聖霊のデュミナスパワーは罪を受け入れてこそ
2019年2月17日 英語説教 文亨進二代王
案内文:聖霊の力(デュミナス)とイサクの信仰、罪人であることを認めることなど主題は同じですが英語説教と韓国語説教とではかなり違うようです。
2018年2月28日生命書入籍祝福式(鉄の杖祝福式)以降、世界のマスコミが注目しだしてから、同じ内容でも英語説教は対外的に広く一般に、韓国語説教は聖殿戦士向け(内輪話、英語では言えなかったこと)に、説教の質が明らかに変わりました。
韓国語はこちら→聖霊按手は自分を捧げるイサクの心で<全文> 2019年2月20日 韓国語説教 文亨進二代王
サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載です。字幕化は2nd Israelさん。いつもありがとうございます。
2019年2月17日英語説教 (全文)文亨進二代王
翻訳:BAMBOOS
お知らせから
王妃とそのチームが動画を公開しています。先月始めたところですが、最初の動画が2万ビューを超えました。最初の動画としては非常に早く、大きな達成です。全て韓国語で、フェミニズムや、若い女性の未来を破滅させるフェミニズムの嘘に対して真剣に批判を行っています。
王妃はフェミニズムの嘘についてちょうどまた動画を上げたところです。これが韓国の大きなチャンネルで取り上げられました。自分たちのところで使用して良いか、と許可を求めて来ました。そして多少編集が入ったものの、何万人もの視聴者がいる大きなチャンネルで、ほぼ完全に彼女の動画を放送したのです。
それが広まって、サブスクリプションが急速に増えました。つまりこの30代、40代の女性たちが隙間市場を埋めることができ、フェミニストの母たちによって嘘を洗脳されている若い女性たちに方向性を示すことができたのです。王妃はいくつかの思想を掘り下げて、若い女性たちに驚くほどうまく示しています。
実際わずか数週間でこうして聴衆を引き付けたのは、目を見張るような結果であり、市場が成熟していて真実に飢えており、あらゆる大衆文化の言いなりになることにうんざりしていることを示すものです。それがとうとうセカンドオピニオンを得ることができたのです。
ユジンはすくに韓国に帰ってしまいますが、王妃に編集などで協力してくれました。彼女たちのチャンネルは韓国でもとても大きなものになっています。彼女は韓国に帰って、韓国の保守運動のために左翼と戦うつもりです。しかし王妃の動画はユーチューブでヒットしています。見てくれた人全員に感謝しています。メッセージは伝えられています。
今この場所から強い女性が現れたということは、驚くべきことです。世界について明確に理解している女性です。明確であり、洗脳されておらず、公立学校によってレベルを下げられていません。あらゆる機関の嘘を理解しています。結婚、子供、力と名誉などの社会の本当の価値を支持する、信仰を持った高潔な女性たちです。
人々がこうした女性たちのことをますます知るようになり、それに従ってくる人たちは弟子となり、キリストに近づくことになります。なぜならキリストに似た女性であり、信仰を持つ女性であり、羊飼いのような導き手であるからです。弱い女性ではありません。本当の守護者、導き手となるのです。この女性たちは、普通の女性に見えても普通の女性ではありません。普通の女性は弱く、思考停止に陥り、レベルを下げられています。ここにいる女性は訓練を受け、守護者となり、危険なことを学び、エピジェネティクスが解放されています。
デュナミスの力
イサクはアブラハムと歩んでいました。彼は父親を信頼し、父親のすることを信じていました。父の話、自分の命についての予言を信じていました。言い換えれば自分の命を父親の手に委ねていたのです。それは神様が我々に求めていることです。それが大きな試練です。
みなさんは誰かの手に自分の命を委ねなくてはならなくなります。それがポストモダニズムであろうと、あれこれ教える教師であろうと、誰かの手に命を預けることになります。神様が我々に問いかけるのは、どこで自分の命を神様に委ねるのかということです。アブラハムとイサクのように神様を信頼するのか、ということです。
我々がもしそのような考え方、心情、気持ちを備えるなら、空気が全て変わってきます。天使ですら何が起きているかを感じることができます。神様がその手を止めるよう言われた時、天使でさえもう為されたのだと分かりました。というのも、彼らはイサクの心、そして父親との一体化によって空気が変わったことを感じることができるからです。
我々が祈祷を受ける時これは重要です。我々の多くが熱心にお互いに祈っています。いい加減な祈りをする教会が多くあります。我々は床を叩きながら熱心に祈り、大声で神様に叫びながら、人々のために祈ろうとします。熱心な祈りです。熱心な祈りを捧げるために、人がどれほど自分の命を注いでいるか理解してください。
あなたのために人が祈る時、「彼のことを考えていますよ。あなたのことを祈っていると彼にメールで送りますので」というような態度で祈るのではありません。そうではなく、人のために祈る時は汗を流しながら、天に向かって叫んで、熱心に祈るのです。そのようにしてあなたのために祈っています。
自分が死ぬ間際に、「去る時が来ました。受け入れなさい」と、いい加減な祈りをして欲しいとは思いません。自分の命について真剣な人を望みます。
ある姉妹が激しく戦っています。リサです。彼女はあらゆることについて戦うだけの力を持っていないかもしれません。しかし、彼女のために霊的に熱心に戦っている人たちがいます。当然のことと思わないでください。あなたのために祈る人たちから、どれほどの努力と血と汗が注がれていることでしょうか。彼らの命からの真剣な精力と努力です。
我々は人々の祈りを軽々しく受けてはいけません。特に熱心に祈っている場合。そうした祈りに真剣に感謝しなければなりません。なぜならそれは、人が惜しみなくただ与えるものではないからです。熱心に祈っているなら、あなたのことを熱心に思っているということです。それが空気を変えるものです。霊界でも天使はそれを感じることができます。彼らはアブラハムとイサクについてもそれを感じました。イサクの熱心な信仰にそれを感じました。また父親に対する信頼にもそれを感じたのです。命令が来た時、手を止めるのだと分かりました。
ここにいる人の多くが他の人のために熱心に祈っていますが、それを軽々しく取ってはなりません。彼らも戦っています。彼らも戦いの中で祈りと支援を必要としています。
(使徒行伝10章)38節です。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。
今度は11章(13節)に飛びましょう。
13:すると彼はわたしたちに、御使が彼の家に現れて、『ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。14:この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう』と告げた次第を、話してくれた。15:そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった。16:その時わたしは、主が『ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは聖霊によってバプテスマを受けるであろう』と仰せになった言葉を思い出した。
聖霊は無制限のキリストです。それはキリストの力であり臨在であり、無制限の力です。創造主、無制限のキリスト。「そこでわたしが語り出したところ、聖霊が、ちょうど最初わたしたちの上にくだったと同じように、彼らの上にくだった」。ペンテコステの瞬間、聖霊が降りた時・・・舌が分かれるようにして聖霊が彼らの上に降りました。
聖霊を受けた時、心の中で何かが変わります。依存を続けるとかいうことではありません。何かが内面で変わるということです。神様の火が触れると、神様の火が心を支配すると、何かが変わり始めます。何かが燃え尽き、破壊されます。そして再創造されます。世の中に対するかつての見方が、人々が変わり始めるのです。変化し始めます。
何かが内側で変わり始めます。ヨハネは水で洗礼を授けましたが、キリストは聖霊で洗礼を授けました。生きた神様の霊が我々の中に宿っています。我々の中にキリストが内在します。おなかの中に何かがあるのが分かります。腹の中に何かがあります。腹の中で何かを感じます。何かが間違っていたり、外れていたりする時、捕食者が木の陰から見ている時、腹の中からある種の感覚が出てきます。暴力的な対立を経験した人は、それが起こる前に何かが現れるのを感じると言います。第六感とかいろいろ呼び名はありますが、腹の中で警告する何かです。ヨハネ7章38節には、「腹から生ける水が川となって流れ出る」とあります。
中核が内面で変わります。言葉の知識のような物ではありません。知的な知識のような物ではないのです。聖霊によって洗礼を受けると何かが内面で変わります。物事の感じ方、直感での捉え方が変わり始めます。単なる頭の中の知識ではありません。
良心が刺激を受けて、呼び起こされます。善悪を判断する良心が我々の中にあります。聖霊の力が入ると、善悪をもっと強く分立することができます。悪に対して、敵を倒すことのできる火のように強くなることができます。善に対しては、保護する火になります。必要とする人をまわりから保護します。
聖書ではデュナミスの力と呼び、ダイナマイトの語源であるデュナミスと同じです。ダイナマイトのような爆発的な力です。聖書で神様の力のことをいう時、デュナミスの力という時は、爆発的な力のようなことです。爆弾は地形を変えます。爆弾を山に仕掛ければ山を低くすることができます。莫大な力を持っています。
鉄の杖はデュナミスの力を持っています。それは制御された力の爆発だからです。悪に対抗し、善のために使用すべきものです。聖霊の内在によって、爆発的な力を持つデュナミスの力が内側に生じます。安定して徐々に熱くなる力ではありません。爆発的な力のことです。門を爆破し、山を爆破してどけることのできる力です。力強い力が我々の内側にあり、我々の中を通ります。
手を置いて人のために祈る時、自分の精神や力が彼らに流れ込み、癒そうとするのではありません。それは神様の力です。我々はただ、水が流れる器となるべきです。その生きた水の源ではありません。我々はただ器になりたいのです。生きた水を流す道具になりたいのです。その人に触れますがどうなるかは分かりません。しかし、神様の力と神様はご存知です。神様は個々人の心配事を全てご存知です。全ての疑い、全ての心配をご存知です。この若者たちもそうです。彼らが出てきてみなさんのために祈る時も。
彼らは心の中で、この人のために自分の霊的エネルギーを奮い起こさなければならない、というように混乱しているかもしれません。違います。我々や自分たちのことが問題ではありません。それは神様が自分を通じて働かれるようにするということです。そのようにすればプレッシャーはありません。
自分が祈っている人が癒されなければならない、というように、プレッシャーを感じる必要はないのです。そう願うのは素晴らしいことですが、背負い込まないでください。青年たち、いいですか。それはあなたが負わなければならない重荷ではありません。ただ、神様があなたを器として使われるようにするだけで良いのです。
あなたが祈った人の中には、神様の奇跡によって癒される人もいます。神様に栄光を捧げなさい。しかし、その人のために祈る器とならなければなりません。どういうわけか神様は、その人を癒すために奇妙な方法であなたを用いることがあります。
我々は信じられないような癒しを見ました。科学と医者に反するものでした。しかし、やはりそれは我々ではなく、背負い込む必要はありません。自分の霊的エネルギーが治癒すると考えるのは妄想です。自分の霊的な力などではありません。ただ神様にからっぽの器にしてくださいと頼みなさい。
運任せにしないでください
我々はヘマをすることがあります。私は昨日やってしまいました。疲れていたのです。真剣さが足りませんでした。しかし悔い改めたので、また今度別の人に向けて頑張ります。
ただ我々と一緒にいるだけではだめです。キリストを他の人に広めたいという願望――これは、ただ我々の中に留まっているべきではありません。願望は行動に移す必要があります。
私の言っていることが全員分かると思いますが、ある人に会って、その人に(キリストについて)話さなければと思うことがあるのです。神様が完璧な状況を準備してくださって、イエス様について話さなければならないと感じます。みなさんの中で、特に古い勇士たちはきっと多くの人が分かる話だと思います。人生でこれを感じたことが必ずあるはずです。
そしてそのように行動しなかった場合、どうなったか分かりますか。後悔したのです。その人にはもう二度と会えません。しかしそのうち、起きたことを意図的に忘れようとし始めます。自分を断罪せずに、次は臆病にならないで前進しよう、その人に話すようにしよう、と。
素早く、十分に時間をかけてやらなければ失うことになります。そしてその願望を失い、聖霊は離れます。心は沈み空虚に感じるようになります。なぜならそれは、キリストによって永遠の命と喜びを感じ、人々が救いを受け解放されるということを、他の人に共有することを通じて出て来るものだからです。
それは、人々が救われることは、どんな癒しよりも良いことです。癒しは神様の存在と神様の働きに対する素晴らしい証人です。しかし、どんな癒しよりも素晴らしいことは、人が救われることです。地獄に行こうとしていた人が、今度はイエス様の隣にいるようになるということなのです。
我々の中で余りにも多くの人が神様の霊に圧倒され、満たされて、聖霊の洗礼をうけているに違いありません。
・・・願望を持っているのに・・・。思いがやってきて、もうできない、プライバシーの侵害になると言い訳を重ねて失ってしまいます。知らないうちに聖霊は去っていくのです。神様の臨在に対する感覚を鈍らせずにいれば、我々は人々が救われることを渇望するようになります。渇望、そして喜びです。
ここに新しいゲストを迎えることがあります。様々な場所から何人か若者が来ました。そしてキリストに命を捧げました。もう二度と彼らに会うことがないかもしれません。しかしその日、キリストに命を捧げたのです。
1カ月程前、体の大きな人がここに座っていました。その人に会うことはもうないかもしれません。しかし彼の人生で何かが変わり、自分の命をキリストに委ね、サタンから神様へと捧げました。そうしたことに興奮しなければなりません。外面では分かりませんが、その人に革命的なことが起きています。
どんなにおいしい持ち寄り料理よりも満足感を与えるものは、人が救いを受けることです。彼らがついに、自分の命をキリストに捧げようと約束することなのです。霊的な目が開いて、彼らの魂に喜びを見ることができます。喜んでいるのです。なぜなら、彼らが今永遠の命の賜物を与えられたからです。
小さなことのように思えるかもしれませんが、大きな物である必要はありません。自分の命を変化させたというその小さな出来事。その人に、これから他にどんなことが起こるのを神様が準備しているのかは分かりません。しかし始まったということは分かります。過程は始まったのであり、変化は起きたのです。そして変化の兆候はだんだん増えていきます。
誰かが命をキリストに捧げるということに、本当に胸が躍ります。それほど豊かなことはありません。誰かがついに自分を解き放ち、自分自身と自分の道を信頼し、行き止まりを自覚して・・・。最終的に自分を解放します。
なぜなら自分で牢獄に入っているようなものだからです。誰かが解放されるのを目撃します。悪魔によってまわりに築かれた牢獄から解放されるのです。いったん解放されると、彼らの命がどこへ行くのか分かりません。南に行くのか、北に行くのか、西に行くのか、東に行くのか。
どんな場合でも神様は彼らの人生に何か働きかけています。神様は人生を変えておられます。教師や講師であるなら、人々の人生を変えることがどれほど素晴らしいことか分かります。教師や講師として、人生が変わっていくのを見るのがどれほどの喜びとなるでしょうか。創造主である神様ならその喜びはどれほど大きなものでしょうか。
命の根源である神様です。人間に自由な世界を与えた神様にとって、どれほどのものでしょうか。神様は人間に自分を選択して欲しいと願っておられます。その選択がなされた時、どれほどの喜びとなるでしょうか。その瞬間を過ぎ去らせないでください。
もしかしたら、神様はあなたがある人に鉢合わせするような、あるいはある人が「イエス様を知っていますか」と尋ねて来るような時間を準備されたのかもしれません。
物を盗んだことはありますか。嘘をついたことはありますか。結婚しているのに浮気したことがありますか。女性に情欲を抱いて、心の中で姦淫を犯したことがありますか。神様の名前をみだりに唱えたことがありますか。それを自分で認めるなら、あなたは嘘をつき、盗み、姦淫を犯し、神を冒涜している人です。
それが当てはまる場合、そして神様が正義の神様であるなら、あなたは裁きの日に裁かれます。あなたは最終的にどこに行くと思いますか。あなたの話した通りなら、良い場所でしょうか悪い場所でしょうか。我々に神様が必要だと悟らせてくれるのは、自分たちの罪です。罪がそれを悟らせてくれます。
私はヒトラーではありません。人を殺していないし虐殺もしていません。でも神様はそのようには見ていません。嘘をついたことがあれば嘘つきです。罪を犯しました。神様の名前をみだりに使うなら、罪を犯したということです。情欲を持って女性を見たなら、罪を犯したのです。
公正な世界、公正な国では、犯罪は罰せられなければなりません。そうでなければ正義はありません。犯罪者はいつも罪を免れてしまいます。正義がなく、誰もが不満を漏らします。
我々に直面する罪の現実が、我々に衝撃を与えて自己満足から抜け出させ、こう悟るのです。私は本当にそういう人間だ。神様はご自分の完璧さと比較して私を裁かれるのだ。私は神様から遠い。少なくとも、嘘をつき、盗み、姦淫を犯し、冒涜した。神様の前に主要な罪を全て犯した。そうであるならば、裁きの日に私は裁かれる。
それは正しいですか。正義の世界なら正しいのです。
どんなに自分が完璧だと思っても、清い、罪のない神様に対して、我々は罪を犯しています。神様は嘘をつかず、盗みません。動物や他人と比べるのではなく、神様と比べます。すると自分が多くの罪を犯していることが分かります。
罪のない完璧な裁判官の前に出て、その人が私を見れば、私には罪があるのです。全ての罪は犯罪となり、公正な世界では罰せられます。しかし、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」のです。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」なのです。それが逃れる道です。
つまりたとえ我々が罪人であっても、キリストは我々の罪のために死なれました。もちろん、キリストは王国を説き、王国を築くことが目的でした。人々が失敗し、キリストを拒絶したのです。霊的救いをもたらすために、神様によってその道が用いられました。
罪人としてキリストから分かれた人たちは、十字架がもたらしたものを見ます。我々は自分の罪の対価を支払うべきでした。それが裁判所から自由に出てきました。キリストは、あなたたちを自由に行かせ、自分が罪を償うので、ただ私が生きるように生きてくださいと願います。今までのように生きてはいけません。あなたが完璧でないのは知っていますが、私が生きたように生きようと努めてください。それだけが私の願いです、といって。
キリストは解放者です。その願いは人々をサタンと罪から神様へと解放することです。私たちへの願いも解放されることです。人々が罪から解放され、神様に忠実であるよう助けることです。
しかし興味深いことですが、こうした会話をしてみると、気分を良くさせると思うでしょうが、死の運命や審判、正義、罪といったことについて最初から考えさせることになります。こういうことを言われたこともなかったかもしれません。
彼らが悔い改めないのはそういう理由からです。自分は良い人間だと考えています。誰も殺していません。それが重要ではありません。神様は他の人と比べているのではなく、ご自分と比べています。それが問題なのです。問題は、教会が罪についてあまり話さないことです。そのため人々は自分に救い主が必要であることを忘れます。
そして罪を受け入れ、救いの賜物を受け取ると自由が得られます。死んだときに訪れる、自分の目の前にぶら下がっていた罰から解放される、そういう自由が生まれます。いろいろなことを信じようとしたとしても、死ぬ時はもう逃げ場がありません。創造主に向き合い、審判されます。
ですから実際こうしたことを人々は初めて考えます。「そんな風に考えたことはありませんでした。あなたの気持ちは分かります。私を傷つけるつもりではないことは分かります。あなたの話には少しショックを受けましたが、私を傷つけるつもりはないですね」と。
そうして素晴らしい会話ができます。我々は、人をキリストに導き、彼らが祭壇で自分の命を初めてキリストに捧げるように導くことで、大きな恵みを受けました。素晴らしい恵みです。本当に大きな恵みです。若い時にキリストに命を捧げる人もいれば、年を取って逃げ場がなくなってから命を捧げる人もいます。永遠に逃げることはできません。
どのような場合であっても、そうすることで人生全体が、永遠が変わります。そしてそれを目にする時、必ず大きな喜びとなります。なぜなら、自分の時のことを考えてみてください。あなたは実刑判決を受けましたが、自由の身になりました。どれほど幸せなことでしょうか。問題は、多くの人が実刑判決を受けていることも知らないことです。気づいていないのです。
それが来ると分かっていれば、違った行動を取るかもしれません。違った行動を取るという選択肢もありますが、問題は教会が、人々の気分を良くしようとしてそのことを話していないことです。死の運命や罪を突きつけません。それでひどい仕打ちをすることになります。人の目には好かれても、魂に対してはひどい仕打ちをすることになります。なぜなら死んで地獄に行くからです。肉体が死んでも地獄に行くという意味です。
ですから私は、韓氏オモニを支持することができませんでした。魂が危機に瀕しているというのです。彼女がこれをすれば地獄に送られます。罰を受けるのです。私が電話をかけるのを止めようと選択したのではありませんでした。地獄に行くといけないので、これをやめるように電話で伝えようとし続けました。すると母は愚かな秘書に話をさせたのです。秘書と話をする必要はありません。母と話をする必要がありました。
だから本当に悲しいことです。あなたが最善を尽くしても、その人が頑なな態度で神様を裏切ることを選択するなら、それが彼らの選択であり自分で選んだことをするのです。人々は最後に自分の選択で神様を否定します。その人のことを嘆きます。あなたがそうするのは悲惨なことです。しかしその選択を尊重します。神様はそれを尊重し、そうなることを許されます。
しかし、全ての人が命を失い滅びることが神様の意図ではありません。我々の意図でもありません。しかし我々は、問題を提起することはできません。それは重大なことであり、死ぬ日のことを考えさせます。永遠に年を取らない人はいません。
大変なジャンプをして自分の体をいじめて、たくさん格闘技の訓練をして、ひざを痛めて、弱くなったと感じ始めています。先日息子たちをハイキングに連れて行って、大きな山までたった3マイルですが、少し勾配のある道を近道して行っていたら、下りで膝を痛めてしまいました。リオに私のストックをぶつけてしまいました。心配しないで、あなたのせいではありません(笑)。
彼らと同じ年齢の頃、山登りは簡単だと思っていました。下りは簡単だと。青年たちは上りと下りのどちらがきついですか。上りですね。下りで痛めてしまいました。鋭く刺すような痛みがずっとありました。2、3歩歩くたびに、「息子たち待って、お父さんは少し待たないといけないから」。それで私のバッグを持ってくれました。私が12歳とか14歳で、格闘技の訓練をしていた時に、ひざが痛むようになる日が来ると思ったことがあったでしょうか。全くありませんでした。
我々は誰もが死にます。自分の死の運命に向き合わなければなりません。その日に向き合わなければなりません。運に任せないでください。お願いです。命をキリストに捧げたことがないなら、それを運任せにしないでください。いつ死ぬかは分からないのです。今日家に帰る途中で死ぬかもしれません。運任せにしないでください。
キリストに命を捧げたことがないのであれば、今日がその日です。あなたがあと1日ただ頑固であろうとして、命を捧げずに家に帰る途中で死ぬことになれば、我々は永遠に苦しみ、悲しむことになります。あなたが苦しむのを見ると我々は本当に、永遠に悲しむことになります。どうかそうしないでください。神様に対してそうしないでください。あなたはもう十分に泣いてきました。
《遺伝罪恨霊解怨、傍系解怨については、感謝できる方のみお問い合わせ下さい。》
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