の権威が与えられると言われています。ヨハネの黙示録2:26-27にも書かれています。「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。」

この共同権威が信者に与える意味は考えるに値するものです。神がご自分の力と権威の現れを見るだけではなく、それ以上のことをするようにと神がご自分の民に求めておられるとしたらどうでしょうか。ヨハネの黙示録20章によると、キリストの再臨と千年の治世の後、数百万人規模のサタンの勢力によるキリストの王国への攻撃が起こると書かれています。

千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。(ヨハネの黙示録20:7-9)

黙示録によると、神の国は他の国々と共存しており、平和と脅威の時期は様々です。14章で述べられているように、神は究極の力と保護の源である一方で、信仰者には家族と国を守る準備をするように命じています。しかし、14章でも述べたように、何百万人もの信者を持つ教会は、たとえ自衛のためであっても、武力行使に公然と反対しています。キリスト教徒やその他の宗教的少数者が虐殺されているのを受動的に見守ることが本当に美徳なのでしょうか。しかし、今日のキリストの体を悩ませている混乱はこれだけではありません。


相対主義における信仰

調査によると、アメリカは世界の先進国の中で圧倒的に信仰心が強いということがわかっていますが、相対主義が優勢な信仰心になっているとも言えます。2018年の調査では、アメリカ人の60%が「宗教的信念は個人的な意見の問題である」と同意していることがわかりました。それは客観的な真実についてではありません。神を信じることが道徳的であるために必要であるということに同意しなくなったキリスト教徒の数が増えています。白人主流派のプロテスタントの3分の2、カトリック教徒の半数、白人福音派の3分の1は、宗教的信念が道徳と結びついているという考えを否定しています。

2017年の調査では、教えを実践しているキリスト教徒の多くが、すべての宗教が神への道と同等であるという「ニュー・スピリチュアリティ」の考えに同意していることがわかりました。半数以上が、客観的な真実は存在しないというポストモダンの見解に共鳴しています。3分の1以上がマルクス主義に関連した考えを受け入れています。10人に3人は世俗主義に根ざした考えを信じているのです。


宗教的無関心主義の台頭

実践しているクリスチャンの10人に3人が「すべての人が同じ神や霊に祈る」ことに強く同意しています。4分の1(45歳未満の人の37%)は、道徳的に正しいか間違っているかは個人が何を信じているかによる」と強く同意しており、創造主によって定義された客観的な道徳が存在するという聖書の見解を否定しています。

45歳以下の実践しているクリスチャンの10人に3人は、「自分の信念が誰かを怒らせたり、その人の感情を傷つけたりしたら、それは間違っている」というポストモダン的な考えを受け入れています。これは、彼らが客観的な真実があるとは思わない、あるいは、真実よりも感情の方がもっと重要であると考えていることを示しています。


新しい世界観

バーナリサーチによると、実践的なクリスチャンの36%が1つ以上のマルクス主義的な声明を受け入れていることがわかりました。キリスト教を実践しているミレニアル世代とジェネレーションX世代(1960年代~1980年代に生まれた世代)の5人に1人は「私有財産は強欲と妬みを助長する」という信条に強く同意し、4人に1人の黒人のアメリカ人のクリスチャンは「個人ではなく政府が、誰もが公平な取り分を得るために必要なだけの資源を管理すべきである」という準マルクス主義的な考え方に強く同意していました。

研究者らは、「共有された世界観の基礎としてのキリスト教からの移行が進んでいる」と結論づけました。「私たちは、アメリカ人や教会でさえも、多元主義、相対主義、モラルの低下が進んでいることを観察し、報告してきました。自分の信仰を大切に考え、定期的に教会に通うクリスチャンのうち、実際に聖書的な世界観を持っている人はわずか17%に過ぎません。」

世界で最も宗教的に活発なキリスト教先進国が、どのようにしてこれほど多くの非キリスト教的な見解を持つようになったのでしょうか?これまでの章では、牧師や教会の指導者を養成する神学校での聖書に対する容赦のない批判や、生命の起源に関する科学的証拠がますます疑問視されるようになってきたにもかかわらず、それらに関する理解を支配するようになった唯物論について考察してきました。このような影響力は、新しい証拠が明らかになれば立ち向かうことができますが、思想の自由だけでなく、深く抱いている宗教的信念を公に表現する自由を阻害するもう一つの力があります。それが政府です。


キリスト教に対する戦争

カール・マルクスは、『ヘーゲル法哲学批判序説(直訳:ヘーゲルの『右の哲学』批判への寄稿)』の中で、「宗教的苦悩は、本当の苦悩の表現であると同時に、本当の苦悩に対する抗議でもある」と述べています。宗教は、それが精神のない状態の精神であるように、抑圧された被造物のため息であり、心のない世界の心である。それは人民のアヘンである。民衆の幻想的な幸福としての宗教を廃止することは、民衆の真の幸福を要求することである。」

ソ連の共産主義指導者たちが、革命の最初の20年間に9万5000人の正教会の司祭を処刑したとき、彼らは自分たちが良いことをしていると信じていました。宗教は人々を抑圧から気を紛らわせる「麻薬」だったので、抑圧者の付属品であり、マルクス主義の「真理」の普及を妨げる宗教指導者たちを排除することは、それを行うことは良いことだったのです。「人民の幻想的な幸福としての宗教を廃止することは、人民の真の幸福を要求することである」とマルクスが数十年前に書いていたように。


理性の神殿

マルクス主義者の大虐殺は、フランスのジャコビンの指導者たちがノートルダム大聖堂を 「理性の神殿」に変えてから130年後に起こりました。そして、「理性」の名の下に、フランス西中部のバンデー地方のカトリック住民数万人を虐殺しました。それが終わると、フランスの将軍フランソワ・ジョセフ・ウェスターマンが公安委員会に手紙を書きました。

「もうバンデーは存在しません。あなたが私に与えた命令によると、私は馬の足元で子供たちを粉砕し、少なくともこれらのために、これ以上の山賊を出産しないだろう女性を虐殺しました。私を非難する捕虜はいません。私はすべてを絶滅させました。」


アメリカの革命

大西洋を越えて、アメリカの革命家たちは、極めて異なる視点を持っていました。彼らは自分たちの力を制限することで、歴史上前例のないことをしたのです。幅広い宗教観にもかかわらず、彼らは人間には悪の可能性があるという認識で一致していました。結局、ほとんどの入植者は、「アダムの堕落の中で、我々はすべての罪を犯した。」という文章で始まる『ニューイングランド・プライマー』(1690年)で アルファベットの勉強を始めて、成長したのです。

アレクサンダー・ハミルトンは、「人類の愚かさと邪悪さ」について書きました。彼の人類に対する悲観的な見方は、連邦議会文書の第三の著者であるジョン・ジェイと共有されていました。彼は、人間が「個人的な利益の独裁」に支配され、結果的に「誠実さと正義から逸脱する」と見なし、トーマス・ジェファーソンは、「権力の問題では、これ以上、人間への信頼の声を聞くことはせずに、憲法の鎖で人間を悪事から拘束する」と警告しました。彼らは意図的に、宗教的信念の自由な行使を保護しようとしました。というのは、頻繁にイギリスや、他のヨーロッパ諸国でも、アメリカの植民地の中でさえ、残酷に迫害されていたのです。米国憲法の補正第1条は、連邦政府は州の宗教を押し付けてはならず、また宗教の自由な行使を阻害してはならないとしています。と書かれています。

連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これは制定してはならない。


新しい非宗教的な国家

しかし、アメリカには、政府の権力を利用してアメリカの宗教的遺産を消し去り、私たちの創造主へのいかなる言及も無効にした世俗的な国家を樹立しようと積極的に活動している人たちがたくさんいます。デビッド・ホロウィッツが『ダーク・アジェンダ キリスト教徒のアメリカを破壊する戦争』の中で指摘しているように、2008年に米国議会議事堂ビジターセンターが オープンした時、「...神と信仰への言及はすべて、慎重に、意図的に、その写真や歴史的な展示から削除されていました。」 ホロウィッツは書いています。

あるパネルでは、アメリカ合衆国の国の標語は「E Pluribus Unum(エ・プルリブス・ウヌム)」(「Out of Many, One」:多数から一つへ)であると主張していました。実際には、1956年の議会法によって制定された国の標語は、「In God We Trust(我々は神を信じる)」です。下院の議長席のレプリカでは、椅子の上にある「In God We Trust」という金文字の碑文が省略されています。実際の下院議長の台座の写真は、碑文を隠すためにトリミングされています。ジム・デミント上院議員や他の保守派議員の抗議により、この特定の虚偽表示が是正されましたが、他の多くのものが残ったままになっています。

センターの設計者は、アメリカの本質的な歴史を改変するために多大な努力をしたのです。憲法の拡大画像は、署名者の署名の上にある 「in the Year of our Lord(私たちの主の年に)」の文字を削除するために、フォトショップでコピーされました。リンカーン大統領が二度目の就任式で聖書を置いたテーブルが展示されています。 聖書ではなく、テーブルだけが。

ホロウィッツは、アメリカは、生き生きとした、しかし多様なプロテスタント・キリスト教の文化を守るために、公的な国家宗教を持たない、非宗教的な共和国として作られたと主張しています。

アメリカが非宗教的な共和国として誕生したのは、正確には、宗教的な建国者たちのキリスト教的な信念、特にプロテスタント・キリスト教的な信念があったからこそです。1620年にプリマスロックに上陸した巡礼者に始まり、アメリカの創設者たちは主にプロテスタント宗派のメンバーであり、国の認可を受けたライバルの宗派による迫害から逃れてきました。彼らは、良心の自由と宗教的な相違の自由というプロテスタントの理想にコミットしていました。これらの理由からも、この新しい国家を公式の国教を持つ神主主義政府として設立することは考えられないことだったでしょう。それならば、非宗教的な共和国を作ることは、彼らの信教の自由のために必要な条件だったのです。」

この分析によると、アメリカに言論と宗教の自由があるのは、プロテスタントのアイデンティティと建国者のルーツがあるからなのです。プロテスタント・キリスト教は、聖書の中の言葉に直接アクセスして、神と直接関係を持つ個人の権利と責任を肯定しているため、宗教の自由と言論の自由に最も高い価値を置いています。ホロウィッツ氏自身のような非キリスト教的な無宗教者であっても、私たちの憲法上の自由の根源がどこから生まれるのかを理解するか、少なくとも認めることは賢明なことでしょう。


神の非合法化

左翼の「理性」支持者にとって、言論と宗教の自由は、社会における特権と権力を維持し、増大させるための支配階級の道具にすぎません。これらの自由と宗教的な「迷信」は、より公正で啓発された社会への道を阻むものであり、それを根底から覆し、信用を失墜させなければなりません。そのための最も効果的な手段の一つが、法廷を通じた訴訟です。

50年以上前に始まった一連の最高裁判決のおかげで、神の存在を公の場から排除しようとする左翼のアジェンダは驚くほど成功しています。その結果、多くの公立学校の教師、管理者、そして学校のカフェテリアの従業員でさえも、学校の敷地内で子供たちが宗教的信条を表現することを防ぐ責任があると考えています。


エンゲル 対 ヴィターレ

1962年、宗教の自由に関わる画期的な事件として知られる「エンゲル対ヴィターレ」事件が最高裁で審理され、ニューヨーク州における23語の祈りの合憲性が検討されました。その祈りは次のように書かれています。「全能の神よ,わたしたちはあなたへの依存を認め,わたしたちと両親と教師と国にあなたの祝福をお願いします。アーメン。」 裁判所は、祈りは自発的なものであり、特定の宗教を反映していないという弁護側の主張を否定し、祈りは憲法違反であると6対1の判決を下しました。裁判所の多数派は、祈りは無神論者の信仰に対処していないため、建国条項に違反していると判断したのです。

『本来の意図』の「裁判所、憲法、そして宗教」で述べられているように、「憲法と権利章典の批准後170年間、どの裁判所も、どのような形でも、どのような場所でも、祈りを打ち破ったことはありませんでした。」学校での祈りに反対する者は、しばしば、トーマス・ジェファーソンの1802年1月1日のコネチカット州のダンベリー・バプテスト協会への手紙が、「教会と政府を分離する壁」のことを話しているということで、その手紙を引用しています。しかし、ジェファーソン自身は、彼が起草した政府の文書の中で、神と無宗派の宗教的信仰を請願しており、最も有名なのは、アメリカの建国文書である独立宣言で、「創造主である神は私たちの「不可侵の権利」の源であると述べています。

ホロウィッツが指摘したように、「『エンゲル対ヴィターレ』の原告が(学校の)理事の祈りによって、子供たちが気分を害しないように、保護することに興味を持っていたならば、彼らは地方または州レベルで彼らの懸念を是正するように求めたかもしれない...その代わりに、彼らは民主主義のルートを迂回して、裁判所での憲法上の挑戦を追求しました。彼らがそうしたのは、この地域での勝利は、彼らの党派的な見解を国の新しい基本的な見解にするだろうからである。」


瞑想も祈りもしない

「エンゲル対ヴィターレ」は、宗教的表現への攻撃を続ける他の判決の基礎となりました。「ウォレス対ジャフフリー」(1985年)では、最高裁は、「瞑想または自発的な祈り」のために1分間を許可しているアラバマ州の法律は違憲であると判決を下しました。無神論者が個人的な内省のための時間を取らないことを想定していることは明らかです。

「リー対ワイズマン」(1992年)では、最高裁は中学校の卒業式での聖職者による祈りを禁止した。2000年には、最高裁は「リー対ワイズマン」の判例を根拠に、高校のフットボールの試合での学校によって対決付けられた学生主導の祈りを(違憲とすることに)すべて含めるために使用しました。ホロウィッツはこれらの傾向を次のように要約しています。

独裁的な判決が次々と出され、最高裁判所は建国条項を膨らませながら、自由運動の保護からすべての空気を取り除きました。高裁は何度も何度も、補正第1条の急進的な再定義を、気が進まず、準備のできていない社会の喉に押し込んみました。

アメリカは奇妙な公式的な偽善に支配されていました。議会の両院は祈りで幕を開けました。最高裁の開会式では、「神は合衆国とこの名誉ある法廷を救われますように」と呼びかけました。子供たちが自分のポケットに入れた昼食代の貨幣には「In God We Trust」というスタンプが押されていましたが、アメリカのどの公立学校でも「神」に呼びかけることはありませんでした。


歴史から消えた神

「エンゲル対ヴィターレ」に沿って、アメリカの歴史は、アメリカの自由の宗教的起源についてのあらゆる言及を消去するために、選別されなければなりませんでした。その結果、2002年にニュージャージー州教育局は、学校の教科書の歴史の基準から、ピルグリムとメイフラワー号への言及を削除しました。教育指導者評議会のブライアン・ジョーンズ氏は次のように述べています。「巡礼者という言葉は宗教を暗示しています。聖書やピューリタンについて語るのは難しくなってきています。」 このため、学校ではピューリタンを「初期の入植者」「新参者」「ヨーロッパの植民者」と表現しています。

1986年にニューヨーク大学のポール・ヴィッツ教授は、公立学校の生徒の87%が使用している60冊の社会科の教科書を見直しました。彼は著書の中で次のように結論を下しました。

これらの本では、感謝祭を誰に感謝するのかを説明せずに扱うのが一般的です。. . . 巡礼者たちは、宗教には全く一切触れずに記述されています。プエブロ(インディアン)は母なる大地に祈ることができますが、巡礼者は神に祈るとは描写できないのです。そして、アメリカでも他の国でも、現在も過去も、キリスト教徒がイエス様に祈っていると記述されていることは決してありません......。これらすべての本の中で、中心的な動機や主要な内容がキリスト教やユダヤ教に由来する物語や記事は、約9000~1万ページの中に1つもありません。


虐待者として描かれるキリスト教徒

しかし、現在の世代と将来の世代の再教育は、アメリカのキリスト教のルーツを消し去ることに留まらない。マイケル・チャップマンの「アメリカン・ヘリテージ・リサーチ」というサイトに記録されているように、 キリスト教自体が徹底的に叩かれなければならない。6 年生向けのある教科書のローマ帝国の授業では、キリスト教徒は侵略者として描かれています。ローマのコロシアムに関する教科書の課では、「迫害」とは、単に「異なる信仰のために嫌がらせを受ける行為」として定義されています。この課の授業計画では、教師は「初期の時代のキリスト教徒の迫害は時折、ある特定の地域に限定されたものであったことを生徒に伝えてください...しかし、キリスト教徒が信仰のために拷問を受けたり、殉教したりしたことには一切言及しないように」と指示しています。その代わりに、生徒は、「なぜマイノリティが...困った時代に迫害に直面するのかを論じる」ことになっています。教師のよい美知識では、「背景情報」が、真の迫害者としてキリスト教徒を特定することで、議論を「関連性のある」ものにするのに役立ちます。
「(初期の時代に)キリスト教徒は、(田舎の人々とその古い神や女神に対する信仰)を揶揄して、彼らを「田舎者」を意味するパガーニ、もしく「ヒックス(百姓)と呼んでいました。これがパガンという言葉の語源です。

マイケル・チャップマンの見解では、社会的なアジェンダとは、今日の政治的に有利なグループが、キリスト教徒から迫害を受けていると考えるかもしれない人々の共感を得ることであると見ることができます。授業はロールプレイの練習で終わります。その中で生徒は「キリスト教の台頭によって乱された伝統的なローマ人の役を演じ、なぜ彼または彼女が新しい宗教に反対しているかを説明する手紙を書く」ように指示されています。

「ムハンマドは最初で最後の神の予言者である」

2018年1月、ニュージャージー州のチャタム中学校の生徒の両親は、同校が7年生の授業で視聴者をイスラム教に改宗させるようにデザインされた2つのビデオを上映していたとして、同校に訴訟を起こました。最初のビデオ「イスラム教入門」は、「キリスト教徒とユダヤ教徒を『異教徒』と表現し、ムハンマドが彼らを虐殺したことを、陰惨なまでに称賛している」という詩の音楽バージョンに合わせて上映されました。その両親は、5分間の課題が「コーランに従ってムスリムになることを奨励する...偏って、厳しく非難する言葉でいっぱい」であり、「ムハンマド(彼に平安あれ)は神の最初で最後の預言者である」と宣言していることに不満を持っていました。

保護者の一人であるリビー・ヒルセンラスさんは、イスラム教の宗教的な教えを事実として提示することに加えて、その親たちの一人のリビー・ヒルセンラスは、ビデオには生徒が異教徒を殺すことに言及している曲、「カサダット・アルブルダ」をダウンロードできるリンクが含まれていると説明しています。2つ目のビデオは、イスラム教の5本の柱についての説明で、あるイスラム教徒の子供が非イスラム教徒の友人にイスラム教の教えを説明した後、その2人の少年が「祈り方を学ぶ」ために立ち去るという漫画です。一方、課題のワークシートの構成要素では、ヒルゼンラス氏が「イスラム教の改宗の信条と祈り」と表現したシャハーダに焦点を当てています。

両親の代理人を務めたトーマス・モア法律センターは、「明らかに7年生(中学1年生)は、砂糖を塗ったイスラム教の誤った描写を受けた」とまとめています。彼らは、誘拐、斬首、奴隷売買、虐殺、非イスラム教徒への迫害、女性への抑圧について知らされていませんでしたが、これらはすべてイスラム教の名の下に行われているものです。


キリストとカイ・アルファ


信仰表現に対する反感はあまりにも広まっており、指導者が実際にキリストを信じていると主張するキリスト教徒の自主的なキャンパス団体さえも禁止されています。2015年には、カリフォルニア州立大学の、キリスト教の学生の組織であるカイ・アルファのスタニスラウス支部は、学生団体の指導者がキリストであることを主張したため、学生団体は活動を停止されました。大学側は、学生団体が指導者としての役割を含めて、誰かを排除することを禁止した無差別行政命令のために、同団体をもはや認めないと述べています。"大学のティム・リンチ副学長は、「彼らが認められない理由は、誰かがそのリーダーになるためには、信仰を表明しなければならないような、信仰に基づいた組織であることだ」と述べました。


自然法を取り消す

第10章の「自然法」の議論では、新たに制定された連邦政府や州の政策や法律が、同性愛に関する聖書的見解の表現や、2つの生物学的な性別が明らかに存在することを肯定することさえ、禁止していることが示されました。このような政策は、生物学的性別からの疎外感を表明した子供たちに、親が反対している場合でも、根本的な治療を義務づけています。トランスジェンダーの義務化は、男の子が女の子であると主張する場合、学校が女の子のトイレ、ロッカールーム、寮の部屋、ホテルの部屋、シャワー、およびスポーツチームへの無制限のアクセスを許可することを要求しています。精神保健の専門家は、そのような "ジェンダー異性 "を表現している子供のための、より深い原因に対処するカウンセリングを提供することを妨げられています。 医療専門家は、これらの子供たちに、強力な薬を使った思春期の抑制を含む治療を提供することを余儀なくされていますが、それには異性間ホルモンの使用が続き、生涯不妊症になる組み合わせもあります。


マキシンの問題

アメリカの隣国から北に向かい、健全な服用を望んでいた人々は失望しました。2019年3月、カナダのブリティッシュコロンビア州の最高裁判所は、14歳の少女が親の同意なしにテストステロン(男性ホルモンの一種)注射を受けることを命じました。裁判所はまた、次のように宣言しました。彼女の両親のどちらかが女性の代名詞を使用して彼女に言及したり、彼女の出生名で彼女に話しかけた場合、彼らは家庭内暴力の罪とみなされるだろうと。

マキシンは、のデルタ学区のスクールカウンセラーから、中学校1年生の時に男の子であることを認識するように勧められていました。マキシンが13歳の時、両親の不安にもかかわらず、ブリティッシュコロンビア州小児病院のブレンデン・ハーシュ博士と彼の同僚たちは、マキシンがより男性的な外見を身につけるために、テストステロンの注射を始めるべきだと判断しました。

裁判所は次のように判決を下しました。「性同一性障害の治療を放棄するようにマキシンを説得しようとすること、マキシンに『彼の』出生名で呼びかけること、マキシンを女の子として、または彼に直接または第三者にかかわらず女性の代名詞でマキシンに言及すること、は、以下のようにみなされる。」『家族法38条に基づく家庭内暴力』

彼女の父親は次のように苦悩を表現しています。「政府は私の親権を乗っ取った。彼らは実験のモルモットのようにマキシンを使っている... 5年後に彼女が『男性としてのアイデンティティ』を拒否したとき、ブリティッシュコロンビア州小児病院は、そこにいるのだろうか?そんなことはない。 彼らは気にしない。彼らは数字が欲しいんだ。」


正常な状態の放棄

10年前でも常識として受け入れられていた規範が、米国をはじめとする欧米諸国ではますます法に反するものとなっています。結婚や二つの生物学的性別の存在に関する伝統的な価値観や、子供の育成や教育を監督する親の権利と責任を持つことは、大人を社会的イ追放し、職業上の資格を剥奪し、雇用を失い、さらには投獄にまで危険にさらされることになります。

この大規模な社会実験が続けば、信仰を持つ人々は、結果にかかわらず、国家に従うか、良心に従うかを選択しなければならなくなるだろう。キリスト教共同体全体が立ち上がり、信教の自由の権利が侵害されないように要求する準備ができていることを期待したいところですが、聖書に基づかない信念は、活動的なクリスチャンの間でさえも広まっています。


権利の廃止

第10章で述べたように、政府が強制したトランスジェンダーは、キリスト教後のグノーシス的な宗教を国民に押し付けた最新のエピソードにすぎません。それが権威主義的であるのは、自然と常識がそれに反対しているからです。その独裁は、人気投票で選ばれたのではなく、米国の教育省と保健福祉省の選りすぐりの裁判官や左翼官僚からの違憲な命令によって強制されており、彼らの主張に挑戦する勇気のある人たちを辱め、脅迫する怒りに満ちたLGBTQの暴徒の支持を得ています。最終的には、その独裁は政府の力に支えられています。投獄したり、致死力を行使したりすることもできます。

アメリカの建国者たちは、政府がその権限と権力を悪用する可能性があることを知っていたので、憲法補正第2条に破壊的な銃器を所有する権利を明記しました。トーマス・ジェファーソンは、1787年12月20日にジェームズ・マディソンに宛てた手紙の中で、民間銃器の目的は政府に対する牽制であると述べています。彼は書いています。「支配者が時々、国民が抵抗の精神を維持するために武器を取るという警告を受けなければ、どのような国が自由を維持することができるというのか。国民を武器を取らせなさい。」

しかし、その権利はさらなる攻撃にさらされています。2018年11月には、メリーランド州ファーンデールで、 ゲイリー・ウィリスさん(61歳)は、いかなる犯罪にも有罪判決を受けていない、あるいはいかなる正当な手続きによっても権利を失っていない銃所持者から、銃器の没収を認める州の「赤旗」法を執行しようとした警官に射殺されました。「赤旗」保護命令は、銃の所有者が、家族や警察、または他の人にとって危険であると認識されている場合、そのような人々によって求められることがあります。ウィリスの姪、ミシェル・ウィリスは、彼女の叔父が 「自分自身の心を話すのが好きだと言ったのです。私は今、ただ唖然としています。叔父は誰も傷つけたりしません。」どうやら、家族や他の人の前で自分の政治的見解を率直に発言することは、診断や正当な手続きなしに、銃器の没収につながる可能性があるようです。

約2000年前、皇帝ネロの支配下にあったローマの初期キリスト教徒は、その評判が良くない信仰のために殉教しました。ローマの歴史家タチタスは、「犬に引き裂かれて死んだり、十字架に釘付けにされたり、炎の中で焼かれたりして、昼間の光が消えて夜の照明として使われた」と述べています。アメリカで信仰を持つ人々が威圧されて、黙認するならば、迫害されているクリスチャンや他の少数派信仰のメンバーはどこで支援と避難所を見つけるのでしょうか?もし国家が神の承認と聖書に基づくキリスト教の実践を公共の場から追い出し続けるならば、クリスチャンは、神の承認とキリスト教の実践に吸収されるという選択を迫られることになるでしょう。非宗教的な文化を否定するか、毅然とした態度でその結果に苦しむかのどちらかです。

旧約聖書と新約聖書の神を拒絶し、エアブラシをかけた、女性化したイエスを受け入れている弱々しいキリスト教は、現代の攻撃的で過激な無神論には敵いません。そのような思想は、北朝鮮や中国のような共産主義国で何百万人ものキリスト教徒を拷問し迫害することにつながり、イスラム教徒が、平和的に礼拝している何千人ものキリスト教徒を殺害する攻撃を行うことは言うまでもありません。何万人もの信者が拷問されたり、虐殺されたりしているのを黙って見ていることは、愛の行為ではなく、臆病者の行為です。ネヘミヤの時代のように、クリスチャンは片手で活気ある信仰の共同体を再建し、もう片方の手では必要に応じて使用できる武器を持つように召されています。キリストの信奉者が再び勇敢になる時が来たのです。

 ≪パート4終了 エピローグへ続く≫

エピローグ

勝利を収めたマルシオン

And Joseph went to Bethlehem. To be enrolled with Mary, his wife, who was then pregnant. And She brought forth her firstborn child. And her name was chosen to be Judith. "[Luke 2:4-5, 7,21]

(原書の直訳)
そしてヨセフはベツレヘムに行った。その時妊娠していた妻のマリアと入籍するために。 その後、彼女は第一子を産んだ。そして、彼女の名前が選ばれて、ユディトになった。
(ルカ2:4-5, 7,21)

(参照:ルカによる福音書)
 2:4ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。 2:5それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであった。
 2:7初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。
2:21八日が過ぎ、割礼をほどこす時となったので、受胎のまえに御使が告げたとおり、幼な子をイエスと名づけた。

And She bearing her cross, went forth into a place called the Place of a Skull, which is called in the Hebrew Golgotha; There they crucified her, and two others with her, on either side one, and Judith in the midst. [John 19:17-18]
(原書の直訳)
そして、彼女は十字架を背負って、ヘブライ語でゴルゴタと呼ばれるされこうべの場所と呼ばれる場所に行った。そこで彼らは彼女を十字架につけ、他の二人も彼女と一緒に、その両側に一人ずつ、その中央がユディトであった。[ヨハネ19:17-18]

(参照:ヨハネによる福音書)
19:17イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴダ)という場所に出て行かれた。 19:18彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。

Mary Magdalene and the other Mary came to see the tomb. But the angel said to the women, “Do not be afraid, for I know that you seek Judith who was crucified."... “She is not here; for She is risen." [Matthew 28:1, 5-6]

(原書の直訳)
マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に来た。しかし、天使は女たちに言った。「恐れてはいけない 十字架につけられたユディトを 捜していることを知っている」「彼女はここにいない」...「彼女はよみがえられた」「マタイによる福音書28:1, 5-6]

(参照:マタイによる福音書)
28:1さて、安息日が終って、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓を見にきた。
28:5この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、 28:6もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。 

PASSAGES FROM JUDITH OF NAZARETH, LBI INSTITUTE, 2003
ナザレのユディトからの一節、LBI研究所、2003年


伝統的なキリスト教に対するマルシオニズム/グノーシス主義の勝利は、同性愛者の権利、銃規制、同性婚、中絶、平和主義、そしてキリスト教宗派の支持による宗教的無関心主義によって証明されています。それは、トーラーの多くを無効にしたり、軽減しようとする神学的な努力や、人間の行動を聖書に結びつける「係留ロープ」を断ち切ろうとする努力によって証明されています。そのことは、旧約聖書の神を「処刑」しようとするオタワ大学の宗教学教授ナオミ・ゴールデンバーグをはじめとする著名なフェミニスト神学者の発言によって立証されています。彼女の著書『神々の変化』の中で、ゴールデンバーグは次のように書いています。「西洋文化の中で、フェミニスト運動は、キリストとヤハウェのゆっくりとした処刑に従事しています... キリストとヤハウェが地面に転がり落ちるのを見ているうちに、私たちは外部の神の必要性から完全に脱却してしまうのではないでしょうか。」


宇宙的な児童虐待者

グノーシスの新時代に備えて、『イエスの失われたメッセージ』の中のスティーブ・チョークとアラン・マンは、キリスト教会からすべての十字架を取り除き、贖罪の教義を宗教史のゴミの山に追放することを求めています。彼らは次のように書いています。「もし十字架が神が人類に対して犯した復讐の個人的な行為であり、その息子が背負ったものであるならば、敵を愛し、悪で悪に報いることを拒むというイエス自身の教えをあざ笑うことになります。」この一節を説明しながら、シャルケは次のように述べています。「私の見解では、刑罰の代用(暴力と正義の報いの概念に根ざした理論)の真の問題は、少なくとも現在教えられ、理解されているように、神の性格に関する真のキリスト教的な理解や、真のキリスト教中心の世界観、例えば、イエス自身の非暴力的な『悪のために悪を返すな』という人生へのアプローチとは相容れないことです...。ですから、私の 『イエスの失われたメッセージ』の中で、神を「宇宙的な児童虐待者」に還元することの悲劇についてのコメントを述べているのです。」

同様に、エピスコパル司祭のアラン・ジョーンズは、怒った神をなだめるためのキリストの身代わりの死は、「下劣な教義」であると主張しています。彼は次のように書いています。「普遍的な救いの行為としてのイエスの死に対する教会の異常な執着は終わりにしなければならず、十字架の場所はキリスト教の信仰の中で再考されなければなりません。なぜでしょうか?苦しみのカルトと、その背後にいる執念深い神の故です。」


アンディ牧師の説教

十戒は裁判所から、十字架は教会から削除される中で、グノーシス主義は、アメリカと世界中に芽生えたメガチャーチに受け入れられるようになりました。アメリカで2番目に大きな教会であるノースポイント・コミュニティ・チャーチのアンディ・スタンリー牧師は説教を行い、その中で、現代のキリスト教は、旧約聖書から解き放たれたものにならなければならないと述べています。彼は言いました。「イエスの福音は、それ以前のすべてのものから完全に切り離されている 。・・・神はユダヤ人を通して世界のために何かをしてくださいました。しかし、「ユダヤ人を通して」という部分はもう終わったのです。そして、「今、新しく、より良い、包括的な何かが来ています。」スタンレーは旧約聖書を「暴力的」で「不穏なもの」で 「現代の感覚を害する本 」と表現しました。彼は続けて言いました。

多くの人が聖書や聖書の中の何かのせいで 信仰を失っています 特に旧約聖書です。 一度旧約聖書の歴史的な事実を 受け入れられなくなってしまうと... 信仰のカードが突然崩れ落ちてきてしまいました。 なぜなら彼らは、すべて真実だ、すべて神の言葉だと教えられていたからです もし一箇所でも真実ではない部分を見つけたら...ああ、ああ、すべてが崩壊してしまうのです。

キリスト教ではありません。 聖書がキリスト教を作ったのではないのです。イエスの復活が キリスト教を創り、始まったのです。 あなたの旧約聖書のカードの家全体が崩れ落ちることがあります。

同じ信条はローマで1900年前に、マルシオンによって伝えられていました。別のカリスマ説教者で、初代教会の指導者たちが「サタンの最初の誕生」と非難した人です。テルトゥリアンによると、「マルシオンは、ティベリウスの時代に未知の神によって、すべての国の救いのために啓示されたキリストは、ユダヤ国家の回復のために創造主によって命ぜられたキリストとは異なる存在であり、これから来るキリストであるという立場を敷いている。」ということです。

マルシオンのイエスは神の子ではなく、光の領域から来た天人でした。彼は人間の体を持たず、十字架で死ななかったので、預言者イザヤが予言した「苦難のしもべ」ではありませんでした。

そして、彼の教えを遠の闇に放棄したすべての人々に関わるために、彼は再び来ることはありません。

キリストが再び来ないという信念の中には、最初のキリスト教の異端を受け入れ、それによってかつて聖なるものであったものをすべて捨ててしまったすべての人々の唯一の希望が眠っています。

  ≪終わり≫
翻訳:kijoksori 翻訳完了日:2020年6月18日


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