以下サンクチュアリNEWSからの転載です。
2016年8月28日説教 「王国の救い主」全文
今日は「王国の救世主」というテーマでお話ししましょう。
終末についての聖書の最大の警告は、偽の教師、偽キリストがあらわれ、自分がキリストだと宣言するというものです。それはキリストではなくむしろ反キリストです。
もちろんこのことは家庭連合でも起こりました。教会で現実に起きたことです。サン・フランシスコ(ブラジルのプロの格闘家、真のお父様の警護をしていた)について以前お話ししました。彼はお父様の最後の一年間に主要な警護に当たっていました。サン・フランはすごい証をここでしました。あばら骨を三本、片方の鎖骨も一本折り21日間入院する怪我を負いながら勝負に勝った証です。
その彼がお父様の聖和後、久しぶりに教会に行って「ここは一体何の宗教なのだ」と戸惑ったというのです。違うものになっていたといいます。
面白いことに、郭グループの一員であるらしき者の書いた「統一教の分裂」という韓国で出版された著作のなかで書いているのですが―一応外部の人間のようですが内容から見ると郭グループからお金をもらっている可能性大です。何千億と盗んでおきながら、何も悪いことなどしていないと主張しています。お父様を見事に背信したのです。
そのような外部の人間ですら韓オモニが全く新しい宗教をつくったと結論付けています。いまや全く別宗教になりました。私たちはお父様の聖和後、韓オモニの抱くイデオロギーと信条の全貌をはからずも知ってしまいました。(お父様が聖和されるという)厳しい状況の続く中で、あるいは病院でそれは徐々に明らかになっていきました。
お父様の祝福を受けた私と国進兄さんの、お父様の位相についての認識、すなわちお父様はメシア、王の王、再臨のキリストであられること、この認識は揺るぎないものでした。これに韓オモニは非常に腹を立てたのです。ここに大いなる憤りを感じたのです。病院での話ですが、もうすでにこの頃までには私達はマークされ、牽制されていることを感じていました。追い出そうとする気配を感じていたのです。この照準を定められる感覚が分かりますか。
当時この事実(韓オモニの抱くイデオロギー)は韓オモニとその最側近しか知る者はいませんでした。私たちはそこに直に切り込んでいくほかありませんでした。なぜならお父様が予言されたようにここでの選択が祝福か審判かという世界の運命を決めるからです。
そして王杓を手に女皇帝として登場するオモニの姿を目の当たりにしました。私はオモニの中に揺らぎを見ました。オモニの良心の葛藤を見て取ることができたのです。王杓を手にしながらも非常に不安定でぎこちない感覚を受けました。しかし取り巻き連中はオモニに勢い込んで王杓を持つように勧めました。黄金の王杓を手にする姿を見せることで世界の注目を引くと考えたのでしょう。そこにオモニは乗りました。
すでに天聖経改委員会を作った時点でお父様を冒涜しました。決して触れるな、霊界に行ったとしても永遠に訓読なさいとまで言われた天聖経です。そして異端の赤表紙天聖経を作り出しました。
それはすべてお父様のみ言葉だと彼らは言いますが実はそうではありません。オモニの思想をしっかり紛れ込ませています。家庭連合の崩壊とともに多くの人々が目を覚ますようになりました。神の祝福のもとに歩んでいないという現実にいやおうなしに直面させられたからです。教会に行ってもそのたびに惨めな思いをするからです。中心を失いました。焦点が定まっていないのです。相対主義に陥り、二世はこの世の波に飲み込まれています。
社会文化、世間の問題とまともに戦うこともしません。自分達が世間に染まっているからです。億というお金を使って大きな行事を催しても、お金をつかませてVIPを招くなどそういうところに大金を使っているのです。そして「平和、平和」と叫んで満足して家に帰る、そういう相対主義者になり果てたのです。誰も善の側に立って悪に立ち向かおうとはしません。悪の側に立っても相対主義者ですから、何でも「愛する」のです。つまりサタンでさえ受け入れるというのです。
その行事(家庭連合の基元節)の後、天正宮の一室であの信じられない体験をしたのです。国進兄さんがオモニに「イギリスの王妃のように、王が祝福した息子を王として受け入れそれを敬うべきではないですか。そして尊厳ある慈愛に満ちた母としてお父様の決定を、天一国についての決定に敬意を払うべきです」といった言葉に対して、ありったけの大声をあげて「私は絶対権力を持っている!」と叫びました。まさに悪夢としかいう他ありません。生まれてこの方そういう場面を見たことがなかったからです。そのとき悪霊に掴まれている事実を知りました。
そのとき知らなかった事実もいま漏れ聞こえてくるようになりました。お父様の聖和の年、2012年の1月にお父様に内緒でカルト的行事を行ったというのです。別の霊的人格と結婚し、一つになる式典です。サタン的霊、もしくはサタンとの結婚式です。
そのことを知って初めてオモニが形相を変えて「絶対権力を持っている!」と叫んだ理由が腑に落ちました。完全に狂気としかいいようがありません。
もちろん、自分がメシアであり独生女であると言い出したことも完全に異端の行状です。普通のキリスト教の信徒でもそれが1億パーセント異端であることが分かります。そこまでいかずとも聖書を読んだことのある人、キリスト教牧師のビデオを一度でもネットで見たことのある人ですらそれ(独生女発言)が1億パーセント異端であること分かるというのです。
それをまともに受け取るのは、なんでもありの、どうでもいいニューエイジの相対主義者、ルーシェルを崇拝することもエホバを崇拝することも同じだという考えの持ち主くらいでしょう。
このようにして韓オモニはバビロンの淫婦となり最後の日に道をそれたのです。そして神々の門を開きました。自己崇拝の門を開いたのです。王杓を手にしたあの時点ではオモニはまだ自分が独生女、再臨主、再臨のキリストだとはいいませんでした。
独生女はちょっと問題です。再臨主は花婿として来ることになっているのですが、女性の花婿が世界中の花嫁を迎えることになればレズビアンのイエスになってしまうではないですか。
その後、玉座に平然と座るようになりました。これはとてつもない冒涜行為です。とくにアジア文化では例えるなら誰かの棺桶に小便をかけるに等しいほどの冒涜です。
歴史において独裁者が常にそうであるように、神様のみ言に従うようにとオモニに意見するものは周りには誰もいません。そこからあらゆる改ざんが台風の渦のようになって起こって来ます。
例外なくとってきた策をここにみることができます。過去の世界征服を目指したものたちを見て下さい。イスラム帝国、ローマ帝国、それが何であれとにかく神様の創造された「家庭」という仕組みを壊そうとします。
聖書でも神様は男を創造し、一家の主となるように定められた。そしてキリストに従う頭(かしら)となり、妻は彼の権威に従う。これは決して奴隷になれとか資産になれという話ではありません。神の家庭の秩序を体現するという話です。そして子供たちを神の目にかなうように教育していく。
様々な社会学的評価を見ても家庭における父親の役割は最も重要なものであることがわかります。大きな政府や大企業に飼いならされた教会はすべて聖書を真剣に教えません。むしろ人々の耳に心地よいことだけを語り良い気分にさせてお金をとろうとするのです。
「献金したくなければしなくていい。来たくなければ来なくていい」などといっている教会はここだけでしょう。しかし私たちはみ言について説教しています!そうでしょう。
ローマ帝国にしても他国を征服するとまずその男たちを殺して排除します。それによって女たちは征服者に屈するのです。そして政府がその寡婦たちにお金を与えて援助し、政府が子供を教育し国家の奉仕者へと仕立て上げるのです。このような形の性服がサタン世界で常時行われてきました。こうして文明を破壊し偽りの王に従わせてきたのです。
この(逆転の)四位基台の図表をみれば原理に変更を加えたことは明らかです。お父様を相対化しました。家庭連合では夫も父親も敬わなくてもいい。女性の復権を高らかに叫んでいますが、間もなく一人ぼっちになるでしょう。
聖書にはあるべき夫と妻の関係がはっきりと書かれています。夫はキリストが教会を愛するように無条件に妻を愛する。キリストが教会のために犠牲になり死んだごとく夫は必要とあらば家族のため犠牲となり死ぬのです。これが偉大な責任であるというのです。夫は家庭で権威をもつ者であると同時に命を懸けた責任をもつ者です。フェミニストはこのことを理解していません。
「私にも権力を下さい」。
それでは家族のため命を懸ける責任を負うのか?
「それは男の役目でしょ。権力だけ渡しなさい」。
権力をもてばそれ相応の責任が生じるのです。何者かが王国を侵略してくるときは国民のため最前線に立って戦って死をもいとわないということです。部屋の片隅に隠れて「あなた、やっつけて!」なんていうことは許されないのです。
すべての征服者は男を殺し女は性奴隷にしました。全く同じやり方です。そうしながら家庭連合は統一原理を削除・変更しています。だから原理を教えていないでしょう。ある教会の青年リーダーは「原理講義などなぜするのか」と上からいわれたといいます。「あの人は原理を教えている」と誰かがいいつけたのでしょう。原理を教えるとクレームが出るのです。
このような人たちは脳死状態のゾンビであるとしかいいようがありません。統一原理も摂理も何もかも分からなくなっているのです。それでいて聖書など価値がないとみなしています。統一原理は聖書の解説であり聖書から歴史を解読したものです。
こういう風にしながら、自分達の神学を出してきました。彼らには原理を教えられない理由があります。原理を教えると自分たちの正体、姦通者、偽りの教師、詐欺師であることがあからさまになるからです。
(韓鶴子の名が刻印された祝福リングを見せて)偽祝福のために用意された何千ものこの指輪。身につけなければ罰まで用意する勢いです。強制です。普通に脳細胞が機能している者ならこの指輪を見ればある結論がでるはずです。「韓鶴子」韓オモニの名だけが刻まれているのですよ。
家庭連合は「真の父母は一つ」「真の父母は一つ」と繰り返しますが、ここには「韓鶴子」だけです。「文鮮明」とはどこにもないのです。カルト的でない信仰を理解する正常な人は、これを何かの警鐘と受け止めなければなりません。
また再び元に戻そうとする偽聖酒の問題があります。これを飲む人はもはや自分から望んで飲んだことになります。なぜなら2年間の猶予期間、知る期間が与えられていたからです。(偽聖酒を飲むことは)真理の否定、真理への背信とみなされるでしょう。もはや、あなた自身の失敗です。言い訳できません。その個人の失敗になります。あなたの責任です。
完全な神聖冒涜です。サン・フランとも話したのですが、彼は事の詳細を知らないにも関わらずブラジル教会においても全く異様なものになったと感じたのです。サン・フランによれば家庭連合はあらたに独生女宣伝ビデオをつくったのですが、彼はこれは違う、自分はお父様の近くで警護員として逐一見てきたがこのような事実はないといったといいます。牧会者に向かって「この宣伝ビデオは一体何のつもりですか。自分はすぐ側で直接お父様を見てきた。これは事実と異なる。あなたは実際、直接見ていないではないか」と主張したといいます。
真の父母様特別集会 韓氏オモニマルスム
2015年 10月25日 清平
<宇宙の根本を探して>
キリスト教の道は独生女を探す基盤であった。
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昨年、独生女宣言するのを目撃しました。「2千年のキリスト教歴史は独生女を迎えるためだ」と言い放っています。このような発表をする前に(幹部たちは)少しは冷静にチェックすべきではなかったでしょうか。少なくとも原稿をチェックすべきでしょう。
サタンはかくも愚かな馬鹿者です。「全キリスト教の基盤は独生女を見出すためのものであった。」これを繰り返し繰り返し語っています。3年前に私たちに語った内容を公に語り始めたのです。もちろん私たちは賛同しませんでした。「はい、それでいきましょう」とは言えませんでした。
「お母様、あなたがこの道を押し進めすなら破滅に至るでしょう」と言いました。獲物を刈るライオンに狙われることになるのです。最近も430人の指導者を集め同様のことを語っています。
アメリカの家庭詐欺連合は現在の世界会長が来て祈りの中で英語で繰り返す「天の父母様」を活字にするときに削除しているのです。自分達も何らかの痛みを良心に感じるのでしょう。自分たちが詐欺行為を行っていると知りながら、最後の最後までお金を絞り取りたいのです。多くの資産を売り払ってまで!ボストン教会、ニューヨーカーホテル、ワシントン教会。彼らはお金を崇拝する両替商に他ならないのです。
そして食口には、自分は韓国人であれを知っている、これを知っているとのたまうのです。そして下手な英語で、アメリカ人こっちにきなさい、お金をやるからこういいなさい、ああいいなさいと指示します(笑)。そして娼婦のようなものたちがペコペコしながら言いなりになっています。話にもなりません。もはや詐欺師の本性をさらけ出しています。
誰もお前たちについていかないのだ。この愚かものたち。倫理も良心も名誉も持ち合わせていない。ただ一つ持っているのは「自分」と血にまみれた指先から流れてくるお金だけなのだ。より多く手にしようとすればするほど、お前たちの前から遠ざかっていくのだ。そしてお前たちの家庭に呪いとして下るのだ。愚かものたち。すべての血は血によって支払われるのだ。盗み続けることなどできない。それは大きな呪いとなってお前とその子の上に積み上げられる。
今は「天の父母様」に祈りを捧げているが、韓オモニは430人のリーダーの前でこういうことをいっています。「これからは『天の母』に向かって祈らなければなりません」。
これは堕落したエバに祈ることです。神になろうと堕落した女性に祈ることではないですか。これは定義上サタンと一つになっているということです。
また祈祷の最後に「ナマステ」といっていました。(訳注:善進様・現世界会長がよく使う)なにかかっこいいと思って使っているのですがまさしくヒンズー教ではないですか。以前ヒンズー教の男女神を見せましたね。私は仏教もヒンズー教も学びました。1年半以上前に「天の父母様」はヒンズー教の男女神のことであるといいました。いまそれを礼拝の主体に置いているのです。それは悪魔でありかえって人々を真の神様から遠ざけるものです。
そして「ナマステ」です。「私の中の神様があなたの中の神様に挨拶する」ですって?もはや脳死です。
最近行われた行事のパネルですが、ただの宣伝として用いられているお父様のお写真を見て下さい。(↓)
まったくもって冒涜にもほどがあります。お父様の業績を削除変更し、自分の好きにして利益を上げる。地獄に真っ逆さまです。愚か者たちは喜んで崖を登ります。そこが地獄の入り口だとも知らずに。天国と地獄は本当にありますよ、皆さん。
自分は地獄でも構わないという人が時々いますが、一度この世の監獄生活を試してみるといいでしょう。あの世の監獄(地獄)をいう前に、まずこの世の監獄を試してみなさいと言うのです。永遠の監獄生活を想像するまえに地上の監獄生活をしてみなさいというのです。それでも自分は地獄でいいというのですか。
この写真、お父様が手に統一マークの入った原理講論を持つお姿です。家庭連合は原理講論を何と、隠しています。なぜ隠すのか。原理を教えてはならないから。原理を学ぶとお父様が再臨主であることがはっきりと理解できますから。四位基台を学べば、夫の位置、父の位置が大切であることが分かるから。それを相対化して足で踏みつけることなどできないことが分かります。家庭にとっての核です。
画像処理で意図的に原理講論を隠しています。これを教えてはまずいからです。これを単なるミスだとは言わせません。雲があえてここで原理講論のタイトルの位置まで上がって来ますか?ありえません。
*写真はパンザー会長のレターより
これが現実です。
嘘をつき始めると、嘘を付き続ける他なく、嘘を重ねるうちにしまいにはそこから抜け出せなくなるのです。そのうち中にいる人もそれに気づく日が来るでしょう。
家庭連合がどこに向かっているか明らかです。キリストから離れ、聖書から離れ、原理とお父様が残された八大教材教本、それらも脇に置きました。そうすることによって違う道を歩き出したのです。
神様に向かうか、神様から離れていくのかの道は二つしかありません。色々注釈を加えてもはっきりその二つしかないのです。事故を欺いてはなりません。イエス様は、「私は真理と生命への道だ、神様への道だ」とおっしゃいました。それ以外の道は反対に向かうしかありません。ここでルカ9章をみましょう。
ルカの福音書9章
従って行くという者たち」 ルカ9:57-62
57 道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、
「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。
58 イエスはその人に言われた、
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
59 またほかの人に、
「わたしに従ってきなさい」
と言われた。するとその人が言った、
「まず、父を葬りに行かせてください」。
60 彼に言われた、
「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。
61 またほかの人が言った、
「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。
62 イエスは言われた、
「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。
「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。
58 イエスはその人に言われた、
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
59 またほかの人に、
「わたしに従ってきなさい」
と言われた。するとその人が言った、
「まず、父を葬りに行かせてください」。
60 彼に言われた、
「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。
61 またほかの人が言った、
「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。
62 イエスは言われた、
「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。
イエス様ご自身が「神の国を宣べるために私は来た」とおっしゃっているにもかかわらず神の国の福音を説く教会がないのは不思議なことです。だからこそ原理がキリスト教徒にとって重要だというのです。「イエスは十字架で死ぬために来られたのではない」というとキリスト教徒は教派に関わらずわれわれはそう教えられた、神学校でもそう習ったといいます。ではイエス様は真実なお方ではないというのですか。
イエス様はご自身の口で「私が来たのは神の国の福音を宣べ伝えるためである」とおっしゃっておられるのです。繰り返し繰り返しそう語っているのです。これまで何度も示してきました。
たとえキリスト教徒が否定しようと異端だと叫ぼうと、聖書に向き合えばわかることです。聖書のどこにも「私は死ぬために来た」とは書いていません。「神の国の福音を宣べ伝えるために来た」といわれたのです。イエス様は「私は死ぬために来た」とは一言もいっていません。そして弟子たちに「行って、神の国を宣べ伝えよ」と命じておられます。
だからこそ原理の価値が現れるのです。原理はイエス様が地上でやり遂げたかったことを明確に教えてくれるのです。神学校や学習、牧師の説教で学ぶことのできない内容です。聖句の深い内容を原理が明らかにしてくれます。イエス様の使命を教えてくれるのです。
ルカ9章のこの部分は「イエス様に従うことの代価」と呼ばれる部分です。ここでも2度、神の国に言及されています。ここまでイエスに従うという人は多く現れたのです。しかしイエス様についていくためには支払うべきコストがあります。
イエス様はすでに地上に送られた目的を果たそうとしておられました。だからこそ他の人にもそうするように呼び掛けたのです。天国を証するということを。だから町から町、村から村をめぐっては天国についての福音を宣べ伝えられたのでした。
そこにある人が現れて「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」といいます。それにイエス様は「私には枕する所がない」といいます。「私(イエス様)に従うということの意味がわかっていない、あなたも休む場所などなくなるのだ。私は休む場所がない。もちろん皆私の下で平安を得ることはできるが、私自身は休まない」というのです。休むことなく進み続けるというのです。
誰かを思い出しませんか。一緒におられた方を。
この青年はイエス様についていくことが、楽しくて快適でおもしろく、どこに行ってもワクワクするようなものだと思い込んでいたのでしょう。
しかし聖書の約束は、その者は迫害され、あなどられ、憎まれ、さげすまれるとあります。それを楽しいと思える人には楽しいでしょう。しかしドーパミンが噴出するような高揚感を求めるとするなら、イエス様と一緒にいるかぎりは、そのような麻薬的快感を味わうことはできません。
神様といるかぎり戦いがあります。イエス様には戦うべき戦(いくさ)があるのです。天国を宣布し建設する戦いです。それは戦争です。なぜならそこにすでに(イエスという)公国と権力が存在するからです。
また別の者にイエス様は「わたしに従ってきなさい」と言います。「まず、父を葬りに行かせてください」と答えるその人に「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。」と言われます。当時のユダヤ社会でこのようなことを口にすることがどれほど波風を立てるか理解できますか。
韓国文化でもそうです。「母親に向かってそのようなことをどうして言えるのか」と言います。お母様の真実を明かさなければなりません。完全に神聖冒涜、異端だからです。その犯した罪ゆえに永遠の地獄に行かざるを得ないからです。お母様に警告しなければなりません。愛しているからです。永遠の魂を思うからです。霊界では天国に行ってほしいからです。
いろいろ言っても最終的には本人の判断です。私がこのように真実を明かして家庭連合を壊そうとしているのは、もちろん詐欺グループであり、搾取とクーデターの組織であることが第一の理由ですが、それが最大の理由ではありません。最大の理由は多くの人々を神様から引き離し監獄に向かわせているからです。地獄に導いているからです。
ですからほんの少しでも愛のある人なら、火の手の上がった家を見れば教えてあげるではないですか。必死に、火事だ!逃げろ!と叫ぶでしょう。上品に「どうか家から出てきて下さい」と話している場合ですか!私なら叫びます。
「家が火事だ!逃げろ!」
もっと紳士的に話せ、ですって?今夜、丸焼きになってもいいのですか。
「家から逃げろ!」
死人は死人に任せておけ。ユダヤ社会は韓国社会どうよう、しきたりを重んじます。とくに儒教社会ではそうです。皆さんご承知のように韓国は儒教文化です。例えば式典で私は王冠をかぶってローブをまとったまま敬拝をしましたが、これは儒教的には違反事項です。人間の作った方を破っているわけです。本来ならローブもつけず、ただ息子として敬拝しなければならないというのです。それが儒教の教えです。
しかし私たちの立場は異なります。私は息子であるだけでなく、。お父様が王権を継承させた者です。ですから私の全人格を私の王様の前に服従させるべきなのです。これが将来のすべての王の伝統になるのです。その王冠もすべて真のお父様に敬拝すべきなのです。
世代を通じて必ずそうあらねばならないのです。もし私が韓国風儒教文化にしたがっていれば混乱は免れません。人々はそれぞれの王を偶像として崇拝するようになるでしょう。王が神になるかも知れません。王が王の王になるかも知れないのです。今後すべての王も真の父母を継ぐ者も、真の父母、真のお父様に敬拝し続けなければなりません。
それが韓国儒教文化ではタブーだというのです。自分の父親の葬儀は自分がするというのは世界のあらゆる文化で行われていることです。しかしイエス様は「死人を葬るのは、死人にまかせなさい」と言われるのです。葬儀に出て死んだ父親、あるいは親戚が救われることはありません。今はキリストがいるのです。人々の魂を救うためにはキリストとともにいてその働き人として働くことではないですか。実際は私が救うのではありません、救い主につなげるのです。もはやしきたりはどうでもいいのです。「摂理は組織や建物ではなくキリストという人間を通して動く」と国進兄さんはいいました。
この人は「しかし社会のしきたりでは先にこれを済まさないと」とこの人は言います。イエス様は「死人に死人を救うことはできない」と言いました。「死人を救えるのは私だけだ」と言われるのです。だから私と共に歩み、神の国を宣布しなさいと。
普通私たちは(原始)キリスト教は秘密結社のような地下組織だったようなイメージがあります。しかしイエス様のこの初期の言葉を見て下さい。
「行って神の国を告げひろめなさい」。あなたがたはあなどられ、さげすまれるかもしれないが世界に出ていき、神の国を宣布しなさいと言われたのです。私を愛するなら御国を宣べ伝えよと。
またある人が来て「まず家の者に別れを言いに行かせてください」と言います。ここに蘇生、長成、完成の三段階を見ることができます。まず「私がついていきます」という個人のレベル、次に「父を葬らせて下さい」という段階を経て、家庭レベルにあがっていきます。
これに対してイエス様は「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」と言われます。「すき」をひとたび握れば前を向いて注意しないと傾いてしまいます。牛が鍬を引いていくのですから、すきに手をかけてうしろを見る者は神の国にふさわしくないというのです。
ひとたび責任を受け入れるなら振り向いてはいけないというのです。それをすると安定を失って王国を失うということです。畑を損ないます。イエス様に従うには代価がかかります。
現代にはあらゆる代価を払わないという人がいます。結婚のための代価も子供を持つ代価、人間関係の代価も払いたくないというのです。どのような世界に住むというのでしょうか。子供もまま大人になった者たちです。まるで幻想の中に暮らす子供です。人生のすべてに犠牲はつきものです。善行をするにもコストがかかります。ボクサーになるにもバスケットボール選手になるにも代価はあるというのです。医者になるにも山に登るにもコストはあります。腕立て伏せをするにも!
キリストに従う決断をした人は後ろを振り返るべきでありません。キリストと共に動き共に戦い、ともに「すき」をもって進むのです。
キリストは私には御国が必要だ、行って御国を宣べ伝えなさいと宣布します。私たちは国家レベルで神の国について研究してきました。イエス様が「御国」というのは現実の神の王国を指しています。黙示録にも再臨して千年王国を打ち建てるとあります。現実の地上天国です。たとえ話ではありません。神様が統治される王国です。
国家レベルで見ることもできます。主権国家です。
将来、艱難の時代が来るでしょう。ありとあらゆる、金融、政治の中央集権システムは崩壊します。そのとき人々は神様を求め、神様を中心とする人権を求めていくことでしょう。神中心の統治です。
끝
끝
翻訳:サンクチュアリNEWS管理人
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