ある韓国2世の感想
韓国語全文はこちらをご覧ください。
ソ-スby다말해http://damalhae3.blogspot.jp/元リンク2015.05.02. 23:36 http://cafe.daum.net/W-CARPKorea/cSkJ/25972 (会員制です。)
日本語は読みやすいように編集してあります。
1.今からオンマが話をしますか?
韓国語で説教していた文亨進様が話を終えて夫人のイ・ヨナ様にこう言葉をかけた。
韓国語で説教していた文亨進様が話を終えて夫人のイ・ヨナ様にこう言葉をかけた。
演壇にいる牧会者が私的な言葉を発するのはあまりないことだ。だがこれを見ていた韓国食口にはこれがすんなりと飲み込めた。 「オンマ」は真のお父様が生前に真のお母様を呼ぶとき使われた呼称だが、それを横で聞いてきた息子が自分の妻をそのように愛情を込めて呼んでいたのだ。
亨進様は米国で生まれ、そこで少し韓国語を学んだが英語式の発音が定着してから韓国に来られた。その時から韓国語を本格的に学び始められたので、どうしても彼の韓国語は少しぎこちない。話の内容はレベルが高く成熟しているのだが韓国語はまるで何か在外同胞の大きな子供が話しているように聞こえるのだ。聞いている食口には妙なコントラストを感じさせる。
ところで不思議なことにそのようなぎこちなさにはすぐに慣れて、しばらくするうちに亨進様の話に深く聞き入っている自分を発見したのだ。 時計を見るとおよそ40分があっというまに過ぎていた。 内容も実際そんなに特別なものではなかった。 90%はすでに私が知っている内容だった。 これが本当に不思議だった。 ふと以前にある統一神学者が巧みな弁舌で新しい内容の本体論を講義していたときのことを思い出した。 優れた言語使用と内容の新鮮さにも関わらず10分程過ぎると頭が重くなり、その後眠気をこらえるのがたいへんだった。
常識的には理解しにくいこの二つの事実を比較してみるとき、何か重要な真実を探しだすことができそうだ。
夫人のヨナ様は、亨進様とサンクチュアリ教会で共同牧会をしているが、彼のバトンを受け取って自分の経験談をひとつ話された。はるかに上手な韓国語で亨進様の説教の直後に出てきて話した。すぐに亨進様が何か話し足りなかったのではないかという感じは消えて、食口の前のお2人がすごくお似合いだという感じを受けた。
ヨナ様は最後に思いが膨らんで涙声になった。現場にいた訳でもなく遠くからYouTubeを通して聞いていた私であったにもかかわらず、私の目にも涙があふれてきた。これも本当に不思議な体験だった。
「このお2人の話すことは他の人とちょっと違う」ということは感じられるのだがそれが何であるか最初はよく分からなかった。そこでより集中して見てみた。そうするうちに最後にそれがわかった。
このお2人は言葉を頭ではなく、「心で」語っていたのだ。
原理的表現では「心情で」話をしたということだろう。 これに比べ、かの統一神学者は講義を頭と口だけでもって、忠実に原理情報サービスを顧客に提供していた。 それをそばで聞いていると眠気しか感じない。だから私は頭で話す人よりは心で話す人の方に、はるかに大きい関心と好感を持つようになったということだ。 相手が心で話すと、聞く私も心が開かれて本当の生きた共感が生まれる。
そういえば、真のお父様も生前にみ言を心で話された。お父様の話を初めて直接聞いたとき、私は戸惑った。
基本的に北の方言がたくさん混ざっているうえ、早口でしかも発音を時々流される。現代韓国語の枠組がある自分の言語感覚では、何を話しておられるのかまったく理解できなかった。しかしお父様の真剣さ、集中力、ユーモア、食口に対する愛情等の言語外的要素はその場で直ちに私の胸に伝えられた。そうするとやはり、時間がたつのも忘れて聞いた。こんなにも心で話す人の話を聞いていると私たちは流れる時間が違ってくる感覚を経験する。
これを可能にするのがいわゆる「ボディーランゲージ」ということだが、言葉より表情やその他の身振りがその人の真実をより表すからだ。私たちには本能的に相手のボディランゲージを正確に読み取る鋭敏な感受性がある。だから相手が言葉の上だけで話しているのか心の底から話しているのかを容易に推測することができる。
このように私たちは言語を超越して体と心で会話することができる存在だ。
亨進様とヨナ様は非常に率直な人だという印象を受けた。だからあのように心から話すということを苦もなくできる人たちなのだと思った。実際に、私の心の中で支持した最大の理由は2人の教義的立場よりも2人の率直さと純粋さだった。
亨進様とヨナ様は非常に率直な人だという印象を受けた。だからあのように心から話すということを苦もなくできる人たちなのだと思った。実際に、私の心の中で支持した最大の理由は2人の教義的立場よりも2人の率直さと純粋さだった。
私たちが神との関係を回復するために何よりも重要なのが、 まさにこのような率直さと純粋だと思う。
なぜなら、神様も心でみ言を語られる方だからだ。 神様は最初から口をお持ちでないことは言うまでもない。 また信仰が育っていくときに侵される最も悪しき習慣は「 自己欺瞞」であるからだ。自分自身をだますとき、 人は自己合理化を完璧にするため、 本能的に自分で自分に嘘をついているということさえ認識しないこ とが多い。だから危険なのだ。
例えば、亨進様の分派活動について憤る理由が何であるか聞くと「 真のお母様に対して親不孝だからだ」あるいは「 摂理全体の大義の為」と答えることができるが、本音は「 あの人が訳もなく嫌い」ということから起こることがありうる。
例えば見た目は黄色い韓国人であっても、 中身はアメリカ人である「バナナ」 のイメージが私の気に障るというようなものだ。
または「教会にはただでさえ頭の痛い問題が多いのに、 なぜ余計な問題の種を作るのか、世の中の恥ではないのか?」 これまで精誠を込めてきた自分の人生が無駄になるという理由で腹 を立てている可能性だってあるかもしれない。 このとき自分自身を欺いてはいけない。 自分が怒る本当の理由を率直に認めたほうがいいのではないのか?
素直でないというのは「誠を尽くしていない」 ということを意味する。 誠を尽くさない信仰になぜ神様が応えなければならないのか? そのような場合、 神様はむしろ私たちが自己欺瞞をしてまで隠したい本当の問題が何 であるのかそちらに関心をもたないだろうか?
なぜなら、まさにそのような深層心理的理由こそ、 私たちが神様の前に胸を開くことができない本当の理由であるため だ。胸を開かなければ私たちの心の成熟は本当に遅くなる。 神様はこのような成長障害を何とか癒そうとなさるだろう。 そこでどうにかその問題点を外に引き出して解決することができる よう、刺激する状況をずっとお作りになる。 神様は率直で真面目な方でいらっしゃる。
これから、 私は今の統一教会員の耳を震わせている文亨進様について語ろうと している。これまでの研究を通して、 私はこのテーマについて最大限の論理的整合性を持つ新しい肯定的 な解釈ができたと思っている。しかし、 それがどんな奇抜な効果を与えるとしても、 神様を探すにあたっての知的アプローチは、 神様に直接胸を開く愛の方法に遥かに及ばないということを明確に 言っておこう。 心情は明らかに原理に先んじる。 私の最後の本論は次のとおりだ。
3. 真の御父様はメシアではなキリストです。
3. 真の御父様はメシアではなキリストです。
周知のように、ギリシャ語「キリスト」はヘブライ語”メシア”を直訳したものだ。 「油を注がれた人」という意味だが、元のヘブライ語の意味によれば「王」を指す言葉だ。ユダヤ人は戴冠式では預言者を通して新しい王に油を注いだ。ところが、初代教会の使徒たちがユダヤ人を伝道するとき「ナザレのイエスこそ、実は我々が待ち望んでいたメシアだった」と証言したのだ。後でイエスの福音がギリシャ世界の異邦人に伝わるとき、訳語「キリスト」が登場し、これをあたかもイエスのニックネームのように頻繁に使い始めた。最終的には、最も人気のあるイエスの呼称として一般化した。現在「キリスト」はナザレのイエスを指す固有名詞である。
ところが、この固有名詞「キリスト」を元の一般名詞に変えてしまった人類の歴史で最初のキリスト教指導者がまさに、私の知る限り文亨進様だ。
第2のレバレンド·ムーン、亨進様は「キリストは必ずしもナザレのイエスのみを指す言葉ではない」と宣言したのだ。 「イエスはもちろんキリストだが、他の人もキリストになることがある」という新たな解釈を出したのである。
驚かせたかもしれない。実は少し誇張している。実際には、キリスト教の異端や異邦宗教、すなわちグノーシス主義やキリスト教神秘主義内では、キリストを広い意味の一般名詞として使う場合が多い。しかし、正統派キリスト教すなわちカトリックやプロテスタントでは、絶対にそういう使い方はしない。なぜなら、ナザレのイエスと別の存在をキリストに規定すれば、すぐに異端があらわれるからだ。キリスト教の教義の核心がキリストという”種”であるためそれを変更すると”種”が変わり”異端”となるのだ。
亨進様は、果たしてその一般的な「異端宗教の創設者の一人」であるのか、それとも「革命的キリスト教神学の始祖」なのか?
私の答えは後者だ。
まず、現代キリスト教神学で言うキリストはメシアではない。最初はもちろん同じ意味で使われていた。
メシアはユダヤ人にとって神政一切の政治首班を意味する。まるで、私たちの先祖檀君王倹のような存在だ。まだ政治と宗教が分離されていなかった前近代的時代に、最高の祭司が国王も兼職する風習の中に存在していた原始的な概念である。だから、原始ユダヤ人がそうしたように、私たちが真のお父様を神政一切の政治首班と規定するとき、私たちの神学は古代に後退する結果を招くことになる。天一国でお父様を「天一国真聖徳皇帝」と称する場合、メシアの臭いが強いのではないだろうか? 高等神学確立のためには、このような面に注意しなければならないと思う。
メシアはユダヤ人にとって神政一切の政治首班を意味する。まるで、私たちの先祖檀君王倹のような存在だ。まだ政治と宗教が分離されていなかった前近代的時代に、最高の祭司が国王も兼職する風習の中に存在していた原始的な概念である。だから、原始ユダヤ人がそうしたように、私たちが真のお父様を神政一切の政治首班と規定するとき、私たちの神学は古代に後退する結果を招くことになる。天一国でお父様を「天一国真聖徳皇帝」と称する場合、メシアの臭いが強いのではないだろうか? 高等神学確立のためには、このような面に注意しなければならないと思う。
ところで、本来メシアと同義語であった“キリスト”が一大変身をする歴史的事件の一つが紀元200年頃ヨーロッパで発生する。 当時キリスト教神学者であったテルトゥリアヌス(Turtullian)という人が創造主・神様と、ナザレのイエス、神の聖霊、この三つの関係を規定する論文で、“三人格が一つの実体”という表現を使ってそれを神学的に後押しします。 すなわち、イエスを神様と同等な存在と規定する神格化を試みたのだ。 このとき“三位一体”神観が誕生した。
この人がどのような背景からそのような不合理な考えをしたのかはわからないが、この思想は後のキリスト教神学の中核を占める最も重要な理論とされており、キリスト教が自らと他の宗教を区別する基準になった。三位一体を受け入れなければクリスチャンとはみなされないのだ。「3つの異なる存在が一つ」ということを理解しようとしたとき、私は一ヶ月間というもの頭をかかえてしまった。そうして(理解することは)最終的にあきらめた。これは理解できない外国人の思想であるというのが私の現在の考えだ。三位一体は信じるものであって理解するものではないようだ。
3주간에 걸쳐, 제가 올린 긴 글 셋을 끝까지 다 읽어주신 식구님들이 계시다면, 신앙의 동지로서, 깊은 감사를 드립니다. 고맙습니다.
キリストは神の息子なのだから、永遠の生命をもって当然ではないか?なぜ、わざわざ一度死んで復活するという手間をかけたのだろうか?
それは永生性(永遠の命)が完全であることを強調するためだと見ることができる。例えば、キリストがギリシャ神話に出てくるポセイドンのような神だと仮定してみよう。すると「私に永遠の生命を与える生命システムを破壊すると永生が不可能になるのではという懸念が生じる。その疑問を解消するには、その「神」を一度殺して見なければならない。それでも生き返るならその時永生性が確かに証明される。このように、イエスは十字架での復活を通じて自分の永生性を証明した。
この2つの前提を合わせると次のような論理的結論が出る。:「キリストは、永遠の命をもつ神の息子、娘である」
三位一体論でキリストは御父に次ぐ第2位「聖子」(Holy Son)の位置を占めているが、これは私達の定義したキリストの意味と一致する。
家庭盟誓で私たちは「聖子の道理を完成する」と誓っているが、このような神観と同じ観点であるとするならば私たちは毎週「キリスト」になることを約束していることになる。平凡な私に到達できる位置なので感覚上、別段、特別でない位置のようだが、このような神学的、哲学的、道徳的観点からは、この世のどんな偉大な存在よりも偉大な位置だ。ある存在が持てる最高至尊のアイデンティティといえる。くれぐれも、神様の息子、娘は神様と同種なので自分もやはり「神」であることを忘れないでいたい。
日曜日、カトリックやプロテスタントに行けば正面に十字架が立てられている。カトリックの十字架には、血を流しながら死んでいくイエスが磔られており(私はいつも恐ろしくなる)一方、プロテスタントの十字架はイエスが復活することにより十字架上にイエスはいないためすっきりしている。
十字架についての好みはそれぞれ異なるが、2つ共にそれぞれ自分達の十字架を日々見ながら「永遠の命をもつ神の息子、娘」を希んでいる。これが彼らの信仰だ。私たちがこれほど嫌悪する十字架刑にはこのような偉大な宗教思想が隠れている。
特定の人間を神と同じように規定する「キリスト」の思想は人類の歴史の中で最も進化した最高の宗教思想だ。宇宙の究極は神だから、人間が神の座にまで上がるならばもうそれ以上行くところがない。ところが、キリスト教神学の限界は「ナザレのイエスだけがキリストだ」という解釈にある。ここに新たに登場した文亨進様の統一神学の偉大さがある。亨進様はこう言う。「文鮮明師もキリストだ」
亨進様は「文鮮明師もキリストだ」と解釈したのだ。
このような新しい神学的理解がなされる前まではイエスの存在は神 秘だった。もちろん正統キリスト教内での話だが。
(キリストは) 人間性と神性を同時に備えた非常に特異な存在と信じられた。 彼は太初、神様の創造の働きに直接参加した「ロゴス」 という存在の受肉したものだったと信じられた。 神秘的にならざるをえない。
ところがこの方が十字架で復活した後、 約1900年経ったある日、はるか遠い極東アジアの小さな国、 韓国、それも定州という素朴な村に現われる― 当時、「文龍明」と呼ばれた16歳の少年の前に。 そしてこの神秘的なキリスト思想の真実を明らかにした。
「私は特別な存在ではない―君と同じ人間だった。 しかしすべての人類は、知って見れば、基本的に神の息子、 娘である。 だからあなたも私のようにキリストになることができる。 私のようにキリストになれ。 そして天の父のために私が完成できなかったことを代わりに成就し て欲しい」
という宗教的啓示を与えたのだ。イエスは生前「 誰でも天におられるわたしの父の御心を行う人が私の兄弟姉妹だ」 (マタイ12:50)と呼ばれるなど、 周囲の人間と自分をずっと同じ種類の人として扱っていた。 したがって、イエスがこのように明かした可能性は非常に高い。 従って間違っていたのは中世のカトリック教会だったのだ。 私たちはあえて口にはしないものの(キリスト教会の中では) 皆が同意するように、 彼らは教会の権威のためにイエスを神格化したのだ。 まるで朝鮮人民共和国が金日成にしたように。
ともかくもイエスからこのような啓示を受けた少年は、 実際その仕事を果たす。最終的に彼は後に「文鮮明・キリスト」 に変身し、 自己にしたがってすべての人類がキリストになる道を示すことにな った。
これは<龍明少年の復活祭における啓示>の話だが、 神様の約束がようやく世界的に成就するために成約の宗教< 統一教会>を誕生させたという話だ。 このようなことが実際にあったのか、また、 間違いなく私が言ったとおりに事実が展開したのかどうかは宗教に おいて実際にはそれほど重要でない。 事実の有無に関係なく宗教は必ず創造神話を持つ必要がある。 建国神話のようなものが必要だ。それがあって初めて、 それを中心に論理的整合性を持つ一貫した神学システムを作ること ができるからだ。重要なのは、事件が真実かどうかではなく、 その神話を通して、 この宗教がどのようなメッセージを伝えようとしているのか、 またそのメッセージが人類全体にとってどのような意味を持つのか という事の方がはるかに重要だ。
堕落は簡単に言えば神様と人間の間の本来の関係、つまり父子の関係が壊れた事件だ。なので、復帰はその関係を回復することが基本目的である。
最初の宗教、ユダヤ教は、神と人間の関係をかろうじて「主と僕の関係」からスタートすることに成功した。予め定められた律法(例えば十戒など)を忠実に生活化することで神様との関係を回復することができた。これが遠い昔に約束された内容、すなわち旧約だ。
二番目の宗教、キリスト教は万年、僕として生きながらも、その罪によって死亡するしかない人間の前に、イエスが「永遠の命をもつ神の息子がここにいる」ということを表示した希望のゴスペルだった。彼を真に信じて従いさえすれば、人間は神様と「養子の関係」を結ぶことができた。このように、新しい約束、新約が成立した。
最後の宗教、統一教会はこれまで、ナザレのイエスにだけ現れた「永生の神の子」の奇跡を全世界的に、人類普遍的に拡大しようとする宗教運動だ。これが成功してこそ、その長い復帰摂理を通じて神様が一条の心で目指してこられた目的、全人類を再び実子として復帰した「親子関係」を実現できる。これは、すべての約束を成し遂げる復帰の終着駅、「成約」だ。
私たちは口では成約の宗教というが、教会の実際のメンタリティがどうなっているか見るには、「一般食口と神様との関係がどうでなっているか」問わなければならない。一般食口を神様の真の子女と見るのか、それとも、養子、養女とみなすのか。あるいは、頭から僕として扱うのか(特に日本食口にみられるような場合)。各自が持っているメンタリティに応じて、我々は、物理的には成約時代を生きながらも、心理的にはまだ旧約や新約時代を生きている可能性があることに警戒心を持つべきだ。
今まで大層な理論を展開してきたが、結論はたいしたことはない― 私たちには既知の「神様の息子、娘」の思想だ。偉大な思想は知ってみれば通常は、普遍的理性と一般良心を再確認する居心地の良いものが多い。だから偉大で永遠な人類の古典になるのだ。神の息子、娘の思想はあまりにも一般的な思想であり、誰もが受容できる肯定的神学である。特殊ではないため、理念化される危険性がない。よって他の宗教と衝突することもない。人類すべてを最高の価値と規定してしまうため、誰が上で誰が下ということを巡って争う余地がない。それで、このような普遍的神学は、すべての神学のバランスをとることができる調和の中心体としての役割を果たすことが可能だ。私は統一教がそのような役割をすることができればと思う。
つづく
残りの原文は以下です。
우리는 보통 기독교 전통을 깊게 공부하지 않기 때문에, '임마누엘 예수외에 다른 존재를 역시 그리스도로 규정하는 것'이 얼마나 엄청난 신학적 해석인지 잘 이해하지 못합니다. 이 해석은 실로 우주적인 것입니다.
통일신학속에 숨어있는 이 새로운 <그리스도 사상>은 최고의 인간존엄 사상이며, 인류 문명의 극치이자, 영원한 희망의 가스펠 입니다. 종교적 논리상, 이 이상의 신학은 존재할 수 없습니다. 막내둥이 통일교가, 스스로 의도했던 안했던, 정말 엄청난 일을 해낸 것입니다.
기독교인들앞에서 ‘문선생님도 그리스도다’ 라고 하면 바로 이단이 되지만, ‘문선명선생을 포함한 모든 인류는 궁극적으로 하나님의 아들 딸이며, 잠정적 그리스도요, 영생하는 신적인 존재들이다’고 하면, 그 보편성과 타당성 때문에, 이들이 비판하기가 매우 힘들어 집니다. 상대가 망설이고 있을 때, ‘그러니까 우리 통일신학이야말로 가장 진화한 기독교 신학이다’고 치고 들어가면, 우리를 결코 만만히 보지 못 할 것입니다. 더이상 이만희의 "신천지"같은 한국적 신흥종교가 아니라, 우리 교회는 세계 기독교의 전통을 계승 발전한 “성약의 기독교”로 이미지를 변신할 수 있습니다.
“참아버님은 기독교를 파괴하러 오신 것이 아니라 완전하게 하려고 오셨다”고 볼 수 있는 것입니다. 완전해진 기독교로서의 통일교는, 여전히 기독교이지, 다른 종교일 수가 없죠. 이렇게 기독교로 새로운 아이덴티디를 갖게 되면, 2천년간 그들이 발전시켜온 신학적, 철학적 지혜와 운동의 노하우들을 몽땅 가져다 쓸 수 있습니다, 지금 형진님이 하고 있는 것처럼. 거기다, 선명 그리스도의 어록들을 새로운 복음서로 추가하면 통일신학은 막강한 완전체가 될 수 있습니다.
이것은, 내가 이번에 깨닭은 가장 중요한 신학적 해석이기에, 이 글로써 그에 대한 제 신앙을 고백하는 것입니다.
# 제가 아는 원로식구님 한 분은 평생 공직에서 뜻을 위해 헌신하다 은퇴하셨는데, 교회가 재정적 여력이 없어 그 분의 은퇴자금에 단 한 푼도 보태지 못 했습니다. 그래서, 정부가 주는 최저 생계 보조금으로 겨우 양로원에 입원해, 지금은 하루하루 목숨만 유지하는 삶을 살고 계십니다. 연로하셔서 거동도 잘 못 하시니 교회도 자주 못 가고, 찾아오는 식구님들도 점점 뜸해지는데, 세상 노인들과는 잘 사귀시지도 못 합니다. 가끔 뵈러가면 무척 반가와 하시는데, 조금만 있으면, 제가 옆에 있는 지을 깜박 잊으신 듯 멍하게 어떤 생각들에 빠져 계십니다. 무슨 생각을 하고 계실까요? 전 잘 모르겠습니다. 분명한 것은, ‘난 절대 저렇게 살아서는 안되겠다’는 각오입니다. 정말 우리 신앙공동체가 이 정도밖에 할 수 없나요?
난, 물론, 이 분의 불행한 삶의 말년을 교회 탓으로 돌리지 않습니다. 본인이 스스로 결정한 희생이었고, 노후 보장에 대해 교회가 어떤 약속도 한 적이 없기 때문입니다. 그러나, 이런 패턴들이 자주 발견된다고 하면, 교회가 신도 개개인들에게 미리 주위를 주는 정도의 양심과 도덕성은 있어야 한다고 봅니다. 대개 우리 교회 입교하시는 분들이 열정적이고 순수하시기 때문에, 합리적으로 미래를 계획하는 것이 훈련되지 않은 분들이 많습니다. ‘이 세계를 몽땅 뜯어 고치는 것이 가능하다’고 믿는 분들이래야 통일원리를 받아들일 수 있기 때문에, 솔직히, 이 분들이 현실감각이 떨어지는 사실입니다. 그러니, 그렇지 않아도 세상에 적응해 살기 힘든 사람들인데, 이제 교회에다까지 자신의 시간과 돈과 정력을 바쳐야 하니, 세상에서의 경쟁력이 더 떨어질 밖에요.
이 점에 주의, 현장의 목회자님들이 그런 대책없는 식구님들을 보거들랑, 이 분들이 현실을 직시하고 스스로 생계와 노후를 준비하시도록 격려하고, 무리하게 교회에 나와 봉사하고 헌금하는 것은 자제하도록 해야 합니다. 그걸 하지 않는 교회는 비윤리적인 조직이 될 수밖에 없습니다.
이런 비합리적인 교회 문화에 염증을 느낀 것이 내가 타 종교들을 공부하는 계기가 됐고, 최근 형진님의 성전교회 독립 활동을 보면서, 신앙을 새롭게 정립할 수 있었던 것입니다. 최종적 결론으로, 내가 우리 교회를 새롭게 바라보는 시각은 다음과 같습니다:
1. 객관적으로 볼 때, 우리가 당대에 교회 뜻을 이루는 것은 불가능하다. 따라서, 몇 세대를 걸친 장기적 안목으로 복귀섭리를 보아야 하며, 전략도 지상천국 건설에서 ‘건강하게 성장하는 교회 조직’으로 바꾸어야 한다. 이렇게 함으로써 식구 개개인들이 그간의 큰 부담이었던 “시간적 절박감”에서 해방되도록 해야한다. 이런 새로운 교회 문화가 식구 개개인들의 신앙을 무럭무럭 자라게 하는 바람직한 환경을 제공할 것이다.
2. 현재의 교회 분열상은 건강한 세포분열이라는 긍정적 시각으로 볼 수 있다. 통일 보다는 각자 조직이 따로 건강하게 성장해, 나중에 연합하는 방식이 현실적으로 바람직하다. 각자 조직이 건강하게 성장하는 길은 “유연성”과 “자율성”을 보장하는 민주주의 문화를 수용하는 것에서부터 시작한다.
3. '참아버님도 그리스도다'는 문형진님의 새로운 통일신학적 해석은, 통일교가 세계 기독교의 전통을 계승 발전하고, 성약적 기독교로 변신할 수 있는 위대한 사상이다.
저의 이런 믿음을 받아들일 수 있는 교회만이 (설사 동의하지는 않더라도) 내가 속할 수 있는 신앙공동체라고 생각합니다. 현재로서는, 역시, 성전교회가 저의 취향에 가장 가깝게 다가오는 공동체라고 생각합니다. 제가 형진님을 지지하는 마지막 이유입니다.
# 제가 홀로서기 구도행각을 하면서 배운 좋은 지침이 하나가 있습니다: 개인적으로 고타마 붓다를 참 좋아하는데 (흠, 이것도 형진님과 통하네요), 그가 이런 말을 했어요 – “세상에 수많은 종류의 물들이 있는데, 그 물이 바닷물인지 아닌지를 우리는 쉽게 구분해 낼 수 있다. 왜냐하면, 그 속에 항상 짠 맛이 나기 때문이다. 같은 논리로, 세상에 수많은 이론들이 진리인 척 하는데, 그게 정말 진리인지 아닌지를 우리는 쉽게 구분할 수 있다. 왜냐하면, 진리속에는 언제나 “자유함”의 맛이 나기 때문이다. 안정감의 맛도 아니고, 편안함의 맛도 아니다. 진리는 항상 자유함의 맛을 낸다.”
난 이 말이 하나님의 성령에도 그대로 적용된다고 생각합니다. 성령의 에너지는 진리 그 자체이시니까요. 그 분이 내 마음속에 들어오시면 우리는 자유함을 느낍니다. 내 마음이 무슨 이유에서인지 자유함을 느낀다면, 그때 우리는 성령을 감지하고 있다고 생각하면 거의 틀림이 없습니다. 그냥 자유함이 아니라 "두려움이 없는 자유함"이어야 합니다. 자유롭기는 하되 긴장되고 불안하다면, 그것은 그냥 시간과 공간적 구속을 벗어난 몸만의 자유일 것입니다. 마음까지 자유로우려면, 우리가 어떤 절대적 신뢰와 충만한 자신감을 미리 갖추고 있어야 합니다. 즉, 내가 이렇게 무방비 상태로 완전히 열려 있더라도 무탈할 것이다는, 삶의 전반에 대해 기본적 신뢰같은 것이 있어야 합니다. 또, 설사 해를 입는다 해도 다시 살아날 수 있다는 자신감 같은 것이 있어야 합니다. 이 때, 비로소, 우리 마음은 불안을 털어 버리고 진정한 자유함을 느낄 수 있죠.
그런 기본적 신뢰와 자신감을 어떻게 해야 갖출 수 있을까요? 그것은 오직 하나님의 보호하심을 내가 직접 느낄 때만 가능합니다. 그 분의 인자를 가지고 태어난 우리들의 본성이 원래 그렇게 만들어져 있는 것이죠. 당신의 성령의 보호하심이 마치 방패막처럼 강하게 느껴질 때 우리는 비로소 움추린 가슴을 펼 수 있습니다. 왜 우리가 가슴을 움추리나요? 불안하고, 두렵고, 숨기는 것이 있기 때문입니다. 본능적으로 자기를 방어하거나 숨기는 몸짓입니다. 그러나, 이제, 성령의 방패막 아래서 불안이 없는 진정한 자유함을느낄 때, 내 마음은 비로소 “신의 평화” (Peace of God) 체험합니다. 이 상태가 바로 우리 본성의 가장 이상적 상태이며, 가장 완전한 의식 상태입니다. 이러한 신의 평화가 자리잡은 우리 마음의 공간은, 두말할 필요없이, 예수님이 말씀하신 하나님의 나라 곧 천국일 것입니다.
# 원리강의를 재림론으로 끝내며 원리강사들이 흔히 인용하는 시 하나가 있죠? 네, 인도의 시성 타고르의 <동방의 등불>입니다. 이제는 많이 알려진 사실인데, 이는 원래 짧은 4줄로 짜여진 단 한 문장의 시(詩)였습니다. 타고
르는 일본을 세 번 방문했는데, 마지막 방문은, 캐나다로 가던 중 잠깐 들린 1929년이었죠. 이때, 동아일보 도쿄 지국장 이태로씨가 그를 만나 한국을 위한 시 하나를 부탁했던 것입니다:
일찌기 아시아의 황금 시기에
빛나던 등불의 하나인 코리아,
그 등불 한번 다시 켜지는 날에
너는 동방의 밝은 빛이 되리라.
타고르가 예의상 써주기는 했지만, 역시, 갑자기 부탁을 받고 특별한 영감 없이 쓴 것이라 깊이가 없습니다. 일단 너무 짧아, 감상이고 뭐고 할 것이 없네요. 그래서, 몇몇 문학인들이 이와 어울리는 타고르의 다른 시 하나를 가져다 붙였습니다. 그 뒷 시가 명문이어서, <동방의 등불>은 항상 뒷 시와 같이 읽고 있습니다. 뒷 시가 그 유명한 <기
탄잘리> (신에게 바치는 노래)의 35번째 시입니다. 소제목은 따로 없습니다.
이번에 다시 읽어보니, 저의 현재 마음을 너무나도 잘 표현하고 있는 것 같아, 이 시를 읊는 것으로 제 글을 맺을까 합니다; 상황에 맞게 마지막을 조금 바꾸었습니다. 저의 신앙고백을 끝내는 기도와 같은 것으로 생각해 주십시오.
3주간에 걸쳐, 제가 올린 긴 글 셋을 끝까지 다 읽어주신 식구님들이 계시다면, 신앙의 동지로서, 깊은 감사를 드립니다. 고맙습니다.
-신을 향한 나의 기도-
마음엔 두려움이 없고
머리는 높이 쳐들인 곳,
지식은 자유스럽고
좁다란 담벽으로 세계가 조각조각 갈라지지 않는곳,
진실의 깊은 속에서 말씀이 솟아 나는 곳,
끊임없는 노력이 완성을 향해 팔을 벌리는 곳,
지성의 맑은 흐름이
굳어진 습관의 모래 벌판에 길 잃지 않는 곳,
무한히 퍼져 나가는 생각과 행동으로
우리들의 마음이 인도 되는 곳,
그러한 자유의 천일국으로
내 마음의 “성전교회”여, 꿋꿋이 나아가소서!
-을주환
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