Friday, September 25, 2015

アンドリュー・ウィルソン博士による「サンクチュアリ教会の過激派キリスト教の考え方」


*ウイルソン博士:世界経典編纂に関わった家庭連合側の統一神学の重鎮
この論文を読めば、博士は亨進様の激しさに戸惑いながらもほぼ亨進様を受け入れていることが読み取れます。亨進様の、韓オモニムを心から愛しているが故にオモニムを救いたいという必死の思いと、王権相続者として勝利したカイン・アベルがオモニムを救えるという絶対的自信から激しく言っておられることを理解して下されば、きっとサンクチュアリ教会に来て下さるでしょう


サンクチュアリ教会が黙示録からのイメージや思考パターンに包まれていることを見ると狼狽する。「バビ​​ロンの娼婦」のような概念や、世界的な破壊(いわゆる「シュミッタ」)が近づいていると見ることは(あるいは、それはすでに過ぎ去ったのか??)、黙示録や終末論的として知られている考え方に由来する。

黙示録は基本的に、神が一方的に悪を一掃し、彼の王国を確立できるようにするために、世界は切迫した審判に直面していると見る、ダニエル書、エゼキエル書38-39章、ゼカリヤ書14章などに見られるユダヤ人の終末論の繰り返しです。私は(安牧師に追随して)黙示録を「ユダヤ的な終末論」と呼びます。なぜなら、それは、新約聖書の中にあるにもかかわらず、当時のユダヤ人の精神を吸い込んでいるからです。その著述は、死海​​文書に保存されていますが、彼らは最後の審判が間近だと考えていました。それはおそらく、ユダヤ人のキリスト教徒によって書かれました。彼はキリストが戻るのを待っていたし、イエスが彼の死と復活を通してもたらした救いの価値を完全に認識していなかった。それは旧約聖書からの要素、ゼカリヤ書とエゼキエル書からのイメージをリサイクルしています。これは、数値を文字に割り当てて、666数によってネロシーザーを識別するためのゲマトリアなど、​​ユダヤ人のデバイスを利用しています。

終末論は、世界を2つのカテゴリに分けます。救われるものと呪われるものです。最後の審判が来るとき、その教義の信仰者だけが救われるものだと見ています。したがって、白黒、「我ら対彼ら」の思考、および、救われる残存者の一員として、自分の立場についての独善を奨励することになります。それはすべての者、最悪の罪人さえも、のため、無条件の恵みについて語った、福音書のイエスの精神から離れています。このような理由から、私は黙示録を、ほぼ形式的な精神段階にあり、キリスト教の低級な表現の一つとして考えています。

私が神学校で終末論の文献を学んだとき、私はUCの神学は、他のキリスト教団体の神学のようには、黙示録に基づいていなかったことに感謝していました。黙示録に対して原理講論の言及は少なく、とびとびである。永遠の審判の代わりに、第3章の終末論について原理議論の議論は、すべての人を救う神の理想に基づいています。燃えるような最後の審判について、伝統的なキリスト教の信仰の一つ一つは、キリストの再臨の時に教会および個々の信者の生活の中で発生する、非常に現実的な霊的プロセスのための象徴として解読されています。また、それは審判を前向きに再定義しています。すなわち虚偽の自分自身を削除し、より完全に真実を具現化するために向上するよう、個人を奨励するみ言との出会いとしてです。今日、サンクチュアリが吐き出している黙示録的な見通しのようなものを統一教会が持っていたなら、私が参加してもみなかったであろうことは、信じて頂きたい。

1年か2年前、私はヒョンジンニムの聖職に魅力を感じました。それは、彼はペンシルベニア州の自宅を出て教会を持とうしていた日々でした。私は恵みを中心とした彼のメッセージが好きでした。彼はキリストと真の父の恵みに根ざしているキリスト教の自由を探求していました。(その頃でさえ、彼は、彼の神学において、真の母について、多くを用いていなかった。もっとも、彼は人道主義レベルで母として彼女を愛していました。ヒョンジンニムが息苦しいと感じていた、年長者への服従という、たいてい律法的で制約な環境の代わりに、キリストの恵みに根ざした自由を置き換えることによって、教会を改革する見通しに彼が興奮していることが分かりました。この点、恵みは福音の中心部にありますから、彼はキリスト教の最高の部分から引き出していたのです。

UCがより多くの恵みを必要としているということで、私は彼に同意できました。私達が全て罪人であるという、彼のメッセージにも同意できました。なぜなら、キリストが彼の犠牲を通して提供している恵みに私達が近づくことができるのは、私達が罪人であることを認めるによってであるからです。

(真の父の七死復活を読んで下さい。もっとも、私は救いの核心が復活だと考えています。)無原罪や完璧を主張するグループが独善に陥り得ることは事実であり、どれほど我々がまだ恵みを必要としているかを自分に思い出させることは、役に立つ矯正手段です。結局のところ、私たちの血統を転換する以外にも、私たちが対象となっている他の多くの罪がまだあります:自犯罪、遺伝罪と連帯罪です。そして、これらの罪は、多くの方法で私たちの行動に影響を与えますので、我々は、自分たちに対する彼らの支配内にいながら、気づきません」。すべての人は、救われていると同時に罪人であり、自分たちが本当はいかに罪深いかを認め、悔い改めて神の祭壇の前に来ない限り、私たちは本当には救われないと教えたのは、マルチン・ルターでした。それは確かなメッセージです。

ヒョンジンニムが今もそのような福音を宣べ伝えていたとしたら、それは彼の現状よりも良かっただろうと思います!彼は、教会が必要な方法で、教会を改革するための声になっていたでしょう!そうなる代わりに、彼は黙示録の二元的、独善的神学に、彼の神学を固定させています。罪人のための救いの見通しを保持している個所を、黙示録のどこかで見せてみて下さい!そこには全然ないのです。彼は、キリストの恵みではなく、パリサイ人の審判を吸い込んでいる、低級な精神のキリスト教の系統に自分自身を結び付けました。さらに悪いことに、黙示録は、ミュンスターの反乱からデビッドコレシュに至る、キリスト教の歴史の中で最も過激、暴力的で不寛容な宗派を生んだ聖書の一巻です。なぜなら、あなたが唯一の選ばれたものであり、他の皆が地獄にのろわれていることを信じた途端、あなたはあらゆる種類の愛情を表さない行為を正当化する可能性があるからです。したがって、この本を掲げるクリスチャンは、常に宗派主義者です。なぜなら、その黒​​か白か、光か闇かの神学には、間違っているとみなされた人たちと、何らかの妥協や、親交でさえ、余地がないからです。

ヒョンジンニムが御母様をバビロンの娼婦のような、ひどい名前で呼ぶことができるのは、黙示録のプリズムを通してです。彼が福音に戻りさえすれば、彼はUCにいる我々すべて、それが真の母であろうと、または、彼が嘲笑的に「天使長」と呼ぶ幹部達、または彼自身でさえ、すべて恵みを必要としている罪人であることが分かるでしょう。それは、改革を提唱するために、より適切な神学的基礎となるでしょう。このような謙虚さと悔い改めで、私達のそれぞれが、現在の不統一をもたらす際に役割を演じてきたことを認め、神と霊界の真の父の恵みと指導を求めながら、神の御座の前に集まることができさえすれば、もしかしたら、癒しと和解の道が見えるでしょう。

#亨進様の黙示録は審判ではなく愛です。なぜなら私の元に来たら救われるといっておられるのですから。救いたいが故の激しさです。 それを伝えるための福音主義的サンクチュアリ人教会を考えています。#

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