お父様の霊とともに歩みたい
●サンクチュアリ安永家庭教会聖殿 月曜コラムリスト 宮本 2016/04/04
荒野での修行生活を通して
神の霊(みたま)を受け、
「この方こそ神の子である、とあかしした」
(ヨハネ伝1/34)
洗礼ヨハネは、その後、
「来るべき方(メシヤ)はあなたなのですか、
それとも他に誰かを待つべきでしょうか?」
(マタイ伝11/3)
とイエスを疑った。
その理由について原理講論は、
「彼から霊的な摂理が切れて、
人間洗礼ヨハネに戻った」から、
と説明している(同書201頁)。
祈り、御言を訓読して
心が神とともにあるとき、
人は天的な視点から
食口とその事象を見ることができるが、
神霊が離れ、
「(堕落)人間」に戻る」と、
信仰的見方・判断が出来なくなってしまう。
我ら御旨の道を歩む者たちに、
よくあることだ。
三代王権こころのサンクチュアリ教会ブログに揚げられている
安永教会寺中聖殿日曜礼拝動画は、
地方の田舎で信仰生活している
小さな家庭教会にとっては有り難い。
3月27日の礼拝で井上教会長は、
1年前のサンクチュアリ教会・亨進様との
出会いのいきさつを
「神が呼ばれたこと」として、
霊的感動をもって述べた。
「我らは何気なくここに集まったようだけど、
神の意図は二代王を立てて
神の国をつくること―
そのために我らを呼ばれたのです。
亨進様を立てた(その)同じ神様が
我らを立てて来たんですよ。
ファンクラブ(三代王権ブログ)さんもそう。
我らもそうなんですね。
我々はキリストに結ばれた市民(国民)なんです。
天一国の国民として、
まず先に呼ばれたということです。
お父様が呼ばれたのは、
我らが完全であったからではない。
将来、この人は何とかなりそうだ、と見込み、
先に信じて下さったからなのです。」と―。
これを見ながら、
洗礼ヨハネの教訓が頭の中を過(よ)ぎった。
聖書を知らない、
神の御旨もわからなかった罪人なる我らは、
本来、このような場に立つべき者たちではなかった。
しかし、先に選ばれた選民イスラエルが
キリスト「お父様」に背いたため、
仕方なく「神の国は彼らから取り上げられ、
…異邦人に与えられた」のであった
(マタイ伝21/43)。
わたしが、自分の力によって
サンクチュアリ教会に来たのではない。
神とお父様がわたしを「信じて」呼ばれた、
ということだ。
我らサンクチュアリアンは、
亨進様の説教・御言を聴き、
霊的感動を受けたとき、
一度は誰もがそのことを
心に留めたであろう。
ところが、
信仰の根が定着していない
「つみびと」、「異邦人」出身の我らは、
その霊的感動を
時間とともに忘れることがある。
人間的な視点で兄弟や出来事を
判断するようになる。
あたかも洗礼ヨハネが
霊的なものを失ってキリストを疑い、
兄弟姉妹を疑ったように、である。
安永教会が
「神の国をつくる隅のかしら石」であり得るのは、
神の御言と神霊がいつも、
ともに在る!からだ。
人は不完全であるため、
時に誤ることもあるだろう。
しかし、神の霊がともにあるなら、
その過ちに気付かせてくれる。
「悔い改め」て、修正することができる。
お父様の霊・神霊とともにある、
そのようなサンクチュアリアン・家庭教会を目指したい。
―島原訓読家庭教会・宮本記―
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