ヨナニムの銃所持にかんする発言が少なからぬ人々を困惑させているようだ。
これに関して補足説明を加えたいと思う。
日本人(韓国人もそうだろう)の感覚では「危ない銃は取り締まるのが普通だろう」と言うのが通常の考えだろう。日本人、韓国人を含むアジアの人々にとっては誰でも銃を持てる(もちろんある程度の規制はあるが)このアメリカ固有の文化が理解しがたい。それは私も日本人として十分納得できる。
ところが一つそこに欠落している観点がある。
それは何か。
銃の所有はアメリカの単なる文化、習慣ではなくアメリカの存在原理である というものだ。
アメリカに住んだことのない人、もしくはアメリカ政治史に強い関心を持つ人でなければ理解し難いことだと思う。
アメリカ合衆国という国は近代アベル型民主主義の総本家といっていい。民主主義は国家のすべてを可能な限り国民、市民に分け与える。国政の方向を決める最終的決定権は選挙権(各一票)という形で分散され、個人の自由を制限するものは最小限に限られる。
そして国家を国家たらしめている強制力を担保するための「力」つまり武力・武器であるが、なんとその武力・武器さえも個人に分散させるという何とも徹底した民主主義ぶりなのだ。これを本家民主主義の凄みと私は呼びたい。
アメリカ合衆国という国の形を決める文書は3つある。独立宣言、合衆国憲法、憲法修正条項だ。
その中の一つ、独立宣言(1776)に「革命権」(抵抗権ともいう)が規定されている事実をご存じだろうか。
われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で
あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。そして、いかなる形態の政府であれ、政府がこれらの目的に反するようになったときには、人民には政府を改造または廃止し、新たな政府を樹立し、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる原理をその基盤とし、人民の安全と幸福をもたらす可能性が最も高いと思われる形の権力を組織する権利を有するということ、である。(独立宣言1776より)
軍事力、警察力をもつ政府を改造または廃止する
(つまりクーデターを起こす)ためには人民が素手であっては不可能だ。その権利を担保するものとして憲法修正第2条があるのだ。
いくら独立宣言で悪い政府を改造、廃止できると言ってもその手段がなければ絵空事に過ぎない。そこで次の条文がある。
合衆国憲法修正第2条[武器保有権]
[1791 年成立]
規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。
アメリカはなかなか腹の据わった国なのである。自国で人民を抑圧するおかしな政府が権力を握ったら武力で倒せというのだ。
これを独立宣言で奨励し、そのための武器所有を憲法で認める。これがアメリカの建国の父が設計したアメリカという国の形だ。まあ建国の父もアメリカがこれほどの大国になることを想定してはいなかっただろうが。
サンクチュアリの天一国憲法が採用するこの独立宣言に描かれる「革命権」(抵抗権)とそれを担保する修正第2項についてヨナニムは実は語っておられたのである。
銃の所持を許すか否かは彼の国では建国精神に関わることなのだ。この建国の理念とキリスト教精神を何より重視するのが保守的な共和党であり、時代の流れに応じて人間中心の考えで外的に変えていこうとするのがリベラルな民主党である。だから民主党の大統領は銃を規制したがる。
これは何千年にわたって皇帝や天帝が中心にいたアジア人にはこのメンタリティは理解しづらい。太閤秀吉が刀狩をしたとき易々とそれに応じる従順な日本人にとっては特にそうであろう。
だから単純に銃所持を支持するから暴力的、カイン的と決めつけるのは気が早い。銃所持の背景には歴史哲学が存在する。
確かにアメリカでは度々悲惨な銃の乱射事件が起こる。事件のたびにさすがのアメリカ人も銃規制必要の声をあげるが建国精神にはあらがえずにその声は立ち消えになる。ケネディ大統領暗殺の時も、ロバート・ケネディ暗殺の時もキング牧師暗殺の時もそうだった。しかし国民が感情的になって「銃規制」を叫ぶ時、共和党の議員が決まって言うセリフがこれだ。
「銃の引き金を引くのは人の指ではなく人の心だ」
だからキリスト教精神に戻り家庭の価値(Family value)と道徳教育を深化すべきだと共和党は主張するのだ。民主党のように外的解決をあてにせず本質的な内的問題を先に解決すべきだと。
さてサンクチュアリ教会の理念と思想は亨進ニムと国進ニムの二人のものだと言っていい。天一国の具体的政治理念について国進ニムの「自由社会」の中でかなり詳細に語られている。この思想を亨進ニムも共有している。お二人は18世紀後半、建国当時の共和体制が最も天一国に近いと認識している。
なぜか。
それはアメリカが再臨主を迎えるべく聖書的原理に基づいて立てられ準備された国だからだ。
建国当時は、300年経った現代のアメリカ合衆国と違って純粋に摂理の中心国家だった。そこには神様と摂理の息遣いが生き生きとあった。そこに再臨主の真理と神霊が備わって地上天国が完成するはずであったからだ。だから新しい天一国もそこから始める。
ルネッサンスの合い言葉が「古代ギリシャ・ローマに還れ」であったごとく、「神様が祝福したアメリカ建国精神に還れ」というわけである。
そういう理由で天一国版・権利の章典もほとんどアメリカの人権条項そのままなのだ。必要最小限の小さな政府と大きな自由と責任が与えられる個人―という図式だ。そして抵抗権を担保するための武器所有の権利がでてくる。サンクチュアリの政治理念を既存の政治思想の中で位置づけるとリバタリアニズムの色彩の色濃い共和制だと考えていいと思う(投稿者の個人的見解)。
天国に武器?
確かに矛盾を感じさせる。しかし人々の堕落性が徐々に脱げていけば戦争もそれに応じて減るし、殺人などの刑事事件も減るだろう。武器を持たせると殺人事件が増えるような社会、国では天国など一億年経ってもやってこないだろう。
しかし人の堕落性が消えていく社会では自動的に銃自体の必要がレジャー目的以外なくなるだろう。天一国の成否のすべては人々の堕落性を消し去る速度に掛っているのだ。今の現実世界を見て一朝一夕にそこまで行くことは考えられないので経過措置としてアメリカの初期理念が必要だというのである。あとは個人の内的革命、個性完成で自動的に実体天一国はやって来るという考えだ。
彼らは剣を鋤に,槍を刈り込みばさみに打ちかえる。
国は国に敵対して剣をあげず、
戦いを学ぶことはもはやない。イザヤ2:4
国は国に敵対して剣をあげず、
戦いを学ぶことはもはやない。イザヤ2:4
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ」。ルカ福音書17章20節、21節
*以上は投稿者の個人的感想及び見解でありアメリカ本部の公式見解ではありません。
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