名誉の王国 Kingdom Honor
英語説教:2017年6月4日<全文>
パンザーとウィリアムズに拍手を送りましょう。彼らはロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに招待されており、そこでもまた討論をすることになっています。ヨーロッパのサンクチュアリからもそこに参加できるでしょう。
家庭詐欺連合が彼らの信仰をそこで弁護するというのは良いことです。それが自分の立場であり、お父様のみ言を聞いており、それでお父様の後継者、相続者を認めないというのなら自分の神学を弁護すれば良いのです。彼らが弁護しようとすればするほど、彼らがその遺産を継続しているという創始者とは全く一致しないということがもっと明らかにされるのです。
この討論は素晴らしいことです。これによって真実がもっと明らかになるだけです。ケリーとリチャードについても、彼らはとても謙虚です。真実というのは簡単なのです。真実を語れば真実それ自体が語るのです。人々は何が本当に起きているかを理解します
リチャードとケリー、ありがとう。次の討論もうまく行くことを祈ります。スイスの平和警察、平和軍会議も良いことです。世界で初めてのことだろうと思います。50口径ベオウルフ仕様のAR-15の写真を彼らは気に入るだろうと私が言ったのです。全体の話し合いで、スイスで会議を行うのが良いということになりました。
私達が主権と天一国の第2の権利を喜ぶ理由は何でしょうか。それを説明して示すのです。それは非常に刺激的な会議です。日程が決まればそれについて詳しい情報を出します。もしかしたら何人かが学術チームと一緒にスイスに旅行するかもしれません。旅行には良い口実かも知れませんね。
今日の説教に入りましょう。「名誉の王国」です。テサロニケ人への第一の手紙第2章6節からです。
6:また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。7:むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。8:このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。9:兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。10:あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように、生活をしたのである。11:そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、12:御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。
すばらしい聖句ですが、テサロニケの教会に対して述べた、最後の部分に注目しましょう。
「あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように」
彼はパウロと一緒に福音を述べ伝えていた他の使徒のことについて話しています。
「そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである」
福音を説くと・・・パウロがここで例を挙げているように、父親が子供に神の目から見てもっと良くなるように、もっと強い人になるようにと勧め、励まし、またさとすのと同じように・・・福音を教える者も・・・。
人は誰も完璧でありませんが、キリストに似るために努力しなければならないということです。それは子を持つすべての父親と同じなのです。完璧でなくても最良の父となるよう、幼い子供にとっての最良の手本となるように努力しているということなのです。
それは王国において非常に重要なことでもあります。なぜなら私達は世代間の王朝と王権のことを話しているからです。次の世代のことに目を向けるとこれが非常に重要になるのです。子供の中で誰が王国の福音と一致していくのか。誰がそれを支えていくだけの信頼に足るのか。あなたが戦ってきた国にとって。
社会主義者のように平等に分配するというのではありません。気分良くさせれば良いということではないのです。誰が王の王と天一国の王国に仕えて、親としてのあなたの願いを尊重し続けるのか。それが重要です。主権としてそのような役割を持つことを理解しなければなりません。居心地が悪くてもやらなければならないことがあるのです。自分の血統に王朝が作られていくのです。私たちが完璧だからではなく、神様がその王国と栄光に私達が入るように呼ばれたので私達は特別なグループだというのです。
主権には責任が伴います。そして皆さんが氏族の王冠を準備して王の王と王権と共に立ち、神様の王国、天一国が来るのです。
そのとき皆さんは賢く決断しなければなりません。なぜならそれは自分の氏族圏の王と王妃としての、自由と責任による自分の治世だからです。自分の子供について感情的に考えてはいけません。もちろん子供たちを平等に愛するのですが、1人が、あるいはもしかしたらカインとアベルが準備されなければなりません。それは文明と使命を尊重するということであり、あなたはそのために命がけで追及し戦っています。自分の王国の王朝を無駄にしてはいけません。もしそれを間違った子供に渡してしまえば滅んでしまいます。
ですからそれは主権にとって非常に重要な責任の分野なのです。王権のための責任の分野です。そのようなことを考えていなかったのは、皆さんが僕(しもべ)によって、天使長によって訓練されてきたからなのです。奴隷意識の中で訓練されてきました。皆さんは王国の意識を持たなければなりません。王冠は単に象徴的なものだけではありません。全く新しい領域に入るということです。
世代間にまたがる展望です。王国を維持し守るべく、義務と責任として持たなければなりません。自分の感情が問題ではありません。神様が任命し選ばれ、最後の時にご自身にもたらされた王朝を守るのが、主権としての義務なのです。サタンから分立されたものです。
これらの王朝は自分のものというだけでなく神様の王国の一部であるので、勝手に扱うことはできませんし、与えられた責任を勝手に考えることはできません。私たちが王権と王国の意識を育てていくことが非常に重要なことです。これは明白なのです。
同様に皆さんが子供を育てると・・・。子供たちは完璧ではないということを理解しなければなりません。私達は賢くはっきりと本質を見通さなければなりません。その子供は言われたことをすべてやっているかもしれませんが、私の使命や目的に対して本当に心を込めていないかもしれません。彼は点数稼ぎをするためにやっているかもしれないのです。そのようないんちきを見抜かなければなりません。
彼があれとこれをやったからと言って報酬を与えることはできないのです。その心情、性格、その子供の本質を見つめなければなりません。その子供は本当にあなたのために生きているのか。あなたが命を懸けて戦っているビジョンのために戦っているのか。単に子供があなたをどのように扱うかとかいった表面だけを見てはいけないのです。子供の深いところまで見なければなりません。親として子供を審判できなければならないのです。それは非常に難しいことです。主権として子供が自分の相続者としてふさわしいかどうか審判しなければなりません。
そのような観点から、それを受ける人はそれが世界で最も良いことだとは思わないのです。なぜならそこには非常に大きな責任が伴うからなのです。國進兄さんはそれを黄金の檻と呼んでいます。あなたが両親からその王朝としてすべてを相続すると、同時に自分のために生きることはできなくなるというのです。自分自身の夢を追い求めることはできません。選ばれなかった兄弟は実際自分の夢を追い求めることができます。自分で作る自分自身の王朝を追求することはできるかもしれません。しかし、選ばれた者はそのような願望を捨てなければなりません。親のために、王朝のために自分自身の願望を捨てる者にならなければならないのです。
未来を熟慮し見つめる場合に求めるべき特別な質があります。最後の時にお父様に選ばれて立ち上がった14万4千のすべての人々は、自分の王朝をずっと王の王の血統とつながって存続させることが重要です。私達はこれらのことを未来に向けて考えなければなりません。今の世代のことだけで子供を見ることはできません。彼らはやがて成長し信頼に足るようになり、次の世代を育て、やがては天一国の王国を追い求めてそれに責任を持つようになります。
ここに座っている子供たちは、「何てことだ。彼は私達を裁くことについて話している」というように思っているかもしれません。ええ、そうです。それが現実の世界です。そしてあなたの性質、性格によって選ばれることになるのです。必ずしも私の後継者になることは世界で最高の仕事というわけではありません。あなたは自分の王朝と王国のために生きなければなりません。あまり自分のために生きることはできないのです。そのように犠牲になる者とならなければなりません。
ですからこれらは皆さんすべてが自分の未来を見つめて良く考えるべきことなのです。王権の意識というのは将来を展望する捉え方であり、一時的に誰かを喜ばせて、自分の子供を心地良くさせて生きることはできないのです。子供たちはとても人を騙すようになり得ます。彼らはあなたから利益を得るためにあなたを騙して、面と向かって嘘をつくことができます。そのようなことを見抜くことができなければなりません。
そしてあなたは、彼らが悪気は無くてもときどき自分で知らずにそうしていることを悟るのです。なぜなら彼らは十分に思慮深くないかもしれないからです。しかし、私達は親として誰が立ち上がるのか、誰が王朝をこれから何世代も継続させるのか見定めることができなければなりません。
孔子の一族で何が起きたか話したことがあると思います。彼らは没落しました。何世代だったかちょっと思い出せませんが・・・。70だったでしょうか。それで道端で中国の装身具のようなものを売っているのです。その一族は完全に没落しました。何の関係もありません。それは中国の主要な一族だったのです。
そのようなことになってはいけません。そのようになればあなたの失敗です。なぜなら警告を受けたからです。ですから王権について考えるとき、将来の王朝の展望について考えなければなりません。孔子を例として皆さんの家庭がそのようになってはいけないということです。ですから王権の相続においては小さなグループ、1人の相続者か・・・お父様の場合は経済的な基盤を國進兄さんに授け、そしてこの霊的基盤を(私に)与えて・・・それはお父様が、私たちが一緒に働くと分かっておられたからであり、公正であり、お父様のために共に戦う者だと分かっておられたからなのです。
ですからカインとアベルのチームを作ることもできるでしょうが、このようなことを考えなければならないのです。
世界では酷いことがたくさん起きています。ロンドンではテロ攻撃がありました。ヨーロッパでは毎週起きています。7名が殺されました。先週マンチェスターで爆弾テロがあったところです。このようなことは馬鹿げています。彼らは自分の身を守る手段を持っていません。そしてそれは思想的なものでした。全体主義、共産主義の左翼はイスラム過激派と手を組んでいるのです。これらの国を不安定にして全体主義を正当化するというのです。
しかしこれらは皆、あらゆる異なる思想とキリスト教を基盤とした道徳との間の1つの境界線にたどり着きます。そしてそれがキリストの唯一性なのです。キリストの唯一性から離れると、多文化主義、相対主義になります。ヨーロッパは新しい宗教を完全に受け入れました。その結果としてこのような悪魔のフランケンシュタインが出てきて彼らを殺しています。
そしてもう逃れることができません。ヨーロッパが崩壊しつつあることを否定できません。今や誰もそれを否定できないのです。まったくばかげたことです。
これは昨夜のニュースです。ジハーディストが「これはアッラーのためだ」と叫んでいましたがイスラム教徒は関係ないことだと言っています。イギリスの首相が出てきて「これはイスラムとは関係ありません」などと言うでしょう。黙りなさい。私たちがどれだけばかだと考えているのでしょうか。 その男たちは「これはアッラーのためだ」と言っていたのです。
彼らの預言者は800人のユダヤ人の首を切りました。(皮肉を込めて)そこには何かつながりがあります。もう沢山です。
「5カ所でナイフの狂乱」とあります。銃を禁止したのでナイフを使おうというのです。ナイフを禁止すれば石を使います。石を禁止すれば車を使います。キリがありません。悪を規制することはできないのです。
そうではなく善人に力を与えれば悪人が何かやりたくてもためらうか、やったとしても打たれるのです。ですからスイスのジュネーブでアベルUN平和警察平和市民軍会議を開くことが重要なのです。それで國進兄さんが言うように、スイスの軍の士官学校でできればもっと良いでしょう。他のヨーロッパの国よりもスイスのモデルが天一国に近いです。
さてこのように毎週のように(テロが)起きており、ヨーロッパはもう無くなりました。彼らは多文化主義に自分を売ったのです。満足感を与える新異教徒思想に自分を売りました。人の感情を害さないようにしたら今度は人の感情など気にしない人たちが来ました。キリスト教文化もイスラム教文化もすべて同じだと言って。私たちが優しくしてあげれば彼らも優しくしてくれるのだと。残念なことにそのようにはなりません。これが現実です。
罪のない人がこのばかげた思想のために死ななければなりません。何度も何度も繰り返し間違っていると証明されてきました。間違った思想であり、少なくとも酷い文明です。普通の人々にとっては恐ろしい現実です。ロンドンの人々は、外出するときもしかしたらジハード攻撃があるかもしれないと考えずにいられないでしょう。
そしてヒラリー・クリントンはアメリカをこのようにしたかったというのですから、頭がおかしいのだろうかというのです。彼らは銃を、年を取った未亡人の自己防衛の手段を取り上げようとしていたのです。武器を取り去って自分たちの全体主義国家を正当化できるというわけです。
これが、善なる神様と宇宙の創造主の唯一性から離れた思想の政治的な結果です。完全に分かれています。
本当に2つの道があるのです。イエス様は、私が道であり真理であり命であると言われました。2つの道です。キリストかそうでないかのどちらかです。キリストではない場合に様々なレベルの違いや重要性の程度がありますが、それらはすべて悪魔崇拝につながるのです。様々な形態で弱いものも強いものもあるでしょうが、同じ悪魔崇拝の範囲にあります。
仏教に見られるようなより無害な形態かどうかに限らず、ヒンズー教、瞑想、非二元、悟りなど、このようなものはすべて、善と悪は自分の外側のものであって、自分の内面によって善悪を判断できるのだとしています。
そのような異教では、本当の悪などというものは無く、すべて自分の内面のことだと言います。自分はそれに対して偏った判断を避けるようになれないといけないだけであり、それを超越するのだと。すると世の中で本当の悪が現れることは 無くなるのだと。このような話を新しい異教でよく聞きます。ヨガコミュニティや何かで。ひどく貧弱な思想だと言えます。
ステファン・モレニューが、ある動画で新興宗教のヨガの女性を完全に分解して粉砕しています。彼女は回答することもできずに何も言えませんでした。
重要なのは、このようなことはすべて自分で自分の道徳を作ることができ、自分の世界を作ることができるという思想に結びつくということです。そのようなことはできません。現実も道徳もあなたの外側にあるのです。自分自身の道徳を発明することはできないのです。それはヒトラーが信じていたことです。それらは必ず地獄を作り出すのです。
私たちに与えられ、自分の良心で感じることができる道徳というものは、神様の性質から来るものなのです。神様の性質が私たちの道徳を決定します。神様の性質として神様は嘘つきではありません。ですから私たちは嘘をついたときに良心の痛みを感じるのです。なぜなら神様の性質には嘘つきというものがないからです。
また何か盗んだときにそれが間違っていると分かるのは、神様の創造主としての性質が泥棒ではないからです。
道徳は私たちが決定することではないという意味で私たちの外側にあるものです。私たちが自分をそれに合わせなければなりません。ですからキリストと共なる道を選ばない人々はみな、本当にそれに反対しています。彼らは宇宙や神様を自分たちに傾けたいと思っています。それがまさに偶像崇拝と自己崇拝の形態です。
あなたはそこで特別な技術を使って瞑想し、内なるチャクラと全宇宙が自分の心の中を・・・というようなことです。それでも雨には打たれます。タープを持ってきたほうが良いですね(笑)。
ですからお父様はとても自然を愛されたのです。なぜなら自然はあなたが自然を傾けられると考えているかどうかなど気にしていないからです。ただあなたに雨を降らせるだけです。そして風を変えてあなたは風邪を引きます。あなたは病院に行かないと、と言うでしょう。非常用の毛布がすぐに必要だと。あなたは自然環境に順応しなければなりません。さもなければ死んでしまいます。
私たちが現実を決定するのではありません。私たちが道徳を決めるのではありません。道徳は創造主から来ます。
哲学では存在論的な議論をします、その仮定は、神様は考えられるあらゆる宇宙の中で最大限に偉大な存在だとされます。ですから善のような肯定的なものとして、考えられるあらゆる宇宙の中で最大限に善であり、考えられるあらゆる宇宙の中で最大限に高潔であり、最大限に正当であるということです。
そのようなことから成る議論は存在論的な議論と呼ばれます。それは少し複雑ですがオンラインでもじっくり調べることができます。アルバン・プランティンガという・・・神の存在についての弁証論の議論の1つです。
重要なのはキリストの唯一性があるかどうかということです。それは避けられません。最終的にそれらの道、1つが多くの異なる形式につながって行きますが、本当は同じ結論なのです。そしてキリストにつながります。ですから家庭詐欺連合は非常に不満なのです。なぜなら人間の心には大きく口を開いた穴があるからです。それはキリストによってしか満たされることがありません。お金や権力でも満たすことができないのです。セックスやドラッグでも何でも。その穴はキリストによってしか満たされません。
真の喜び、真のアイデンティティ、真の個性はキリストとの関係において現れます。それと離れてはあり得ません。なぜ人々はそんなに満たされないのだろうかと思うのです。非常に無力だと。引き寄せの法則の本のようなことをやっても、2年後に会ってみると悲惨な状態です。引き寄せの力の本を実践しようが、宇宙を引き寄せてすべての祝福が手に入ると言っていても、その後「どうしたの?」と聞けば、「そうだな。新しい本を買うよ」という結果になるのです。
どのような概念も思想もそれを満たすことはありません。最終的にキリストというのは単なる考えや思想ではありません。お父様が言われたように・・・私たちはイエスの名で祈りません。なぜなら私たちはイエスの名前だけが欲しいのではなく、キリスト自身が欲しいからです。私たちはイエス様自身が欲しいのです。
プロテスタントの宗派で、あるスイス系フランス人の改革者がいます。フランソワ・タレンタイン(Francois Turrentine)という名前です。彼は非常に興味深い議論をしていますのでご紹介したいと思います。キリストを深く理解するということです。
真のクリスチャンのキリストに対する愛がどれだけ豊かなものか十分お分かりでしょう。彼らはキリストがどれだけかけがえの無い、尊い存在か分かっています。キリストなしには私たちには何もありません。それが、私たちがすばらしい神の国を持つか、それとも地獄に変わるかの絶対的な核心です。それはキリストを中心としなければなりません。
これは因果応報と神様の償い、息子であるイエスによる神様の受難についての議論です。私たちの罪を背負い、私たちの悪を負い、イエス様は苦難を受け、残酷で悲惨な死を迎え、それを耐えなければなりませんでした。そして原理で言うところの霊的救いを私たちに与えるのです。
私達はこれを探求すべきなのです。なぜなら霊的救いが原理で否定されているわけではないからです。 クリスチャンは救いを受け、神の家(教会)にいます。なぜなら彼らは霊的救いを受けているからです。
神様の不可欠な性質について興味深いことに、もちろん善とかいろいろある中で、その1つに公正さ、正義というものがあります。神様は高潔で公平です。
誰かが他人の罪の代価を支払うということが本当にできるのだろうかという問題があります。因果応報。その罪を犯していない人を代わりにして、誰か他の人の罪を償わせることができるのでしょうか。
刑法についてのすばらしいくまとめられた調査があります。あなたが法律家であればそれを調査して説明できるでしょう。因果応報についての刑法的、法的な正当化です。
多くの法的な状況があり、アメリカでもまさしくこれが実際の裁判で使われたことがあります。それはまた別の話ですが、そのような研究があります。
この改革者タレンタインは、罪について3つのことを述べています。1つ目は負債です。私たちが神様に負っている負債です。もっと正確には神様の正義に対する負債です。
「私達は神様に道徳的な義務を果たすべき義務がありますが、それを果たしていないので私達は神様に対して負債があります」
私達には完遂していない義務があり、私達は従うことなくそれを果たしていないので、これらの道徳的義務を与えた神様に負債があるのです。神様は私達に命を与えた方なのですから神様に果たすべき義務があるのです。私達は神様に借りがあります。
ですから罪は負債と見なすことができます。私たちが何か行って神様から離れ、神様を傷つけるならば、それは神様に支払うべき負債と見なすことができます。
また罪は、相互反目としても見なされます。ここで重要なのは相互と言う点です。私たちが神様とその戒律に対して反逆しているというだけでなく、神様の聖なる怒り、罪を憎む怒りが私達に対して向けられるということです。真に善であり正義である神様は、罪を憎むのです。なぜなら罪は悪であり、善ではないからです。
ですから神様は罪を拒絶し、非難します。ですから私たちが神様に対する罪の、反逆の人生を選ぶとき、私たちが神様に対して敵対するだけでなく、神様もまた私達に対して、聖なる公正と正義において敵対するのです。ですから私達と神様が相互に反目することになります。
そして3番目に、罪は犯罪であるということです。これが彼と対立したソシナスとの違いです。ソシニアンは、現在の教会の中でさえ一般的です。つまりそこでは罪は神様に負っている負債であると信じているのです。またそれは相互に反目していると。しかし、彼らはそれが犯罪だとは信じていません。
タレンタインはそれに対して、それは私たちが神様に対して犯した犯罪でもあるのだと言っているのです。そしてその罰は永遠の死であると。つまりそれは地獄であり、永遠に神様から離れることです。そして私達と、私達を正当に裁くことのできる最高の主権者の間で刑事責任を負わされるということです。
ですから、負債だけではなく、また相互の反目だけでなく、それは犯罪でもあるということなのです。
次に神様と罪に関してタレンタインが説明しています。先程のスライドで見た、私たちの罪が負債であり、相互反目であり、犯罪であるというのと同じように、3つのパターンに分けてそれを説明しています。
1つ目に神様は私たちの負債の債権者であるということです。神様の側から見ると債権者のようなものだということです。
反目については、神様は対立関係にある被害者となります。ただ許しを乞えば許されるというような簡単なものではないということが分かります。これが、神様はどんな罪でも許されると信じるソシニアンとの分かれ目になります。
そして人々は神様の正義を理解することができます。
3番目に私達の罪ということから、神様は最高の裁判官であり主権者であります。その方が何を作られたのでしょうか。法を作られたのです。私たちが従うべき命令です。それは恣意的に神様の頭から出てきたものであり、それらは神様の人としての性質の延長です。
因果応報を1番目と2番目の負債と反目という形でのみ見るならば、神様はすべての罪を許されるだけだと言えます。クリスチャンの中には繁栄の福音を求める人や、ユニテリアン・ユニヴァーサリズム的な人もいます。神様はとにかくすべてを許されるというのです。それは明らかに本当の福音ではありません。ソシニアンの福音です。
あなたが誰かにお金を貸していたとしたらその負債を完全に許してあげることができます。あなたにはその負債を完全に許して上げる力がありますね。それで神様が単に債権者だとすれば神様はその負債を許してあげることができるのです。
神様が相互反目していて被害者であるなら、神様はあなたを訴えないことを選択することができます。
しかし、あなたが犯罪を犯して神様が裁判官であるなら、神様はあなたを罰する義務があるのです。この人を罰したくないと言う選択肢は無いのです。なぜならその法全体を損なうことになってしまうからです。私達は原理と呼んでいます。原理的に行動するということです。神様が原理を作ったので原理的に行動するしかないということです。
ですから私たちの罪も犯罪であると理解すれば、神様はただの債権者ではなく、ただ傷つけられた存在なだけでなく、私達を罰しなければならないのだということが分かるのです。そして神様は、それを全く公正に、正しく行うことができます。良い裁判官が大量殺人犯を完全に公正に、正しく罰することができるのと同じように。
ですから私たちの罪の性質とその重大さ理解するなら、大きな罪から小さな罪まで関係なくそれらは私達を神様の性質から引き離すものであり、小さな嘘であっても神様から引き離すことになります。どれだけ自分が完璧だと思っていても、私達は神様の完璧さ、完璧な道徳的性質、完璧な道徳的性格の前では罪があります。
私達の罪は許してもらえる負債や反目だけではなく、犯罪であるのだと理解することが重要です。それは神様が宇宙全体の性質を破壊することなしに、また神様自身がご自分の性質に反対することなしには、簡単に許すことのできないものです。
そういうわけで私達ユニフィケーションは、原理または原理対原理に言及します。神様も原理を裏切り否定することはできません。ですから例えば、アダムとエバを許してあげることはできないのです。何らかのレベルの責任が必要なのです。何らかの蕩減を払わなければなりません。あるレベルの因果応報が、その負債だけも反目だけでなく、犯罪に対して支払われなければならないのです。神様だけが、正義の神様、善なる神様だけが犯罪に対して罰するのです。私たちが理解できるいかなる国であっても、そこで善良な裁判官が行うのとまったく同じことです。
学者が多くの韓国人は土着の信仰を持っていると指摘しているように家庭詐欺連合でも2つの神を信じていますが、今日においてさえ、まだソシニアン的な状態にあります。つまり神様は自分の負債を許して下さり、自分の反目を許してくれるのだと。1つ問題なのが、罪は犯罪でもあるということです。神様は犯罪を単に許すことはできません。あらゆる面で法を損なうことになります。自分自身の性質を損なうのです。すべての創造を損なうのです。罪の性質を犯罪としても理解するなら、そこから逃げるのは簡単ではありません。なぜならあらゆる国が生き残るのに不可欠な法律学と正義の様相全体を追求すれば・・・。
ジェフリー・ダーマー(訳注:17人の青少年を殺害した連続殺人犯)に判事の気まぐれで恩赦を受けさせたいと思いますか。ソシニアンによれば、皆さんは偏狭で憎しみに満ちた悪いクリスチャンということになります。
神様の性質はその法、戒律の源泉です。嘘をつかない、騙さないというのは、神様がそのような方ではないからです。そしてもし神様がご自分の性質から生まれたその法を損なうのであれば、被造世界全体と最終的には自分自身を損なうことになります。それが私たちの言う原理というものです。
ですから私たちが自分の罪、神様から離れることが本当に犯罪だと理解するとき、なぜ神様が愛していると同時に悪を憎まなければならないかが理解できます。
少数の良いクリスチャンと、またダイエットコーラのクリスチャン、つまり軽いキリスト教ということですが、あるいは家庭詐欺連合は、5分だけでも考えてみることをしようとしないのです。神様が債権者で自分が負債を負っており、自分が神様を傷つけたということは問題なく、それはすべて許されます。今度は罪が犯罪であるというとき大きな問題になります。
最後のときに神様が十字架の道で用いなければならない人々がいたのはこのためです。イエス様は十字架の道を歩まなければなりませんでした。もちろんそれは神様の因果応報であり、イエス様が負った罪は、負債だけではなく、反目だけでなく、正義の神として罰しなければならない創造主に対する犯罪でありましたが、それを通して救いが得られるのです。
タレンタインは、神様は負債を免除する債権者の権利を持っていますが、宇宙の最高の統治者と裁判官として、神様は犯罪を見逃すことができないのだと言いました。神様の正義と善なる性質において、犯罪を見逃すことは不可能なのです。正直な裁判官が、誰が犯した犯罪であっても見逃すことができないのと同じことです。
私達は、自分の気に入った人を見逃すような裁判官を腐敗した裁判官と呼ぶのではないでしょうか。神様が宇宙で最高に偉大な存在であるなら、最高に正直で最高に正当でなければなりません。ですからそのように腐敗することはあり得ません。
そしてキリストについては、人間の犯罪を償う贖罪としての3つの役割があります。1番目に、負債に関しては、キリストは私たちの保証であり、負債に対する確かな返済であり、その支払いの保証なのです。誰かがあなたに貸しているとするとあなたは彼らに支払いを準備しますが、それが保証です。確実性が得られるということです。
反目については、キリストは仲裁人となります。裁判官と犯罪を犯した人の間に立ってその過程の仲裁人となります。
そして犯罪については、キリストは犠牲的な死によって犯罪に対する罰を償う司祭であり犠牲者です。
以上のことからキリストは私達の罪の免除と救いに対する3つの関係性を持っているということです。興味深いこと思いませんか。
もっと深く探求すれば、キリストにどれほど価値があるのか、再臨のイエス様がどれほどかけがえないのかが分かります。再臨のイエス様も同じイエス様です。キリストはそれほど重要です。絶対に不可欠なのです。キーホルダーのアクセサリーではありません。
さて、身代わりの償いの問題ですが、神様が何の罪も犯していない無実の人に罪を負わせることは公平なことでしょうか。善なる神様がそのようなことができるというのでしょうか。
あなたが何か罪を犯したら、裁判官が「身代わりの償いをさせることにします」と言って、町を歩いている人を見て「あの人を捕まえて連れてきなさい」、「あなたはこの人の代わりに罪を償いなさい」と言ったとすれば、それを偉い裁判官だと言うでしょうか。それはその裁判官の正当性と道徳的性質を示すのでしょうか。それは奇妙なことです。法律学的に見ても良い裁判官とも良い人とも思えません。
このような身代わり(代理人)が成立するために必要な5つの要素とは何でしょうか。
1番目に、罪が同じ性質で罰せられるために、罪人と代理人に共通の性質がなければなりません。そしてもちろん、動物の生贄では十分でありません。
2番目に、代理人の自由意思による同意が必要とされます。その人は自由意思のボランティアでなければなりません。先程のたとえ話で裁判官が町で誰かを適当に選んで罪を償わせると言う話をしましたが、問題はその人が自発的にやっていないことだということが分かります。裁判官が自分の権限でそうすることを申し付けたとすれば、そのような裁判官は悪でしょうか善でしょうか。他人の権利を侵害しているのですから全くの悪です。彼は正義を司っているのですから、それは悪だと言えるのです。
ですから同じように私達とその罪、犯罪のために身代わりになろうとする人は、そこに自由意思による同意がなければならず、自発的にそうすることを選択していなければならないのです。
3番目に代理人は、正当にそれに甘んじることを決定できる、自分自身の人生に対する力を持っていなければなりません。彼は同意しているだけでなく力を持っていなければなりません。18歳以下であるために代理になるために両親がサインするようなこととは違います。
4番目に代理人は、私達すべての人に由来するすべての罰に耐える力を持っていなければなりません。それはつまり、神人(キリスト)が要求されるということです。普通の人は自分自身の罪の重荷を持っていますのでそれができません。それに加えて私達すべての人の罪の身代わりになろうというのですから、私達によるすべての罰を償うことはできないのです。それは彼が自分の罪も持っているからです。
キリストについて言えば、それはお父様の言う本体であって、神様が地上に現れた本体である方は自分自身の罪の重荷を持っていないのです。これは独生女についてもまったく同じで、韓お母様は、お父様は罪があるが自分は罪が無いと言っており、罪が無いという問題全体が非常に大きいということなのです。なぜならそれが神人を決定し、誰がキリストであるのか否かを決定するからです。
ですから代理人は力を持たなければなりません。それは簡単です。すべての罪の罰を耐えることができるために、罪がないこと、完全に無実であることです。なぜなら彼が私達の罪を、世界中の罪を負っていながら更に自分自身の罪も負うなら、彼はすべての罪による罰に耐えることはできないからです。ですから彼は罪が無い者でなければならず、それで彼はすべての罪を負うことができ、すべての罪に対して正義が下されるようにできるのです。
5番目に代理人は他人にも自分にも満足を与える必要がないように、罪のない人でなければなりません。彼は神様に何の負債も持たない人でなければならず、罪のない人でなければなりません。それは4番目ともつながりがありますが、これで身代わりの償いがある場合に必要な5つの主要な点が分かりました。
神様とイエス様との関係性という観点だけではなく、私達はお父様の価値が分かります。お父様がどのような道を歩まなければならないか理解するとき、それは私たちが蕩減の道と呼んでいるものです。そしてお父様がどのような正義を自分自身にもたらさなければならなかったのか。お父様は罪人や人類と共通の性質を持っておられました。ですからその代理となることができ、そして有罪であるという同じ性質で罰を受けることができました。
お父様は自分で選択しなければならない自由意思による同意をしていました。それは人間の側として選択しなければならなかったのです。イエス様がゲッセマネの園で御心のままになさってくださいと言って選択しなければならなかったのと同じです。この盃を去らせてくださいと求め、自由に、自由な働きとして決定しなければなりませんでした。
これは非常に重要な問題なのです。なぜなら、前のスライドに戻りますが・・・絶対に間違いのないバロメーターと言う話があります。バロメーターというものを知っていますか。それは気圧を教えてくれるものです。絶対に間違いのないバロメーターというものがあったとします。つまりどのような環境であっても、100パーセントの正確さで未来の気圧の予測を示してくれるということです。それは今から1分後、10分後、そして100年後や1万年後の気圧が分かるのです。絶対に間違いのないものです。
ここでの問題は、信仰という点で私たちが神学的運命論と呼ばれるものに陥ってしまうかもしれないということです。それは決定論とはことなるものです。神学的な運命論と言うのは、神様は私が選ぶものを知っていて、私が選ぶものを運命づけているというようなことです。ですからもう最初から終わっているのです。私がやることも分かっているので私は自由意思を持ってはいないということです。それが神学的運命論と呼ばれるものです。
その問題は、この絶対に正確なバロメーターの例を理解していないということです。そのバロメーターは今日も明日も、1000年後も1万年後の気圧も分かりますが、それはそのバロメーターがその気圧を作っているわけではないのです。それがここでの勘違いです。それが私たちの自由な働きの話の良いたとえになっています。それはもちろん身代わりの償いの2番目のポイントです。
自由な働きは、私達がロボットのようにならず、神様と愛を授受するために重要です。それは天一国憲法の根本です。神様が人間に与えた贈り物と言う点で。もちろん神様がその中心です。
しかし、もしあなたが試練を受けた最後のときに立ち上がったことを神様が知っていたら・・・しかし神様はそれが起こるようにしたのでしょうか。神様は知ってはいたのです。しかし、それが起こるようにしたのではありません。
王妃がおいしい寿司をここに持っていて、とてもおなかがすいていたとします。地虫かミールワーム、爬虫類とか・・・いっそミミズのパスタだとしましょう。彼女はその2つの料理から選ぶのですが、私は間違いなく100パーセント、彼女がミミズのスパゲッティではなく寿司を選ぶことを知っています。しかし、私が彼女に寿司を選ぶようにさせたわけではありません。私は彼女のことを良く知っていただけです。少なくともそこで彼女が寿司を選ぶとはっきり分かっていました。
神様は私たちが何をしようとしているか分かっていますが、しかしそれは神様がそれをもたらしたのでしょうか。神様は私たちのことをとてもよく知っておられるので、私たちが何をするか分かるのです。しかし、私たちがそれを行うことを選ばなければならないという意味で、そこには依然として自由の働きがあります。
その様な意味で神様は、予知はできても、ある結果になるように運命づけることはできないのです。前もって知ることはできてもそれをもたらす事はできず、私達は依然として自由な働きを持つのです。これが絶対に間違いのないバロメーターのたとえについて人々が間違うことなのです。彼らは神学的運命という観点からそれを理解しています。そして予知と因果関係の性質を理解していません。神様の予知は物事が起こる原因とはなりません。最終的に私達は選択しなければならず、自由意思が働くのです。代理に対して自由な同意が要求されるということです。
さて成約の時代で天一国の王国についてこれを考えてみましょう。なぜキリストの身代わりの償いの性質には自由な働きがなければならないのか分かるでしょう。それは私たちが救われるために絶対に重要です。キリストの側での自由な働き、そして私たちの側でもそれを受け入れることを決定しなければなりません。
あなたが法廷にいて裁判官がその裁判を検証していると、誰かがその犯罪に対して自分が身代わりになると言います。しかしあなたは、いや、その人に身代わりになって欲しくないと言うことができるのです。それは人々がキリストを拒絶する場合に起こることです。するとあなたはその負債と反目、そして犯罪に対して完全に責任を負うことになるのです。
自由な働きと言う要素は神様とその息子が自由意思を持つという一方通行ではなく、私たちが救われるようにするための自由意思を持たなければならないということなのです。神様や裁判官が、私たちが受け入れると言うか、受け入れないと言うかを知っているかは重要ではありません。それが原因とはなりません。それは運命論ではないのです。神様はそれを知っているだけで、それを引き起こすのではないのです。
すべての状況を天一国の神様の王国に照らしてみると、また終わりの日に起こるすべての状況において、神様はここにいるすべての一族が選択するということは知っておられ、家庭詐欺連合が拒否することを選択すると知っておられましたが、神様がそれをもたらしたのではないということが分かります。そこにはまだ5パーセントの責任分担があるのです。
しかし同様に、神様は私達のことを良く知っておられるので、最終的に私たちが正しいことをすると分かっておられたのです。
そのようにして私達は創造主の美と知識の両方の中にあります。ペテロへの第2の手紙の聖句で「わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」とあります。3章18節でしょうか。
私達がキリストの中心性を理解するとき、なぜ彼は私達の永遠の生命にとって重要なのでしょうか。完璧な神様、完璧な法廷、完璧な審判の前に全く正当な永遠の罰を避けるために。どれほどキリストの性質と人格とその関係性が中心であるのか。そういうわけですべての神の形に作られた人の心には穴があります。それは他のものでは満たされず、他のものでは代えられません。
タレンタインは次のような考えを提起しています。私達が神様の前に来てキリストを受け入れるときだけではなく、私達がお父様の権威の下に立つときに私達は罪を軽減されているのか、つまり罪が洗い流されているのかというだけでなく、私達には正義、忍耐として知られているものがあり、つまりキリストにますます似ていくということです。
それは通常、神聖化、義認と呼ばれており、罪を赦免することですが、ゼロにするということではありません。神聖化の過程は、いわば神様が債権者として持っている神様の肯定的な信用と肯定的な資産の転嫁です。
それは私達に転嫁されますが、ゼロになるのではなく、肯定的な評価になります。私達の人生にキリストを持てば多くのことが起こるのです。キリストを持たない人々は、この保証のない、仲裁人のない、罰を支払う償いのない、空虚の中に生きています。
毎日このようなことを深く熟考することができ、キリストの唯一性について考えれば考えるほど、もっと多くの喜びが心から自然にわき出て、もっと賛美の歌を歌いたくなります。私は先日キングズ・レポートで歌っていました(笑)。私は聖霊の声がするといつでも歌います。
自然とあなたの心が神様を賛美し神様に感謝しなければなりません。神様への賛美を歌うのです。私達が恵みと知識を深め、その知識・・・それは私達の父の尊さを理解することです。
立ち上がってすべてを救われた神様とキリストに栄光を捧げましょう。アーメン、アージュ。
天聖経を読みます。
天聖経1262(英語版ページ)
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、神様の愛の接触点へ帰ることです。
翻訳:BAMBOOS
励ましのクリック聖霊感謝です。
さて、身代わりの償いの問題ですが、神様が何の罪も犯していない無実の人に罪を負わせることは公平なことでしょうか。善なる神様がそのようなことができるというのでしょうか。
あなたが何か罪を犯したら、裁判官が「身代わりの償いをさせることにします」と言って、町を歩いている人を見て「あの人を捕まえて連れてきなさい」、「あなたはこの人の代わりに罪を償いなさい」と言ったとすれば、それを偉い裁判官だと言うでしょうか。それはその裁判官の正当性と道徳的性質を示すのでしょうか。それは奇妙なことです。法律学的に見ても良い裁判官とも良い人とも思えません。
このような身代わり(代理人)が成立するために必要な5つの要素とは何でしょうか。
1番目に、罪が同じ性質で罰せられるために、罪人と代理人に共通の性質がなければなりません。そしてもちろん、動物の生贄では十分でありません。
2番目に、代理人の自由意思による同意が必要とされます。その人は自由意思のボランティアでなければなりません。先程のたとえ話で裁判官が町で誰かを適当に選んで罪を償わせると言う話をしましたが、問題はその人が自発的にやっていないことだということが分かります。裁判官が自分の権限でそうすることを申し付けたとすれば、そのような裁判官は悪でしょうか善でしょうか。他人の権利を侵害しているのですから全くの悪です。彼は正義を司っているのですから、それは悪だと言えるのです。
ですから同じように私達とその罪、犯罪のために身代わりになろうとする人は、そこに自由意思による同意がなければならず、自発的にそうすることを選択していなければならないのです。
3番目に代理人は、正当にそれに甘んじることを決定できる、自分自身の人生に対する力を持っていなければなりません。彼は同意しているだけでなく力を持っていなければなりません。18歳以下であるために代理になるために両親がサインするようなこととは違います。
4番目に代理人は、私達すべての人に由来するすべての罰に耐える力を持っていなければなりません。それはつまり、神人(キリスト)が要求されるということです。普通の人は自分自身の罪の重荷を持っていますのでそれができません。それに加えて私達すべての人の罪の身代わりになろうというのですから、私達によるすべての罰を償うことはできないのです。それは彼が自分の罪も持っているからです。
キリストについて言えば、それはお父様の言う本体であって、神様が地上に現れた本体である方は自分自身の罪の重荷を持っていないのです。これは独生女についてもまったく同じで、韓お母様は、お父様は罪があるが自分は罪が無いと言っており、罪が無いという問題全体が非常に大きいということなのです。なぜならそれが神人を決定し、誰がキリストであるのか否かを決定するからです。
ですから代理人は力を持たなければなりません。それは簡単です。すべての罪の罰を耐えることができるために、罪がないこと、完全に無実であることです。なぜなら彼が私達の罪を、世界中の罪を負っていながら更に自分自身の罪も負うなら、彼はすべての罪による罰に耐えることはできないからです。ですから彼は罪が無い者でなければならず、それで彼はすべての罪を負うことができ、すべての罪に対して正義が下されるようにできるのです。
5番目に代理人は他人にも自分にも満足を与える必要がないように、罪のない人でなければなりません。彼は神様に何の負債も持たない人でなければならず、罪のない人でなければなりません。それは4番目ともつながりがありますが、これで身代わりの償いがある場合に必要な5つの主要な点が分かりました。
神様とイエス様との関係性という観点だけではなく、私達はお父様の価値が分かります。お父様がどのような道を歩まなければならないか理解するとき、それは私たちが蕩減の道と呼んでいるものです。そしてお父様がどのような正義を自分自身にもたらさなければならなかったのか。お父様は罪人や人類と共通の性質を持っておられました。ですからその代理となることができ、そして有罪であるという同じ性質で罰を受けることができました。
お父様は自分で選択しなければならない自由意思による同意をしていました。それは人間の側として選択しなければならなかったのです。イエス様がゲッセマネの園で御心のままになさってくださいと言って選択しなければならなかったのと同じです。この盃を去らせてくださいと求め、自由に、自由な働きとして決定しなければなりませんでした。
これは非常に重要な問題なのです。なぜなら、前のスライドに戻りますが・・・絶対に間違いのないバロメーターと言う話があります。バロメーターというものを知っていますか。それは気圧を教えてくれるものです。絶対に間違いのないバロメーターというものがあったとします。つまりどのような環境であっても、100パーセントの正確さで未来の気圧の予測を示してくれるということです。それは今から1分後、10分後、そして100年後や1万年後の気圧が分かるのです。絶対に間違いのないものです。
ここでの問題は、信仰という点で私たちが神学的運命論と呼ばれるものに陥ってしまうかもしれないということです。それは決定論とはことなるものです。神学的な運命論と言うのは、神様は私が選ぶものを知っていて、私が選ぶものを運命づけているというようなことです。ですからもう最初から終わっているのです。私がやることも分かっているので私は自由意思を持ってはいないということです。それが神学的運命論と呼ばれるものです。
その問題は、この絶対に正確なバロメーターの例を理解していないということです。そのバロメーターは今日も明日も、1000年後も1万年後の気圧も分かりますが、それはそのバロメーターがその気圧を作っているわけではないのです。それがここでの勘違いです。それが私たちの自由な働きの話の良いたとえになっています。それはもちろん身代わりの償いの2番目のポイントです。
自由な働きは、私達がロボットのようにならず、神様と愛を授受するために重要です。それは天一国憲法の根本です。神様が人間に与えた贈り物と言う点で。もちろん神様がその中心です。
しかし、もしあなたが試練を受けた最後のときに立ち上がったことを神様が知っていたら・・・しかし神様はそれが起こるようにしたのでしょうか。神様は知ってはいたのです。しかし、それが起こるようにしたのではありません。
王妃がおいしい寿司をここに持っていて、とてもおなかがすいていたとします。地虫かミールワーム、爬虫類とか・・・いっそミミズのパスタだとしましょう。彼女はその2つの料理から選ぶのですが、私は間違いなく100パーセント、彼女がミミズのスパゲッティではなく寿司を選ぶことを知っています。しかし、私が彼女に寿司を選ぶようにさせたわけではありません。私は彼女のことを良く知っていただけです。少なくともそこで彼女が寿司を選ぶとはっきり分かっていました。
神様は私たちが何をしようとしているか分かっていますが、しかしそれは神様がそれをもたらしたのでしょうか。神様は私たちのことをとてもよく知っておられるので、私たちが何をするか分かるのです。しかし、私たちがそれを行うことを選ばなければならないという意味で、そこには依然として自由の働きがあります。
その様な意味で神様は、予知はできても、ある結果になるように運命づけることはできないのです。前もって知ることはできてもそれをもたらす事はできず、私達は依然として自由な働きを持つのです。これが絶対に間違いのないバロメーターのたとえについて人々が間違うことなのです。彼らは神学的運命という観点からそれを理解しています。そして予知と因果関係の性質を理解していません。神様の予知は物事が起こる原因とはなりません。最終的に私達は選択しなければならず、自由意思が働くのです。代理に対して自由な同意が要求されるということです。
さて成約の時代で天一国の王国についてこれを考えてみましょう。なぜキリストの身代わりの償いの性質には自由な働きがなければならないのか分かるでしょう。それは私たちが救われるために絶対に重要です。キリストの側での自由な働き、そして私たちの側でもそれを受け入れることを決定しなければなりません。
あなたが法廷にいて裁判官がその裁判を検証していると、誰かがその犯罪に対して自分が身代わりになると言います。しかしあなたは、いや、その人に身代わりになって欲しくないと言うことができるのです。それは人々がキリストを拒絶する場合に起こることです。するとあなたはその負債と反目、そして犯罪に対して完全に責任を負うことになるのです。
自由な働きと言う要素は神様とその息子が自由意思を持つという一方通行ではなく、私たちが救われるようにするための自由意思を持たなければならないということなのです。神様や裁判官が、私たちが受け入れると言うか、受け入れないと言うかを知っているかは重要ではありません。それが原因とはなりません。それは運命論ではないのです。神様はそれを知っているだけで、それを引き起こすのではないのです。
すべての状況を天一国の神様の王国に照らしてみると、また終わりの日に起こるすべての状況において、神様はここにいるすべての一族が選択するということは知っておられ、家庭詐欺連合が拒否することを選択すると知っておられましたが、神様がそれをもたらしたのではないということが分かります。そこにはまだ5パーセントの責任分担があるのです。
しかし同様に、神様は私達のことを良く知っておられるので、最終的に私たちが正しいことをすると分かっておられたのです。
そのようにして私達は創造主の美と知識の両方の中にあります。ペテロへの第2の手紙の聖句で「わたしたちの主また救主イエス・キリストの恵みと知識とにおいて、ますます豊かになりなさい」とあります。3章18節でしょうか。
私達がキリストの中心性を理解するとき、なぜ彼は私達の永遠の生命にとって重要なのでしょうか。完璧な神様、完璧な法廷、完璧な審判の前に全く正当な永遠の罰を避けるために。どれほどキリストの性質と人格とその関係性が中心であるのか。そういうわけですべての神の形に作られた人の心には穴があります。それは他のものでは満たされず、他のものでは代えられません。
タレンタインは次のような考えを提起しています。私達が神様の前に来てキリストを受け入れるときだけではなく、私達がお父様の権威の下に立つときに私達は罪を軽減されているのか、つまり罪が洗い流されているのかというだけでなく、私達には正義、忍耐として知られているものがあり、つまりキリストにますます似ていくということです。
それは通常、神聖化、義認と呼ばれており、罪を赦免することですが、ゼロにするということではありません。神聖化の過程は、いわば神様が債権者として持っている神様の肯定的な信用と肯定的な資産の転嫁です。
それは私達に転嫁されますが、ゼロになるのではなく、肯定的な評価になります。私達の人生にキリストを持てば多くのことが起こるのです。キリストを持たない人々は、この保証のない、仲裁人のない、罰を支払う償いのない、空虚の中に生きています。
毎日このようなことを深く熟考することができ、キリストの唯一性について考えれば考えるほど、もっと多くの喜びが心から自然にわき出て、もっと賛美の歌を歌いたくなります。私は先日キングズ・レポートで歌っていました(笑)。私は聖霊の声がするといつでも歌います。
自然とあなたの心が神様を賛美し神様に感謝しなければなりません。神様への賛美を歌うのです。私達が恵みと知識を深め、その知識・・・それは私達の父の尊さを理解することです。
立ち上がってすべてを救われた神様とキリストに栄光を捧げましょう。アーメン、アージュ。
天聖経を読みます。
天聖経1262(英語版ページ)
私たちにメシヤが必要な理由は、救いを受けるためです。それでは、救いに必要な根本的な基点とは何ですか。それは、神様の愛の接触点へ帰ることです。
翻訳:BAMBOOS
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