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基元節4周年と真の父母様聖婚式2周年記念日2019年9月2日(天暦8月4日)
4th Anniversary of Foundation Day,
and
2nd Anniversary of the Cosmic Perfection Blessing 09/02/19
*エルダー部長:開式の辞
基元節は本来、お父様が願われていらっしゃったのは、 天基4年天暦1月13日でした。しかしその時はむしろハン・ハクジャか決定的に堕落する日となってしまい、アダムとエバの堕落よりも悲しい日となりました。
私たちはお父様の肉身がおられない状況の中で、2代王様に侍りながら道を探していかねばならないので、実際、基元節を段階的に成していくことになりました。
最初に基元節が定められたのは、天基6年、天暦7月17日、陽暦2015年8月30日でした。
この日、真のカインであられる国進様がご自分の財産で王冠を準備されましたここで準備された王冠を、弟であられる2代王様の頭に被せられた日でした。
そして、真の母であられる康賢実真のお母様が勝利された日、勝利された日、それからそれまで一人でおられたお父様が新婦を娶られるとき、完成段階の新婦を娶られた時これが2年前の天基8年天暦8月4日でした。その時初めて、歴史上初めてエバの位置が完成されたのでした。こうしてこの日、天歴8月4日が基元節に定められたのです。
第12章
12:1また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。 12:2この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。 12:3また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、大きな、赤い龍がいた。それに七つの頭と十の角とがあり、その頭に七つの冠をかぶっていた。 12:4その尾は天の星の三分の一を掃き寄せ、それらを地に投げ落した。龍は子を産もうとしている女の前に立ち、生れたなら、その子を食い尽そうとかまえていた。 12:5女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。 12:6女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。
*訓読
三 四位基台と天国
1 天国は家庭が入る
先生が、今まで家庭的にだけこの事をしてきたなら、迫害を受ける事がありますか。先生は、お父さん、お母さん、親戚一家、姻族の八親等まで、全部集まった場で、み言で彼らを感動させる自信があります。間違いなく、親戚や一家全体をみ旨の前に立てる自信があるのです。それが天のみ旨ではない為に、そうする事ができませんでした。イエス様もそうする事ができなかった為に、自分の親戚の前から追い出されました。
しかし、皆さんはそのような全ての時を過ごした立場なので、親戚を伝道する事ができ、父母を捕まえて涙でも流しながら、自分の切なる心情を吐露する事ができる時代的環境を迎えました。その為、皆さんの立場は先生の立場よりいいのです。今は、皆さんの親や親戚たちがみ旨を受け入れまいとするなら、泣き叫んでどんな手を使っても感動させる事ができる時です。
お兄さんは、どうしても対話するのが少し難しいですが、弟ぐらいは、「やあ、お前、信じるのか、信じないのか」と言いながら、小突いて強制的にでも信じるようにできる自由な時が来ました。このような時を迎えているのに、皆さんが責任を果たせなくては、天の前に面目がないのです。先生もこれからは、そのような人達に対する事ができません。これをしなければ、天国に行けません。天国へは、家庭をなしてこそ行けるのです。(二一―六六)
統一教会は、個人では絶対救われ得ないと見ます。個人としては、天国に行けないのです。一人では行けません。原則がそうです。エデンの園のアダム・エバが二人一緒に天国に行くようになっているのであって、夫または妻だけ天国に行くようになっているでしょうか。夫婦が合わさり、家庭が合わさらずには、天国に行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行き、母は天国に行けば何の天国ですか。天国は、夫婦が行くべきなのであり、家庭が行くべきなのであり、家庭だけでなく、家庭の一族が行くべきなのであり、国家全体が行くべきなのです。(五〇―六三)
天国は、どこから始まるのでしょうか。自身が生まれた心情的起源までも否定する所から始まるのです。それで、修行の道を行く人は、独身生活をするのです。しかし、ここには難しい問題があります。再臨主が来て、この問題を解決してあげる時までは、個人的問題に逢着するするようになるのです。
個人の救いを中心にしては、これから行くべき道がない為に、人類を救う為には、家庭を救わなければなりません。このような家庭全体が救われ得る道を開いてあげる為に、再臨主が再びこの地に来られるのです。今日キリスト教徒が、「イエス様を信じて天国に行く」と言っていますが、全部個人主義に陥っているのです。本来天国には、一人で行くようになっていません。アダム・エバが堕落しないで、神様の愛の圏にとどまっていたなら、彼らは天国に行くでしょうか、行けないでしょうか。そのようになったなら、地獄はありもしません。
天国は、夫婦が息子、娘を率いて行く所です。息子、娘、孫たちと共に、その一門を率いて行く所です。さらには、国全体が行く所です。それ故、天国になるのです。天国は、このようにしてなされる所です。(四一―三〇〇)
一人で座って「ここが天国だ」と言えば、神様が考える時、どれほどもどかしいでしょうか。これを持って「良し」と言えますか。しかし神様が、人間世界を見る時、宗教の世界を見る時、どれほどもどかしいですか。(九六―七一)
我々統一教会は、どのような水準にまでなるべきでしょうか。釈迦牟尼よりも立派な人になるべきであり、イエス様や孔子よりも立派な人になるべきです。今までの宗教の目的は、個人を救う事でした。しかし統一教会は、個人の救いよりも、家庭の救いを目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点は、これです。救いを目的としますが、家庭を救い、天国に行っても自分一人で行かないのです。
統一教会の救済観は、夫は天国に行き、夫人は地獄に送ろうというのではありません。二人とも天国に行こうと言うのです。母、父を地獄に送るのではなく、母、父を連れて、息子、娘も連れて、天国に行こうと言うのです。統一教会は、自分が愛する家庭、自分が愛する氏族までそっくり連れて、天国に行く事ができる道理を教える宗教である為に、他の宗教とは次元が違います。それ故、今までの宗教は、独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は、世界の為の家庭であり、神様の為の家庭です。これが統一教会の信徒が行くべき
道です。(三四―三五九)
今日、幸福とは何でしょうか。一番最初に話しましたが、我々人間の本性が、より次元の高い未来の幸福の基盤の為に前進する時、現在暮らしている家庭で幸福の対象者が誰かと
いう時、夫には妻であり、妻には夫であり、父母には子供であり、子供には父母です。この基地から天国建設が可能なのです。
「天国はあなた個人にある」という話はされましたが、「天国はあなたの家庭にある」という言葉は言えなかったイエス様が、どれほど可哀想であり、孤独であられたかを考えてみてください。それでも、皆さんは家庭をもち、幸福を謳歌しています。ある時は、靴を脱いで、世の中が何だかんだ、国が何だかんだと反対しても、それをけ飛ばして、漢江の橋から二人が投身自殺して流れていって、魚の餌になっても有り難いと言えば、それが幸福なのです。そうでしょう。
我々にはそうする事のできる一瞬があるのに、天下を救う為の求道者の主人であり、神様のひとり子であられるイエス様が、このような環境、天国基地を夢にも見る事ができず、
「天国はあなたの心にある」と言いながら、心で天国を犠牲にしようと歩き回って三年も満たせずに十字架に帰られたので、その方の生涯が、どれほど孤独であり悲惨かと言うのです。
イエス様が願った天国が心の天国ならば、心の天国を越えて環境の天国を築くという事は永遠に不可能なのです。家庭天国を越えて、社会天国を築き、国家天国を築くというのは永遠に不可能です。世界天国はいつなされて、天上天国は、いつ成し遂げられるのでしょうか。メシヤには、万民を救い、霊界を解放して、神様を解放させるべき責任があるのです。
このような立場を考える時、どれほどあきれるでしょうか。
イエス様は、十字架にくぎ打たれて死んだのは何でもないのです。そこから倒れれば、天の前に面目が立てられないのです。天国理想、理想社会の覇者として立つようになるから、面目を隠す事ができ、覆ってくれる風呂敷があれば訪ねていきたかったのです。百回死んでも、その恥ずかしさを免れる道がないイエス様の心情を分かる者が、誰かいたかと言うのです。(一二〇―四八)
天国という所は、一人では行けません。天国という所は、必ず相対理想を決定づけてこそ入るようになっている為に、堕落人間が天国に入る為には、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければなりません。皆さんに祝福をしてあげるのは、天国の門をすっかり開けておく事です。祝福は、閉じている天国の門を開けてあげる事です。
その門から家庭が入るのです。息子、娘を持って入らなければならないのです。家庭は、全ての実績をもった歴史的な実にならなければなりません。神様の六千年の復帰歴史が、一次アダム、二次アダム、三次アダムの時代を経たので、家庭でも三人の息子を経て、その三人の息子にも相対を立てておかなければならないのです。それで、家庭的に入るのです。(一五二―二四〇)
2 イエス様と家庭
神様を中心として、永遠に共に暮らす事ができる愛の家庭を標準として教えてくれた宗教が、キリスト教です。神様が人間に会おうとするのも、家庭をつくる為です。人間の願いがこれです。これ以上の願いはないのです。
イエス様が家庭をなそうとしましたが、そのみ旨をなせずに十字架に亡くなりました。新郎新婦の名前を残して逝かれたのです。それでイエス様は、再び来て小羊の宴をすると言いました。これは何かと言うと、神様が安定し得る理想的な家庭を出現させる事です。それによって、イエス様は「真の父母」の立場に行くようになるのです。「真の父母」の立場から、真の子女を生んで、真の兄弟をなし、このような真の家庭を中心として、真の氏族と真の民族をなし、新しい民族と新しい国家を形成なさらなければならないのです。これをする為に、イエス様は再び来なければならないという結論が出てくるのです。(三九―三四四)
*世界宣教本部長報告:エルダー本部長
*一般教書:文亨進二代王
*世界宣教本部長報告:エルダー本部長
*一般教書:文亨進二代王
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