Sunday, January 28, 2018

天一国二代王様のスピーチ◆2018年1月20日スイス、ローザンヌ【全文】

天一国二代王様のスピーチ(2018年1月20日 スイス、ローザンヌ)【全文】


サンクチュアリ NEWS さんからの全文転載(ポイント)です。字幕化は2nd Israelさん。教会ブログであるため御言をコレクションしています。聖殿食口以外からも読んで頂いています。ありがとうございます


スイス・ダボス会議と二代王が参加した会議

場所 スイス・ローザンヌ

会議の名称: 防衛のための武器 【Arms for Defense】

翻訳:サンクチュアリNEWS管理人

エルダー本部長:
これが会議の名称です。
「ヨーロッパでの銃の所有権」についてがテーマです。
この会議の準備についての報告を聞くまで、本当に、ヨーロッパでいかに銃が(厳しく)規制されているのか知りませんでしたし、われわれはアメリカ合衆国、とくにペンシルベニア州に住んでいることがどれほど幸運であるか分かりませんでした。
ヨーロッパでの銃規制は本当に厳しいものです。
会議の主催者は「ヨーロッパ主権市民同盟」です。
実はこの会議はヨーロッパのサンクチュアリ食口が企画したものです。
家庭連合のやり方と全く異なった方法で準備しました。
ヨーロッパの食口がお金を出し合って、この「ヨーロッパ主権市民同盟」を立ち上げたのです。そして、この組織が今回の会議のスポンサー(支援団体)になったのです。
彼らが、講演者を探して招聘(しょうへい)しました。会場も自分達で見つけました。すべてを自分達だけの努力で準備したのです。
最初は、王様も参加する予定はなかったのですが、準備が進むにつれ、神様が参加するように願われているのを感じられました。そこに参加するに人々の層を見ても明らかでした。それで参加されたのですが、会議は一日だけ行われます。会議参加者には、参加費として一人50ユーロ(約6800円)を集めました。ここで王様のプレゼンテーションを聞くことにしましょう。

天一国二代王様のスピーチ(2018年1月20日 スイス、ローザンヌ)

翻訳:BAMBOOS

「防衛のための武器(Arms for defense)」協議会での二代王様のスピーチ(2018年1月20日、スイス、ローザンヌ)今日私は自然権についてお話ししたいと思います。哲学的観点と聖書的な観点の両方から、です。普段の説教では私はとても感情的です。ですが今日はもっと学術的になるよう努めたいと思います。ご存知の方は私が大声で怒鳴るのを知っていることでしょう。今日は控えめになるようにします。神様がそれをお許しになるといいですが。


主権を持った市民としての自然権、または権利について調べてみると、私の考えでは、すべての権利はユダヤ・キリスト教の価値観を基礎とせざるを得ません。私たちの権利が団体や組合、委員会や官僚によって決定されるとしたら、実はそれは権利ではありません。それは下位の民衆に与えられた特権に過ぎないのです。
権利は、人間のあらゆる機関、委員会、政府といったものを超えた、超越的なものに根差したものでなければなりません。神様に根差したものでなければならないのです。

人の権利は人の本質に固有のものでなければならず、つまり人が胎内に宿ったら即座に持たなければならないものです。動かし得ないものでなければならず、いかなる外部の力をもってしてもその人から分離できないものです。それゆえに偉大な哲学者の中には、人間の持つ権利や普遍的な価値観について語る場合に、神様についての考えだけではなく真実をも撤回した人がいました。
現代においてとても一般的なこととして、相対主義、道徳的相対主義、哲学的相対主義など様々な哲学が生まれているということがあります。今日、そういったものが大学で強く推進され様々な機関で学ばれています。

残念なことにこのような信条には、何が正しいか、何が道徳的として客観的に正しいのか、そして何が間違っているのかを人間が判断できるという弱点があります。
もちろんヨーロッパでは、ヒトラーという人物においてそのような哲学的立場の影響が分かります。つまり独自の善や善悪の判断を作ることができると考えていたのです。言うまでもなくそれが行われた歴史は世界中の教科書に書かれています。
私が辿った道のりはとても興味深いものです。というのも私はアメリカの非常にリベラル的な州であるニューヨークで育ったからです。しかし、私の父と家族はいつも銃に没頭していました。

ご存知のように、みなさんの中でもご存知の方が多いでしょうが、私の父、文鮮明師が手掛けた最初のビジネスの1つは、韓国で行った銃のビジネスでした。
もちろん父が北朝鮮から逃れてきた後でも有益でした。父はそこで福音を説いていたために投獄されていたのです。韓国に来てからも迫害を受けましたが、最終的には韓国政府と協力して韓国軍のためのバルカン砲のようなものを開発しました。ですから父はこの分野での開拓者であったのです。
しかしおそらく、道徳的なレベルから、あるいは教会の側からはそれが分かっていませんでした。初期の時代に父と共に過ごした人々ほどありありとは。今ペンシルベニア州で、私たちの伝統で言う真の母という方と一緒に住んでいるのですが、彼女もその初期のビジネスに参加しており、その初期のライフルビジネスで最優秀販売員として表彰を受けたのでした。

またご存知かもしれませんが、文師の息子の1人である文國進氏はアメリカでトップクラスの銃の発明者、製造者の1人であり、カー・アームズ、トミー・ガン、トンプソン・マグナム・リサーチといった会社を経営しています。
東アジアの出身でしたが、私たちの家族の過去にはそのようなことがかなりあったのです。すべての人に主権を経験させ、人生における権威を経験させ、自由に神様を追求できるようにさせたいというのが常に父の願望でした。自由社会かどうかに関わらず。

しかし、常に父の祈りは神様を追い求めることであることは明らかでした。それは私たちの権利と価値が神様との関係で決まるからです。
個人的な・・・という考えなしに自然権と人権についての率直な話し合いがありません。ウィリアム・クレイグ博士、アルバン・プランティンガのような卓越した学者の業績についていくらかご存知であれば・・・。彼らはキリスト教弁証学における本当に確固たる強力な立場を取っており、ドーキンス、ヒッチンズ、パリスのような世界のトップクラスの無神論者と討論をしています。私が概要を少し説明すれば彼らの立場がとてもはっきりと分かるでしょう。
その考えというのは、私たちはある設計者が創造した世界に住んでいるというようなものです。例えば微調整(ファインチューニング)という観点で見てみると、つまり宇宙が微調整されているということであり、非常に正確に微調整されているので、宇宙に存在するあらゆる条件の概念に対してどんな修正を行っても、電子、陽子、弱い力、重力なども、完全に宇宙の崩壊という結果に陥るのです。

こういった主張はこのような知的な研究で生み出されました。この場で深く踏み込むことはしませんが、宇宙には偉大な微調整があるというのです。そしてこのような定数や条件は、宇宙が機能するために一緒にバランスを取って働かなければなりません。(そうでなければ)科学者がリバース・インプロ―ジョンとか呼ぶような、生命が完全に絶滅するような事態に陥るのです。
また世の中に善や悪が本当に存在するのかという問題を見てみましょう。例えばレイプ行為が悪であるのか、それとも単に文化的なタブーであるのか、ということです。すると、道徳的な客観的真実について、また言うまでもなく道徳的な客観的真実を与えるものについて、そしてあることが善であるのか悪であるのかを解読するための基準について議論することになります。

もちろん私たちは、本質的に自分の良心から、世の中には悪が本当にあるのだと分かっています。つまり、誰も多数の子供たちが殺戮されるのを見て「それはタブーにすぎない」と言える人はいないということです。またヨーロッパの危機を見て、女性が襲われるのを見て「それは単なる文化的なタブーであり、悪ではない」とは言いません。
ですから人間として直感的に善と悪があるのだと分かっているのです。言うまでもなくこのような立場は、道徳的な客観的真実の議論を通して生み出され、結果が出たものです。これらの話は、神と個人的な神のための理由について最も説得力のある議論の一部をかいつまんで出しただけのことです。
というのも、もっとも現代的な科学ですら、宇宙の創造をビッグバンのようなものとして説明しているからです。私たちは宇宙の本質の始まりについて、すべてのものが元々存在しなかったあるところで一度に始まった、ということが分かっています。言うまでもなくそれが科学の主流の説となっています。
ですから、エージェントのような存在か、選択的な要素を持った個性を持つ誰かがいて、宇宙と私たちの時空の次元に無から何かをもたらしたということになります。

こういった議論が哲学的な論文と知的な著作に広く書かれています。ウィリアム・レイン・クレイグ博士の著作を大いにお勧めします。また、存在論の議論などについてはプラティナ氏です。綿密な議論で非常に深く分析されています。今日はちょっとそれを取り上げる時間がありません。

自然権の話題に戻りましょう。牧師としての私の観点から、神様のみ言を調べる必要があります。私が神様の存在の妥当性について少し要約したのは、結局私たちは、神様なしでは動物に過ぎないからです。何百万年も進化の過程を遡っていくなら、それは何の意味も目的もなく、宇宙空間で巨大な小惑星の岩の上に浮かんでいるのだということになります。
このような哲学と立場は、道徳的には快楽主義的な立場へと繋がります。しかし言うまでもなく、哲学的虚無主義の立場というものは、人生に本当の目的がないという考えです。つまり人生は結局無意味なものだというのです。
もちろんこのようなものは、キリスト教の世界観からは受け入れがたい立場です。というのは、私たちの姿と性質は創造主に似せて作られているからです。ですから私が牧師として、自然権、人権という考えを掘り下げるには聖句を調べなければなりません。ですからそれが今朝、私が最も焦点を当てたいところなのです。
ユダヤ・キリスト教の世界観と枠組みにおいて、我々の自然権は創世記1:26から始まります。
“神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。”
また創世記9:6ではこう言われています。
“人の血を流すものは、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに。”
この二つの聖句は、人の本質について語る場合に、また唯一の被造物として人間はオランウータンやチンパンジー、またはアルマジロや他の何かスイスにいるものでも、それとは異なるのだという話をする場合に欠かすことのできないものです。
それは他と異なる存在論的な存在であり、創造主に対して別のつながりを持っているのです。
ですから人権という観念は、少なくとも聖句的には、人間が神様の形に作られているということに始まっています。これが枠組みの中で当てはめられるべきです。というのも神様は単なる別の人ではないからです。神様はすべてのものの偉大な創造主であり、宇宙の偉大な設計者であり、我々が発見しているすべての定数や条件を生み出した数学者であり、宇宙を支えているのです。すべてのものの背後にある偉大な精神と知性です。
我々が、人間は神様の形に作られていると言うとき、また神様より偉大なものは無いのだと言うとき、それは実に注目すべき言葉であり、強力な言葉です。
言うまでもなくあらゆる生物の中で人間は、宇宙の中で特別な立場を保っています。単なるもう一つの種(しゅ:生物学的な意味)ではありません。単なるある形態の動物ではないのです。
宇宙における我々の立場は非常に特別で独特のものであり、とても大きく巨大なもののように思えます。
エレミヤ書 31:33で神様は人々に契約について語っています。
“しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。“
またローマ人2:14にはこのようにあります。
“すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。”
ユダヤ・キリスト教の枠組みから見て、全人類、すべての男女は一般に、良心と呼ばれるもの、または聖書における心に記された神様の律法と呼ばれるものを持っています。本質的に善と悪の違いを知っており、人々が抑圧されたり搾取されたり、襲われたりレイプされたりする場合にそれが悪いことだと分かるのです。人間は本質的にそのようなことは間違っていると知っています。
聖書ではそこに踏み込んで光を当て、創造主が私たちの心にこういったことを記しているので心が良心となり、意思決定者となって善と悪を識別するようになるのだと言っています。
自己防衛の話題に移そうと考えてみるときに、興味深いことですが、こういったことすべては、生命自体に価値があり、目的があり、それが重要であり、守るだけの価値があるという人間の持つ価値観において決定されています。
我々の生命に価値がないのであれば、とりわけ自分の生命を危険に晒してまでそれを守るだけの価値はないということです。
防衛という観念は、生命、特に人間の生命に価値があり、特に自分で自分を守れない脆弱な人間の生命は保護されなければならない、という考えから来ているものです。
全ての人間はそれぞれの心の中に本質的な性質を持っています。他の人たちが抑圧されているのを目撃した場合、その人たちを守りたいと自然に思う傾向があります。しかしそれは、人間の生命の価値という観念と観点に由来しています。
現代の、ポストモダンの虚無的な枠組みでは、なぜ人権に価値があるのか、またそもそも人間に価値があるのかを十分に説明することができません。
あらゆる虚無主義者とさらに多くの客観主義者がたどり着くことのできるのは、普遍的に優先される行動という観念ですが、それにはあることが善なのか悪なのかと言えるようなものはありません。言うまでもなく独裁主義に反対する理由もありません。それはもちろん、理論上の概念であり歴史的事実であり、もし独裁者が武力で国を支配し、反対する者を抹殺するなどして自身が新しい権力の多数派となる場合、当然ながら道徳的に優位で普遍的に優位な新しい価値観が生まれ、変化が起きます。独裁者が勝って、多くの場合には反対者を虐殺する場合のことです。
どんな哲学的課題や人権と自然権という観念に対する探究も、神様が私たちにくださった神性から切り離すことはできません。せいぜい言えるのは、普遍的に優先される行動ということですが、暴力的な勢力が多数派になったり、自分たちの欲しいものを取り上げるために何の問題もなく武力を使用する、力が正義だとする勢力が多数派になったり、何が普遍的な道徳的優先事項であるかを決定する勢力が多数派になるというような、同じ問題に直面することになるのです。
残念なことにそれは言うまでもなく、ユダヤ・キリスト教の枠組みから見て我々が堕落した国、堕落した歴史と呼ぶ、何度も繰り返されてきた歴史なのです。
また聖書では、神様が人々に出エジプト記22:2で語っていることがあります。
“もし盗びとが穴をあけてはいるのを見て、これを撃って殺したときは、その人には血を流した罪はない”
神様はそう言っています。誰かが夜人の家に押し入ったら、その侵入者がたとえ泥棒であって殺人犯やレイプ反でなくても殺されるというのです。ユダヤ・キリスト教の法律の観点からは、人を殺した人が有罪になるのではありません。
もちろん次の聖句では続けて、朝その人が現れていれば警告を与えるべきであり・・・というようなことです。それで人が殺されればその人は有罪となります。そしてその人を追い出すことができるということです。
ネヘミヤ書4:14。
“わたしは見めぐり、立って尊い人々、つかさたち、およびその他の民らに言った、「あなたがたは彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、あなたがたの兄弟、むすこ、娘、妻および家のために戦いなさい」。”
これもまた、神様がその民に脆弱な人たちのために立ち上がるよう呼び掛けている例です。自分の血縁者と人々のために立ち上がるのだと。
箴言31:8-9で神様は次のように言っています。
“あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。”
このようにいつもキリストから貧しい人を守るように説得されます。新約聖書の聖句にはこういったことに言及しているものがたくさんあります。
マタイ5章の山上の垂訓では、貧しいものは幸いだ、柔和な人たちはさいわいであり、彼らは神の王国を受けつぐであろうと言っています。
他の人の権利を守るために立ち上がることに言及しているところがたくさんあります。キリスト教の中心的な、聖書的な原理です
また詩篇82-3には、
“弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。”
とあります。
ここでも信者と人類に、弱い人々、苦しむ者と乏しい者のために立ち上がるよう呼び掛けています。言うまでもなくこれがキリスト教の中心的な価値観であり、ユダヤ・キリスト教の価値観です。それは被造物としての人間に根差したものです。それは神様の形に作られています。
繰り返しになりますが、単なる別の種(しゅ)の動物ではなく、宇宙で特別な立場と価値を持つ存在です。
ルカ22章でイエス様が弟子たちに語っていることがあります。非常に有名な逸話でありますが残念なことに、ほとんどのキリスト教会、教区、カトリック教会などで教えられていません。
キリストを信じる者は自分を守るだけでなく、武装しなければならないという事実に明らかに言及しているためです。
ルカ22:35からです。
“そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。”
左派の多くが、信者が自分の身を守ることについてこのように明確に語られていることを除外して、イエス様を位置付けていますが、このようにイエス様はそれとは反対であることが分かります。
またイエス様は神殿に入るときに、テーブルをひっくり返したりして両替商などを追い払ったのです。キリストを平和活動家とかダライ・ラマ的な人物として扱う人にとっては、非常に過激な行動です。キリストに対してもっと過激な見方をすることができるのです。もちろん究極的には、人間の生命を守り、救うように運命づけられた方です。
ルカ22章の逸話から、イエス様は弟子たちに自分たちの衣服を売らせようとしていたことが分かります。古代の世界では、上着は様々な要素から自分を守るための最も大切なものの1つでした。また身分の象徴でもありました。上着を売るということは非常に大きなものを失うということだったのです。特に、私たちが持っているような現代の衣服を持っていなかったということを考えたらなおさらのことです。
キリストは剣を所有するためにそれを売るようにはっきりと語っています。それは明らかに攻撃のためのものではなく、弟子たちの身に何かが降りかかるとき、あるいは命が危険に晒される場合のためです。特定の目的のために剣を持つということです。
剣とは現代で言えば銃であり、人間の生命を防衛するために死をもたらすという以外に目的はありません。明らかに当時の剣は、農業に使われてはいません。剣は戦いのために使用されます。
自衛のために剣を持つという考えは、もちろん旧約ではとても強いものですが、新約でも非常に明確なものなのです。
このようなことを聞いたことのない牧師やクリスチャンに会ったとき、私はとても驚きました。
聖書的な観点からすると、またユダヤ・キリスト教の観点からも、私たちの持つ自然権や自然法、人権は特に保守派側ではそこに由来しているのですが、王としてのキリストという観念があります。それはクリスチャンと宇宙との関係、またはその人がこの惑星で割り当てられている自分の人生を歩んでいく上での力の連携に必要不可欠な特性です。
マタイ6:9でイエス様は弟子に命じました。
“だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。”
残りはもちろん知っている方がたくさんいるでしょうが、一般に主の祈りと呼ばれる祈りです。イエス様は、私たちが祈りの中で神様の王国が地上に来る日を楽しみに待つよう懇願しています。これはとても大切なクリスチャンの原則です。それは神様の王国が地上に来るということです。単なる天の王国や死んでから出会う天国というだけでなく、キリストが地上に王国を建設するときに、私たちが遭遇することのできる王国、人々が遭遇することができる王国、遭遇すると信じる王国です。
それはとても大切な概念であり、なぜかと言えば、そのために信者とユダヤ・キリスト教の枠組みの中にいる人たちが、待ちわびるようにならざるを得ないからです。何を待ちわびるかと言えば、神様が王となり苦難と独裁、抑圧が終わる日であり、私たちの道徳の指針を持った立場であり、キリストの内なる神様とキリストが治めると約束されている王国への忠誠と信頼を持った私たちの信仰生活です。
また、マタイ6:33でイエス様はこうも言っています。
“まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。”
信者、キリストにある者がまずやるべき事は、神様の王国を求めることだと言っているのです。
ギリシャ語のバシリアはバシリユスに由来しており、言うまでもなく王を表わす言葉です。
マタイ10:7でイエス様はこう言っています。
“行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。”
ルカ4:43でこうも言っています。
“「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」”
このような重要な聖句で、キリストが、自分が送られたのは神様の王国を説くという目的のためだと言っていることが分かります。歴史的に神様の王国が説かれるところではどこであっても、キリストと弟子たちが、当時ローマの権力の下にあった地域の権力者や国の権力者から、途方もない迫害を受けたということを私たちは知っています。
それはとても過激な教義だったので、信者を増やしたということだけでなく、中央集権の権力にとっては存続にかかわる脅威でした。私たちはそのような権力を天使長的な権力と呼びます。
マタイ14:23でイエス様はガリラヤ全土を回り、群衆に礼拝堂で教え王国の福音を説きました。そして病人を癒されたのです。聖書はやはり、キリストの福音を神様の王国の福音として示していることが分かります。
マルコ1:14。
“ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。”
イエス様が神様の王国の福音を説かれるところでは、癒しと悔い改めがありますが、政治的な激変もありました。これはもちろん、神学会やキリスト教学会では強調されていない場合が多いです。キリストのメッセージの性質は非常に政治色の濃いものであり、そのメッセージは政治的な力が強く、当時の世界で最も強力な文明ですら、この全く無名の人物から存続にかかわる脅威を感じていました。
マタイ9:35。
“イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。”
マタイ24:14。
“そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。”
マタイ25:34。
“そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。”
キリスト教の観点、ユダヤ・キリスト教の旧約、新約両方の観点から、人間の価値というものは神の形として作られ、最終的にその王国でキリストの共同相続人となることだと私たちは捉えています。
クリスチャンは社会を他と異なる枠組みで見ていますが、その理由というのはクリスチャンが、やがては地上にできる神様の王国へと向けた、王国の福音という考えを持つようになっているからです。その中で神様も、信者と信仰を持つ人々は共同相続人であると言っています。
現代の民主主義、世界中に広がった民主主義では、西洋の多くの人が君主制のことをとても否定的に捉えています。もちろんそれにはもっともな理由があります。つまり、ほとんどの君主国は非常に中央集権化されていたからであり、主人と奴隷、または農奴の制度を作っていたからです。現代の政治的投機家がネオ封建制と呼ぶものがあり、それは特に左翼がネオ封建制という形で作り直したいと考えている封建制のことです。
もちろんこのようなことは、神様の観点から見て神様が人間に意図したこととは正反対のことです。なぜなら神様は人間を自分の形に作り、支配、主権の祝福、つまり生育せよ、繁殖せよ、地上を主管せよという祝福を与えたからです。例えば私有財産権は聖句に根差したものです。人間に価値があるだけでなく主権に対する権利があるという考え。それは私有財産を持つ権利であり、共産主義国の共産主義の教義では不可能なことです。
西洋で最も大切にされている信念は、このような歴史的、聖書的な原理に由来していますが、見過ごされており、財産を所有しそれを守るという考えが西洋での当たり前の概念であると見なされることが多く、その由来や過激さが忘れ去られています。
様々な神学的、または政治的立場に応じて、人々が財産を所有し、地上の一部を所有することができるという考えを、左派の多くがひどく嫌っているということを私たちは知っています。
しかしこのような原理は、世俗的な伝統から来たものではなく、また多数派に支持される優先的行動からではなく、ある立場から来ていると西洋では見なしています。その立場とは歴史的に聖句であったのです。
ポストモダンの文化にそれほどまで支配されてしまうことは、現代の西洋人にとって大きな悲劇です。そこでは宗教的な過去から切り離されています。聖句から来る私たちの枠組みによって、私たちが共に発掘したこの短い時間で私たち人間の経験が組み立てられるのです。
私はいつもこのように信じているのですが、真剣な信者はみな、人権も自然権も超越的な宇宙の設計者のみに基づいていると信じています。その方は力強く、私たち以上にもっとたくさんのことを知っており、あらゆるものより偉大であり、すべての時間を超越しており、つまりそういったものは時間と物質の両方で作られたのであり、あるものを無からいつ創造するかを意識的に決めることができます。人権はそこから始まったのであり、結局人権は人間の精神の産物ではあり得ず、超越的な創造主の産物であるに違いないのです。
それが私たちに主権を授け、価値を与え、目的を与え、うぬぼれや身勝手さや、キリスト教の世界で言及されているような罪、人間としての悪からの救いをもたらしました。そのおかげで私たちは、もっと善なる神様のようになれるよう努めることができるのです。
聖書的な観点から見て、人権という観念、人間の価値という観念はキリストとその王国の福音において実証されており、言うまでもなく、私たちはその聖句をすべて見てきましたが、その王国がどのように治められるかはクリスチャンの思いにとって別の問題です。
神様の王国はどのように治められるのでしょうか。それは神様の性質、知性、個性、そして法とされるものに一致します。それらは神様の性質の延長です。
神様は泥棒ではありませんので、その延長として盗むということはありません。殺人犯ではありませんので、その延長として殺人を犯すことはありません。嘘つきではありませんので、延長として嘘をついたり、虚偽の証言をしたりすることはありません。
これらの法はこのような性質の延長でもあり、もちろんそういう理由から、キリスト教やユダヤ・キリスト教において、人権と未来の神様の王国を理解するためにそれが重要です。
どのようにして神様の王国は治められるのでしょうか。過去の王と君主国を調べてみると権力の集中があり、その結果として民衆の中でさらに階層化が進みます。そして最上階級ができて大部分の国民を支配するのです。そのためこれが、キリストが再臨する時の王国にとって大いに待ち望まれた形であるとは、とても言うことができません。
これは、現代において主権のために立ち上がっている信者の心の中で、重大な難問だと私は思います。というのも、ある聖句では、キリストが来られる時に大きな審判と激しい怒り、そして独裁と思われるようなとんでもないものによって治める、と示唆されているからです。
では信者はどうやってつじつまを合わせるのでしょうか。人は聖句と個人的な経験を通してキリストについて知ります。聖書にあるように神様は愛であると。
エデンの園の場面で分かるように、神様は子供であるアダムとエバに自由と主権を与え、その結果、神様とその命令を敢えて拒絶することを選択するような行動を取りました。
また聖書には神様は永遠不変であり、昨日も今日も永遠に同じだと書かれています。
では現代のクリスチャン、またユダヤ・キリスト教の思想家は、神様の最終的な地上での統治についてどのように考えるのでしょうか。さらに同時に、神様の善良さと、神様の王国が到来する時でさえ変わることのない神様の性質について、じっくりと考えなければなりません。
ここで、神様の王国について叙述しているいくつかの聖句に注目していただきたいと思います。
詩篇2:8からです。
“わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを打ち砕くであろう」と。”
これらの聖句はクリスチャンが尊大に受け取り復唱するのではなく、主権は神様が与えた約束であり神様が与えた権利であることを、クリスチャンが理解するよう意図されたものです。
黙示録2:27
“彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。”
これもまた、クリスチャンが信じているように、キリストが地上に帰って来られ、鉄の杖で治めることに言及するものです。陶工の器が粉々に砕かれるというのですから、イメージは非常に力強くとても暴力的です。キリストに反対する国に対する、力強く非常に暴力的なイメージであり、それらが壊滅させされるということです。
クリスチャンは、このような非常に暴力的でほとんど独裁的に思える鉄の杖の聖句を、キリストの愛の性質によって、どのようにとらえているのでしょうか。
黙示録12:5
“女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。”
ここでも神様の統治は、ユダヤ・キリスト教の枠組みにおいて鉄の杖によるものとなるということです。
黙示録19:15
“その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。”
さらにまた、クリスチャンや信者、また信仰を持たずとも単にこの聖句を読む人は、このような統治を恐ろしいものであるとすべきか、それともそうではないとすべきか困るでしょう。
聖書では、キリストが再臨する時、鉄の杖による統治がまるで独裁的なものと思えるようなとてもおそろしい統治となると言っているように思えます。
神様とその性質、そしてキリストの性質に対して、それを愛の神として取り決める現代の思想家はどうでしょうか。
25
私たちが犯罪を見るとき、私たちが文明を悩ませる様々な社会悪を見るとき、例えばアメリカで最も過激な左翼的な都市の中には、左に偏った人々によって運営されているところがあります。私の父であればそういう人たちを、共産主義者とか政治的なサタン主義者と呼ぶことでしょう。というのも、それらが本当の悪魔崇拝者が存続し、繁栄するように安全な避難場所を提供しているからです。政治的な枠組みを作って、中絶施設で子供を殺害するような事業を行う人々を保護しています。それを最も左翼的な政治家や指導者が支援するのです。
また、彼らは左翼の銃規制政策も支持しています。銃規制では、市民はその技術を利用して自分を守ることができません。自衛の世界で最も優れたものは、現状では銃だとされています。
市民の武装がかなり一般的である数少ない国の一つであり、銃の所有数が一億世帯以上
であるという立場でアメリカを見たときに、最もリベラルな地域の中には、家族や自分の生命を守るための銃の所有を認めない地域もあます。そのようなところは、最も人口当たりの殺人発生率が高いところでもあるのです。
一方、もっと保守的で市民の武装、市民の自衛を認めている地域では、人口当たりの殺人件数が劇的に低下します。簡潔なアメリカの統計でも、100世帯中に90丁の銃が保有されているとされています。
左翼の人々というのは、つまり最終的には共産主義、社会主義につながるわけであり、例えば金正恩は左翼です。(ベネズエラの)マドゥーロのような独裁者は左翼です。それで西側の社会では彼らは左翼だと言います。それはそのような政権を経験し、家族が殺されたた人々に懸念をもたらすでしょう。私の同胞もそうですが、多くの人の家族が北朝鮮の政権に殺されています。
アメリカでは100世帯に90丁の銃があります。私が親しみを込めて鉄の杖と呼ぶものである銃が100世帯に90丁です。
左翼の立場が正しく、殺人の問題が銃に基づくものであるならば、アメリカは世界で最高の殺人発生率となるでしょう。次点のスイスなどの国と比べて約2倍の銃所有があります。大雑把な分析でもアメリカは、世界で殺人発生率のトップ10にも入りません。世界で30、40、50、60、70、80位にも及ばず、現在90位台にあります。
デトロイト、ボルチモア、セントルイスなどのリベラルの銃規制都市を除外するなら、殺人発生率に関して上位から200位にも入らない国になるでしょう。
世界のほとんどの人々は、自国の政府と教育機関から、銃は危険なものであり犯罪を生み出すものだと教育されています。これは、銃が正しい人に所有される場合には真実とは程遠いのです。銃が法を順守する人の手にある場合、統計的に社会はより安全になり、殺人発生率は落ち込みます。おそらく今日の講演者から、もっと正確な統計を聞けることでしょう。
全ての人は自分の価値と値打ちを神様との関係によって見出すというのが、私の見方であり、私の父の見方です
国民としても個人としても、神様を信じるか否かは個人的な意思決定の1つですが、それは次のような現実から私たちを引き離すものではありません。私たちの生命に意味があり、私たちの生命に価値があり、私たちは直感的に正しいことと間違っていることの違い、善と悪の違いが分かり、抑圧されている人々が解放されることを望むという現実です。
私たちは人々が暴力的な侵入や、一般の個人の平穏な生活を自己の利益のために搾取しようとする暴力的な人物から、自衛することができるようになることを望みます。
私たちが自然に持っているこのような願望は全て、天におられる父に由来するものだと私は考えています。私たちはその天の父の形に創造されています。またキリストが神様の戒めを2つの単純なことに要約したように、自然に慈悲を求める衝動と、神様を愛し隣人を愛そうとする衝動などもあります。
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それらのことは、責任を持って銃を所有することにより人を守ろうとする人に要約されると思います。
神様の最終的なこの世の統治を、鉄の杖と神様の本当の性質によって取り決めることができるようにするのが唯一の道です。神様の性質は時がたっても不変であり、正義の神であり愛の神であることは変わりません。神様は貧困にある人に優しく、しかしまた自由意思という贈り物を尊重しています。それは被造物である人間に与えたものです。
私たちの権利と自然法、自然権が、その本質が愛であり善であり正義である超越的な創造主に由来するものだということを理解するなら、神様の被造物である人間が、通常は政府や官僚にのみ与えられている権力に対して、責任を持つということも信じなければなりません。
普通の市民が、王の王であり、主人の主人である自分たちの創造主が付与した主権を目にすることができる時が来ました。
共同相続人、本質的に王と王妃として神の王国で神と共に立つのです。そして鉄の杖で国を統治しようではありませんか。征服するためではなく、平和と安定のために。人類が搾取者なしに、また自分たちの生命に対する暴力的な割り込みや暴力的な侵入を受けることなく前進できるように。
聖句では「天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と言っています。あらゆる人種、国家、宗教の市民が、武力によって市民を傷つけ搾取しようとする暴君、独裁者、権力、そして国内外の敵から自分を守ることができるようにするために、力を所有し、人権を持つことが必要不可欠です。
市民こそが私たちの共同防衛のための最大で最重要な守りなのです。
(音声が途中で途切れているためここまでとします。)
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「お父様は死んでいない」スイスでの質疑応答から

翻訳:サンクチュアリNEWS管理人

実際、こうしてヨーロッパで主権市民同盟の会議をも開くことができました。
少数のメンバーの参加とはいえ大きな歴史的出来事です。
いいですか、神様はいつも少人数のグループに働いてこられました。

少人数グループに。アメリカ革命(独立)はどうでしたか。33%が(イギリスからの独立に)賛成、33%が反対、どちらとも決めかねている煮え切らない人々が残りの33%を占めていました。・・・ああ、どうしたらいいだろう、英国人は特上の赤いコート(イギリスの軍服)を着ているし・・・英国は豊かだし、ここでは英国より少し自由だし・・・今の家庭連合の人たちと同じです。
こっちもよさそうだし・・あっちもよさそうだ。
独立当時、33%つまり3分の1の人が「イギリスと戦おう」といい、また3分の1が「いや、やめとけ豊かなイギリスに付いているべきだ」といいました。そして残りの人々は「わからない、わからない、決められない」と。どこかで聞いたような話でしょう。よく似た話を。
結局、実際に戦ったのはたった3%の人々です。それを33%が支援しましたが、現実に戦ったのは3%でした。その3%が(当時)地球上で最高に訓練された軍事大国を打ち破ったのです。この歴史的出来事を通して神様が教えようしていることは、少数の集団が― マカバイ戦争もそうでした。ユダヤ人のうちごく少数が戦ったのです,ある戦闘ではたった1000人で3万のローマ兵(訳注:セレウコス朝シリアの兵)を相手にしたのです。ここで奇跡が起こってユダヤ人が勝利しました。一部の領土は失いましたが大半は守ったのです。しかもアンティオコス4世エピファネス(紀元前215年? - 紀元前163マカバイ戦争を引き起こしたセレウコス朝シリアの王)をも倒し、神殿からサタンの像を追い出しました。神を讃えましょう!
本当に少数の人々でした。しかし命を投うつだけの勇敢さをもって戦う人はいつも少数です。神様はその少数をもちいて、歴史を変えられるのです。
イエス様と12弟子はどうですか。イスカリオテのユダが裏切ったので実際は11人です。全く小さな集団ではないですか!この部屋に何人いますか。70人ほどですか。
もうこの時点で、イエス様のグループ、12人の10倍もいるのです。

想像してみて下さい。12人がどれほど小さいグループであることか。実際は11人です。しかしその11人が歴史を完全に書きかえたのです。
これが現実です。この現実は、少数のグループの背後に神様の力が働いていることを証明しているのではないか。もちろん、彼らが善の側にいることは当然です。
真に正しい側と、真に誤った側があります。戦闘で正しい側に立つ者は「道徳的に優位な立場に立つ」のです。どちらかというとこれは社会学的な判定、戦闘の社会学的な解釈です。

つまり戦いの場において、戦う理由、全員の命を賭しても余りある道義的理由が必要だというのです。兵士の「士気」という言葉があるでしょう。兵士の感じ方。軍人と聞くと、何か、荒々しい、感情をもたない人間、「皆殺しにしてやる」、そういう印象を抱きがちですが、実は兵士の「士気」というものがとても重要なのです。なぜ人を殺し、なぜ戦うのか、これが重要です。
自分達が善なる目的のために戦っていると思えない時、気分が悪くなり抑うつ的になります。戦いたくなくなるというのです。だから荒くれ者の大男が人を殺すときでさえ、その人間の情緒が大きく関わってくるのです。兵隊たちにも「道徳的に優位な立場」が必要なのです。どういう意味かというと、歴史の正しい側に立つ必要がある、戦っているその目的が正しくなければならないのです。真実でなければならない。
自分が奴隷であるかどうかの見分け方を教えてあげましょう。
奴隷精神の人はこういいます。
「もし私が死んだら、この祝福を受けることができません」
こう言う人は奴隷として考えている。
王、王妃はそのようには考えません。
王、王妃は「王統は永遠性をもつ。消滅しない」と考えます。
なぜなら血統を通して考えるからです。
たとえば、お父様は今、霊界におられます。しかし私という相続者を通して生き続けておられます。
お父様は生きておられるのです!お父様は死んでいません。

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愚かな家庭連合はお父様が死んだと思っている!愚か者が。
このがらくたのような信仰!
お父様は決して死にはしない、永遠に生きるのです!
決して死にません!愚かな者たち!
それがわれわれとの違いです。お父様は生きておられる。
私が死んだら、三代王を通して生き続けられます。もしあなたが次の世代の天一国の人々と共に生きるとしても。

王の本質、心構えそして霊性は奴隷のそれとは異なっているのです。
奴隷は多くの場合、子をもつことが許されませんでした。
現代では納得済で子供をもちません。(笑)
しかし以前、奴隷は子供をもつことが許されなかったのです。
だから奴隷精神には血統という考え方がありません。伝え継ぐものが何もないのです。
自分も奴隷をもつことはできるでしょう。しかし奴隷は、どんな犠牲を払ってもここから逃げ出したい、あるいは黙って受け入れるか・・結局は自分のことだけを考えるのです。
王家は違います。王は、自分は死なずに継続して果たすという思いで将来を見据えます。皆さん全員が天一国の王、王妃としてこの考えは非常に重要なことなのです。

王家の心構えをもたねばなりません。
「もし死んだらどうしよう」・・だからどうしたというのです。
ある質問がありました。日本だったか・・。
ある姉妹は90才を超える年齢だというのです。2月の祝福を受けに行きたいのですが、ペンシルバニアまでは行けないと。しかし王と共に式典に参加したい。
私はこう言いました。あなたは奴隷のように考えている。
決してその老女でおしまいになる訳ではないでしょう。その人、その家庭の相続者、後継者がきて儀式を最後まで成し遂げることができます。分かりますか。
それは継続するというのです。途切れることはない。
王は不滅です。しかし奴隷は死にます。
この違いが分かりますか。

王、王妃は永遠の存在ですが、奴隷は死ぬということです。
あなたはどっちですか?どちらの精神を持っているのかというのです。
ひょっとして奴隷精神をもっているかもしれません。もしそうなら、私はイエスの御名によって命じる、悪魔の霊よ去れ!といわなればなりません。(笑)
王権はまったく別のものです。いいですか、まったく異なるのです。
天一国の民、王、王妃は今までとは違った考えで暮らさなければなりません。世界のいろいろな王室をみて「ああ、あのような壮麗な宮殿に住んでいるから私より正統性がある」という見方をしてはいけません。私は韓オモニから離れてすべて失ったときオバマケアの世話になったこともあるのです。失業してオバマケアを受けていました。王宮で何十億ドルというお金を動かしていた位置からそうなったのです。

なぜなら、お父様が私に相続されたからです。しかしその困窮状態がお父様の後継者としての地位を少しでも傷つけたでしょうか。そんなことはありません。
むしろ私の話により力を与え、私の生涯を韓流ドラマのようにしました。(笑)
森の中に入って、ブッシュクラフトをしていても、それでもお父様の後継者であることに変わりありません。私の周りに武装具がそろっているからではありません。武装具のおかげなどではなく、お父様から祝福の油を注がれたからです。ただそれだけが私に二代王としての正統性、息子に三代王としての正統性を与えるのです。
これが世界のどの王室にもない正統性を与えてくれるのです。

彼らのような王宮はありませんけれども。あのイギリスのブルージュエリーはなんといいましたか?なんだかわかりませんが、それがどうしたというのです。
そんなものに正統性はありません。サタンの王室に与えられたサタンの印に過ぎません。
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